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2009年2月11日

「五島列島・教会めぐり② 久賀島、奈留島」(2009・1・5)


 五島列島2日目。福江港を午前9:10に出る遊覧船「シーガル号」で久賀(ひさか)島に向かう。五島列島で最初に隠れキリシタンが信仰を宣言、厳しい拷問を受けたという歴史を背負った島だ。それが五島列島全体に広がり「五島崩し」と呼ばれるキリシタン弾圧につながったことは、この紀行①でもふれた。

写真①写真②写真③ ガイド役は、遊覧船会社の三男坊で、カトリック信者でもある気のやさしそうなK青年。遣唐使船も風待ちに立ち寄ったという田の浦漁港に着くと、マイクロバスに乗り換えて漁港を見下ろす丘の上にある「浜脇教会」(写真①)へ。

 3層の白いコンクリートの上に、金色の十字架を抱いた薄緑の木製の塔。全体に、小ぶりな感じの簡素な建物だ。1881(明治41)に建立された最初の天主堂が潮風にさらされて痛みが激しくなり1931(昭和6年)に再築。旧聖堂は解体されて五輪地区に移された。
 内部は、8分割の見事なリブ・ヴォートル天井のアーチが続く(写真②)。ステンドグラス(写真③)は、この島に昔から野生していた椿の花をデザインしている。

 島には、天然記念物の椿原生林もあり、椿油の生産量が戦後日本一を記録したこともあるそうだ。道路沿いにも野生の椿が多く、2月に入れば咲き誇る花が見事らしい。早生の米がうまいことでも知られ、案内役のK青年は「水がよいのでしょう」という。しかし、行き交う車は少なく、人にも出会わない・・・。過疎が、福江島以上に進んでいる。

 島の中央部にある「牢屋の窄(さこ)」へ。窄(さこ)は「奥まったところ」という意味らしく、キリシタン弾圧の牢屋跡がある。
 K青年が「ここが、この島で一番大切なところですから」と、犠牲者の石碑が並ぶ前で、真剣な表情になって説明を始めた。

 1868(明治元年)、長崎・浦上で始まったキリシタン迫害は、翌年にはこの島にもおよび、6坪ほどの牢屋に信徒200人が8カ月の間押しこまれ、連日悲惨な拷問が行われて42人の殉教者が出た。
写真④ 最初の死者は、79歳のパウロ助市。圧迫死だった。牢内にはトイレもなく、13歳のドミニカたせは、わいたうじ虫に下腹をかまれて死んだ。牢内は立すいの余地もなく全員が立ったまますごしたが、全員が周辺に体を重ね合わせて中央部にわずかなすき間を作り、一人ずつが少しだけ睡眠をとることができた。
 昭和59年に、殉教を記念する聖堂(写真④)が建てられた。悲惨な殉教を忘れないため、聖堂中央部には6坪分の広さを示す灰色のじゅうたんが敷いてある。

 五島列島に隠れキリシタンが移り住んだのは、五島藩主から長崎県外海(現・長崎市)をおさめる大村藩主に開墾地拡大のための要員派遣の要請があったためだった。。
 キリシタン迫害の危険を感じていた彼らは、次々と五島列島に渡ってきた。1000人の要請に対し、やって来たのは3000人を越えた。

 「五島へ五島へと皆行きたがる 五島は優しや土地までも」とあこがれの地にやって来た人々に与えられたのは、やせた山間部や狭い砂浜だった。移住後、彼らは「五島は極楽 来てみりゃ地獄」と歌うようになった。。

 島の中心部から狭い山道を約30分、椿の林のなかで車を捨て、歩いてたどりついた五輪地区は、そんな狭い砂浜だった。かっては50世帯を越える信者が住んでいたこの地区も、今は数世帯8人が漁業を営んでいるだけ。

写真⑦写真⑥写真⑤ この浜辺に、国の重要文化財である旧五輪教会と隣接して現在の五輪教会が並んで建っている(写真⑤)。
 旧五輪教会(写真⑥)は、最初にふれたように浜脇地区から移築されたもの。窓が教会建築特有のポインテッド・アーチ(尖頭)型をしている以外は、まったくの和風建築。なかに入っても、窓に引き戸がつき、ステンドグラスはフイルムを挟んだ素朴な造りだが、リブ・ヴォートル天井の木目が浮かびだした美しさ(写真⑦)に見とれてしまう。

 五輪地区出身のカトリック教徒を父に持つ歌手・五輪真弓は、昭和61年に初めてここを訪れ、名曲「時の流れにー鳥になれ」を生み出したという。
  鳥になれ、おおらかな翼をひろげて。雲になれ、旅人のように自由になれ


写真⑧写真⑨写真⑩ 昼過ぎに福江港に戻り、定期船に乗り換えて奈留島に着いたのは、午後2時すぎ。「奈留教会」(写真⑧)を訪ねた後、タクシーで、世界遺産に暫定登録されている「江上教会」(写真⑨)に向かった。
 最盛期は60人を超えていた信徒も、現在では2人だけ。2軒目のお宅で、やっと教会のカギを借りることができた。
 廃校になり黄色い雑草で校庭が埋もれている小学校の隣の丘の上。木漏れ日になかに、木造ロマネスク様式の教会が立っていた。鉄川与助の作で、左右対称のシンプルな外観とクリーム色に塗られた外観、正面に書かれた「天主堂」の文字に、なにかなつかしい荘厳さを感じる。
 木目塗りの彫刻がほどかされた木の柱がアーチ状に天井に広がっていく造形(写真⑩)も見あきない。

 奈留島では、もう一つ「南越教会」を訪ねたかったが「個人の敷地を通らないでと言われているので・・・」と、タクシーの運転手さんに断られてしまった。福江島・堂崎教会では、「観光の車が多い」という付近の住民の反発で離れたところに駐車場ができ、上五島では、タクシーの運転手さんから「小学校のころ、カトリックの家の子はよくいじめられた」と聞いた。

 隠れキリシタンとその子孫は、100年以上たっても、まだ新参者らしい。

2009年1月20日

「五島列島・教会めぐり紀行① 福江島」(2009・1・4~7)


 昨年5月に島原、長崎、平戸、佐世保のカトリック教会をめぐりの旅をした。この旅のことは後述するとして、長崎の教会群などがユネスコの世界遺産に暫定登録されていることを知った。

 五島列島には50もの教会群があり、そのうち6つが世界遺産に暫定登録されている。五島列島への思いが、正月3が日明けにやっと実現した。

 大阪・伊丹から福岡経由で福江島の空港に着いた時は午後2時すぎ。伊豆の大島と並ぶ椿群生地の開花には少し早かったが、南国らしい暖かい日だった。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 最初に行ったのは、1912(明治45年)に完成された「楠原教会」。イギリス積みという方式で積まれた正面玄関は、男性的な力強さを感じる。子どもたちは学校の帰りに煉瓦運びを手伝い、老人を含めた信徒の総力で作り上げたという。お堂本体も、レンガ壁だが、天井部分は薄クリーム色に塗られた木造の囲いの上に日本瓦が載っている。なんだか、日本家屋の匂いが残る教会だ。
 内部に入ると、静ひつとしていながら温かみのある雰囲気に圧倒される。白い木の柱が支えているのは、リブ・ヴォールト天井 と呼ばれるアーチ状の白い木張りの天井。茶色のはり(これをリブというらしい)に4分割された小さな白いドームの連なりが入口から祭壇まで続く。

 タクシーの運転手さんは「こうもり天井」と呼んでいたが、はりや板の曲りぐあいが見事だ。「船大工さんの技術だろうか」。同行の一人が言っていたが、外国人宣教師の指導で、初めて立てるこの教会を、西洋様式に少しでも近づけたいと願った日本人大工の意気込みが伝わってくる。宣教師の指導を受けながら建てたのは、日本人大工の鉄川与助といわれる。

 この福原は、五島藩の要請で外海「旧・外海町、現・長崎市」から移住してきたキリシタンが最初に開墾した土地の一つ。「五島崩れ」と呼ばれる厳しい迫害のすえに、やっと建設を許された教会だっただけに、その意気込みが今でもレンガの壁に輝いているようだ。教会のすぐ近くに、キリシタン迫害に使われた「楠原牢屋跡」が復元されていた。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 海辺に、白いレースを組み上げたように建っている「水の浦教会」は「貴婦人の教会」と言われる。1880(明治13)年に建てられた最初の教会が長年の潮風にさらされて解体された後、1938(昭和13)年、すでに代表的な教会建築家になっていた鉄川与助によって建てられた。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合され、現存する木造教会としてはわが国最大規模だという。
 内部も、簡素なデザインのステンドグラスと白いリブ・ヴォールト天井のコントラストがすばらしい。
 ここでも、移住してきたキリシタンが厳しい迫害に会っており、近くの丘には牢屋跡地のレリーフや五島出身の聖職者たちの墓地が広がっている。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 行き交う人や車が少ない。正面の十字架がなければ普通の民家と見まちがう「宮原教会」へ向かう道の周辺には、荒れた田畑が広がる。「あの家も、この民家も空き家」。タクシーの運転手がつぶやく。漁獲量が減り、農業だけでは食べていけないため、離島していく人が絶えないらしい。
 「あれ、評判が悪いのだなあ」。運転手さんが指さした小聖堂風の建物は、なんと五島市が建てたトイレ。ちなみに、左側が男性用入口であります。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります そのすぐ先、エメラルドグリーンの内海が側面に広がり、正面に外海を見据えた広場に、レンガ造りの「堂崎教会」は、どっしりと構えていた。
 1908(明治41年)、イタリアから運ばれた赤レンガでゴシック様式に仕上げられたこの教会は、長年五島布教の中枢だった。ミサの30分前には、近くの修道院のシスターがホラ貝で知らせたという。五島で最初のクリスマス野外ミサが行われたのも、この広場だった。
 県の指定文化財に指定されており、現在はキリシタン資料館になっている。館内には、マリア観音、納戸神など隠れキリシタンの遺品や「ド・ロ木版画」と呼ばれる聖教木版画、聖ヨハネ五島の聖骨などがある。正面前の広場には、五島出身ただ一人の聖人である「聖ヨハネ五島」など、いくつかの銅像が並んでおり、キリシタン殉教の厳しさを訴えてくる。

クリックすると大きな写真になります 「浦頭教会」は、1968(昭和43年)に再築された五島では初めてのコンクリートの教会。正面に、ローマの聖ペトロ寺院をまねたのか、聖ペトロとパウロの彫像が並んでいたのにびっくりした。
 昭和20年代には約4千人いた信徒は、今では約5百人にまで減ったが、当時の漁師たちは土曜の午後と日曜日は網を入れず、教会に集まったと聞いた。



P1040284.JPG  福江島で最後に訪ねた「福江教会」は、福江市内の中心街にある。1962(昭和37)年4月に現在の教会は建てられたが、その年の9月未明、周辺を総なめにした福江大火で、この教会だけは奇跡的に焼失をまぬがれた、という。