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Masablogで“浦上天主堂”が含まれるブログ記事

2010年3月 9日

紀行「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)その3・終


 1月7日。長崎市内を走る路面電車の「浜口町」駅を降りてすぐの丘の上にある「長崎原爆資料館」を訪ねた。長崎市に来たのは5回目だが、資料館に来るのは恥ずかしながら初めて。
 らせん状の通路を降り、地下2階の展示場に入ると、急に照明が暗くなった。右側の天井に原爆投下1カ月後の写真が浮かびあがり、正面に被爆でほぼ崩壊した浦上天主堂側壁が浮かびあがった。10分ごとに照明を落とし、写真を投影する仕掛けになっているようだ。

 昨秋、このブログで「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」という本について書いた際、残った天主堂が保存されずに取り壊わされたのを残念に思った。
それだけに、浮かび上がった側壁を見て「しっかり保存されているじゃないか」と勘違いしてしまったが・・・。実は、煉瓦やウレタン樹脂を使って実物大に模した"再現造形"と呼ばれるものだった。

展示説明画像:クリックすると大きな写真になります  近くの原爆落下中心地には、天主堂の側壁の一部が移築されていると聞いていた。この"再現造形"との位置関係が分からない。
帰宅してから資料館に電話、研究員の方から見落としていた展示説明画像 を次のようなメールで送ってもらった。再現された側壁の前にあるディスプレーに表示してあったのを、見落としていたのだ。

 先ほど、お電話いただきました、長崎原爆資料館の奥野と申します。

添付いたしました画像は、当館展示解説文の写真です。画像の右下にある写真に、当館の再現造型と移設した遺壁の位置関係を示しております。

当館の再現造型は、写真等からサイズを割り出しておりますので、原寸大に近いものとなっております。

よろしくお願いいたします。

長崎原爆資料館
被爆継承課
担当:奥野
tel:095-844-3913
fax:095-846-5170


 資料館でもらったパンフレットに、被爆建造物マップが載っていた。浦上教会関係では鐘楼ドームや当時の石垣が残っていることになっている。昨年5月、五島列島の帰りに浦上教会を訪ねた時にはうかつにも気付かなかった。

 資料館から教会までは歩いて10分もかからない。教会の臨む左側の川沿いに、確かに黒く焼け焦げた鐘楼の一部が保存されていた。直径5・5メートル、重さ30トンもあったものが、35メートルも吹き飛ばされたのだ。

 丘の上の教会に向かって、かなり急な坂を登っていくと、正面手前に被爆した聖ヨゼフやマリア像や天使像、獅子の頭などが残されており、千羽鶴などが絶えない。

 聖堂は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、1980年(同55年)に翌年の前・ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世が訪日されたのにあわせて、外壁に煉瓦を張り、内部も窓をすべてステンドグラスにし、天井も"リブ・ヴォートル風"に張り替えられた。交替で当番をしておられる信者の方によると「五島列島の教会のような、ちゃんとしたリブ・ヴォートル天井ではない」そうだが、司教座聖堂にふさわしい荘厳で堂々とした雰囲気だ。

 聖堂右の通路を入ってすぐのところにある「被爆マリア像小聖堂」を昨年に続いて訪ねた。
 入口には旧天主堂の被爆遺構をステンドグラスにしたものが組み込まれ、内部左側の壁面に張られた6枚の銅製銘板には、原爆で亡くなった信者の名前がびっしりと刻みこまれている。一緒に教会巡りをした一人・Yさんの祖父や叔父なども亡くなっており、名前を見つけようとしたが、暗くて分からなかった。約1万2000人の信徒のうち約8500もの人が犠牲になったのだ。

 被爆のマリア像は正面祭壇の中央に安置されている。
 被爆後の瓦礫のなかから、一人の神父が探し出して北海道に持ち帰ったが、長い年月の末に浦上教会に戻ってきた。
 木製で、右ほおが焼け焦げ、両目は焼けてくぼんでいるが、じっと上を見つめる頭部だけの像は胸に迫るものがある。
 このマリア像は4月にカトリック長崎大司教区が主催する平和巡礼団とともにスペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカ市などスペイン、イタリアの13都市を訪ねる。

 これだけ多くの多くの被爆遺産が残っておれば、被爆の歴史を継承していくのには十分だと考えるのか。広島の原爆ドーム が世界遺産になっているのを考えると、被爆天主堂を残さなかったのはやはり残念だったとみるのか・・・。戦後の歴史が刻んだ事実をこれからも見つめていくしかなさそうだ。

 教会横の敷地では、ちょうど司祭館の新築工事が進んでいた。

 浦上教会の坂を下り途中で右折した住宅地のなかに、故永井隆博士が亡くなるまで住んだ「如己堂」と市立永井隆記念館がある。

 永井博士は、戦後発の大ベストセラーとなった「長崎の鐘」で有名だが、現在でも博士を巡る論争が続いているのは「長崎の鐘」に書かれ、廃墟の浦上教会での原爆合同葬でも博士が述べた「神の恩寵によって、浦上に原爆が投下された」という言葉を巡ってだった。

 同じカトリック信者で作家の井上ひさしは、著書「ベストセラーの戦後史 1」 で「これが本当なら、長崎市以外で命を落とした人びとは・・犬死ということになる」と批判、「この著者の思想をGHQは『これは利用できる』と踏んだにちがいない」と述べている。

 この論争は、永井博士生誕100年の2008年にも、新聞などで再燃している。
 白血病で病床にいる博士を昭和天皇やヘレン・ケラー、ローマ教皇特使が見舞い、吉田茂首相が表彰状を贈るなど"浦上の聖者"が"日本聖者"になっていった経緯は、いささか普通でないようにも見える。やはり戦後歴史の一つとして見つめ続けられていくのだろう。  1昨年の5月と昨年1月には、このほか国宝の大浦天主堂日本二十六聖人殉教地、聖トマス西と十五殉教者に捧げられた「中町教会」、長崎港を見下ろす丘の上に建つ神の島教会、それに聖コルベ記念館サント・ドミンゴ教会跡資料館を訪ねた。

その前にある長崎歴史文化博物館では、開催されていた「バチカンの名宝とキリシタン文化展」を鑑賞する幸運にも恵まれた。

様々な思いを心に刻み込まれた3年間の「長崎教会群巡り」だった。

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浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡:クリックすると大きな写真になります黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面:クリックすると大きな写真になります浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」:クリックすると大きな写真になります国宝の大浦天主堂:クリックすると大きな写真になります
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」。たった2畳1間。前の道路を通る観光バスも、ガイドの説明を聞いただけで素通りしていく国宝の大浦天主堂。聖灯が消え、入口で入場料を取る天主堂からは、聖堂の荘厳さは消えている。正面反対側に新しい大浦教会がある。
日本二十六聖人殉教地:クリックすると大きな写真になります中町教会:クリックすると大きな写真になります神の島教会聖コルベ記念館の内部:クリックすると大きな写真になります
日本二十六聖人殉教地。ちょうど、フイリッピンからの巡礼団が記念撮影中中町教会。原爆で崩壊したが、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建された急な階段を登って、行きつく神の島教会。俳優の故・上原謙が、この風景を見て、結婚式を挙げたとか聖コルベ記念館の内部。日本で殿堂後、帰国してアウシュビッツ収容所で他の囚人に代わって餓死刑を受け、後に聖人に列せられた。壁画は、それを描いたもの


戦後史
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2009年10月19日

読書日記「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(高瀬毅著、平凡社)、そして「信州・無言館」



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5 ナガサキの「苦悩」は、長崎だけのものではない
5 ミステリーを読むように一気に読めます
5 日本人として知っておくべき事実
5 アメリカはどうしても...


 数か月前だっただろうか。ふと手にした週刊誌のグラビア欄に、戦後すぐに撮られたらしい長崎・浦上天主堂の廃墟の写真が載っていた。

 今年の初めに浦上天主堂を訪ねたが、正面に首が取れたり、黒こげになった聖人像やレンガ壁の一部が残されている。教会内には焼けただれた「マリア像」も保管されており、爆心地から500メートルしか離れていなかった教会が壊滅状態になったことが分かる。しかし、廃墟になった天主堂は、現在の敷地内には残っていない。

再建された浦上天主堂:クリックすると大きな写真になります  長崎原爆資料館ホームページ廃墟となった天主堂の写真が載っているが、週刊誌には同じアングルの廃墟の前で縄跳びをして遊ぶ少女たちや、よじ登ってハンマーで廃墟を打ち砕く人たちの姿が掲載されていた。

 なぜ、被爆した天主堂は消えてしまったのか。その疑問に挑戦したのが、この本である。

 著者は、長崎生まれの元放送記者。長崎の放送局が制作したテレビ番組を見て「天主堂の廃墟が残っていたら、・・・原爆について考える大きなきっかけを与えるものになったに違いない」「広島に原爆ドームがあるのに、どうして長崎に浦上天主堂の廃墟は残っていないのか」という問いを膨らませていく。そして、地元取材だけでなく、アメリカの国立公文書館などで調査を続ける。

 この本を一挙に読んだ感じでは、著者はこの疑問への明確な答えは得られなかったようだ。しかし、いくつかの事実に突き当たる。

 1つは、当時の田川長崎市長が、当初は天主堂の保存を公言し、市長の諮問機関も保存の答申をしていたのに「心がわり」し、市議会で「浦上天主堂の残骸が、・・・原爆の悲惨を物語る資料として適切にあらず」と答弁、廃墟の取り壊しに賛成に転じたこと。

 もう1つは、教会を司る当時の山口司教が廃墟の保存を望まなかったらしいという事実だ。

 この2つの事実の裏には、原爆の遺産保存を望まないアメリカの周到なソフト戦略があると、著者は見る。

 田川市長がまだ天主堂廃墟の保存に前向きだった1955年(昭和30年)、アメリカ・セントポール市から突然、長崎市に姉妹都市提携の話しが持ち込まれた。日本では初めての唐突な"縁組"申し込みだった。
 翌年、田川市長は渡米、セントポール市だけでなく、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューオルリンズ、サンフランシスコ、ハワイまで回り、国務省関係者などの歓迎を受ける。「米国から帰国した田川市長は、渡米前とは明らかに態度がかわっていく」
 1958年の臨時議会で、市長はこう答弁する。「浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料として・・・適切にあらず・・・」

 同じころ、カトリック教会長崎司教区の代表である山口司教も、教会再建の資金集めのために10か月にわたって米国各地を訪問している。
 著者は、現地の新聞紙上での山口司教の発言や教会関係者への取材から、廃墟を撤去することが、アメリカ側の資金提供の条件であったらしいことを浮かび上がらせていく。

 教会が浦上という土地に教会を再建したいと願ったもう一つの理由にも、著者は言及している。浦上四番崩れに見られるように「何代にもわたった弾圧に耐え抜いた浦上の信徒にとって(原爆という)現在の『絵踏み』が行われた忌まわしい場所の上に天主堂を建てることは、部外者にはうかがいしれない重みがあるのかもしれなかった」

 西日本新聞にこんな記事が載っている。「五八年春、廃墟の天主堂は姿を消した。逆に広島はその二年後、急性白血病で亡くなった被爆少女の手記をきっかけに原爆ドームの保存運動がスタートする」(2003/08/03朝刊)。

  無言館:クリックすると大きな写真になります 先週、信州に"小さな秋"を見つけに出かけ、ある「鎮魂ドーム」を訪ねる機会があった。上田市にある「無言館」だ。

「無言館」の内部:クリックすると大きな写真になります  この美術館は、先の大戦で戦死した画学生を慰霊するため、近くで「信濃デッサン館」を開設している窪島誠一郎氏 が、東京芸術大学の野見山暁治・名誉教授と協力して集めた戦没画学生の遺作を展示している。

 コンクリート打ちっぱなしの建物のドアを押すと、薄暗いなかに画学生が残した作品が次々に浮かび上がってくる。「生きたい」「生きたかった」という叫びが聞こえてくるような、異常に静かな空間だ。

 家族や恋人、自宅近くの風景画が多い。横に短い文章が添えられている。没年、22歳、27歳、33歳・・・、フイリッピン・ルソン島、中支、沖縄・・・。あまりに若く、あまりに遠い無念の死だ。

 「無言館」にある絵の一枚 「あと5分、あと十分、この絵を描きつづけたい。・・・生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから・・・安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地に発った」

「無言館」にある絵のもう一枚
「『ばあやん、わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる』」
「きよしがつぶやくようにいうと『なつ』はうっすらと涙をうかべただけで何もいわなかった」  

無言館第2展示館:クリックすると大きな写真になります「第2展示館』の前にあるモニュメント:クリックすると大きな写真になります 平成8年に開館した「無言館」の近くに、最近「第2展示館」も完成した。

 「屏風絵 茄子」(小野春男)という日本画に引かれた。
 「先生の絵の茜色は亡き息子さんの鎮魂の色ですか」「父竹喬(文化勲章を受章した日本画家・故小野竹喬)はなにも答えなかった」

 ※参照:「生誕120年 小野竹喬展」