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2014年6月10日

ロンドン・パリ紀行②「大英博物館㊦パルテノン・ギャラリー」(2014年5月3日)



  大英博物館1階西端にある幅をたっぷりとった長い空間・18室が、この博物館で最大の観覧者を集めると言われる「パルテノン・ギャラリー」。世界遺産である古代ギリシャのパルテノン神殿を飾っていた大理石(マーブル)の彫刻群が陳列されている。

 大英博物館の正面が、パルテノン神殿に似せて作られているのは、このギャラリーがあるからこそ。この彫刻群をギリシャから持ち出した英国の元・駐ギリシャ大使、 エルギン卿の名前を採って、このコレクションが別名「エルギン・マーブル」と称されている。それが、古代ギリシャ絶頂期の最高傑作がここロンドンにある理由なのだ。

 参観者の多くは、圧倒されたように言葉も少なく両脇壁に飾られた彫刻群を見入っている。まず一番奥まで進み、3段の低い階段を上ってみた。正面台座にあるのは、立体彫刻群。パルテノン神殿正面の東破風(はふ、大屋根の下の三角形をした部分)に飾られていたものだ。

 破風にあったから、左から大屋根を登るように段々と高くなっていく。まず「ディオニュソスと女神たち」。左の男性裸像は、酒神ディオニュソスヘラクレスという。女神たちを乗せた馬車を駈っているように見える。真ん中の空間になっている台座の上には、すでに失われた アテナ女神の像があったらしい。

 さらに右へ低く流れるように3体の「女神たち」。体を包む衣の襞(ひだ)が彫刻とは思えない優美な明暗を生んでいる。

 台座右端にある「セレネの馬」は、大英博物館でも自慢の所蔵品らしい。月の神 セレネを乗せて夜を徹して天を駆けてきた馬の頭部は、口をあえぐように開き、眼と鼻は膨らみ、首をたれて息絶え絶えの表情だ。

 この立体彫刻群は、台座を回って、群像の裏側を見ることができる。高い大屋根の下にある破風の裏まで覗けるはずがないのに、女神たちの衣装のひだ、背中のふくらみまで、2500年前の姿そのままに彫り込まれている。造った工匠たちのこだわりを越えた意気込みを感じる。

 さらに右に進むと「西破風」を構成していた彫像の一部が続く。「女神イリス」は風を受けて空中を舞う姿を表し、横たわる男性像「イリッソス」はアテネ周辺の川を象徴している、という。

 広間中央部の両側には、神殿を支える46本の円柱の上に渡されている梁(はり)の部分に1面づつはめ込まれて半立体の大理石版「メトープ」と、神殿内部の廊下の上を飾っていた浮彫大理石板「フリーズ」の1部が飾られている。

  「メトープ」には、ギリシャ神話に登場する半人半馬「 ケンタウロス」と人間の争いが、「フリーズ」は、古代アテネで4年に1度行われる「 パンアテナイア大祭」の祭礼行列が描かれており、「騎士たちの行列」や「座せる神々」「行列を先導する乙女たち」が次々と登場する。

  このコレクションに関連した本などには、そろって「古代ギリシャが生んだ"人類の至宝"」と書かれている。確かに、そうなのだろうが・・・。

  しかし数度にわたって見るたびに、なんともいえない"殺伐感"を感じてしまうのはなぜだろうか。

  馬を駆っているように見える男性彫像の両手足は途中で切られ、女神の立体彫像には頭部がない。台座にデンと置かれた首から切られた馬の頭部は、神に捧げらた"いけにえ"に見える。
  メトープやフリーズも、大きなノミで無理やり切り取られたようで、不自然な形をしている。

  午後の日本語ツアーの時に、ガイドのSさんはこう説明した。「これらの彫刻群の多くは、ギリシャがオスマントルコに占領されていた際、ヴェネツイア共和国の攻撃で崩落したものです。エルギン卿の関係者は、残っていた一部も切り取って持ち帰ったようですが・・・」

  ただ、旅に出る前に読んだ『パルテノン・スキャンダル 大英博物館の「略奪美術品」』(朽木ゆり子著、新潮選書)のなかには、エルギン卿の秘書が神殿から彫刻を取り外す作業を指揮しているのを目撃した、という英国の考古学者の著書の一部が引用されている。
パルテノン・スキャンダル (新潮選書)
朽木 ゆり子
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 最初のギリシャ巡遊で、私はパルテノンから最良の彫刻が強奪される瞬間に立ち合い、そして建築物の一部が落下するのを見るという何ともいえない屈辱を経験することになりました。
 神殿のもっとも南東にあるメトープのいくつかが、外されるのを目撃したのです。メトープはその両側が トリグリュフ(縦に溝がついている束石)と呼ばれている溝(板)にはめ込まれていたので、それを取り外すために、その上に載っている美しい軒蛇腹( コーニスが地上に投げ捨てられました。破風の南東の角の部分も同じ運命をたどりました。そして私が一番最初に見た絵のような美しい気高い姿に代わって、それらは無残な廃墟と化してしまいました。


 アテネの一般住民、それどころかトルコ人ですらこの荒廃を前にその場に居合わせ、この行為が全員に巻き起こした憤りの念を観察、いやそれに参加するチャンスを得ました。作業全体が非常に評判が悪いので、労働者はこのような冒瀆に力を貸すために普通よりかなり高い労賃を払われる必要がありました。


  高い労賃でしか雇用できなかった労働者が"人類の至宝"を乱暴に扱う様子が目に見えるようだ。

  もちろん、ギリシャは国際世論の力も借りて長年、この彫刻群の返還を求めてきた。
 しかし、著書「パルテノン・スキャンダル」などによると、英国側は国会などの場で「大気汚染のひどいギリシャでは、大理石にダメージを与える」などと反論し、大英博物館の館長自身が「全人類のためには、ギリシャより世界から観覧者が集まる大英博物館に留まるのがふさわしい」と、いささか苦しい言い訳を公表している。

 この間、大英博物館内部でとんでもないスキャンダルが起きていた。

 午前中、友人Mと「パルテノン・ギャラリー」を見た後、近くの小さな小部屋に迷い込んだ。一番奥の壁面に取り付けられたDVD画面で「メトープの一部が青く着色されている」ことを特殊カメラで撮影した映像を繰り返し放映していた。
 長年"白い"と信じられていた大理石彫刻群が、実は「華やかな色で彩られていた」というのだ。

 20世紀半ば、ヨーロッパでは「大理石は白い」というイメージが定着していた。そこで大英博物館のスタッフは、密かに彫刻群の表面を金属たわしと研磨剤でこすり、白いむきだしの状態にするという荒っぽい洗浄作業を行った。
 「彫刻群は、大気汚染のひどいアテネよりロンドンに置くのがふさわしい」ことを"実証"するためにも・・・。

 この小部屋は、大英博物館側が、それらを率直に明らかにし、弁明するための資料コーナらしい。

 ギリシャ区画にある 「ネレイデス・モニュメント」(イオニア式の墓廟の模型)は、記念撮影の人気スポット。いつも各国の参観者で混んでいる。

;クリックすると大きな写真になります。  午後からのガイドツアーで、この墓廟の裏に回ったところ、目立たない場所にそっと立つ乙女の立像を見つけた。「彼女はここにいたのか」

 この像は、パルテノン神殿の奥にある神殿 エレクティオンの張り出し屋根を支えていた6体の女性の柱像( カリアティード)の1つなのだ。

 大英博物館に行きたいと思うきっかけになった本 「パレオマニア 大英博物館からの13の旅」(集英社文庫)のなかで、著者の 池澤夏樹は、彼女のことを「恋人」と呼んで、何度もロンドンまで会いに行っている。
パレオマニア―大英博物館からの13の旅 (集英社文庫)
池澤 夏樹
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 左の膝をわずかに前に出した形で、すっくと立っている。台の上に載っているから見上げる形になるが、背は男とさほど違わない。ああ、変わっていないと男は安心した。
 彼女は実は建物の梁を全身で支えて立っているのだが、そのなにげない挙措からはそれを重荷に思っている風はまったくない。あくまでも普通に立っている。胸は豊かだけれども、肩幅があるので今の時代に理想とされる女たちの身体(からだ)のように一部が奇形的に突出してはいない。いかにも健康そうな力強い乙女(おとめ)。
  顔の細部は(なにしろ二千年以上風雨にさらされていたのだから)失われてしまった。
 が、それでも気品のある顔立ちはまだ見てとることができる。顎の線が美しいと男はいつ見ても思う。


 著者は「道で行き会ったらどぎまぎするだろう」と書いているが、私には「彼女」が必死に悲しみをこらえているように見えた。

 さきほどの著書「パルテノン・スキャンダル」によると、実はこの乙女像もエルギン・グル―プが1803年初頭に切り取って」ロンドンに持ち帰ったのだ。

 現在、アテネのエレクティオンを支えている6体のカリアティードは、すべてレプリカ(模造品)だ。

 持ち去られた1体を除く5体は新しく建設されたアクロポリス博物館に移された。

 しかし、その5体は、天井の低いガラス張りのなかに押し込まれて「辛(つら)そうにみえた」(池澤「パレオマニア」)という。

 2007年に新博物館が建設された際、ギリシャ政府は「新博物館がエルギン・マーブル返還運動の一助となることを望む」という声明を発表した。

 しかし、財政危機でEU諸国の援助でやっと生き延びているギリシャに大英博物館のコレクションを移すべきだという、国際世論の高まりは見られない。

 "人類の至宝"を未来に生かすためには、なにが最善の方法なのか。今の私にはわからない。

大英博物館での写真
;クリックすると大きな写真になります。P1040372.JPG ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
パルテノン・ギャラリー① フリーズ「騎士たちの行列 同② メトープ「半人半馬と人間の争い 同③ 西破風の立体彫刻「イリッソス 同④ 同「女神イリス」 同⑤ パルテノン・ギャラリーの大広間
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
同⑥ 東破風の立体彫像 同⑦ 同「女神たち 同⑧ 同「セレネの馬 同⑨ 着色されたメトープのCG 「ネレイデス・モニュメント」(墓廟の模型)


2013年11月10日

「最後の晩餐の真実」(コリン・J・ハンフリーズ著、黒川由美訳、太田出版刊)


最後の晩餐の真実 (ヒストリカル・スタディーズ)
コリン・J・ハンフリーズ
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 昨年の新書大賞を取った「ふしぎなキリスト教」の対談者の1人である大澤真幸が「 最後の晩餐の真実」巻末の解題で、こう書いている。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
橋爪 大三郎 大澤 真幸
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本書は、最高の探偵小説である


 新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの4福音書に記されたイエスの最期の週の出来事には、いくつもの食い違いがあるのは、長い間、聖書学者の間で論議を呼んできたらしい。まして、私のような"エセ"信者には理解を超える範ちゅうの話しでしかなかった。

 著者によると、オクスフォード大学のリチャード・ドーキンス元教授は、著書「神は妄想である」のなかで「福音書は太古のフイクションである」とまで断定している、という。

 そこで、聖書学者であると同時に半導体研究などの科学者である著者は、コンピューターを駆使し、過去の暦の歴史、古代エジプトや バビロニアの文献までひも解いて「磔刑や最後の晩餐に関する四福音書の記述が本当の意味では矛盾せず、一貫している」と証明してしまったのがこの本。

 著者は、解明されるべき謎を4つに分類する。

  1. 金曜の磔刑の前々日である水曜日について、4福音書の記述がなにもないのはなぜなのか。この水曜日にイエスは何をしていたのか。

  2. マタイ、マルコ、ルカによる福音書には、最後の晩餐が 過越の食事だとはっきり書かれているのに、ヨハネ書には、過越の食事の前に行われたと明言している。なぜなのか。

  3. イエスの裁判を含め、イエスの逮捕から磔刑までに起きたと福音書に記されている出来事がすべて実際にあったとみなすには、時間が足りないのではないか。

  4. 木曜の日没後に催された最後の晩餐から翌朝9時ごろの磔刑までに行われた出来事がすべて事実とすれば、イエスの裁判は夜に執り行われることになる。しかし、死刑執行に関するユダヤの律法では、夜に裁判を行うことは禁じられている。イエスの裁判がユダヤ教の法的手続きを明らかに無視して行われた理由が不明だ。

 この4つの謎解きのための各章の最後に簡単「まとめ」が書かれてあり、私のようなせっかち、素人人間にはありがたい。

イエスが西暦三三年四月三日、金曜日の午後三時に死去したことは、磔刑の日付に関するすべての証拠によって裏付けられた。この日は 〈ユダヤ暦〉では二サン十四日」(二サンはユダヤ暦の第一の月で、現在の暦の三月から四月に当たる)


磔刑の日からおよそ七週間後、五旬祭の日の演説でペテロは、・・・(イエスが昇天した時)『太陽が暗くなり、月が血のように赤くなった』(新約聖書・ 使徒言行録2章)と述べた。・・・(太陽が暗くなった)現象はおそらく、 ハムシンと呼ばれる砂嵐によって起きたのだろう。・・・『月が血のように赤くなった』というのは月食の様子を表現したもの。・・・天文学的計算の結果、西暦三三年四月三日の金曜日にエルサレムで月食が見えたことが明らかになった。磔刑の日は、二つの別個に独立した手法で導き出された


共観福音書 (マタイ、マルコ、ルカ伝)では、一日が日の出とともに始まる〈捕囚前の暦〉(バビロンの捕囚以前の古代イスラエルで使われていた太陰暦)に従っているので、最後の晩餐が過越の食事とされている。それに対してヨハネ書では、一日が日没後に始まる〈公式のユダヤ暦〉が使われ、最後の晩餐もイエスの裁判も磔刑も、すべて公式の過越の食事が行われる前に起きたことが記述される


 つまり、最初に著者があげた四つの謎の二つ目。4福音書の記述の違いは、用いた暦の違いであることが分かったのだ。

 この春、 「イスタンブル」に旅行した際、とっくに終わっているはずの 復活祭前日の祝いがギリシャ正教の寺院で祝っているのを見てびっくりしたが、これはギリシャ正教が世界で使われている 〈グレゴリオ暦〉ではなく、 〈ユリウス暦〉に基づいて祝っていることもこの本で知った。

以前に読んだ 冲方丁の「天地明察」でも記載されていた暦の世界の深さに思いをいたした。

 話しがわきにそれた。表題書はさらに、天文物理学者の助力を得て、1世紀の〈公式のユダヤ暦〉と〈捕囚前のユダヤ暦〉を再現、それをもとに詳細な解明を続ける。

福音書を詳しく分析することで、最後の晩餐は水曜日の夜に催され、ユダヤの最高法院によるイエスの本裁判は木曜の日中に行われ、その後、金曜の夜明けに最高法院による二回目の短い裁判が開かれてイエスの死刑が確定したことがわかった


磔刑があった年、〈捕囚前の暦〉では最後の晩餐は水曜日だった。最後の晩餐が行われたのが水曜で、磔刑が金曜だったとすれば、最後の晩餐から磔刑までのあいだに起きたと福音書に記されているすべての出来事が、時間の流れのなかにしっかり収まることがわかるだろう


 それでは、なぜイエスは〈捕囚前の暦〉を使ったのだろうか。

イエスは、 「出エジプト記」に書かれた最初の過越祭と同じ記念日に、最後の晩餐を真正なる過越の食事会として開いた。そうすることで、自分自身を新たなモーセと位置づけ、新たな契約を結び、神の民を解放しようとした。イエスは〈公式のユダヤ暦〉で二サン一四日の午後三時ごろ、過越の子羊が屠られた時刻に絶命し、地震を過越のいけにえと重ね合わせた。こうした見事な象徴的行動も歴史上の出来事に基づいたものだと言える


 「愛」を説いているキリスト教が、「律法」を重んじるあまりに厳しく人々に接する神を表現する「旧約聖書」をなぜ大切にする必要があるのか。

 長年、持ち続けてきた疑問の一部が氷解したように感じた。

2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

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