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Masablogで“三陸海岸大津波”が含まれるブログ記事

2012年10月13日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・上


 岩手県大船渡市の港近く。「大商人橋」のバス停を降りて10分弱のホテルは、津波で家屋が流されてコンクリートの土台だけが残る空き地にポツリと建っていた。
 昨年末に営業を再開したが、敷地周りの地盤沈下した商業地に大潮の海水が満ち、どこが入り口かさえ分かりにくい。

 ホテルの前に、盛り土をして急ごしらえで舗装された狭い2車線が走っており、その両脇はかってはにぎやかな商店街だったらしい。折れて数十センチだけ残された茶色の外灯が数メートル置きに残されている。根元に「茶屋前商店街」と刻まれていた。
 南側にある須崎川沿いの桜並木も、太い根元が無残に折れて残されている。近くに再建された寿司店の壁に、見事な桜並木を囲むように建つ家屋や商店の写真の額が飾ってあった。

 新築して営業を始めた飲食店がポツリ、ポツリと3軒ほど。それに、16軒の仮設屋台村、スーパーストアとコインランドリー、ちょっと離れてコンビニが1軒。仮設の商店街は、スーパーの再開で野菜などが売れなくなった、と聞いた。

 瓦礫は港沿いの2次処理場にほとんど移されたが、大船渡の下町にはまだ、復興にはほど遠い荒ばくとした風景が広がっている。

 10月1日の朝。ボランティア行にご一緒させてもらうことになったカトリック夙川教会(兵庫県西宮市)の一行4人(リーダーの河野さんと、水口さん、谷垣さん、野口さんの女性3人=年齢不詳につき順不同)と、教会バザーなどで販売する産地直送海産物探しを兼ねて、隣の陸前高田市に出かけた。

 巧みなドライブさばきを見せる水口さんがナビで設定した「陸前高田市市街地中心」には、だだっ広いコンクリート土台と、窓ガラスが吹き飛んだ鉄筋建物だけが残っていた。大船渡市の何倍もの広さに津波のつめあとが広がっている。

 白い建物のわきで青いシートを広げ、書類を乾かしている十人近くのマスク姿の男女がいた。ここは元の市役所。11月から取り壊しにかかり、跡地の利用は決まっていない、という。

 周辺では、大船渡でほぼ終わっている瓦礫の2次処理のためのクレーン起重機十数台が、いまだにフル活動している。

 枯れた1本松で有名になった高田松原の近くに特産品を売る仮設商店があるというので、ナビも駆使して探し回ったが、見つからない。

 「通行禁止」の綱を乗り越え、歩き回って、高田松原の"跡地"だけがやっと見つけた。少しだけ残された砂浜に枯れた松の切り株が十本近く残っているだけのすさまじい風景だ。

 「1本松のことばかりマスコミは書くけれど、あの2キロにわたる見事な砂浜がさらわれたことを、なぜ書かないのか・・・」。大船渡の寿司屋の亭主が嘆いていたのを思いだした。

 翌日、宮城県 気仙沼市に仮設店舗に鮮魚店などが集まったさかなの市場「さかなの駅」があると聞き、再度、産地直送海産物探しに出かけた。ここでしか売られていないという「サメの心臓」(別名・モウカの星)もあるらしい。

 街に入り、県道210号線と34号線が交差する場所でギョッとする風景にぶつかった。 巨大な船が、赤さびた船底を丸出しにして打ち上げられている。約60メートル、330トンもの巨大な巻き網漁船。船腹には「第十八共徳丸」とあった。
 気仙沼港から津波に流され、家屋をこわし、人をなぎ倒して北へ500メートルも流されたのだ。

 船体は、片側3本の鉄骨で支えられ、船底横にお地蔵さんの像と花が飾られ、手を合わせる人が絶えない。
 近くの保育園の保母さんによると、子供たちは、この船のことを「ころしぶね」と呼ぶ。通園バスで横を通る時に PTSD(心的外傷後ストレス障害) の症状を見せる園児もいる、という。この船を解体するのかどうかは、まだ決まっていない。

 6日に同行4人と別れ、学生時代に中学校の先生をしていた先輩を訪ねたことのある旧・ 田老町 (現在は宮古市に合併)まで、バスを乗り継いで行った。

 このブログでもふれたことがある 吉村昭の「三陸海岸大津波」にもくわしいいが、ここには、過去の津波の経験を生かし「万里の長城」の異名を持つ高さ10メートルの大防潮堤を築かれた。チリ地震津波でも被害が軽微だったことで有名になった。

 しかし、今回の地震では、津波は場所によっては高さ50メートルも越え、町は壊滅した。

 一部破壊された大堤防の上に立つと、右に田老の港と漁港、左に壊滅した町がほぼ等分に広がる。

 山が、意外に近く見える。「堤防に頼らず、まず山に逃げていたら・・・」。なんとも、せつない思いが胸を衝いた。

 「陸前高田市震災復興計画~『海と緑と太陽との共生・海浜新都市の創造』~」  陸前高田市のホームページに載っている、夢いっぱいの復興計画だ。三陸海岸各市も、同様のりっぱな復興計画をそろえている。

 しかし、防潮堤1つを取っても、県や各市、住民や漁業者の間で議論が絶えず、かんじんの高さがなかなか決まらないらしい。

 大船渡市は、比較的山に近いが、復興住宅の高台建設を巡って、市と民間の山林所有者で価格交渉が難航している、という。

 大船渡市立末崎小学校にある仮設住宅の支援員をしている永井さん(65)は、自宅再建はあきらめ、復興住宅に入るつもりだ。
 「いつ入れるやら、このままだと仮設暮らしが後5年、いやそれ以上・・・」

 たった2日間の出会いだったが、いつも明るく接してくれた永井さんの目が、少し遠くを見ているようだった。

現地の写真集
JR大船渡線・大船渡駅跡;クリックすると大きな写真になります 盛り土をした車道;クリックすると大きな写真になります 仮設の「大船渡屋台村」の朝。;クリックすると大きな写真になります さびついた大船渡線のレール;クリックすると大きな写真になります
JR大船渡線・大船渡駅跡。なにもない駅前広場は、タクシーの待機場になっていた。 盛り土をした車道。左の水中に歩道用の白いラインが見える。 仮設の「大船渡屋台村」の朝。 さびついた大船渡線のレール。バス専用道路にする話しがあるが・・
「茶屋前商店街」;クリックすると大きな写真になります 瓦礫処理;クリックすると大きな写真になります 旧陸前高田市役所;クリックすると大きな写真になります 無残な高田松原跡;クリックすると大きな写真になります
商業地の真ん中でにぎわっていた「茶屋前商店街」 陸前高田市の中心で続く瓦礫処理 旧陸前高田市役所。青いシートの下で書類の処理が続く 無残な高田松原跡。近くの橋に「国営メモリアル公園を高田松原へ」 と書かれた横幕が張られていた。
陸上を走った巻き網漁船;クリックすると大きな写真になります 旧田老町の大堤防;クリックすると大きな写真になります
気仙沼港から500メートルも陸上を走った巻き網漁船 旧田老町の大堤防に打ちつけられた瓦礫の処理は終わったが・・


2011年5月17日

読書日記「三陸海岸大津波」「関東大震災」(吉村 昭著、文春文庫)、「津波災害――減災社会を築く」(河田惠昭著、岩波新書)

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 震災のただ中にいた阪神淡路大震災の時と、なぜか違う。東北大震災の惨状を毎日のテレビを見聞きしながら、いつまでも心が落ち着かない。死者を悼み、復興を願う以上に、なぜまたこんな被害に遭遇してしまったのかという思いがふつふつとわき上がる。

 東北大震災直後にできた書店の特設コーナーをウロウロしていて見つけたのが、吉村 昭の文庫本「三陸海岸大津波」。1970年に旧中央公論社から旧題「海の壁」として出版され、2004年の文春文庫になって以来5万冊が出ていたが、この2カ月で15万冊を増刷する大ベストセラーになってしまった。明治から昭和にかけて三陸海岸を襲った津波の生存者などを訪ねて取材した事実、証言に圧倒される。
 この15日の朝日新聞書評欄でも「ひたすら『事実』だけが語られていながら、かといって単に客観的な『記録』とは異なる、・・・これは『記録=文学』なのだ」と書かれていた。

 
六十歳の木村トラという女性は、突然流れこんできた海水に驚いて十歳と五歳の孫を首にかじりつかせ鴨居にとびついた。水は見る間に上昇して顎(あご)にまで達した。
これまでと観念した時、家が浮き上がって流れ出した。沖にさらわれれば一命はなかったのだが、幸いにも家が石づくりの井戸の台にひっかかって止まった。・・・トラは、孫を抱えると家を飛び出し、屈強な男子でも上がることのできない背後の絶壁をよじのぼって死をまぬがれた。


死体の多くは、芥や土砂に埋もれていた。・・・掘り起こしても死体が発見されない場合が多い。
そのうちに経験もつみ重ねられて、・・・。死体からは脂肪分がにじみ出ているので、それに着目した作業員たちは地上に一面に水を流す。そして、ぎらぎらと油の涌く個所があるとその部分を掘り起こし、埋没した死体を発見できるようになったのだ。


三陸沿岸を旅する度に、私は、海に向かって立つ異様なほどの厚さと長さを持つ鉄筋コンクリートの堤防に眼をみはる。・・・が、その姿は一言にして言えば大袈裟(おおげさ)すぎるという印象を受ける。
 私は、その対比に違和感すらいだいていたが、同時にそれほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐さに背筋の凍りつくのを感じた。


 その防潮堤でさえ、今回の大津波は乗り越えてしまった。
 私が住む芦屋市は、確率60%で東海・東南海・南海同時地震が襲う可能性がある地域である。市関連機関が住民に配った資料では、我が家は海抜15メートル地区。今回の震災直後に再選された市長は、避難路などを見直す動きなどまったく見せない。

 「津波災害――減災社会を築く」の著者、河田惠昭(よしあき)さんは、京都大学防災研究所長を経て、現在は関西大学安全学部長。 「阪神・淡路大震災祈念 人と防災未来センタ」長を兼務しておられる。
 この本は、昨年2月に発生したチリ沖地震津波をきっかけに、昨年12月に出版された。初版の帯封には「必ず、来る!」というコピーが躍り「まえがき」にも「東海・東南海・南海地震津波や三陸津波の来襲に際して、万を越える犠牲者が発生しかねない」と書かれ、いささかセンセーショナルなのではという批判もあったそうだが、不幸にも専門家のカンはピタリと当たり、その警告は生かされなかった。

 この本には、今回の東北大震災で我々がテレビを通して目にした惨状が津波への正常な知識があれば防ぐことができた"人災"であることを、無残なほどあらわに予見している。

高さ五メートルの防波堤に高さ八メートルの津波が押し寄せた場合、津波はこの防波堤を乗り越える。そのとき変化が起こる。防波堤に津波が衝突すると、海底から深さ五メートルまでの津波の水粒子が防波堤で止められて前に進めなくなる。その瞬間、海底から五メートルまでの津波の運動エネルギーは位置エネルギーに変換される。このため、防波堤上で海面が三メートルよりもさらに盛り上がって通過することになる。
そして、防波堤を超えた瞬間に水塊が三メートル以上の落差をもって港内側に落下するので、激しく防波堤の脚部を洗うことになる。下手をすると海底の洗掘が発生し、防波堤が横倒しになってしまうことが起こる。


三陸沿岸は「宿命的な」津波常襲地帯であるといえる。それは、湾岸地域が津波を増幅させる屈曲に富んだリアス式海岸だからというだけではない。遥か沖合の水深数千メートルの海域が津波を集中させる海底地形となっているのである。これは、近地津波はもとより、太平洋沿岸各地で津波が発生し、遠地津波として伝播してくるとき、必ずこの海域で増幅することを示している。このように沖合で津波が増幅し、沿岸でも増幅するという津波の「二重レンズ効果」が三陸沿岸では起こる。


 そして、津波についての正確な知識を周知し、日頃から訓練していれば、避難さえすれば助かる「生存避難」につながる、と強調。「車で避難して渋滞に巻き込まれたら、徒歩で避難する」など、具体的なルールの徹底を繰り返して警告している。

 しかし、こんな記述もある。
したがって、津波防波堤のある大船渡、久慈(工事中)や釜石を除いて、世界屈指の津波危険地域であると言える。

防災危機の専門家でさえ、今回の"想定外"の津波は想定できなかった、ということだろうか。それだけに、今回の災害にすごさに「背筋が凍る」思いを新たにする。

 最後の第4章に書かれた「もしも東京に大津波が来たら・・・」にも、震えが来る。
津波はん濫が最初に襲うのは臨海コンビナートである。津波のはん濫水もしくは一緒に移動する船舶が、石油精製施設、化学物資合成施設やそれにつながるパイプ群を破壊し、ここから出火する危険がある。もっとも怖いのは致死性の有毒ガスの漏出である。


 
私はかねてから『水は昔を覚えている』と主張してきた。昔、海だったところや湿地帯だったところに市街地が発達しても、いったん、洪水や高潮、津波はん濫が起こると、・・・また海や湿地帯に戻るということである。

 ゼロメートル地帯や江戸時代に湿地帯や海中に位置していた約70もの地下鉄の駅が水没する危険がある、という。

 吉村 昭の「関東大震災」は、これらの予想がすでに現実に起こったことであることを如実に示す歴史証言である。

 本所被服廠で、避難者が持ち込んだ家具による火災で死んだ3万8千人のひとたち、浅草・吉原公園の池で幾重にも重なって死んでいった500人近い娼婦たち、累々たる死体を処理した事実を記載する1章・・・。
   そして、根拠のないデモの広がりによる日本人の暴動で死んだ朝鮮の人たち、この震災をきっかけに殺された社会運動家・ 大杉 栄。

 忘れていた、そして忘れてはいけない震災の歴史を、これらの本で記憶を新たにする。