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2013年3月28日

出雲紀行・下「出雲大社」、読書日記「古代出雲大社の復元」(大林組プロジェクトチーム編)、講話「出雲大社巨大本殿は実在したか」(黒田龍二・神戸大大学院教授)



古代出雲大社の復元―失なわれたかたちを求めて

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 昨年の11月3日。松江市で 「松本竣介展」を見た後、出雲大社へと急いだ。大社周辺で 「神話しまね博」が開かれている連休とあって混雑を覚悟していたが、それほどでもない。神話博の評判はもう一つだったらしい。

 出雲大社では、60年に一度の 「平成の大遷宮」が今年の5月10日に行われるのを目前にして本殿周辺は工事用の塀で囲まれていたが、拝殿(現在は御祭神、大国主大神の仮の住まいである御仮殿)近くから見ると、 大社造り、茅葺きの大屋根はほぼ葺き終わったように見える。屋根の上の千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ) が後ろの八雲山の頂上に迫るように大きく見える(写真①)。高さ8丈(約24メートル)と、日本一高い神社だ。

神楽殿の注連縄(しめなわ)も長さ13メートル、重さ5トンと日本最大級(写真②)。前の広場にある国旗掲揚台の日章旗も日本最大。古代出雲王朝の"遺産"はけたはずれに大きい。

 拝殿の前にもう1つ、どでかい"遺産"が残っていた。

 拝殿前のコンクリートの広場に、円を3つ束ねた橙色のサークルが3ヶ所に印されており、参拝者がしきりにカメラを向けている(写真③)。

 これが2000年4月に発見された巨大な3本柱遺跡を示すものだった。直径1・1-1・4メートルの杉材を3本1組に束ね、合わせて直径が約3メートルにもなる巨大な柱の跡が3ヶ所から出土したのだ。

 発見されたうち手前3本の 「宇豆柱(うづばしら)」は保存処理を終わり重要文化財に指定されて、いつもなら近くの 島根県立古代出雲博物館のロビーに展示されているが、ちょうど東京国立博物館で開かれていた 特別展「出雲―聖地の至宝―」に出品されていて留守。それでも、境内の「宝物館」の前に展示されているコンクリート製の模型からも、遺跡の柱が支えていたかっての出雲大社の巨大さがうかがえる(写真④)。ちなみに、現在の本殿の柱は、1組0・7メートル強から1メートル強らしい。

千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ);クリックすると大きな写真になります 神楽殿の注連縄(しめなわ);クリックすると大きな写真になります 巨大な3本柱遺跡;クリックすると大きな写真になります 「宇豆柱(うづばしら)」の模型;クリックすると大きな写真になります
写真① 写真② 写真③ 写真④


 平安時代に編纂された児童教養書 「口遊(くちずさみ)」 「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という数え歌が載っているという。当時の「大屋(巨大な建物)」のうち、出雲大社が太郎で1番、大和の大仏殿が2番、3番が京都の大極殿、というのだ。
 それを スケッチすると、こんな比較になるようだ。

当時の大仏殿の高さは約約15丈(約45メートル)。出雲大社には「上古32丈、中古16丈」という口伝が残されている。現在でも8丈(約24メートル)もの高さを誇る出雲大社は上古には32丈(約96メートル)、中古には16丈(約48メートル)と大仏殿より高かった、という。 48メートルといえば、14階建ての高層ビルに匹敵する。

 オオクニヌシが「天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てる」ことを条件に、お隠れになったという古事記の記述にそって、こんな巨大な神殿が造られたのか。

 それとも、日本海沿岸各地に残る真脇遺跡 チカモリ遺跡などの縄文遺跡や諏訪大社御柱祭に受け継がれてきた巨木文化、巨木信仰が、出雲大社を高く、大きく建造しようとした源なのか。

 それよりなにより「上古32丈、中古16丈」という口伝は真実なのだろうか。

 "巨大神殿"のロマンを探しに、拝殿から歩いて10分弱の県立古代出雲博物館に向かった。

予想外に混んでいる。ロビーから左に入った展示室の大きなガラスケースのなかに「出雲大社御本殿復元模型」(写真⑤、⑥)が5つ並べられていた。

5人の古代建築史の研究者が、自分の持つ学説にそって、発見された巨木遺跡の全体像を50分の1の模型で再現しようしたものだ。向かって左の一番低いものが現在の大社と同じ8丈(約24メートル)、真ん中の2つが11丈(約33メートル)、右側2つは16丈(約48メートル)と、一番高い。

それぞれの研究者の再現根拠を説明したボードも掲示してあるが、なぜかガラスケースの向かって左側に、十六丈神殿の10分の1模型(写真⑦、⑧)が天井まで届くように展示されてある。
 「やはり十六丈の高さが見栄えがする」という、その筋のお声がかりで出来上がったとか。制作は、松江工業高校の生徒たちだという。

「出雲大社御本殿復元模型;クリックすると大きな写真になります 出雲大社御本殿復元模型;クリックすると大きな写真になります 十六丈神殿の10分の1模型;クリックすると大きな写真になります 十六丈神殿の10分の1模型;クリックすると大きな写真になります
写真⑤:出雲大社御本殿復元模型 写真⑥:出雲大社御本殿復元模型 写真⑦:十六丈神殿の10分の1模型 写真⑧:十六丈神殿の10分の1模型


izumo taisha-00.jpg  大手ゼネコン(建設会社)の大林組は、この16丈本殿の建設が可能であったかを実証し、CG(コンピューター・グラフィックス)上で、巨大神殿を復元(右図①)してしまった。拝殿前で、巨木遺跡が出土した10年も前のことだ。

 この成果は、当初、同社の技術誌「古代出雲大社の復元 失われたかたちを求めて」(上掲)(監修・故・福山敏男、大林組プロジェクトチーム編、学生社刊)として発刊された。

 故・福山京大名誉教授、大林組が、16丈本殿実玄の根拠としたのは、出雲大社の歴代宮司家である 千家國造家に秘蔵されてき神殿の平面設計図・「金輪御造営差図」だった。

 この差図(設計図)には、3本の柱を金輪(鉄の輪)でくくって直径3メートルの柱とし、正方形の9ヶ所に建てた平面図。後に見つかった巨木遺跡とそっくりなのだ。  残念ながら高さは書いてなかったが、階段(引橋)の長さが1町(約109メートル)と書いてあった。

 プロジェクトチームは、これを第1次資料に、コンピューター上で構造解析や地震時の揺れのシュミレーションなどを繰り返し「16丈本殿の建設は可能だった」という結論を導き出した。

 この結論に反論しているのが、島根県立古代出雲博物館で「11丈模型」を制作した 黒田龍二・神戸大大学院教授

 出雲大社に同行した友人Mから「『出雲大社巨大本殿は実在したか』という講話があるようだ」と聞き、朝日カルチャーセンター川西教室で1月から月1回、計3回行われた黒田教授の話しを聞きに行った。

 渡されたレジメには「16丈本殿論争は明治時代から続いており」「その1つが、平成元年からの『黒田龍二VS大林組』」という記載があった。

講話のなかで黒田教授は、長く神社建築史を研究してきた立場から「9本の柱で、100メートルの階段(引橋)を支えるのは難しい」「ただ高い、というのは異様であり、大仏殿より高いというのは論理がねじれている」と、「金輪御造営差図」や「雲太、和二、京三」から、高さ16丈の本殿が実在したというのは無理がある、と主張した。

 黒田教授が「11丈本殿」の根拠にしたは、鎌倉時代のものといわれる出雲大社の古絵図;クリックすると大きな写真になります"出雲大社の古絵図 「神郷絵図」(左:図②)。「門と本殿の高さの釣り合いが取れている。11丈でも少し高いと思うが、根拠になるものが、これ以外にはない」という。

 ただ、平安末期から鎌倉中期にかけて「本殿は5度にわたって倒壊した」という記録が残っている。しかも、大陸から石の土台を築く技術が伝わっても、掘立柱の巨大神殿にこだわったのではなぜだろうか。

 そこに、古代王朝から脈々と伝えられてきた出雲文化の独自性とロマンが感じとれて、興味が尽きないのだ。

(追記:20130/3/29)  このブログを書いた翌日の読売新聞社会面に「出雲大社 本殿造営の記録」という記事が載った。  島根県立出雲歴史博物館が、 「北島國造家」の調査したところ、慶長年間(1596年-1615年)に豊臣秀頼によって本殿を造営した際の「本殿の規模などを記した記録が見つかった」と書いてある。
 江戸時代の延亨元年(1744年)に造営された現在の本殿より以前のものだから「ひょっとすると、16丈本殿?」と、同博物館に問い合わせてみた。
 残念ながら、6丈5尺(約20メートル)と現在の本殿の8丈(約24メートル)より小さかったことが分かっという。同博物館学芸員の記述によると「中世の社会的混乱もあり、16世紀末には4丈5尺(約13・5メートル)の高さになってしまった」という歴史の流れが生んだ高さなのだろう。  しかし、驚くような事実も分かった。「天井に龍が描かれ、極彩色がほどこされていた」と記録されていたのだ。同感の学芸員は「当時の豪華華麗な 桃山文化を反映したものだろう」と話す。  徳川時代の「延亨遷宮」のときも、幕府はこの流れを継承しようとしたが、出雲大社側の強い要望で、現在の白木の簡素な神殿になったらしい。  "16丈伝説"への夢はつきないが、こんな事実が後世に突然顔を見せてくれるから、歴史っておもしろい!

2013年3月22日

読書日記「葬られた王朝―古代出雲の謎を解くー」(梅原 猛著、新潮文庫)


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 昨年末、松江に「松本竣介展」を見に行くのを機会に「出雲大社」に寄ってみようと思った。

 ちょうど大社周辺では、古事記編纂1300年などを記念して 「神話博しまね」が開催されていることも知り、事前に古代出雲や神話の本を読みあさった。

 これほど多くの関連本があふれているとは・・・。考古学者や歴史学者、博物館の学芸員、出雲国造と呼ばれる宮司、街の学者といわれる人などが、口々に「出雲王朝は現存したが、大和王朝に抹殺された」「出雲に支配勢力など存在しなかった」「いや実は、ヤマトをつくったのは出雲人」などと、てんでに主張している。

 そんななかで遭遇したのが、表題の本。分からないままに3回ほど読み返し、古代出雲王朝と古代神話とのつじつまが合うように思えて、古代出雲への興味が深まっていった。

 実はこの本の「はじめに」でふれているように、著者は40年ほど前に刊行した「神々の流竄 」 (集英社文庫)に記載したことが誤りであったことを自ら証明するために、表題の本を書いたと告白している。

神々の流竄 (集英社文庫)
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    「神々の流竄 」で梅原氏は「出雲神話は大和神話を出雲に仮託したもの」と主張した。古事記には、出雲神話が全体の3分の1を占めているが「出雲」という国や勢力が実在したわけではなく、出雲神話は大和の政権内で起きた数々の事件を、出雲の地に置き換えて語っている、としたのだ。

 これでは「出雲神話ばかりか、日本の神話そのものを全くのフィクションと考える津田左右吉の説と変わりがない」。戦後の歴史家の多くもこの説を採用し続けた。
 それは「出雲には神話にふさわしい遺跡がない」ことも根拠になっていた。

 ところが、出雲では考古学上の大発見が相次いだ。1984年、85年には、出雲市斐川町の荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が見つかった。銅剣の本数は当時の国内出土総数を上回る数である。1996年には、荒神谷遺跡から山を隔てて3キロ強しか離れていない雲南市加茂町の 加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見された。これまた日本最大の銅鐸出土数であった。

 そこで梅原氏は「学問的良心を持つ限り、出雲神話が全くの架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならない」と、古事記に書かれた神話がいかに考古学的遺物によって裏付けられるかを確かめるために出雲への旅に出る。

 筆者はまず「出雲王国は スサノオから始まった」と、 「ヤマタノオロチ」伝説の分析から始める。

 古事記には、次のように書かれている。

   「その目はほおずきのように赤く、八つの頭と八つの尾があり、その身体には苔と 槍と杉が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にも渡るほどで、その腹はい っも爛れています(抄訳・筆者)」

 
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。・・・ヤマタノオロチとは、人民を苦しめる強くて悪い豪族を指すのかもしれない。出雲王国の交易範囲は、西は朝鮮半島・ 新羅から東は(こし、現在の北陸地方)に及んでいた・・・。そしてこの越の国からやってきた豪族が出雲の山々を支配し、・・・人々を苦しめていたのではなかろうか。その強く悪しき越の豪族ども、すなわち「高志の八俣のをろち」に、スサノオは酒を飲ませ、油断させ、皆殺しにしたのではなかろうか。


 スサノオから数えて6代目の子孫である 国津神 オオクニヌシ「国引き神話」について、著者はこう解説する。

 オオクニヌシは、朝鮮半島・新羅の岬や隠岐、越の国から余った土地を引いてきて現在の島根半島を完成させた、というのが「国引き神話」の骨子。

 
この国引きをどう考えるかは問題だが、それは、かつて島であった島根半島が海面下の地盤が隆起によって本州と陸続きになり、また火山灰が堆積するなどして陸地が飛躍的に増えたことを祝賀する話であると考えるべきであろう。
 日本列島において海面が最も高くなった縄文海進は、今から約六千年前のこととされる。その後、時間の経過とともに海面下の地盤が隆起し、火山灰が堆積して現在のような広大な平野ができたと考えられている。ちょうどその頃が弥生時代にあたり、出雲の稲作農業に携わった当時の民衆は耕地が増えたことを心から喜んだに違いない。


 「因幡(いなば)の素兎(しろうさぎ)」という話しには「他愛のないメルヘンではあるが、・・・政治的な意味合いが含まれている」と、梅原氏は見る。

 
ウサギが住んでいたのは隠岐島であるが、対岸の因幡の地は鳥取の 妻木晩田(むきばんだ)遺跡が示すように、豊穣な地であり、農業文明が繁栄していたとかんがえられる。そのような本土の地を、繁栄とはほど遠い隠岐島に住でいた素兎は羨望し、なんとか海を越えて本土に渡ろうとしたのであろう。その手段として、ワニを欺いたわけである。しかし、最後まで嘘を貫けばよかったのに、どこか正直者で嘘をつけない素兎はつい本当のことをしやべってしまった。
 これは、隠岐島から本土へ移住しょうとする島民と、その移住を手伝った船頭との間に起きたトラブルを思わせる話である。


 その後、出雲の王国を継いだオオクニヌシは、越も支配し、日本海沿岸に強大な勢力を持つ大国となり、続いて南進して、ヤマトを征服しようとする。
 このヤマト征服の旅は「オオクニヌシの大勝利に終わったことは間違いない」と著者は語る。

   
関西周辺の地域には、オオクニヌシおよび彼の子たちを祀る神社や「出雲」の名を伝える場所がはなはだ多い。・・・
古くはヤマトも山城も出雲族の支配下にあり、この地を多くの出雲人が住んでいたとみるのが、もっとも自然だろう。


 しかし、オオクニヌシの出雲王国は、内部分裂と韓の国からきた アメノヒビコという強力な神に追い詰められて崩壊の危機にたつ。そして、ついにヤマトから使者がやってくる。
  「国譲り」神話である。

 オオクニヌシは、大きな大社を建造することを条件にお隠れになる。

 梅原氏は「隠居」とも「稲作の海に隠れた」とも書いている。"自決した"という事かもしれない。

 次に梅原氏は、さきに書いた荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で出土した青銅器が、どのような形でスサノオ、オオオクニヌシの「出雲王朝の歴史に結びつくのか」を考えるために調査を続け「銅鐸の起源は出雲にある」という結論を得る。

 そして「これほど大量の青銅器を所有したのは地方の豪族であるか、それとも王であるのか」と、考古学者や歴史学者に問いかけた、という。

彼らはしばらく沈黙し、首を傾げながら「王としか考えられませんね」と答えた。王だと言えば、私とともに彼らが今まで信じていた「出雲王朝は存在しなかった」という説は覆ってしまうのである。・・・これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく出雲王朝の大王であり、おそらくオオクニヌシといわれる「人」であったに違いない。


 さらに「荒神谷遺跡などから出土した銅器に『☓』印がついているのは、死者に贈られたものの印だろう」とする一方、こんな推論をしている。

荒神谷遺跡は 「出雲風土記」に記された ヤマトタケルの家来が住みついた地であった。それは出雲の神の反乱を恐れたヤマト朝廷が派遣した進駐軍のような軍隊であったと思われる。おそらくそこはかつてイズモタケルが住んでいたところで、イズモタケルは、『古事記』 が語るようなオオクニヌシ政権崩壊後もなお細々ながら十七代紋いた出雲王朝の最後の王であったのではなかろうか。とすれば、そこはかつてオオクニヌシの住んでいた宮殿があったところである。そしてその町外れの小さな丘の中腹に、オオクニヌシの大切にしていた青銅器を埋めて、黄泉の回の王となったオオクニヌシに贈り届けようとしたものと考えてもおかしくはない。


 ちなみに、現在オオクニヌシが祀られている出雲大社は、荒神谷遺跡から西北に10数キロのところにある。

▽その他、参考にした本

  • 「出雲と大和」( 村井康彦著、岩波新書、2013年1月刊)
      大和の中心三輪山に出雲系の神が祭られていることなどを理由に「出雲勢力は早くから大和に進出し、< 邪馬台国も出雲人が立てたクニだった」という新説を打ち出した。
      著書には、茶の湯などいわゆる京都学のものが多いが、突然の"古代史"帰り・・・?。

  • 「出雲大社の暗号」( 関 裕二著、講談社刊)「『出雲抹殺』の謎」(同、PHP文庫)
      著者は、独学で日本古代史を研究した歴史作家。「出雲を解くヒントは、祟りである」と書く。

  • 「出雲の古代史」(門脇禎二著、日本放送教会刊)「古代日本の『地域王朝』と『ヤマト王朝』(上)」(同、学生社刊)
     著者は、京都府立大名誉教授の歴史学者。「1世紀ごろスサノオに率いられた朝鮮の東海岸から渡来した新羅人系統集団 "スサ族" が先住の 海人族を駆逐、2世紀には出雲の砂鉄地帯を占領した」と解説している。

  • 「『出雲』からたどる古代日本の謎」(瀧音能之著、青春出版社刊)
     著者は、日本子古代史が専門の駒沢大学教授。「出雲と九州・宗像との親密な関係」についての記述が興味をひく。「ヤマト王国が出雲にこだわったのは、新羅を仮想敵国と見ていたから」とも。

  • 「古代史コレクション⑧ 古代史を疑う」(古田武彦著、ミネルヴァ書房刊)
     著者は、高校の教師を長く勤めた異色の古代史研究家。「古代、中世には多くの王朝が並列していた」という 「多元王朝説」を展開している。

     

2013年2月20日

読書日記「偏愛ムラタ美術館 〚発掘篇〙」(村田喜代子著、平凡社)


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    前著  「偏愛ムラタ美術館」のことをこのブログに書いたのは、もう3年前になる。

 著者は最近、熱い気持ちで絵画を鑑賞する気持ちがなくなってきた、という。「そこへ編集部から『もう一度やりませんか』と声がかかった。『うれしい。また好きな絵にたっぷり浸ってみよう』と、この本が誕生することになった」

 1970年代のイギリス。アルフレッド・ウオリスという船乗り上がりの老人が「老妻に死なれた70歳過ぎになって、誰に習うともなく翻然と海と船の絵を描き始めた」
 その家の前を通りかかった2人の画家が、家のなかの壁という壁に、船用のペンキで船や海を描いた板切れや厚紙の切れ端やらが釘で打ち付けられているのを見つけた。

「青い船」(1934年頃、 テート・ギャラリー蔵)は「たぶんウオリスの書いた船のなかで一番美しい絵」と著者は言う。たまに、展覧会などに貸し出されると黒山の人らしい。

 しかし多くの絵は船や灯台、建物がみんな勝手な方向を向いている。ウオリスは、1つを書き終えると紙を回して次の端を手前にして描くため「画面には天地が何通りもできる」ようだ。

 著者は山下清の文章を思い出す。

 
山下清の文章は超現在進行形だ。今、今、今というふうに現在が連なっている。出来事を時間の経緯の中で書くことができないのだ。山下清もぐるぐると紙を回しているのである。


 例えば、こんな文章。
 「犬が二匹あとからついて来てしばらくたってから犬が向こうへ行ってしまつた」

 
天地無用のウォリスの絵にも、その時間軸が抜け落ちている。絵をぐるりと回して今描いている部分が、唯一の真正面、現在というわけだ。そうやって眺めると、ウォリスの絵には過去がない。思い出がすべてといえる海の絵なのに、昔がない。天地無用のペンキの絵には、犬やおじさんのことを書いていた山下清の文章みたいに、現在だけが強烈にあり、そして過去がないのだから未来もない。その無時間性がペンキのくすんだ玩具箱に漂っている。


   細密画家の瀬戸照の絵を見て「よくこんなにそっくり描いたなあ、とシロウトはまずそこから感心する」と、著者は切り出す。

  「石」2008年)は「下書きを始めて五年ほどかかったという。・・・本物そっくりだ。いや、本物の石より、石らしい。・・・わざわざ絵に描くのだから、狙いは本物そっくりではなく、それを越えたものだろう」

    
絵を細かく措くときは、点描が適していると彼はいう。細かい点を重ねると、複雑な色の効果が出るらしい。
  面相筆を二本使って、細い筆で点を置き中細で面を塗る。葉などを措くときは葉脈で囲まれたところを1ブロックとして、その中を丹念に描くようにする。葉の起伏がはつきりしてくるころから、いよいよ点で塗り始める。
 ・・・いったいこれらの絵は、どのくらいの移しい点が打たれたのだろうと思わずにはいられない。こんな根気のいる細密画は、絵描きの精神世界を覗くようである。


 先月初め、東京が大雪に見舞われた前日に東京・竹橋の 東京国立近代美術館 開館60周年記念特別展「美術にぶるっ!」を見に出かけた。閉展前日とあって、かなりの人で混んでいたが、人の間に見えた絵画に見覚えがある。

 この本で見た、日本画家・横山操の代表作、「塔」(1957年、東京国立近代美術館蔵)だった。東京谷中の五重塔が無理真鍮の男女によって放火、炎上した事件を題材にしたものだ。

  
壊れてはいない。五重塔の外皮を剥ぎ取って、建物の稲妻のようなスピリチュアルだけが立っている。むしろ焼けて不動の中身が、今こそ露わになった。そんな感じだ。このふてぶてしい骨組み。塔は気合いで立っていて、グラリとも揺れていない。まるで、世の中のことはこのようにあらねばと言っているようだ。
 無惨さも痛ましさもない。人間世界の感傷とは無関係に、ただもう大地に食い割って土台を下ろした、五重塔のダイナミズムが立ちはだかっている。
 弁慶の立ち往生だ。


 著者は、映画監督黒澤明の絵コンテが好きだ。  ところが、著者の芥川賞受賞作「鍋の中」を原作に1991年に公開された 「八月の狂詩曲」の1場面 「『八月の狂詩曲』ピカの日」には驚いた。長崎原爆の日、最初はなにもない青空に、突然、閃光が走り、大目玉がすこしずつせり出してくる。

  
この目玉のまん丸い中心の凄いこと。細かな縦線をびっしりと措き込んで、ぼうぼうと生えた睦毛といい、見る者をギョツと驚かせる。添え書きの文句といい、黒澤がいかにこの場面に執着したかがうかがわれる。
 しかし原作の『鍋の中』には、原爆の話は一度も出てこないのである。田舎の祖母の薄れかかった記憶の底に原爆の巨大な影を染め付けたのは、黒揮監督の勝手な脚色だった。
 年寄りの不確かな記憶の他にこそ恐ろしさと面白さを込めて書いたのに、映画ではピカの大目玉が炸裂して謎解きをしてしまったというわけだ。


 著者がシナリオを読んだときには、撮影はもう進んできた。「会いたい」という黒澤監督の要請を、著者は「ずうーっと」拒否した。

 しかし映画を見た感想を、著者は雑誌にこう書いた。
 「ラストで許そう黒澤明・・・。」

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 著者は「長い間、熊谷守一という長寿の画家の絵には、とんと関心が湧かなかった」

 それが数年前に 「ヤキバノカエリ」(1948-56年、岐阜県美術館蔵)という絵を見て衝撃を受けた。

  
この絵には・・・人焼きのすんだ後のからんとした情景が頼りないほど単純化してしまっている。遺骨の入った白い箱を抱えた顔のない家族が、何だかさっぱりしたような、脱力したような、ふわふわした足取りで帰路を歩いてくる。
 あんまり妙な絵なのでじっと見ていると、息が詰まってくる。単純化できない重大な出来事を、強い力で押さえつけて、単純化してしまったような......。だから一見のどかそう な絵だが、画面構成を見ると天と地の配分、三人の等間隔の並び方、緑の木の生え方まで、 何かギリギリのバランスの中に措かれている気がする。

  「白猫」(1959年、豊島区立熊谷守一美術館蔵)の「輪郭線は命の形のぎりぎりをなぞっているように思う」

  
命という、形として単純化できないものを、両腕に力をこめてなでたり、転がしたりしながら、まるめ直したような感じ。熊谷の猫はふわふわしてなくて、頭骨の硬さが見る者の手にごつごつと触れる。


 「まずは、この不敵な老婆の群像を見てほしい」と著者は切り出す。

 2005年に死去した画家貝原浩が描いた、26年前の チェルノブイリ原発事故の風下の村々の住んでいた「ベラルーシの婆さまたち」(2003年、貝原浩の仕事の会蔵)の「風貌のいかついこと。・・・猛々しく、頑固でギョロ眼をむいた、屈強な老婆が・・・ずらり十三人」

  
村々には立ち入り禁止の放射能マークが立つ。その村には「サマショーロ」と呼ばれる人々が暮らしている。行政の立ち退き指示に従わず戻ってきた「わがままな人」という意味だ。老婆たちの面構えには、その「サマショーロ」の真骨頂が現れている。


 著書の後半部で 「松本竣介」が登場したのには、ちょっとびっくりした。

 実は、横山操の項で書いた「美術にぶるっ!展」を見に東京まで出かけたのは、昨年秋に松江市で開催された「生誕100年 松本竣介」で見ることができなかった竣介の遺作「建物」(1948年、東京国立近代美術館蔵)をどうしても見たくなったためだった。 

 近代美術館のすごいコレクションに圧倒され、同行した友人Mに注意されなければ、この絵をもう少しで見落とすところだった。だが、この絵の前に立った人たちは皆、この絵が竣介の遺作であり、現在「生誕100年展」が巡回している東京・ 世田谷美術館では見られないことを話題にしていた。

 著者は、ふと両手で耳をふさぎ、また離してみて、竣介が13歳で聴力を失うまでは音の世界を知っていたことに気付く。

  
そうか。そうだったのか。そのようにして見ると、遺作となった『建物』は、なぜかそれまでの絵と違って空気の止まった感がない。それどころか何か音楽が湧き出ているような自然さで、白い建物は闇に咲き出た白薔薇みたいに美しい。
 ステンドグラスの丸い窓がついたこの建物は、大聖堂のようである。白い壁は柔らかで中にいる者を包み込むように優しい。外は夜の闇がたちこめて、建物の内部は明かりが灯って人影らしきものが透けて見える。賛美歌が漏れ出してきそうな気配である。
 どうしてこの絵には閉塞感がないのか。世界は今宵ふっと息を吹き返したようである。
 安息の安らぎのようなものがある。短い人生の最後に奇蹟みたいに松本竣介がこの美しい 夜の聖堂の絵に辿り着いたと思うと、私は嬉しい。


2013年1月 5日

読書日記「松本竣介 線と言葉」(コロナ・ブックス編集部編)「『生誕100年 松本竣介展』図録」(岩手県立美術館など編) 出雲紀行・上「島根県立美術館・松本竣介展」


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ネット検索をしていた昨秋、盛岡の 岩手県立美術館(盛岡市)で開かれた画家松本竣介の生誕100年展を知った。
 ちょうど東北ボランティア行を計画していた時期だったが、残念ながら盛岡の会期は終わり、松江市に巡回していた。

 本屋で買ってきた 「新潮日本美術文庫45 松本竣介」(日本アート・センター編)で、青を基調にした清逸でいて透明感のあふれた色調に引かれた。矢も楯もたまらず、友人Mらと昨年11月の連休に松江市に飛んだ。

 2日の夕方、空港から宿に向かうバスの窓から宍道湖に映える夕日のなかに浮かびあがった会場の島根県立美術館を見る僥倖に恵まれた。この 「夕日の見える美術館」は、湖岸の芝生から夕日を楽しんでもらうために閉館時間を「日没後30分」にするという、自治体としてはなかなかシャレたことをしている。

 翌日朝、松江大橋の北端にある宿から美術館までは、整備された宍道湖畔の遊歩道を歩いて20分弱。開館時間の少し前に会場に入ることができた。

 竣介は、旧盛岡中学1年の時に、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失ったことをきっかけの一つとして画家を志すようになったが、昭和4年中学を3年で中退し上京してしまう。

建物;クリックすると大きな写真になります このため、広い会場に展示された作品に、盛岡時代の作品は少ない。すぐに、透明感のある青い絵の具の上に、太い黒い線で形どられた 「建物」(1935年、福島県立美術館蔵)や「婦人蔵」(1936年、個人蔵)などが並んでいる。

 素人目にも明らかに、ルオーやモヂリアニの影響が見てとれる。

 竣介自身「モヂリアニが好きになったのも理由の一つは、量を端的に握んでゐる天下一品の線の秘密にあった」「モヂリアニの作品は、長いこと私を翻弄した。実際困った程だった」と記している。

 竣介は「線に生きた」画家だった。「線は僕の気質などだ、子供の時からのものだった」という言葉が「松本竣介 線と言葉」のなかにある。同時に「線は僕の メフストフェレス(悪魔)なのだが、気がつかずにゐる間僕は何も出来なかった」という言葉も引用されいる。

 岩手県立美術館の原田光館長は「『線描家』序説」(「松本竣介 線と言葉」より引用)という短文に、こう書いている。

 
烏口で引いた硬質の線、何度でもなぞり返して生まれる細線の束、太線の流動、子どもの絵にでてくるような奔放な線、それぞれの線の質を生かすため、青の加減の目くばりがさえたとき、線は街になり、街歩きする人々の姿へと転じる。竣介は無闇な線描家ではない。したたかな計算によって線を生かす工夫に余念がない。デッサンを繰り返してからでないと画家竣介の基本の確立であったろう。

白い建物;クリックすると大きな写真になります
 「線の画家」竣介は、同時に「青の画家」でもあった。

 作家堀江敏幸が自著「郊外へ」(白水Uブック刊)の表紙カバーに竣介の 「白い建物」(1941年、宮城県立美術館蔵)を選んだ理由について「線と言葉」の冒頭文に書いている。

 
空の青みは、中央を左右に横切る高架線のホームの上、画面の四分の一ほどにすぎず、残りを占めているのは、建物の壁だ。白、灰色、茶色、黒、灰緑色。粗塗りのようでいてそうではなく、面で捉えられているようでいて、そのじつ線のリズムがすべてを支えている。青はいたるところ沁みだして白を上書きし、灰に溶け込み、さらにまた藍鼠や桝花に変化する。鉄骨のいかにも重そうな建造 物なのに、海に浮かぷ空っぼの貨物船を思わせる相対的な軽みがあり、人の気配を消しつつ負の印象を与えない。この絵を措いている(私)は、幾度も表面を削られ、また絵の具を乗せられて出来あがった見えない多重露出像となって、青と同様、壁のいたるところに在しているようだ。
  画布ではない板の堅さと、透明な絵具を溶いて薄め、乾いている絵具の上に薄く塗って膜をつくるグラツシの技法が硬質な輝きをもたらしている反面、青を水槽のガラスにうっすらと張り付いた苔のように、鈍く、半透明にひろげていく。画家はこの膜に身を包んで画面のなかに姿を消し、耳を澄ますという行為さえ許されない静寂に身を潜めている。ここには、ある種の若さにしかない繊細さと脆さが、そして若さだけでは持ち得ない時間と沈黙の積み重ねがある。


 浅学非才の身。これほど1つの絵画に惚れ込み、入り込み、表現した文章に会った経験がない。
 ただ、じっと透き通るような空の青に引きこまれ、白い壁の合間に浮かぶブルーに目をこらすしかなかった。

立てる像;クリックすると大きな写真になります 自画像;クリックすると大きな写真になります  竣介の作品なかで、最も迫力があり、名が知れているのは、 「立てる像」(1942年、神奈川県立近代美術館蔵)竣介がよく描くさびれた街の風景のなかに、等身大にも見える大きな人物がスクッと立っている。人物は、 作品「顔(自画像)」(1940年、個人蔵)とそっくり。モデルは、竣介自身であることが分かる。

 神奈川県立近代美術館の水沢勉館長が「『生誕100年 松本竣介展』図録」に寄せた文によると、子どもたちにこの絵を見せると「画面の中から帰ってきたかの様子で戦争が描いてあるね』」と答えたという。

 廃虚の仁王立ちになっている竣介は、耳が聞こえないために兵役を免れている不安と虚無感を浮かべつつ、戦争に反対する不退転の決意を作品にしたように見える。

五人;クリックすると大きな写真になります  作品「五人」(1943年、個人蔵)からも「家族と共に生き残ってみせる。負けないぞ」という叫びが聞こえてくる。縦1・6メートル、横1.3メートルの大作だ。

 竣介「反戦の画家」とも言われる。

 日中戦争が始まった翌年。美術雑誌「みづゑ」新年号に掲載された「国防国家と美術」とい座談会で、陸軍省の将校らが「大事なのは国家であって文化は国家の産物にすぎない。だから総力戦に備えて絵描きも国策に協力すべきだ」と発言したのに対し、竣介は猛然と反論に出たことがある。

 4月号に掲載された「生きてゐる画家」は、いささか分かりにくい長文のものだが、冒頭だけをみても、時局に逆らう決断とした言葉が満ちている。

 
沈黙の賢さといふことを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思ふ。たとへ、美学の著書などを読んでゐるよりも、世界地図を前に日々の政治的変転を按じてゐるはうに遥か身近さを想ふ私であつても、私は一介の青年画家でしかない。美といふ一つの綜合点の発見に生涯を託してゐるものである私は、政治の実際の衝にあつて、この国家の現実に、耳目、手足となつて活躍してゐる先達から見れば、国家の政治的現状を知らぬこと愚昧を極めた弱少な蒼生に過ぎないのである。そのやうな私が、現実の推進力となつてゐる方達の言説に嘴(くちばし)をはさむといふことは甚だしい借越であるかも知れない。だが、座談会『国防国家と美術』の諸説の中から私は知らんとする何ものも得られなかつたことを甚だ残念に思ふものである。今、沈黙することは賢い、けれど今たゞ沈黙することが凡てに於て正しいのではないと信じる。


 出雲の出かける直前に、図書館から借りることができた「 舟越保武随筆集 巨岩と花びら ほか」(求龍堂刊)を開いて、アッと思った、舟越保武はなんと、旧岩手中学の同級生で、上京してからも絵画と彫刻とジャンルは違っても互いに励まし合ってきた仲だったのだ。

 この随筆集に「松本竣介の死に寄せて」(岩手新報 1948年8月14日号)が収録されている。

  
水晶のような男だった
 透明な結晶体のような男だった
 適確な中心をえて円満であり
 しかもその稜ほ十分に切れる鋭さをそなえでいた
 構いなく冴えた画家だった
 美についで底の底まで掘りさげて語り合える
 これは得難い友であった
 言葉少なに意味深く、切るように話しの出来る友であった
 自らの仕事を鋭く解剖し、絶えず我が身を鞭うって、精励する真の作家であった
 その竣介が
 突然死んでしまった
 竣介の絵の前で、幾多の既成作家、浸心の大家たちが、冷汗をかいて反省したことであろう
 美術界はかけがえのない作家を失った
 美術家の真の生き方を、純粋な声で絶叫しつづけた
 竣介は
 今は骸になってしまった
 水族館のように静かな青い光のアトリエには
 飽くことのない探究の記録、数々の素描油絵の
 習作が輝いていた
 心ある画家、文芸家たちにほんとうに愛されていた竣介が、なんということだ
 死んでしまうとは
 「アトハキミガヤレ」
 と死んだ竣介はいうにちがいない
 イヤだ、
 も一度生きかえって、あの橋の絵を描いてくれ
 君ののこした子供の絵を仕上げてくれ
 竣介、僕は君に初めて怒鳴りつける
 なぜ断りなしに死んだのだ


 どうしても見たいと思っていた1枚の絵があった。

 竣介の絶筆となった「建物」(1948年、東京国立近代美術館蔵)だ。

 画集を見ただけでも、不思議な感覚に抱かれる絵だ。竣介の「青」をおおうように白と茶色ではみ出すように描かれているのは、教会だろうか。その上に描かれた竣介の細い「線」太い「線」・・・。まるで2枚の絵を重ねたように、荘厳さと立体感にあふれた絵だ。

 島根県立美術館を歩きまわった数時間、この絵を見つけることはできなかった。出口近くで係の人に聞いたら、近くで鑑賞していた女性が「その絵、この展覧会に来ていないのです。私も、見たかったのですが」と、声をかけてくれた。

 この絵は、現在世田谷美術館に巡回中の「生誕100年 松本竣介展」にも展示されておらず、所蔵している東京国立近代美術館の「60周年記念特別展 美術にぶるっ!」で見れる、という。

 会期末の14日直前に東京に行く用事がある。のぞくことができればと思う。

 ▽参考にした本
 ・「求道の画家 松本竣介」(宇佐美 承著、中公新書)
 ・「青い絵具の匂い 松本竣介と私」(中野淳著、中公文庫)
 ・「アヴァンギャルドの戦争体験―松本竣介、滝口修造そして画学生たち」(小沢節子著、青木書店刊)

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