検索結果: Masablog

このブログを検索

大文字小文字を区別する 正規表現

Masablogで“踏絵”が含まれるブログ記事

2017年2月28日

映画鑑賞記「沈黙―サイレンスー」(パラマウント映画、KAKOKAWA配給、マーティン・スコセッシ監督)、読書日記「沈黙」(遠藤周作著、新潮文庫)


沈黙 (1966年)
沈黙 (1966年)
posted with amazlet at 17.02.28
遠藤 周作
新潮社
売り上げランキング: 333,029


 自宅の本棚で、遠藤周作の単行本「沈黙」を見つけた。なんと昭和41年、社会人になって2年目に初刊本を買っている。表装も現在、56刷を重ねている文庫本のものとは異なる。10年ほど前に多くの所蔵雑本と本棚を処分、寄贈したが、この本だけはなぜか残しておいたようだ。

 アメリカ映画の巨匠、マーティン・スコセッシ監督が、この作品を原作に28年かけて、映画 「沈黙―サイレンスー」を完成させたことを知り、日本封切の日に見に行った。

 隠れキリシタンが捕まって拷問を受けるシーンは、原作記の記述とほぼ同じだった。今年のアカデミー・撮影賞の受賞は逃したが、映像としての迫力はさすがだった。

 水磔(すいたく)という刑があった。

水責め.jpg

 海中に立てた木柱に信者たちを縛り付け、満潮になると顔まで漬かる海水で「囚人は漸次に疲憊(ひはい)し、約1週間ほどすると悉く悶死してしまいます。


 熱湯をかける拷問もあった。裸にされて両手両足を縄でくくられ、杓子で熱湯をかけられた。それも、杓子の底にいくつもの穴を開け、苦痛が長引くようにした。

 棄教しようとしないポルトガル・イエズス会司祭2人の前に、どうしても"転ぶ"道を選ぼうとしない男女数人が筵巻きにされて小舟の上から、海に投げ込まれる。司祭の1人、 フランシス・ガルペは役人の手を振り切って海に飛び込み、同じように海中に沈む。

yjimage.jpg
フランシス・ガルペ  

1360b1f6f322269499cec4f83bf7458b-660x276.jpg

 牢に閉じ込められた司祭、セバスチャン・ロドリゴは、夜中に囚人たちが出すいびきのような耐えがたい声を聞いて寝られない。役人は「あれは、囚人たちのいびきではない」と、嘲るように言う。

 牢の前に掘られた穴に汚物が詰められ、囚人たちは逆さ吊りにされる。そのままでは、すぐに死んでしまうので、耳の後ろに小さな傷をつくり、そこから息が漏れていたのだ。

1bc295d4fc6ac9fad5aab49c3e417f40.jpg
セバスチャン・ロドリゴ

 ロドリゴの上司だった クリストファン・フェレイラは、この穴釣りの刑の耐えられず、棄教した。

 「日本のキリシタンがあそこまで拷問に絶えたのは、信仰のためだけだっただろうか」。一緒に映画を見た友人Mが言った。

   その答えが、原作にあった。

 
 ロドリゴが、イエズス会本部に送った書簡。
 「牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中ははじめてその足枷を棄てる一筋の路を我々の教えに見つけたのです」


   
 隠れキリシタンの女が、ロドリゴに話しかける。
 「 パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると(女に洗礼を授けた)石田さまは常々、申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓(うえ)も病の心配もなか。苦役もなか。もう働くだけ働かされて、わしら」彼女は溜息をついた。「ほんと、この世は苦患(くげん)ばかりじゃけえ。パライソにはそげんものはなかとですね。 パードレ


 映画の封切前に、スコセッシ監督はNHKのインタビューに「この映画には、いくつかの"沈黙"場面がある」と答えていた。

 通辞(通訳の役人)から「あなたが転ばず、キリストの踏絵をふんで棄教しない限り、キリシタン5人の穴吊りの形は続く」と、ロドリゴは言われる。

 Exaudi nos,・・・Sanctum qui custodiat・・・
 (ラテン語)の祈りを次から次へと唱え、気をまぎらわそうしたが、しかし祈りは心を鎮めはしない。主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼は呟き・・・。


   
 その時、じっと自分に注目している基督の顔を感じた。碧い、澄んだ眼がいたわるように、こちらを見つめ、その顔は静かだが、自信にみち溢れている顔だった。「主よ、あなたは我々をこれ以上、投っておかれないでしょうね」と司祭はその顔にむかって囁いた。すると、「私はお前たちを見棄てはせぬ」その答えを耳にしたような気がした。


   信徒たちへの拷問に耐え切れず、ロドリゴは、ついに転び、踏絵を踏む。

 
 多くの日本人が足をかけたため、銅板をかこんだ板には黒ずんだ親指の痕が残っていた。そしてその顔もあまり踏まれたために凹み摩擦していた。凹んだその顔は辛そうに司祭を見あげていた。辛そうに自分を見あげ、その眼はが訴えていた。(踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)


 ロドリゴは棄教後、死刑になった岡田三右衛門という男の名前とその妻子を与えられ、江戸の切支丹屋敷に住んだ。

 三右衛門が64歳で死去した時。死に装束を着て棺桶に入れられた死体の胸元に、涙ひとつ見せない日本人女房は、懐紙に巻いた手刀を三右衛門の胸元に差し込んだ。同時に、なにかを置いた。

 カメラがアップする。柔らかい光に包まれて、ロドリゴがずっと手元から離さなかった藁で作った十字架が、死体の足元に浮かび上がった。

 スコセッシ監督が描く映像美あふれたラストシーンである。

 この場面は、原作にはない。三右衛門を監視していた切支丹屋敷役人の日記がたんたんと綴られて終わっている。

2016年4月23日

読書日記「イエス伝」(若松英輔著、中央公論新社刊)



イエス伝
イエス伝
posted with amazlet at 16.04.23
若松 英輔
中央公論新社
売り上げランキング: 86,208


 本の冒頭近くに出てくる著者の指摘に、エッと思った。

 「奇妙なことに、イエスの誕生を物語る福音書のどこを探しても、『馬小屋』に相当する文字は見当たらない」

 「イエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれた」。それは、キリスト信者なら子供でも知っている常識だろう。

 所属していたカトリック芦屋教会でも、クリスマス前になると、祭壇の脇に小さな馬小屋の模型と聖母子の塑像を故浜崎伝神父が置いていた。そして、前の芦屋川から採ってきた草やコケで馬小屋の周りを飾る手伝いをさせられたものだ。

 いや、今でも世界中の教会や家庭で同じような馬小屋の模型が作られ、クリスマスの準備をしている。

 しかし著書は20世紀のアメリカ人神学者であるケネス・E・ベイリーの 「中東文化の目で見たイエス」の一節を紹介、「イエスが中東の人であることを(世界の人は)忘れている」と強調する。

 「西欧的精神の持主にとって、"飼い葉桶"という語は"馬屋"や"納屋"という語を連想させる。しかし、伝統的な中東の村ではそうではない」

 聖書の記述( ルカ伝2章4~7節)によれば、イエスの父 ヨセフは、ダビデ王の血を引く人だった。「客人に対して、ゆえなき無礼な行いをするのは不名誉なことこの上ない」中東人にとって、王族につながる旅人であるヨセフ、 マリア夫婦は歓迎さるべき客人だった。

 しかし、一行が訪ねた家の客間には先客がおり、家族が暮らす居間に通された。

 家畜を大切にする当時の中東の村では、居間の端に複数の飼葉桶が床石を掘って造られていた。

 「出産に際して、男たちは部屋から出され、女たちがマリアに寄り添う。マリアは庶民の家の居間で、彼女たちに見守られ、歓待されながらイエスを産んだ」。そして、聖書にあるとおり居間の「飼い葉桶に寝かされた」

 ベツレヘムに着いたヨセフ一行がやっと見つけられたのは、貧しい馬小屋。そこで生まれたイエスを祝ったのは、貧しい羊飼いたち。
 我々が、長年信じてきた物語は、西欧文明が作った虚構だったのだ。

 中東に住む聖書学者たちは、この事実を以前から理解していた。「しかし、西欧のキリスト教神学界が、長く中東文化圏の声を無視してきた」と、ベイリーは訴えている。

 だが、著者は「ベイリーが指摘したいのは、誤りの有無ではなく、新たなる聖書解釈の可能性である」という。

 
幼子イエスは、羊飼いのような貧しく身分の低い人々だけでなく、ヨセフらを迎え入れた普通の庶民や富裕な人々、「王」への貢物を持参した異教の預言者たちのためにも世に下ったのだ。
 「イエスは、救われない、孤独であると苦しむ人に寄り添うために生まれた」


 ベイリーは、イエス降誕を論ずる1文の最後を、こう締めくくっている、という。

 「確かにわれわれはわれわれのクリスマス劇を書き直さなければならない。しかし書き直されることによって、物語は安っぽくされるのではない。かえって豊かなものにされるのである」

 この本には、以前から気になっていたいくつかのことが記述されている。

 例えば、イエスと関わる女性たちのことだ。

 カトリック教会には、イエスが捕えられ、十字架につけられるまでの14の行程について書かれた 「十字架の道行き」という祈りがある。どこの教会でも、各場面を描いた木彫りや陶板の聖画が両側の壁に掛けられており、信者はその聖画を順に回ってイエスの受難を思って祈るのだ。

 イエスは、十字架を背負わされて処刑場に向かう途中、何度も倒れる。それを見て、 ヴェロニカという女性が駆け寄り、汗を拭いてもらおうと自分のベールを差し出す場面がある。

 
死刑の宣告を受けたイエスの近くに寄ることは命を賭けた行いだった。男の弟子たちにはそれが出来なかった。「十字架の道行』では、イエスの遺体を引き取るまで、男の弟子たちの姿は描かれない。道中、イエスに近づいたのは女性の弟子ばかりである。


 
イエスの時代、女性が虐げられることは少なくなかった。だが、イエスはその文化的常識も覆したのである。


 十字架で処刑される場に居合わせたのも、女性の弟子たちだけだった。

 共観福音書マタイ伝マルコ伝、ルカ伝)では、(女性たちは)「遠くに立ち」十字架上の見守っていたと記されている。

ヨハネ伝の記述はなまなましい。女性たちは「十字架の傍らに」たたずんでいたと書かれている。女性たちとはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。・・・
 天使たちのよって、イエスの復活を最初に伝えられたのもマグダラのマリアを含む三人の女性たちだった。


 イエスが誕生する前にも、女性を重視する記述が聖書に書かれている。

 身籠っていたマリアは、のちにイエスに洗礼を授けることになる ヨハネの母 エリザベトに会いにいく。
 エリザベトは、 聖霊の働きでマリアの子が救世主であることを知り、こう語りかける。

 「あなたは女の中で祝福された祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」(ルカ伝1章42)

 
この一節こそ・・・"人間の口"を通して、もっとも早い時期にイエスが「主」すなわち救世主であることが告げられた場面なのである。  ルカ伝は・・・圧倒的な男性優位の当時の社会で、女性・・・に大きな役割があることを示そうとする。このことにもまた、今日再度顧みるべき問題がある。


ペトロを中心に、男性重視の組織を形成してきた 原始キリスト教会は、あえて女性の存在を軽視し、イエスに近いマグダラのマリアを「罪深い女(娼婦)」と呼ぶことさえいとわなかった。

 それが、第2バチカン公会議以降になって、やっと見直しが始まったらしい。
 その動きが、女性司祭の登場などにつながるかどうかは、あまりに"遠い道筋"だろうが・・・。

 若松英輔は、イエスを裏切った弟子・ユダのことに何回も言及する。

 そして「イエスはユダの裏切りを知りながら、なぜ回避しなかったのか」「ユダの裏切りは自由意思によるものなのか」など、以前から多くの神学者、哲学者が取り組んできた問題に答えようとする。

 聖書によれば、「最後の晩餐」の席上、イエスはユダに「しょうとしていることを、今すぐしなさい」と言い、ユダは逃げるように出ていく。

   その後のヨハネ伝の記述は「共観福音書などとは著しい違いがある」と、著者は言う。

 
さて、ユダがでていくと、イエスは仰せになった。
   「今こそ、人の子は栄光を受けた。
 神もまた人の子によって
  栄光をお受けになった
 神が人の子によって
 栄光をお受けになったのなら、
 神もご自身によって
 人の子に栄光をお与えになる。
 しかも、すぐにも栄光をお与えになる。(13章31~32)


 
「今こそ」との一語は、ユダの裏切りもまた、自身の生涯が完成するために避けて通ることができない出来事であることを示している。そのことによって、「神もまた」栄光を受けるとまで、イエスは語ったのだ。


 イエスは、神の意志による受難を実現するために、ユダに裏切りを促したということだろうか。しかし、そのことが「イエス、神が栄光を受ける」ことにつながるという聖書の言葉は、あまりに難解だ。

 ユダについての記述は、まだまだ続く。

 
福音書を読んでいると、イエスのコトバに真実の権威、威力、意味をどの弟子よりも敏感に感じ取っていたのがユダだったように思われてくる。・・・彼は、師のコトバを受容することに戦慄を伴う畏れと恐怖を感じている。・・・


   
弟子たちの中で自ら意図して裏切りを行ったのはユダだけだった。・・・もっとも美しく、また聖らかで、完全を体現している、愛する師を裏切ったユダは、イエスの実相にもっとも近づいた弟子だったのかもしれない。その分、ユダの痛みは深く、重い。


 
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


 「姦通の女」の記述は、ヨハネ伝8章に詳しい。

 
この記述を読んで、「女」に自分を重ね合わせない者は少ないだろう。今日の私たちも彼女に「石」を投げることはできない。この「女」はイエスを裏切ったユダを象徴している。


 
誤解を恐れずに言えば、ユダは私たちを含む「人間」という、罪から免れることはできない存在の象徴でもある。


 ここで著者は 遠藤周作の小説 『沈黙』の最後の場面を引用する。棄教を迫られて踏み絵を踏んだ司祭がイエスと対話する場面だ。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせといわれた。ユダはどうなるのですか」
 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」


遠藤は、ユダを人類の代表者として描いている。ユダの裏切りは、いつもイエスの赦しと共にある。イエスは、人の弱さを裁く前に寄り添う。


 このブログでも書いたのだが、 故井上洋治神父 「遺稿集『南無アッパ』の祈り」のなかで、同じようなことを強調しておられたことを思い出した。

 某日刊紙の書評子によると「今、もっとも注目を浴びていると言っていい批評家」である若松英輔は、故井上神父を師と仰いでいる、という。

2015年6月 4日

読書日記「井上洋治著作集5 遺稿集『南無アッバ』の祈り」(日本キリスト教団出版局)


遺稿集「南無アッバ」の祈り (井上洋治著作選集)
井上 洋治
日本キリスト教団出版局
売り上げランキング: 148,798


昨春亡くなった故・井上洋治神父 の著作集を先月初めに、朝日新聞書評欄で見つけた。なつかしく、かつ正直ちょっと驚いた、というのが実感だった。


 もう50年以上も前のこと。大学を出て新聞社に就職、信仰からも教会から遠ざかっていた時期に、この著者の本を買い込んだ記憶がある。

 数年前から、2度の引っ越しをした機会にあふれかえっていた所蔵本を本棚ごと整理したのだが、わずかに残した書棚に、著者の本がなんと5冊も残っていた。
 カトリックの信仰が身につかず、それなりに悩んでいた時期に出合った著書をなんとなく捨てがたかったのだろう。

 しかし、この「『南無アッバ』の祈り」は、私が知らなかった井上神父が築き上げた世界を描き出したものだった。

 「著作集5」は、遺稿集と銘打っており、様々な講演、講話、対談集などが収められている。晩年に書かれた自伝的エッセイ「漂流――「南無アッバまで」のなかに、神父が見たある夢が記録されている。

 
 ある夜。神父は、中年の長い髪の女性に「長い間、お待ちしていました」と、暗い森が広がる道へと案内される。そこへ、突然大聖堂が浮かび上がる。神父はそこへ女性を連れて行こうとするが、女性は「このなかにははいれないのです」と涙を流す。


 「カトリック教会は、信者同士で結婚した場合、離婚を認めません。ですから私のように、信者同士で結婚してから離婚し、いまいちど好きな人ができて再婚した場合、国はその結婚を認めてくれても、教会は認めてくれません。ですから日曜のミサにあずかっても、祭壇に近づいてパンを頂く友人たちの後ろ姿を哀しい思いでながめるだけ。決して祭壇に近づくことはできず、一番後ろの席で涙を流しているしか仕方がないのです。あの森のなかには、そういう私の仲間たちが淋しく集まってお祈りをしているのです」


   1950年、東京大学を卒業した井上青年は、親の反対を押し切ってフランスの カルメル会男子修道院に入会しようと、豪華船「マルセイエーズ号」に乗り込んだ。暗い4等船室で、留学に行く遠藤周作とたまたま同室になった。

 修道院で井上修道士は、20世紀の有名なフランスの神学者、ジャン・ダニエルーの「過去をひきずりすぎているキリスト教は、もう現代人のからだに合わなくなっている。現代人のからだに会うように・、キリスト教という洋服を仕立て直さなければならない」という言葉に出会う。

 「既存のキリスト教がからだにピタッとこなくて、着にくいな、不愉快だな・・・そう思いながらじたばたしてきた」井上青年は、この「服の仕立て直し」が自分に課せられて大きな課題だと気づいた。

 1957年に帰国した井上元修道士(カルメル会を退会した)は、カトリック東京教区の神学生として受け入れられる。

 帰国してびっくりしたのは「日本のカトリック教会がすっぽりと浸りこんでしまっている、呑気というか平和というか、少し理解に苦しむ、とにかく何の問題意識すら感じられないその雰囲気であった」

 その当時の先進的なフランスのカトリック教会は、保守的なバチカンとの間のきしみもあり、まさに疾風にあおられたような危機感にゆれていた。そこから帰国してきた私は、危機感の一片すら感じられない日本のカトリック教会やローマ以上にローマ式に思えた神学教育に、ただ唖然とするばかりであった。
 「ヨーロッパ・キリスト教という豪華な、しかしダブダブの着づらい服を仕立て直さなければ駄目だ」などということを口にしようものなら変人扱いされそうな雰囲気のなかで、再び窒息感にとらわれた私は、一縷の望みをいだいて、遠藤周作さんを訪ねた。


 「生涯の同志」となった遠藤周作が「洋服の仕立て直し」の第一作ともいえる小説 「沈黙」を出版したのは、1966年の春だった。

 「沈黙」は、切支丹迫害時代、日本に宣教にやってきた宣教師ロドリゴが捕らえられ、精神的に追いつめられた末、踏絵を踏んでイエスを裏切り棄教する、という物語。このロドリゴの裏切りを、遠藤さんはイエスの一番弟子のベトロの裏切りと重ね合わせて措いていく。師イエスを裏切ったベトロは、自分を赦してくださっているイエスのあたたかな慈母のような慈愛のまなざしにふれて、神は、「言うことをきく者には限りない祝福を。しかし言うことをきかない者には、三代、四代までの呪いと罰を」という「旧約聖書」「申命記」にいわれているような父性原理の強い神ではなく、もっと裏切り者をも包みこんでくださる母性原理の強い神であることに目覚めていく。そのベトロのようにロドリゴも、師イエスが告げておられた母性の原理が強く、やさしくあたたかな神に目覚めていくという点が、ここでもっとも大切なのである。


                                    ′
 しかし、この「沈黙」が与えた影響は、キリスト教世界において、全く私たちの予想を大きく裏切るものとなっていった。
 「沈黙」に対して轟々たる非難、批判の言葉が降りそそいだのである。そしてその批判は、もっぱら次の一点に集中していた。すなわち、イエスが、踏み絵を前にしたロドリゴにむかって、「踏むがいい」と言ったという点に対してである。踏み絵を踏んでしまって痛悔したロドリゴをイエスが赦すのは当然としても、ロドリゴに棄教という悪行をイエスがすすめたりするわけがない、というのである。


 ・・・たしかに倫理的分野での一般論からすれば、イエスが罪となる悪行をすすめたり、命令したりするはずはない。その通りであろう。しかし、「最後の晩餐」の席上でのイエスのベトロに向けられたまなざしは、「お前がつかまって処刑されるのをこわがっている気持ちは痛いほどよくわかるよ。裏切ってもいいよ。私はあなたをうらみはしない。ガリラヤで待っているよ」という、母のような、ひろいあたたかな赦しのまなざしであり、ベトロに対してもユダに対しても、裏切りの行為を決して力ずくで止めようとなどなさっておられなかったこともまた確かである。〃イエスは一体何を私たちに告げたかったのか、イエスはその十字架まで背負った苦難の生涯で、何を私たちに語りかけていたのか......。もっと、しっかり「新約聖書」に取りくんで、それを知らなければならない"。これが遠藤さんの「沈黙」が私に投げかけた強烈な課題であった。


 聖書の勉強を続けるうちに、井上神父は「心の琴線をぎゅっとつかまえてかきならす」言葉に出会う。エレミアスとい著名な聖書学者が残した「イエスの示した神はアッバと呼べる神なのだ」という指摘だった。

「エレミアスによれば、アッパというのは、イエスが日常弟子たちと話していたアラム語という言語において、赤ん坊が乳離れをしたむきに、抱かれた腕の中から父親に向けて最初に呼びかける言葉であり、親愛の情をもって父親を呼ぶ言葉として、大人も使うという。」

 神は「旧約聖書」の「申命記」が語るような、嵐と火の中でシナイ山頂に降臨し、言うことをきかない者には三代、四代に及ぶまでの厳罰をくわえる神ではなく、赤子を腕のなかに抱いて、じつと悲愛のまなざしで見守ってくださっている父親のような方なのだと、イエスが私たちに開示してくださったのだということを、エレミアスによってアッパは教えてくださった。


 先週の日曜日、たまたまこの本を持って東京に出かけた。四谷のイグナチオ教会で「三位一体の主日」ミサを受けた。第2朗読で使徒パウロの「神の霊によって導かれた者は皆、神の子なのです。・・・この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ人への手紙8章14-15)が読まれた。

 イエス・キリストはまた、十字架の貼り付けになる前夜、 ゲッセマネの園で「アッバ、父よ」(マルコ書14章36)と、神に祈っている。

 やがて井上神父は「アッバの導きで、法然上人に出会う」ことになる。

 (四十三歳で京都に下山するまで、ひとり比叡山の黒谷の青龍寺で道を求めておられた(法然)上人を苦しめた課題、すなわち、"金のある人は寺にお布施をすることによって、頭の良い人間はお経を学ぶことによって、意志の強い人は戒律を厳守することによって救われよう。しかし金もなく、頭も悪く、意志も弱い人はどうしたら救われるのだろうか。ただ涙するしかないのか〃、というのがまさに上人から私の心に烈しく問いつめられてきた思いだったのである。
 上人のように、独り、暗い杉木立の道を、人々の哀しみや痛みや涙をともにするため自らの叡山を降りるべきなのか。
 私は辛かった。苦しんだ。そして、この問いをさけようと、浴びるように酒をのんだ。


  そして、このブログの冒頭に書いた「夢」を見る。

  2001年、故井上神父は「法然 イエスの面影をしのばせる人(筑摩書房)という本を書き、法然上人の生涯をこんな言葉で締めくくった。

 あるいは富がなく、あるいは学問がなく、あるいは強い意志がなく、あるいは女として生まれたことによって、救いの道をとざされていた人たちにただ一筋の南無阿弥陀仏によって救いの道を開き、国家権力、朝廷権力にこびることもなく、ついに最後まで無位無冠、墨染の衣一枚で生きぬいたその生涯であった。


 社会の下積みの生活に喘ぎ、そのうえ救いへの遺さえ閉ざされていた人たちの哀しみや痛みをご自分の心にうつしとり、救いの門をその人たちに開かれたため、あの孤独と苦悩と屈辱の死をとげられた、師イエスの生涯の真骨頂を、アッパは法然上人の生涯を通して私に示してくださったのだといまも私は信じている。


  1986年、井上神父は当時の東京教区の白柳誠一大司教(後の枢機卿)から、 インカルチュレーション(文化内開花)担当司祭としての任命書を受けた。
 ただし①カトリックの小教区教会では活動しない②ミサで使う言葉、少なくとも「奉献文」決して変えない、という条件がついた。

  神父は、マンションの1室を借りて、 「風の家」という活動を始めた。

  風の家で挙げられるミサでは「南無アッバ」の祈りが奉げられる。「南無」は法然の「南無阿弥陀仏」から取った「全面的にすべてをおまかせします」という意味だという。

  しかし井上神父の死後、ミサのなかでこの「南無アッバ」の祈りが唱えられることはほとんどなくなったらしい。

  井上神父は、著書でこう書いている。

 神は「モーセ五書」が伝えるような、厳しい「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」(お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の『創世 神は 「モーセ五書」が伝えるような、厳しい 「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」 (お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」 のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の「創世記」に記されているように「生きとし生けるものはすべて人間によって支配される」というもの(『創世記』一章二八節)ではなく、パウロが『ローマの信徒への手紙』八草で言っているように、同じ「キリストのからだの部分としてともに苦しみともに祈る」存在なのだということである。


高齢化社会に向かうなかで、カトリック教会は井上神父が「夢」に見た厳しい戒律を変えようとしない。社会が認知に向かっている同性愛につても結論を出せずにいる。


神は、井上神父が語っているように、ユダの裏切りもペトロの3度の裏切に対しても、直接言わなくても「裏切ってもいいよ」と、やさしいまなざしを見せている。それが「新約聖書」の正しい読み方ではないのか。そんな確信を強くした。


2015年3月30日

聴講記「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県・朝日カルチャーセンター共催、2015年1月25、2月8日、22日)



長崎市内や五島列島の島々を世界遺産候補の教会群を友人Mと訪ね始めたのは7年前のこと。候補遺産のほぼすべてを回るのに3年かかった。

 その「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(地図)について、政府は今年1月、閣議決定を経て ユネスコに世界文化遺産追加の 推薦状を提出した。
 長崎県世界遺産登録推進課によると、ユネスコでの審議を経て来年9月にも正式に世界遺産登録が決まることが期待されているという。

nagasaki-1.JPG



 それを記念するためか、表題のようなセミナーが大阪のフェスティバルホールで開かれた。それを知ったMに誘われ、聴講に行ってみた。

 今回の推薦状リストは、2007年に制定された「暫定リスト」とは様変わりになっていた。

 以前の世界遺産候補地は教会を中心に29遺産あったものが、新しい推薦状では教会は 国宝と国の重文に指定されたものに絞られ、替りに国の 重要文化景観というあまり聞きなれない制度に指定されている長崎、熊本両県の集落景観などが追加され、候補地は計14か所になっている。

 当初、250年に及んだキリスト教伝来と弾圧、 信徒発見による復興を経て次々と建造された教会群を世界遺産として申請しようとしていたのだが、長い論議のすえに、隠れキリシタンが移住を繰り返してその信仰を守り、復興をはたしたという世界でも例を見ないキリスト教の歴史を物語る世界遺産として登録しようとしたようだ。

 第1日目の1月25日は、 岩崎義則・九州大学大学院准教授の 五島灘・角力灘海域を舞台とした十八~十九世紀における潜伏キリシタンの移住についてという論文による話しで始まった。

 長崎県・角力(すもう)灘を望む 長崎市外海(そとめ)地区 隠れ(潜伏)キリシタンが、弾圧を逃れて対岸の 平戸五島列島に移住して行ったというのは、これまで一般キリシタン歴史書の常識だった。

 岩崎准教授は、この常識にいささかの異議をとなえる。

 「潜伏キリシタンと分かれば、 邪宗として弾圧されたはず。移住していったのは浄土真宗檀徒でした」

 しかし、百姓の他藩移住が簡単でなかった江戸時代に、なぜこんな移住ができたのか。
 「実は、外海地区を支配していた大村藩と五島・福江藩との間で百姓移住協定が成立していたのです」

 大村藩が分家抑制策を展開していたことや浄土真宗が間引きを禁じていたこともあって、外海地区の村々は人口増大と貧困に悩んでいた。反対に離島の福江藩は財政逼迫で新しい田畑を開拓する働き手が必要だった。
 「私見だが、大村藩は捜査網を使って潜伏キリシタンと目された世帯を見つけ出し、浄土真宗檀徒として福江藩に送り出した。これによって、大村藩は人口問題と異宗問題の一極解決を図った」

 18世紀の末、協定では100人だった百姓の移住は、約3000人を数えた。岩崎准教授は「そのほとんどが潜伏キリシタンだった」とみる。

 五島に渡った人々は「五島へ五島へとみな行きたがる 五島やさしや土地までも」と謡った。
 しかし、与えられたのは、農耕が困難な辺境の地だった。百姓たちは「五島極楽来てみて地獄 二度と行くまい五島が島」と嘆いた。

 セミナー2日目の2月8日には、五島列島・新上五島町教育委員会文化財主査の高橋弘一さんは、この隠れキリシタンの厳しい生活が生み出し集落景観について語った。

 五島に移住してきた隠れキリシタンたちは、昔から海岸沿いで漁業をしていた「地下(じげ)と呼ばれていた人々の土地には入植させてもらえなかった。
 「居付(いつき)」と呼ばれた隠れキリシタンは、しかたなく山の急斜面を切り拓き、段々畑を作り、防風石垣や林を築くなど独特の集落景観を形成していった。

 そんな痩せた土地で稲作はできない。彼らの生活を支えたのは、大村藩・外海(そとみ)から持ち込んだ甘藷栽培だった。甘藷を保存するために、家屋の床下に竪穴の「いもがま」を掘って生イモを蓄え、干し棚で乾燥させた 「かんころ」を作り、天井裏で保存した。

 国の重要文化景観に指定されている 「新五島町北魚目の文化的景観」は、まさしくそんな景観という。高橋さんは「文化景観とは、その地域の生活や生業により育まれた景観のこと」と話す。

 そして、明治6年にキリスト教禁教令が廃止されて以降、五島列島では次々にカトリックの教会が建設され、五島独自の文化景観が形成されていった。

 新上五島町には、狭い地域にかつては35、現在でも29のカトリック教会が点在している。

 3年かけて回った際にも、岬の両側に別の教会があり、船でしか行けない教会もあった。隠れキリシタンたちは、道もほとんどない地域にしか住めなかったのだ。

 段々畑の続く高い山の中腹に、立派な教会がそびえているのも不思議だった。

 案内してくれたカトリック教徒であるタクシー運転手・Kさんは「この道から上がカトリック地区、下の海沿いが昔からの住民」という。説Kさんが子供のころ、地元のお社の祭にも、カトリックの子供は参加できなかったという説明がなんとなく納得できた。

   実は、高橋さんは1級建築士。新上五島町に務めることになったのは、2007年に火事で全焼した江袋教会(同町江袋地区)を修復する調査・設計管理を請け負ったのがきっかけだった。高橋さんは、修復の調査をしていて不思議なことに気づいた。

 調査してみると、新装された 江袋教会の屋根と、外海地区にある創建時の 出津(しつ)教会の屋根の写真が、双子の教会のようにそっくりなのだ。
 それも、教会建築では非常に珍しい 「袴腰屋根」という方式を採用している。

 出津教会を設計したのは、外海地区の布教に貢献した パリ外国宣教会 ド・ロ神父だが、高橋さんは「江袋教会の設計には、ド・ロ神父が深くかかわっていたにちがいない。キリシタン移住によって、外海と上五島は、集落の文化景観やイモ文化だけでなく、教会建設でも強いつながりを保ってきたのだ」と話す。

 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の 中園成生さんが、平戸島の北西にある 生月島で、現在でも 隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。

 明治6年にキリスト禁教令が廃止されてからは、隠れキリシタンの人々は順次、カトリックに"改宗"していった。
 生月島でも、20世帯がカトリックに戻り、カトリックの教会もあるが、500世帯は昔ながらの信仰を守り続けている。

 その地域では、数十軒単位の「垣内」「津元」や数軒単位の「小組」など大中小の信仰組織が堅持されており、お掛け絵(掛軸型の聖画に似た絵像)、金仏様(メダイなど)、お水瓶(聖水を入れる瓶)などのご神体を信仰している。

 「ご誕生御」(クリスマス)」「上がり様(クリスマス)」などの年中行事も変わらず続けられており、祈りの「唄オラショ」は、16世紀にキリシタンが唱えていた文句とほとんど同じ、というのも驚きだ。

 女性人気指揮者の西本智美が、このオラショを甦らせ、バチカンで演奏の指揮をしたテレビ番組を見た記憶がある。彼女の曾祖母は、生月島出身だという。

 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』」が従来の考えだった。

 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。

 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。

 生月島では、なぜここまで隠れキリシタンの信仰が継続できたのだろうか。

 中園さんは①この島は捕鯨で培われた強い経済力で、信仰組織を維持できた②キリシタンへの迫害はあったが、平戸藩の弾圧は大村藩ほど厳しくなかった、ことを挙げている。この島では、踏絵の資料も見つかっていないらしい。

 最後に、少し整理しておきたい。

 世界遺産候補が、最初の29から14に絞られていく過程で、堂崎大曾宝亀などの教会や 日本26聖人記念碑などは国に重文でなかったために、国の重文だった 青砂ケ浦教会は「周辺に駐車場ができ、保有管理が不備」であることを理由に、候補から外れた。

 しかし、これらの教会なども3年間の旅で訪ねたがいずれもすばらしい建築物だった。

 そこで、長崎県では候補から外れた遺産を別途「長崎歴史文化遺産群」として、保存、継承していく方針らしい。

 これらの内容は、長崎県のウエブサイト 「おらしょ」の「資産」をクリックすると、見ることができる。