小諸城址懐古園と真田の上田城跡 (2) 上田城跡公園 4月9日
NIHK大河ドラマ「真田丸」が面白い。日曜日にはこれを見るのを楽しみにしている。ちょうど先週だったか、徳川の軍勢が上田城に攻め込んでくるところが放映されていた。これからその上田城跡へ行く。
上田城は1583年(天正11年)上杉に対する徳川の最前線基地として、徳川家康の命で築城された。上田城は、千曲川の分流である尼が淵に面して建てられ、高い防御力を誇り、德川の大軍を二度も退けた。第一次上田合戦ではわずか2千人足らずで、徳川軍7千人を退けた。続く第二次上田合戦でも、徳川軍3万8千に対し、2千5百人ほどの軍で上田城を守り抜いたという。
上田城跡の駐車場に着いたのは午後2時だった。桜は満開、加えて今日は土曜日で、青空が広がる暖かい日とあって凄い人出だ。駐車場わきのイベント会場からは、賑やかな楽曲が聞こえてくる。
ここで、懐古園と同じように、2人のガイドさんが紹介された。一行は2組に分けられ、我々は小林さんというガイドさんにご案内いただくことになった。あとで、今回のバスツアーのツアコンさんに聞いたところ、TV番組にも出演した人気のガイドさんだそうだ。
上田城の南側に位置する尼が淵を廻って遊歩道になっている堀跡を歩く。二の丸橋に上がり、東虎口櫓門から本丸跡へ入った。本丸を囲むようにめぐらされた堀はソメイヨシノが満開だった。
鬼門の北東の位置にある本丸土塁の隅おとしまで約1時間、ガイドさんが説明してくれて、そこで解散となった。東虎口櫓門を出ると、右手の広場に「信州上田真田丸大河ドラマ館」が設けられ、多くの人で賑わっていたが、そこには寄らず、イベント会場で生ビールを一杯飲んで、駐車場に戻り、4時少し前に新宿に向け帰路に着いた。途中は渋滞もなく、順調だった。
Wikipediaによると、真田昌幸(大河ドラマ「真田丸」では草刈正夫が演ずる)が属した西軍が関ヶ原の戦いで敗れ、昌幸が九度山に配流となると、1601年に上田城は徳川軍に破却され、堀も埋められた。父・昌幸と弟・信繁(幸村)と袂を分かち、東軍についた昌幸の長男の信之(同じく大泉洋)は昌幸の旧領(上田領)を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構えた。真田信之は徳川氏の幕府に対し、元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封された。
そして上田城には小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却ののちに近世城郭として新たに築城された。本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらを繋ぐ塀が普請された。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。二の丸にも櫓や櫓門を再建するため、櫓台なども構築されたが、寛永5年(1628年)4月20日仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末を迎えたとなっている。
1600年の関ヶ原の戦いで敗れた信繁=幸村(同じく堺雅人)は父・昌幸とともに幽閉の身となった。父・昌幸は慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死した。享年65歳あるいは67歳とも言われる。
真田丸とは、1614年、徳川家康が大阪城を攻めた「大坂冬の陣」の際、真田信繁=幸村が大阪城の平野口に築いた出城の名称だった。しかし数度に渡る突撃戦により部隊は消耗し、兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られたと伝えられる。享年49歳だったそうだ。
逸話として、家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通したとされている。
30.尼が淵から見る東虎口南櫓 駐車場の前のイベント会場になっている芝生広場の向こうは、城の南側にあたり、当時は千曲川分流が流れ、穏やかで深みのある流れが天然の堀となっていたという。そこは尼が淵と称したことから上田城は尼が淵城と呼ばれていたという説がある。見えているのは、東虎口の南櫓だ。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f10 1/400秒 31mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
31.イベント広場の模擬店 模擬店が並び、みんな楽しそうだ。尼が淵の向こう側の左奥に見えるのは西櫓。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f11 1/500秒 18mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
32.堀跡の散策路 堀跡の散策路を歩く。観光客が多く、ガイドさんから左側通行を言われる。向こうに見えるのは、今はコンクリート造りの二の丸橋跡だ。ここはなかなか風情のある道である。かってはこの堀跡を「真田そひえ線」という鉄道が走っていたそうだ。昭和47年に廃止となり、その後ケヤキ並木が完成したという。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f6.3 1/640秒 56mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
33.堀跡の散策路 二の丸橋跡の向こう側 ガイドさんに引率されて、二の丸橋の先を右へ上って、ちょっと戻って二の丸橋を渡って、二の丸跡へ入ったが、その前に二の丸橋跡の先に続く散策路を眺めると、そこには観光客の姿はなく、落ち着いた風景が見られた。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f8 1/250秒 34mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
34.二の丸橋 二の丸橋の上に上がった。この橋の下は堀跡だが、その土手に咲く桜も満開だ。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f7.1 1/250秒 32mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
35.二の丸橋の上から堀跡の散策路を見下ろす 観光客はこの先の階段を右に登って、少し戻って、今、私たちがいる二の丸橋を渡る。この二の丸橋が上田城跡公園のいわば正面入り口になる。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f9 1/320秒 18mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
36.観光ガイドさん 二の丸跡へ入ったところにある「上田城跡公園案合図」の前で、私たちのグループを案内してくれている観光ガイドさんの説明があった。とても解りやすく、質問にも丁寧に応じてくれる。お名前は小林みつ子さんという。上田城紹介のTV番組でも案内役をされたそうだ。人気ガイドさんとのことで、敢えてお名前を記させていただく。天正11年(1583年)真田昌幸により築城された上田城は大河ドラマ「真田丸」の舞台である。現在は公園として整備され約1000本の桜が咲き誇り、夜にはライトアップされた桜が楽しめるそうだ。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f10 1/400秒 18mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
37.シダレグワ マグワの園芸品種で枝垂れの独特な樹形を楽しむという。山桑(ヤマグワ)の一種で、養蚕用として蚕の餌になるそうだ。桑の実(マルベリー)は黒っぽい紫あるいは赤で、木イチゴを細長くしたような形。甘酸っぱくて、美味という。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f10 1/400秒 18mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
38.北櫓 堀の桜の向こうに北櫓が見える。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f9 1/320秒 18mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
39.ソメイヨシノとシジュウカラ 堀のソメイヨシノの花にシジュウカラが来た。精いっぱい200mmに伸ばして撮る。少しトリミングした。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f5.6 1/1000秒 200mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
40.南櫓 北櫓の向こう側に東虎口櫓門があり、その向こうにソメイヨシノの間から南櫓がが見える。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f10 1/400秒 31mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
41.まじかに見る北櫓 東虎口櫓門に近づき、北櫓を見上げる。南櫓と北櫓は昭和24年に移築復元された。南櫓と北櫓をつなぐ櫓門が復元されたのは平成6年だそうだ。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f9 1/320秒 29mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
42.東虎口櫓門 南櫓と北櫓は昭和24年に移築されたというが、いったいどこから移築されてて来たのだろうか。1874年(明治7年) 廃藩置県により廃城となった上田城の土地、建物が民間へ払い下げられ、本丸に7棟あった櫓は、一つ(現・西櫓)を残して解体、売却された。このうち2棟は上田市常磐城(新地)にあった遊郭に6円で払い下げられ、一つの建物に連結されて金秋楼と万豊楼として使用されていたという。櫓門は平成9年に復元新築されたものだ。櫓門は発掘調査で柱の基礎の位置を調べ、古い写真に写っている解体前の姿から建物の寸法などを割り出し、復元することができたという。その解体前の櫓門の古写真が撮影されたのは明治10年(1878)頃で、櫓門が解体されたのは明治12年頃ではないかと考えられているそうだ。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f10 1/400秒 29mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
43.東虎口櫓門と枝垂桜 櫓門の前にはシダレザクラが咲いていた。右手が南櫓だ。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f7.1 1/800秒 65mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
44.真田石 南櫓の石垣に埋め込まれた真田石。天正11年(1583)、真田昌幸が上田城を築くとき、本丸の入口右手の石垣に高さ 約2.5m、横3mほどの大きな石を柱石として据えた。城内で最も大きな石である。元和8年(1622)、真田信之が松代へ移る時この石を父の形見に持って行こうと したが、数万人の人夫の力でも動かなかったという。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/250秒 18mm ISO280 ) 露出補正 なし | |
45.真田神社 東虎口櫓門を抜けて本丸跡に入ると、楼門の正面に真田神社があった。真田氏ほか歴代上田城主を祀る。長野県神社庁のHPによれば、神社の創立は明治21年10月15日だそうだ。真田氏は旧真田村より出て領主となるや善政を敷き、領民を大切にした。その徳を敬い慕い、その神霊を慰めようと有志が集まり真田神社の建設を図るべく、明治18年3月30日出願、翌19年に許可を得て県下はもとより真田氏に縁故の深い大阪などからも建設資金を仰ぎ工事を進めた。ところが建築中の明治20年4月の大火で類焼してしまったという。その後、明治21年10月15日本殿祝詞殿を再建、28年には拝殿が再建され社頭は荘厳をきわめた。しかし、その後は荒れるにまかせたまま放置されていたことをを嘆き大正8年に現在の場所に遷座されたそうだ。「落ちない」城として受験生に人気があるという。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/250秒 18mm ISO280 ) 露出補正 なし | |
46.本丸側から見た櫓門 振り返って櫓門を見る。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f10 1/400秒 22mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
47.真田神社参拝者の列 今回は列には並ばず、脇から拝して失礼してしまった。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f7.1 1/250秒 27mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
48.真田井戸 本丸唯一の井戸。直径2m、深さ16.5mに達する。この井戸には抜け穴があり、城北の太郎山の砦や上田藩主居館に通じていたという伝説があるそうだ。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/250秒 18mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
49.本丸西櫓から美ヶ原を望む 本丸跡の南西の角に西櫓がある。西櫓から北陸新幹線の線路と上田の街並みの向こうに美ヶ原が見えた。標高2034mの王ヶ頭の電波塔が見える。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f5.6 1/2000秒 200mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
50.ムクロジ 果皮は石鹸の代用として使われたことで知られる。また、果実の中の黒い種子が羽根つきの羽根の頭に使われるとガイドさんが説明してくれた。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f5.6 1/1600秒 200mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
51.本丸土塁の隅おとし ガイドさんは本丸土塁にみられる隅おとしまで案内してくれた。ここにも隅櫓の跡があり、その敷石が残っている。この写真では花の形状はわからないが、見たことにない白い花が咲いていた。ガイドさんに「なんという花ですか」と質問をしたら、ズミだと教えてくれた。リンゴに近縁な野生種だという。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f10 1/400秒 42mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
52.本丸跡東側から東虎口を眺める ガイドさんに駐車場へ戻る道を教えていただき、解散となった。そのまま桜がきれいに咲く堀に沿って東虎口櫓門に向かう。
Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels プログラムオートで撮影 (f4 1/1250秒 20mm ISO125) 露出補正 なし | |
53.堀の前の賑わい 二の丸跡の堀の前にも模擬店が沢山出ていて賑やかだ。「きんぎょすくい」なんていうのもある。
Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels プログラムオートで撮影 (f4 1/1250秒 9mm ISO125) 露出補正 なし | |
54.「真田そひえ線」の停車場跡 ガイドさんに教えていただいた通り、二の丸跡から右手に「信州上田真田丸大河ドラマ館」を見て、二の丸橋を渡って、下に降り、散策路に戻って、その二の丸橋の下を尼が淵の方へ歩く。この写真で右側に見える高くなったところは「真田そひえ線」のプラットフォームだったところ。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f8 1/250秒 20mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
55.尼が淵の土塁 ここは尼が淵の東端で、崖がむき出しになっている。ここは崩れたことはないそうだ。尼が淵の崖に見られる地層は三つだそうだ。一番上が火山が崩壊した土砂などが堆積した上田泥流層、二番目に火砕流に由来する粉塵が堆積、その下は川の作用で砂礫が堆積した染屋層となっているそうだ。二番目の層は一番やわらかくてもろいため大水のたびに、この層を中心に崖が崩れて櫓に被害が及ぶ心配があったそうだ。後の上田藩主・松平忠愛は享保18年(1733)から石垣を築き、崖を浸食から守ったとされる。尼ヶ淵側の石垣のほとんどは江戸時代中期の1732年(享保17年)に起きた「享保の洪水」後に築かれたもので、真田時代のものではないそうだ。おそらく真田時代はほぼすべてが段丘崖のままだったのだろうといわれている。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f6 1/320秒 42mm ISO200 ) 露出補正 なし | |
56.イベント広場は観光物産展の会場 着いたとき歩き始めたところへ戻ってきた。集合時間まで15分ほどある。少し喉が渇いた。生ビールとソーセージを買い求め、イベント会場のベンチに座ってのどを潤す。旨かった。
Nikon D5000 NIKKOR 18-200mm f3.5-5.6G プログラムオートで撮影 ( f7.1 1/800秒 95mm ISO200 ) 露出補正 なし |