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Atelierで“ワープロ”が含まれるブログ記事

2008年2月28日

隠居、今頃になってブログの禁則処理方法を発見

 恥ずかしながら、ブログのエントリーなどでかいた英単語が行末で分断されていたり、行頭に「。」がきていたりしてもスペースの関係で仕方ないのだと思いこんでいた。

 Word などのワープロソフトでは、この禁則処理は初期設定で組み込まれている(「ツール」→「オプション」→「文字体裁」)のは知っていたが、Movable Type のようなブログ HTML での禁則処理の方法を知らなかった。
 ほっておくのもぶさいくなので、ネットで「HTML 禁則処理」のような検索語で方法をサーチしてみると、CSS で設定できることが分かった。ブラウザーによっては、自動的に禁則処理をしているようだが、ブラウザーによって異なるらしい。IEではあまりうまく処理されていないらしい。

 早速、自分のサイトの CSS (もともとは、「小粋空間」さんのテンプレートを利用させてもらっている)に、左のような id 属性( word-break line-break )を設定すると禁則処理ができるようになった。word-break は、英単語を行末で分断しないプロパティで、IE のみで有効なようである。詳しくは、HTML クイックリファレンスにでている。値に、keep-all を指定すると全ての言語で単語の途中では改行せず、単語の切れ目で改行されることになっているが、この設定では形が崩れてしまうようだ。
 また、line-break は、行頭・行末の禁則処理で、これも IE に独自なプロパティのようだ。これも詳しくは、HTML クイックリファレンスの line-break のページにでている。この方は、 normal と strict とでは余り変化がないように思える。最近のブラウザーでは、それ自身が禁則処理を行っているようである。

 スタイルシートに設定前と設定後を比較すると、下のような結果になる。CSS を設定した方があきらかに読みやすい。こんなことがすぐ分かるのも、ネットのおかげである。
word-break.jpg

word-break_a.jpg
  

2008年2月13日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える⑤手紙

 今回は、「知的生産の技術」8章の「手紙」をネット時代では、どのように考えるかについてふれてみたい。
 梅棹さんは、「知的生産の技術」を発刊された1969年当時においても日本では手紙の形式が崩れていることやコミュニケーションは電話ですまし、手紙を書かなくなっていると指摘されている。確かに、ずっと前から郵便受に入るものは、印刷されたダイレクトメールか振り替え通知ばかりであり、友人からの手紙なんて滅多にない。こちらが筆無精で手紙を書くのは苦手であり、こちらから発信しないのだから無理もない。こまめに手紙をくれるひとには感服してしまう。それが、電子メール( eMail )が一般的になって激変した。

 eMail が一般的になったのは、Windows95 がブームとなった 1995 年頃であろう。この年、日本でのインターネット牽引者である 村井純さん が「インターネット(岩波新書)」を発刊されている。インターネットが庶民のものとなって、たかが、まだ12~3年しかならないのである。この12~3年の間に、少なくとも私にとってはコミュニケーションの世界が全く変わってしまった。eMail という形式を介して、頻繁に多くの方と eMail という手紙をやりとりするようになったのである。

 梅棹さんは、手紙を情報交換の知的な技術と定義しておられるが、手紙がeMail に置き換わった今のネット時代では人びとの間の情報交換は、飛躍的に増大していると思われる。ネット時代では、情報の交換はこのeMail 網だけではなくブログなどもっと大きな場が拡がっているが、この現象については、また別のエントリーで考えてみたい。

 知的な情報交換とは言えないが、今、郵便受けに入る手紙・はがきには、この歳になるとやたらに同窓会・OB会の案内が多くなる。この案内状をメールに代えれば、事務作業はあきらかに簡便となる。私も参加しているシニアばかりのプライベートなゴルフ・コンペへの参加資格は、メールアドレスを持っていることである。メール以外の案内は一切しない。幹事の負担は、物理的な手紙・はがきで案内することとは比べものにならないほど楽ちんである。楽天が提供するような無料のメーリング・リスト( ML ) サービスを利用すれば、もっと楽ちんである。

  eMail を発信するのは手紙を書くことに比べるとはるかに楽であり形式も自由であるが、顔を知らない外国人からの英語での eMail は、梅棹さんが指摘されている形式が今も守られているようだ。下の例は、UKのソフト会社から私宛の  eMail の一例である。
 
Dear Shuhei Nxxxxxxx

This is to let you know that xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx:

Please note xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx.
If this happens, please see http://www.xxxxxxxxxxxxxxxxxx.com/xxxxxxxxxxx for further instructions.

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
Ixxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

For further assistance please go to http://www.xxxxxxxxxxxxxxxxx.com/help.asp

Best wishes,

xxxxxxxxxxxxxxx.com
Our ref: xxxxxxxxxxxxxxxxxx


 手紙をワープロで作成するにあたっても、米国あたりでは形式が守られているのか、Miscrosoft の 文書作成ソフト日本語 Word にも、オートフォーマットという機能があり、文頭に「拝啓」と入力すると文末は「敬具」と自動的に表示されるような機能や月毎の時候の挨拶が用意されている。Word の元々は米国だから、そのようなテンプレートを用意するのは当然であっただろう。

 eMail も米国発であるから、Miscrosoft あたりが提唱するメールの形式は物理的な手紙のメールの形式が色濃く残っている。 eMail には eMail なりのエチケットみたいなものがある。これは「ネチケット(Netiquette)」という言葉になっている。
 先日、あるML仲間で eMail のやりとりが続いた。返信・返信で情報の交換をしているうちに、メールの件名( Subject )からはずれた情報の交換となった。ネチケットにうるさいシニアからお叱りがでたが、話題を変えるときは件名( Subject )を変えるのが望ましい。
 Google が無償で提供する WebメールGmail では、同じ件名で送受信したメールをスレッドとして整理してくれるから、件名を変えるのはまことに賢明なのである。話がそれるが、「2ちゃんねる」などで有名な「匿名掲示板」での日本語は乱れているが、件名と内容が異なる投稿をすると「スレ違い」などと言われる。また、話題が終了した掲示板は、「死にスレ」などという表現が使われたりする。若い人のやりとりにはついていけないので、遠慮しているが、スレ違いにならないようにしたいものだ。

 ネット時代になってでてきた巨大な情報交換の場の一つは、eMail を発端としたネット掲示板( BBS )である。例えば、私が愛用させてもらっている [K'sBookshelf] の「この花の名は?掲示板」に、名前の解らない花の写真を添えて掲示板にアップすると、たいていの場合 10 分ほどもたたないうちに誰かが教えてくれる。手持ちの花の図鑑やネットで調べても解らないときには重宝する。市井の一市民の知識が即座に引き出せるのである。eMail や BBS によって知識の増幅のスピードは、格段にスピードアップした。

 梅棹さんは、この手紙の章で、手紙のコピーとアドレス・カードの方法についてもふれておられるが、ネット時代では全く問題がない。
 eMail の送受信はファイルで残っているから、コピーの心配はない。心配は、前々回かいたように、デジタル・ファイルを消してしまうことである。
 私は、アドレスは、「筆まめ」というソフトで整理している。何かの会で住所録をエクセルかなにかの表形式で整理したものがあれば、テキスト形式で簡単に取り込める。このようなソフトのいいところは、年賀状などの宛名書きを全部自動的に印刷してくれることである。(年末の忙しい時間に、プリント・ゴッコで印刷し、悪筆の手書きで宛名を書いていたころが懐かしい。) また、年賀状をいただいた方、出した方の記録や喪中はがきをもらった人も記録できる。二重にだしたり、喪中の人へ出したりする失礼もなくなる。また、デジタル・ファイルであるから、検索は簡単にできる。
 ただ、eMail がかなり拡大しても、年賀はがきはなくならないだろう。年賀はがきは、ただ単なる手紙のやりとりとは違うのだ。

インターネット (岩波新書)
村井 純
岩波書店 (1995/12)
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おすすめ度の平均: 4.5
5 インターネットとは。
4 インターネットの価値を再評価できる
4 インターネットの価値を再評価できる


2008年2月 5日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える④「かく」

 「ネット時代の『知的生産の技術』を考える③」では、梅棹流読書法は、このネット時代ではどうなるかについて考えてみた。今回は、「知的生産の技術」第7章「ペンからタイプライター」について考えてみたい。

 梅棹さんは、この章にかなりのページ数を割いておられるが、要するに、日本語というやっかいな言語体系のなかで「かく」ことの効率化の話である。効率化を求めて、鉛筆→万年筆→ローマ字でのタイプライター→カナモジタイプライター→ひらがなタイプライターと発展させた話である。推定であるが、その変遷の期間は 20 年余りと思われる。

 「知的生産の技術」が出版されてから、10 年後の 1979 年に東芝のJW-10 というワードプロセッサが発売された。当時、私は新薬メーカーの経理部員として、新薬開発部門の生産性を見ていた。新薬の認可を受けるためには、トラック1台分くらいの書類を厚生省に提出しなければならなかった。(現在は、デジタル化した資料になっていると思う) この書類の手書きでの作成、印刷、校正、修正には薬剤師の資格を持った女性達を中心に多大な労力を要していた。
 JW-10の発売を知り、一も二もなく購入を勧めたことを覚えている。価格は、確か450万円くらいしたと思う。JW-10については、次のPDF文書に詳しくでているので参照してほしい。
日本語ワードプロセッサーの誕生とその歴史

 その後のワープロの進化は、皆さんご存知の通りである。1988年の11月に、梅棹さんの編集で、「私の知的生産の技術」という本が出版されている。この新書には、岩波新書創刊50年を記念した募集論文「私の知的生産の技術」の入選作12篇に、梅棹さんのエッセイが付いている。そのエッセイの中で、ワープロについて次のようにふれられている。
 『知的生産の技術』のなかでは、日本語の現在の表記法のままではタイプライターにのらないことをのべ、ひらがなタイプライターなど、その点を克服するたのくふうについてのべた。それがワープロの出現によって事情は一変したようである。(中略)
 とにかくワープロによって日本語は機械にのった。人びとは悪筆コンプレックスになやませれることもなく、むつかしい漢字にふりまわされることもなく、らくらくと文書をたたきだすようになった。この数年間におけるワープロの普及ぶりは、まったくおどろくばかりである。これもまオフィスばかりか、家庭のなかにまで着実に浸透しつつある。

 余談であるが、梅棹さんの文書を引用させていただいてパソコンから入力しているときに気がついたが、梅棹さんはできるだけ漢字を使わないようにされているのではないかと思う。はじめ、それはひらかなタイプライターを使っておられたせいと思っていたが、どうやらそうではないらしい。先の引用の続きに、このような文章がある。
 しかし、ワープロによって問題のすべてが解決したのではけっしてない。ワープロによって、事務革命は完成したわけではないのだ。近代文明語としての日本語の問題点は、単に機械化がむつかしいというばかりではなく、学習の困難さ、国際化への障害など、いくつも難点がある。ワープロの発達は問題を解決しないで、むしろ先送りしたともいえる。

 これに関して思い出すことがある。富士通のOASYSのワープロで親指シフトのキーボードが、一時流行したことである。(今も愛用されている方も多いようだが。)ワープロの日本語入力の主流は、QWERTYキーボードでローマ字入力だとおもう。機械式英文タイプライターのキー配列は、早く打ちすぎると機械の方が追いつかなくて故障してしまうことから, QWERTY配列が、de facto standard になってしまったようだ。私も、完全ではないが、QWERTYキーボードのブラインド・タッチを習熟してしまった。
残念ながら、IT の国際言語は英語である。ネット時代になって、日本語の国際化はますます困難である。

私の知的生産の技術
私の知的生産の技術
posted with amazlet on 08.02.05
梅棹 忠夫
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2008年1月23日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える③読書

 ネット時代の「知的生産の技術」を考える②では、ネット時代における発見の記録について考えてみた。今回は、ネット時代の読書について考えてみたい。

 読書は、このネット時代になっても、デジタル書籍みたいなものがあるものの、依然として重要な知識獲得手段である。梅棹さんは「知的生産の技術」の6章読書の中で、本の内容の正確な理解には、はじめから終わりまで読むことが必要であると説いており、そのようにして読書した本は、「よんだ」といい、一部分だけよんだ場合には、「みた」ということにしておられるらしい。「よんだ」本の記録には、京大型カードを使って、読書カードをつくっておられる。

 梅棹さんはまた、「読書においてだいじなのは、著書の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ」、と説かれ、そこで誘発されたことがらは、発見の記録として、京大型カードに残されるのである。誘発されることがらのレベルは雲泥の差ではあるが、私は「よんだ」本から得られた情報はブログにエントリーするようにしている。
 Amazon のアフリエートを利用してエントリーにリンクしておけば、出版社や価格などの情報まで付加された読書カードとなる。ブログはもともと日付順(投稿の何時何分までも)になっていたり、カテゴリーといった分類があったり、タグとよばれるキーワードを付ける機能があるから、記録しては理想的である。

 隠居生活に入ってから、「みた」本は多いが「よんだ」本は少なくなってしまった。少ないが、「よんだ」本の、例えば、マイク・モラスキーというミネソタ大学の教授が書いた「戦後日本のジャズ文化」という本を「よんだ」記録は、2006年12月2日のエントリーにあるとおりである。

 このような「知的生産の技術」のまねごとができるようになったのは、ブログでいろいろなことを記録しはじめてからである。私にとっては、ブログこそがそのような世界を開いてくれたのである。

 消費的読書(読書を楽しむだけ)は、たいてい本屋の店先にならんでいるのを見て衝動的に求める場合が多いが、生産的読書(知的生産のための読書)のための書籍は、このネット時代には Amazon のようなネットショップで検索するのが普通になってきた。Amazon へ検索にいく前に、Google などで得たい情報をサーチすることは、大抵の方がしていると思う。インターネットという巨大な百科事典は、ほんの数年前まではなかったのである。

 ただ、購入したいが、もう絶版になっている本もある。たとえば、「知的生産の技術」に出てくる「神々の復活」という本は絶版になっている。図書館の放出本がでたこともあったようだが、今は「復刊ドットコム」というサイトで復刊希望者の投票が集められている。(注:英語版なら、英国でペーパーバックで売られている。"The Forerunner. a Romance of Leonardo Da Vinci : Dmitri Merejkowski ;")
 Google では 「ブック図書館プロジェクト」を立ち上げている。これが実用に供されれば、図書館まで探しに行かなくても、抜粋ぐらい手に入る世界はそんなに遠くないかもしれない。

 このように、なんでもデジタル化してしまえば、保管も整理も検索も楽なのであるが、問題はうっかりすると蓄積した情報が全てなくなってしまうことである。このことについては、坂村健教授が、1月20日付の毎日新聞朝刊2面の「時代の嵐」というコラムに以下のように書いておられる。(梅棹さんは、自分で書くものには、できるだけ引用が少ない方が良いと説かれているのであるが。この記事は、前回に書いたように、スキャナーとOCRソフトで新聞記事をテキスト・デジタル化したものである。)
 デジタル化した記録は、しっかりとバックアップをとっておくことが、このネット時代には重要である。記憶デバイス・メディアの価格は恐ろしく安くなっている。クラッシック音楽LP100枚分をデジタル化し、MP3という音楽ファイルにして、iPod Classic 80GB(そのうちの20GBに) にいれて持ち歩いている友人がいる。2重3重にデータを持っていたって、たいしたことはないのである。

 
時代の風 デジタルデータよ永遠に 千の風になって
                                                     坂村健 東京大学教授

 家の古い8㍉ビデオカメラに、テープが入ったままずっと取り出せなくなっていた。
最近、メーカーに持っていきなんとか取り出してもらったが、故障については直そうにももう部品がないという。

 昔だったら子供の成長の記録を残すため、たいていの人はフィルムのカメラで写冥を撮っていた。 ところがふと気がつくと時代はデジタルカメラ。
 撮った瞬間に液晶画面で確認できるし、最新のものはそのままデータを無線LANでインターネットに送り、投稿サイトに公開できる機能まで持っているらしい。
 しかし、ふと気がつくと私の8㍉ビデオのように、以前子供を一生懸命撮った方式のカメラは世の中から姿を消している。

 そして規格が廃れると、再生機も売られなくなり、故障しても修理できなくなりという具合で、せっかく撮ったものが見られなくなってしまう。
 そこで重要なのは、記録のデジタル化だ。音声でも写真でも動画でもまずデジタル化することをお勧めする。デジタル化してしまえば、デジタルデータが保存できる媒体になら何にでも記録できる。デジタルデータが送れるネットワークなら何を通しても送れる。
 さらにデジタルデータはいくらコピーしても劣化しない。またその方式はコンピューターのプログラムで決まる。だからパソコンで再生できない規格のデータがあっても、ネットからそれを処理できるプログラムを取ってくればすぐ再生できたりする。

 これほど便利なデジタル化だが、データが壊れたときの「取り返しようのなさ」は最悪だ。アナログビデオならノイズがあっても画面が汚くなるだけで、何が映っているかぐらいはわかる。それに対して、デジタルの場合、ワンセグのテレビを見ていればわかるように、電波の受信状況があるレベルを下回ると急に画面が止まってしまう。

 デジタル記録といえども結局はDVDやハードディスクのように物理的な物質の上に記録されている。当然劣化するし、小さな媒体にたくさんの情報を入れている素材ほど、情報はほんの小さな違い―ミクロン単位の穴があるかないかとか、磁気の向きがどっちかどかぎで書き込まれているから、それはちょっとしたことで失われる。

 CDをはじめとするデジタルメディアは歴史も浅く、本当のところどれくらいの寿命があるかもわからない。CDよりDVDの方が弱いし、メディアの品質が悪ければあっという間に読めなくなるとも言われている。パソコンのハードディスクも永遠ではない。データを入れたままにしておくとある日突然恐ろしい音とともに壊れて、データがまったく取り出せなくなる。

 これをなんとかならないかと思う人は多いだろう。そこで、注目すべきは、デジタルデータがコピーしても品質が落ちないということだ。CDにしろDVDにしろハードディスクにしろ、定期的に新しいものにコピーしていけばいい。技術進歩により記憶容量の単価はどんどん安くなっている。常により広い家に引っ越せるようなもので、荷物を捨てる必要は無い。

 しかし、この方法の問題は定期的に手間と出費がかかること。ついついコピーを先延ばしにしていると、いつのまにかデータが失われてしまっていたりする。

 そこで、インターネットの時代、自分が記録したものをすべてインターネットのサイトにアップしてしまえばいいというアイデアが出てくる。そのサイトが存続してくれる限り、コピーを繰り返してデータを守るための手間は相手がやってくれる。しかもインターネットがあればどこからでも見られる。

 サイトと契約しなくても、最近流行の写真や動画投稿サイトを利用する手もある。他人に見られる可能性はあるが、本人が思っているほど他人のプライベートビデオは面白いものではない。問題になったファイル交換ソフトのウィニーなども「違法ファイルが消せないのが問題」というなら、いっそのこと保存したいファイルをウィニーに放流し、必要になったら呼び寄せるという利用法もある。他人に読まれたくないなら暗号化すればいい。
 逆に、自分を覚えていてほしいと強く願う孤独な人が死の直前に自作の詩集(やらなにやら)をウィニーに放流する、というせつない話もそのうち出てくるだろう。

 極端な話、インターネット開闢(かいびゃく)以来のサイトのデータをすべてコピーして蓄積していると噂されているNSA(米国国家安全保障局)に人類の文化の記録係の役割を担ってもらおうか。

 ワープロなどが広まり「オフィスのペーパレス化」などと言われた頃、紙の記録が電子化されてしまうので、下手すると電子時代の文明は後世から見たら何も文献が残っていないかもしれないと論じられた。私もつい最近まで、それが正しいと思っていた。しかし、デジタル時代の常識はどんどん変わる。巨大なネットワークの中に、人類のデータが増殖しながらさ千の風になって永遠に流れ続ける。はっきりいって残ってほしくないデータまで......そういう時代の入り口にわたしたちは来ているのである。