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2019年12月11日

日々逍遙「白浜・椿温泉」「神戸ゆかり美術館、千住博展」「大阪・国立国際美術館、ウイーンモダン展」「大津・比良山荘、浮御堂」「西宮・仁川広河原」「京都・真如寺、府立植物園」「神戸・須磨寺」

 
【2019年9月14-16日】
椿温泉から見る太平洋
 久しぶりに白浜の椿温泉へ。旅館や店舗がいくつも廃業してさびれているが、お湯が素晴らしい。白浜で寄った寿司屋の亭主は「椿の湯は、白浜よりずっといい」と言っていたが、まったりと肌に絡みつく。
 部屋からは太平洋が広がる。夜半に目が覚めたら、海上の光の道が輝く月へと続いていた。前夜は中秋の名月・のちの月、そして今夜は満月。

   海鳴りて光る海路や後の月   

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【2019年10月3日】
千住博「滝」の図
 神戸の六甲アイランドにあるゆかり美術館へ。神戸ファッション美術館というといつも閑散としていたが、その一角が神戸ゆかりの作家の作品を収集した美術館になっていた。
   千住博展は、高野山の金剛峯寺に奉納する襖絵の完成を記念して、全国各地で開催されている。白いキャンバスに胡粉の絵の具を流し込んだ「瀧図」もいいが、「雪肌麻紙」という和紙をくしゃくしゃにして描いた「断崖図」もなかなかの迫力だ。
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【2019年10月9日】
「ウイーンモダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展
大阪・中之島の国立国際美術館の「ウイーンモダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展。斜め向かいの関西電力本社で小判などの贈与を巡る社長の弁明会見が開かれた日で、テレビクルーが本社の外見を撮影していた。
  ウイーンにクリムト、シーレの作品を訪ねてもう10年になる。その時に出会った2人の作品のいくつかに再会できた。
 クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」だけは写真撮影が許されている。どうせなら、シーレの作品も1点ぐらいはと思った。
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【2019年10月19―20日】
きのこの宝石箱
大津・坊村にある山の辺料理・比良山荘に1泊。中庭の紅葉がもう色づいている。この夏も、ここで鮎料理を満喫したが、今回は"冥途の土産"にと、松茸と子持ち鮎という贅沢。
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 堅田の浮御堂
 翌日、堅田の浮御堂へ。すぐ左の琵琶湖の波間に高浜虚子の句碑が建っていた。「湖もこの辺にして鳥渡る」
 沖にはいくつも小舟が浮かび、ブラックバス釣りを楽しんでいる。外来魚のこの魚を釣ると、県の条例で湖に戻すことが禁じられているが、岸辺の回収ボックスはいつも空。
  「キャッチ・アンド・リリース」を楽しむ釣り人に条例は無視されている。
 隣の老舗料理屋でモロコの炭焼き。身を軽く炙った後、頭を網に突っ込み焼いてくれる。これも"冥途の土産"。

   湖の波間に句碑あり秋の雨   

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【2019年11月10日】
仁川広河原
 昼前から久しぶりに西宮の 仁川広河原へウオーキング。仁川源流の小川で、生きもの採取をする人、バードウォッチングの人も数人。木の実が成る樹に来るのは シメという鳥、源流沿いのセイダカアワダチソウには ベニマシコが来るらしい。「これだけ人が来ると、小鳥は絶対現れない」と、ハイタカが飛ぶカメラの写真を見せてくれた人もいた。
  坂の両側に開けた住宅地にある急な坂を下って阪急仁川駅へ。膝はがくがく。ああ、しんどーー。約2万歩。

   山拓く家並みのさき小鳥来る   

 
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【2019年11月22-23日】
京都の紅葉
 「今年の紅葉は、ライトアップで」と、京都・金戒光明寺に出かけたが、ライトアップの庭園は満席ということで、近くの真如寺へ。まさに、紅葉真っ盛り。宿で借りたらしい和服や平安衣装の女性グループがいたが、みんな中国からの観光客。ここも6時からライトアップがあるということだったが、「ツアー会社の企画で満席です」
 八瀬の宿の湯ぶねで、ライトアップの紅葉に出会ったものの、翌日見ると、枯枝も目立ち、いささかお疲れの感じ。
 翌朝は、京都府立植物園へ。おなじみのイチョウ、池の端の紅葉。菊展の仮天井に木の実がはねる音が響き、樹々の下に敷き詰めたように木の実が落ちている。

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真如寺の紅葉湯ぶねの紅葉植物園の大イチョウ


   舞い降りて苔を染ゆく紅葉かな   

   森のなか木の実の落ちる音満ちて   

   木の実踏み次の一歩をそっと出し   



【2019年11月24日】
須磨寺の紅葉
 用事がある友人に付き合って、神戸・ 須磨寺に出かけたが、ここの紅葉は、まだ盛り前。源平ゆかりの古刹とかで、平敦盛の首塚があり、宝物殿には敦盛愛用の「青葉の笛」。「一の谷の 軍(いくさ)破れ、討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ」の小学唱歌が流れる装置まである。

   染そむる紅葉へ流る青葉笛   

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2011年9月11日

紀行「ザ・ノグチ・ミュージアム(米国・ロングアイランド市、2011・8・18)


 この 美術館(ホームページに日本語解説)は、米国人を母、日本人を父にもつ彫刻家、 イサム・ノグチが、自ら財団を作って所蔵作品を集め、1985年に開設した。
 以前このブログに書いた 「イサムノグチ 宿命の越境者」(ドウス昌代著)や映画 「レオニー」(松井久子監督)にふれて以来、ここにはぜひ行きたいと思い続けてきた。

 当初は、ニューヨークに着いた2日目の14日(日)に、日曜だけマンハッタンから出る有料シャトルバスに乗るつもりだった。
 ところが、あいにく2カ月分の雨量が1日で降ったという大雨。ホテルに近い セント・パトリック教会 ニューヨーク近代美術館(MoMA)に行くだけで時間がなくなってしまった。

 やはり小降りにはなったが、雨がやまない16日(火)。地図では黄色で表示されている 地下鉄「N、Q線」に乗った。

以前は、ニューヨークの地下鉄と言えば、構内、車内での落書きや凶悪犯罪行為が続き評判が悪かった。20数年前にニューヨークに仕事で来た時も、1人で乗る勇気がなく、デトロイトからわざわざ出張名目で来てくれた大学時代の友人・Nに連れられて、こわごわ体験乗車したことを思い出す。

 マンハッタン・レキシントン通りの駅から4つ目。イーストリバーを越え、地上に出てすぐの駅名がなんと「ブロードウエー」。確かに、駅と直角に同じ名前の通りが走っていたが、あのニューヨークのミュージカルで有名な 「ブロードウエー」とは、まったく別の通り。「ブロードウエー(広い道)」は"目抜き通り"の意味らしく、米国各地にあるようだ。

   やっと雨が上がったこの通りを20分近く歩き、突き当たりを右折して2ブロック。自動車工場や倉庫に囲まれて、工場を改装したとは思えない一部レンガ造りの瀟洒な建物が、目指す美術館だった。できた当初、地元の人は「日本人の建てた別荘」ぐらいにしか思っていなかったらしい。

 小さな入口が、なぜか開かない?・・・。ぐるりと回って、事務所の鉄製ドアーをたたくと、出てきた小柄な女性が「今日は、サンクスギビング(休日)」と。月曜日が休館日だというのは確認して出かけたのだが、連休とは・・・。ブロードウエーをむっつり戻る。雨はすっかり上がり、暑い日差しが戻ってきた。「ああ、かき氷が食べたい」。入ったスーパーストアーで売られていたシャボテンの葉が気になった。

地上に出た地下鉄[N・Q線」;クリックすると大きな写真になりますブロードウエー駅;クリックすると大きな写真になります中庭にある石柱;クリックすると大きな写真になります石のくぐり戸;クリックすると大きな写真になります
地上に出た地下鉄[N・Q線」ブロードウエー駅中庭にある石柱(イサム・ノグチ美術館で)石のくぐり戸、リラックス!
目玉の石と松の木;クリックすると大きな写真になります水が流れる黒いつくばい?;クリックすると大きな写真になりますサボテンを売る駅前スーパー;クリックすると大きな写真になります
目玉の石と松の木(イサム・ノグチ美術館で)水が流れる黒いつくばい?(イサム・ノグチ美術館で)サボテンを売る駅前スーパー
 あきらめるつもりだったが、実質最終日の18日。「やはり、もう一度」と同行Mに肩を押され、再度「ブロードウエー駅」に降りた。

 入場料は、シルバー割引で5ドル。入ったとたんに「しだいに《石に取りつかれて》いった」(ドウス昌代)というイサム・ワールドが飛び込んで来る。

 大理石、玄武岩、花崗岩・・・。石だけではない。ステンレスや鋳鉄、角材、青銅、アルミ板など様々な材料を使った彫刻がゆったりと間隔を取って置かれている。自然光を取り入れた2階建て、延べ2500平方メートルの館内には、10室のギャラリーに分かれている。塑造や、ゆるやかなタッチで描かれた裸婦や猫の墨絵もある。

 それぞれの制作意図は分からなくても「ああ、この造形いいな」と思えるものがいくつもあり、なんだかほっとできる不思議な空間だ。

 1階からも2階からも自然に入り込める庭園が、また良い。松や竹、ニレのような大木を配置した石庭風の敷地に、大きな目玉をのぞき込みたくなる石柱や真ん中のくぼみから静かにあふれ出た水が壁面を流れ落ちる大きめのつくばいのような黒大理石。  イサム・ノグチは、日本に滞在していた時、昭和初期の作庭家、 重森三玲が造った庭を熱心に見て回った、という。

 その影響を確かに受けていることは感じるが、同時にアメリカの風土が持つカラリとした明るさもある。春には、コブシや枝垂れ桜も咲くらしい。

 この美術館の正式名は「イサム・ノグチ庭園美術館」。日本の四国・高松にあり、どうしても行ってみたいと思っている 「イサム・ノグチ庭園美術館」と同じ名前なのである。

 やっと朝から快晴になった17日(水)には、ニューヨークに来れば逃せない メトロポリタン美術館を訪ねた。それも、ニューヨークにいる娘が親しくさせていただいている方が、この美術館の友の会?メンバーで、我々をゲストとして無料入館させもらえるという。

 約束の午後1時前。美術館向かいの高級マンションらしい建物前の植え込みに座って娘を待つ。なんと、そのマンションの高層階が招待していただいたEさん一家の住まいだった。セントラルパークが一望できるお宅でお茶をごちそうになり、ご主人のご厚意という分厚い美術館ガイドまでいただいた。案内していただいた美術館入り口で、胸に付けるアルミ製の青いバッジを受け取る。お世話になりました、Eさんご一家。

 前回来た時にわけも分からずウロウロして、すっかり疲れたことを思い出し、見るのは2階の「ヨーロッパ絵画」に限った。

 ルノアールのゆったりした名品の数々。モネの「睡蓮」、ゴッホの名作が、これでもか、これでもかと押し寄せる。スーラ、ピカソ、マネ、ミレー、クールベ、ドガ、セザンヌ・・・。ウイーンでたっぷり見たクリムトも数作。
 「そうだ、フェルメールを見ていなかった」。ギャラリーを何度も行き来し、案内の人にたずねてやっと「水差しをもつ若い女」「若い女の肖像」「信仰の寓意」に出会えた。

 一休みしようと、屋上庭園カフエに出たが、暑い!周辺の摩天楼をカメラに収めただけで逃げだし、また2階をウロウロ。膨大な作品群に圧倒され、疲れはて、1階にある巨大なエジプト「デンドウ―ルの神殿」の奥にあるカフエにどっと座り込んだ。

 鉄鋼王のコレクションを集めた 「フリック・コレクション」も2度目だが、フェルメールの作品が3つもあるのは初めて知った。
ルノアール「シャンバンティエ夫人と子供たち」;クリックすると大きな写真になりますゴッホ「ひまわり」;クリックすると大きな写真になりますクリムトの作品;クリックすると大きな写真になりますミレー「干し草の山」;クリックすると大きな写真になります
ルノアール「シャンバンティエ夫人と子供たち」(メトロポリタン美術館で)ゴッホ「ひまわり」を初めて見た!(メトロポリタン美術館で)おなじみクリムトの作品(メトロポリタン美術館で)ミレー「干し草の山」(メトロポリタン美術館で)
フエルメール「若い女の肖像」レンブランド「自画像」(メトロポリタン美術館で)屋上庭園から見える摩天楼;クリックすると大きな写真になりますエジプト「デンドウール」の神殿;クリックすると大きな写真になります
フエルメール「若い女の肖像」(メトロポリタン美術館で)レンブランド「自画像」(メトロポリタン美術館で)屋上庭園から見える摩天楼(メトロポリタン美術館で)エジプト「デンドウール」の神殿(メトロポリタン美術館で)


 近代美術館(MoMA)では「ここでしか見られない」ことで評判のセザンヌ・「水浴する人」、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」だけでなく、アメリカ近代・現代を代表するポロックの「ワン;ナンバー31」、リキテンスタイン・「ボールを持つ少女」、ウオーホル作「ゴールド・マリリン・モンロー」にも初めて出会えた。いやー、満足、満足!
ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」;クリックすると大きな写真になりますセザンヌ「水浴する人」;クリックすると大きな写真になりますウオーホル「ゴールド・マリリン・モンロー」;クリックすると大きな写真になりますリキテンスタイン「ボールを持つ少女」;クリックすると大きな写真になりますポロック「ワン;ナンバー31」;クリックすると大きな写真になります
ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」(MoMAで)セザンヌ「水浴する人」(MoMAで)ウオーホル「ゴールド・マリリン・モンロー」(MoMAで)リキテンスタイン「ボールを持つ少女」(MoMAで)ポロック「ワン;ナンバー31」(MoMAで)


 19世紀の終わり、アメリカの世界的規模の美術館がないことを憂えた実業家たちの会合で、メトロポリタン美術館の開設を決めた時、建物はおろか、1点の絵画さえ所有していなかった、という。
 建国してたった200余りで世界トップクラスの所蔵を誇る美術館を持つ。アメリカという国のすごさを思う。

 9・11、10年を迎えた。訪ねた「グラウンド・ゼロ」では、記念公園の整備と新しい高層ビルが建設中だった。 br />
 テロとの抗争、ドルの価値低下、経済の低迷。アメリカが悩んでいる・・・。それだけ、各美術館に遺された作品群が輝きを増しているようにも思えた。

2009年11月23日

読書日記「エリザベート ハプスブルク家最後の皇女」(塚本哲也著、文藝春秋刊)

エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女
塚本 哲也
文藝春秋
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おすすめ度の平均: 4.5
4 興味深かったですが、社会情勢が複雑で難しかったです
4 興味深い本
5 一人の人の人生とは思えない!


 きつーい中国語教室の宿題に追われたり、パソコンが不調だったりして、ブログを書くのも久しぶりだ。

 1992年に発刊されたけっこう古い本だが、この夏に出かけた「ウイーン紀行」を、このブログに書いた後、急に再読したくなって本棚からひっぱり出して一挙に読んだ。2003年には文春文庫(上、下)にもなっている。

著者は、毎日新聞のウイーン支局長や防衛大学教授を歴任した人で、この本で大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。

 今年は、日本、オーストリアの交流年。様々な行事が行われており、先日も大阪・天保山で「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」を見てきたが、来年1月早々からは京都国立博物館で「THEハプスブルク」展も開かれる。

 この本の主役は、京都の展覧会でも活躍するであろう絶世の美女「皇妃エリザベート」ではない。その孫娘「エリザベト・マリー・ペネック」だ。

 シシイの愛称で知られる「皇妃エリザベート」は、日本でもなんどかミュージカルになっているが、孫娘「エリザベート」もそれに負けない波乱に満ちた一生を送った。

 17歳の時に宮廷舞踏会で出会った青年騎馬中尉に一目ぼれ、孫を溺愛する皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の「余は軍の最高司令官として・・・エリザベートとの結婚を命ずる!」という一言で、皇位継承権まで放棄して身分違いの結婚をする。
 4人の子供に恵まれるが、夫の浮気と金遣いの荒さ、知性のなさに悩まされ、長い離婚訴訟が続く。海軍士官レルヒとの悲恋、ハプスブルク家の崩壊。そして社会民主党の指導者レポルト・ペツネックとの出会い。社会民主党に入党し「赤い皇女」とも呼ばれた79年の異色の生涯を、筆者はち密な取材で綴っていく。

 「皇妃エリザベート」の生きざまが縦糸だとすると、筆者は大切な2本の横糸をこの物語に織り込んでいく。
  •  1つは、筆者が「あとがき」で書いているように、この本が「エリザベートとハプスブルク王朝を軸にした中欧の歴史物語」であるということ。
  •  2つ目は、ハプスブルク家の歴史が、現在のEU誕生の原型になっているということだ。
 

 「エリザベート」の父で、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子ルドルフは、エリザベートが4歳の時に愛人と情死してしまう。フランス名画「うたかたの恋」のモデルにもなったが、筆者はルドルフをこう評価している。

 政治的外交的に鋭い洞察力を持ち、いち早く二十世紀を視野に入れていた有能な皇太子であった。先見の明があり過ぎたために、保守的な(ドイツ頼みをやめようとしない)フランツ・ヨーゼフ皇帝と衝突、父との戦いに敗れての自殺であった


 後にフランス首相となり、反ドイツ主義者であったジョルジュ・クレマンソーに会った時に、ルドルフがこう語ったという。
 ドイツ人には全く理解できないらしい、オーストリアにおいてドイツ人、スラヴ人、ハンガリー人、ポーランド人がひとつの王冠の下で一緒に暮らしていることが、どんなに意義深く重要かをーー。・・・オーストリアは、様々な人種、民族が一つの統合された指導部の下で一緒になった連合国家なのだ。世界文明にとっても大切な理念だと思っている。


 エリザベートが生まれ、育った十九世紀末のウイーンは、画家のクリムトやシーレ、作曲家ヨハン・シュトラウス親子らが活躍し「世紀末」の繁栄に酔っていた。

 しかし思いがけず第一次世界大戦が勃発し、広大な版図を持つハプスブルク帝国は崩壊、古き良き時代は突然幕を降ろす。傘下にあった各民族はナショナリズムに燃え、それぞれ自らの国家建設に走り出し、四部五裂になっていく。ばらばらになった国々はみな小国で、国づくりの困難と格闘しているうちに、ヒトラーの餌食となり、続いてスターリンの圧政に苦しみ、不幸な苦難の途をたどった。


 「ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の経験をしなくてもすんだであろう」。英国の首相だったウイストン・チャーチルも嘆いている。

 第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争といわれる、ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争も、ハプスブルグ王朝の崩壊に遠因があったと言えなくもないかもしれない。

 しかし、著者はエピローグで明確に語っている。
 とはいっても、王朝の復活はありえないし、一度滅びた多民族国家はもはやもとに戻らないことを、ハプスブルク帝国崩壊の歴史は教えている。
 一方で、著者はもう一本の横糸を繰り出す。

 エリザベートは「汎ヨーロッパ運動主義」に関心を持ち、それを提唱「EUの父」とも呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーへの支援を惜しまなかった、というのだ。

 こんな記述がある。
 (ヒトラー率いるドイツのオーストリア併合の危機が迫るなかで)いち早く逃亡脱出したエリザベートの知り合いもいた。パン・ヨーロッパ運動のクーデンホーフ・カレルギー伯爵・・・
  映画「カサブランカ」の主要登場人物のモデルとなるクーデンホーフ・カレルギー伯爵の逃避行の始まりである。
クーデンホーフ家の墓碑。クーデンホーフ・ミツコの名前も刻まれている(ウイーン・ヒーツイング墓地で):クリックすると大きな写真になります

 この夏、ウイーン在住のパンの文化史研究者、舟井詠子さんに案内されてシェーンブルン宮殿南端にあるヒーツイング墓地にあるクーデンホーフ家の墓地を訪ねた。
 墓碑に刻まれた名前の一つに「グーテンホーフ・ミツコ」とある。日本名は「青山光子」。「EUの父」リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの母親である。



2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

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