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2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

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② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
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⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
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⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2016年5月26日

 展覧会紀行「日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展」(於・ 国立西洋美術館、2016年5月21日)



   日本を代表する聖書学者である 和田幹男神父に引率された巡礼ツアーで、ローマの街を回り カラヴァッジョの作品に魅了されて、もう10年になる。

 今回、日本に来たのは接したことがなかった作品ばかりだった。ぜひ見たいと思い、世界遺産への登録が確実になった ル・コルビュジェ作の 国立西洋美術館に出かけてみた。

 上野のお山は、東京都立美術館で「伊藤若冲展」という待ち時間3時間半というばけものみたいな催しがあることもあって、週末の金曜日というのにごった返していた。

 幸い西洋美術館には、約30分並んで入場できた。

 一番、観客の目を惹きつけているのが、「法悦の マグダラのマリア」(1606年、個人蔵)だ。長年、この作品が本当にカラヴァッジョ作であるかどうかが専門家の間で議論されてきたが、ロベルト・ロンギ財団理事長でカラヴァッジョ研究の第一人者であるミーナ・グレゴーリ女史から本物であるというお墨付きが出て、この展覧会が世界初公開となった。

法悦のマグダラのマリア
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 所有者は「ヨーロッパのある一族の私的コレクションのひとつ」としか明かされていないから、この作品を見られるのは、これが最初で最後かもしれない。

 グレゴーリ女史が「真作」と確定した根拠は、第一に、キャンバスの裏にあるチラシに1600年代特有の書法で書かれた署名。第二に、その色使いや手法。「マグダラのマリア」は頭を後方にそらし、その眼は半閉じ状態で、口はわずかに開いている。両肩をのぞかせ、両手を組み、髪の毛は乱れている。服装は白のワンピースに、カラヴァッジョがいつも使う赤の絵具のマント。

 作品をじっと見てみると、右の眼から一滴の涙が流れ落ちようとしており、唇を半開きにしており「法悦」というより、まさに死を迎える寸前の「悔恨」の表情に見えた。

 カラヴァッジョが殺人を犯してローマを追われ、逃避行の末に死んだ時、荷物のなかに残っていた絵画3点のうち1つがこの作品だった。

 最近、マグダラのマリアについての本を読んだり、講演を聞く機会が何度かあった。

 それによると、これまで娼婦としてさげすまれてきたマグダラのマリアは、実はキリストの最後の受難に勇気をもって見届けた聖女で会った、という考えが出てきている、という。

 カラヴァッジョが現代に生きていたら、別のマグダラのマリア像を描くかもしれない。

   もう一つ、どうしても見たかったのが、「エマオの晩餐」(1606年、ミラノ・ブレラ絵画館)だった。

エマオの晩餐 -1
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 新約聖書のルカ福音書24章13-31によると「イエスが十字架につけられた3日後、2人の弟子がエルサレルからエマオの街に向かって歩いている時、イエスが現れたが、2人にはイエスと分からなかった。一緒に宿に泊まり、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂き、2人に渡した。その時、2人はやっとイエスと分かったが、その姿は見えなくなった」

 実はカラヴァッジョは、「エマオの晩餐」(1606年、ロンドン・ナショナルギャラリー)をもう1枚描いている。イエスはミラノのものよりずっと若く描かれ、光と影のコントラストも明快で明るい。

エマオの晩餐 -2
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 今回の展覧会に出された「果物籠を持つ少年」(1593-94年、ローマ・ボルゲーゼ美術館)や「バッカス」(1597-98頃、フレンツエ・ウフィツイ美術館)に見られる、光と影のなかに浮かびあがる躍動感が印象的だ。

果物籠を持つ少年                 バッカス
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 しかし、ミラノの「エマオの晩餐」は、暗い闇が広がる中に、イエスの静謐な顔だけが柔らかい光のなかに浮かびあがる。

 展覧会のカタログでは「消えた後になってはじめてキリストが『心の目』によって認識できたことが示されている」と、解説されている。

 このほかにも、まさしくカラヴァッジョしか描けなかったであろう多くの作品を堪能できる。

 「エッケ・ホモ」(1605年頃、ジェノヴァ・ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮)は、ヨハネ福音書19章5-7の一節から描かれた。

エッケ・ホモ
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 右側の老人、ピラトは大声で叫ぶ。「この人を見よ(エッケ・ホモ)・・・私はこの男に罪を見いだせない」。しかし、民衆はさらに叫ぶ「十字架につけろ。十字架につけろ」
 イエスは、すでに茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せかけられようとしている。しばられたイエスが持つ、竹の棒はなんだろうか。

 「洗礼者聖ヨハネ」(1602年、ローマ・コルシーニ宮国立古典美術館)は、長年、その"帰属"について論議があった作品。漆黒の闇のなかに、柔らかな光に包まれた若い肉体が浮かび上がる。憂いを帯びた表情は、聖職者で長年会わなかった弟を模したものともいわれる。

洗礼者聖ヨハネ
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 「女占い師」(1597年、ローマ・カピトリーノ絵画館)は、2年前にパリのルーブル美術館で見た同じ名前の作品とポーズはそっくりだが、衣装や背景が異なっている。モデルも違うらしい。

女占い師 -1
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女占い師 -2
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   「トカゲに噛まれる少年」や「ナルキッソス」(1599年頃、ローマ・バルベリーニ宮)国立古典美術館)、「メドウ―サ」(1597-98年頃、個人蔵)など、カラヴァッジョ・ワールドをたっぷりと堪能できた。

トカゲに噛まれる少年            ナルキッソス           メドウ―サ
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 今回の展覧会には、カラヴァジェスキと呼ばれるカラヴァッジョの画法を模倣、継承した同時代、次世代の画家の作品も多く展示されている。

 なんと、そのなかに ラ・トウ―ルの作品を見つけたのには驚いた。

 ラ・トウ―ルのことは、この ブログでもふれたが、パリ・ルーブル美術館の学芸員が、何世紀の忘れられていたこの作家を再発見した。

 今回の展覧会では、「聖トマス」(1615-24年頃、東京・国立西洋美術館)と「煙草を吸う男」(1646年、東京富士美術館)の2点が展示されていた。

聖トマス            煙草を吸う男
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 カラヴァッジョとは一味違う炎と光の世界の作品を所蔵しているのが、いずれも日本の美術館だったとは・・・。

2016年4月23日

読書日記「イエス伝」(若松英輔著、中央公論新社刊)



イエス伝
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若松 英輔
中央公論新社
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 本の冒頭近くに出てくる著者の指摘に、エッと思った。

 「奇妙なことに、イエスの誕生を物語る福音書のどこを探しても、『馬小屋』に相当する文字は見当たらない」

 「イエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれた」。それは、キリスト信者なら子供でも知っている常識だろう。

 所属していたカトリック芦屋教会でも、クリスマス前になると、祭壇の脇に小さな馬小屋の模型と聖母子の塑像を故浜崎伝神父が置いていた。そして、前の芦屋川から採ってきた草やコケで馬小屋の周りを飾る手伝いをさせられたものだ。

 いや、今でも世界中の教会や家庭で同じような馬小屋の模型が作られ、クリスマスの準備をしている。

 しかし著書は20世紀のアメリカ人神学者であるケネス・E・ベイリーの 「中東文化の目で見たイエス」の一節を紹介、「イエスが中東の人であることを(世界の人は)忘れている」と強調する。

 「西欧的精神の持主にとって、"飼い葉桶"という語は"馬屋"や"納屋"という語を連想させる。しかし、伝統的な中東の村ではそうではない」

 聖書の記述( ルカ伝2章4~7節)によれば、イエスの父 ヨセフは、ダビデ王の血を引く人だった。「客人に対して、ゆえなき無礼な行いをするのは不名誉なことこの上ない」中東人にとって、王族につながる旅人であるヨセフ、 マリア夫婦は歓迎さるべき客人だった。

 しかし、一行が訪ねた家の客間には先客がおり、家族が暮らす居間に通された。

 家畜を大切にする当時の中東の村では、居間の端に複数の飼葉桶が床石を掘って造られていた。

 「出産に際して、男たちは部屋から出され、女たちがマリアに寄り添う。マリアは庶民の家の居間で、彼女たちに見守られ、歓待されながらイエスを産んだ」。そして、聖書にあるとおり居間の「飼い葉桶に寝かされた」

 ベツレヘムに着いたヨセフ一行がやっと見つけられたのは、貧しい馬小屋。そこで生まれたイエスを祝ったのは、貧しい羊飼いたち。
 我々が、長年信じてきた物語は、西欧文明が作った虚構だったのだ。

 中東に住む聖書学者たちは、この事実を以前から理解していた。「しかし、西欧のキリスト教神学界が、長く中東文化圏の声を無視してきた」と、ベイリーは訴えている。

 だが、著者は「ベイリーが指摘したいのは、誤りの有無ではなく、新たなる聖書解釈の可能性である」という。

 
幼子イエスは、羊飼いのような貧しく身分の低い人々だけでなく、ヨセフらを迎え入れた普通の庶民や富裕な人々、「王」への貢物を持参した異教の預言者たちのためにも世に下ったのだ。
 「イエスは、救われない、孤独であると苦しむ人に寄り添うために生まれた」


 ベイリーは、イエス降誕を論ずる1文の最後を、こう締めくくっている、という。

 「確かにわれわれはわれわれのクリスマス劇を書き直さなければならない。しかし書き直されることによって、物語は安っぽくされるのではない。かえって豊かなものにされるのである」

 この本には、以前から気になっていたいくつかのことが記述されている。

 例えば、イエスと関わる女性たちのことだ。

 カトリック教会には、イエスが捕えられ、十字架につけられるまでの14の行程について書かれた 「十字架の道行き」という祈りがある。どこの教会でも、各場面を描いた木彫りや陶板の聖画が両側の壁に掛けられており、信者はその聖画を順に回ってイエスの受難を思って祈るのだ。

 イエスは、十字架を背負わされて処刑場に向かう途中、何度も倒れる。それを見て、 ヴェロニカという女性が駆け寄り、汗を拭いてもらおうと自分のベールを差し出す場面がある。

 
死刑の宣告を受けたイエスの近くに寄ることは命を賭けた行いだった。男の弟子たちにはそれが出来なかった。「十字架の道行』では、イエスの遺体を引き取るまで、男の弟子たちの姿は描かれない。道中、イエスに近づいたのは女性の弟子ばかりである。


 
イエスの時代、女性が虐げられることは少なくなかった。だが、イエスはその文化的常識も覆したのである。


 十字架で処刑される場に居合わせたのも、女性の弟子たちだけだった。

 共観福音書マタイ伝マルコ伝、ルカ伝)では、(女性たちは)「遠くに立ち」十字架上の見守っていたと記されている。

ヨハネ伝の記述はなまなましい。女性たちは「十字架の傍らに」たたずんでいたと書かれている。女性たちとはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。・・・
 天使たちのよって、イエスの復活を最初に伝えられたのもマグダラのマリアを含む三人の女性たちだった。


 イエスが誕生する前にも、女性を重視する記述が聖書に書かれている。

 身籠っていたマリアは、のちにイエスに洗礼を授けることになる ヨハネの母 エリザベトに会いにいく。
 エリザベトは、 聖霊の働きでマリアの子が救世主であることを知り、こう語りかける。

 「あなたは女の中で祝福された祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」(ルカ伝1章42)

 
この一節こそ・・・"人間の口"を通して、もっとも早い時期にイエスが「主」すなわち救世主であることが告げられた場面なのである。  ルカ伝は・・・圧倒的な男性優位の当時の社会で、女性・・・に大きな役割があることを示そうとする。このことにもまた、今日再度顧みるべき問題がある。


ペトロを中心に、男性重視の組織を形成してきた 原始キリスト教会は、あえて女性の存在を軽視し、イエスに近いマグダラのマリアを「罪深い女(娼婦)」と呼ぶことさえいとわなかった。

 それが、第2バチカン公会議以降になって、やっと見直しが始まったらしい。
 その動きが、女性司祭の登場などにつながるかどうかは、あまりに"遠い道筋"だろうが・・・。

 若松英輔は、イエスを裏切った弟子・ユダのことに何回も言及する。

 そして「イエスはユダの裏切りを知りながら、なぜ回避しなかったのか」「ユダの裏切りは自由意思によるものなのか」など、以前から多くの神学者、哲学者が取り組んできた問題に答えようとする。

 聖書によれば、「最後の晩餐」の席上、イエスはユダに「しょうとしていることを、今すぐしなさい」と言い、ユダは逃げるように出ていく。

   その後のヨハネ伝の記述は「共観福音書などとは著しい違いがある」と、著者は言う。

 
さて、ユダがでていくと、イエスは仰せになった。
   「今こそ、人の子は栄光を受けた。
 神もまた人の子によって
  栄光をお受けになった
 神が人の子によって
 栄光をお受けになったのなら、
 神もご自身によって
 人の子に栄光をお与えになる。
 しかも、すぐにも栄光をお与えになる。(13章31~32)


 
「今こそ」との一語は、ユダの裏切りもまた、自身の生涯が完成するために避けて通ることができない出来事であることを示している。そのことによって、「神もまた」栄光を受けるとまで、イエスは語ったのだ。


 イエスは、神の意志による受難を実現するために、ユダに裏切りを促したということだろうか。しかし、そのことが「イエス、神が栄光を受ける」ことにつながるという聖書の言葉は、あまりに難解だ。

 ユダについての記述は、まだまだ続く。

 
福音書を読んでいると、イエスのコトバに真実の権威、威力、意味をどの弟子よりも敏感に感じ取っていたのがユダだったように思われてくる。・・・彼は、師のコトバを受容することに戦慄を伴う畏れと恐怖を感じている。・・・


   
弟子たちの中で自ら意図して裏切りを行ったのはユダだけだった。・・・もっとも美しく、また聖らかで、完全を体現している、愛する師を裏切ったユダは、イエスの実相にもっとも近づいた弟子だったのかもしれない。その分、ユダの痛みは深く、重い。


 
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


 「姦通の女」の記述は、ヨハネ伝8章に詳しい。

 
この記述を読んで、「女」に自分を重ね合わせない者は少ないだろう。今日の私たちも彼女に「石」を投げることはできない。この「女」はイエスを裏切ったユダを象徴している。


 
誤解を恐れずに言えば、ユダは私たちを含む「人間」という、罪から免れることはできない存在の象徴でもある。


 ここで著者は 遠藤周作の小説 『沈黙』の最後の場面を引用する。棄教を迫られて踏み絵を踏んだ司祭がイエスと対話する場面だ。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせといわれた。ユダはどうなるのですか」
 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」


遠藤は、ユダを人類の代表者として描いている。ユダの裏切りは、いつもイエスの赦しと共にある。イエスは、人の弱さを裁く前に寄り添う。


 このブログでも書いたのだが、 故井上洋治神父 「遺稿集『南無アッパ』の祈り」のなかで、同じようなことを強調しておられたことを思い出した。

 某日刊紙の書評子によると「今、もっとも注目を浴びていると言っていい批評家」である若松英輔は、故井上神父を師と仰いでいる、という。