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2012年11月13日

 読書日記「戦後史の正体 1945-2012」(孫﨑 享=まごさき うける=著、創元社刊)



戦後史の正体 (「戦後再発見」双書)
孫崎 享
創元社
売り上げランキング: 62


 「『米国からの圧力』という視点で読み解いた戦後70年史」
  そんな新聞広告見出しに引かれて買ってみようと思ったものの・・・。 著者は、元外務省・国際情報局長!?
 「なんだ、元エリート官僚の著書か」と、まゆにつばをつけて読みだした。以外や以外、以前から頭のすみにこびりついていた「米国の圧力」という言葉の"もやもや"を吹き飛ばしてくれる、痛快極まりない本だった。

 著者は、序文「はじめに」でこう書き出す。

 
たとえば普天間問題を例にとってみましょう。
 「普天間基地は住宅の密集地にあり、非常に危険である。もともと米軍基地はあまりにも沖縄に集中しすぎている。だから普天間基地を県外または国外へ移設しょう。そのことを米国にも理解してもらおう」
 とするのが「自主」路線といわれる立場です。
 一方、「米国は普天間基地を同じ沖縄県内の辺野古に移転するのが望ましいと考えている。米国の意向に反するような案を出せば、日米関係全体にマイナスになる。だからできるだけ米国のいうとおりにしよう」
 とするのが「対米追随」路線といわれる立場です。
 このふたつの外交路線の相克が、実は第二次大戦以降、日本の歴史全体の骨格になっているのです。


 さらに「序章」のなかで、戦後の首相たちを、こう分類する。

 
多くの政治家が「対米追随」と「自主」 のあいだで苦悩し、ときに「自主」路線を選択しまし。歴史を見れば、「自主」を選択した多くの政治家や官僚は排斥されています。ざっとみても、 重光葵 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 細川護熙 鳩山由紀夫などがいます。意外かもしれませんが、 竹下登 福田康夫も、おそらく排斥されたグループに入るでしょう。外務省、大蔵省(現・財務省)、通産省(現・経産省)などで自主路線を追求し、米国から圧力をかけられた官僚は私の周辺にも数多くいます。


 鳩山由紀夫が実現のメドもないまま「基地の県外移転」と言っただけで「毅然と米国に立ち向かった」政治家と書かれるのは、いささか疑問符を打ちたくなるが・・・。

著者は特に、傲慢な態度でワンマン宰相と呼ばれ、米国占領軍とも対等にわたりあったと一般に評価されてきた 吉田茂のイメージを徹底的に打ち砕くエピソードを紹介している。

 ダグラス・マッカーサー連合軍司令官の情報参謀として占領政策を牛耳っていた チャールズ・ウイロビー GHQ参謀第2部(G2)部長の著書だ。このなかでウイロビーは、 犬丸徹三・元帝国ホテル社長の談話を引用している。

 
「ウイロビーはたいへんな吉田びいきだったねえ。
 帝国ホテルのウィロビーの部屋へ、吉田さんは裏庭から忍ぶようにしてやって来たりしたよ。裏階段を登ってくる吉田さんとバッタリということが何度もあったな。(略)
 あのころは、みんな政治家は米大使館(マッカーサーの宿舎)には行かず、ウイロビーのところで総理大臣になったり、あそこで組閣したりだった」


 こそこそ裏口からやって来て、GHQの意向をさぐるのにやっきになっている吉田首相・・・。戦後政治をリードした傑出した宰相という、これまでのイメージは覆されてしまう。

 孫﨑は、はっきりとこう書く。「吉田首相の役割は、『米国からの要求にすべてしたがう』ことにありました・・・」
 そして、吉田茂が、長く首相として居座ったことが「保守本流という従米路線が戦後60年も続くという日本最大の悲劇を生んだのです」

 これに対し、「自主路線」を貫こうとした重光葵の歩んだ道は厳しかった。「・・・今日において敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様にようにあつかっている。その態度は皇室から庶民まで同じだ」と日記で嘆いたが、 ミズリー号で降伏文書に署名したわずか2週間後に外務大臣を辞任させられ、A級戦犯の有罪判決を受けている。

 GHQの終戦処理費増額に抵抗した石橋湛山(当時・大蔵大臣)は公職追放され、米軍の「有事駐留案」を提唱した芦田均は、G2に昭和電工事件をしかけられ、7か月で首相を失脚した。

 米国は占領した日本を助けるためでなく、自国の利益のために利用しようとした。
 冷戦が始まると、米国は「ソ連への対抗上、日本の経済力、工業力を利用しよう」とし、朝鮮戦争が起こると「その軍事力も利用しよう」と考えるようになった。

①米国が在日米軍基地を半永久的に使用できるようになったのは、講和条約でも安保条約でもなく 行政協定(現在の地位協定) だった
 ②ソ連との北方領土返還交渉がさっぱり解決しないのは、米国が「日ソの間に、解決不能な紛争のタネをうめこんだため
 ③日本の原子力開発が始まったのは、米国の意向を反映したものだ。
 米国が自国の利益を最優先にしてきた事実を次々と列挙されている。

 組閣後に「自主外交の確立を期す」と表明した石橋湛山は「われわれがラッキーなら」という米国側の英国への秘密電報通り、なぜか2カ月で病気になり退陣、首相になって「駐留米軍の最大限の撤退」を求めた 岸信介首相は「安保闘争デモは、当初の目的をまったくはたせなかった」のに失脚した。安保闘争に金を出したのは、親米派の財界人だった、という。

 一方で、沖縄返還が実現できたきっかけは、 佐藤栄作の力ではなく、当時の ライシャワー米国大使の功績だったというのも、ちょっと驚かされる記述だ。

 田中角栄が、 ロッキード事件によって政治的に抹殺された本当の理由は、田中角栄の 日中国交正常化だった、という主張も興味深い。

 キッシンジャーにとり、人生最大の業績は一九七二年二月の ニクソン訪中です。・・・しかし中国との国交樹立は一九七九年までできませんでした。・・・米国議会が賛成しなかったからです。
 そんななか、・・・田中角栄は七二年九月、日中国交正常化を実現しました。結果としてニクソン訪中の果実を横どりしたことになります。
 キッシンジャーは一九七二年八月の日米首脳ハワイ会談の直前に、バンカー駐南ベトナム大使と会談し、ここで日本に対する怒りを爆発させています。「汚い裏切り者どものなかで、よりによって日本人野郎がケーキを横どりした」


 
「キッシンジャーは『日中国交正常化を延期して欲しい』と頼んだのですが、田中総理は一蹴しました。・・・キッシンジャーは(ハワイ会談のために)飛行場に降りた田中総理をすごい形相でにらみつけていました」(著者が元朝日新聞記者から聞いた話し)


 経済戦争でも「米国の圧力』は、続いた。

 一九八五年九月の プラザ合意、それに続く新通商戦略による自動車の対米自主輸出規制、日米半導体協定、通商法三〇一条によるパソコンなどの関税一〇〇%引き上げ、 日米構造問題協議 BIS規制・・・。  一連の「圧力」で円高が恒常化し、日本経済は見事に空洞化してしまった。

「現在の TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加問題もまったく同じ流れのなかにある」。著者は、明確に書いている。「TPPは米国が、日本の国内にある富を、扉をこじあけ、吸い上げる仕組みです」

 (付記)

 20万部を越えるベストセラーになった「この本がなぜ、あまり新聞の書評に登場しないのだろう」と思っていたら、新聞書評界に前代未聞とも言える"事件"が起こっていた。

 9月30日付け朝日新聞読書欄「売れてる本」で、 「戦後史の正体」を取り上げたところ、著者の孫﨑氏が、自らの ツイターで「書評に『米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきたのだという』と書かれているのは、事実無根」と猛烈に抗議し、この書評を批判する他のブログも相次いだ。

 孫﨑氏は「私は、米国が、日本の政治家を追い落とすパターンを①占領軍の指示で公職追放②検察起訴③政権内の主要人物切り捨て④党内反対勢力高める⑤大衆動員と分けた」と、執拗に朝日側を問い詰めた。

 朝日新聞もついに、10月21日付け朝刊に「9月30日付け「売れてる本『戦後史の正体』」の記事で、1段落目の記事に事実誤認がありました。この段落10行分を削除します。」という「訂正」を掲載したのだ。

   削除されたのは「ロッキード事件から郵政民営化、TPPまで、すべては米国の陰謀だったという本。米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきたのだという。著者の元外務省国際情報局長という立派な肩書も後押ししているのか。たいへん売れている。しかし本書は典型的な謀略史観でしかない」という部分。

 書評を書いた 佐々木俊尚の著書は、私も何冊か読んだことがあるが、もともとネットメディア最前線の話題をさらりと書くのが得意な人と思っていたが・・・。

 刊行元の創元社が、 YouTubeで、12分にわたる著者・孫﨑亨の談話を流したり、この本の最初88ページ分を PDFにして無料でネット公開したりするなど、普通のベストセラー作りとはちょっと違う対応を続けているのも、この本への思いが伝わってきて興味深い。

   

2010年3月 9日

紀行「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)その3・終


 1月7日。長崎市内を走る路面電車の「浜口町」駅を降りてすぐの丘の上にある「長崎原爆資料館」を訪ねた。長崎市に来たのは5回目だが、資料館に来るのは恥ずかしながら初めて。
 らせん状の通路を降り、地下2階の展示場に入ると、急に照明が暗くなった。右側の天井に原爆投下1カ月後の写真が浮かびあがり、正面に被爆でほぼ崩壊した浦上天主堂側壁が浮かびあがった。10分ごとに照明を落とし、写真を投影する仕掛けになっているようだ。

 昨秋、このブログで「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」という本について書いた際、残った天主堂が保存されずに取り壊わされたのを残念に思った。
それだけに、浮かび上がった側壁を見て「しっかり保存されているじゃないか」と勘違いしてしまったが・・・。実は、煉瓦やウレタン樹脂を使って実物大に模した"再現造形"と呼ばれるものだった。

展示説明画像:クリックすると大きな写真になります  近くの原爆落下中心地には、天主堂の側壁の一部が移築されていると聞いていた。この"再現造形"との位置関係が分からない。
帰宅してから資料館に電話、研究員の方から見落としていた展示説明画像 を次のようなメールで送ってもらった。再現された側壁の前にあるディスプレーに表示してあったのを、見落としていたのだ。

 先ほど、お電話いただきました、長崎原爆資料館の奥野と申します。

添付いたしました画像は、当館展示解説文の写真です。画像の右下にある写真に、当館の再現造型と移設した遺壁の位置関係を示しております。

当館の再現造型は、写真等からサイズを割り出しておりますので、原寸大に近いものとなっております。

よろしくお願いいたします。

長崎原爆資料館
被爆継承課
担当:奥野
tel:095-844-3913
fax:095-846-5170


 資料館でもらったパンフレットに、被爆建造物マップが載っていた。浦上教会関係では鐘楼ドームや当時の石垣が残っていることになっている。昨年5月、五島列島の帰りに浦上教会を訪ねた時にはうかつにも気付かなかった。

 資料館から教会までは歩いて10分もかからない。教会の臨む左側の川沿いに、確かに黒く焼け焦げた鐘楼の一部が保存されていた。直径5・5メートル、重さ30トンもあったものが、35メートルも吹き飛ばされたのだ。

 丘の上の教会に向かって、かなり急な坂を登っていくと、正面手前に被爆した聖ヨゼフやマリア像や天使像、獅子の頭などが残されており、千羽鶴などが絶えない。

 聖堂は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、1980年(同55年)に翌年の前・ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世が訪日されたのにあわせて、外壁に煉瓦を張り、内部も窓をすべてステンドグラスにし、天井も"リブ・ヴォートル風"に張り替えられた。交替で当番をしておられる信者の方によると「五島列島の教会のような、ちゃんとしたリブ・ヴォートル天井ではない」そうだが、司教座聖堂にふさわしい荘厳で堂々とした雰囲気だ。

 聖堂右の通路を入ってすぐのところにある「被爆マリア像小聖堂」を昨年に続いて訪ねた。
 入口には旧天主堂の被爆遺構をステンドグラスにしたものが組み込まれ、内部左側の壁面に張られた6枚の銅製銘板には、原爆で亡くなった信者の名前がびっしりと刻みこまれている。一緒に教会巡りをした一人・Yさんの祖父や叔父なども亡くなっており、名前を見つけようとしたが、暗くて分からなかった。約1万2000人の信徒のうち約8500もの人が犠牲になったのだ。

 被爆のマリア像は正面祭壇の中央に安置されている。
 被爆後の瓦礫のなかから、一人の神父が探し出して北海道に持ち帰ったが、長い年月の末に浦上教会に戻ってきた。
 木製で、右ほおが焼け焦げ、両目は焼けてくぼんでいるが、じっと上を見つめる頭部だけの像は胸に迫るものがある。
 このマリア像は4月にカトリック長崎大司教区が主催する平和巡礼団とともにスペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカ市などスペイン、イタリアの13都市を訪ねる。

 これだけ多くの多くの被爆遺産が残っておれば、被爆の歴史を継承していくのには十分だと考えるのか。広島の原爆ドーム が世界遺産になっているのを考えると、被爆天主堂を残さなかったのはやはり残念だったとみるのか・・・。戦後の歴史が刻んだ事実をこれからも見つめていくしかなさそうだ。

 教会横の敷地では、ちょうど司祭館の新築工事が進んでいた。

 浦上教会の坂を下り途中で右折した住宅地のなかに、故永井隆博士が亡くなるまで住んだ「如己堂」と市立永井隆記念館がある。

 永井博士は、戦後発の大ベストセラーとなった「長崎の鐘」で有名だが、現在でも博士を巡る論争が続いているのは「長崎の鐘」に書かれ、廃墟の浦上教会での原爆合同葬でも博士が述べた「神の恩寵によって、浦上に原爆が投下された」という言葉を巡ってだった。

 同じカトリック信者で作家の井上ひさしは、著書「ベストセラーの戦後史 1」 で「これが本当なら、長崎市以外で命を落とした人びとは・・犬死ということになる」と批判、「この著者の思想をGHQは『これは利用できる』と踏んだにちがいない」と述べている。

 この論争は、永井博士生誕100年の2008年にも、新聞などで再燃している。
 白血病で病床にいる博士を昭和天皇やヘレン・ケラー、ローマ教皇特使が見舞い、吉田茂首相が表彰状を贈るなど"浦上の聖者"が"日本聖者"になっていった経緯は、いささか普通でないようにも見える。やはり戦後歴史の一つとして見つめ続けられていくのだろう。  1昨年の5月と昨年1月には、このほか国宝の大浦天主堂日本二十六聖人殉教地、聖トマス西と十五殉教者に捧げられた「中町教会」、長崎港を見下ろす丘の上に建つ神の島教会、それに聖コルベ記念館サント・ドミンゴ教会跡資料館を訪ねた。

その前にある長崎歴史文化博物館では、開催されていた「バチカンの名宝とキリシタン文化展」を鑑賞する幸運にも恵まれた。

様々な思いを心に刻み込まれた3年間の「長崎教会群巡り」だった。

example2
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡:クリックすると大きな写真になります黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面:クリックすると大きな写真になります浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」:クリックすると大きな写真になります国宝の大浦天主堂:クリックすると大きな写真になります
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」。たった2畳1間。前の道路を通る観光バスも、ガイドの説明を聞いただけで素通りしていく国宝の大浦天主堂。聖灯が消え、入口で入場料を取る天主堂からは、聖堂の荘厳さは消えている。正面反対側に新しい大浦教会がある。
日本二十六聖人殉教地:クリックすると大きな写真になります中町教会:クリックすると大きな写真になります神の島教会聖コルベ記念館の内部:クリックすると大きな写真になります
日本二十六聖人殉教地。ちょうど、フイリッピンからの巡礼団が記念撮影中中町教会。原爆で崩壊したが、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建された急な階段を登って、行きつく神の島教会。俳優の故・上原謙が、この風景を見て、結婚式を挙げたとか聖コルベ記念館の内部。日本で殿堂後、帰国してアウシュビッツ収容所で他の囚人に代わって餓死刑を受け、後に聖人に列せられた。壁画は、それを描いたもの


戦後史
ベストセラーの戦後史〈1〉
井上 ひさし
文藝春秋
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