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2011年9月30日

読書日記「絵に生きる 絵を生きる 五人の作家の力」(島田誠著、風来舎刊)



 神戸・ハンター坂にある ギャラリー島田の島田誠さんがこの本を書かれたことは、島田さんが猛烈なエネルギーで発信されているメールマガジンで知った。

 この本には、島田さんが人生を共にしてきた5人のユニークかつ孤高の画家たちへの思いが語りつくされている。

 プロローグに、こうある。
 
自ら強い意志をもってそれぞれの表現にこだわり、自分の生を主役として生きる作家たち。・・・彼らは苦労しているのではなく、・・・苦を選びとって生きているのである。


神戸の街を無頼で生き「溶き油を使うことも知らず、やたらチューブからひねり出した色をそのまま塗りつけ、自分の暴力的なまでの鬱屈した思いをぶつけて」いた 武内ヒロクニさん

看板屋に勤めながら「弟子入りしたり、手本にした人はいない」と、孤高を選ぶなかで絵を描き続け、不慮の火災で最愛の妻と3人の子供を亡くした。後追いまで考えたが、その母子を主題として描く覚悟をした在日2世の 松村光秀さん

「不遇の極みで、その生活を奥様や兄弟に支えられ、ご自身は歯を食いしばって、食べるものも食べない」で、制作にすべてをかけた 山内雅夫さん

 郵便局で手紙の仕分けの仕事をしながら専業画家となる夢を悶々と抱き続け「仕事を続けるか、やめて画家としてやっていくか、たびたび阿弥陀籤(くじ)で進路を占ったりしていた」故・ 高野卯港さん

 最後の章には、以前にこのブログでも紹介した "奇跡の画家" 石井一男さん

 画壇にも、売らんかなの画商にもそっぽを向き、自らの生のうめきから生み出される作品に命をかける画家群像が書き込まれている。

 そして画廊主である島田さん自身も「山内雅夫先生にいつも『島田さん、あなたが展覧会をやるということは、あなたが何を見、何を考え。どう生きるかを表現していることです』と言われ」続けてきた。それを実践する島田さんの生きざまの記述は、この本の大切な縦糸になっている。

 2008年に59歳で亡くなった高野さんを除くと、残り4人の画家と島田さんはいずれも昭和10年代の生まれ。
 一気に読んだこの本は、戦後の混乱と昭和の動乱、そして平成の混迷のなかで、自らの生を貫こうとした"同志"たちの闘争の物語に思えてきた。

 発刊に合わせて、登場する何人かの個展に巡り合ったのは、幸運だった。

武内ヒロクニ展(ギャラリー島田で);;クリックすると大きな写真になります 9月中旬。神戸・ハンター坂のギャラリー島田地下1階で開かれている「武内ヒロクニ展」に出かけた。

幸穂里さん;;クリックすると大きな写真になります ちょうどおられた奥様の幸穂里さんに絵の解説をお願いした。
 「ヒロクニさんは、街が好き、地下鉄が好き、そしてそんな街のなかを走るのが、好きなのです」。そんな躍動感が、赤を基調にした絵のなかにあふれている。これが、色鉛筆で描かれたとは・・・。

 絵のなかの、どこかに不思議なものが存在している。ど真ん中にある太陽、顔とおっぱいとおしりだけの一本足の少女、花、自画像・・・。
 「頭のなかの意識、体にしみ込んだ感覚、体臭みたいなものがほとばしり出るみたいです」と幸穂里さん。下描きは一切、しないという。

 著書のなかで、島田さんは「CHA-CHA-CHA」など武内ワールドの美しさについて、こう書いている。
記号化されたモザイクの隅々まで彼の生きた時代、空気、埃、淀み、流された血、精液などが塗り込まれている。・・・記憶の靄(もや)の中から抽出された、女性器、骸骨、顔、月、太陽、星、英文字。電車、街、看板、花などが曼荼羅のように物語を語る。 


壇ノ浦風景;;クリックすると大きな写真になります須磨海岸の絵;;クリックすると大きな写真になります 翌週からは、同じギャラリーで高野卯港展が始まった。
 来館者の応対に忙しい奥様の京子さんに少しだけ話しを聞くことができた。「茶色や赤の色が好きでした。自分の気持ちや思い出を描いていました。1枚の絵を何年もかけて仕上げるのです」

 不思議な絵があった。正面に大きく陶器の酒瓶。男と女がいて、その前の茶色の壁がカーブをきって大きく開かれ、その奥に砂浜と海が広がる。
 「これは、神戸・須磨の海。空気が抜けていくところなのです」。絵全体を覆うさわやかさは、壁の空間を抜け、海辺にいたる風のしわざなのか。

 風景画が多い。縦や横に、ぐいー、ぐいーとのびた黄色や緑のタッチが、やわらかく、かつ力強い構図を描き出している。

 著者の島田さんは、こう書いている。
 
卯港さんの風景画や物語をはらんだ叙景画は独特の味わいをもっている。洛陽でさまざまに染め上げられ、刻々に変幻し、黄昏(たそがれ)てゆく空。そこに鮮やかな緑や黄を勢いよく刷く。卯港さんの夢と現実との間(あわい)を揺れ動く思いが凝縮され、独特の色彩が綾なす感傷美にとどまらない切迫した気配は誰にも表現できない荘厳にして絢爛たる交響詩である。・・・心を動かすもの、美しいものを描くことが自分にとっての救いであり、歓びであることを真摯(しんし)に求め、それが若き日から卯港さんの日々に降り積もる悲しみを抱えて、宿命のような長期の潜伏期間をもつ病とともに蚕が繭を吐き出すように紡いだ作品を産んだ。


 9月の初め。阪神・岩屋駅に近い BBプラザ美術館で石井一男展が始まった。

石井さんの作品にふれるのは、昨年1月以来だ。この展覧会は「『奇跡の画家』に書かれたお客様に渡っている作品が大半」(島田さん)だそうだ。一回りした後「女神」「母と子」図の前に置かれたソファに座っていると、当の石井さんが学芸員らしい女性に伴われて現れた。

1年前に見た細身の体にキャンバス地のジャケットを着こなし、ちょっと猫背の姿は変わらない。
「テーマは、今でも女神ですか」と聞いてみたが、寡黙の石井さんは「最近は、色々描いています」と右壁の作品群を指さされた。

島田さんが石井さんを見出して個展を開き、ノンフィクション作家の後藤正治さん(元・神戸夙川学院学長)が石井さんを主人公に書いた「奇跡の画家」がベストセラーになり、出された2冊の画集も重版を重ね、孤高の画家・石井さんの環境は劇的に変わった。それにつれて、描くテーマも広がりを見せ始めた。「石井さんが孤独で死に向いあっていた状況は変わりましたが、揺らぐことのない豊かな世界が広がった、ということでしょう」と、島田さんは話す。

 島田さんは、著書の最後で石井さんについて、こう語る。
 
石井さんが、ゆったりと作品と対話し、イメージが降りてくるまで待つこと。そして、いつまでも蝸牛の歩みであることを願っている。
石井さんに当たる光は小さな教会の伽藍や破れ寺の暗い御堂に差し込む薄明であってほしいいし、賞賛は密かな吐息や独白であってほしい。
・・・石井さんの女神たちや心象風景が、地下水脈からこんこんと水が流れるように大地を潤し、困難にある人たちに寄り添い、いつまでも孤独な魂とともにあることを願っている。


2011年8月 7日

読書日記「『神隠しされた街』若松丈太郎詩集(日本現代詩文庫第二木期③)(土曜美術社出版販売・1996年刊)

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この詩が、17年前に詠まれたものだということが信じられるだろうか。

四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
サッカーゲームが終わって競技場から立ち去ったのではない
人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
ラジオで避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れると思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけを抱いた老婆も
入院加療中の病人も
千百台のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
鬼ごっこする子どもたちの歓声が
隣人との垣根ごしのあいさつが
郵便配達夫の自転車のベル音が
ボルシチを煮るにおいが
家々の窓の夜のあかりが
人びとの暮らしが
地図のうえからプリピャチ市が消えた
チェルノブイリ事故発生四十時間後のことである
千百台のバスに乗って
プリピャチ市民が二時間のあいだにちりぢりに
近隣三村あわせて四万九千人が消えた
四万九千人といえば
私の住む原町市の人口にひとしい
さらに
原子力発電所中心半径三〇㎞ゾーンは危険地帯とされ
十一日目の五月六日から三日のあいだに九万二千人が
あわせて約十五万人
人びとは一〇〇㎞や一五〇㎞先の農村にちりぢりに消えた
半径三〇㎞ゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町
富岡町 楢葉町
浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村
小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約十五万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
事故六年のちに避難命令が出た村さえもある
事故八年のちの旧プリピャチ市に
私たちは入った
亀裂がはいったペーヴメントの
亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
ツバメが飛んでいる
ハトが胸をふくらませている
チョウが草花に羽をやすめている
ハエがおちつきなく動いている
蚊柱が回転している
街路樹の葉が風に身をゆだねている
それなのに
人声のしない都市
人の歩いていない都市
四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
鬼の私は捜しまわる
幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のこんろにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上のひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる
鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
集合住宅も
崩れはじめている
すべてはほろびへと向かう
人びとのいのちと
人びとがつくった都市と
ほろびをきそいあう
ストロンチウム九〇 半減期   二七.七年
セシウム一三七   半減期      三〇年
プルトニウム二三九 半減期 二四四〇〇年
セシウムの放射線量が八分の一に減るまでに九十年
致死量八倍のセシウムは九十年後も生きものを殺しつづける
人は百年後のことに自分の手を下せないということであれば
人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか
捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす


この詩は、神戸・島田ギャラリー ・島田誠さんのメールマガジンで知った。

著者は、南相馬市在住で高校の国語教師をしていた老詩人(1935年生まれ)。今は、福島市の親類宅に避難されておられるようだ。

詩集の「注記」によると、この詩は1994年5月にチェルノブイリ福島県民調査団に参加された時に詠まれた連詩「かなしみの土地」の1つ。

チェルノブイリで詠まれたのに、福島原発の現実と将来を見事に"予言"していて戦慄を呼ぶ。

昨年発刊されたこの著者の詩集 「北緯37度25分の風とカナリア」(弦書房・2010年刊)に収められた「みなみ風吹く日」では、国と電力会社が隠匿を重ねてきた事実を白日のもとにさらす驚がくの言葉が重ねられ、翌年に起きた福島原発事故の"予言書"そのものにみえる。

    
岸づたいに吹く
南からの風がここちよい
沖あいに波を待つサーファーたちの頭が見えかくれしている
福島県原町市北泉海岸
福島第一原子力発電所から北へ二十五キロ
チェルノブイリ事故直後の住民十三万五千人が緊急避難したエリア
の内側

たとえば
一九七八年六月
福島第一原子力発電所から北へ八キロ
福島県双葉郡浪江町南棚塩
舛倉隆さん宅の庭に咲くムラサキツユクサの花びらにピンクの斑
点があらわれた
けれど
原発操業との有意性は認められないとされた

たとえば
一九八〇年一月報告
福島第一原子力発電所第一号炉南放水口から八百メートル
海岸土砂 ホッキ貝 オカメブンブクからコバルト六○を検出
たとえば
一九八〇年六月採取
福島第一原子力発電所から北へ八キロ
福島県双葉郡浪江町幾世橋
小学校校庭の空気中からコバルト六〇を検出
たとえば
一九八八年九月
福島第一原子力発電所から北へ二十五キロ
福島県原町市栄町
わたしの頭髪体毛がいっきに抜け落ちた
いちどの洗髪でごはん茶碗ひとつ分もの頭髪が抜け落ちた
むろん
原発操業との有意性が認められることはないだろう
ないだろうがしかし
南からの風がここちよい
波間にただようサーファーたちのはるか沖
二艘のフェリーが左右からゆっくり近づき遠ざかる
気の遠くなる時間が視える
世界の音は絶え
すべて世はこともなし
あるいは
来るべきものをわれわれは視ているか


 原発事故直後の今年5月。2編の詩を含めた若松丈太郎さんの著作集 「福島 原発難民 南相馬市・一詩人の警告 1971-2011」(コールサック社刊))が発刊された。

発行者の 鈴木 比佐雄さんは、本の解説で、こう書いている。

若松さんの視線はこの四十年間、少しも変わらずに原発を告発し続けてきた。チェルノブイリにも行き、南相馬市と同じ二十五㎞に地点はどのような放射能の被害を受けているのかを南相馬市の未来として予言している。また原発従事者の中で詩や短歌を作っている人びとの苦渋に満ちた作品も紹介し、原発が地域住民を取り込みながら被曝者とさせていく悲劇を抉り出している。原発の悲劇を直視して自らも難民となった若松さんの告発・警告の書である『福島原発難民』を、原発と人類は共存できないと考える人びとや、また原発推進者であったが疑問を持ち始め、自然エネルギーの可能性を模索しようとする多くの人びとに読んでほしいと願っている。


 福島の詩人といえば、 和合亮一さん の3部作「詩の礫」「詩の黙礼」「詩の邂逅」が、新聞やテレビで評判になっている。

 読んでみたが、根っからの散文人間のせいだろうか?表題の老詩人の詠んだ詩のほうが身にしみてくる。大新聞が、若松丈太郎の著作を取りあげないのはなぜかと思う。

2011年4月24日

読書日記「生まれ出づる悩み」(有島武郎著、新学社文庫)。そして「アート・エード・東北」構想


生れ出づる悩み (集英社文庫)
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 市立図書館の一般開架ではなく、書庫に埋もれていた明治時代の有島武郎の本を借りる気持ちになったのは、今回の東北大震災について書かれた記事がきっかけだった。

 3月26日付け読売新聞朝刊に芥川喜好・編集委員が連載している「時の余白に」というコラムで「〝災害の深い喪失の中から立ち上がった″漁師出身の油絵画家・木田金次郎」がこの本のモデルと書かれていた。

 
私が君に始めて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。・・・  君は座につくとぶっきらぼうに自分のかいた絵を見てもらいたいと言い出した。君は片手ではかかえ切れないほど油絵や水彩画を持ちこんで来ていた。・・・
 君がその時持って来た絵の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚がある。それは八号の風景にかかれたもので、・・・。単色を含んで来た筆の穂が不器用に画布にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中には決して存在しないと言われる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのままべとりとなすり付けてあったりしたが、それでもじっと見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その絵が与える全体の効果にもしっかりとまとまった気分が行き渡っていた。悒鬱(ゆううつ)――十六七の少年には哺(はぐく)めそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずる事ができた。
 しかし、この少年が作者の前から姿を消して十年後。突然、舞い込んだ3冊の手製のスケッチ帳と1通の手紙を見て、作者は北海道・岩内の地を訪ねる。少年は、逞しい漁師に成長していたが、絵を描くことへの熱情は失っていなかった。

 
「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山をじっとこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。だれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪(ふんだく)るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくりおら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけです」

 怒涛のような嵐のなかで船を操って九死に一生を得たり、家族や周辺で数えきれない不幸に出会ったりしながら、山への自然への憧れを捨てずに絵筆を握る漁師の異常ともいえる激情を綴られていく。
そして、小説は、以下の1節で終わる。

 
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈る。


 有島武郎は、大正12年に軽井沢の別荘で情死する。それをきっかけに漁師・木田金次郎は、画家として独立することを決意する。

 しかし、有島が祈った″春″は、とんでみないかたちでやってきた。

 芥川編集委員の記事には、こう記されている。
 
昭和29年の洞爺丸台風で岩内大火に遭い、千五、六百点という作品の一切を家とともに焼失した時、61歳でした。町は壊滅し、彼も丸裸になった。翌朝、焼け跡にへたりこむ木田の写真が残されている。
 その直後から彼は圧倒的に再び描き出し、人生の残り8年で代表作のすべてを生み出したのです。筆が猛然と画面を走り、線の激しい交錯のうちに豊潤きわまりない空間が開けます。


   金次郎が生涯を過ごした北海道岩内町に設立された「木田金次郎美術館」掲載されている 「大火直後の岩内港」という作品を見ていると、東北・三陸海岸の港の写真が二重写しで浮かんでくる。

 この記事を読んだのと同じころに、前回のブログにも書いた神戸・島田ギャラリー ・島田誠さんのメールマガジンが届いた。島田さんは、文化で被災地に貢献する「アート・エイド・東北」という構想を進めている、という。

 この構想は、島田さんらが阪神大震災直後の1995年2月に立ちあげた 「アート・エイド・神戸」の実績から実現に向けて動きだそうとしている。

 「アート・エイド・神戸」の活動については、島田ギャラリーのホームページに詳しいが、市民や企業からの寄付や事業収入、復興資金からの助成などを財源に、チャリティー美術展、被災アーティストへの支援(1人10万円)、被災詩集の出版などの事業を実施した。2001年に活動を終了した今でも様々な文化振興の輪は広がり続けている。

 今月初めには「アート・エイド・東北」の実現に向けた話し合いも持たれた。
 東北の文化施設の多くが被災し、再開のメドがたっていないことや、東北在住のアーティストにはキャンセルが相次ぎ、仕事を失ったことが報告された。とりあえず、来年3月までに行われるプロジェクトに総額100万円(1件20万円を限度)、来年4月以降に実施されるプロジェクトに総額100万円(同)を助成することを目標にすることになった。5月初めには「アート・エイド・東北」を立ち上げることを目標にしている。

 島田さんは、阪神大震災直後に「このような時期になぜアートなのか」という疑問に「人は生きていくには空気や水やパンが必要だが、それだけでは生きていけない。心の問題、すなわち希望が大切だ」と答えた、という。

 そして、神戸新聞で連載しているコラムで「お金の品格」と題して「寄付する喜び」について語っている。

 寄付をした人々が播いた1粒、1粒の種が芽をふき、被災者のよろこびに育つことを願う。

2011年4月19日

読書日記「災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(レベッカ・ソルニット著、高月園子訳、亜紀書房刊)


災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか
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 この本は、このブログにも書いた「奇跡の画家」を発掘した 神戸・島田ギャラリー ・島田誠さんのメールマガジンで紹介されていた。

 「大きな災害に見舞われた被災地には、必ずといいほど一般市民による特別な助け合いの共同体が誕生する」ことを、世界各地で起きた大災害を取り上げて実証している。

 しかし、それが事実であったとしても、東北大震災の被災地の人々の生活ぶりを「災害ユートピア」と呼ぶ気持ちにはとてもなれない。毎日の報道で目にする現状は、あまりに悲惨かつ過酷すぎる。安全を主張し続けてきた原子力発電所が、既存のコミュニティーを無残に切り裂いてしまっている。

 だが目をいささか"斜交い"にしながら読み進むうちに、浅学にして知らなかった事実にふれることになった。

 災害が、そして災害が生んだユートピアが、いくつもの国々で革命や政治情勢の激変を生みだしていたのだ。

 一九八五年のメキシコシティの大地震では、市民は互いを、自分たちの強さを、そしてあらゆる場所で幅をきかせて全能に見えていた政府がなくても別に困らないことを発見し、しかもそれを手放させなかった。それは国を作り変えた。・・・メキシコ人はいったんユートピアを味わうと、それを日常生活の大きな部分にするために積極的な行動に出た。


 メキソコシティのタコ部屋のような仕事場で働いていたお針子たちは、二四時間体制で職場の見張りを始めた。「(お針子たちは)自分たちのボスが仲間の死体や悲鳴を無視して機械を運び出した日を正確に言えます。振り帰ると、その日が彼女たちの人生のターニングポイントになったのです」。瓦礫の中から、メキシコ初の、女性の率いる独立労働組合が誕生した。・・・そして彼女(たち)の国も変わった。
 PRIの一党支配体制が崩れ、メキシコは複数政党による民主制の国になった。

 地震が起きたとき、当時のメキシコ大統領はどうしていたか。
 (その)姿はどこにも見当たらなかった。その後、被災地を歩き回ったものの、被災者と会うことはなく、・・・ついにテレビでスピーチを行うと、冷たくて、まるで他人事のような話しぶりだった。

 どこかの国のリーダーとのあまりの相似形に苦笑すら浮かばない。

 メキシコ大地震から九カ月もしない間に起きたチェルノブイリ原発事故は、なにを引き起こしたか。当時のソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフは、こう話している。
 「わたしが始めたペレストロイカ以上に、二〇年前のこの月に起きたチェルノブイリ原発事故こそが、おそらく五年後のソ連崩壊の真の原因でした。・・・あの事故の前に、ある時代があった。そして事故の後にはまったく違った時代があったのです」


 この事故が大惨事となった原因の一部が、当時のソ連の秘密主義や無責任で無力、冷淡な統治にあった。
 ソ連の衛星国だったポーランド、東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアの市民が立ち上がったとき、(チェルノブイリ事故で)すでに見る影もなく弱体化していた一大強国が彼らを制圧することはできなかった。

 「何よりもチェルノブイリの事故が、表現の自由を拡大する道を、それまでの体制の継続が不可能になる限界まで切り拓いたのです。あの事故により、グラスノスチ(情報公開)の政策を推し進めることの重要性が疑問を挟む余地がないほど明白になりました。そして、わたしがチェルノブイリ前とチェルノブイリ後という観点で、時代を考え始めたのも、あの頃でした」


 あの2001年"9・11"事件で尽きるはずだった米国・ブッシュ政権の天命を奪ったのは、2005年8月29日にニューオリンズを襲ったハリケーン"カトリーナ" だった。

 メキソコ湾岸の廃墟に立って、多くのジャーナリストが、大惨事が起きていた間の連邦政府の無能ぶり、冷淡さ、愚かさに対するこみ上げる怒りを口にした。・・・全国規模で論調が変わり、ブッシュはあっという間にアメリカ史上、最も人気のない大統領に転落した。


 9月1日に大統領は「誰一人、あの堤防の決壊を予測していた人などいないだろう」と発言した。メディアはのちに、8月28日に彼がその可能性について警告されている場面を撮ったビデオを入手した。
 そのころには、コミュニティのまとめ役からのしあがった急進派の黒人の一男性が(2008年の大統領選の)有力なライバルになっていた。(その候補は)ニューオリンズでキャンペーンを開始し、貧困対策を課題の中心に据えた。国民は変わった。・・・カトリーナが転換点だった。


 誰もが認め始めた管首相のリーダーシップのなさ、なにも行動を起こそうとしない自民党、自らが編み出した原発・安全神話の崩壊を認めようとしない電力会社、関連産業界・・・。それが、これからの日本になにを引き起こすのか?

 この本では、被災地に立ちあがる特別な共同体「災害ユートピア」と同時に「エリートパニック」という事実の検証にかなりの紙面を割いている。

 
 コロラド大学の自然災害センターを率いる災害社会学者キャスリーン・テアニーはカルフォリニア大学バークレイ校で、1906年の(サンフランシスコ)地震の100周年記念に講演を行い、聴衆をとりこにした。その中で彼女は「エリートは、自分たちの正当性に対する挑戦である社会秩序の混乱を恐れる」と主張した。彼女はそれを「エリートパニック」と呼び、パニックに陥る市民と英雄的な少数派という一般的なイメージを覆した。「エリートパニック」の中身は「社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死手段に訴える性向、噂にもとを起こすアクションだ」


 「(スリーマイル島原発事故)のときには、原子炉ですでに原子炉底部の半分がメルトダウンし、閉じ込め機能が破られるまでに三〇分しかない状態だったそうです。・・・エリートたちは住民がパニックになるのを恐れて、原子炉がどんな危険な状態にあるかを公表しなかったのです」。人々が危険な存在であると想像したせいで、彼らは人々を大変な危険にさらしていたのだ。


 福島第一原発事故で、政府が出した自宅待機とそれに続く自主避難という摩訶不思議な指示。東京電力がどうしても明かさない危機の実態・・・。

「エリートパニック」によって、未来を担う子どもたちが健康被害に陥ったり、死に至ったりしないことを必死に願う。

2010年1月31日

読書日記「奇跡の画家」(後藤正治著、講談社刊)「絵の家のほとりから 石井一男画集」(石井一男著、ギャラリー島田刊)



奇蹟の画家
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おすすめ度の平均: 3.5
4 絵はその存在自身で全てであり。観て感ずるものがあれば...その絵とあなたは共鳴したのだ!それで十分ではないか?
3 ルオーの絵?
3 本人が多くを語らない以上「絵」の力を伝えるにはこの構成しかないのはわかるのだが


図書館の予約の関係で、絵画関係の本が続いてしまった。

 ノンフィクション作家の後藤正治さんが、神戸・ポートアイランドにある神戸夙川学院大学の先生になったのを新聞で何度か見て、なぜ?と思っていたが新著「奇跡の画家」の冒頭でこんなことを書いておられる。

 「(大学の誘いに)イエスの返事をしたのは・・・いささかもの書き稼業に倦むことがあって、・・・」

 物書きらしい、自虐的な表現なのだろうが、この大学で教えることになって神戸のことを少しでも知りたいと思ったことが、この本が誕生するきっかけになる。取材の行き届いた後藤さんのいつもの平易な文章を、一気に読んだ。
 後藤さんは、神戸・元町の老舗書店、海文堂の元社長で、現在は、ギャラリー島田を営む島田誠さんを紹介され、島田さんを通して無名の画家、石井一男さんを知る。

 島田さんと石井さんの出会い、石井さんの作品については、ギャラリー島田のホームページやブログ それに「石井一男の小さな美術館」という丁寧なWEBページにくわしい。

 絵の素人がとやかく言うのも失礼な話だが、本の写真やWEBページで見た最初は「奇跡の画家」というのは、ちょっと大げさすぎないかなという感じ。"奇跡"という驚きよりは、なにか静逸な奥深さ、孤独感。昨年の秋、京都・大原の三千院を訪ねた際に出会った苔むした野仏のように、知らぬ間にやすまる思いに引き込まれるような・・・。

 石井さんの取材を始めて3年、石井さんに質問しても、いつも「ウーン」と答えてくれない。しかたなく、後藤さんは石井さんの作品に出合った人の取材を続けていく。

 定年退職して間もない夫を癌で亡くした妻は、二階に上がる階段の途中の狭い空間に置いた石井の女神像を「何か気分がすぐれないとき・・・じっと絵の前にたたずんでいた夫の姿を」覚えている。


 毎日新聞朝刊のコラム「余禄」(2005年5月2日)には、こんな記事が載った。
 「その部屋にはたくさんの女神がほほえんでいた。・・・イコン(聖像画)のような、見る人の心に深く錐(すい)を下ろす作品だ」


 神戸市立本山第一小学校教諭の中西宮子は、知らない間に石井作品のコレクターになっていた。
 「中西が、石井作品から受け取ったものは、人・石井一男の感触や雰囲気を含めた全体的なものだ。おごらず高ぶらず、謙虚で物静かななかにひっそりとあるなにか確かなもの――。その知覚はふと、自身に知らず知らずの間に付着するアカを洗い流し、浄化してくれるようにも感じた」


 ギャラリー島田で、石井一男展が開かれているのを知り、出かけてみた。

 山手幹線からハンター坂を登って数分。カトリック神戸中央教会の斜め前にあるガラス張りのドアを押して作品を見た最初の印象は「なんだか、明るいなあ・・・」。黒いモノトーンの作品もあるのだが、グワッシュで描かれた初期の作品より、明るい清涼感が漂う。アクリルで描いた作品が多くなったせいだろうか。

 奥で、白髪を短く刈って、背中を少し曲げた男性が、のぞき込むように女性客と話していた。キャンバス地のシャツに、厚いゴム底の黒靴。すぐに石井さんだと分かった。
 「最初はなぜ、グワッシュを使われたのですか?」「油と違って、すぐに乾くので次が塗れますから」「油絵具より安いのですか」「少しね・・・」。失礼な質問だったなあと、後で恥ずかしくなった。

 地下の企画展会場には島田さんもおられた。細身の体に、チェックのシャツを着こなし、この仕事にかけていることを全身ににじませておられる67歳。

 「最初に絵を見た時?うまい,へたを越えたただものではない、という感じを持ちました。心に届くなにか。野道で風雪の野仏に会ったような、心に通じるものが響いてきました」

 「最近の作品がかわってきたのは、石井さんの世界が広がってきたということではないですか。孤独に生きた最初の画集の題は『絵の家』 。それが第2の画集で『絵の家のほとりから』になり、周りに広がってきたのです。女神が心とあそび、二人の女神になり、声が聞こえ、青空に鳥が飛び、花を描き、母子がいる」

 2番目の画集の巻頭語で、石井さんはこう書いている。

  
きょうも一日、さほどのものも描けていない。
そして夜・・・、銭湯へ。
ああ、ごくらく、ごくらく。
十時ごろ、落語のテープを聴いて眠りにはいる。
きょうも終わる。
そうして、あしたがくる。
感謝。


 そこには、昔と少しも変わらない石井さんがいる。
 作品の売り上げを寄付に回したいという石井さんに「将来、なにがあるかは分からないから」と一部に留めるよう、島田さんは説得を続けている、という。