検索結果: Masablog

このブログを検索

大文字小文字を区別する 正規表現

Masablogで“村山槐多”が含まれるブログ記事

2010年11月 2日

読書日記「ゴッホ 日本の夢に懸けた芸術家」(圀府寺 司著、角川文庫)、「ゴッホはなぜゴッホになったか 芸術の社会的考察」(ナタリー・エニック著、三浦篤訳、藤原書店刊)

Kadokawa Art Selection  ゴッホ  日本の夢に懸けた芸術家 (角川文庫―Kadokawa Art Selection)
圀府寺 司
角川書店(角川グループパブリッシング) (2010-09-25)
売り上げランキング: 10864
おすすめ度の平均: 5.0
5 手紙魔ゴッホ

ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察
ナタリー・エニック
藤原書店
売り上げランキング: 381163
おすすめ度の平均: 4.0
5 ゴッホを調べるための出発点として利用できる
3 美術ではなく社会科学の本である


 先月末に、大阪・サンケイホールブリーゼで、劇団「無名塾」の公演「炎の人」を見た。
主演の仲代達矢が、同じく主演した「ジョン・ガブリエルと呼ばれた男」を観劇した時から、この公演も見逃せないと思っていた。

 10月から来年3月までの全国公演で唯一の大阪公演だが、なんだか客席がまばらである。だが、仲代達矢は77歳とは思えないハリのある声で、炎のような熱気と狂気の人、ヴィンセンント・ヴァン・ゴッホを演じ切り、仲代座長に鍛えられた「無名塾」の若手俳優陣の熱演も最後まであきさせなかった。

 若い時に聖職者を志して挫折し、娼婦を妻にしようとして嫌われ、フランス・アルルの地で芸術家の理想の家を作ろうとして友人の画家、ゴーギャンに逃げられ、自らの耳を切る・・・。

 仲代が演じたゴッホは、けっして天才ではない、最後まで悩みのつきない普通の人間だった。

 シナリオは、劇作家の三好十郎が、1951年に「劇団民藝」のために書き下ろしたもの。休憩時間にロビーで販売していた「三好十郎 Ⅰ 炎の人」(ハヤカワ演劇文庫)を買った。
三好十郎 (1) 炎の人 (ハヤカワ演劇文庫 22)
三好 十郎
早川書房
売り上げランキング: 236561


 この本のエピローグに、こんな表現がある。     
    ヴィンセントよ、
    貧しい貧しい心のヴィンセントよ、
    今ここに、あなたが来たい来たいと言っていた日本で
    同じように貧しい心を持った日本人が
    あなたに、ささやかな花束をささげる。 
    飛んで来て、取れ。
 
日本にもあなたに似た絵かきが居た
    長谷川利行佐伯祐三村山槐多や・・・
そいう絵かきたちを、
ひどい目にあわせたり
それらの人々にふさわしいように遇さなかった
日本の男や女を私は憎む。
ヴィンセントよ!
あなたを通して私は憎む。

 翌日、東京に行く用事があり、六本木の国立新美術館で開催中の「没後120年 ゴッホ展」に出かけた。

 ゴッホと言えば、誰でも思い浮かべる「ひまわり」「自画像」を中心した展示でなかったのがおもしろかった。

独学の芸術家であったゴッホが、ミレーの影響を受けて「種まく人」を描く。長方形の枠に横糸、縦糸を張った「<パースペクティブ フレーム(遠近法の枠)」を使って模写を続け、ドラクロアの色彩理論を学んで「じゃがいもを食べる人々」を生みだし、補色を効果的に使うことを習っていく。

 こうした努力が南仏・アルルで花開き「アルルの寝室」「アイリス」など、色彩豊かな作品を登場させる。
 そして、サン・レミの療養所では、後にゴッホを英雄にした作品群を生みだした。

 「ゴッホは、最初から天才であったわけでない。努力の人だった」。そんなことが、素人の私にもなんとなく理解できる展示構成だった。

 関連本やグッズを販売するコーナーもけっこう混んでいた。「ゴッホ 日本の夢に懸けた芸術家」(圀府寺 司著、角川文庫)を買った。

 西洋美術を専攻する大阪大教授である著者は、あとがきで「ゴッホを特別な存在にしているもの、それは彼の手紙である」と書いている。現存するものだけでも、弟・テオ宛の約600通を含めて800通近くもある、という。

 もしファン・ゴッホの手紙が一通も現存しなかったとしよう。わたしたちはこの画家が何を考えてひまわりや農民や星空を描き、日本について何を思い、家族や友人、知人たちとどう付き合ったかということについて何も知ることができない。


 著者によると、「夜のカフェ・テラス」という作品について、ゴッホは妹・ウイルに宛てた手紙で、こう書いている。
 このごろぼくは星空をどうしても描きたいと思っている。ぼくは夜のほうが昼よりずっと色彩豊かだと思うことがある。もっとも強い紫や青や緑で彩られている。注意深く見れば、星にはレモン色のものもあれば、燃えるようなバラ色や、緑、忘れな草の青色のものもある。星空を描くのに、青黒い色のうえに小さな白い点々をおいただけでは不十分なことは言うまでもない。


 「坊主としての自画像」という作品について、ゴッホは「ぼくはまた習作として自分自身の肖像画を描いた。そこでぼくは日本人のように見える」という手紙を遺している。目は意図的に「日本人風につりあげた」という手紙も残っているという。アッと驚いてしまう。

 これらの手紙がどんな解説書より雄弁かつ貴重なことは明らかだ。

 国立新美術館のゴッホ展の副題は「こうして私はゴッホになった」とあった。

 どうも、これは5年前に発刊された「ゴッホはなぜゴッホになったか 芸術の社会的考察」(ナタリー・エニック著、三浦篤訳、藤原書店刊)という本を意識したものらしい。

 読売新聞の記事(2010年10月31日10月21日付け)に、この本について「没後に伝説化され、熱烈に礼讃されるまでを検証した」と書かれている。どうしても読みたくなり、雨の六本木や丸の内の大型書店を捜しまわったが、在庫なし。帰ってから、図書館でやっと借りることができた。

 ところがこの本、なんとも難解で・・・。

 序論には、こうある。
 今日、ゴッホという事例は「ブラック・ボックス」のひとつと化している。・・・狂気の虜になった偉大な芸術家、切られた耳、アルウ、アイリスとひまわり、弟テオ、悲劇的な死、呪われた画家、不遇の天才、周囲の無理解、売り立て記録の更新・・・。
 私たちが開けようとしているのはこのブラック・ボックスであり、その内容と形成過程を分析するのである。


 そこで著者が採用したのが、民俗学で使われる「参与観察」という手法。ゴッホにまつわる文書や発言、画像や行動の採集と観察を行った、という。

 そして「結論」として、こう書く。
 作品が謎と化し、人生が伝説と化し、人物の境遇がスキャンダルと化し、絵が売られて展示され、画家が立ち寄った場所、触れた事物が聖遺物と化すこと。ひとりの近代画家の列聖はこのようにしてなされる。・・・
 ゴッホの伝説は、呪われた芸術家という形象の創設神話である。


 最後の「訳者解題」は、もうすこし分かりやすい。
 生前無名のゴッホの作品は、死の直後に批評家たちからほとんど全員一致でその独創性を認められたが、一世代後には、ゴッホの生涯そのものが社会の無理解というモチーフの上に築き上げられた聖人伝説に再編成されてしまった。


 (著者)エニックが提起する仮設の刺激的なところは、この現象(ファン・ゴッホ現象)が芸術家の単なる「神聖化」には還元できず、かつて偉大なる犠牲者であった芸術家への罪障感に裏打ちされた償いの念こそが、現代社会に見られる集団的なゴッホ崇拝の基底にあると解析した点にある。

 聖人・ゴッホの作品はこれからも高騰を続け、そのうち美術館や好事家の"神殿"奥深く安置されて、我々が目にすることはできなくなるのかもしれない。

   

2010年1月16日

読書日記「偏愛ムラタ美術館」(村田喜代子著、平凡社刊)

偏愛ムラタ美術館
偏愛ムラタ美術館
posted with amazlet at 10.01.16
村田 喜代子
平凡社
売り上げランキング: 87499


  このブログにも書いたことがある芥川賞作家の村田喜代子が、小説を書く時の「栄養剤」として"偏愛"している絵画の数々を独断と偏見で書き綴った、なんとも凄みのある本である。

「大道あや」という画家を、この本で初めて知った。「しかけ花火」という絵について書くなかで、聞き取り「へくそ花も花盛り」という本に書かれた大道あやの言葉を引用している。あやの夫は経営していた花火工場が爆発して死ぬ。

 主人は焼け焦げとりました。でも誰も主人を運び出してくれようとせんのです。(中略)じゃから、私が主人の頭を抱くように抱え、弟が布を添えて足のほうを持って、運び出した。そしたら、主人の頭がパカッと割れて、脳味噌がドロッと落ちました。倉庫にあった茶箱に白い布を敷いて、主人を入れ、脳味噌も、こんなところに一滴でもおいていけんと思うて、みんな手ですくうて、紙につつんで、シーツにつつんで茶箱に入れて、家に帰りました。


 その事故の2年後に「しかけ花火」は描かれた。さく裂し、崩れ落ちる花火の間を魚が泳いでいる・・・。すべてのものでカンバスを埋めつくさずにはおられない「巨大な空間に対する圧倒的な畏怖の念」を著者は感じる。

 村山槐多「尿する裸僧」について著者はこう書く。

 これは彼のもう一つの自画像だろう。彼が死んだあばら家の壁は落書きだらけで、その中に男が放尿する絵も幾つもあったらしい。槐多の絵の放尿はまるで「爆発」だ。思いっきりの射精であり、エネルギーの放出であり、それから何だろう。まるで滝だ。人体のなかに滝を落下させている。


 この絵は信州上田市の「信濃デッサン館」にある。昨年、近くの「無言館」を訪ねた時に、時間がなくて行きそびれたのが、なんとも残念だ。

   著者は、大分県湯布院町の老人ホームに隣接している「東勝吉常設館」を訪ね「由布岳の春」など、デフォルメされた独特の絵を飽きずに眺める。
 東勝吉は長年木こりを生業としてきたが、老人ホームに入ってから院長に勧められて83歳で初めて絵筆を握り、99歳で死ぬまで絵を描き続けた。

 人間というのは、つくづくびっくり箱だと思う。何十年も生きているうちに、ある日ひょいと、とんでもないものが飛び出してきたりする。

 19世紀から20世紀にかけて素朴派と呼ばれる画家たちがいた、という。普通の生活をしていた人たちが、70歳を過ぎてから絵筆を握っている。

 そうか、年を取るというのは、身軽に自在になるということだったのか・・・。


 私でも遅くないかなと、思ってみたりする。

 まだまだある。著者はロバート・ジョン・ソーントンの奇怪なボタニカル・アートに引き込まれ、このブログにも書いた河鍋暁斎の想像力に「負けないでいこう」と、わが身を奮い立たせる。

 数々の「受胎告知」の作品のうち、私も何年か前のイタリア巡礼で見たフイレンツエ・サン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェリコの壁画について、こう書く。

 微光に包まれたような柔らかさが好きだ。・・・

絵は完全飽和なのだ。アンジェリコの「受胎告知」は受諾と祝福で飽和して、一点の矛盾も不足もない。満杯である。


▽参照
    平凡社のこの本の紹介WEBページ

▽その他、最近流し読みをした本
  • 「林住期を愉しむ 水のように風のように」(桐島洋子著、海竜社刊)
     「林住期」 といえば、2007年に発刊された五木寛之 の著書 がベストセラーになったが、なんとこの本は1998年の刊である。 図書館の返却棚に並んでいるのを見つけて、思わず借りてしまった。この著者 のエッセイは、その明るさが好きでいくつか読んだが、相変わらず生活力と活動力にあふれたタッチがいい。ほかにも「林住期が始まる」「林住期ノート」という著書もあるようだ。

  • ・「バブルの興亡 日本は破滅の未来を変えられるか」(徳川家広著、講談社刊)
     著者 は徳川将軍家直系19代目にあたるエコノミスト。
     エコノミストの経済予測ほどいいかげんなものはないと読まないことにしているだが、結構評判がよかったので、昨年10月の発刊直後に図書館に予約を入れて、先日借りることができた。
    昨年9月の政権交代直後に書かれたが「史上最大の予算出動」など、けっこう当たっている。「バブルが発生するのは、だいたい危機の二年後」「その規模は空前の巨大規模」「そのバブルも崩壊して廃墟経済がやって来る」「バブル期には金の価格が下がる」・・・。小気味のよい予想は続く。マー、まゆつばで流し読みも一興。

  • ・「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」(池澤夏樹著、小学館刊)
     フランスなどに長く住み、聖書の知識なしにはヨーロッパ社会を理解できないことを知った著者 が、父の母方の従弟である聖書学者の碩学、秋吉輝雄 に、自らの深い教養から出てきた疑問を投げかける稀有の本。
    聖書についてより、ユダヤとユダヤ人について多くのページがさかれるが、国境を持たない国に生きてきたユダヤ人への理解がなかなか進まない。聖書とユダヤについて、なにも知らなかった自分に気づかされる。



林住期
林住期
posted with amazlet at 10.01.16
五木 寛之
幻冬舎
売り上げランキング: 46855
おすすめ度の平均: 4.0
3 団塊世代向け
4 平易さを侮ってはいけない
5 人生観が変わるかもしれません。
5 人生設計を考えるにあたり非常に参考になる考え方
3 備えよ常に。

ぼくたちが聖書について知りたかったこと
池澤 夏樹
小学館
売り上げランキング: 30808
おすすめ度の平均: 5.0
5 『聖書』をひもとき歴史にひらく