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Masablogで“長崎教会群とキリスト教関連遺産”が含まれるブログ記事

2018年7月26日

読書日記「潜伏キリシタンは何を信じていたか」(宮崎賢太郎著、株式会社KADOKAWA、2018年2月刊)、「かくれキリシタンの起源」(中園成生著、弦書房、同年3月刊)、「消された信仰」(広野真嗣著、小学館、同6月刊)

潜伏キリシタンは何を信じていたのか
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かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》
中園 成生
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 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、今月やっと世界遺産に登録されることが、ユネスコから認められた。

 文化庁の資料によると「『潜伏キリシタン』が密かにキリスト教への信仰を継続し,・・・既存の社会・宗教と共生しつつ,独特の文化的伝統を育んだ」こと が、世界遺産として認められた理由だという。

 登録を待っていたように、「潜伏キリシタン」についての著書が次々と発刊された。

 「潜伏キリシタンは何を信じていたか」の著者、宮崎賢太郎は、潜伏キリシタンを祖先に持ち、カトリック系の長崎純心大学の教授などをつとめたクリスチャンだが、これまでキリスト教会で常識とされてきたことに反論を試みる。

 
「(領主によって)強制的に集団改宗させられた大多数の民衆層のキリシタンたちは、(指導する司祭などが不在だったから)キリスト教についてほとんど何も知らなかった」「潜伏キリシタンたちが守り通してきたのはキリスト教信仰ではなく、いかなるものかよく知らないが、キリシタンという名の先祖が大切にしてきたものであった」「長崎県生月(いきつき)島などにごくわずか存在するカクレキリシタンには、隠れているという意識はまったくなく、その信仰の中身もキリスト教と呼ばれるようなものではなく、先祖崇拝的傾向の強いきわめて日本的な民族宗教である」


 さらに著者は、幕末の開国後の1865年(慶応元年)3月17日。長崎・浦上の潜伏キリシタンが、長崎市の大浦天主堂を訪ねてプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」も、プチジャン神父が自作自演したフィクションであると推理する。

 
 (かくれキリシタンが告白した)「我らの胸あなたの胸とおなじ」という言葉は、逆にプチジャン神父のほうから・・・告白した言葉ではなかったか。信徒たちが「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのでなく、プチジャンのほうから、「あなた方が慕っているサンタマリアの御像はこちら」と案内したのではないか。「あなた方がずっと大切にしてきたマリア観音は、本当はこのサンタマリアの御像なのです。御子ゼズス様を腕に抱いていらっしゃるでしょう」と。


 信徒発見のニュースは、たちまち世界中に伝えられた。日本のカトリック教会はこの日を祝日と定め、発見から150周年にあたる今年は、各司教区では様々な祈りのイベントを展開している。

 それをフィクションと片付けられても、カトリック信者の片割れとしては、にわかに納得しにくい。しかし、250年もの司祭不在の禁教期に、キリシタンの間でなにかが起きていたとしても不思議ではない。フイールドワークを踏まえて、それを分析・研究したのが「かくれキリシタンの起源」だ。

 著者、中園成生は、捕鯨の基地としても有名な生月町の生月島町博物館・島の館学芸員として長年、かくれキリシタンの研究に取り組んできた人。

 実は、3年も前の2015年2月に著者の最新研究成果を紹介する講演を聴講しており、このブログでも記録している。この著書の骨子にもなるブログの一部を再録してみる。

   
 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の中園成生さんが、平戸島の北西にある生月島で、現在でも隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。・・・
 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』(前述の宮崎賢太郎は、この説をとる)」が従来の考えだった。
 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。
 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。


 この講演の時には、長崎県は世界遺産への登録を「長崎教会群とキリスト教関連遺産」と題して申請していた。しかし、ユネスコの諮問機関であるイコモスから「禁教時に焦点を当てるべきだ」という注文がついて、登録申請をいったん取り下げ、潜伏キリシタンの遺産に焦点を当て直してやっと今回の登録決定にこぎつけた。

 この間に、「隠れキリシタン」についての学問研究も進み「潜伏キリシタン」「カクレキリシタン」といった区別もされるようになった。

 「消された信仰」は、生月島のかくれキリシタンの取材を通じて、世界遺産登録への隠された事実も明らかにしている。

 著者の広野真嗣は、新聞記者を経て、この本で題24回小学館ノンフィクション大賞を受賞したジャーナリストで、自称「信仰の薄いキリスト教徒」。

 著書の冒頭で「なぜ生月島は世界資産から外されたのか」という問いかけをしている。

 
 著者によると、世界遺産登録申請に関連して2014年に長崎県が作成したパンフレットでは「平戸地方(生月島を含む)の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる〈かくれキリシタン〉によって今なお大切に守られている」となっていたのが、再申請後の2017年のパンフレットでは「〈かくれキリシタン〉はほぼ消滅している」と変わった。
 著者が取材した、さきの中園学芸員はその理由について「これまでやってきたキリシタン史の説明との整合がとれなくなるからです」と答えた。
 中園学芸員は「彼ら(長崎県)は、(宮崎教授が主張する)〈禁教期変容論〉の影響を受けています。江戸時代の〈潜伏キリシタン〉と、現在に続く〈かくれキリシタン〉は違うもので、変容してきた、というスタンスをとっているんです」「でも、禁教期のいつから何が変容したのかという説明はできないのです。イコモスから突っ込まれたら説明が不能な厄介な問題になる。だからこそ、生月島のかくれキリシタンの存在を"消そうとしている"。その存在は、はっきりしているのに」と話した。


 当初、長崎県などが「長崎教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指したのは、教会群などによって、長崎の観光振興を図りたいのも狙いだった。
 しかし、イコモスの指摘で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変わっていく過程で、その内容があいまいになり、250年間、信仰を守り続け、「オラショ」などの文化遺産を持つ生月島のかくれキリシタンが切り捨てられ、当初あった遺産としての生月島は消えてしまった。

 かって、長崎の教会群や生月島などを3年にわたって訪ね、このブログで何回も取り上げてきた。それだけに、今回に世界遺産登録になにか冷めたものを感じてしまう。

※その他の参考文献
  • 「かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅」(後藤真樹著、新潮社刊)
  •  「祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」(松尾潤著、批評社刊)


2015年3月30日

聴講記「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県・朝日カルチャーセンター共催、2015年1月25、2月8日、22日)



長崎市内や五島列島の島々を世界遺産候補の教会群を友人Mと訪ね始めたのは7年前のこと。候補遺産のほぼすべてを回るのに3年かかった。

 その「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(地図)について、政府は今年1月、閣議決定を経て ユネスコに世界文化遺産追加の 推薦状を提出した。
 長崎県世界遺産登録推進課によると、ユネスコでの審議を経て来年9月にも正式に世界遺産登録が決まることが期待されているという。

nagasaki-1.JPG



 それを記念するためか、表題のようなセミナーが大阪のフェスティバルホールで開かれた。それを知ったMに誘われ、聴講に行ってみた。

 今回の推薦状リストは、2007年に制定された「暫定リスト」とは様変わりになっていた。

 以前の世界遺産候補地は教会を中心に29遺産あったものが、新しい推薦状では教会は 国宝と国の重文に指定されたものに絞られ、替りに国の 重要文化景観というあまり聞きなれない制度に指定されている長崎、熊本両県の集落景観などが追加され、候補地は計14か所になっている。

 当初、250年に及んだキリスト教伝来と弾圧、 信徒発見による復興を経て次々と建造された教会群を世界遺産として申請しようとしていたのだが、長い論議のすえに、隠れキリシタンが移住を繰り返してその信仰を守り、復興をはたしたという世界でも例を見ないキリスト教の歴史を物語る世界遺産として登録しようとしたようだ。

 第1日目の1月25日は、 岩崎義則・九州大学大学院准教授の 五島灘・角力灘海域を舞台とした十八~十九世紀における潜伏キリシタンの移住についてという論文による話しで始まった。

 長崎県・角力(すもう)灘を望む 長崎市外海(そとめ)地区 隠れ(潜伏)キリシタンが、弾圧を逃れて対岸の 平戸五島列島に移住して行ったというのは、これまで一般キリシタン歴史書の常識だった。

 岩崎准教授は、この常識にいささかの異議をとなえる。

 「潜伏キリシタンと分かれば、 邪宗として弾圧されたはず。移住していったのは浄土真宗檀徒でした」

 しかし、百姓の他藩移住が簡単でなかった江戸時代に、なぜこんな移住ができたのか。
 「実は、外海地区を支配していた大村藩と五島・福江藩との間で百姓移住協定が成立していたのです」

 大村藩が分家抑制策を展開していたことや浄土真宗が間引きを禁じていたこともあって、外海地区の村々は人口増大と貧困に悩んでいた。反対に離島の福江藩は財政逼迫で新しい田畑を開拓する働き手が必要だった。
 「私見だが、大村藩は捜査網を使って潜伏キリシタンと目された世帯を見つけ出し、浄土真宗檀徒として福江藩に送り出した。これによって、大村藩は人口問題と異宗問題の一極解決を図った」

 18世紀の末、協定では100人だった百姓の移住は、約3000人を数えた。岩崎准教授は「そのほとんどが潜伏キリシタンだった」とみる。

 五島に渡った人々は「五島へ五島へとみな行きたがる 五島やさしや土地までも」と謡った。
 しかし、与えられたのは、農耕が困難な辺境の地だった。百姓たちは「五島極楽来てみて地獄 二度と行くまい五島が島」と嘆いた。

 セミナー2日目の2月8日には、五島列島・新上五島町教育委員会文化財主査の高橋弘一さんは、この隠れキリシタンの厳しい生活が生み出し集落景観について語った。

 五島に移住してきた隠れキリシタンたちは、昔から海岸沿いで漁業をしていた「地下(じげ)と呼ばれていた人々の土地には入植させてもらえなかった。
 「居付(いつき)」と呼ばれた隠れキリシタンは、しかたなく山の急斜面を切り拓き、段々畑を作り、防風石垣や林を築くなど独特の集落景観を形成していった。

 そんな痩せた土地で稲作はできない。彼らの生活を支えたのは、大村藩・外海(そとみ)から持ち込んだ甘藷栽培だった。甘藷を保存するために、家屋の床下に竪穴の「いもがま」を掘って生イモを蓄え、干し棚で乾燥させた 「かんころ」を作り、天井裏で保存した。

 国の重要文化景観に指定されている 「新五島町北魚目の文化的景観」は、まさしくそんな景観という。高橋さんは「文化景観とは、その地域の生活や生業により育まれた景観のこと」と話す。

 そして、明治6年にキリスト教禁教令が廃止されて以降、五島列島では次々にカトリックの教会が建設され、五島独自の文化景観が形成されていった。

 新上五島町には、狭い地域にかつては35、現在でも29のカトリック教会が点在している。

 3年かけて回った際にも、岬の両側に別の教会があり、船でしか行けない教会もあった。隠れキリシタンたちは、道もほとんどない地域にしか住めなかったのだ。

 段々畑の続く高い山の中腹に、立派な教会がそびえているのも不思議だった。

 案内してくれたカトリック教徒であるタクシー運転手・Kさんは「この道から上がカトリック地区、下の海沿いが昔からの住民」という。説Kさんが子供のころ、地元のお社の祭にも、カトリックの子供は参加できなかったという説明がなんとなく納得できた。

   実は、高橋さんは1級建築士。新上五島町に務めることになったのは、2007年に火事で全焼した江袋教会(同町江袋地区)を修復する調査・設計管理を請け負ったのがきっかけだった。高橋さんは、修復の調査をしていて不思議なことに気づいた。

 調査してみると、新装された 江袋教会の屋根と、外海地区にある創建時の 出津(しつ)教会の屋根の写真が、双子の教会のようにそっくりなのだ。
 それも、教会建築では非常に珍しい 「袴腰屋根」という方式を採用している。

 出津教会を設計したのは、外海地区の布教に貢献した パリ外国宣教会 ド・ロ神父だが、高橋さんは「江袋教会の設計には、ド・ロ神父が深くかかわっていたにちがいない。キリシタン移住によって、外海と上五島は、集落の文化景観やイモ文化だけでなく、教会建設でも強いつながりを保ってきたのだ」と話す。

 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の 中園成生さんが、平戸島の北西にある 生月島で、現在でも 隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。

 明治6年にキリスト禁教令が廃止されてからは、隠れキリシタンの人々は順次、カトリックに"改宗"していった。
 生月島でも、20世帯がカトリックに戻り、カトリックの教会もあるが、500世帯は昔ながらの信仰を守り続けている。

 その地域では、数十軒単位の「垣内」「津元」や数軒単位の「小組」など大中小の信仰組織が堅持されており、お掛け絵(掛軸型の聖画に似た絵像)、金仏様(メダイなど)、お水瓶(聖水を入れる瓶)などのご神体を信仰している。

 「ご誕生御」(クリスマス)」「上がり様(クリスマス)」などの年中行事も変わらず続けられており、祈りの「唄オラショ」は、16世紀にキリシタンが唱えていた文句とほとんど同じ、というのも驚きだ。

 女性人気指揮者の西本智美が、このオラショを甦らせ、バチカンで演奏の指揮をしたテレビ番組を見た記憶がある。彼女の曾祖母は、生月島出身だという。

 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』」が従来の考えだった。

 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。

 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。

 生月島では、なぜここまで隠れキリシタンの信仰が継続できたのだろうか。

 中園さんは①この島は捕鯨で培われた強い経済力で、信仰組織を維持できた②キリシタンへの迫害はあったが、平戸藩の弾圧は大村藩ほど厳しくなかった、ことを挙げている。この島では、踏絵の資料も見つかっていないらしい。

 最後に、少し整理しておきたい。

 世界遺産候補が、最初の29から14に絞られていく過程で、堂崎大曾宝亀などの教会や 日本26聖人記念碑などは国に重文でなかったために、国の重文だった 青砂ケ浦教会は「周辺に駐車場ができ、保有管理が不備」であることを理由に、候補から外れた。

 しかし、これらの教会なども3年間の旅で訪ねたがいずれもすばらしい建築物だった。

 そこで、長崎県では候補から外れた遺産を別途「長崎歴史文化遺産群」として、保存、継承していく方針らしい。

 これらの内容は、長崎県のウエブサイト 「おらしょ」の「資産」をクリックすると、見ることができる。