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2009年2月18日

「五島列島教会めぐり③終 新上五島町」(2009・1・6)


 奈留島から新上五島町の郷ノ首港に着いた時は、南国の冬の日もすっかり暮れていた。

写真①写真② 翌朝午前8:30に宿を出て、奈摩湾を望む丘に建つ国の重文である「青砂ケ浦天主堂」(写真①)へ。早朝というのに、数台のトラックで来た10数人の作業員。痛みが激しいため、8月までシートで覆い、外壁、内部の修復工事を今日から始めるという。ギリギリ、鉄川与作による煉瓦造り教会第2作の外観を目にすることができた。
 天主堂の前にある説明板に「日本人が作った初期の煉瓦造り教会だが、本格的な教会建築の基本である重層屋根構造の外観、内部空間が形成された初めての例」とある。
 正面は、重層の断面をそのまま3分割し、薔薇窓や縦長アーチ窓に飾られ、白い石造りのアーチで飾られた重層さに見とれてしまう。
 内部(写真②)は3廊式で、やはりリブ・ヴォートルのアーチが白いしっくいの天井を支える。この教会が多くの司祭、シスターを輩出しているのは、この荘厳な美しさのためなのか。

写真③  奈摩湾の対岸の狭い丘に建つ「冷水教会」(写真③)は、白い木造建築の上に、青い6角形の塔をのせた簡素なスタイル。塩害を防ぐため、最近の修復で初めて新建材の壁が使われ、ステンドグラスは化成品、窓のサッシもアルミに替わったということだが、違和感はまったくない。少ない信徒でここまで管理してきた苦労を思う。

 途中に寄った塩の製造工房で「江袋教会」が、昨年2月漏電による火災で焼失した、と聞いた。カトリック信者でもあるこの工房の経営者などによって、再建のための募金活動と復元作業が続けられている、という。夕方、長崎に向かう高速船のチケット売り場にも募金協力を求めるチラシが張ってあった。キリシタン時代からの歴史が、地元に根付いている。

写真④写真⑤写真⑥ 世界初の洋上石油基地を望む「跡次教会」(写真④)、街の中心にある「青方教会」を経て、小さな入り江に建つ「中ノ浦教会」(写真⑤)へ。水辺に映る木造建築の美しさが女性観光客に人気ということだったが、残念ながら引き潮で、その風景は見られなかった。
 内部(写真⑥)は、回りの縁より天井面を高くした「折り上げ天井」で、祭壇部はリブ・ヴォートル天井。側壁上部の椿のデザインが鮮やかだ。「五島崩し」で、厳しい弾圧を経験した信徒たちが「五島で一番美しい聖堂を作りたい」と願った思いが伝わってくる。

写真⑦写真⑧写真⑨  信徒が20世帯ほどしかない村落に建つ民家風の「大浦教会」(写真⑦)、若松瀬戸の入江に赤い屋根を映す「桐教会」(写真⑧)、貝殻でできた海岸を望む「高井旅教会」を見て、山のすそ野をぐるりと回ったところに「福見教会」(写真⑨)の煉瓦壁があった。

 歩いてもいける距離に教会が建っているのが、ちょっと不思議に思える。大村藩・外海などから移住してきた後、信仰が認められた際に元の部落ごとに教会を建てたためらしい。明治の後期には、山をぐるりと回れる道などなかったのだ。

 この旅に行く前に「福見教会」の写真を見て、四角の煉瓦の箱はなんだろうかと思っていたが、玄関部だった。住民の98%がカトリックという地区で、トイレなどの手入れが行き届いているのが分かる。
 教会の前の説明板には「高い梁張りの船底天井などエキゾチックな雰囲気が漂っており、内部の左右には、ステンドグラスが張り詰めてある」と解説している。「われらの教会」という住民の意気込みが伝わってくる。

写真⑩ 島の中央部に戻って昼食後、カトリック教徒であるタクシーの運転手、Kさんが所属する赤い屋根の「丸尾教会」(写真⑩)へ。道路の上がカトリック、海に近い平地は仏教徒という住み分けと〟葛藤〝が今でも続いている。

写真⑪ ここは、鉄川与助の地元。与助の大きな墓があり、近くに与助が煉瓦造りの門(写真⑪)を建てた菩提寺(正光山元海寺)があった。教会建築の第一人者となった与助は、最後まで熱心な仏教徒だったという。その後、後継者は長崎に移って工務店を興した。翌日、長崎に渡り「浦上教会」を訪ねた際「原爆で崩壊した教会を再建したのは、鉄川工務店」という説明板があった。

写真⑫  世界遺産暫定指定の「大曾教会」(写真⑫)は、急な坂を登った丘の上で手を広げたキリスト像とともに、巻き上げ漁船基地・青方港を見下ろしている。
 煉瓦造りの重層屋根構造。8角形の銀色をしたドームと十字架を頂いた鐘楼が突出している。行き来する遠くの漁船からも見えたことだろう。
 教会が建つ丘は、ウバメガシの林で覆われている。明治の時代に、巻き上げ漁法の指導に来た和歌山の船員が植えたという。備長炭の原料である。

写真⑬写真⑭写真⑮ 日本有数の遠浅の砂浜が広がる蛤浜(写真⑬)を通り、頭ケ島大橋でむすばれた小島にある「頭ケ島教会」(写真⑭)にたどり着いた。島で産出する石材(砂岩)を積み上げた天主堂で、国の重要文化財に指定されている。20戸ほどの信徒が全財産を投げ出し、労働奉仕で10年近くをかけて完成させたロマネスク様式の天主堂だ。労働奉仕で収入の道を断たれ、何度も工事は中断したのに、司祭館まで石造りにしてしまった信徒たちのパッションは今でも燃え上っているようだ。
 内部(写真⑮)がまたすごい。外観の重厚さと様変わりに、天井や壁画に椿などの装飾が施され、華やかさに満ちている。表の説明板によると「2重の持ち送りによって折り上げられたハンマー・ビーム架構」。わが国の教会建築史上でも、例のない構造らしい。

写真⑯  海辺に、教会と同じ砂岩で造ったキリシタン墓地(写真⑯)があり、ひっそりと十字架を並べていた。5月には、墓標の間を赤いマツバギクがカーペットを敷きつめたように咲き乱れるという。

写真⑰ 高速フェリーに〝負けて″閉鎖されてしまった上五島空港を経て、「鯛ノ浦教会」へ。今は図書館になっている「旧教会」(写真⑰)の下に新教会がある。旧聖堂は木造瓦葺きだが、戦後になって正面に煉瓦の鐘楼が増築された。長崎・浦上教会の被爆煉瓦が使われている。

写真⑱  鯛ノ浦港から、夕方の便で長崎に渡り、翌日はサント・ドミンゴ教会跡(写真⑱)など、いくつかの教会や史跡を訪ねた。

 昨年5月には「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩いた。これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 長崎へのキリスト教伝来から、長い弾圧を経て獲得した信仰のあかしとしての教会群。世界に例を見ないという布教の歴史にふれて、3年後と言われる正式な世界遺産への登録を願う気持ちは高まる。

 しかし同時に、遺産を守るためにはあまりに厳しい過疎と旧住民とのいまだにとけない葛藤にも出会った。
 この遺産群を生かすために、今なにをしなければならないのか・・・。そんな思いが心のなかで渦巻く旅だった。

2009年2月11日

「五島列島・教会めぐり② 久賀島、奈留島」(2009・1・5)


 五島列島2日目。福江港を午前9:10に出る遊覧船「シーガル号」で久賀(ひさか)島に向かう。五島列島で最初に隠れキリシタンが信仰を宣言、厳しい拷問を受けたという歴史を背負った島だ。それが五島列島全体に広がり「五島崩し」と呼ばれるキリシタン弾圧につながったことは、この紀行①でもふれた。

写真①写真②写真③ ガイド役は、遊覧船会社の三男坊で、カトリック信者でもある気のやさしそうなK青年。遣唐使船も風待ちに立ち寄ったという田の浦漁港に着くと、マイクロバスに乗り換えて漁港を見下ろす丘の上にある「浜脇教会」(写真①)へ。

 3層の白いコンクリートの上に、金色の十字架を抱いた薄緑の木製の塔。全体に、小ぶりな感じの簡素な建物だ。1881(明治41)に建立された最初の天主堂が潮風にさらされて痛みが激しくなり1931(昭和6年)に再築。旧聖堂は解体されて五輪地区に移された。
 内部は、8分割の見事なリブ・ヴォートル天井のアーチが続く(写真②)。ステンドグラス(写真③)は、この島に昔から野生していた椿の花をデザインしている。

 島には、天然記念物の椿原生林もあり、椿油の生産量が戦後日本一を記録したこともあるそうだ。道路沿いにも野生の椿が多く、2月に入れば咲き誇る花が見事らしい。早生の米がうまいことでも知られ、案内役のK青年は「水がよいのでしょう」という。しかし、行き交う車は少なく、人にも出会わない・・・。過疎が、福江島以上に進んでいる。

 島の中央部にある「牢屋の窄(さこ)」へ。窄(さこ)は「奥まったところ」という意味らしく、キリシタン弾圧の牢屋跡がある。
 K青年が「ここが、この島で一番大切なところですから」と、犠牲者の石碑が並ぶ前で、真剣な表情になって説明を始めた。

 1868(明治元年)、長崎・浦上で始まったキリシタン迫害は、翌年にはこの島にもおよび、6坪ほどの牢屋に信徒200人が8カ月の間押しこまれ、連日悲惨な拷問が行われて42人の殉教者が出た。
写真④ 最初の死者は、79歳のパウロ助市。圧迫死だった。牢内にはトイレもなく、13歳のドミニカたせは、わいたうじ虫に下腹をかまれて死んだ。牢内は立すいの余地もなく全員が立ったまますごしたが、全員が周辺に体を重ね合わせて中央部にわずかなすき間を作り、一人ずつが少しだけ睡眠をとることができた。
 昭和59年に、殉教を記念する聖堂(写真④)が建てられた。悲惨な殉教を忘れないため、聖堂中央部には6坪分の広さを示す灰色のじゅうたんが敷いてある。

 五島列島に隠れキリシタンが移り住んだのは、五島藩主から長崎県外海(現・長崎市)をおさめる大村藩主に開墾地拡大のための要員派遣の要請があったためだった。。
 キリシタン迫害の危険を感じていた彼らは、次々と五島列島に渡ってきた。1000人の要請に対し、やって来たのは3000人を越えた。

 「五島へ五島へと皆行きたがる 五島は優しや土地までも」とあこがれの地にやって来た人々に与えられたのは、やせた山間部や狭い砂浜だった。移住後、彼らは「五島は極楽 来てみりゃ地獄」と歌うようになった。。

 島の中心部から狭い山道を約30分、椿の林のなかで車を捨て、歩いてたどりついた五輪地区は、そんな狭い砂浜だった。かっては50世帯を越える信者が住んでいたこの地区も、今は数世帯8人が漁業を営んでいるだけ。

写真⑦写真⑥写真⑤ この浜辺に、国の重要文化財である旧五輪教会と隣接して現在の五輪教会が並んで建っている(写真⑤)。
 旧五輪教会(写真⑥)は、最初にふれたように浜脇地区から移築されたもの。窓が教会建築特有のポインテッド・アーチ(尖頭)型をしている以外は、まったくの和風建築。なかに入っても、窓に引き戸がつき、ステンドグラスはフイルムを挟んだ素朴な造りだが、リブ・ヴォートル天井の木目が浮かびだした美しさ(写真⑦)に見とれてしまう。

 五輪地区出身のカトリック教徒を父に持つ歌手・五輪真弓は、昭和61年に初めてここを訪れ、名曲「時の流れにー鳥になれ」を生み出したという。
  鳥になれ、おおらかな翼をひろげて。雲になれ、旅人のように自由になれ


写真⑧写真⑨写真⑩ 昼過ぎに福江港に戻り、定期船に乗り換えて奈留島に着いたのは、午後2時すぎ。「奈留教会」(写真⑧)を訪ねた後、タクシーで、世界遺産に暫定登録されている「江上教会」(写真⑨)に向かった。
 最盛期は60人を超えていた信徒も、現在では2人だけ。2軒目のお宅で、やっと教会のカギを借りることができた。
 廃校になり黄色い雑草で校庭が埋もれている小学校の隣の丘の上。木漏れ日になかに、木造ロマネスク様式の教会が立っていた。鉄川与助の作で、左右対称のシンプルな外観とクリーム色に塗られた外観、正面に書かれた「天主堂」の文字に、なにかなつかしい荘厳さを感じる。
 木目塗りの彫刻がほどかされた木の柱がアーチ状に天井に広がっていく造形(写真⑩)も見あきない。

 奈留島では、もう一つ「南越教会」を訪ねたかったが「個人の敷地を通らないでと言われているので・・・」と、タクシーの運転手さんに断られてしまった。福江島・堂崎教会では、「観光の車が多い」という付近の住民の反発で離れたところに駐車場ができ、上五島では、タクシーの運転手さんから「小学校のころ、カトリックの家の子はよくいじめられた」と聞いた。

 隠れキリシタンとその子孫は、100年以上たっても、まだ新参者らしい。

2009年1月20日

「五島列島・教会めぐり紀行① 福江島」(2009・1・4~7)


 昨年5月に島原、長崎、平戸、佐世保のカトリック教会をめぐりの旅をした。この旅のことは後述するとして、長崎の教会群などがユネスコの世界遺産に暫定登録されていることを知った。

 五島列島には50もの教会群があり、そのうち6つが世界遺産に暫定登録されている。五島列島への思いが、正月3が日明けにやっと実現した。

 大阪・伊丹から福岡経由で福江島の空港に着いた時は午後2時すぎ。伊豆の大島と並ぶ椿群生地の開花には少し早かったが、南国らしい暖かい日だった。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 最初に行ったのは、1912(明治45年)に完成された「楠原教会」。イギリス積みという方式で積まれた正面玄関は、男性的な力強さを感じる。子どもたちは学校の帰りに煉瓦運びを手伝い、老人を含めた信徒の総力で作り上げたという。お堂本体も、レンガ壁だが、天井部分は薄クリーム色に塗られた木造の囲いの上に日本瓦が載っている。なんだか、日本家屋の匂いが残る教会だ。
 内部に入ると、静ひつとしていながら温かみのある雰囲気に圧倒される。白い木の柱が支えているのは、リブ・ヴォールト天井 と呼ばれるアーチ状の白い木張りの天井。茶色のはり(これをリブというらしい)に4分割された小さな白いドームの連なりが入口から祭壇まで続く。

 タクシーの運転手さんは「こうもり天井」と呼んでいたが、はりや板の曲りぐあいが見事だ。「船大工さんの技術だろうか」。同行の一人が言っていたが、外国人宣教師の指導で、初めて立てるこの教会を、西洋様式に少しでも近づけたいと願った日本人大工の意気込みが伝わってくる。宣教師の指導を受けながら建てたのは、日本人大工の鉄川与助といわれる。

 この福原は、五島藩の要請で外海「旧・外海町、現・長崎市」から移住してきたキリシタンが最初に開墾した土地の一つ。「五島崩れ」と呼ばれる厳しい迫害のすえに、やっと建設を許された教会だっただけに、その意気込みが今でもレンガの壁に輝いているようだ。教会のすぐ近くに、キリシタン迫害に使われた「楠原牢屋跡」が復元されていた。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 海辺に、白いレースを組み上げたように建っている「水の浦教会」は「貴婦人の教会」と言われる。1880(明治13)年に建てられた最初の教会が長年の潮風にさらされて解体された後、1938(昭和13)年、すでに代表的な教会建築家になっていた鉄川与助によって建てられた。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合され、現存する木造教会としてはわが国最大規模だという。
 内部も、簡素なデザインのステンドグラスと白いリブ・ヴォールト天井のコントラストがすばらしい。
 ここでも、移住してきたキリシタンが厳しい迫害に会っており、近くの丘には牢屋跡地のレリーフや五島出身の聖職者たちの墓地が広がっている。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 行き交う人や車が少ない。正面の十字架がなければ普通の民家と見まちがう「宮原教会」へ向かう道の周辺には、荒れた田畑が広がる。「あの家も、この民家も空き家」。タクシーの運転手がつぶやく。漁獲量が減り、農業だけでは食べていけないため、離島していく人が絶えないらしい。
 「あれ、評判が悪いのだなあ」。運転手さんが指さした小聖堂風の建物は、なんと五島市が建てたトイレ。ちなみに、左側が男性用入口であります。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります そのすぐ先、エメラルドグリーンの内海が側面に広がり、正面に外海を見据えた広場に、レンガ造りの「堂崎教会」は、どっしりと構えていた。
 1908(明治41年)、イタリアから運ばれた赤レンガでゴシック様式に仕上げられたこの教会は、長年五島布教の中枢だった。ミサの30分前には、近くの修道院のシスターがホラ貝で知らせたという。五島で最初のクリスマス野外ミサが行われたのも、この広場だった。
 県の指定文化財に指定されており、現在はキリシタン資料館になっている。館内には、マリア観音、納戸神など隠れキリシタンの遺品や「ド・ロ木版画」と呼ばれる聖教木版画、聖ヨハネ五島の聖骨などがある。正面前の広場には、五島出身ただ一人の聖人である「聖ヨハネ五島」など、いくつかの銅像が並んでおり、キリシタン殉教の厳しさを訴えてくる。

クリックすると大きな写真になります 「浦頭教会」は、1968(昭和43年)に再築された五島では初めてのコンクリートの教会。正面に、ローマの聖ペトロ寺院をまねたのか、聖ペトロとパウロの彫像が並んでいたのにびっくりした。
 昭和20年代には約4千人いた信徒は、今では約5百人にまで減ったが、当時の漁師たちは土曜の午後と日曜日は網を入れず、教会に集まったと聞いた。



P1040284.JPG  福江島で最後に訪ねた「福江教会」は、福江市内の中心街にある。1962(昭和37)年4月に現在の教会は建てられたが、その年の9月未明、周辺を総なめにした福江大火で、この教会だけは奇跡的に焼失をまぬがれた、という。