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2018年2月22日

読書日記「ジーノの家 イタリア10景」(内田洋子著、文春文庫)「対岸のヴェネツイア」(同、集英社刊)


ジーノの家―イタリア10景 (文春文庫)
内田 洋子
文藝春秋 (2013-03-08)
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対岸のヴェネツィア
対岸のヴェネツィア
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内田 洋子
集英社
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 著者は、イタリア在住のジャーナリスト。長年、日本にイタリアのニュースを届ける仕事を続けてきた。

内田洋子.JPG

 著書「ジーノの家」のあとがきに、こんなことを書いている。
 
イタリアで暮らすうちに、常識や規則でひとくくりにできない、各人各様の生活術を見る。
 行き詰まると、散歩に出かける。公営プールへ行く。中央駅のホームに座ってみる。書店へ行く。海へ行く。山に登る。市場を回る。行く先々で、隣り合う人の様子をそっと見る。じつと観る。ときどき、バールで漏れ聴こえる話をそれとなく聞く。たくさんの声や素振りはイタリアをかたどるモザイクである。
 名も無い人たちの日常は、どこに紹介されることもない。無数のふつうの生活に、イタリアの真の魅力がある。瓢々と暮らす、ふつうのイタリアの人たちがいる。引き出しの奥を覗いては、もっとコレクションを増やしたい、と思う。


 そして、名も無き人を取材するために、イタリア各地で引っ越しを続ける。

 ミラノのバールで、パトロールでコンビを組む男女の警察官と知り合った。
 ミラノには〈黒いミラノ〉と呼ばれる無法地帯があるらしい。2人がついこの間まで、その地区の担当だったと聞き「よほど私は〈しめた〉という顔つきをしたらしい」
 「物好きねえ」と呟いた中年婦人警官のアイデアで、借りた警察犬を暗黒地区の保健所に予防接種に連れて行くという設定になった。

 賑やかな運河地区から徒歩15分の距離というのに、昼下がりの街に人影はない。広場の背後の古びた高層公団住宅のベランダにある錆びついた物置の扉がきしんだ音をたてている。「広場のシャッターの閉まったゴミの山が悪臭とともにむっくりと動き「金をくれないか」と言った。ゴミは、イタリア男だった。

 地区の情報交差点だからと、2人に奨められたバールに飛び込む。店長に出身を聞くと、 カラブリアの出身という。シチリアのマフイア、ナポリのカモッラと並ぶ犯罪組織の拠点だ。

 
一瞬息をのむ私を確認した後、店長は言った。「もし何か困ったことがあったら、頼りになる友人を紹介しますよ」。視線はこちらだが、焦点は空を泳ぎ、その奥は白々と冷えきっている。
 店を出る。早足。小走り。全力疾走。・・・早く帰ろう。犬よ、走れ。
 気ばかり急いて。しかし足はもつれ、なかなか先へは進まなかった。・・・しばらくの間、エスプレッソを飲むたびに、あの日見たミラノの閉ざされた世界の寒々しい様子が目の前に現れて、胃が縮むのだった。


 1年を通して曇りの日が多く、半年は冬の寒さが残るミラノから引っ越そうと、南国・ インペリアの海を一望できる赤い屋根と白壁の小さな家「ジーノの家」を借りた。シチリア、ナポリにも移り住み、ついには定年退職者が海から引き揚げた古式帆船に6年も住んでしまう。

 この本は、ベストセラーになった 「『考える人』は本を読む」 河野通和著、角川新書)で取り上げられていた。

 河野通和は「ジーノの家」の項の巻末で、こんなコメントがつけている。

 「2011年、本作で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。近年私の出会った中でも、著者はもっとも噛(か)み応えのある書き手の一人です。行動力、観察力、記憶力、構成力、文章力......すぐれた特長はいくらでも挙げられますが、イタリアかぶれとは対極の彼女が、イタリア人のありふれた暮らしになぜ引き寄せられてしまうのか ――そのプロセスと謎が、読む者の心を騒がせます」


 「対岸のヴェネツイア」は、内田洋子の最新作。今度はヴェネツィアに引っ越すと伝えると、ミラノの人々エッと驚いた。

 
たいていの人は一瞬押し黙った。ミラノからは近いけれど、遠い町。住めることならぜひ、と誰もが夢見る一方、実際に引っ越す人はたしかに稀かもしれない。うらやましいわ、でもなぜ引っ越したの、家はどのあたり、住み心地はどう、酷い湿気でしょう、冠水は大丈夫なの・・・。


 著者が選んだのは、なんと水草の浮島に建つヴェネツイアと運河を挟んだ対岸にある離島、 ジュデッカ島だった。
 そこから水上バスでせっせと"水の都"に通い、名も無い人に会い続けた。

 
「〈マンマ(母)〉を十個、お願いね!」
 逞しい腕を上げて岸壁に係留している小舟の舟主に、中年女性が注文する。アーティチョークの〈尻〉こと萼(がく)は、そのどっしりした外観からか〈マンマ〉と呼ばれている。

マンマ.jpg

「ざく切りにしてパセリ、ニンニクといっしょに炒める。・・・これ食うと、ああヴェネツィア、という気がするもんよ」
 ほんとほんと、郷土料理の肝心要、そのとりよぇ、と岸壁側の主婦たちは頷いている。


 ただ「心配なことがある」と、内田洋子は, WEB版週刊誌「考える人」(新潮社)で警告している。観光客が殺到しすぎて、ヴェネツィアの都市機能がマヒしようとしているのだ。

 
「裏の路地の隅は、公衆トイレよ」
 「酔っ払ってリアルト橋から下着で運河に飛び込んで泳いだ若者がいたし」
 「サンマルコ広場の回廊にテントを張ろうとした外国人観光客もいたな」

リアルト橋         サンマルコ広場
リアルト橋.jpg  サンマルコ広場.jpg


   「昨日、リアルト橋手前で羊にリードを付けて引いていた男の人を見たよ」
  夏になると、ビーチサンダルにショートパンツ、上半身は裸もしくはビキニ姿も増える。
 老舗は格と歴史を失うまい、と価格をさらに引き上げる。より多く払える客が品格ある客、ではないのに。
 ・・・
 「2017年2月1日までに、過剰な観光客のせいで住民の日常生活が脅かされている現状を打開するための策が講じられないようなら、世界遺産認定を取り消し、『危機にさらされている世界遺産』として登録する」
 昨年7月、ついにユネスコがヴェネツィア市に対して警告を公示した。
 ・・・
 さてどうなる、ヴェネツィア。


2016年5月26日

 展覧会紀行「日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展」(於・ 国立西洋美術館、2016年5月21日)



   日本を代表する聖書学者である 和田幹男神父に引率された巡礼ツアーで、ローマの街を回り カラヴァッジョの作品に魅了されて、もう10年になる。

 今回、日本に来たのは接したことがなかった作品ばかりだった。ぜひ見たいと思い、世界遺産への登録が確実になった ル・コルビュジェ作の 国立西洋美術館に出かけてみた。

 上野のお山は、東京都立美術館で「伊藤若冲展」という待ち時間3時間半というばけものみたいな催しがあることもあって、週末の金曜日というのにごった返していた。

 幸い西洋美術館には、約30分並んで入場できた。

 一番、観客の目を惹きつけているのが、「法悦の マグダラのマリア」(1606年、個人蔵)だ。長年、この作品が本当にカラヴァッジョ作であるかどうかが専門家の間で議論されてきたが、ロベルト・ロンギ財団理事長でカラヴァッジョ研究の第一人者であるミーナ・グレゴーリ女史から本物であるというお墨付きが出て、この展覧会が世界初公開となった。

法悦のマグダラのマリア
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 所有者は「ヨーロッパのある一族の私的コレクションのひとつ」としか明かされていないから、この作品を見られるのは、これが最初で最後かもしれない。

 グレゴーリ女史が「真作」と確定した根拠は、第一に、キャンバスの裏にあるチラシに1600年代特有の書法で書かれた署名。第二に、その色使いや手法。「マグダラのマリア」は頭を後方にそらし、その眼は半閉じ状態で、口はわずかに開いている。両肩をのぞかせ、両手を組み、髪の毛は乱れている。服装は白のワンピースに、カラヴァッジョがいつも使う赤の絵具のマント。

 作品をじっと見てみると、右の眼から一滴の涙が流れ落ちようとしており、唇を半開きにしており「法悦」というより、まさに死を迎える寸前の「悔恨」の表情に見えた。

 カラヴァッジョが殺人を犯してローマを追われ、逃避行の末に死んだ時、荷物のなかに残っていた絵画3点のうち1つがこの作品だった。

 最近、マグダラのマリアについての本を読んだり、講演を聞く機会が何度かあった。

 それによると、これまで娼婦としてさげすまれてきたマグダラのマリアは、実はキリストの最後の受難に勇気をもって見届けた聖女で会った、という考えが出てきている、という。

 カラヴァッジョが現代に生きていたら、別のマグダラのマリア像を描くかもしれない。

   もう一つ、どうしても見たかったのが、「エマオの晩餐」(1606年、ミラノ・ブレラ絵画館)だった。

エマオの晩餐 -1
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 新約聖書のルカ福音書24章13-31によると「イエスが十字架につけられた3日後、2人の弟子がエルサレルからエマオの街に向かって歩いている時、イエスが現れたが、2人にはイエスと分からなかった。一緒に宿に泊まり、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂き、2人に渡した。その時、2人はやっとイエスと分かったが、その姿は見えなくなった」

 実はカラヴァッジョは、「エマオの晩餐」(1606年、ロンドン・ナショナルギャラリー)をもう1枚描いている。イエスはミラノのものよりずっと若く描かれ、光と影のコントラストも明快で明るい。

エマオの晩餐 -2
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 今回の展覧会に出された「果物籠を持つ少年」(1593-94年、ローマ・ボルゲーゼ美術館)や「バッカス」(1597-98頃、フレンツエ・ウフィツイ美術館)に見られる、光と影のなかに浮かびあがる躍動感が印象的だ。

果物籠を持つ少年                 バッカス
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 しかし、ミラノの「エマオの晩餐」は、暗い闇が広がる中に、イエスの静謐な顔だけが柔らかい光のなかに浮かびあがる。

 展覧会のカタログでは「消えた後になってはじめてキリストが『心の目』によって認識できたことが示されている」と、解説されている。

 このほかにも、まさしくカラヴァッジョしか描けなかったであろう多くの作品を堪能できる。

 「エッケ・ホモ」(1605年頃、ジェノヴァ・ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮)は、ヨハネ福音書19章5-7の一節から描かれた。

エッケ・ホモ
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 右側の老人、ピラトは大声で叫ぶ。「この人を見よ(エッケ・ホモ)・・・私はこの男に罪を見いだせない」。しかし、民衆はさらに叫ぶ「十字架につけろ。十字架につけろ」
 イエスは、すでに茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せかけられようとしている。しばられたイエスが持つ、竹の棒はなんだろうか。

 「洗礼者聖ヨハネ」(1602年、ローマ・コルシーニ宮国立古典美術館)は、長年、その"帰属"について論議があった作品。漆黒の闇のなかに、柔らかな光に包まれた若い肉体が浮かび上がる。憂いを帯びた表情は、聖職者で長年会わなかった弟を模したものともいわれる。

洗礼者聖ヨハネ
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 「女占い師」(1597年、ローマ・カピトリーノ絵画館)は、2年前にパリのルーブル美術館で見た同じ名前の作品とポーズはそっくりだが、衣装や背景が異なっている。モデルも違うらしい。

女占い師 -1
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女占い師 -2
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   「トカゲに噛まれる少年」や「ナルキッソス」(1599年頃、ローマ・バルベリーニ宮)国立古典美術館)、「メドウ―サ」(1597-98年頃、個人蔵)など、カラヴァッジョ・ワールドをたっぷりと堪能できた。

トカゲに噛まれる少年            ナルキッソス           メドウ―サ
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 今回の展覧会には、カラヴァジェスキと呼ばれるカラヴァッジョの画法を模倣、継承した同時代、次世代の画家の作品も多く展示されている。

 なんと、そのなかに ラ・トウ―ルの作品を見つけたのには驚いた。

 ラ・トウ―ルのことは、この ブログでもふれたが、パリ・ルーブル美術館の学芸員が、何世紀の忘れられていたこの作家を再発見した。

 今回の展覧会では、「聖トマス」(1615-24年頃、東京・国立西洋美術館)と「煙草を吸う男」(1646年、東京富士美術館)の2点が展示されていた。

聖トマス            煙草を吸う男
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 カラヴァッジョとは一味違う炎と光の世界の作品を所蔵しているのが、いずれも日本の美術館だったとは・・・。

2016年3月16日

読書日記「新しい須賀敦子」(編者・湯川豊、著者・江國香織、松家仁之、湯川豊 集英社刊) 



新しい須賀敦子
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江國 香織 松家 仁之 湯川 豊
集英社
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 そろって、 須賀敦子マニアである作家の 江國香織、元文藝春秋編集者で文芸評論家の湯川豊、元新潮社編集者で作家の 松家仁之が描き出す「新しい」須賀敦子像。

 昨年、 神奈川近代文学館で開催された 「須賀敦子の世界展」での対談、講演などで構成されているが、単純にエッセイを書く人だと思っていた須賀敦子が「実は物語を書いて」いた、しかも61歳になって処女作を出した秘密が明らかになっていく。

 まず、須賀敦子が作家になろうと思ったのは、彼女自身が翻訳もしたイタリアの小説家、 ナタリア・ギンズブルグ 「ある家族の会話」という本に出合ったことにあることが分かってくる。

 このブログでもふれた須賀敦子の 「トリエステの坂道」を読み返してみると、「ある家族の会話」を渡してくれたのは、ミラノの書店に勤めていたイタリア人の夫、ペピーノだった。

 
しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これはきみの本だと思った。


 
はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。
 そして、ナタリアは「好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる」ことをしていたのだと「すっとほどける」ように気が付く。


 
こうして、『ある家族の会話』は、いつかは自分も書けるようになる日への指標として、遠いところにかがやきつづけることになった。


 夫の死後、ミラノから東京に引き上げていた須賀は、思いがけない縁でナタリアに会う機会に恵まれる。ただ、その後、ナタリアは病を得て亡くなる。

 
書くという私にとって息をするのとおなじくらいの大切なことを、作品を通して教えてくれた、かけがえのない師でもあったナタリアへの哀惜に、雨降りの歩道で、私は身も心もしぼむ思いだった。


  「コルシア書店の仲間たち」でも、須賀敦子は「ある家族の会話」に脱帽したいきさつを、友人に語っている。

自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら、私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが小説ぶらないままで、虚構化されている。読んだとき、あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った。


「ある家族の会話」の「まえがき」で、ナタリアはこう切り出している。

この本に出てくる場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである。架空のものはまったく、ない。そして、たまたま小説家としての昔からの習慣で私自身の空想を加えてしまうことはあっても、その箇所はたちまちけずりとらずにはいられなかった。


よく日本の小説のあとがきなどで「この小説はフィクションであり、現実の登場人物は存在しません」といった文章にお目にかかる。

しかし、ナタリアは現存する人物にあくまでこだわりながら虚構(フィクション)化をする文体を完成させた。

 その作者に対し「羨望と感嘆のいりまじった一種の焦燥感をさえおぼえた」(「ある家族の会話」訳者あとがき)須賀は、ミラノから帰国した約20年後、61歳になってやっと、処女作「ミラノ 霧の風景」を刊行する。
 自分の文体を作り出すのに、それだけの時間がかかったのだ。

 湯川との対談のなかで江國は、こう話している。

事実を伝えるために、事実を書くためにノンフィクションではなくフィクションにする。・・・そういう強い確信がナタリア・ギンズブルグにはあったと思いますし、その確信は須賀さんもあったに違いないと思うんです。須賀さんはエッセイを書かれたわけだけれども、それを伝えるには物語にしなければならないという確信はきっとおありになっただろうと思います。


 湯川は、須賀の文体(文章のスタイル)は「うねるような、呼吸を感じられる、論理的でありながら角ばったところのない」と分析する。

 松家は「ミラノ 霧の風景」について「あのような物語性のある人生を、ながらく時間が経過するのを待って書かれたこと。成熟した文体なのに、新鮮であること。文学というのは、確かにこういうものだと、しばらく忘れていたことを思い出させる本でした」と語る。

 「停留所まで迎えにいったのに、気づかない様子で背広のえりを立てていってしまう夫・ペピーノ」(トリエステの坂道)、「訪ねて行って眠り込んでしまった著者を、困ったような顔で見つめていた友人のガッティ」(ミラノ 霧の風景)、「夫の死後に訪ねたしゅうとめの小さな菜園で、心を通わせる2人」(トリエステの坂道)・・・。

 これらの描写はすべて、須賀敦子が作り出した「読むように書く」文体で繰り出される「物語」(虚構)だったのだ。

 しかし須賀は「エッセイという枠を外して自由に小説の構想なり構造をつくらないと、表現できないものがあることを発見〉〈湯川〉していた。
 そして親しい知人に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と打ち明けていた。

 「アルザスの曲がりくねった道」と名付けられたこの小説は、フランス生まれの修道女を主人公。信仰がテーマだったようだ。

 しかし、未定稿30枚を残して、須賀敦子は病に倒れた。享年69歳だった。

 

2015年2月23日

読書日記「トリエステの坂道」(須賀敦子著、新潮文庫)


トリエステの坂道 (新潮文庫)
須賀 敦子
新潮社
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 著者が、自ら日本語に翻訳した詩集も刊行されているウンベルト・サバ は、急死した夫が愛し続けた詩人だった。
 この本は、12章で構成されている。表題と同じ「トリエステの坂道」は、夫の死後、日本に帰って20年ぶりにサバの故郷であるトリエステの街を訪ねた時のことを綴っている。

 なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。二十年まえの六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。イタリアにとっては文化的にも地理のうえからも、まぎれもない辺境の町であるトリエステまで来たのも、サバをもっと知りたい一念からだと自分にいい聞かせながらも、いっぽうでは、そんな自分をこころもとなく思っている。サバを理解したいのならなぜ彼自身が編集した詩集『カンツォニューレ』をたんねんに読むことに専念しないのか。彼の詩の世界を明確に把握するためには、それしかないのではないか。実像のトリエステにあって、たぶんそこにはない詩の中の虚構をたしかめようとするのは、無意味ではないか。サバのなにを理解したくて、自分はトリエステの坂道を歩こうとしているのだろう。さまざまな思いが錯綜するなかで、押し殺せないなにかが、私をこの町に呼びよせたのだった。その《なにか》は、たしかにサバの生きた軌跡につながってはいるのだけれど、同時にどこかでサバを通り越して、その先にあるような気もした。トリエステをたずねないことには、その先が見えてこなかった。


 
 ・・・列車の窓から、海の向こうに遠ざかるトリエステを眺めて、私は、イタリアにありながら異国を生きつづけるこの町のすがたに、自分がミラノで暮らしていたころ、あまりにも一枚岩的な文化に耐えられなくなると、リナーテ空港の雑踏に異国の音をもとめに行った自分のそれを重ねてみた。たぶんトリエステの坂のうえでは、きょうも地中海の青を目に映した《ふたつの世界の書店主》、私のサバが、ゆったりと愛用のパイプをふかしているはずだった。


 イタリアのあまり裕福でない男たちは、雨でも傘を持たないのが風習らしい。雨のなかを行く時、背広のえりを立て、両手で上着の前をきっちり合わせて走り出すのが、イタリアの男たちのスタイルだ。
 「雨のなかを走る男たち」で描かれるのは、20年たっても鮮明に思い出す夫・ペッピーノの姿だった。

 ・・・停留所のまえで待っていると、夫が電車から降りてきた。降りしなに、たしかに私と視線があったと思ったのに、彼は知らん顔をして、信号をどんどん渡って行ってしまった。迎えに来られて照れくさかったのだろうか。それとも出迎えを押しつけがましく感じたのだろうか。家に帰ってからたずねても、彼は見えなかったの一点張りで、喧嘩にもならなかった。私としては、彼は私をたしかに見たと、いまでも確信がある。私を置き去りにしたあのときの彼も、雨のなかを両手できっちり背広の前を閉めて、走っていった。


 「ガードのむこう側」は、義父ルイーズを主人公にした小説風に書かれている。この一家にとりついて離れない"貧乏"と"不幸"が象徴的に描かれる。

 俺の一生はいったいなんだったのだろう。淋しいルイージ氏は歩きながら考える。九つで両親に死にわかれ、それからは村の居酒屋の仕事を手伝わせてもらって、どうにか食べてはいけた。鉄道の職員になって、居酒直の八番目の娘と結婚し、子供たちがつぎつぎに生まれころは、これでやっと人間なみの暮らしができると思ったのに、ファッシスト政権が天下をとって、戦争は始まるしで、まったくろくなことはなしだった。そしてマリオ(長男)が死に、ブルーナ(長女)が死んだ。
 空地を通りぬけ、製菓工場のすこし先の大通りまで足をのばせば、市電の停留所のまえにいつも行く飲み屋がある。まずは安い《赤》を一杯。塩づけのカタクチイワシを一匹とれば、それを肴に、夜の時間はゆっくり流れるはずだった。


 「セレネッラ(リラ、ライラック)の花の咲くころ」でも、"貧乏"と"不幸"を背負って生きるイタリアの庶民階級の人々が、清明な文章で綴られる。

 ・・・(亡夫の実家は)鉄道員官舎と呼ばれてはいたけれど、その家に私が出入りするようになったころはすでに、もともと世帯主であるはずの鉄道員たちは、どうしてこの家の住人ばかりがと思うほど、大半が戦争や病気やはては鉄道事故などで亡くなっていて、あとに残されたもう若くはない妻たちが、前歯が抜け落ちたような侘しさのなかで、乏しい年金をたよりにひっそりと暮らしていた。貧しく生まれたものは貧しいまま、老年、そしてやがては死を迎える。まるで目に見えない神様にそう申し渡されたみたいに、彼らは運命に逆らわず、小学校は出たがその先はとても、といった息子や娘たちも、いつのまにか親と同じ底辺の暮らしに吸い込まれていった。彼らのあきらめとも鋭い怒りともつかない感情のわだかまりが、あちこち汚れた階段口の白壁や、片手に大きな黒い皮製の買物袋をさげ、もういっぽうの手で手すりに体重をあずけて、ゆっくりと階段を登っていく、しゆうとめと同年輩の老女たちのうしろ姿にこびりついていた。


 著者が、義弟アルドからその妻の実家であるシルヴァーナの故郷である山村・フォルガリアへの旅行に誘われたのは、亡夫が急死して2年ほど過ぎた時だった。

 岩に穿った細いトンネルをいくつかくぐりぬけ、林が牧草地に変わるころからしだいに空気が軽くなり、青い実をつけたリンゴの木が一本、澄んだ空を背に風に逆らって立っている角を大きく曲ったあたりで始まるフォルガリアは、それまでミラノの周辺で私が知っていた湿度の高い平野の農地の重い感触や、飼っていた乳牛一頭が栄養源のすべてだったというシルヴァーナの子供時代の哀しい貧乏話から想像していた《寒村》のイメージとはほど遠い、みずみずしい緑と乾いた明るさに満ちた、のびやかな高原の村だった。


 アルドからミラノを引き払ってフォルガリアに家を建てるという手紙が来たのは、著者が日本に帰って20年近く経ってからだった。戦後の経済復興でスキー場の開発などが進み、この山村も様変わりしていた。新居は、アルド夫妻がやっと見つけた安住の地だった。
 「山の村に越してしまっても、きみの部屋はちゃんとつくっておく。・・・忘れないでほしい。ぼくらの家はきみの家だということを」

※(寄り道)
 この本の最終章「ふるえる手」には、著者がローマのサン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会に立ち寄り、カラヴァッジョの聖マタイの召命(マッテオの召し出し)」を2回にわたって見る記述がある。
 私も9年前のイタリア巡礼に同行した際、この絵に見とれたことを、昨日のように思い出す。

カラヴァッジョの聖マタイの召命
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 「聖マタイの召命」では、右端のキリストが召し出そうとしているのは誰か、というのが長年、論議されてきた。

 Wikipediaには、こう記されている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始めた。・・・。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、髭の男は自分ではなく隣に居る若者を指差しているようにも見え、・・・この左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイは・・・次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る、そのクライマックス直前の緊迫した様子を捉えているのである。」

   しかし、須賀敦子は「マタイ(マッテオ)は正面の中年男だ」という考えを崩さず、こう書く。

 私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿させるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている。
 カラヴァッジョだ。とっさに私は思った。ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。画家が自分を描いているのだ。そう私は思った。


※(付記)
 松山巌著「須賀敦子の方へ」(新潮社刊)
 毎日新聞の書評委員同士で、長年の親友同士だった小説・評論家である 松山巌が「私はこれから須賀敦子のことを辿ろうと思う」と、須賀敦子が過ごした兵庫県西宮市や小野市、東京・麻布、広尾、四谷などに親類や友人、知人を訪ね歩き、須賀敦子への"熱き"思いを語った1冊だ。

 孤独は人間が一人になることではない。自分がどこを向いて歩いているのか、わからなくなるとき、人は孤独の穴に落ち、もがく。たとえ苦しくとも進むべき道が見えるならば、孤独からは救われる。だがしかし、自明な道などあるはずもない。結局のところ、孤独であることにもがき悩み、その悩みの末に抜けだすしかないのだろう。だから須賀は『コルシア書店の仲間たち』のエピグラフにウンベルト・サバの一句、「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない」を置き、同時に巻末を「弧独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」 の一言で結び、この思いを膨らまして、孤独の荒野を全休のテーマとして『ヴェネツィアの宿』を書こうと思ったのだ。


 この本は、須賀敦子がパリに旅立つところで終わっている。これからも、須賀敦子を訪ねる旅は続くらしい。

2015年2月 6日

読書日記「ヴェネツィアの宿」(須賀敦子著、文春文庫)


ヴェネツィアの宿 (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
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 この作品は、著者が長年過ごしたイタリア・ミラノを舞台にした2つの前作とは、構成、題材とも大きく違っている。

 月刊誌「文學界」に1年間連載されたもので12篇はそれぞれ独立しているが、テーマは大きく分けて2つある。1つは、父・母・夫への思い、2つ目は、ヨーロッパという異郷を理解しようとして苦悩する姿。巧みな構成と文章で綴られた須賀敦子の"自分史"を覗く思いがする。

 1つ目のテーマでは、特に父親の思い出が多い。冒頭の「ヴェネツィアの宿」で父が愛人といるのを見つけたエピソードが、「夜半のうた声」では父と母を和解させようとする長女・敦子の試みが語られ、父の最後を看取る最終篇「オリエント・エクスプレス」へとつながっていく。

 
 すきとおるような秋のひかりのなかを、さっさっときもののすそをひるがえすようにして、父が女の人とこっちにやってくる。休日に私たちと出かけるときとおなじように白足袋をはいた父の足もとがまぶしかった。そんな格好で父が知らない女の人と歩いていることの不思議さが、とっさに理解できないほど、なにか自然な感じでふたりは近づいてきた。どうしよう。自分がこんなところまで来てしまったことの無謀さがこわくなった。でも、いまさら逃げるわけにもいかない。こまった、という気持と、いなくなった父に会えたよろこびに、頬がほてった。
 こんなところで、なにをしているんだ。父がこわい声で言った。遠くからは元気そうにみえたのに、向いあってみると、ひげがのびて、目がくぼんでいた。パパこそ、そう言うのがやっとだった。泣いてはだめだ、と思いながら、つけくわえた。パパを探しに来たんです。なにも言わないで家を出てしまうから。父は一瞬こまった顔をした。お父さまはおかげんがわるいんです。父をかばうように連れの女が言った。あまりくさくさするので、そこまでお散歩に出たところです。ちょっとざらざらするような声だった。


   
 右手でドアのノブをまわして、三十センチほど開けると、いつものように、パジャマの上に和服を着て新聞を読んでいた父が、私の顔を見て、おう、と声をかけた。母はまだ私のうしろにいた。その母の肩を私は左手で抱くようにして、部屋に押しこんだ。父が小さな叫び声をあげて、立ち上がった。なんだ、これはいったい。どういうことだ。
 パパ、おこらないでね。ドアのノブに手をかけたまま、私が言った。ママとふたりでお話なさってください。これはパパとママの問題ですから。
 なにかを投げつけてくるかと身構えた私を、父は一瞬、口惜しそうに睨んだが、あきらめたようにソファにくずれこんだ。外からドアをしめると、そのまま、中はひっそりしていた。


 
 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレス......は?
 死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかかえてきた ワゴン・リ社の青い寝台車の模型と(オリエント・エクスプレスの車掌長から分けてもらった)白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。
 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。


須賀敦子という人物の意志の強さをうかがい知ると同時に、この本の随所にちりばめられた流麗、静謐な文章に引き込まれる。

イタリアから日本に帰って教職についていた60歳過ぎの著者は、シンポジウムに招かれて久しぶりに訪れた「ヴェネツィアの宿」で、「古い記憶」を思い出し西洋と日本の間を「ほこりにまみれて歩きつづけてきたジプシーのような自分の姿」を見つめる。

 ある夏の夕方、南フランスの古都 アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、 ロマラン(ローズマリー)の茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。身なりは、そのころ多かったヒッピーふうだったけれど、歌声は、しろうと、というのではなくて、しつかりした音程だった。あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。


ローマ留学時代を綴った「カラが咲く庭」。このなかで、寄宿舎の院長であるマリ・ノエル修道女は、著者にこう問いかける。

「ヨーロッパにいることで、きっとあなたのなかのヨーロッパは育ちつづけると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」

「大聖堂まで」では、パリに留学した際、 ノートルダム大聖堂から シャルトル大聖堂までの巡礼の体験が語られる。
 カトリック左派の 労働司祭の指導で、約3万人の若者が議論をしながら約80キロの道を歩き、夜は農家の納屋に泊めてもらう。
 はじめてヨーロッパに来た著者は、言葉の壁だけでなく「この国の人たちのものの考え方の文法みたいなものへの手がかりがつかめない」ことで苦しんでいた。それをなんとか「自分の手でさぐりあてたい」と思ったのが、この巡礼に参加したきっかけだった。

 2日間、歩き続けて疲れ切っているのに、満員の大聖堂にさえ入れず、有名な シャルトル・ブルーのステンドグラスも見られなかった。だが、教会の外壁に並んだくぼみで、 洗礼者ヨハネの像を見つける。(キリストが世に出るのを)待ちあぐねて「ほとほと弱ったという表情」は「私たちにぴったりね」と、フランスと中国人を父母に持つ友人・モニックと話す。

 パリの寄宿舎でルームメイトだったドイツ人のカティア・ミューラーは、公立中学の先生を辞めてやってきた。
 「しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい」「いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ」(「カティアが歩いた道」から)

 同じ思いでいた著者にとって「カティアはなかなか手ごたえのある同居人だった」

 ※(追記)
 須賀敦子は、敬けんなカトリック教徒だったが、61歳から8年間、怒涛のように書き綴った作品のなかでは、その信仰のことにほとんど触れていない。  ところが先日、 オプスディ・セイドー文化センターでの勉強会で、テキストのなかに「愛するとは・・・」という著者の言葉を見つけて、出典を探した。

 
 生きることが、大切なのだと思う。生きるとは、毎日のすべての瞬間を、愛しつくしてゆくことである。それは、「現世」に目をつぶって、この世を素通りしてゆくことではない。愛するとは、人生のいとなみを通して、神の創造の仕事に参加することなのである。


     
 キリスト教徒の召命を生きるということはすなわち、神の御言葉を、すなわち、愛を、どのような逆境にあっても、もちろん、どんな楽しい時にでも、本気で信じているものとして生きることなのである。それは、だから、日常のあらゆる瞬間を、心をこめて生きることにほかならない。


(須賀敦子全集・第8巻に所収されている雑誌「聖心の使徒」掲載「教会と平信徒と」より抜粋)



2015年1月21日

読書日記「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子著、文春文庫)


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 コルシア書店のことは、前回のこのブログでもふれた。著者がローマでの留学生生活を辞め、ミラノに移って勉強と仕事を結局11年続けることになった大切な場所だった。

 コルシア書店は、単なる本屋さんではない。戦時中、 反ファシシズム・パルチザン運動の同志だったダヴィッド・マリア・トウロルドとカミッロ・デ・ピアツという2人の司祭が戦後間もなく始めたカトリック左派による生活共同体活動の拠点でもあった。

 ダヴィッド神父に心酔した須賀は、この本の冒頭近くで、詩人としても知られた神父の作品を紹介している。
 1945年4月25日「ファッシスト政権とドイツ軍の圧政からの解放を勝ち取った歓喜を、都会の夏の夕立に託した作品」だ。

 
 ずっとわたしは待っていた。
 わずかに濡れた
 アスファルトの、この
 夏の匂いを。
 たくさんねがったわけではない。
 ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
 奇跡はやってきた。
 ひびわれた土くれの、
 石の叩きのかなたから。


カトリック左派の活動について、著者はこう解説している。

 
 カトリック左派の思想は、遠くは十三世紀、階級的な中世の教会制度に刷新をもたらしたアッシジのフランシスコなどに起源がもとめられるが、二十世紀におけるそれは、フランス革命以来、あらゆる社会制度の進展に背をむけて、かたくなに精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もういちど現代社会、あるいは現世にくみいれようとする運動として、第二次世界大戦後のフランスで最高潮に達した。
 一九三〇年代に起こった、聖と俗の垣根をとりはらおうとする「あたらしい神学」が、多くの哲学者や神学者、そして、 モリアック ベルナノスのような作家や、失意のキリストを描いて、宗教画に転機をもたらした ルオーなどを生んだが、一方、この神学を一種のイデオロギーとして社会的な運動にまで進展させたのが、 エマニュエル・ムニエだった。一九五〇年代の初頭、パリ大学を中心に活躍したカトリック学生のあいだに、熱病のようにひろまっていった。教会の内部における、古来の修道院とは一線を画したあたらしい共同体の模索が、彼らを活動に駆りたてていた。


 しかし、聖心女子大時代にカトリック学生運動に属して反 破防法運動などをしたこともある須賀にとって、パリ留学中にふれたカトリック左派活動は「純粋を重んじて頭脳的つめたさをまぬがれない」感じがして肌に合わなかった。

そして、パリから一時帰国した際に、イタリアのコルシア書店の活動を知り「フランスの左派にくらべて、ずっとと人間的にみえて」引かれていく。再びローマ留学のチャンスをつかみ、ダヴィッド神父にローマやロンドンで何度か会った須賀は、コルシア書店の激流の中に、運命に導かれるように飛び込んでいく。

 夕方六時をすぎるころから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた。作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかには、カトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれてミラノに亡命していたカタローニヤの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ教のラビもいた。そして、若者の群れがあった。兵役の最中に、出張の名目で軍服のままさぼって、片すみで文学書に読みふけっていたニーノ。両親にはまだ秘密だよ、といって恋人と待ちあわせていた高校生のバスクアーレ。そんな人たちが、家に帰るまでのみじかい時間、新刊書や社会情勢について、てんで勝手な議論をしていた。ダゲイデがいる日もあり、カミッロだけの日もある。フアンファーニが、ネンニらと、政治談義に花が咲かせる。共産党員がキリスト教民主党のコチコチをこっぴどくやっつける。だれかが仲裁にはいる。書店のせまい入口の通路が、人をかきわけるようにしないと奥に行けないほど、混みあう日もあった。


コルシア書店での交流を通じて、須賀敦子の活動は大きく花開いていく。 ミニコミ誌「どんぐりのたわごと」を前回のブログでも出てきたガッティに教わりながら編集、日本の知人に送り始め、後に急死した夫のペッピーノを介してイタリアの詩人や文学者の作品を深く知り、日本の小説などの翻訳もするようになる。
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しかし、コルシア書店のこんな急進的な活動を「教会当局が黙認するはずがなかった」

 一九五〇年から七〇年代までのはぼ二十年間に、こうして多くの若者が育っていったコルシア・デイ・セルヴイ書店は、ほとんど定期的に、近く教会の命令で閉鎖されるという噂におびやかされ、そのたびに友人たちは集会をひらいて、善後策を講じなければならなかった。


 
 コルシア・デイ・セルヴイ書店に、最初の具体的な危機がおとずれたのは、一九五八年の春だった。ダヴイデとカミッロが、ほとんど同時に、教会当局のさしがねで、ミラノにいられなくなったのである。ダヴイデが大聖堂でインターナショナルを歌って、善男善女をまどわしたとか、カミッロが若者に資本論を読ませているとか、理由はいろいろ取り沙汰されたけれど、実際には、彼らリーダーを書店から遠ざけることによって、書店の「危険な」活動に水をさそうというわが教会の意図であったことは、だれの目にもあきらかだった。


  その後コルシア書店は、政治活動を辞めるか、移転かの2者選択を教会当局から迫られて都心に移転したが、後に経営不振で人手に渡った。
  サン・カルロ教会の軒先を借りていたコルシア書店の跡は、ある修道会が運営するサン・カルロ書店になっている。
 今でも人気が絶えないダヴィッド神父の作品を並べたコーナーがあるという。

 前回のブログでも引用した「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著)によると、1992年2月に死去したダヴィッドの葬儀は、サン・カルロ教会で行われ、多くの 枢機卿が参列した。当時、ミラノの統括していたマルティーニ枢機卿は「ローマ教会は(ダヴィッド・)トウロルド神父を誤解しており、生前、大変な苦渋を味わわせた。彼に赦しを乞いたい」と語った。

 コルシカ書店が、聖と俗の垣根を払う活動を始めた同じ時期に、教皇 ヨハネス23世が提唱した 第2バチカン公会議が始まり、 信徒使徒職などカトリック教会の大改革が着手された。

 「須賀敦子全集・第1巻」の別冊に、当時82歳になっていたカミッロ神父のインタビューが載っている。神父は、こう答えている。「コルシア・ディ・セルヴィは、ある意味で第二ヴァティカン公会議を先取りしていたものといえます」

 この本の「あとがき」で、著者は記している。

 
 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐつて、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しょうとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、 人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。  若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私た ちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったよ うに思う。


 須賀敦子は夫が死去して帰国して2年後、42歳の時、東京・練馬区に、貧者のために廃品回収などをする「 エマウスの家」を設立、責任者となった。いつもGパン姿で、自ら小型トラックを運転することもあった、という。

2015年1月13日

読書日記「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子著、白水社刊)


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 著者の本は、これまで何度か手にしたことがある。しかし、そのたびに自分の知的水準がその内容についていけず"途中下車"していた。

 昨年末、ふとしたきっかけで、表題の処女作エッセイ初め4冊の新書、文庫本を買って、少しずつのめり込んでいった。

著者は、聖心女子大を卒業、パリ留学を経てイタリアに渡り、日本文学をイタリア語に翻訳する仕事をしていたものの、イタリア人の最愛の夫に死に別れて42歳で帰国、いくつかの大学で教えた。

 この作品を書いたのは、なんと61歳の時。その後ほとばしるように創作の道を突き進み、 69歳で急死した後には、全8巻〈別巻1〉の 「須賀敦子全集」(河出書房新社)が残された。

 須賀敦子は、13年に及んだイタリア生活のほとんどをミラノで過ごした。勉学と仕事の場であった コルシア・ディ・セルヴィ書店と自宅のアパートを市電で通う毎日だった。

 夕方、窓から外を眺めていると、ふいに霧が立ちこめてくることがあった。あっという間に、窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木の、まず最初に梢が見えなくなり、ついには太い幹までが、濃い霧の中に消えてしまう。街灯の明りの下を、霧が生き物のように走るのを見たこともあった。そんな日には、何度も窓のところに走って行って、霧の渡さを透かして見るのだった。


 霧の「土手」というのか「層」というのか、「バンコ」という表現があって、これは車を運転していると、ふいに土手のよぅな、堀のような霧のかたまりが目のまえに立ちはだかる。運転者はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。そのため、冬になると町なかの追突事故が絶えないのだった。霧の「土手」は、道路の両側が公園になったところや、大きな交差点などでわっと出てくることが多かった。


 
 ミラノに霧の日は少なくなったというけれど、記憶の中のミラノには、いまもあの霧が静かに流れている。


 著者は、様々な人とのつながりを広げていくなかで、イタリアの上流社会をかいま見ることもあった。

カミッラ・チェデルナは、ミラノのモードや上流社会のゴシップを軽妙な都会的タッチで描いてみせることで有名な評論家、だという。

 イタリアではチュデルナの名を聞いただけで、またあのゴシップ好きが、と顔をしかめるむきも少なくないのであるが、私たち外国人にとって、彼女はなかなか貴重な存在である。それは彼女がふつう「よそもの」には扉を閉ざしている世界、歴史や社会学の本には書いてないヨーロッパ社会のひとつの面について教えてくれるからである。この閉ざされた社会、すなわち、目に見えぬところでヨーロッパを動かしている、いや、動かすとまでは行かぬまでも、そこにずっしりと存在している社会、とくに貴族たちについて、もっと正確に言えば、この特殊な「種族」が社会の一隅でひそやかに発散しつづける、そこはかとない匂いのようなものについて、彼女は教えてくれるからである。


 ミラノに来て2年目に、コルシア・ディ・セルヴィ書店の仕事仲間であるペッピーノと結婚することになり、結婚指輪を買うためにある店を紹介される。

 実際、その値段は私たちの想像していたのよりはるかに安かった。ほっとしたのと同時に、私は例のヨーロッパの秘密の部分の匂いをかすかながら感じとった気がした。この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。ずっとあとになってから、やはりミラノの古い家柄の女性たちと、ある内輪の晩餐の席をともにしたとき、彼女らが、ある新興ブルジョワの家庭の度はずれた贅沢を批判しているのを耳にしたことがある。「だって、あそこでは始終Bでお買物よ」Bというのは、まさに大聖堂ちかくのぎらぎらした貴金属店の名だった。あたらしい貴金属を「始終」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ、と言わぬばかりの彼女たちの口ぶりだった。


 著者は、コルシア・ディ・セルヴィ書店でガッティというちょっと風変わりな男性と知り合い、長い友情を続けることになる。

 ガッティは、あの忍耐ぶかい、ゆっくりした語調で、原稿の校正の手順や、レイアウトのこつを教えてくれることもあった。すこしふやけたような、あおじろい、指先の平べったいガッティの手が、編集用の黒い金属のものさしで行間の寸法を計ったり、紙の角を折ったりするのを、私は吸いこまれるように眺めていた。全体のじじむさい感じとは対照的に、よく手入れされた神経質な手だった。


 (夫ペッピーノが急死して4年後)日本に引きあげることになったある日、私はガッティの家をなにかの用で訪ねた。まだ翻訳やら、書評やらの仕事が残っていて、私は夜もろくろく寝ていない日が多かった。ガッティはなにやら、校正のような仕事をしていたので、私は区切りのよいところまで待つあいだ、ソファで新聞を読んでいた。そのうち、まったく不覚にも、私は眠りこんでしまった。いったい、どれくらい寝たのだろうか。ふと気がつくと、ガソティが仕事机から、ちょっと困ったような、しかしそれよりも深い満足感にあふれたような表情でこっちを見ていた。ごめん、ガッティ、疲れていたものだから。そう謝りながら、私はガッティのあたたかさを身にしみて感じ、それとともに、もうこんな友人は二度とできないだろうと思った。


 何年か後著者は、アルツハイマー症になってミラノ郊外の老人ホームに入っているガッティを訪ねた。

 まもなく夕食の時間がきて、ふたたび看護人がガッティを迎えに来た。チャオ、ガッティ、という私たちのほうを振り向きもしないで、ガッティは食堂に入ると、向うをむいたまま、スープの入った鉢をしっかりと片手でおさえて、スプーンをロに運びはじめた。
 幼稚園の子供のような真剣さが、その背中ぜんたいににじみでていた。


 須賀敦子のミラノでの足跡を訪ねた「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著、河出書房新社)という本には「ガッティはアツコのことが好きで、・・・(想像だが)アツコがミラノにずっといれば、ガッティはあんなふうにならずにすんだかもしれない」というコルシア書店時代の若い友人、ピッチョリの言葉が載っている。
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 「ミラノ 霧の風景」には、ジャコモ・レオパルディジョバンニ・パスコリエリオ・ヴィットリーニカルロ・ゴルドーニウンベルト・サバ など、浅学菲才が初めて知ったイタリアの詩人、作家についての記述がちりばめられており、著者の知的水準の高さをうかがうことができる。

 サバについては、著者自身が日本語に訳して出版しており「あとがき」の最初のその1節が引用されている。

 死んでしまったもの、失われた痛みの、
 ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
 ため息の、
 灰。


 そして、こう続ける。

 本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本、翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。


2010年2月15日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その1


 1昨年から友人Mらと始めた「長崎教会群」巡りは、この正月で3年目。
 「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、1昨年5月に長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩き、昨年正月には五島列島の教会を巡ったから、これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 昨年1月の五島列島への紀行は、このブログ゙で3回に分けて書いたので、今回は1昨年の分も合わせて記録してみたい。

 3が日明け、4日早朝の全日空便で福岡に入り、一度は行ってみたいと思っていた大宰府の九州国立博物館で、アジアとの交流に焦点を絞った独自の常設展示を満喫した。ここと、前原市の「伊都国歴史博物館」、佐賀の「国営吉野ケ里歴史公園」を巡る「トライアングル構想」に挑戦する計画もしたのだが、勉強不足のうえ時間もなく、またの機会に。

翌日、朝の「特急みどり」で佐世保へ。タクシーに飛び乗り、相浦桟橋、午前11:00発の黒島行きフェリーになんとか間に合った。空気は冷たいが、波は静かな50分の航行。「隠れキリシタン」の島と知られるこの島の名前は「クルス」(ポルトガル語で十字架)がなまってつけられた、という説もあるそうだ。
港には、カトリック信者の観光ガイド゙「鶴崎商店」のご主人が迎えに来てくれていた。鶴崎さんの軽トラックに乗せてもらい20分弱で、島の中央部の丘にある国指定の重要文化財「黒島天主堂」に着いた。

 フランス人マルマン神父の設計と指導で明治35年に完成したレンガ゙造りのロマネクス様式で、国宝の大浦天主堂(長崎市)と並ぶ3層構造の先駆的な建築物。使われたレンガ゙はほとんど外から持ち込まれたが、一部は島の人たちが自ら焼いたもの。黒っぽいのがそれだという。昨年訪ねた五島列島・福江島の「楠原教会」と同じイギリス積みで積まれているのが分かる。大きなレンガと小さなレンガを交互に重ねて、強度を増すやり方だ。

 内部は、間伐材を組み合わせた16本の柱が並び林のような雰囲気。五島列島でおなじみのリブ・ヴォールト天井と呼ばれるアーチ状のはりが走っている。天井板は「くし目挽き」と呼ばれ、島民が細かく木目を手描きしただという。内陣には、有田焼の青いタイルが張られ、聖人像は中国・上海製、フランスから運んだ鐘と、信仰の自由を得た島民たちの意気込みが伝わってくる。

 しかし、島の過疎化は進んでおり、昭和30年に2500人だった人口は約600人に減り、小学生が24人、中学生は19人しかいない。多くの農地は荒れ放題でのびてきた竹に占拠されようとしている。五島列島の福江島で見たのと同じ風景だ。残された遺産を生かして、生活基盤を再構築する方法はないのかと思う。

 鶴崎商店で作ってもらった、タイのさしみやアラ炊き、島特産の豆腐という盛沢山な昼食と熱燗で体を温め、午後2:30のフェリーに飛び乗った。お土産に、長崎名産の「かんころ餅」をもらった。まだ温かい。サツマイモの素朴な味だった。

佐世保駅前発のバスの出発まで1時間しかない。相浦桟橋に1台だけ待っていたタクシーで、浅子教会へ急ぐ。山道を抜けて20数分。西海国立公園九十九島を望む入り江に面して三角形の尖塔が目立つ小さな木造の教会が建っていた。

 正面のアルミサッシのドアは閉まっている。裏に回って、神父さんが出入りする内陣側のドアが開いていたので、入らせてもらった。外壁と同じ空色で塗られた柱と天井が素朴な造り。しかし、柱頭飾りはイオニア風、天井へと続く柱の上部には十字架を思わせる四つ葉のクローバーの彫刻があるなど、工夫をこらした意匠だ。

 この教会は、クリスマスのイルミネーションで有名らしい。教会だけでなく、周りの信徒の家も毎年、違うイルミネーションを競い、教会の前の広場に屋台が並び、観光客でにぎわう。隠れキリシタン子孫の熱気が伝わってきそうだ。

 佐世保駅前にそびえるゴシック構造の三浦町教会は時間がなく、1昨年に続いて見そこなった。

 1昨年の5月にも佐世保に入ったが、そのまま民活鉄道の松浦鉄道で日本最西端の駅「たびる平戸口駅」からバスで平戸の島に入ってしまったからだ。

 平戸最古の宝亀教会は、木造瓦葺だが、正面は白い漆喰で縁取られた煉瓦造り。そのコントラストがおもしろかったし、教会の側壁にそった回廊もユニークだった。
寺院に囲まれて尖塔がのぞく聖フランシスコ・ザビエル記念教会 は時間がなく、写真だけ撮った。教会が建った後、キリシタン優遇方針を換えた平戸藩主が、教会を隠すように寺院を建てさせたという。捕鯨や隠れキリシタンの歴史を展示する平戸市生月島博物館「島の館」 も、宿から見た西海の夕日と並んで豊潤な旅の立役者になってくれた。

本土・田平に戻って訪ねた国重文指定「田平教会」は、五島列島での旅でおなじみの鉄川与助の最後の作品。内部のリブ・ヴォールト天井、コリント風の柱頭飾りは与助の自信にあふれているように見える。すべて新約聖書からテーマが選ばれたステンドグラスは、なんとも現代的なデザイン。聞けば、1998年、イタリア・ミラノの工房製だという。なんと、100年近くをかけて、この教会は新しくなり続けてきたのだ。

ロマネクス様式の黒島教会:クリックすると大きな写真になりますイギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製:クリックすると大きな写真になります三角形正面が特色の浅子教会:クリックすると大きな写真になります 日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
ロマネクス様式の黒島教会イギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製三角形正面が特色の浅子教会日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会:クリックすると大きな写真になります意匠をこらせた宝亀教会の内部:クリックすると大きな写真になります寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会:クリックすると大きな写真になります完成されたたたずまいの国重文・田平教会:クリックすると大きな写真になります
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会意匠をこらせた宝亀教会の内部寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会完成されたたたずまいの国重文・田平教会


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5 やはり遠藤周作の沈黙の世界である
4 迫害されたキリスト教徒

2008年2月27日

読書日記「カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇」(宮下規久朗著、角川選書)

 イタリア・バロック時代の巨匠といわれるカラヴァッジョという画家を始めて知ったのは、一昨年9月、「和田幹男神父と行く『イタリア巡礼の旅』」(ステラ コーポレーション主催)というツアーに参加したのが、きっかけだった。

 著名な聖書学者である和田神父に導かれるままに古い教会にたどり着くと、薄暗い礼拝堂に掲げられたカラヴァッジョの宗教画が、かすかな光のなかに浮かびあがってくる。

 その強烈な印象が忘れられず、帰国してからカルヴァジョ研究の第一人者と言われる著者(神戸大大学院人文学研究科准教授)の本3冊を入手した。

 著者は、最新作「カラヴァッジョへの旅」の後書きにある「カラヴァッジョ文献案内」などで、この3冊について説明している。

 「私の集大成」と言う「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」(名古屋大学出版会、2004年)は、A5版、本文だけで300ページ近い大部なもの。作品の解釈なども詳しく、サントリー学芸賞や地中海ヘレンド賞を受けている。

 「カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠⑪」(小学館、2006年)は「これを越える画集は世界にない」と著者が自負する大型のカラー図版。

 カラヴァッジョ研究の総集編という「カラヴァッジョへの旅」は、各地に残る天才画家の足跡をたずねる旅で構成されている。

 ミラノに生まれ、ローマで後世に残る名品を残しながら、殺人を犯して南イタリアに逃亡。ナポリやシチリア、マルタ島でもけんかや暴力ざたなどの無頼をつくしながら描き続け、真夏のトスカーナの港町で行き倒れる。著書は、38歳の短い生涯を綴りながら、描いた作品を簡明に解説している。

 その内容を書くには、どうしても作品の図版が欠かせないが、著書からコピーすれば、やはり著作権にふれるのだろう。WEBを探していたら、サルヴァスタイル美術館という個人サイトを見つけた。画像はあまり鮮明ではないものの、カラヴァッジョの主要作品のコピーを見ることができる。

  一昨年のイタリア巡礼の後、ツアー仲間の岡本さんから詳細な記録をいただいた。それによると初めてカルヴァジョの作品に接したのは、ローマ滞在5日目。ナヴォーナ広場に近い聖ルイ教会(フランス人の教会)のなかにある5つの礼拝堂の一つの正面に「聖マタイと天使」、左の壁に「聖マタイの召命」、右に「聖マタイの殉教」と、マタイ3部作が掲げられていた。右側の献金箱にコインを入れると、電気の明かりがついて暗い闇に沈んでいた作品が浮かびあがる。

 「聖マタイの召命」は、絵画のなかの誰がキリストの召しだしを受けたのかという「マタイ論争」で有名な絵。諸説があるなかで、宮下准教授は右端でうつむきコインを数えている徴税吏の若者がマタイだと断言する。「次の瞬間、ばたんと立ち上がって、呆気にとられる仲間を背に、キリストとともにさっさと出て行くであろう」クライマックスの直前を捉えた作品、という。

 キリストが伸ばした右手は、システィーナ礼拝堂天井にミケランジェロが描いた「アダムの創造」のアダムの左手を左右半回転したもの。

 どこで読んだか、聞いたりしたのかの記憶がないのだが、この手を伸ばす構図が映画「ET」にも生かされていることでも知られている。

 ローマ滞在5日目の昼前には、聖アウグスチヌス教会で「ロレートの聖母」を見た。ひざまずく農夫の足の裏の汚れのリアリティさには、当時の「民衆が大騒ぎした」らしいが、聖母のモデルをめぐる著書の記述も興味深い。

 その日の夕方、聖マリア・デル・ポポロ教会礼拝堂で「聖パウロの改心」を見た印象は、とくに強烈だった。

 「画面を圧する大きな馬の足元に若い兵士が横たわって両手を広げている。この兵士はサウロ(後のパウロ)であり、今まさに改心しつつある」。

 その証拠に、絵に描かれた「馬丁も馬もパウロに起こった異変にきづいていないかのように動作を止めてうつむいている」。つまりこの絵は、パウロの脳のなかで起こったことを描いていると、宮下准教授。

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録第9節4章)という聖書の言葉を、ガラヴァジョは「一人の人間の内面に起こった静かなドラマに変容させてしまった」のだ。

 名画の完成度が高まるにつれてガラバッジョの無軌道ぶりは増していく。そして、友人やパトロンに何度も助けられながらも、同じ過ちを繰り返す。

 著者は終章でこう書く。「私がカラヴァッジョに引かれるのは・・・こうした彼の生涯と破滅的な人間性のためである」「私も自分が抑えられないかたちで、怒りを暴発させては・・・失敗と後悔を繰り返してきた」「誰しも『内なるカルヴァッジョ』を抱えて生きているのだ」

 宮下准教授のホームページに、ある雑誌に載った顔写真が貼り付けてある。

 「趣味は、任侠映画鑑賞」と言う無頼っぽい表情は、ウイキペディアに掲載されているカラヴァッジョの肖像画に似ていなくもない。

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(追記:2013/3/10)  
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 久しぶりのカラヴァッジオとの再会である。

著者のものを読むのは初めてだが、2度にわたるカラヴァッジオを訪ねる旅を綴っている。それを個人美術批判誌に連載しているうちに、表題の「カラバッジオへの旅」が刊行されたため「・・・からの旅」といった、いささか中途半端な題名になったようだ。
カラヴァッジオ作品の分析も、宮下紀久朗と一味違う。
 例えば、 「洗礼者聖ヨハネの斬首」(マルタ島、サン・ジョヴァンニ大聖堂)を見て発見したのは「色彩の二種類の美しさ」だという。
 
ひとつは、聖ヨハネの赤い布。すこし朱色のまじった、ほとんど超絶的としかいいようのない赤い色である。超絶的とは、色彩を極めていって色彩を超えるところまで到達してしまった色彩、という意味でもある。そして色彩を超えることによって「絵画」 の何かをまで超えてしまっているという意味にはかならない。この赤は、赤そのものであり、同時に赤という色を超えてしまった赤でもある。・・・
 そしてもうひとつは、背景の、というよりこの絵のひろがりそのものを作り出している色彩である。それは現実的には壁、格子窓、門、門のアーチの石組み、地面(床面)の茶色っぼい、黒っぼい色彩のことだ。この大作の面積からいうと、その部分がいちばん大きい。この色彩がうまく描けないと、絵そのものが台無しになる。左側の人物たちを描くことができても、それらを真に存在させるためには、ひとつのまとまったひろがりのなかへと着地させなければならない。そしてその「ひろがり」とは、色彩によってしか実現されえないのである。そういう「色彩」というものがある。そうして、そのような「色彩」が、とくべつの自己主張をすることなしに美しい、ということが起りうる。

「聖母の死」(パリ・ルーヴル美術館)が、現代人の心を打つのは「神々しくない」からだ、という。
 
髪はボサボサで、お腹はすこし膨れたように描かれ、美しいとはいいがたい素足の両足先が投げ出され、ありふれた、普通の死体としてころがっている。その顔は、大方の図版よりはずっと灰色に近く、骸の土気色をしている。テヴェレ河のじっさいの水死体をモデルにしたという説もある。

この絵のハイ・ライト、内容の点でいちばん光が当っているのは、いうまでもなく聖母の顔である。よく見ると、その顔には苦痛も神々しさもないかわりに、なんとも言い難い穏やかさが浮んでいる。この顔をそのように表現したことに、僕は、カラヴァッジオの鋭い直感力と天才を感ずる。

著者が「最高峰」と評価するのは、「ロレートの聖母」(ローマ・サンタゴスティーノ聖堂)
 
二人の巡礼が眼にしているのは、現実界に姿を現した聖母子というよりは、現実界に現実に存在する母子である、というように見える。・・・それはどまでに、「物語性」をこえて、「リアル」なのである。・・・
 その「リアル」さが、この絵を劇的なものではなくて、むしろ静かなものにしている。そこにいかなる大仰な身振りもなく、過剰な舞台背景もないことが、この作品の美しさをより深めている。そしてそういう深さが、静けさをもたらす。