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2015年9月30日

読書日記「ボケてたまるか! 62歳記者認知症早期治療実体験ルポ」(山本朋史著、朝日新聞出版)

ボケてたまるか!  62歳記者認知症早期治療実体験ルポ
山本朋史
朝日新聞出版 (2014-12-05)
売り上げランキング: 96,091


 著者は、62歳(発刊当時)の週刊朝日記者。60歳の定年後も1年契約の編集委員として取材を続けていたが、最近もの忘れがひどくなってきたことが、気になってしかたなかった。

 必要な書類をどこに置いたのかを忘れてしまう。テレビを見ていて俳優の名前がでてこないことにイラつく。取材の約束を忘れることもあった。住所録をめくってみても、知人の名前が出てこない。取材したことがある政治家の名前さえ忘れてしまっている。

 電車で降りるべき駅を乗り越すことが増え、取材の途中で、次の質問の言葉が出てこないこともある。それに、最近怒りっぽくなった。「威圧的な発言も認知症の第一歩」と、聞いたことがある。

 「取材の日程をダブルブッキングしてしまう」という、記者として致命的ともいえる"事件"を起こして、ついにもの忘れ外来を受診する決心がついた。

 担当記者に相談して筑波大学教授で、東京医科歯科大学の特任教授として、週に1回、もの忘れ外来を担当している朝田隆医師の診断を受けることになった。

 最初に朝田医師と助手の女性から、様々なテストを受けた。

 医師の言うグー、チョキ、パーの形を右手で作り、左手でそれに勝てる形を作る。両親や兄弟の名前や年齢などの記憶力を聞かれ、助手からは文章力、図形力、常識力などを調べられた。

 読まれた300字ほどの文章を聞いて記憶、5分後と40分後に同じ内容を言わされた。テストは、2時間ほどで終わった。

 これは 「認知機能検査(MMSE)」と呼ばれ、この本の巻末に収められている。同じような検査は、WEB上でもいくつかUPされている。

 最寄りの病院で、 CT MRIの検査を受けるように言われ、紹介状を渡された。本来はいけないのだろうが、開封して詠んでみた。

 
 「認知症の疑いが強いため、克明に調べてください」
 認知症!その文字を見て、「がーん」となった。


 朝田医師からは「 軽度認知障害(MCI)の疑いがあるが、それほど症状は進んでいません。MRIもCTもこれからの治療の基礎資料にするためです」と、言われていた。しかし、気休めの言葉としか聞こえなかった。

 認知症治療についての知識が皆無だった筆者は、2度目の診断でいくつかの質問を朝田医師にぶつけた。

 認知症によい食べ物は?
 「ビタミンA,C、Eがいい。それにDHA。青身魚に含まれている成分が効果的であることは間違いない。ゴマ油がいいとか鶏の胸肉が効果的という意見もありますが、まだはっきりした症例結果があるわけではないので・・・」

 酒好きで、今も毎日ですが?
 「アルコール依存症のレベルまでいったら話は別ですが、アルコールと認知症の関係は、これまでの症例結果からすると、せいぜい1%「あるかないかですよ」

 アルコールの覚醒作用のせいで、睡眠導入剤を常用している?
 「アルコールと睡眠導入剤ですか。それは、いいことではありません。しかし、それで認知症が進むという因果関係は少ないと思います」

 3度目の診察では、CTとMRI画像が届いていた。

 CT画像では、白く映っている血管が少し太くなっている部分が3か所ほど見つかった。
 「太くなったところは、血流が止まったり、詰まったりする箇所。こういう部分で脳梗塞が起きる可能性がありますが、山本さんぐらいの年齢になるとどなたにもあり、特に心配はいりません」

 いよいよ問題のMRI画像だ。
 特に、海馬は、 β―アミロイドの攻撃で脳神経がたくさん壊され、 アルツハイマー型の認知症を告知されたら・・・。

 「ここが海馬です。黒く欠けたような部分が少なく、あまり萎縮していません。・・・現段階では7まだ認知症の心配はないと思われます」

 実は朝田医師は、筆者の認知機能検査や手指の動かし方テストで、手先の器用さや機敏性が衰えているのかもしれないと最初から考えていた。
 「平常時に注意力が散漫になることがしばしばありませんか』と聞かれたが、まさにその通りだった。

 筑波大学附属病院で週に2回行われている認知力アップトレーニングへの参加を勧められた。

 筋力トレーニングで胸の筋肉がピクピクするまで体力が回復して認知力がアップしたケースもある。絵画や音楽で認知力が向上したケースもある。
 「アタマ倶楽部」という頭脳力アップゲームを使うほか、料理のプログラムも始めた、という。

 筋力トレーニングでは、のっけからショッキングなことがあった。

 指導するのは、ボディビルダーの 本山輝幸さん。

 「初めてですね。まず、いすに軽く腰掛けて、右足を水平より高く上げてください。はい10秒間」
 ぼくはわけがわからないまま、ただ、言われる通りに足を上げた。
 「1、2、......10。はい、足を下ろしてください。右足はいま痛いですか」
 最初は、痛いという意識はまったくなかった。
 「ほとんどといっていいほど、痛くありません」

 ぼくの言葉を聞いて、本山先生の顔つきが変わった。

「痛くないということは、感覚神経が脳に繋(つな)がっていないということを意味します。あなたはMCI(軽度認知症)になっているのかもしれません。でも、心配されることはありません。筋肉に刺激を与えてトレーニングすれば、3カ月ぐらいで感覚神経が脳に繋がります。後は治りは早いはず」


 これだけのトレーニングだけで、本山さんに「すぐに軽度認知症かグレーゾーンにかかっていると見抜かれてしまった。

 本山さんは言う。
  「トレーニングをする場合、鍛えるべき筋肉に自分の神経を集中して。脳と体の感覚神経ノネットワークを構築するよう心がけたほうがいい。鍛えている際に筋肉の痛みや刺激をより強く感じられるようになってきたら、脳と体の感覚神経がつながってきた証拠です」

 筋力トレーニングの効果は少しずつ出てきた。音楽、絵画、料理療法も受けたが、定期的に受ける認知機能検査の数値は、もうひとつ良くならない。

 しかし、認知力アップトレーニング・デイケアでの仲間も増えた。「三歩進んで、二歩下がる」「ボケてたまるか!」・・・。山本さんの挑戦は続く。

2013年8月28日

読書日記「時代の風音」(堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎 駿著、朝日文芸文庫・朝日新聞刊)


時代の風音 (朝日文芸文庫)
堀田 善衛 宮崎 駿 司馬 遼太郎
朝日新聞社
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 8月4日付け読売新聞読書欄で「私のイチオシ文庫」という2ページ特集で取り上げられていた文庫本を、〝猛暑払い"に何冊か読んだうちの1つ。

 宮崎 駿が、尊敬する堀田善衛 司馬遼太郎の話しを聞きたいと出版社に持ちかけ「どうせなら3人の鼎談で」ということで実現した本。宮崎は、主宰する スタジオジブリから堀田の著書をシリーズで発刊するなど「自分の位置が分からなくなった時、堀田さんに何度も助けられた」と語っているし、司馬遼の国家論に「ひじょうに感動した」と話しており、鼎談と言いながら宮崎は司会役に徹している。

 単行本が1992年、文庫本になったのが1997年と20年ほども前のバブル崩壊以前の鼎談だから、その後の21世紀の展望については「ちょっと違っているな」と思う部分もあるが、世界を知りつくした堀田と司馬遼の国家、文化、時代論には、目を開かせる思いがする。

 「BOOK」データベースには、この本はこう紹介されている。

20世紀とはどんな時代だったのか―。21世紀を「地球人」としていかに生きるべきか―。歴史の潮流の中から「国家」「宗教」、そして「日本人」がどう育ち、どこへ行こうとしているのかを読み解く。それぞれに世界的視野を持ちつつ日本を見つめ続けた三人が語る「未来への教科書」


 20世紀と言う時代を振り返り、ソ連崩壊について堀田は「ソ連(ロシア)は難治の国。・・・イデオリギー独裁だったので、プルーラリズム(複数主義)の用意がない」と切り出し、司馬遼は「ロシア史というものに、政治、経済、文化の成熟はない」と受けて立つ。

 堀田によると「ロシア革命のとき、農民が二人、レーニンに会いにいった。戻ってきていうには『今日はレーニンというツアー(ロシア皇帝の称号)に会った』(笑)という話がある」と紹介すると、司馬遼は「ソ連には、共産党というツア―がいる」と、この大国の変わらないであろう体質を分析している。

 もう一つの大国、中国について宮崎が「 ウイグルとか チベットが中国領というのは信じ難い」と切り出すと、堀田は「困ったことに征服そのものがあの国の歴史の実体」と話し、司馬遼も「ロシアと中国という二つの古い帝国が世界のお荷物になりつつある」と言う。

 北方四島や尖閣諸島の未来が予測できるような発言だ。

 さらに、 アゼルバイジャン スロヴェニア クロアチアなどで「小さな紛争は(冷戦時代より)かえってすごくなるでしょう」(堀田)、「いまや人類にとって(話しの通じない)外国とは、北朝鮮であり、イスラエルかもしれません」(司馬遼)と、その後の世界情勢をピタリと言い当てている。

 スペインに10年滞在した経験のある堀田は「ヨーロッパ人というのは、大ざっぱにいえば二種類ある」と話す。

  
一つは貴族を含む上層階級で、親戚がヨーロッパじゅうにいる。・・・この連中は、戦争が起こると困るわけです。インターナショナルというより、むしろコスモポリタンです。
 もう一つの中産階級から下というのは、これはナショナリストです。・・・
 いまのイギリスの王室はドイツのハノーバー家からきたプロテスタントの人たちです。・・・つい近年までドイツのしっぽをつけていたわけです。・・・
  スペインの王さまといえば、フランスのブルボン朝の人で、嫁さんのソフイーアさんはギリシャの人です。
 上の階層はそういう流動構造になっている。だから、常に平和でありたいと思っている。ヒトラーみたいなのが出てきて、「ガンバロー」とあおったときナショナリスティックに頑張っちゃったのは、中産階級とその下だった。そういう構造になっている。


 そして堀田は、EC統合によって「ヨーロッパは国境のなかった中世に戻ることになり、レジョナリズム(地方分権主義)の塊になっていく」と予測する。

 一方、司馬遼は「日本がアジアの孤児であることは、鎌倉幕府の成立から決まった。精密な封建制をつくったことで、中国や高麗、その他のアジアとは体制として別な国民になった」と言い、アジアが1つの〝塊"になることはありえないと見ている。
 堀田は、元西ドイツ首相のシュミットに「あなたたちはアジアの友達を持っていない」と言われ、ガーンときたという。

   日本がアジア諸国と違う国になったというのは「封建制の中で、人間が物事をやる能力が身につく。・・・日本人の考え方を製造業に向くようにもっていった」と司馬遼は語る。  もう一つよく分からないが、一度は経済大国にのし上がった日本は、アジア諸国とは異質の体制国家であるということだろうか・・・。

 司馬遼はさらに、これから日本の人口が減っていくなかで「われわれの20パーセントぐらい外国系がはいると思う。・・・憲法下で万人が平等という大原則があるから、日本も小さな合衆国になるでしょう。・・・そうなることをいまから覚悟して・・・決して差別してはいけない。差別はわれわれの没落につながります」と話す。司馬遼が今、目の前にいて話しているような錯覚に陥りそうになる明確な時代予想だ。

 読み終えて、 このブログで「司馬遼太郎が書いたこと、書かなかったこと」(小林竜雄著)でふれた、司馬遼の歴史観を思いだした。

 「時代の風音」で、堀田、司馬遼の両氏が「これまで書き続けてきたのは、戦時中の自分に手紙をだすつもりだったから」と、共に語ったことも印象的だった。
 宮崎が「あとがき」で書いているように「人間は度しがたい」と堀田、司馬遼両氏が呼応するように語ったことも・・・。

 先日、宮崎駿監督の最近作のアニメ映画 「風立ちぬ」を見た。

 「鯖(サバ)の骨のように軽やかな翼を持つ」飛行機の制作を夢見て、 零戦戦闘機を開発した技術者が主人公。なぜ、終戦の日を待っていたように、零戦開発物語なのかと思ったが、零戦を開発し終えた主人公に「あの物量豊かな米国相手に、なぜ戦争を仕掛けのか」と独白させている。

 宮崎監督は「時代の風音」で堀田、司馬遼両氏から教わった「時代の風を読めない愚かさ」を訴えたかったのだと、気がついた。

 

2010年7月11日

 読書日記「一週間」(井上ひさし著、新潮社刊)<br /><br />


一週間
一週間
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井上 ひさし
新潮社
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 劇作家として活躍が目立っていた故・井上ひさし が、実は最後にすごい小説を残していた。

  2000年から2006年にかけて「小説新潮」に断続的に連載されたものだが、ガン 治療と劇作に追われため、この作品を『吉里吉里人』に負けないものにする」という思いを残しながら、加筆、訂正を果たせずに旅立って しまった。

  井上ひさしらしい軽妙な筆致を駆使しながら描き出そうとしているのは、近代歴史のな かで検証されないまま埋もれかけていた"シベリア抑留"という重いテーマである。

  文中には、日本人捕虜を国際法に違反して強制労働を強いた旧・ソ連政府への告発の言 葉がいくつも並ぶ。

  この国には、帝政ロシアの時代から、大規模な工事で労働力が必要になると、、収容所を利用する習癖があるらしい。・・・大戦争の後始末にたいへんな人手がいる。そこで 戦敗国の捕虜をばっと捕まえた。そして収容所へ放り込んで働かせ、国内各所を整備させる。


 この方針に、甘んじて乗ったのが旧・関東軍司令部だった。
  関東軍司令部の参謀たちは、日本兵士の使役を極東赤軍司令部に申し出たりしているんですからね。・・・「大陸方面においては、ソ連の庇護のもとに、満州朝鮮に土着さ せ、生活を営むようにソ連側に依頼するも可」・・・これは明らかな棄民でしょう。


    収容所のなかでは、旧・日本軍将校の自己防衛とエゴのために、多くの旧・日本軍兵士 が、無為に死んでいった。

  ソ連・コムソモリスクの捕虜収容所で死去した哲学者の大橋吾郎は、同じ収容所にいた 小松修吉に黒い手帳を託して息を引き取る。そこには、収容所に入っても、兵士を虐待す る将軍下士官への告発の言葉が書き込まれていた。

  兵士を凍死させるのは、決まって旧軍の軍体制度をそっくりそのまま捕虜収容所に持ち込んだ部隊である。・・・
各収容所において、ソ連邦から配給された糧食のピンはね、横流しが横行していると聞く。なかにはピンはねした糧食で酒を作っている将校下士官たちもいるという。


大日本帝国が批准したハーグ条約によれば、兵士は捕虜になった瞬間、ソ連邦政府の圏内に入り、旧軍の諸制度は適用されない。収容所に旧軍の諸制度を持ち込んだ将校下士官は国際法違反の罪に問わなければならない。


 物語は後半に入って、ドンデン返しの連続。一人の捕虜にすぎない一日本人が収容所を管理するソ連邦の将校と共産党幹部との間で繰り広げる、胸のすくような闘争の物語となる。

収容所から一度は脱出しながら、再び捕えられた軍医が、たまたまロシア革命の父とい われる「レーニンの手紙」を手に入れ、主人公に託す。
少数民族の出身だったレーニンが少数民族の権益を守るための政治闘争を行うと仲間に誓った内容だった。しかしレーニンはその後、ソ連社会主義の確立のために、少数民族の利益を踏みにじっていく。
この手紙は「レーニンの裏切りと革命の堕落を明らかにする、爆弾のような手紙だった・・・」(著書の帯び封解説)
重大国家機密を守るため、赤軍幹部はあらゆる手段でこの手紙を取り戻そうとする。

主人公は捕虜収容所の人びとに届ける「日本新聞」の編集に携わっていたが、その職場の親しい人たちが見せしめに銃殺される。しかし、それは芝居であることを見抜いた小松は日記の引き渡しを拒否する。

日記は、日本人女性でソ連人と結婚した日本新聞社食堂の賄い主任の娘ソーニャに託していた。
それを薄々疑った赤軍将校は、3人を遊覧飛行に誘う。

米国に秘密を売った兵士が、手紙を渡さない小松への見せしめに飛行機から空中へ次々と突き落とされる。たまり かねたソーニャが手紙をついに渡してしまう。
しかし、兵士の突き落としはまたもや芝居だった。彼らは落下傘部隊の精鋭だったの だ。

ところが、この手紙も偽物。本物は母娘があるところに隠していた。赤軍将校が新調し た外套の裏地のなかに。

赤軍に返そうとした手紙は、偶然の突風にあおられ、散水車の水に打たれ、雪とともに 千切れて粉々になってしまう・・・。

「日本人捕虜、小松修吉は、北シベリアの収容所に移送される」
この1節で小説は終わる。主人公がそこでもたくましく生き続けることを予感させなが ら。