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2013年8月18日

読書日記「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」(梅原 猛著、集英社文庫)


日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)
梅原 猛
集英社
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 もう1年近く前の話しになってしまったが・・・。この ブログでもふれたが、東北・大船渡にボランティアに出かけた際、ホテル近くの寿司店のカウンターで同席した地元の元中学校校長、金野俊さんの言葉がなぜか、いまだに忘れられない。

 「私は、日本人とは思っていません。 縄文人と 弥生人が"和合"した子孫です」

それ以来、東北と縄文文化に関連した本をいくつか読み、東北が縄文文化の中心であり、日本の"故郷"でもあることを確信するようになった。表題の本も、その一つだ。

著者は、こう切り出す。

「縄文時代という時代、特に後期から晩期にかけて、東北はまさに日本文化の中心地であった」
「特に青森県を中心とした晩期縄文文化は、まことに素晴らしい。・・・縄文晩期、つまり、いまから三千年から二千年前くらいまで、東北、特に津軽の地には日本最高の狩猟採集文化があったといえる」

 著者は、近著「縄文の神秘」(学研M文庫)のなかでも「縄文時代の人口の十分の九は東日本にいた」と言う考古学者、 小山修三・元国立民族博物館名誉教授の説を紹介。同時に、西日本が照葉樹林帯であるのに対し、落葉樹のナラ、クリ、トチなど豊かな実を実らせる東日本の"森の文明"が縄文文化の背景にあった、と説明している。

 当時、日本は千島列島とつながってアジア大陸の一部であり、人口のほとんどが東日本に住んでいたとすると、朝鮮などから渡来してきた弥生人が攻めのぼるまでは、東北が"日本"の中心の地であったことは、かなり明確になる。

 青森県 東北町では、 「日本中央の碑(いしぶみ」という石柱が発見され、保存館まであるらしい。 自然石に「日本中央」という文字が刻まれているらしいが、縄文時代に文字があったという記録もなく、この碑が本物であることは、歴史的には定かではない。

 しかし梅原氏は、「蝦夷の地は、かって 『日本』と呼ばれていた」という高橋富雄・東北大名誉教授の説を紹介、中国・唐代の歴史書である 「旧唐書(くとうじょ)」 「新唐書」に「倭の国(大和朝廷)が日本の国を合して日本と名乗った」といった記述があることにふれている。

 日本とは「日の本(ひのもと)」。あの「日出ずる国」を意味する。
   それを知るだけで、日本の源流である東北の存在感への重みはいやがうえにも増してくるのだ。

 梅原氏は「古い日本の文化、いってみれば日本の深層を知るには縄文文化を知らなければならない」と、この本の表題の意味を明らかにする。

 ただ、ひとつの文化を知るには(土偶など)物の遺品だけでなく、その精神、言葉、宗教を知らなければならないが「縄文時代には、その言葉も分からず、その宗教は見当もつかない」ため「縄文研究に絶望していた」という。

 しかし、アイヌ文化を研究することによって「 アイヌ語 日本古代語の霊に関する言葉はほとんど同一であり、その意味するところもほぼ同じ」であることを発見「アイヌは、縄文人の遺民である」という結論を得る。そして、アイヌ語の研究を足がかりに縄文文化の解明に分け入ろうとする。

 そして「日本の文化は、蝦夷の文化、アイヌの文化との関係を知ることで明らかになるはずだ」と、東北への旅に出る。   なかでも、世界遺産、 平泉に関する記述がおもしろい。そして、中尊寺の国宝・ 金色堂の御物のなかに、蝦夷文化の遺産を見つけ、それがアイヌとも関係があることを示唆している。

 さらに、柳田國男 宮沢賢治の作品に縄文からの遺産をみつけ、 マタギ、山人(やまびと)が縄文の遺民であることを知る。

 そして、青森や弘前の ねぶた祭りには「縄文文化の伝統があることはまちがいない。爆発するエネルギー、そしてねぶたの外まではみ出してくるようなダイナミズム。そして人間とも妖怪ともわからない世界にさ迷うミスチシズム(神秘主義)、すべてそれは、縄文的なものである」と断言。「なまはげは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に殺された蝦夷の霊を祀る祭りである」といった見解を展開する。

 最後には再度「日本の文化、特に東北の文化の根底には、縄文文化の精神が強く残っている」と結んでいる。

 昨年の9月に、金野さんから聞いた言葉は「私は、縄文人の心を失っていない東北人です」という意味だったのか、と初めて気づかされた思いだった。

 ※その他、参考にした本
  • 「君は弥生人か縄文人か」(梅原 猛、中上健次著、集英社文庫)
      梅原猛と「縄文文化の名残りの地」と言われる和歌山県・熊野をテーマにした小説を書き続けた故中上健次との対談集。「鍋料理は縄文のなごり」という項がある。
  • 「東北ルネサンス」(赤坂憲雄編、小学館文庫)
     民族学者で、福島県立博物館館長の編者と東北に詳しい7人との対話集。編者が創った 東北芸術工科大学・東北文化研究センターの設立宣言文には、こう書いてあるという。
     「弥生史観の暗闇の中から、縄文の光が次第に大きく日本の魂を揺さぶりはじめている。・・・この東北こそ、日本に残された最後の自然―母なる大地―である。現代文明の過ちを克服し人間の尊厳を取り戻す戦いの砦である」
  • 「世界遺産 縄文遺跡」(小林達雄編著、同成社刊)
     青森県の三内丸山遺跡など、政府のよって世界遺産国内候補として2008年に指定された 「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」を解説した本。編著者は、この遺跡がある地域を「縄文津軽海峡文化圏」と呼ぶ。
  • 「縄文人に学ぶ」(上田 篤著、新潮新書)
     建築家で元阪大教授でありながら、縄文研究を続けてきた人の近著。「遺された縄文人の遺体に殺されたとみられる痕跡がほとんどない。この時代には戦争、殺人がなかった」「縄文時代が一万年以上も続いたのは母系制社会だったから」といった記述がある。


2011年11月30日

読書日記「本の魔法」(司修著、白水社刊)


本の魔法
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司 修
白水社
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 表題にひかれて図書館で借りたが、予想外のもうけものの本だった。

 著者は、装丁家と知られる人らしいが、同時に画家、絵本作家として多彩な活躍をし、川端康成賞を受賞したり、芥川賞候補になったりしたこともある小説家でもある。

 目次を開くと「藍」「朱」「闇」など画家の表現らしい1文字の下に、15人の作家の名前と作品が並んでいる。
 司修が装丁した本を引用し、それをどう読んで装丁を思いつき、作者とどう付き合い、自分自身の人生を深めていったかを綴る稀有のエッセイである。あとがきによると「本の魔法にかかって、びりびりと感じたもの記録である」という。

 取り上げられている作家と作品は、古井由吉「杳子・妻隠」、武田泰淳「富士」、埴谷雄高「埴谷雄高全集」、島尾敏雄「硝子障子のシルエット」「死の棘」、中上健次「岬」、江藤淳「なつかしい本の話」、三島由紀夫「癩王のテラス」、森敦「月山」、三浦哲郎「白夜を旅する人々」、真壁仁「修羅の渚―宮沢賢治拾遺」、河合隼雄「明恵 夢を生きる」、松谷みよ子「私のアンネ=フランク」、網野善彦「河原にできた中世の町」、水上勉「寺泊」、小川国夫「弱い神」。

 いずれも、戦後を代表する文学作品だという。読んだ作品はいくつもないので、最初はとまどいがあったが、知らない間に司修の描く魔法の世界に魅了されていった。

 武田泰淳「富士」の項では、作家と付き合いを重ねているうちに、夫人の武田百合子のファンになってしまい、夫人が武田泰淳の死後書いたエッセイ「富士日記」の何か所かが引用されている。以前に、この ブログでもふれたが「富士日記」は私の何年も前からの愛読書でもある。

 司修は、こう書く。
 
乱暴な、無謀ないい方をすれば『富士』は、武田さんにとって百合子さんを知りつくすために、書かれたといえるかもしれない。人間の謎を解こうとするにはあまりに近く大きく存在していた百合子さんのために、遠回りして。


読んでアッと思った。作家の心に深く入り込もうとした装丁家は、そこまで読めるのか・・・。

 江藤淳「なつかしい本の話」の項では「単行本の装幀や装画と相まってわかってくる本の魅力について」江藤の著作を引用している。

 
本というものは、ただ活字を印刷した紙を綴じて製本してあればよい、というものではない。
 ・・・沈黙が、しばしば饒舌より雄弁であるように、ページを開く前の書物が、すでに湧き上がる泉のような言葉をあふれさせていることがある。その意味で、本は、むしろ佇んでいるひとりの人間に似ているのである。


 
かって私の心に忘れがたい痕跡をのこし、そのままどこかに行ってしまった本のことを考えていると、表紙のよごれや、なにを意味しているのかよく分からなかった扉の唐草模様、それに手にとったときの感触や重味などが、その本の内容と同じくらいの深い意味を含んで蘇って来る。


 森敦「月山」の項では、装丁を巡る装丁家と編集者の丁々発止のやりとりが続く。

 
装幀は、何も語らず、物語のいっさいを伏せて、知らん顔して、しかし深く入り込むほうがいいし、「月山はこの眺めからまたの名を臥牛山と呼」ぶ姿を、実際の月山の写真やスケッチではなく、牛の背であらわせたら最高だ、と思った。
 ぼくの持っている『世界素描全集』の中に、日本の墨絵が素描として扱われ、作者不詳の、形のいい牛があるのを思い出した。本棚から取り出してみると、「月山」のために待っていたかのような牛の絵は、「モウワタシイガイニアリマセン」といっていた。


 しかし「こんな簡単に装幀が完成してしまっていいのか」と、司はじくじたるものを感じる。「月山」を読み返しながら、装丁のイメージを何度となく描いてみる。

 やって来た(編集者)の飯田さんと午後4時ごろから酒を飲む。飯田は、示した装丁原稿が気に入らないらしい。飲み続けて午前零時を回ったころ、司はたまらず素描全集の「牛の絵」を開く。

飯田さんは「歌舞伎役者のごとく膝を打って、「これです」と絶叫した。ぼくは装幀者として、何の作業もしないデザインを恥じていたのだと思う。
 飯田さんは、酔い方もしゃべり方も変わり、躍り出さんばかりだった。・・・無言の闘いが解決すると、彼もぼくもハイになり、・・・


小川国夫「弱い神」の項では、2人が「もう1軒「「もう1軒」と飲み歩き、飲みつくすエピソードが何回も登場する。そこには、司修の小川国夫への深い敬慕の念が満ちあふれている。 

昔のことです。春の明け方の、光や音がよく澄んだ冷たい坂道を、小川さんとぼくが酔っぱらって歩いている。三日三晩ぶっつけで、目覚めると酒場に行き、小川さんを慕う若い男女が集まってくると、小川さんの小説の中の恋愛について語り、そのなりゆきにそれぞれの経験を重ねて語り明かしました。といいても、たあいないものです。しかし酔うほどに真剣度は増していきました。


(奄美大島の酒場で)小川さんは島の男に捕まって、文学論をふっかけられていました。小川さんは怒らない人ですから、丁寧に返事をしていました。ぼくは困ったなと思い、その文学談義をやめさせようとして、その場に入って行って、何やらめちゃくちゃなことをいっておりましたら、小川さんが「あんたばかか」といったんです。ぼくは、ああ、これだな、叱られてうれしくなるってのは、と思いました。


小川国夫の作品は、この ブログでもふれたことがあるが、私には小川国夫はカトリックとプロテスタントの「共同訳聖書」の編者として活躍した敬虔なカトリック信者だったという印象しかなかった。
それが、この破天荒ぶり。なんだか、うれしくなる。

『弱い神』の装幀を考えていたぼくは、戦死者が国旗に包まれるように小川さんを十字架で包もうと思いました。・・・ぼくは『弱い神』という本を、小川さんの御棺と考え、青い十字架の旗で包んだのでした。


この本の装丁は、表紙に描かれた15のワクのなかに、登場する15の作品の装丁が並んでいる、という仕組みである。
ところが、下段真ん中の2つのワクの上に、図書館のバーコードシールが貼ってあり、せっかくの装丁を見ることができない。
「このシールをかきむしりたくなる」。そんなことを書いているブログをWEBで見つけて、フッと笑ってしまった。

読んだ後、その本の表紙をそっとなで回したくなる。そんな「魔法」にかかってしまったようである。