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2009年2月 1日

読書日記「歳月」(茨木のり子著、花神社)

歳月
歳月
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茨木 のり子
花神社
売り上げランキング: 29568
おすすめ度の平均: 5.0
5 温度の高い言葉
5 かつて若かった私達も
5 亡き夫への鎮魂譜

 なにかの書評で、この詩集のことを読んで気になっていたが、うまく見つけられずにいた。宮崎 駿監督が推奨していた、茨木のり子「詩のこころを読む」はこのブログにもちょっと書いたが、同じブログに書いた「詩と死をむすぶもの」 で、谷川俊太郎が絶賛しているのを見つけ、図書館に飛んでいった。

 谷川俊太郎はこの本のなかで、共著者の徳永進医師に、こう問いかけている。
 「茨木のり子さんの最新詩集『歳月』を読みましたか?夫の三浦さんが一九七五年五月に亡くなってから、三十一年にわたって茨木さんは四〇篇近い詩を書き溜め、それらを生前は筐底深く秘めていて出版されなかった、それが本になったんです。茨木さんの人間としての、女性としての最良の部分が言葉になったという印象です。詩とそれを書いた詩人とのあいだに、邪なものは何ひとつ存在しない。詩と詩人の幸せで誠実な一致。詩を基本的にフイクション、少々シニカルに言うと美辞麗句、巧言令色などと考えているぼくにとってはいい薬です」


 読み始めて、一篇ごとに、最近はあまり感じなくなった戦りつが何回も走った。
 この詩集を書評めいて書く力は、私にはない。著作権にふれるのだろうが、数篇をただここに書き写すことしかできない。

    一人のひと
ひとりの男(ひと)を通して
たくさんの異性に逢いました
男のやさしさも こわさも
弱々しさも 強さも
だめさ加減や ずるさも
育ててくれた厳しい先生も
かわいい幼児も
美しさも
信じられないポカでさえ
見せることもなく全部見せて下さいました
二十五年間
見ることもなく全部見てきました
なんと豊かなことだったでしょう
たくさんの男(ひと)を知りながら
ついに一人の異性にさえ逢えない女(ひと)も多いのに

    
ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々より焦らずに
おだやかに
執拗に
わたしの全身を浸してくる

この世ならぬ充足感
のびのびとからだをひらいて
受け入れて
じぶんの声にふと目覚める

隣のベッドはからっぽなのに
あなたの気配はあまねく満ちて
音楽のようなものさえ鳴りいだす
余韻
夢ともうつつともしれず
からだに残ったものは
哀しいまでの清らかさ

やおら身を起し
数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした
無言で
どうして受けとめずにいられましょう
愛されていることを
これが別れなのか
始まりなのかも
わからずに

   歳月
真実を見きわめるのに
二十五年という歳月は短かったでしょうか
九十歳のあなたを想定してみる
八十歳のわたしを想定してみる
どちらかがぼけて
どちらかが疲れはて
あるいは二人ともそうなって
わけもわからず憎みあっている姿が
ちらっとよぎる
あるいはまた
ふんわりとした翁と媼になって
もう行きましょう と
互いに首を絞めようとして
その力さえなく尻餅なんかついている姿
けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの


2008年12月28日

読書日記「詩と死をむすぶもの 詩人と医師の往復書簡」(谷川俊太郎・徳永進著、朝日新書)


詩と死をむすぶもの 詩人と医師の往復書簡 (朝日新書)
谷川 俊太郎 徳永 進
朝日新聞出版
売り上げランキング: 9063


 この本を読んで「詩のボクシング」というイベントを思い浮かべた。

 まず、臨床体験をストレートな表現のジャブで繰り出すのは、鳥取市内にホスピスを中心とした「野の花診療所」を開設している徳永進医師。 講談社ノンフィクション賞を受けた「死の中の笑み」(ゆみる出版)などの著作も多い。

 受けてたつのは、現代詩の第一人者といわれる谷川俊太郎。重い言葉をグローブに包みこんで、ずっしりと効くボディブローを送り返してくる。

 2人は、たまたま谷川俊太郎がこの病院で手術したことから知り合ったらしい。たった2百数十ページの新書版の往復書簡は、読みやすい文体でスラスラめくってしまうが、行き交う言葉のひとつひとつが心に響く。

 医師は「医者1年生のころから『仕事』と『言葉』のことは気になっていた。臨床のことを誰かに送り届けたいと思った」と書き始める。そして診療所の朝の申し送り会議の様子などを実況中継風に伝えてくる。

 詩人は、こう答える。「死が迫っている人の内側にひそんでいる言葉は、どんなことばなのでしょう。・・・おいそれとことばにならないものを抱えこんでいる人たちのことばは、日常の暮らしのことばとは違う次元に入ろうともがいていることば」

 詩人は、返信書簡の最後に、自作の詩を書き添える。
     見舞い
「・・・あのとき・・・あなたと・・・私は・・・」
切れ切れに言いかけてあとが続かない
だが青白い仮面のような表情の下に
見えない微笑みの波紋がひろがり
ベッドの上の病み衰えたひとは
健やかな魂のありったけで私を抱きしめた
(初出 『抒情文芸』創刊三〇周年記念号)

     さようなら
私の肝臓さんよ、さようならだ
腎臓さん膵臓さんともお別れだ
・・・
とは言うもの君ら抜きの未来は明るい
もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて
泥に溶けよう空に消えよう
言葉なきものたちの仲間になろう
 二人は、いろいろな場面で"死"について語り合う。

 死を前にして、二人の娘に無理難題を言い続けた父親が旅立った時、長女は「痛がりのお父さんは、三途の川渡る時、痛がりませんか」と看護婦さんに聞く。ナースが痛み止めのボルタレン座薬を一つ、肛門に入れると、二女がこう頼む。「看護婦さん、もう1つ入れて下さいませんか、ほんとうに痛がりだから」  "こんな行為に、意味はあるのだろうか"と、医師は問う。

 詩人は答える。「ほんとうに深い、切実な人間関係もときには意味を超えて人と人をむすぶのではないでしょうか」

 このブログで書いたアルフォンス・デーケン神父著の「よく生き よく笑い よき死と出会う」(新潮社)に出てくる、精神科医のエリザベス・キュープラ・ロスについて、話し合う記述がある。

 彼女は「死ぬ瞬間」という世界的なベストセラーになった著書のなかで、死に直面した人は、それを否認し、怒り、取引し、抑うつ状態になり、最後は死を"受容する"と分析している。
 しかし晩年、脳卒中で半身不随になったロスはテレビ番組のインタビューで、神への怒りをぶつける。

 詩人は、戸惑い気味にこう問いかける。
 あんなに真摯に献身的に死にゆく人々に尽くした人が、自分のこととなると痛ましいほど神に怒り、・・・『野の花診療所』での死の場面は・・・もっと穏やかで静かな感じがします

 医師は答える。
 テレビカメラに怒りをぶつけている姿をぼくも見ました。すごくよかった。こりゃ本物だと思いました。ぼくは思わずにっこり笑いました


 この本は、朝日新聞の鳥取支局にいた時に2人を知った記者が、朝日新書の編集長に戻ったことから生まれた、という。そのいきさつが「朝日新書」編集長日記に書かれているらしい。読みたいと思った。
 ところが、この日記は朝日新聞の読者向けインターネット・クラブに掲載されており、読者でない人は膨大なアンケートに答えなければならず、サービスも限定されるらしい。読むのは、あきらめてしまった。
「危ない中国点撃」の著者、福島香織記者が常連ライターとして登場する産経新聞のブログや、毎日、おもしろい新書を紹介してくれる日経ビジネスのWEBページに比べると、なんという煩雑さ。

 インターネット・コミュニケーションに焦りながらもついていけない"大新聞"の度量の狭さを、思わぬ場面で実感した。

死の中の笑み
死の中の笑み
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徳永 進
ゆみる出版
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