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Atelierで“京大型カード”が含まれるブログ記事

2008年1月23日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える③読書

 ネット時代の「知的生産の技術」を考える②では、ネット時代における発見の記録について考えてみた。今回は、ネット時代の読書について考えてみたい。

 読書は、このネット時代になっても、デジタル書籍みたいなものがあるものの、依然として重要な知識獲得手段である。梅棹さんは「知的生産の技術」の6章読書の中で、本の内容の正確な理解には、はじめから終わりまで読むことが必要であると説いており、そのようにして読書した本は、「よんだ」といい、一部分だけよんだ場合には、「みた」ということにしておられるらしい。「よんだ」本の記録には、京大型カードを使って、読書カードをつくっておられる。

 梅棹さんはまた、「読書においてだいじなのは、著書の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ」、と説かれ、そこで誘発されたことがらは、発見の記録として、京大型カードに残されるのである。誘発されることがらのレベルは雲泥の差ではあるが、私は「よんだ」本から得られた情報はブログにエントリーするようにしている。
 Amazon のアフリエートを利用してエントリーにリンクしておけば、出版社や価格などの情報まで付加された読書カードとなる。ブログはもともと日付順(投稿の何時何分までも)になっていたり、カテゴリーといった分類があったり、タグとよばれるキーワードを付ける機能があるから、記録しては理想的である。

 隠居生活に入ってから、「みた」本は多いが「よんだ」本は少なくなってしまった。少ないが、「よんだ」本の、例えば、マイク・モラスキーというミネソタ大学の教授が書いた「戦後日本のジャズ文化」という本を「よんだ」記録は、2006年12月2日のエントリーにあるとおりである。

 このような「知的生産の技術」のまねごとができるようになったのは、ブログでいろいろなことを記録しはじめてからである。私にとっては、ブログこそがそのような世界を開いてくれたのである。

 消費的読書(読書を楽しむだけ)は、たいてい本屋の店先にならんでいるのを見て衝動的に求める場合が多いが、生産的読書(知的生産のための読書)のための書籍は、このネット時代には Amazon のようなネットショップで検索するのが普通になってきた。Amazon へ検索にいく前に、Google などで得たい情報をサーチすることは、大抵の方がしていると思う。インターネットという巨大な百科事典は、ほんの数年前まではなかったのである。

 ただ、購入したいが、もう絶版になっている本もある。たとえば、「知的生産の技術」に出てくる「神々の復活」という本は絶版になっている。図書館の放出本がでたこともあったようだが、今は「復刊ドットコム」というサイトで復刊希望者の投票が集められている。(注:英語版なら、英国でペーパーバックで売られている。"The Forerunner. a Romance of Leonardo Da Vinci : Dmitri Merejkowski ;")
 Google では 「ブック図書館プロジェクト」を立ち上げている。これが実用に供されれば、図書館まで探しに行かなくても、抜粋ぐらい手に入る世界はそんなに遠くないかもしれない。

 このように、なんでもデジタル化してしまえば、保管も整理も検索も楽なのであるが、問題はうっかりすると蓄積した情報が全てなくなってしまうことである。このことについては、坂村健教授が、1月20日付の毎日新聞朝刊2面の「時代の嵐」というコラムに以下のように書いておられる。(梅棹さんは、自分で書くものには、できるだけ引用が少ない方が良いと説かれているのであるが。この記事は、前回に書いたように、スキャナーとOCRソフトで新聞記事をテキスト・デジタル化したものである。)
 デジタル化した記録は、しっかりとバックアップをとっておくことが、このネット時代には重要である。記憶デバイス・メディアの価格は恐ろしく安くなっている。クラッシック音楽LP100枚分をデジタル化し、MP3という音楽ファイルにして、iPod Classic 80GB(そのうちの20GBに) にいれて持ち歩いている友人がいる。2重3重にデータを持っていたって、たいしたことはないのである。

 
時代の風 デジタルデータよ永遠に 千の風になって
                                                     坂村健 東京大学教授

 家の古い8㍉ビデオカメラに、テープが入ったままずっと取り出せなくなっていた。
最近、メーカーに持っていきなんとか取り出してもらったが、故障については直そうにももう部品がないという。

 昔だったら子供の成長の記録を残すため、たいていの人はフィルムのカメラで写冥を撮っていた。 ところがふと気がつくと時代はデジタルカメラ。
 撮った瞬間に液晶画面で確認できるし、最新のものはそのままデータを無線LANでインターネットに送り、投稿サイトに公開できる機能まで持っているらしい。
 しかし、ふと気がつくと私の8㍉ビデオのように、以前子供を一生懸命撮った方式のカメラは世の中から姿を消している。

 そして規格が廃れると、再生機も売られなくなり、故障しても修理できなくなりという具合で、せっかく撮ったものが見られなくなってしまう。
 そこで重要なのは、記録のデジタル化だ。音声でも写真でも動画でもまずデジタル化することをお勧めする。デジタル化してしまえば、デジタルデータが保存できる媒体になら何にでも記録できる。デジタルデータが送れるネットワークなら何を通しても送れる。
 さらにデジタルデータはいくらコピーしても劣化しない。またその方式はコンピューターのプログラムで決まる。だからパソコンで再生できない規格のデータがあっても、ネットからそれを処理できるプログラムを取ってくればすぐ再生できたりする。

 これほど便利なデジタル化だが、データが壊れたときの「取り返しようのなさ」は最悪だ。アナログビデオならノイズがあっても画面が汚くなるだけで、何が映っているかぐらいはわかる。それに対して、デジタルの場合、ワンセグのテレビを見ていればわかるように、電波の受信状況があるレベルを下回ると急に画面が止まってしまう。

 デジタル記録といえども結局はDVDやハードディスクのように物理的な物質の上に記録されている。当然劣化するし、小さな媒体にたくさんの情報を入れている素材ほど、情報はほんの小さな違い―ミクロン単位の穴があるかないかとか、磁気の向きがどっちかどかぎで書き込まれているから、それはちょっとしたことで失われる。

 CDをはじめとするデジタルメディアは歴史も浅く、本当のところどれくらいの寿命があるかもわからない。CDよりDVDの方が弱いし、メディアの品質が悪ければあっという間に読めなくなるとも言われている。パソコンのハードディスクも永遠ではない。データを入れたままにしておくとある日突然恐ろしい音とともに壊れて、データがまったく取り出せなくなる。

 これをなんとかならないかと思う人は多いだろう。そこで、注目すべきは、デジタルデータがコピーしても品質が落ちないということだ。CDにしろDVDにしろハードディスクにしろ、定期的に新しいものにコピーしていけばいい。技術進歩により記憶容量の単価はどんどん安くなっている。常により広い家に引っ越せるようなもので、荷物を捨てる必要は無い。

 しかし、この方法の問題は定期的に手間と出費がかかること。ついついコピーを先延ばしにしていると、いつのまにかデータが失われてしまっていたりする。

 そこで、インターネットの時代、自分が記録したものをすべてインターネットのサイトにアップしてしまえばいいというアイデアが出てくる。そのサイトが存続してくれる限り、コピーを繰り返してデータを守るための手間は相手がやってくれる。しかもインターネットがあればどこからでも見られる。

 サイトと契約しなくても、最近流行の写真や動画投稿サイトを利用する手もある。他人に見られる可能性はあるが、本人が思っているほど他人のプライベートビデオは面白いものではない。問題になったファイル交換ソフトのウィニーなども「違法ファイルが消せないのが問題」というなら、いっそのこと保存したいファイルをウィニーに放流し、必要になったら呼び寄せるという利用法もある。他人に読まれたくないなら暗号化すればいい。
 逆に、自分を覚えていてほしいと強く願う孤独な人が死の直前に自作の詩集(やらなにやら)をウィニーに放流する、というせつない話もそのうち出てくるだろう。

 極端な話、インターネット開闢(かいびゃく)以来のサイトのデータをすべてコピーして蓄積していると噂されているNSA(米国国家安全保障局)に人類の文化の記録係の役割を担ってもらおうか。

 ワープロなどが広まり「オフィスのペーパレス化」などと言われた頃、紙の記録が電子化されてしまうので、下手すると電子時代の文明は後世から見たら何も文献が残っていないかもしれないと論じられた。私もつい最近まで、それが正しいと思っていた。しかし、デジタル時代の常識はどんどん変わる。巨大なネットワークの中に、人類のデータが増殖しながらさ千の風になって永遠に流れ続ける。はっきりいって残ってほしくないデータまで......そういう時代の入り口にわたしたちは来ているのである。
 

2008年1月16日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える②:発見の記録

 このエントリーは、私の同年代ではパソコン恐怖症で、いまだに昔の情報整理にこだわっておられる方も多いので、死ぬ前に、革命が起こっているネット時代を覗いてみたらという気持ちで書いている。パソコンを使いこなしておられる方には、別に新しい話でもないので、どうぞ退室していただきたいと思う。

 このエントリーは、ネット時代の「知的生産の技術」を考える①」の続きである。なんとなく、しょうもないことを始めたといささか後悔をし始めているが、自分自身の記録と思って、オブリゲーションなしに続けることにする。

 梅棹忠夫の「知的生産の技術」の前半では、
  1. 発見の手帳
  2. ノートからカードへ
  3. カードとその使い方
  4. きりぬきと規格化
  5. 整理と事務
と手帳、ノート、カード、ファイルなど、知的生産における装置(ツールという表現をした方がいいのかもしれないが)を取り上げている。

  新しい情報の生産を知的生産というのなら、そのための素材がなければならない。その素材は、「あらゆる現象に対する、あくことなき好奇心、知識欲、包容力」で発見したことがらである。それらを素早く記録するためのツールとして、京大型カードにたどりついたとある。手帳→ノート→カードの進展型で京大型カードとなった。

 私も長続きはしなかったが、京大型カードを使った記憶がある。私が勤めていた会社の研究所でも、これに似たカードが採用されていた。それは、化合物のデーター・ベースみたいなもので、カード1枚1枚に亀の甲が特殊なタイプライター・ヘッドを使って、プロのタイピストが打ったものである。偉大なる労力を使っていたのだ。今でも、この分野は特殊なソフトが使われているようだが、3Dのグラフィックで立体的に表示されるようになっているようだ。

 それは兎も角として、「知的生産の技術」では、この部分に、かなりのページ数を割かれて記述されている。

 何かを発見をしたときにその場で文書を書くには、今ならケイタイで文書をつくり自分のPCにメールで飛ばすことができそうだ。1993年発刊の野口悠紀雄の『「超」整理法』は、「知的生産の技術」が発刊されてから24年目の、いわば「知的生産の技術」の焼き直し版である。その中に「持ち歩き端末」(p.191) が便利であるとある。それから、14年しか経ていないが、この世界はどんどん進化しているのである。そう言えば、WorkPad が流行ったこともありましたね。引き出しの奥になぜか、2台が眠っている。

 最近のケイタイには、解像度の高いデジカメまで付いている。それに不満なら、ちいさなコンデジ( Compact Digital Camera)をポケットに忍ばせておけばよい。とにかく、素早くデジタル化しておくのがいいのではないだろうか。受信したメールを Notepad か何かに copy & paste して、野口悠紀雄の『「超」整理法』にあるように、時系列にデジタル・ファイル化しておけば、後の活用に生きてくる。デジタルの世界になって、あきらかに整理の方法が変革したのだ。

 京大型カードで工夫された点は、あとで整理をしやすくすることである。これも、梅棹さんがいう「発見」をデジタル化しておけば、カード時代に苦労されたこと(複写であるとか、グループ化など)が簡単にできる。

 「知的生産の技術」P63 では、カードも多くなれば持ち運びが大変ということを書いておられる。P56 にあるカードの絵をもとに1枚あたりの情報量を計算すると、カード一杯に書いても文字数は300文字くらいだから、漢字1文字は、2バイトの情報量なので 600文字×2バイト=1200バイト(約1.2KB)である。
 今、¥3000たらずで売っている1GBのUSBメモリーにカード 90万枚ちかく(1GB=1024MBx1024KB=1,048,576KB ÷1.2KB=873,813 )の情報量が入ることになる。しかも、まだムーアの法則は健在だから、情報を蓄積する技術は、創り出される情報量を十分吸収できるのだ。

 第4章では、切り抜きと写真の整理について書かれている。切り抜きは、インターネットでほとんどの情報が得られる今でも、情報を集める有効な方法であろう。ただ、今ではスキャナーという便利な機械を使えば、わざわざスクラップ・ブックを作らなくても、デジタル・ファイル化することができる。おまけに、スキャンした情報が新聞のようなものであれば、OCRソフトがあるから、イメージデータを文字データに変換することもできる。私も、仕事をしていた7~8年前くらいから新聞・雑誌などでとっておきたい情報は切り抜かずスキャナーして、「読んでココ!」というOCRソフトで 、テキスト・デジタル化していた。最近では、OCRソフトの識字率も非常に向上し、自動化も進んでいるようだ。
  例えば、2003年7月9日の日経新聞の記事は、テキスト・デジタル化したものをHTMLで表現したものである。スクラップ・ブックに貼っていたら、とっくに捨てていただろう。デジタル・ファイルだから、パソコンの片隅に残っている。

 「知的生産の技術」の P75 あたりには写真整理の話が出てくる。もちろん、銀塩写真である。今、写真を銀塩フィルムで撮る人はよほどのマニアか、よほど時代に遅れている人しかいないだろう。今や写真はデジタル・ファイルであるから蓄積は他のデータファイルと変わらない。Google が提供する Picasa2 のようなソフトを利用すれば、写真の整理が簡単にできるし、修正できたり、CDに焼いたりできる。

 第5章では、蓄積した資料の整理の方法を述べておられる。ちょっと余談であるが、その中に、「整理」と「整頓」とは違うという以下のようなくだりがある。
整理というのは、ちらばっているものを目ざわりにならないように、きれいにかたづけることではない。それはむしろ整頓というべきであろう。ものごとがよく整理されているというのは、みた目にはともかく、必要なものが必要なときにすぐとりだせるようになっていること、ということだとおもう。

 詳しく書くと家庭内争議になるので書かないが、家内といつももめるのはこのことである。

 この章には、それこそ物理的なファイリング・システムについても説明されているが、今の時代では自分で集めた資料は 100% 近く、パソコン (Personal Conputer) のディスクに保存される。Windows の検索機能を使えば、すぐさま、ありどころを教えてくれる。それでも、梅棹さんが説くように、それぞれの情報の「あり場所」は決めておいた方がよいようだ。これだけ Hard Disk が安くなれば、文書用ディスク、スクラップ用ディスク、写真用ディスクと分けておいた方がいいかもしれない。USBで接続できる外付けのポータブル・ディスクであれば、場所もとらないし、持ち運びだって簡単である。

 次回には、第6章以降の「読書」とか「手紙」などに関する知的生産の技術について、ネット時代の今ならどうなのかを考えてみたい。

  
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5 押出しファイリング
5 整理法までをも整理してしまった本
3 整理のポイントは使用頻度