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2008年12月 8日

隠居ブロガーの読書:「日常を愛する」松田道雄著


日常を愛する (平凡社ライブラリー)
松田 道雄
平凡社
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 『京の町かどから』『花洛』を読んでから、松田道雄の生き方が気にかかるようになった。

 この8月に、『我らいかに死すべきか』を読んだ。この人間論に啓発されて、同じように京都インテリゲンチャの生き方を綴った『日常を愛する』(平凡社)をよんだ。梅棹忠夫は『知的生産の技術』の読書の項で、本の読み方について「よんだ」「みた」を区分しているが、この本は最近になってようやくよんだことになった。

 この本は、毎日新聞の家庭欄に週一回 『ハーフ・タイム』という1000 字程度の連載を59歳のときから75歳まで 17 年間続けられたもののうち、1981年1月から1983年9月(最終)までの分を一冊の本にされたものである。
 このエッセイ集は、反権力精神に溢れた勉強熱心な元小児科医が書いたものであるから、当然その当時(今もあまり変わりはないが)の経済人としての医者や医療体制についてへの批判も多い。
 私も大学卒業後約10年ほどは、医薬品製造メーカーの営業(MR)をしていたから、彼の怒りはよく分かる気がするし、同意する部分も多い。
 1981~83年といえば、私が40~43歳のときである。確か、毎日新聞は購読していたはずであるが、宮仕えのサラリーマンとして生きるのに忙しく、このようなエッセイは読み飛ばしていたにちがいない。この歳になって、過去の繰り言を言っても仕方がないが、真剣に読んでおれば生き方は少し異なっていたかもしれない。

 彼の73歳から75歳までのこの連載は、現代風にいえば、松田道雄のブログである。朝の散歩や孫の世話、つづけて六枚かかるプレーヤで音楽を聴く(いまなら、iPod や Web Radio を使えば際限ないほど好きな音楽をつづけて聴けるが)話なども出てくる。
 私も6年ほどすれば、その歳になる。その歳になって、1982年の年頭エッセイにあるように、
年のはじめに願うのは平和である。地球も平和であってほしいし、家の中も平和であってほしい。平凡な考えだが、だんだん平凡のほうがいいのだと思うようになった。
という心境になっているのだろうか。

 読みながら、このような著述活動は今の Web 2.0 の世界だったらどのような形をとったであろうというようなことを考えていた。
 1983年8月24日の「おもわぬ客」という記述で、82歳の「ハーフ・タイム」ファンと話がはずんだようすが描かれている。
それから一時間ほどおたがいによくしゃべった。書物、音楽、スポーツ、映画などの昔話がおもで、医者のことは最初にでたきりで話題にならなかった。現在の見るもの聞くものどれもおもしろくないという点では一致した。適応できなくなったにちがいないが、それが適応せねばならないほどのあいてかということでも異論はなかった。
 活字も電波もすべて、えらべなくなった。マス・コミュニケーションが巨大化し、仲間入りするのに莫大な資本がいる。金の出せる人間、もうけたい人間の趣味ばかりが押しつけられる。大気も河川も汚染されたように、見聞できる世界が趣味がよくないこさえものに占拠されてしまった。
 1983年ころのPush 情報一辺倒の世界では、確かにこのような状況だったと思うし、今でも IT の世界と無縁の人は同じような状況だろう。そのころ新聞・雑誌・読書くらいしか引き出せなかった Pull 情報が今の世界では容易に手に入る時代になっているから、このような会話は内容が少し変わったものになったかもしれない。
 松田道雄さんのようにロシア語・ドイツ語・英語など世界の言語に達者であれば、「毎週くる五種類の医学週刊誌に目をとおす」(1981年2月4日:子どもとテレビ)のもパソコンの前で五種類といわず数多くの講演録などに目を通すことができるようになっていると思う。このあたりについては、以前にも紹介している梅田望夫の『ウェブ時代をゆく』の第五章「手ぶらの知的生産」にくわしい。

 情報の発信についても、「ハーフ・タイム」の原稿は締め切りに間に合わせて新聞社に郵送されているが、コンテンツに雲泥の差があることは承知のうえでの話であるが、この Web 2.0 の世界では私のような無名な浅学の人間でもすぐに全世界に向けて発信できるようになっている。原稿料は入ってこないが。
 「ハーフ・タイム」の掲載に対して、よく感想の手紙をもらったことも書かれているが、今ならブログへのコメントで済むだろうし、返答も楽だったろうと思う。peer to peer のコミュニケーションがずいぶんやりやすくなっているし、それを公開にしておけば、ひとまとまりの情報(スレッド)として得やすくなる。今の時代なら、松田さんのいいたかったことは、何倍もの量も発信できたのではないかと思う。

 それにしても松田さんの読書量はすさまじい。我がサイトで主に読書感想文を書いている友人の Masajii's Blogもすごい読書量だが、多分桁違いであろう。ただ、ネットを利用すれば、関連知識は簡単に手にはいるからコンテンツ抜きでいえば得られる情報量はそんなにかわらないかもしれない。

 手段は進歩しても、問題は描かれている生き様である。
 平凡社ライブラリーでの『日常を愛する』の巻末に、藤好美知というひとが「松田道雄というひと」という解説を書いているが、そのなかに、松田道雄の晩年の言葉を紹介している。
私は若いころの理想どおり気に入った人とだけつき合い、自分が自分の主人として自分の思い通り生きることができた。
 私もそのような生き方をしたいと思うが、そう簡単には Social Obligation から離脱できそうにない。

2008年8月14日

隠居の読書:「我らいかに死すべきか」(松田道雄)

 『知的生産の技術』→「梅棹忠夫」→『京都案内』→『京の町かどから』『花洛』「松田道雄」のハイパーリンクで、この本に行き当たった。

 この歳になると、そろそろ本の題名『我らいかに死すべきか』は気になって仕方がない。だが、この本の中身は題名のような本ではない。
 私が求めた平凡社ライブラリーのこの本は、松田道雄が1998年に90歳で亡くなったあとの 2001年3月に出版されている。あとがきにかえて書かれている「ひとりごとノート」には、この原稿は『暮しの手帖』の安森さんに頼まれて『暮しの手帖』に10回にわたって、「何とかについて」という命題で書いたらしい。

 ネットで調べてみると、1971年に『暮しの手帖』社から、10回分をまとめた題名『我らいかに死すべきか』という本で出版されている。題名は『暮しの手帖』社がつけたらしい。
 松田は、1967年(59歳)に小児科の診療を辞め、執筆・評論活動に専念しているから、その頃に、この原稿を書いたのではないかと思われる。だから、晩年の作品ではない。

 この10回分の「何とか」は、次のようなものである。
  1. 恋愛について
  2. 夫婦について
  3. 共ばたらきについて
  4. 親子について
  5. 一夫一婦について
  6. 育児について
  7. 教育について
  8. 道徳について
  9. 健康について
  10. 晩年について

 読んでみると、この本は「我らいかに生きるべきか」という松田道雄の「人間論」なのだ。個々の章で自分の生き様をもう少し深く考えてみたいと気持ちになる文章が続いている。

 第8章までの「何かについて」への人間論は、「うん、うん、そのとおり」と思うが、私にとってはそれを実践するにはもう過ぎ去った人生の話である。子育てや生活することに一生懸命な子供達には読んで欲しいものだが。 

 「健康について」の章をメタボの定期受診の順番を待ちながら読んだ。その冒頭に、次のような文章がある。
 健康とは自分の日常生活をやっていくのに十分な身体の機能である。
 これで十分かどうかは、自分できめることである。健康をこのように自主的にかんがえることができるようになったのは、さいきんのことである。人間が他人にしばられていては、自分で健康はきめられない。
 現実は、その人が健康であるかどうかは、企業が政府ぐるみできめている。私のメタボリック症候群は、企業の健康診断で判定された。確かに、血糖値は高いし、血圧も高い。企業にとっては、企業を動かしているひとつの部品が突然脳梗塞でも起こし用に立たなくなったりすれば、少しは損失かもしれないし、その治療のために健康保険で負担もしなくてはならない。企業が私の健康かどうかの決定権を持っていたのだ。
 自由な身になったいま、自分の健康については、「日常生活を十分にやっていける」のかを視点に判断していきたいと思う。血圧がWHO の診断基準のどこにあるかを一喜一憂しても仕方がない。

 第10章「晩年について」を読んで、近づきつつある自分の晩年のために、いまの生活をいかに生きるべきかかんがえた。
 晩年とは死とむきあう年である。それは本人の心がまえにかんするもので、生理的年齢とは無関係である。
 死とむきあってたじろがぬためには、現世への未練をなるべく少なくすることだ。人間とのつながりがつよいほど未練がのこる。連帯を少なくすることは、それだけ孤独になることである。晩年とは孤独に耐える年だともいえる。孤独に耐えるには、人間ではなしに、人間のつくったものだけを愛するすべを心得るにこしたことはない。
 
 晩年はたのしい収穫の季節である。けれども、まかぬ種は生えない。
 晩年を荒涼の砂漠にしないためには、それまでに、ひたいに汗して耕し、種をまき、雑草をとりのぞかねばならない。
(中略)
 年をとってからたのしむことのできるものを、年をとるまえに用意することである。それは高尚である必要はない。だが、低俗なものは、年をとるにしたがって、興味のそとに抜け出してしまう。
 そのあとに、味覚、聴覚、視覚のそれぞれに年をとるまえに用意することの例を挙げたりしている。我が意を得たりである。
 五木寛之のいう『林住期』にも同じようなことが書いてある。現世への未練を少なくするように、林住期を楽しみたいと思う。

   
われらいかに死すべきか (平凡社ライブラリー)
松田 道雄
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2008年4月20日

隠居の読書:松田道雄の「京の町かどから」「花洛」


 先日読んだ梅棹忠夫の京都案内に、帰化京都人として紹介されている、小児科医であった松田道雄「京の町かどから」「花洛」を読んだ。最近は、このように一冊の本からハイパーリンク的にいきあたる他の本を読む傾向が強くなった。ネット時代の習性なんだろうか。

 両方の本とも、Amazon で検索すると新本はなく、中古本市場(Amazon マーケットプレース)にあった。岩波新書の「花洛」はなんと 1円からある。どの程度痛んだ本なのかの興味あって取り寄せてみた。
 諫早市の「たんぽぽ書店」というところから、丁寧な包装で送られてきた。郵送料は340円である。包装袋の裏に、ゴム印で「このパッケージは『つくし作業所』で段ボール箱や古紙を再利用してつくりました。」とある。『つくし作業所』とは、知的障害者通所施設のようだ。少しでも役に立っているのだろうか。

 筑摩書房の単行本「京の町かどから」は、1971年の第4刷(¥520 )の中古本が¥477であったが、同じように丁寧な包装で送られてきた。
 この本は、1961年に「朝日ジャーナル」に連載したものを一冊の本にまとめたものらしい。1961年といえば、私がちょうど二十歳のときである。そのようなときに、このような本を読んでおれば、ちゃらんぽらんな学生生活を少しは変える気になったかもしれない。今更悔やんでみてもしかたがないが。

 松田道雄さんは1908年生まれだから、多感な時代を大正時代( 1912 - 1926) に過ごしたことになる。このころの京都のインテリゲンチャは、一般的に左偏りの思想を持っていたと思われる。松田さんは、このようなインテリゲンチャに囲まれて育っているので、かなり左よりの医学生だったようだ。ただ、父も誠実な小児科医で、今の中京区手洗水町(四条烏丸から少し北に上がったところのようだ)で開業していたから、町衆との交わりも多い。この2冊の本には、そのあたりが克明に描写されている。

 茨城県の水海道で生まれで、両親とも東国育ちの文化の中で京都に育ち京都の文化人となった。そのあたりについて、松田さんは「京の町かどから」のあとがきに次のように書かれている。
 『京の町かどから』は私の著書で、おそらくもっとも多様な読者をえた本であろう。大正時代の京都をえがきえたためか、その頃を知っていられる京都の年配の方から思わぬ共感をいただいた。ことに京都を遠くはなれていられる方の郷愁を何ほどかそそったようであった。
(中略)
 私自身もこの本にすてがたいものを感じている。幼年期への感傷もあり、過去への低回もありはするが、私の精神の遍歴のなかで、土着的なものとは何かをときあかしていくひとつの転機をなした。
 文化の古い層を残している点で京都はうってつけの風土であった。この古い京の町のなかで、東国からやってきた子どもが、西欧的な思想の洗礼をうけてそだつことほど、京都と断絶したものはなかった。この断絶を半世紀の年月をかけてうめていく過程が、ほかならぬ土着化であった。
 土着ということばは、一部の学者からはあまり好まれないようであるが、それは肌の色が黄いろいとか白いとかいうのとおなじに、人間の宿命である。肌が黄いろいのに、白いかのようにふるまうのは不自然であるというのが私のいまの考えである。


クリックすると大きな写真になります 松田さんといい、梅棹さんといい、京都で育ち生活した人は、どうも京都からは離れられないらしい。『京の町かどから』の口絵の説明文(下のカラムと左の写真)は、そうした想いが溢れている。京都はどうも特別な町らしい。日本に来て 40年近くなり最近になって日本に帰化したビル・トッテンは、京都が好きで京都に住んでいる。京都のインテリゲンチャとは全くことなる思想の持ち主であるが、やっぱり京都がいいようである。
 ながい召集から解放されて、京都駅に近づく列車のデッキから東寺の塔をみた時の感動を忘れない。とうとう京都へ帰ってきた。京都はここにある。京都は昔のままにある。
 爆撃で焼けただれたいくつもの町をみてきた目には、京都の遠景は奇跡のようだった。
 京都とは一たいなんだろう。
 私の喜び、私の誇り、それらはすべてこの町とともにあった。京都、それは、私の過去だ。
 幸いに失わずにもって帰った生命を、私は、私の過去に接続することができる。
 京都ほ過去であるとともに未来である。東寺の塔は、私の回生の象徴であった。
 それから十何年かがたった。
 私は今また東寺の塔に向かって立っている。団地住宅の屋上で立ち並ぶテレビのアンテナを通して東寺の塔をみている。
 そしてもう一度私は問う。京都の美しさとは一たいなんだろう。
 それは京都が愛されているということだ。あの戦火をこえて京都が残っているのは、京都が敵からも愛されたということだ。
 京都とは愛の奇跡だ。
 団地のこどもたちよ、君らは東寺の塔を朝夕みながら誇るべき過去をつくりつつあることだろう。二十一世紀のある日、東寺の塔に愛の奇跡をみるために。


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2008年4月 8日

隠居の読書:梅棹忠夫の「京都案内」

 京都に娘が一人住まいするようになってから、家内のアッシーで行くことが多くなった。行ったついでに、どこかに寄ってくるのが通常になった。京都は訪ねてみたいところが沢山あるのでどこに行くか困るほどであるが、だいたいは娘のおすすめにしたがっている。

 梅棹忠夫の「知的生産の技術」を読み返しているときに、彼の著書を Amazon で調べてみると沢山の著書があるのだが、その中に、梅棹忠夫の京都案内という本があるのが分かった。京都に興味がでてきていたこともあって、さっそく取り寄せて読んでみると、これがなかなか面白い。ちょっと異なる観点から京都を見てみたくなっている。

 この本は、1987年5月に刊行された角川選書を平成16年9月に文庫化したものらしく、原本が加筆・訂正されているということである。元々の原稿は、梅棹さんが「知的生産の技術」でいうところの自分のアルキーフ(文書館:アーカイブ)から、京都に関する講演とかいろいろな雑誌に寄稿したものを集めて編集している。

 この本には、京都を愛してやまない著者の京都びいきの話がいたるところにでてくる。
 1961年に日本交通公社の「旅」に「京都は観光都市ではない―観光客のために存在していると思われては困る!」と題して載せている記事がある。その部分が生粋の京都人である梅棹さんの京都に対する考え方がよく分かると思うので、引用としてはいささか長いが、載せたいと思う。梅棹さんは、「知的生産の技術」のなかで、長い引用はすべきではないというのだが、私には原文のニュアンスを簡略して記述する能力がない。

祇園祭のチマキ
 たまたま、ことしの夏、おもしろい例があった。新聞の投書欄に、祇園祭のチマキについて、文句がでたのである。
 祇園祭のチマキというのは、祭をみたことのあるひとならご承知であろうが、山鉾巡行中に、鉾のうえからなげるのを、群集があらそってうける、あれである。祭のしばらくまえから、これは売っている。それを買って、玄関などにかけておくと、厄除けになる。一種のまじないである。
 新聞の投書というのは、こうだ。そのチマキを買ってかえって、あけてみたらカラだった。京都の商売ほインチキだといって、えらい剣幕で憤慨しているのである。投書したのは、いずれよそからの観光客であろう。観光客ずれのしている京都市民も、さすがにこれには、いささかおどろいた。
 つまり、こういうことなのである。祇園祭のチマキというものは、ずっとむかしは中身がはいっていたようだが、近年ほただチマキの形にササの葉をまいてたばねただけであって、もともとなかにはなにもはいっているわけはない。そんなことは、幼稚園の子どもでもしっている。祇園祭のチマキをむく、というのは、むかしからおろかもののすることの見本みたいにいわれているのである。そういうこともしらずに、逆ネジをくわしてきたその投書子のあつかましさに、京都市民はおどろいた、というわけなのだ。
 よそからの観光客なら、京都の風習をしらないのがあたりまえでほないか、という同情論もありうるが、京都市民の立場からすれば、祇園祭の前後に京都にでてきて、そんな風習もしらずにいた、というのではこまるのである。ちょっとたずねれば、わかることだ。もともと、祇園祭は市民の祭であって、観光客のための祭ではない。祭をみにきてもかまわないけれど、みるならみるで、祭のしきたりについて、観光客は理解の努力をほらうべきである。とやかく文句をいってもらってほこまる。それは主客転倒というものだ。

観光都市ではない
 観光都市のことだから、まァまァ観光客の無理解にも目をつぶらなければならないし、いまのチマキ事件については、こちらの啓蒙不足という点もあったのではないか、という声がきこえてくるようにおもうが、そういうかんがえかたこそは、「お客さまはいつも王さま」という原則に支配された、卑俗なる観光主義というべきである。「観光」の名のもとに、この種の臆面もない無教養が、京都市内を横行しはじめるとしたら、それは、伝統ある京都の市民生活にとって、ことは重大であるといわなければならない。とに、この種の臆面もない無教養が、京都市内を横行しほじめるとしたら、それは、伝統ある京都の市民生活にとって、ことは重大であるといわなければならない。
 だいたい「京都は観光都市である」というかんがえかたそのものが、ひじょうに危険なものをふくんでいる。たしかに、京都はうつくしい都市だし、ほかの都市にくらべれば、なみはずれてたくさんの史跡名勝をもっている。そして、それをみるために、おびただしい観光客がやってくることも事実だ。そのかぎりにおいて、京都は観光のさかんな都市である。しかし、「観光」は京都という多面的な大都市のもつ、ただひとつの側面にすぎない。京都は同時に学問の都であり、美術の都であり、工芸の都であり、商業都市であり、工業都市でさえある。もともと、一国の首都として発展してきた都市であるだけに、そのなかにはさまざまな要素をふくみ、複雑な構造をもっている。その点、二、三の史跡以外にはなんの特徴もない地方小都市が、戦後にわかに観光都市の名のりをあげたのとは、本質的にちがうのである。そういう意味では京都を「観光都市」などという一面的なよびかたでよばないほうがよい。おたがいに誤解を生じるもとである。
 はっきりいって、京都市民のなかで、観光でたべているひとはごく一部にすぎない。大多数の市民は、観光と無関係に生活している。観光の恩恵をうけていない。京都をおとずれる観光客が、なにかの原因でおおきく減少したとしても、打撃をうけるのは少数の観光業関係者だけであって、おおかたの市民は、たいしてこまらない。それによって、都市の性格がおおきくゆらいだりはしないのである。
 このことを、逆に観光客の立場からみると、こうなる。京都では、ほかのはんとうの観光都市みたいに、お客さまづらをしているわけにはゆかない、ということなのだ。観光にきてやって、京都市民をよろこばせてやっている、というわけではないのだから。京都市民全体としては、たくさんの観光客が京都をみにくるのを、たいしてありがたがってはいないのである。ときにはめいわくもしている。


 この記事は、この本に収められている文の一例ではあるが、内容の雰囲気はつかんでもらえるではないかと思う。
 梅棹さんが、"帰化京都人"と称する小児科医の松田道雄さんの京都に関する本も紹介されている。「花洛」と「京の町かどから」である。Amazon で探すと中古本があった。取り寄せて読んでいる。

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5 京都に行くまえ、行ったあとでも