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2015年9月30日

読書日記「ボケてたまるか! 62歳記者認知症早期治療実体験ルポ」(山本朋史著、朝日新聞出版)

ボケてたまるか!  62歳記者認知症早期治療実体験ルポ
山本朋史
朝日新聞出版 (2014-12-05)
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 著者は、62歳(発刊当時)の週刊朝日記者。60歳の定年後も1年契約の編集委員として取材を続けていたが、最近もの忘れがひどくなってきたことが、気になってしかたなかった。

 必要な書類をどこに置いたのかを忘れてしまう。テレビを見ていて俳優の名前がでてこないことにイラつく。取材の約束を忘れることもあった。住所録をめくってみても、知人の名前が出てこない。取材したことがある政治家の名前さえ忘れてしまっている。

 電車で降りるべき駅を乗り越すことが増え、取材の途中で、次の質問の言葉が出てこないこともある。それに、最近怒りっぽくなった。「威圧的な発言も認知症の第一歩」と、聞いたことがある。

 「取材の日程をダブルブッキングしてしまう」という、記者として致命的ともいえる"事件"を起こして、ついにもの忘れ外来を受診する決心がついた。

 担当記者に相談して筑波大学教授で、東京医科歯科大学の特任教授として、週に1回、もの忘れ外来を担当している朝田隆医師の診断を受けることになった。

 最初に朝田医師と助手の女性から、様々なテストを受けた。

 医師の言うグー、チョキ、パーの形を右手で作り、左手でそれに勝てる形を作る。両親や兄弟の名前や年齢などの記憶力を聞かれ、助手からは文章力、図形力、常識力などを調べられた。

 読まれた300字ほどの文章を聞いて記憶、5分後と40分後に同じ内容を言わされた。テストは、2時間ほどで終わった。

 これは 「認知機能検査(MMSE)」と呼ばれ、この本の巻末に収められている。同じような検査は、WEB上でもいくつかUPされている。

 最寄りの病院で、 CT MRIの検査を受けるように言われ、紹介状を渡された。本来はいけないのだろうが、開封して詠んでみた。

 
 「認知症の疑いが強いため、克明に調べてください」
 認知症!その文字を見て、「がーん」となった。


 朝田医師からは「 軽度認知障害(MCI)の疑いがあるが、それほど症状は進んでいません。MRIもCTもこれからの治療の基礎資料にするためです」と、言われていた。しかし、気休めの言葉としか聞こえなかった。

 認知症治療についての知識が皆無だった筆者は、2度目の診断でいくつかの質問を朝田医師にぶつけた。

 認知症によい食べ物は?
 「ビタミンA,C、Eがいい。それにDHA。青身魚に含まれている成分が効果的であることは間違いない。ゴマ油がいいとか鶏の胸肉が効果的という意見もありますが、まだはっきりした症例結果があるわけではないので・・・」

 酒好きで、今も毎日ですが?
 「アルコール依存症のレベルまでいったら話は別ですが、アルコールと認知症の関係は、これまでの症例結果からすると、せいぜい1%「あるかないかですよ」

 アルコールの覚醒作用のせいで、睡眠導入剤を常用している?
 「アルコールと睡眠導入剤ですか。それは、いいことではありません。しかし、それで認知症が進むという因果関係は少ないと思います」

 3度目の診察では、CTとMRI画像が届いていた。

 CT画像では、白く映っている血管が少し太くなっている部分が3か所ほど見つかった。
 「太くなったところは、血流が止まったり、詰まったりする箇所。こういう部分で脳梗塞が起きる可能性がありますが、山本さんぐらいの年齢になるとどなたにもあり、特に心配はいりません」

 いよいよ問題のMRI画像だ。
 特に、海馬は、 β―アミロイドの攻撃で脳神経がたくさん壊され、 アルツハイマー型の認知症を告知されたら・・・。

 「ここが海馬です。黒く欠けたような部分が少なく、あまり萎縮していません。・・・現段階では7まだ認知症の心配はないと思われます」

 実は朝田医師は、筆者の認知機能検査や手指の動かし方テストで、手先の器用さや機敏性が衰えているのかもしれないと最初から考えていた。
 「平常時に注意力が散漫になることがしばしばありませんか』と聞かれたが、まさにその通りだった。

 筑波大学附属病院で週に2回行われている認知力アップトレーニングへの参加を勧められた。

 筋力トレーニングで胸の筋肉がピクピクするまで体力が回復して認知力がアップしたケースもある。絵画や音楽で認知力が向上したケースもある。
 「アタマ倶楽部」という頭脳力アップゲームを使うほか、料理のプログラムも始めた、という。

 筋力トレーニングでは、のっけからショッキングなことがあった。

 指導するのは、ボディビルダーの 本山輝幸さん。

 「初めてですね。まず、いすに軽く腰掛けて、右足を水平より高く上げてください。はい10秒間」
 ぼくはわけがわからないまま、ただ、言われる通りに足を上げた。
 「1、2、......10。はい、足を下ろしてください。右足はいま痛いですか」
 最初は、痛いという意識はまったくなかった。
 「ほとんどといっていいほど、痛くありません」

 ぼくの言葉を聞いて、本山先生の顔つきが変わった。

「痛くないということは、感覚神経が脳に繋(つな)がっていないということを意味します。あなたはMCI(軽度認知症)になっているのかもしれません。でも、心配されることはありません。筋肉に刺激を与えてトレーニングすれば、3カ月ぐらいで感覚神経が脳に繋がります。後は治りは早いはず」


 これだけのトレーニングだけで、本山さんに「すぐに軽度認知症かグレーゾーンにかかっていると見抜かれてしまった。

 本山さんは言う。
  「トレーニングをする場合、鍛えるべき筋肉に自分の神経を集中して。脳と体の感覚神経ノネットワークを構築するよう心がけたほうがいい。鍛えている際に筋肉の痛みや刺激をより強く感じられるようになってきたら、脳と体の感覚神経がつながってきた証拠です」

 筋力トレーニングの効果は少しずつ出てきた。音楽、絵画、料理療法も受けたが、定期的に受ける認知機能検査の数値は、もうひとつ良くならない。

 しかし、認知力アップトレーニング・デイケアでの仲間も増えた。「三歩進んで、二歩下がる」「ボケてたまるか!」・・・。山本さんの挑戦は続く。

2015年7月26日

読書日記「長いお別れ」(中島京子著、文藝春秋刊)

長いお別れ
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中島 京子
文藝春秋
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 元中学校長で公立図書館長もした東昇平の病名がはっきりしたのは、3年前のことだった。
 頻繁に物がなくなり、記憶違いも続いていたある年の夏、昇平は2年に1回、同じ場所で行われている高校の同窓会に辿り着けなかった。

 認知症外来で、「ミニメンタルステート検査」を受けたところ、30点満点で20点だった。初期の アルツハイマー型認知症と診断され「3年から5年、進行をゆっくりにします」と、薬を処方された。それから、もう3年が経っていた・・・。

 昇平は妻の曜子と一緒に、長女の茉莉が夫赴の赴任について行っているサンフランシスコに出かけた。行く時から着いてからも「俺は帰る、帰る」と繰り返した。
 昼食のたびに生牡蠣を食べ「牡蠣を食べるなんて、久しぶりだよ!」と、いつも同じ言葉を繰り返した。

 夏休みに日本に一時帰国した茉莉の長男・潤が昇平と2人、留守番をしたことがあった。

 
 「それで、あんたは誰だったっけ?」
 という質問に、五分に一度くらい、潤だと答えさえすれば、
 「おう、そうだった」
 「潤だな」
 「ずいぶん、大きくなったじゃないか」
 「それで、あんたのお母さんは誰だったっけな」
 「二中だったよね?」・・・
 いつのまにか、潤は昇平の孫ではなくて、何か失態を演じて校長室に呼ばれた生徒として扱われているようでもあった。
 「だけどまあ、そういうこともあるからな。あんたが初めてじゃないんだ。次からちゃんとやればいいんだ」
 と、唐突に祖父は言ったりした。


 しかし、元国語教師の昇平は、デイサービスセンターから持ち帰った「難解漢字」のテストを見事に読み解いて、孫の度胆を抜いた。

 
 屠蘇(とそ)、熨斗(のし)、御神酒(おみき)、独楽(こま)、獅子舞(ししまい)
 簾(すだれ)、筧(かけひ)、笊(ざる)、簪(かんざし)、筵(むしろ)


 潤の弟の崇が宿題の絵日記に描いたスケッチブックの隅に、昇平は「蟋蟀(こおろぎ)」と迷うことなく書いて、驚かせたこともあった。

 しかし、昇平の症状はどんどん悪化していった。

 電話に出た三女の芙美に、昇平は興奮気味に話した。

 
 「おほらのゆうこおうが、そっちであれして、こう、うわーっと、二階にさ、こっとるというか、なんというか、その、そもろるようなことが、あるだろう?」・・・
 「すふぁっと。すふぁっと、と言ったかなあ、あれは。ゆみかいのときにだね、うーつとあびてらの感じが、そういう、あれだ、いくまっと、いくまっとじゃない、なんだっけ、なんと言った、あれは?」


 アメリカから、長女の茉莉が国際便で送ってきたアルツハイマー治療の新薬は、昇平の話す意欲に働きかけても、失われた語彙を甦らせることはできなかった。

 症状はさらに進んだ。話す意志を失った昇平は、訪問入浴に来た介護スタッフに「やだ!」を繰り返したり、睡眠中に紙おむつにしたうんこを妻・曜子のベッドに並べたりした。
 曜子が網膜剥離で緊急入院している間に、昇平も発熱して入院した。右足を骨折していた。隣にいない妻を探し求めてベッドから落ちたためらしい。
 昇平はほとんど言葉を失い、病院のベッドで終日うつらうつらしていた。

 妻・曜子は思う。

 
 ええ。ええ、忘れてますとも。わたしが誰だかなんてまっさきに忘れてしまいましたよ。
 ・・・妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。・・・
 それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あるときはさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。


 米国・カルフォルニア州の公立中学の校長室。
 呼び出された孫の崇は「祖父がおととい死にました。長い間、認知症の病気でした」と話した。
 校長は、自分の祖母も同じ病気だったと言った。

 
 「『長いお別れ(ロンググッドバイ)』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかっていくから」


   直木賞受賞作 「小さなおうち」も書いた 筆者自身も、認知症で実父を失くしている、という。

 この本の題名は、 レイモンド・チャンドラー 同名小説にちなんだものらしい。

 

2015年1月13日

読書日記「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子著、白水社刊)


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 著者の本は、これまで何度か手にしたことがある。しかし、そのたびに自分の知的水準がその内容についていけず"途中下車"していた。

 昨年末、ふとしたきっかけで、表題の処女作エッセイ初め4冊の新書、文庫本を買って、少しずつのめり込んでいった。

著者は、聖心女子大を卒業、パリ留学を経てイタリアに渡り、日本文学をイタリア語に翻訳する仕事をしていたものの、イタリア人の最愛の夫に死に別れて42歳で帰国、いくつかの大学で教えた。

 この作品を書いたのは、なんと61歳の時。その後ほとばしるように創作の道を突き進み、 69歳で急死した後には、全8巻〈別巻1〉の 「須賀敦子全集」(河出書房新社)が残された。

 須賀敦子は、13年に及んだイタリア生活のほとんどをミラノで過ごした。勉学と仕事の場であった コルシア・ディ・セルヴィ書店と自宅のアパートを市電で通う毎日だった。

 夕方、窓から外を眺めていると、ふいに霧が立ちこめてくることがあった。あっという間に、窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木の、まず最初に梢が見えなくなり、ついには太い幹までが、濃い霧の中に消えてしまう。街灯の明りの下を、霧が生き物のように走るのを見たこともあった。そんな日には、何度も窓のところに走って行って、霧の渡さを透かして見るのだった。


 霧の「土手」というのか「層」というのか、「バンコ」という表現があって、これは車を運転していると、ふいに土手のよぅな、堀のような霧のかたまりが目のまえに立ちはだかる。運転者はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。そのため、冬になると町なかの追突事故が絶えないのだった。霧の「土手」は、道路の両側が公園になったところや、大きな交差点などでわっと出てくることが多かった。


 
 ミラノに霧の日は少なくなったというけれど、記憶の中のミラノには、いまもあの霧が静かに流れている。


 著者は、様々な人とのつながりを広げていくなかで、イタリアの上流社会をかいま見ることもあった。

カミッラ・チェデルナは、ミラノのモードや上流社会のゴシップを軽妙な都会的タッチで描いてみせることで有名な評論家、だという。

 イタリアではチュデルナの名を聞いただけで、またあのゴシップ好きが、と顔をしかめるむきも少なくないのであるが、私たち外国人にとって、彼女はなかなか貴重な存在である。それは彼女がふつう「よそもの」には扉を閉ざしている世界、歴史や社会学の本には書いてないヨーロッパ社会のひとつの面について教えてくれるからである。この閉ざされた社会、すなわち、目に見えぬところでヨーロッパを動かしている、いや、動かすとまでは行かぬまでも、そこにずっしりと存在している社会、とくに貴族たちについて、もっと正確に言えば、この特殊な「種族」が社会の一隅でひそやかに発散しつづける、そこはかとない匂いのようなものについて、彼女は教えてくれるからである。


 ミラノに来て2年目に、コルシア・ディ・セルヴィ書店の仕事仲間であるペッピーノと結婚することになり、結婚指輪を買うためにある店を紹介される。

 実際、その値段は私たちの想像していたのよりはるかに安かった。ほっとしたのと同時に、私は例のヨーロッパの秘密の部分の匂いをかすかながら感じとった気がした。この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。ずっとあとになってから、やはりミラノの古い家柄の女性たちと、ある内輪の晩餐の席をともにしたとき、彼女らが、ある新興ブルジョワの家庭の度はずれた贅沢を批判しているのを耳にしたことがある。「だって、あそこでは始終Bでお買物よ」Bというのは、まさに大聖堂ちかくのぎらぎらした貴金属店の名だった。あたらしい貴金属を「始終」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ、と言わぬばかりの彼女たちの口ぶりだった。


 著者は、コルシア・ディ・セルヴィ書店でガッティというちょっと風変わりな男性と知り合い、長い友情を続けることになる。

 ガッティは、あの忍耐ぶかい、ゆっくりした語調で、原稿の校正の手順や、レイアウトのこつを教えてくれることもあった。すこしふやけたような、あおじろい、指先の平べったいガッティの手が、編集用の黒い金属のものさしで行間の寸法を計ったり、紙の角を折ったりするのを、私は吸いこまれるように眺めていた。全体のじじむさい感じとは対照的に、よく手入れされた神経質な手だった。


 (夫ペッピーノが急死して4年後)日本に引きあげることになったある日、私はガッティの家をなにかの用で訪ねた。まだ翻訳やら、書評やらの仕事が残っていて、私は夜もろくろく寝ていない日が多かった。ガッティはなにやら、校正のような仕事をしていたので、私は区切りのよいところまで待つあいだ、ソファで新聞を読んでいた。そのうち、まったく不覚にも、私は眠りこんでしまった。いったい、どれくらい寝たのだろうか。ふと気がつくと、ガソティが仕事机から、ちょっと困ったような、しかしそれよりも深い満足感にあふれたような表情でこっちを見ていた。ごめん、ガッティ、疲れていたものだから。そう謝りながら、私はガッティのあたたかさを身にしみて感じ、それとともに、もうこんな友人は二度とできないだろうと思った。


 何年か後著者は、アルツハイマー症になってミラノ郊外の老人ホームに入っているガッティを訪ねた。

 まもなく夕食の時間がきて、ふたたび看護人がガッティを迎えに来た。チャオ、ガッティ、という私たちのほうを振り向きもしないで、ガッティは食堂に入ると、向うをむいたまま、スープの入った鉢をしっかりと片手でおさえて、スプーンをロに運びはじめた。
 幼稚園の子供のような真剣さが、その背中ぜんたいににじみでていた。


 須賀敦子のミラノでの足跡を訪ねた「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著、河出書房新社)という本には「ガッティはアツコのことが好きで、・・・(想像だが)アツコがミラノにずっといれば、ガッティはあんなふうにならずにすんだかもしれない」というコルシア書店時代の若い友人、ピッチョリの言葉が載っている。
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 「ミラノ 霧の風景」には、ジャコモ・レオパルディジョバンニ・パスコリエリオ・ヴィットリーニカルロ・ゴルドーニウンベルト・サバ など、浅学菲才が初めて知ったイタリアの詩人、作家についての記述がちりばめられており、著者の知的水準の高さをうかがうことができる。

 サバについては、著者自身が日本語に訳して出版しており「あとがき」の最初のその1節が引用されている。

 死んでしまったもの、失われた痛みの、
 ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
 ため息の、
 灰。


 そして、こう続ける。

 本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本、翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。


2010年12月17日

読書日記「「忘れても、しあわせ」(小菅もと子著、日本評論社刊)、「寂寥郊野」(吉目木晴彦著、講談社刊)、「ターニングポイント」(松井久子著、講談社刊)

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きっかけは、友人Mに誘われて先日見に出かけた映画「レオニー」だった。

 世界的な彫刻家、イサム・ノグチ の母、レオニー・ギルモアの生涯を描いた作品だが、松井久子監督、「ユキエ」折り梅」に続く3作目の作品だという。

 「ユキエ」はテレビの再放送で何度か見ていたが「折り梅」は知らなかった。DVDチェーンのツタヤにもなかった。大手映画館を通さない自主鑑賞会で100万人を越える観客を動員した作品らしかった。あきらめていたら、今月はじめ、たまたま芦屋市が人権週間の催しで「折り梅」の上映と松井監督の講演会を催すことを知って出かけた。

表題、最初の「忘れても、しあわせ」 は、その映画折り梅」の原作だ。

 夫と2人の子どもと暮らす平凡な主婦・もと子が義母と同居を始めた直後から、義母の認知症(痴呆)が始まる。

 「私の自由を奪ったあんたを殺してやりたい。私の胸の内がわかるか。心に突き刺さっている。私はあんたの胸を突き刺して殺してやりたい」
 泣きながら向かってきた。手に持っていたヘヤーブラシを私に投げつけ、
 「首をしめてやりたい」と両手を私の首に回した。


 絵画教室に通い出したことが、救いだった。
 「やるじゃん!」義母が描いているのをはじめて見ての私の偽らざる感想だ。淡いブルーと茶系の貝がひっそりと並んで、うまいなーーと思った。


 しかし、義母の暗さは治らない。
 口から出るのは、ためいきと「何のために生きているのか。私はあやつり人形だ」という言葉。


 仏壇の数珠がない。財布がない。「あんたたちがとった」。お菓子の盗み食い、徘徊・・・。

 旅行先の自然の中の義母の表情は、あまりに自然だった。
 「そうだ、治そうと思うのでなく、今できること、感じることをそのまま私が受け止めればよいのだ。・・・「母になろう」。そう決心する


 義母・マサ子さんは、大きな公募展「東美展」に入選、個展を開くまでになり、おだやかな日々が訪れた。たくさんの人に支えられた結果だった。

著書には、マサ子さんが絵を書いておられる様子や個展風景の写真があるが、ご本人の描かれた絵は載っていない。

しかし、映画「折り梅」の公式サイトのなかに、ちゃんとマサ子さんのコレクションがたっぷりと掲載されている。映画のように画像が鮮明でないのは、ちょっと残念だが・・・。

マサ子さんは、006年10月、90歳で亡くなった。最後まで人としての尊厳を重んじた医療を受け、たくさんの人や自分が描いた作品に囲まれての最後だった、という。

第1作、「ユキエ」の原作である「寂寥郊野」は、平成5年上半期の芥川賞受賞作品。

朝鮮戦争で来日した米国人のリチャードと結ばれた幸恵は、30年過ごしたルイジアナ州バトンリュージュで、突然アルツハイマー病に見舞われる。老いる2人が直面する"寂寞"感が胸を打つ。

この「寂寥郊野」という表題からは最初、なにかおどろおどろしい印象を受けた。
しかし読んでみて、米国。ミシシッピー河西岸に「ソリテュード・ポイント」という農作地帯があり、「寂寥郊野」はその邦訳であることを知った。この地で起こった農薬汚染問題が、この老夫婦を悲劇へと追い込んでいく重要な伏線になっている。

 ユキエは、訪ねてきた息子たちに言う。 
「つまり父さんは、私のこの状態を何か不当なことだと思っているのね。・・・でも、私は人間というものは、そんな具合にできていないように思うのよ・・・」


当時の芥川賞選者の1人、古井由吉は、こう選評している。
 今回はまっすぐに、吉目木晴彦氏の「寂寥郊野」を推すことができた。落着いた筆致である。急がず迫らず、部分を肥大もさせず、過度な突っこみも避けて、終始卒直に、よく限定して描きながら、一組の老夫婦の人生の全体像を表現した。なかなか大きな全体像である。しかも、たっぷりとした呼吸で結ばれた。主人公夫妻の、意志の人生が描かれている。このことは私にとって妙に新鮮だった。


 「ターニングポイント 『折り梅』100万人がつむいだ出会い」は、3つの映画を監督した松井久子さんの自叙伝。
20代は雑誌のライター、30代は俳優のマネージャー、40代のテレビプロデューサーを経て、50代になって映画監督という転職に恵まれ、挑戦を続けている。

「ユキエ」のシナリオを依頼した新藤兼人監督に、監督もとお願いに行ったところ、こう言われた。
 「これは私の映画じゃありません。あなたの映画ですよ。自分で撮らないでどうします。誰かに任せてしまったら、あなたの考えとまったく違う映画になってしまいます。それじゃ困るでしょう」 ・・・
「自分で撮りなさい。女の人が、もっと撮ったらいいんです」


この言葉が、松井さんを変えた。
3作目の「レオニー」は、映画化を決心してから完成まで7年をかけた。

 

2008年11月22日

読書日記「ぼけになりやすい人、なりにくい人」(大友英一著、栄光出版社)


 ガンで死ぬのか、その前にボケるのか?「ボケたら勝ちやで。自分は分からないから」なんて、無責任なことを言う友人もいるが、やはりいろんな人たちに迷惑をかけてしまう。

 そんなことを考えていたら、新聞広告でこの本が目についた。さっそく図書館に申し込んだが、借りられるまで数カ月かかった。そんな心配?をしている人の来館比率が高いということだろうか。

 著者は、浴風会病院という、東京にある老年者専門病院の院長。平成11年発刊と、けっこう古い本だった。

 裏表紙に「大友式ぼけ予測テスト10問」という表が載っている。さっそく、試してみる。
  1. 同じ話を無意識にくり返す(0点=ほとんどない)
  2. 知っている人の名前が思い出せない(2点=ひんぱんにある)
  3. 物のしまい場所を忘れる(1点=ときどきある)
  4. 漢字を忘れる(1点、これはパソコンを使うせいでもある)
  5. 今、しょうとしていることを忘れる(1点)
  6. 器具の説明書を読むのを面倒がる(1点)
  7. 理由もないのに気がふさぐ(0点)
  8. 身だしなみに無関心(0点)
  9. 外出をおっくうがる(0点)
  10. 物(財布など)が見当たらないことを他人のせいにする(0点)

合計6点。本文には「0~8点・正常、9~13点・要注意、14~20点・ボケの始まり?」とある。ぎりぎりセーフだが、もう"要注意"に足を突っ込んでいるようで、いささかショックを受けた。自己採点は甘くなりかねない、という友人もいる。

 ある出版社の社長が、谷川徹三、西堀栄三郎、宇野千代、淡谷のり子などにインタビューし、共通項目をまとめたという「生涯現役の10項目」というのも、おもしろい。
  1. 自ら老けこまず、いつまでも壮年の気概を持っている
  2. 血圧はほとんど正常で、180以上の人は一人もいない
  3. 無頓着で、自分の血液型を知らない人が10人近くいた
  4. 太りすぎの人は一人もいない
  5. 例外もあるが、両親も比較的長命
  6. 大部分の人が大病の経験がない
  7. タバコはほとんどの人が吸わない
  8. 深酒する人は一人もいない。10人以上の人が飲まない
  9. 二、三の例外はあるが、なんらかの運動を心掛けている
  10. ほとんどの人が筆マメである

 深酒をする人は脳血管性痴呆(脳卒中などの後に出るぼけ)になる確率が高いらしい、という箇所が気になる。

 含まれているコレストロール量が多く、"ぼけ防止"のためには「好ましくない食品群」という表も記載されている。

 鶏卵、バター、すじこ、しじみ、鶏のもつ、チョコレート、チーズ、生クリーム、ベーコン、ししゃも、うなぎ、ねりうに、マヨネーズ・・・。

 これだと、日々の食事も、月1回行っている料理教室のメニューも落第、ということになる。先日のブログで書いた「菜菜(なな)ごはん」  のようなレシピが正解ということか。だけど、これらの食品を使わないと「人生、なにか味気ないなあ」という感じがしないでもない。

 著述業、画家、作曲家などクリエート(創作、表現)する職業の人は{一般的にぼけが少ない}とある。その代表は、オーケストラの指揮者。レポルド・ストコフスキーは95歳まで生きた、という。

 「出生時の母親の年令が高いと、アルツハイマー病が出やすい」という記述や、アルミニウムとアルツハイマー病の関係にふれた箇所など、興味を引く話しも多く、流し読みだったが結構おもしろかった。

 結局、飲酒、食事、運動に気を配り、前向きに生きてみる。それが「最善のぼけ防止策」。そんな平凡な読後感になってしまったが・・・。

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5 ぼけを防ぐため今から実行できること