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2019年11月 2日

読書日記「英国キュー王立植物園 庭園と植物画の世界」(山中麻須美ら編、平凡社コロナ・ブックス)、「キューガーデンの植物誌」(キャシイ・ウイリス・キャロリン・フライ著、原書房)、「植物たちの救世主」(カルロス・マグダレナ著、 柏書房)

キューガーデンの植物誌
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植物たちの救世主
植物たちの救世主
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カルロス マグダレナ
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 英国キュー王立植物園(キューガーデン)は、2度ばかりロンドンを訪ねた際に行ってみたいと思っていたが、まだ果たせていない。世界遺産でもあるこの植物園への思いはつきない。

 表題1番目の「英国キュー王立植物園 庭園と植物画の世界」は、キューガーデン初の日本人植物画家、 山中麻須美らが編集した初めての日本語公認ガイド。
 「地球上のあらゆる植物の収集」をと、1759年に英国王室の命で設立され、現在約5万の植物と700万点の植物標本、約20万点の植物画、多数の研究室を持つ世界最大の植物園。植物についての世界有数の研究拠点でもあるという。

 圧巻は、19世紀に作られた熱帯雨林の温室「パーム・ハウス」など6棟の温室や多彩な庭園群。樹木園の一角には、18メートル上の木製の道路から樹冠を観察できる「ツリー・トップ・ウオークウエー」もある。
 キューガーデンは、植物画のコレクションでも世界一。植物は標本にしてしまうと生きている時の色彩や形態が分からなくなるため、植物画は研究のための貴重なデータベースとなる。
 園内には、ヴィクトリア時代の女性植物画家が世界を回って描いた800枚以上の絵画を展示した「マリアンヌ・ノースギャラリー」や2008年に開設された世界初の常設植物画展示場「シャーリー・シャーウッド・ギャラリー・オブ・ボタニカル・アート」などがある。

 

パーム・ハウスツリー・トップ・ウオークボタニカルアート・ギャラリー
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 表題2番目の「キューガーデンの植物誌」は、キューガーデンの科学部長であるキャシイ・ウイリスと科学ライター、キャロリン・フライの共著。西宮図書館北口図書館で「キューガーデンに関する本を」と頼んだら、女性司書が見つけてくれた。
 キューガーデンで始まった植物研究の歴史が詳細に綴られており、英国放送協会(BBC)で25回にわたって放送された、という。

 正門を入ると見えてくる「パーム・ハウス」の南端に、キューガーデンの最古参の木 「Encephalartos altensteinii」というソテツがある。1773年、植物園最初のプラントハンターであるフランシス・メイソンが、南アフリカ・ケープタウン東海岸の雨林帯から若木を採取、2年かけて持ち込んだ。
 このソテツは、英国在住の日本人ガイド・ライト裕子さんの ブログによると、世界最古の鉢植えだという。鉢は、中の土を入れ替えられるように板囲いになっている。

キューガーデンの最古参の木
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 大英帝国を支えた天然ゴムの栽培にも、キューガーデンは大きく寄与した。1874年、イギリス政府の密命を受けたプラントハンターのヘンリー・フッカーは、ブラジル・アマゾン流域でゴムの種子7万粒を採取、ブラジル政府の禁輸方針をかいくぐってキューガーデンに輸出した。発芽したのは、たった4%だったが、その苗木がイギリスの植民地マレー半島に広大なプランテーションを誕生させるきっかけになった。

 キューの支援でイギリスの植民地では、コーヒー、オレンジ、アーモンド、マホガニーなども生産されるようになった。世界を制覇した「大英帝国」をキューガーデンが支えたのだ。

   キューガーデンは現在、 ミレニアム・シード・バンク・パートナーシップ(BSBP)というプロジェクトも推進している。地下の種子保存庫は、500年間保存するように設計されており、2020年までに、世界中から固有種、絶滅危惧種、有用植物を優先して全植物の25%の種子を採集する計画だ。

 世界中でミツバチの数が激減している。キューガーデンの科学者は「なにがミツバチを花に誘導するのか、より効果的な受粉方法は何かを生化学的に研究している」
 最近、キューの科学者が、コーヒーなどのカフェインが花の蜜にも含まれていることを発見した。カフェインは、ミツバチが花の蜜のある場所を認識し、記憶する能力を向上させる効果がある。そこで、科学者たちは、イチゴの花の匂いとカフェインを含む餌をミツバチに与え、イチゴが他の花より好ましい花であることを記憶させてイチゴの受粉を促進させる訓練をしている。

 3番目の「植物たちの救世主」は、上記2冊を読んでいるうちに再読したくなった本。数ヶ月前に、この図書館で借りたのだが「筆者は、キューガーデンに所属する専門家で、スペイン生まれ」「地球上で1本しか残っていないヤシの木の保存に奔走した」、という記憶しかない。これだけの情報で、先の女性司書は、この本を探し出してくれた。お見事!

 筆者、カルロス・マグダレナは、一度派絶滅した世界最小のスイレン「ニムファエム・テレマルム」の栽培に成功したことで有名になった。

 このスイレンは、アフリカ・ルアンダの、なんと温泉にしか自生していなかった。この種子はドイツのボン植物園にしか残っていなかったが、同植物園の担当者は「種子は差し上げますが、発芽して水面に顔を出す前に枯れてしまいます」と言った。

 カルロスは、自宅でパスタをゆがいている時の湯気を見て二酸化炭素の濃度を高めることがこのスイレンには必要なのでは、と思いついた。二酸化炭素は水に溶けにくく、水槽内ではすぐになくなってしまう。葉が出たら何度も空気中に出す工夫を重ねて、指の爪ほど、直径約1センチの花を咲かせた。

 「植物の保全はキューガーデンにとって最も重要な使命」だ。カルロスらは、希少植物の保全のために、世界中に出かける。
 オーストラリア・キンバリー高原では、いくつものスイレンの新種を見つけた。
 20日間、8千キロの旅を終える間に、48回の採集をし、14種のスイレンを入手した。カルロスはキューガーデンに1日も早く帰りたいと思った。「私の手には、世界中の人に見てもらえる、新種のスイレンがあるから」

世界最小のスイレン(左図の隣に写っているのは、オニバスの花。右の顔写真はカルロス・マグダレナ)
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2019年5月 4日

読書日記「受胎告知 絵画でみるマリア信仰」(高階秀爾著、PHP新書)



《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)
高階 秀爾
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 受胎告知は、聖母マリアが、大天使ガブリエルから精霊によってキリストを懐妊したことを告げられるという新訳聖書の記載のことを示している。古くから西洋絵画の重要なテーマだった。

 著者は、この本の副題に「マリア信仰」という言葉を使っているが、カトリック教会では、聖母マリアを信仰の対象にすることを避けるためマリア(聖母)崇敬」という言葉を使っている。

 著者が最初に書いているとおり、受胎告知の事実は、新訳聖書ではごくあっさりとしか書かれていない。
 個人的には、これは聖ペトロを頂点とした初代教会が男性中心のヒエラルキー社会であったため、意識的に"女性"を排除しようとしたせいではなかったかと疑っている。しかし、受胎告知、聖母マリア崇敬が初代教会の意向を無視するように民衆の間に広がっていった現実を、この著書をはじめ参考にした本は歴然と示している。

 特に、伝染病のペスト(黒死病)がまん延し、英仏間の百年戦争が続いた13,4世紀のゴシックの時代には、聖母崇敬が強まり、聖母マリアに捧げる教会が増えていった。

 このほど大火災の被害に遭ったフランス・パリのノートルダム大聖堂を筆頭に各地にノートルダムという名前の教会の建設が相次いだ。フランス語の「ノートルダム」は「わたしの貴婦人」つまり聖母マリアのことをさすという。

 教会は普通、祭壇をエルサレムに向けるため、東向きに建てられ、正面入り口は西側に作られる。ゴシックの時代には、この西入口に受胎告知や聖母子像を飾る教会が増えた。
 入口の「アルコ・トリオンファーレ(凱旋アーチ)」と呼ばれる半円形アーチの上部外側に、大天使ガブリエルと聖母マリアを配する「受胎告知」図がしばしば描かれた。

 代表的なのは、イタリア・パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に描かれたジョットの壁画。凱旋アーチの左に大天使、右に聖母マリアが配置されているらしい。
 この礼拝堂には、十数年前にイタリア巡礼に参加した際に訪ねているが、残念ながら両側の壁画の記憶しかない。

 15世紀のルネサンス期には、様々な巨匠が「受胎告知」というテーマに挑んでいく。
 イタリア・フレンツエにあるサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェルコの作品は、「受胎告知」と聞いたら、この作品を思い浮かべる人も多そうだ。

 このブログでもふれたが、作家の村田喜代子はこの受胎告知についてこう書いている。

 「微光に包まれたような柔らかさが好きだ。・・・受諾と祝福で飽和して、一点の矛盾も不足もない。満杯である」

 十数年前に訪ねたが、作品は2階に階段を上がった正面壁に掛かっていた。同じ日本人旅行者らしい若い女性が、踊り場の壁にもたれて陶然と眺めていた。

   このほかの代表作として著者は、同じフレンツエのウフイツイ美術館にあるボッティチェリ、ダビンチの「受胎告知」を挙げている。イタリア巡礼で見たはずだが・・・。

 岡山・大原美術館長である著者は、同館所蔵のエル・グレコの「受胎告知」を取り上げている。
 大天使が宙に浮いている対角線構図が特色。ルネサンスからバロックに移行する前のマニエリスムの特色が現れている作品だという。

 「受胎告知」というテーマは、アンディ・ウオーホルなど現代ポップアートの旗手らも取り組んでいる。著者は本の最後をこう結ぶ。

 「人々はジョットやダ・ヴィンチ、グレコらの作品を鑑賞したのではなく、深い信仰の念に包まれて、絵の前で心からの祈りを捧げたのである」

「受胎告知」絵画  クリックすると大きくなります。
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 ※参考にした本
 「聖母マリア崇拝の謎」(山形孝夫著、河出ブックス)「聖母マリア崇敬論」(山内清海著、サンパウロ刊)「黒マリアの謎」(田中仁彦著、岩波書店)「聖母マリアの系譜」(内藤道雄著、八坂書房)「聖母マリアの謎」(石井美樹子著、白水社)「聖母マリア伝承」(中丸明著、文春新書)「ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂}(渡辺晋輔著、小学館)

2019年1月30日

読書日記「なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949」(富田芳和著、静人舎刊)



 昨年12月、京都国立近代美術館で開かれていた「没後50年 藤田嗣治展」へ閉幕直前に出かけた。年明けの14日にも、「ルーヴル美術館展」の閉幕日に、大阪市立美術館に飛び込んだ。喜寿が過ぎたせいか、どうも行動のスピードが鈍ってきたような気がする。

 数え日や閉幕前の美術展


 セーターの胸すくっとして喜寿の人


 セーターの首からのぞく笑顔かな


 着古したセーターにある思ひかな


藤田嗣治は、戦後のパリで描いた「カフェ」(1949年、パリ・ポンピドゥーセンター蔵)や「舞踏会の前」(1925年、大原美術館蔵)など「乳白色の女性」像で有名だが、戦後、画壇の批判勢力にパリへ追われるきっかけになった戦争画のことが気になっていた。

 会場でも、幅160センチの大作「アッツ島玉砕」(1943年、東京国立近代美術館・無期限貸与作品)が圧倒的な迫力で迫ってきた。
 昭和18年5月、日本軍の守備隊は上陸してきた米軍に最後の夜襲をかけて玉砕した。雄叫びを上げて銃を振り下ろす兵士、敵と味方もなく折り重なる死体・・・。 画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。フジタは時に絵の横に直立不動で立ち、鑑賞者に腰を折って礼を返した、という。

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「カフェ」
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「舞踏会の前」
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 「アッツ島玉砕」


これが戦争礼賛目的に描かれた絵だろうか。そんな疑問を抱きながら会場を出たが、1階のショップで見つけたのが、表題の本だ。

 これまでは、戦争協力への批判を強める日本画壇に嫌気したフジタが、フランス・パリに居を移した、と言われてきた。
 しかし、美術ジャーナリストである著者はこの見方に異議を示し、著書の冒頭でフジタの夫人君代さんの話しを紹介する。「フジタはことあるごとに私に言いました。私たちが日本を捨てたのではない。日本が私たちをを捨てたのだ、と」

 この著書には、2つの座標軸がある。1つは、戦後日本画壇の執拗なフジタ排斥の動き。2つ目は、そんなフジタを崇拝し、とことん支援した元日本占領軍(GHQ)の民生官だったフランク・シャーマンの存在だ。

 1946年、フジタはGHQから日本中の戦争画を集めて、米国で展覧会を開くという依頼を受けた。しかし、日本の美術界には、フジタがGHQと手を組むことを恐れる勢力があった。

 同じ年の秋、朝日新聞に画家、宮田重雄の投稿が載った。
 「きのうまで軍のお茶坊主画家でいた藤田らが、今度は進駐軍に日本美術を紹介するための油絵と彫刻の会を開くとは、まさに娼婦的行動ではないか?」

 同じころ、フジタが可愛がっていた画家、内田巌が訪ねてきて、こう通告した。

 「日本美術会の決議で、あなたは戦犯画家に指名された。今後美術界での活動を自粛されたい」
 さらに内田は、フジタが入会を希望していた新制作協会への入会も断る、と伝えた。

 新制作公募展の控え室でのこと。フジタは顔見知りの画家たちに声をかけようとした。「気付いた者たちは突然静まり返り、形ばかり頭を下げて、あらぬ方へ視線を遊ばせるばかり」・・・。

 美術界の"黒い勢力"の追求で四面楚歌に陥ったフジタを救ったのが、少年時代から画家フジタを尊敬していた米国人フランク・シャーマンだった。

 何度もフジタを訪ねて親交を深めたシャーマンは、フジタの渡米を計画、まずニューヨークでフジタの個展を開いて成功させた。
 しかし、当時の厳しい渡米の条件を満たすには、米国での保証人や定期的な収入の確保などが必要だった。

 シャーマンらは、これらの困難を次々と克服、ついにGHQの認可を得た。決め手となったのは、フジタがGHQ司令官、マッカサーの夫人のために描いたクリスマスカード、「十二単のマリアとキリスト像」だった。

 米国を経てパリに渡り、フランスに帰化して日本国籍を抹消したフジタは、渡米直前の記者会見でこんな言葉を残した。

 「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」

 ※参考にした資料


2018年7月26日

読書日記「潜伏キリシタンは何を信じていたか」(宮崎賢太郎著、株式会社KADOKAWA、2018年2月刊)、「かくれキリシタンの起源」(中園成生著、弦書房、同年3月刊)、「消された信仰」(広野真嗣著、小学館、同6月刊)

潜伏キリシタンは何を信じていたのか
宮崎 賢太郎
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かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》
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 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、今月やっと世界遺産に登録されることが、ユネスコから認められた。

 文化庁の資料によると「『潜伏キリシタン』が密かにキリスト教への信仰を継続し,・・・既存の社会・宗教と共生しつつ,独特の文化的伝統を育んだ」こと が、世界遺産として認められた理由だという。

 登録を待っていたように、「潜伏キリシタン」についての著書が次々と発刊された。

 「潜伏キリシタンは何を信じていたか」の著者、宮崎賢太郎は、潜伏キリシタンを祖先に持ち、カトリック系の長崎純心大学の教授などをつとめたクリスチャンだが、これまでキリスト教会で常識とされてきたことに反論を試みる。

 
「(領主によって)強制的に集団改宗させられた大多数の民衆層のキリシタンたちは、(指導する司祭などが不在だったから)キリスト教についてほとんど何も知らなかった」「潜伏キリシタンたちが守り通してきたのはキリスト教信仰ではなく、いかなるものかよく知らないが、キリシタンという名の先祖が大切にしてきたものであった」「長崎県生月(いきつき)島などにごくわずか存在するカクレキリシタンには、隠れているという意識はまったくなく、その信仰の中身もキリスト教と呼ばれるようなものではなく、先祖崇拝的傾向の強いきわめて日本的な民族宗教である」


 さらに著者は、幕末の開国後の1865年(慶応元年)3月17日。長崎・浦上の潜伏キリシタンが、長崎市の大浦天主堂を訪ねてプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」も、プチジャン神父が自作自演したフィクションであると推理する。

 
 (かくれキリシタンが告白した)「我らの胸あなたの胸とおなじ」という言葉は、逆にプチジャン神父のほうから・・・告白した言葉ではなかったか。信徒たちが「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのでなく、プチジャンのほうから、「あなた方が慕っているサンタマリアの御像はこちら」と案内したのではないか。「あなた方がずっと大切にしてきたマリア観音は、本当はこのサンタマリアの御像なのです。御子ゼズス様を腕に抱いていらっしゃるでしょう」と。


 信徒発見のニュースは、たちまち世界中に伝えられた。日本のカトリック教会はこの日を祝日と定め、発見から150周年にあたる今年は、各司教区では様々な祈りのイベントを展開している。

 それをフィクションと片付けられても、カトリック信者の片割れとしては、にわかに納得しにくい。しかし、250年もの司祭不在の禁教期に、キリシタンの間でなにかが起きていたとしても不思議ではない。フイールドワークを踏まえて、それを分析・研究したのが「かくれキリシタンの起源」だ。

 著者、中園成生は、捕鯨の基地としても有名な生月町の生月島町博物館・島の館学芸員として長年、かくれキリシタンの研究に取り組んできた人。

 実は、3年も前の2015年2月に著者の最新研究成果を紹介する講演を聴講しており、このブログでも記録している。この著書の骨子にもなるブログの一部を再録してみる。

   
 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の中園成生さんが、平戸島の北西にある生月島で、現在でも隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。・・・
 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』(前述の宮崎賢太郎は、この説をとる)」が従来の考えだった。
 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。
 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。


 この講演の時には、長崎県は世界遺産への登録を「長崎教会群とキリスト教関連遺産」と題して申請していた。しかし、ユネスコの諮問機関であるイコモスから「禁教時に焦点を当てるべきだ」という注文がついて、登録申請をいったん取り下げ、潜伏キリシタンの遺産に焦点を当て直してやっと今回の登録決定にこぎつけた。

 この間に、「隠れキリシタン」についての学問研究も進み「潜伏キリシタン」「カクレキリシタン」といった区別もされるようになった。

 「消された信仰」は、生月島のかくれキリシタンの取材を通じて、世界遺産登録への隠された事実も明らかにしている。

 著者の広野真嗣は、新聞記者を経て、この本で題24回小学館ノンフィクション大賞を受賞したジャーナリストで、自称「信仰の薄いキリスト教徒」。

 著書の冒頭で「なぜ生月島は世界資産から外されたのか」という問いかけをしている。

 
 著者によると、世界遺産登録申請に関連して2014年に長崎県が作成したパンフレットでは「平戸地方(生月島を含む)の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる〈かくれキリシタン〉によって今なお大切に守られている」となっていたのが、再申請後の2017年のパンフレットでは「〈かくれキリシタン〉はほぼ消滅している」と変わった。
 著者が取材した、さきの中園学芸員はその理由について「これまでやってきたキリシタン史の説明との整合がとれなくなるからです」と答えた。
 中園学芸員は「彼ら(長崎県)は、(宮崎教授が主張する)〈禁教期変容論〉の影響を受けています。江戸時代の〈潜伏キリシタン〉と、現在に続く〈かくれキリシタン〉は違うもので、変容してきた、というスタンスをとっているんです」「でも、禁教期のいつから何が変容したのかという説明はできないのです。イコモスから突っ込まれたら説明が不能な厄介な問題になる。だからこそ、生月島のかくれキリシタンの存在を"消そうとしている"。その存在は、はっきりしているのに」と話した。


 当初、長崎県などが「長崎教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指したのは、教会群などによって、長崎の観光振興を図りたいのも狙いだった。
 しかし、イコモスの指摘で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変わっていく過程で、その内容があいまいになり、250年間、信仰を守り続け、「オラショ」などの文化遺産を持つ生月島のかくれキリシタンが切り捨てられ、当初あった遺産としての生月島は消えてしまった。

 かって、長崎の教会群や生月島などを3年にわたって訪ね、このブログで何回も取り上げてきた。それだけに、今回に世界遺産登録になにか冷めたものを感じてしまう。

※その他の参考文献
  • 「かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅」(後藤真樹著、新潮社刊)
  •  「祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」(松尾潤著、批評社刊)


2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

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② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
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⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
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⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2016年5月26日

 展覧会紀行「日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展」(於・ 国立西洋美術館、2016年5月21日)



   日本を代表する聖書学者である 和田幹男神父に引率された巡礼ツアーで、ローマの街を回り カラヴァッジョの作品に魅了されて、もう10年になる。

 今回、日本に来たのは接したことがなかった作品ばかりだった。ぜひ見たいと思い、世界遺産への登録が確実になった ル・コルビュジェ作の 国立西洋美術館に出かけてみた。

 上野のお山は、東京都立美術館で「伊藤若冲展」という待ち時間3時間半というばけものみたいな催しがあることもあって、週末の金曜日というのにごった返していた。

 幸い西洋美術館には、約30分並んで入場できた。

 一番、観客の目を惹きつけているのが、「法悦の マグダラのマリア」(1606年、個人蔵)だ。長年、この作品が本当にカラヴァッジョ作であるかどうかが専門家の間で議論されてきたが、ロベルト・ロンギ財団理事長でカラヴァッジョ研究の第一人者であるミーナ・グレゴーリ女史から本物であるというお墨付きが出て、この展覧会が世界初公開となった。

法悦のマグダラのマリア
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 所有者は「ヨーロッパのある一族の私的コレクションのひとつ」としか明かされていないから、この作品を見られるのは、これが最初で最後かもしれない。

 グレゴーリ女史が「真作」と確定した根拠は、第一に、キャンバスの裏にあるチラシに1600年代特有の書法で書かれた署名。第二に、その色使いや手法。「マグダラのマリア」は頭を後方にそらし、その眼は半閉じ状態で、口はわずかに開いている。両肩をのぞかせ、両手を組み、髪の毛は乱れている。服装は白のワンピースに、カラヴァッジョがいつも使う赤の絵具のマント。

 作品をじっと見てみると、右の眼から一滴の涙が流れ落ちようとしており、唇を半開きにしており「法悦」というより、まさに死を迎える寸前の「悔恨」の表情に見えた。

 カラヴァッジョが殺人を犯してローマを追われ、逃避行の末に死んだ時、荷物のなかに残っていた絵画3点のうち1つがこの作品だった。

 最近、マグダラのマリアについての本を読んだり、講演を聞く機会が何度かあった。

 それによると、これまで娼婦としてさげすまれてきたマグダラのマリアは、実はキリストの最後の受難に勇気をもって見届けた聖女で会った、という考えが出てきている、という。

 カラヴァッジョが現代に生きていたら、別のマグダラのマリア像を描くかもしれない。

   もう一つ、どうしても見たかったのが、「エマオの晩餐」(1606年、ミラノ・ブレラ絵画館)だった。

エマオの晩餐 -1
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 新約聖書のルカ福音書24章13-31によると「イエスが十字架につけられた3日後、2人の弟子がエルサレルからエマオの街に向かって歩いている時、イエスが現れたが、2人にはイエスと分からなかった。一緒に宿に泊まり、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂き、2人に渡した。その時、2人はやっとイエスと分かったが、その姿は見えなくなった」

 実はカラヴァッジョは、「エマオの晩餐」(1606年、ロンドン・ナショナルギャラリー)をもう1枚描いている。イエスはミラノのものよりずっと若く描かれ、光と影のコントラストも明快で明るい。

エマオの晩餐 -2
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 今回の展覧会に出された「果物籠を持つ少年」(1593-94年、ローマ・ボルゲーゼ美術館)や「バッカス」(1597-98頃、フレンツエ・ウフィツイ美術館)に見られる、光と影のなかに浮かびあがる躍動感が印象的だ。

果物籠を持つ少年                 バッカス
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 しかし、ミラノの「エマオの晩餐」は、暗い闇が広がる中に、イエスの静謐な顔だけが柔らかい光のなかに浮かびあがる。

 展覧会のカタログでは「消えた後になってはじめてキリストが『心の目』によって認識できたことが示されている」と、解説されている。

 このほかにも、まさしくカラヴァッジョしか描けなかったであろう多くの作品を堪能できる。

 「エッケ・ホモ」(1605年頃、ジェノヴァ・ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮)は、ヨハネ福音書19章5-7の一節から描かれた。

エッケ・ホモ
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 右側の老人、ピラトは大声で叫ぶ。「この人を見よ(エッケ・ホモ)・・・私はこの男に罪を見いだせない」。しかし、民衆はさらに叫ぶ「十字架につけろ。十字架につけろ」
 イエスは、すでに茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せかけられようとしている。しばられたイエスが持つ、竹の棒はなんだろうか。

 「洗礼者聖ヨハネ」(1602年、ローマ・コルシーニ宮国立古典美術館)は、長年、その"帰属"について論議があった作品。漆黒の闇のなかに、柔らかな光に包まれた若い肉体が浮かび上がる。憂いを帯びた表情は、聖職者で長年会わなかった弟を模したものともいわれる。

洗礼者聖ヨハネ
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 「女占い師」(1597年、ローマ・カピトリーノ絵画館)は、2年前にパリのルーブル美術館で見た同じ名前の作品とポーズはそっくりだが、衣装や背景が異なっている。モデルも違うらしい。

女占い師 -1
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女占い師 -2
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   「トカゲに噛まれる少年」や「ナルキッソス」(1599年頃、ローマ・バルベリーニ宮)国立古典美術館)、「メドウ―サ」(1597-98年頃、個人蔵)など、カラヴァッジョ・ワールドをたっぷりと堪能できた。

トカゲに噛まれる少年            ナルキッソス           メドウ―サ
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 今回の展覧会には、カラヴァジェスキと呼ばれるカラヴァッジョの画法を模倣、継承した同時代、次世代の画家の作品も多く展示されている。

 なんと、そのなかに ラ・トウ―ルの作品を見つけたのには驚いた。

 ラ・トウ―ルのことは、この ブログでもふれたが、パリ・ルーブル美術館の学芸員が、何世紀の忘れられていたこの作家を再発見した。

 今回の展覧会では、「聖トマス」(1615-24年頃、東京・国立西洋美術館)と「煙草を吸う男」(1646年、東京富士美術館)の2点が展示されていた。

聖トマス            煙草を吸う男
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 カラヴァッジョとは一味違う炎と光の世界の作品を所蔵しているのが、いずれも日本の美術館だったとは・・・。

2016年4月23日

読書日記「イエス伝」(若松英輔著、中央公論新社刊)



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若松 英輔
中央公論新社
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 本の冒頭近くに出てくる著者の指摘に、エッと思った。

 「奇妙なことに、イエスの誕生を物語る福音書のどこを探しても、『馬小屋』に相当する文字は見当たらない」

 「イエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれた」。それは、キリスト信者なら子供でも知っている常識だろう。

 所属していたカトリック芦屋教会でも、クリスマス前になると、祭壇の脇に小さな馬小屋の模型と聖母子の塑像を故浜崎伝神父が置いていた。そして、前の芦屋川から採ってきた草やコケで馬小屋の周りを飾る手伝いをさせられたものだ。

 いや、今でも世界中の教会や家庭で同じような馬小屋の模型が作られ、クリスマスの準備をしている。

 しかし著書は20世紀のアメリカ人神学者であるケネス・E・ベイリーの 「中東文化の目で見たイエス」の一節を紹介、「イエスが中東の人であることを(世界の人は)忘れている」と強調する。

 「西欧的精神の持主にとって、"飼い葉桶"という語は"馬屋"や"納屋"という語を連想させる。しかし、伝統的な中東の村ではそうではない」

 聖書の記述( ルカ伝2章4~7節)によれば、イエスの父 ヨセフは、ダビデ王の血を引く人だった。「客人に対して、ゆえなき無礼な行いをするのは不名誉なことこの上ない」中東人にとって、王族につながる旅人であるヨセフ、 マリア夫婦は歓迎さるべき客人だった。

 しかし、一行が訪ねた家の客間には先客がおり、家族が暮らす居間に通された。

 家畜を大切にする当時の中東の村では、居間の端に複数の飼葉桶が床石を掘って造られていた。

 「出産に際して、男たちは部屋から出され、女たちがマリアに寄り添う。マリアは庶民の家の居間で、彼女たちに見守られ、歓待されながらイエスを産んだ」。そして、聖書にあるとおり居間の「飼い葉桶に寝かされた」

 ベツレヘムに着いたヨセフ一行がやっと見つけられたのは、貧しい馬小屋。そこで生まれたイエスを祝ったのは、貧しい羊飼いたち。
 我々が、長年信じてきた物語は、西欧文明が作った虚構だったのだ。

 中東に住む聖書学者たちは、この事実を以前から理解していた。「しかし、西欧のキリスト教神学界が、長く中東文化圏の声を無視してきた」と、ベイリーは訴えている。

 だが、著者は「ベイリーが指摘したいのは、誤りの有無ではなく、新たなる聖書解釈の可能性である」という。

 
幼子イエスは、羊飼いのような貧しく身分の低い人々だけでなく、ヨセフらを迎え入れた普通の庶民や富裕な人々、「王」への貢物を持参した異教の預言者たちのためにも世に下ったのだ。
 「イエスは、救われない、孤独であると苦しむ人に寄り添うために生まれた」


 ベイリーは、イエス降誕を論ずる1文の最後を、こう締めくくっている、という。

 「確かにわれわれはわれわれのクリスマス劇を書き直さなければならない。しかし書き直されることによって、物語は安っぽくされるのではない。かえって豊かなものにされるのである」

 この本には、以前から気になっていたいくつかのことが記述されている。

 例えば、イエスと関わる女性たちのことだ。

 カトリック教会には、イエスが捕えられ、十字架につけられるまでの14の行程について書かれた 「十字架の道行き」という祈りがある。どこの教会でも、各場面を描いた木彫りや陶板の聖画が両側の壁に掛けられており、信者はその聖画を順に回ってイエスの受難を思って祈るのだ。

 イエスは、十字架を背負わされて処刑場に向かう途中、何度も倒れる。それを見て、 ヴェロニカという女性が駆け寄り、汗を拭いてもらおうと自分のベールを差し出す場面がある。

 
死刑の宣告を受けたイエスの近くに寄ることは命を賭けた行いだった。男の弟子たちにはそれが出来なかった。「十字架の道行』では、イエスの遺体を引き取るまで、男の弟子たちの姿は描かれない。道中、イエスに近づいたのは女性の弟子ばかりである。


 
イエスの時代、女性が虐げられることは少なくなかった。だが、イエスはその文化的常識も覆したのである。


 十字架で処刑される場に居合わせたのも、女性の弟子たちだけだった。

 共観福音書マタイ伝マルコ伝、ルカ伝)では、(女性たちは)「遠くに立ち」十字架上の見守っていたと記されている。

ヨハネ伝の記述はなまなましい。女性たちは「十字架の傍らに」たたずんでいたと書かれている。女性たちとはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。・・・
 天使たちのよって、イエスの復活を最初に伝えられたのもマグダラのマリアを含む三人の女性たちだった。


 イエスが誕生する前にも、女性を重視する記述が聖書に書かれている。

 身籠っていたマリアは、のちにイエスに洗礼を授けることになる ヨハネの母 エリザベトに会いにいく。
 エリザベトは、 聖霊の働きでマリアの子が救世主であることを知り、こう語りかける。

 「あなたは女の中で祝福された祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」(ルカ伝1章42)

 
この一節こそ・・・"人間の口"を通して、もっとも早い時期にイエスが「主」すなわち救世主であることが告げられた場面なのである。  ルカ伝は・・・圧倒的な男性優位の当時の社会で、女性・・・に大きな役割があることを示そうとする。このことにもまた、今日再度顧みるべき問題がある。


ペトロを中心に、男性重視の組織を形成してきた 原始キリスト教会は、あえて女性の存在を軽視し、イエスに近いマグダラのマリアを「罪深い女(娼婦)」と呼ぶことさえいとわなかった。

 それが、第2バチカン公会議以降になって、やっと見直しが始まったらしい。
 その動きが、女性司祭の登場などにつながるかどうかは、あまりに"遠い道筋"だろうが・・・。

 若松英輔は、イエスを裏切った弟子・ユダのことに何回も言及する。

 そして「イエスはユダの裏切りを知りながら、なぜ回避しなかったのか」「ユダの裏切りは自由意思によるものなのか」など、以前から多くの神学者、哲学者が取り組んできた問題に答えようとする。

 聖書によれば、「最後の晩餐」の席上、イエスはユダに「しょうとしていることを、今すぐしなさい」と言い、ユダは逃げるように出ていく。

   その後のヨハネ伝の記述は「共観福音書などとは著しい違いがある」と、著者は言う。

 
さて、ユダがでていくと、イエスは仰せになった。
   「今こそ、人の子は栄光を受けた。
 神もまた人の子によって
  栄光をお受けになった
 神が人の子によって
 栄光をお受けになったのなら、
 神もご自身によって
 人の子に栄光をお与えになる。
 しかも、すぐにも栄光をお与えになる。(13章31~32)


 
「今こそ」との一語は、ユダの裏切りもまた、自身の生涯が完成するために避けて通ることができない出来事であることを示している。そのことによって、「神もまた」栄光を受けるとまで、イエスは語ったのだ。


 イエスは、神の意志による受難を実現するために、ユダに裏切りを促したということだろうか。しかし、そのことが「イエス、神が栄光を受ける」ことにつながるという聖書の言葉は、あまりに難解だ。

 ユダについての記述は、まだまだ続く。

 
福音書を読んでいると、イエスのコトバに真実の権威、威力、意味をどの弟子よりも敏感に感じ取っていたのがユダだったように思われてくる。・・・彼は、師のコトバを受容することに戦慄を伴う畏れと恐怖を感じている。・・・


   
弟子たちの中で自ら意図して裏切りを行ったのはユダだけだった。・・・もっとも美しく、また聖らかで、完全を体現している、愛する師を裏切ったユダは、イエスの実相にもっとも近づいた弟子だったのかもしれない。その分、ユダの痛みは深く、重い。


 
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


 「姦通の女」の記述は、ヨハネ伝8章に詳しい。

 
この記述を読んで、「女」に自分を重ね合わせない者は少ないだろう。今日の私たちも彼女に「石」を投げることはできない。この「女」はイエスを裏切ったユダを象徴している。


 
誤解を恐れずに言えば、ユダは私たちを含む「人間」という、罪から免れることはできない存在の象徴でもある。


 ここで著者は 遠藤周作の小説 『沈黙』の最後の場面を引用する。棄教を迫られて踏み絵を踏んだ司祭がイエスと対話する場面だ。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせといわれた。ユダはどうなるのですか」
 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」


遠藤は、ユダを人類の代表者として描いている。ユダの裏切りは、いつもイエスの赦しと共にある。イエスは、人の弱さを裁く前に寄り添う。


 このブログでも書いたのだが、 故井上洋治神父 「遺稿集『南無アッパ』の祈り」のなかで、同じようなことを強調しておられたことを思い出した。

 某日刊紙の書評子によると「今、もっとも注目を浴びていると言っていい批評家」である若松英輔は、故井上神父を師と仰いでいる、という。

2016年1月28日

 読書日記「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、文藝春秋刊)


みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記 (文春e-book)
文藝春秋 (2015-11-20)
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 著者の作品を読むのは、久しぶりだが、読み終えるまで意外に時間がかかった。「キリシタン」というテーマへの取り組みが尋常ではないほど真摯で、難解な引用文献も多かったせいらしい。

 自分の先祖にキリシタがいたのではないか」と勝手に思い込んだのが「私的キリシタン探訪記」という副題をつけたゆえんらしい。16世紀にローマに派遣された 天正遣欧使節の4人の少年たちが持ち帰り、秀吉の前で演奏を披露したという弦楽器・リュートを買い求めて習い始めることから始め、長崎のキリシタン迫害の地を訪ね歩く。ついには殉教宣教師の故郷であるスペインにまで足をのばす、という時空を超えた異文化漂流記だ。少しはキリシタン文化をかじったことのある自分にも、新しい発見を突き付けられるノンフイクションだった。

 とくに興味を引いたのは、このブログでもなんどかふれたことのある 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推薦への厳しい視線だ。

 筆者はキリシタンに興味を持ちだした2008年に、殉教した天正遣欧使節の1人、 中浦ジュリアンが、ローマ・カトリック教会から 「列福」されるのを知り、長崎を訪れる。

 私も見る機会があった「バチカンの名宝とキリシタン文化展」長崎歴史文化博物館で鑑賞、そこを出た道のはす向かいに 「サン・ドミンゴ教会跡」という碑を見つける。

 
 矢印に誘われるように、地下へ通じる階段を降りた。階段を一段降りるごとに、表を通る車の音は遠ざかっていき、気温が下がっていく。どこへ連れていかれるのか、不安な気持ちのまま降りていくと、ライトアップされた遺構が目の前に現れた。
 ひんやりして静まりかえった構内は、回廊から地下を見下ろす構造になっており、波打った石畳や地下室、排水溝が見えた。壁には市内で出土した磁器や花十字紋瓦(十字架模様のついた瓦)が展示してある。敷地の広さや頑丈な石が多く使われていることから、かつては立派な石造りの建物であったことがうかがえる。


 ここは、現在は 桜町小学校の校庭の一角なのだが、1609年、長崎代官のキリシタン、村山等安が寄進した土地に、薩摩を追われたドミニコ会のフランシスコ・モラーレス神父が建てた、サント・ドミンゴ教会の地下遺構だった。

 長崎には、禁教令以前には13の教会があったが、すべて幕府命で取り壊された。
 世界遺産に推薦された他の教会は、すべて明治の禁教令解禁後に、信者たちが金を持ち寄って建てたものだ。

 壊された教会跡はどうなったのか。

  トードス・オス・サントス(詩聖人)教会の跡地には、春徳寺が建てられた。
 岬の教会は、長崎奉行所西役所から長崎県庁へ。
 サン・ジョアン・バウチスタ教会は、日蓮宗本蓮寺。
 「ミゼリコルディアの組」本部教会は長崎地方法務局。
 サン・フランシスコ教会は、処刑を待つ多くのキリシタンを収容した桜町牢になり、長崎市水道局庁舎へ......。
 そして、 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館! 


 異なる宗教を信じる信徒を弾圧し、そのあとに為政者側の象徴-仏寺や行政機関- を建てることが、長崎では繰り返されたのである。

 長崎は、異国への窓口であり、多くのキリシタンが暮らした街であると同時に、激しい弾圧で多くの血が流された街でもある。

 「国際色豊かな自由な街というイメージは、いったん保留しなければ」と、筆者は思う。

 小学校の広い校庭から発掘されたことで保存が可能になったサン・ドミンゴ教会跡は「日本では真に貴重なキリシタン遺跡」なのに「世界遺産」候補にさえなっていない。隣接して、入場無料の資料館があるだけだ。

 このブログを書いている最中に、たまたま大阪で長崎県と朝日カルチャーセンターの共催で昨年に続いて「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力Ⅱ」セミナーが開かれた。友人Mを誘って、出席した。

 最初に「長崎県キリスト教史の概要」について講話した長崎県長崎学アドバイザーの本馬貞夫さんによると、キリシタン全盛時代に建設された教会は、13ではなく14。
 これらの教会は、幕府が近隣の藩に取り壊しを命じたが、その作業の徹底ぶりが担当した藩によって差があり、サン・ドミンゴ教会は"ずさん"な作業で埋め立てた上に代官屋敷が建てられてしまい、地下遺跡として残ったらしい。
 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館を建てる時に発掘調査が行われたが「ほとんど、なにも出てこなかった」

 近く、岬の教会があった県庁駐車場の一部発掘が行われるらしいが、明治初期にキリスト教禁教令が解かれてから、あまりに長い年月が経っているのに「〇〇教会跡」という石碑しか残っていない。「(長崎の)キリスト教に対する体温が低いことが気になった」と、星野博美は思う。

 「島原に行ってみるしかない」
 筆者は、キリシタン大名、有馬晴信の居城だった日野江城跡を訪ねる。

 筆者にとって日野江城は、 セミナリオ(修道士育成の初等学校)を城下に備えた、キリシタン文化の「ゆりかご」という位置づけだった。

 国と長崎県が世界遺産に推薦する「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の1つにもなっているが「道しるべや看板、の類がほとんどなく、ここをアピールしようという積極的な意思がまったく感じられない」。民家の敷地の端にあるセミナリオ跡は、ひさしの下に碑と案内板があったが「バス停と間違えそうだ」

 
前日「ここにはキリシタンの遺跡がほとんどない」と落ち込んだばかりの長崎でも、それが400年前のものではないにせよ、十字架や教会が数多く視界に入った。長崎では、どんな形であれ、キリシタンの記憶は受け継がれている。ここにはそれがない。十字架の類もまったくない。あ、やっと十字架を見つけた、と思ってよくよく見ると、ただの電柱だった。

 いくら禁教令が二五〇年ほど続き、キリスト教が天下の御法度になったとはいえ、その土地の持つ記憶や気配というものは、これほど見事に消せるものだろうか。土地の記憶が、ここでは受け継がれなかったのか。  そこではたと思う。記憶を受け継ぐはずだった人間は、みんな死んでしまったのだ。住民は入れ替わった。記憶がつながるはずもない。


 日野城が「ゆりかご」なら、同じ世界遺産候補で島原の乱の決戦場となった 原城跡は「『キリシタンの世紀』の終末を象徴する『墓場』」だ。

 そこは、ほとんど森と化した日野江城跡とは対照的に「一言で言えば、何もない原っぱだった。(本丸大手門跡などの案内板はあるが)ここで三万七〇〇〇もの民が殺されたとう事実を想像するのは難しい」

 幕府軍の大将の記念碑、乱の鎮圧後に赴任した代官が建てた供養塔のほか、祈りをささげる天草四郎像、白い十字架、天草四郎の墓碑はある。しかし、この墓碑は近くに民家の石垣に埋もれていたのが移されたものという。

 
 禁教令が続いた明治初期ならまだしも、もう二十一世紀である。この地の慰霊は、キリスト教会に委ねるべきではないかと私は思うのだが、話はそう単純ではない。
 幕藩体制の根幹を揺るがす反逆と見なされた彼らを、安らかに眠らせてなるものかという「お上」意識を、原城からなんとなく感じるのである。

 (教会にとっても)原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、教会が説く「世俗権力への服従」と「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」とは認められない。


 大阪での「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力Ⅱ」セミナーで、2人目の講師を務めた南島原市教育委員会文化財課課長の松本慎二さんによると、原城跡は1938年(昭和13年)に国の史跡に指定された。

   しかし、発掘調査が始まったのは、2000年(平成2年)。しかもそれは、キリスト教史跡の発掘としてではなく、この土地を公園として整備するのが目的だった。

 発掘の結果、鉛弾でつくった十字架、メダイ、ロザリオの珠と同時に、多くの人骨が出土した。首と胴体は切断されてそれぞれ別の場所に埋められた。特に胴体は不自然に切り刻まれ、膝から下を切り落としたものも多い。その上には石垣の巨石がかぶせられていた、という。

 著者は、さらに今回の世界遺産推薦について、こうも書いている。

 
 東と西の交流を賛美したい気持ちはわからなくもないが、ザビエルの渡日から鎖国までの「キリシタンの世紀」を(長崎・大浦天主堂での) 「信者発見」という美談でハッピーエンドに仕立てているように見える。また、日本人が日本の信徒のみならず、数多くの外国人を殺したという視点も抜け落ちている。
 (仮にこれらが世界遺産となったら)弾圧の実態を巧妙に隠した美談の史観がさらに広く流布されるのではないだろうか。


   日本で殉教した外国人宣教師は、故郷でどう受けとめられているのだろうか。 著者は、スペイン巡礼に出かけることにした。

 同行したスペイン在住歴40年の日本通訳は、かってポルトガル国境の町で「おまえたちがスペイン人を殺した」と責め立てられたという。

 福者・ ハシント・オルファーネルの故郷は、 バレンシア州ビナロス近郊の村だった。

 もちろん、村人はハシントンのことを"聖人"としてよく知っていたが、筆者への視線は冷ややかだった。

 教会の神父に頼まれ、筆者は「キリシタンの世紀」とその後の弾圧の事を話した。

 
 最盛期には30-40万人もの信徒が生まれたが、十分な記録がない殉教者は4万人、なんらかの記録がある殉教者は灼4000人。そのうち外国人司祭を含めた福者が393人、42人が聖人になった。「彼らは信仰を棄てるより、神父とともに殉教することを望んだ」


 神父がそれを説教で話すと、会衆から驚きのどよめきが起き、ミサ後、会衆が筆者を取り巻き、次々と話しかけてきた。

 
 (外国人宣教者にしたことは今も世界で)見られている。
 そんな視点を欠いたまま、都合の悪いことは忘れ去り、やれ世界遺産だのなんだと騒ぐことがいかに滑稽であるかは、もはや言うまでもないだろう。


追記(2016/2/16): 

 このブログを書いた直後の2月初め。政府が急きょ、閣議で「長崎教会群」の世界遺産推薦を取り下げることを決めた。

 長崎県や国は今年7月にもユネスコの世界遺産委員会で決定されることを期待していたが、ユネスコ諮問機関である 国際記念物遺跡会議(イコモス)が「2世紀以上にわたるキリスト教禁教の歴史に焦点を当てるべきだ」という中間報告書を日本政府に届けていたのだ。

 政府は2018年以降の登録を改めて目指す方針だが、このブログに取り上げた著者・星野博美が何度も指摘していたように、長い禁教時代に続いた"日本の歴史的恥"をさらすことになるだけに、再検討の道筋は厳しいだろう。

 ブログにもふれたように、今回の「長崎教会群」の推薦内容には「あまりに多くの日本人信徒、外国人宣教師を殺した」という、200年余りにわたる、禁教、殉教の歴史の実証がまったく抜け落ちていた。

 星野博美は、著書の「あとがき」で改めて書いている。

 
もし四〇〇年前、現在のインターネットのような、瞬時に映像が世界中忙伝わる手段があったとしたら、私たちがいま処刑者に向けているおぞましさに満ちた視線は、そのまま私たちに向けられていたことだろう。


 
いや、当時も最速の情報手段で伝わっていたのである。日本で迫害が進行しているさなか、(ヨーロッパでは宣教師が伝えた)殉教録が出版され、・・・教皇庁では列聖調査が進んでいた。とろ火による火あぶりも穴吊りも、そして雲仙温泉の熱湯責めも、同時代に(オランダ船などで運ばれた)絵で伝えられていたのだ。
 国が閉じられ、世界の情報から隔絶された日本人が知らなかっただけで、私たちはあの頃、確かに見られていた。


 それが、今回のイコモスの指摘でもあったのだ。

 「みんな彗星を見ていた」
 この本の表題の意味は、そのことだったのだと気づいた。

2015年1月21日

読書日記「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子著、文春文庫)


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 コルシア書店のことは、前回のこのブログでもふれた。著者がローマでの留学生生活を辞め、ミラノに移って勉強と仕事を結局11年続けることになった大切な場所だった。

 コルシア書店は、単なる本屋さんではない。戦時中、 反ファシシズム・パルチザン運動の同志だったダヴィッド・マリア・トウロルドとカミッロ・デ・ピアツという2人の司祭が戦後間もなく始めたカトリック左派による生活共同体活動の拠点でもあった。

 ダヴィッド神父に心酔した須賀は、この本の冒頭近くで、詩人としても知られた神父の作品を紹介している。
 1945年4月25日「ファッシスト政権とドイツ軍の圧政からの解放を勝ち取った歓喜を、都会の夏の夕立に託した作品」だ。

 
 ずっとわたしは待っていた。
 わずかに濡れた
 アスファルトの、この
 夏の匂いを。
 たくさんねがったわけではない。
 ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
 奇跡はやってきた。
 ひびわれた土くれの、
 石の叩きのかなたから。


カトリック左派の活動について、著者はこう解説している。

 
 カトリック左派の思想は、遠くは十三世紀、階級的な中世の教会制度に刷新をもたらしたアッシジのフランシスコなどに起源がもとめられるが、二十世紀におけるそれは、フランス革命以来、あらゆる社会制度の進展に背をむけて、かたくなに精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もういちど現代社会、あるいは現世にくみいれようとする運動として、第二次世界大戦後のフランスで最高潮に達した。
 一九三〇年代に起こった、聖と俗の垣根をとりはらおうとする「あたらしい神学」が、多くの哲学者や神学者、そして、 モリアック ベルナノスのような作家や、失意のキリストを描いて、宗教画に転機をもたらした ルオーなどを生んだが、一方、この神学を一種のイデオロギーとして社会的な運動にまで進展させたのが、 エマニュエル・ムニエだった。一九五〇年代の初頭、パリ大学を中心に活躍したカトリック学生のあいだに、熱病のようにひろまっていった。教会の内部における、古来の修道院とは一線を画したあたらしい共同体の模索が、彼らを活動に駆りたてていた。


 しかし、聖心女子大時代にカトリック学生運動に属して反 破防法運動などをしたこともある須賀にとって、パリ留学中にふれたカトリック左派活動は「純粋を重んじて頭脳的つめたさをまぬがれない」感じがして肌に合わなかった。

そして、パリから一時帰国した際に、イタリアのコルシア書店の活動を知り「フランスの左派にくらべて、ずっとと人間的にみえて」引かれていく。再びローマ留学のチャンスをつかみ、ダヴィッド神父にローマやロンドンで何度か会った須賀は、コルシア書店の激流の中に、運命に導かれるように飛び込んでいく。

 夕方六時をすぎるころから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた。作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかには、カトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれてミラノに亡命していたカタローニヤの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ教のラビもいた。そして、若者の群れがあった。兵役の最中に、出張の名目で軍服のままさぼって、片すみで文学書に読みふけっていたニーノ。両親にはまだ秘密だよ、といって恋人と待ちあわせていた高校生のバスクアーレ。そんな人たちが、家に帰るまでのみじかい時間、新刊書や社会情勢について、てんで勝手な議論をしていた。ダゲイデがいる日もあり、カミッロだけの日もある。フアンファーニが、ネンニらと、政治談義に花が咲かせる。共産党員がキリスト教民主党のコチコチをこっぴどくやっつける。だれかが仲裁にはいる。書店のせまい入口の通路が、人をかきわけるようにしないと奥に行けないほど、混みあう日もあった。


コルシア書店での交流を通じて、須賀敦子の活動は大きく花開いていく。 ミニコミ誌「どんぐりのたわごと」を前回のブログでも出てきたガッティに教わりながら編集、日本の知人に送り始め、後に急死した夫のペッピーノを介してイタリアの詩人や文学者の作品を深く知り、日本の小説などの翻訳もするようになる。
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しかし、コルシア書店のこんな急進的な活動を「教会当局が黙認するはずがなかった」

 一九五〇年から七〇年代までのはぼ二十年間に、こうして多くの若者が育っていったコルシア・デイ・セルヴイ書店は、ほとんど定期的に、近く教会の命令で閉鎖されるという噂におびやかされ、そのたびに友人たちは集会をひらいて、善後策を講じなければならなかった。


 
 コルシア・デイ・セルヴイ書店に、最初の具体的な危機がおとずれたのは、一九五八年の春だった。ダヴイデとカミッロが、ほとんど同時に、教会当局のさしがねで、ミラノにいられなくなったのである。ダヴイデが大聖堂でインターナショナルを歌って、善男善女をまどわしたとか、カミッロが若者に資本論を読ませているとか、理由はいろいろ取り沙汰されたけれど、実際には、彼らリーダーを書店から遠ざけることによって、書店の「危険な」活動に水をさそうというわが教会の意図であったことは、だれの目にもあきらかだった。


  その後コルシア書店は、政治活動を辞めるか、移転かの2者選択を教会当局から迫られて都心に移転したが、後に経営不振で人手に渡った。
  サン・カルロ教会の軒先を借りていたコルシア書店の跡は、ある修道会が運営するサン・カルロ書店になっている。
 今でも人気が絶えないダヴィッド神父の作品を並べたコーナーがあるという。

 前回のブログでも引用した「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著)によると、1992年2月に死去したダヴィッドの葬儀は、サン・カルロ教会で行われ、多くの 枢機卿が参列した。当時、ミラノの統括していたマルティーニ枢機卿は「ローマ教会は(ダヴィッド・)トウロルド神父を誤解しており、生前、大変な苦渋を味わわせた。彼に赦しを乞いたい」と語った。

 コルシカ書店が、聖と俗の垣根を払う活動を始めた同じ時期に、教皇 ヨハネス23世が提唱した 第2バチカン公会議が始まり、 信徒使徒職などカトリック教会の大改革が着手された。

 「須賀敦子全集・第1巻」の別冊に、当時82歳になっていたカミッロ神父のインタビューが載っている。神父は、こう答えている。「コルシア・ディ・セルヴィは、ある意味で第二ヴァティカン公会議を先取りしていたものといえます」

 この本の「あとがき」で、著者は記している。

 
 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐつて、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しょうとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、 人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。  若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私た ちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったよ うに思う。


 須賀敦子は夫が死去して帰国して2年後、42歳の時、東京・練馬区に、貧者のために廃品回収などをする「 エマウスの家」を設立、責任者となった。いつもGパン姿で、自ら小型トラックを運転することもあった、という。

2014年8月19日

読書日記「バルテュス、自身を語る」(聞き手 アラン・ヴィルコンドレ、鳥取絹子訳 河出書房新社)「バルテュスとの対話」(コスタンツオ・コスタンティーニ編、北代美和子訳 白水社)「評伝 バルテュス」(クロード・ロワ著、輿謝野文子訳 河出書房新社)


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バルテュスの名前を友人Mに聞き、お盆前に京都市美術館で開かれている「バルテュス展」に出かけた。

 その主な作品は「バルテュス展」のホームページにある「展覧会紹介」コーナーに掲載されているが、事前に友人Mがネットで購入していた展覧会図録を見て「なぜこんな絵を」「バルテュスってなにもの?」と、驚きが入り混じった興味がつのってきた。

描くテーマの多くが、「夢見るテレーズ」「美しい日々」など、あどけない少女たちが胸を見せ、膝をあらわにしたポーズなのだ。

 当然、発表当初からこれらの絵を巡る賛否両論が渦巻いたらしい。

 しかし、京都での展覧会では、これらの少女像や風景画に引き込まれ、個人の展覧会としては2時間半という自分でも異例の時間を過ごし、不思議な感動に包まれて美術館を後にした。

 帰ってからも、バルテュスなる人物への興味はつきず、標題の本を買ったり、図書館で借りたりすることになった。

 最初の2冊は、作家やジャーナリストによるインタビューをまとめたもの、最後のは小説家による評伝だが、やはりバルテュス描く少女たちがテーマの中心になっている。

 
人は私が描く服を脱いだ少女たちをエロチックだと言い張りました。私はそんな意図を持って描いたことは一度もありません。・・・少女たちを沈黙と深遠の光で囲み、彼女たちのまわりに目がくらむ世界を創りだしたかった。それだから私は少女たちを天使だと思っていました。(「バルテュス、自身を語る」より)


バルテュスは同じ本で「私はこれらの少女をたちとはつねに自然に、下心なく共謀してきました」とも語っている。

 「バルテュスとの対話」のなかで、バルテュスはここまで言い切る。

 
人がわたしの絵のなかに見出すエロティシズムは、それを見る人間の目、その精神、あるいはその創造力のなかにあるのです。聖パウロは言っています。淫らさは見る者の目のなかにある、と。


 
――あるフランスの雑誌によると、描いたのは天使だけだとおっしゃったそうですね。ほんとうですか?
 バルテュス ええ、そうだと思います。
  ――ちょっと淫らな天使たち?
 バルテュス なぜです?淫らなのはあなたのほうですよ!どうして天使が淫らになりえるでしょう?天使は天使なのですから。・・・わたしは宗教画家です。


 ただ、少女を「挑発的に描いた」ことが1回だけある、という。

1934年にパリ・ピエール画廊での個展に出された「ギターのレッスン」。「あまりにスキャンダラス」という批判が出るのを心配した画廊主は、この絵をカーテンの後ろに隠し、一部の人にしか見せなかった。

 
「ギターのレッスン」が引き起こしたスキャンダルは計画されたものでした。わたしはあの絵を、スキャンダルを呼ぶために描き、展示しました。ただお金が必要としていたからでしたが、私はすぐに有名になりたかった。残念なことに、あのころパリで有名になる唯一の方法はスキャンダルでした。(「バルテュスとの対話」より)


 バルテュスは、風景画「樹のある大きな風景」に見られるように、光を大切にする"光の画家"でもあった。

 
光を待ち構えることを学ばなければなりません。光の屈折。逃げていく光、そして通りすぎる光、・・・今日は絵が描けるかどうか、絵という神秘のなかで前進しているものが深まるかどうか。


 
毎朝、光の状態を見つめます。私は自然な光でしか描きません。・・・空の動きに合わせて変化し、ゆらめく光だけが絵を組み立て、光沢を与えます。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 
朝早く、まだ人びとが眠り、村を重い沈黙が支配するときには、美しい光があります。しかし、わずかの時間しか続かない光だ。・・・この冬のようにロシニエールに雪が降るとき、光は特別です。クリスタルのようで、純粋で、目を眩ませる。しかし、それははかない光。蜃気楼のように、わずかの時間しか続かない奇跡です。(「バルテュスとの対話」より)


 バルテュスは、光と同時に素描(デッサン)を大切にした。

 京都での展覧会では、生涯の友人だった彫刻家、アルベルト・ジャコメッティを描いた「アルベルト・ジャコメッティの肖像」など、多くの素描を見ることができた。

 
夢見る少女たちの顔やポーズをさまざまにデッサンする。私にとってこれ以上厳しい課題は見当たりません。・・・愛撫のように優しくデッサンするなかで、すぐに消えゆく子供時代の優美さ・・・を見いだす。・・・まだ何も知らない卵形の顔、天使の顔に近い形を、黒鉛で紙の上に見いだそうとする。


 
デッサンの仕事は絵より厳しく、おそらくより神秘的で、火、真っ赤に燃え上がる火にたどりつくことを意味します。ときに数本の線だけで火は奪われ、とらえられ、いまにも消えそうな状態でも、かすかに見てとれる閃光でもつかまえられる。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 
「常に素描(デッサン)をしなければなりません。鉛筆ではできないときは眼で素描(デッサン)しなければなりません」。・・・彼は、同時に、形態を「撫でる」ために、そして理解するために、そしてその形態と結ばれるために、そしてその形態を見抜くために、接触の暖かさそして知性の精密さを得るために、素描をするのである。(「評伝 バルテュス」より)


   バルテュスは、若い時からルーブル美術館などに通い有名画家の作品の模写を繰り返した。特に、14-16世紀に画法の中心だったフレスコ画に興味を持った。13歳の時にスイスのトウ―ン湖を望む小さな教会にフレスコ画を描こうとしたこともある。

 イタリア・フレンツエのサンタ・マリア・ノヴェラ教会パオロ・ウッチェツロ作やアッシッジのサン・フランチェスコ教会上・下院にあるチマブーエジョットの絵に「雷に打たれた」ようになり、模写を繰り返した。

 
油彩の持つ艶に対しては、つねになにか耐えがたいものを感じてきました。そのために50年代からカゼアルティ(カゼインに石灰を混ぜたもの),卵白のテンペラを使い始めたのです。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 バルテュスが若いときから学び、身体に染みついたフレスコ画の技法は、後年、バルテュスが、当時のフランス文化相だったアンドレ・マルローに委嘱されてローマに於けるフランス芸術の拠点、 ヴィラ・メディチ(メディチ館)の館長になり、すぐに始めた同館の壁の修復に生かされた。

 
メディチ館の壁面や建物の塗装にたずさわった職人たちは、バルテュスの式や数々の試みにあらわれた正確さ細やかさにすっかり敬服した。「バルテュス塗り」などというのは、二、三の塗料を混ぜ合わせてから、スポンジを使って塗る面にたたきつけたり、はけで軽く染みこませていく。そのようにして得られるのは、内にこもった振動のような感覚、表面が生きている感覚を与える彩りである。(「評伝 バルテュス」より)


 京都の展覧会での話題作品の1つが、「朱色の机と日本の女」だったが、じっくり見て驚いた。

図録では、ただ白い絵具を塗ったとしか見られなかった「日本の女」の肌が、ザラザラとした立体感のあるフレスコに似た画法で描かれていたのだ。

 この絵については、こう書かれている。

 
《朱色の机と日本の女》はバルテュスの仕事のなかで、遠近法に支配された西欧絵画と、造形的要素や色彩が奥行より重きを置かれる中国的・日本的宇宙観との間の縫目をなしている。この際の背景とモデルは、それまでにもけっこう豊富な可能性を示していた芸術家をして、新たな表現方法や新たな側面を実験させる気分にならせた。・・・ 節子、それがその人の名だった。(「評伝 バルテュス」より)


    節子とは、旧姓・出田節子さん。「朱色の机と日本の女」のモデルでもある。

 バルテュスと結婚し、その死後も2人が愛したスイスの木造建築「グランド・シャーレ」に住み、バルテュスから指導を受けた画法で絵画を描き続けている、という。

 バルテュスは、表題の著書のいくつかで、こんな言葉を繰り返している。

 
わたしは「芸術家」という言葉が大嫌いです。漫画『タンタン』(バルテュスが娘の春美さんが小さかった頃に一緒に見た本)に登場するアドック船長が使う最上級の侮辱語は「芸術家!」です。ピカソもまたこの言葉を毛嫌いしていました。「わたしは芸術家ではない、画家だ」と言ったものです。わたしも同じことが申せます。わたしは画家、あるいたよりよく言えば職人です。


 ピカソは、かなり年下のバルテュスを「二十世紀最後の巨匠」と高く評価、後にバルテュスの作品「ブランシャール家の子どもたち」を購入している。この作品は現在、フランスのパリ・マレ地区にある国立ピカソ美術館が所蔵している。

 「バルテュスとの対話」の最後は、こんな独白で終わる。「死を恐れない。私はカトリック教徒です。(肉体の死を越えた個人の来世を)信じていると思います」

 
人は神を想像したりしません。どうやったら生命を想像できるのです?神がわれわれを取り巻く現実に、自然のなかに、物と世界の美のなかに、現在それらになされている破壊にもかかわらず存在しています。神がその創造の驚異すべてを廃墟へ追いやるとお決めになった、そう思うことはわたしにはどうしてもできません。


  ▽ (付記)
朝涼やバルテュスの光こもれきて