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2011年12月20日

読書日記「ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻1968」(ジョセフ・クーデルカ著、阿部憲一訳、平凡社刊)。そして「プラハ紀行」(2011年5月)



ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻 1968
ジョセフ・クーデルカ
平凡社
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 1968年8月、共産党政権下のチェコスロバキアで起きた民主化運動 「プラハの春」をあっけなく踏みつぶしたソ連のチェコ侵攻。首都・プラハの市民たちは、武器も持たずに素手と言葉で戦車に立ち向かっていった。それをつぶさに記録した30歳のカメラマンがいた。
 フィルムは秘かにアメリカに持ち出され、匿名のまま発表され、 ロバート・キャパ賞を受賞した。匿名作者が ジョセフ・クーデルカとして名乗ることができたのは、父親が死んだ1984年のことだった。

 その写真集の日本語版が、今年の春に出版された。B4変形判295ページ、なんと重さが2キロもあるアルバムをめくるたびに、衝撃のシーンが胸に迫ってくる。

チェコ橋;クリックすると大きな写真になります
ホテルから見たチェコ橋。正面奥がレトナー公園。左手にプラハ城が広がる
 ソ連軍率いる ワルシャワ条約機構軍の戦車と装甲車はあっという間に国境を越え、 ブルタバ川に架かるチェコ橋を封鎖してしまう。橋の北にあるレトナー公園の丘から市民たちが乗り出すように戦車群を見降ろしている写真がある。

今年の春にプラハを訪れた際、近くのホテルに泊まり、橋詰にある天使の石塔を見上げながら何度か行き来しただけに、40数年前にそんな歴史を刻んでいた橋だったのかと戦車に占拠された橋の姿が目に焼き付いて離れなかった。

老人や子供は、あっけに取られて戦車群を見ているしかない。サラリーマン風の男性もしかりだ。左手を額につけ、顔をしかめて嘆きながら街を歩く中年女性のカット写真も、アルバムの冒頭にあった。

旧市庁舎の天文時計;クリックすると大きな写真になりますヤン・フス像;クリックすると大きな写真になります
旧市庁舎の天文時計。毎正時に時計の上のしかけ人形が動き出すアダムとイヴを象徴する2つの塔が特徴のティーン教会。右手前が、ヤン・フス像
 何度か出かけた 旧市街広場は、旧市庁舎のからくり人形や天文時計、2本の塔が目立つゴシック様式のティーン教会を訪ねる観光客でごった返していた。

 しかし1968年夏には、その広場の中央に据えられた宗教改革の先駆者、 ヤン・フス像の周りも戦車で占拠された。その前を、1人の少年が恐怖心を押し隠すように前かがみになりながら乳母車を押している写真が印象的だ。

 しかし、市民らは静かに立ち上がる。

 戦車の上で休憩するソ連兵を 幾重にも取り囲み、通じない言葉で抗議の爆弾を投げつける。戦車のソ連兵に向かって、片手を伸ばし絶叫する 若者、戦車にナチスを表す「卍」マークを張り付ける勇気ある 女性

 火炎砲の攻撃を受けたラジオ局を棒と国旗で守ろうとする 2人の若者、敵の戦車によじ登って抗議の旗を振りかざす 青年・・・。衝撃のショットが続く。

 この写真集には、プラハ侵攻後の様々な資料が、日本語に翻訳されて掲載されている。

 プラハ侵攻が始まった8月21日に ドウプチェク第一書記が率いるチェコスロヴァキア共産党プラハ市委員会がラジオで流した宣言には、こうある。
 「偶発的な挑発は決して行わないでください。現在、武力による防御はもはや不可能です・・・」

 替わりに市民らは「見事なアイデアを思いつく」

「何十万という無名の、素性の知られていない人々が街路や広場の名前が書かれた標識を破壊し、番地の標識すら消してしまった。・・・招かれざる客にとって、プラハは死んだ町と化したのだ。ここで生まれなかった者、ここに住んでいない者は、100万人の匿名都市を目のあたりにする。占領軍がここで見出すのは、多種多様な抗議文だけだろう」

「イワン、家に帰れ、ナターシャが待ってるぞ」
「ソ連兵よ、家に帰って、どうしてチェコスロヴァキアにいたのと子どもに尋ねられたら、何と答える?」
「顔を上に向けろーーー手は上げるな!」

 あのヤン・フス像の黒い壁面には、なぜか英語で「GO HOME」そして「卍=☆」のマークが、何度消されても描かれた・・・。

ヴァーツラフ広場;クリックすると大きな写真になりますヴァーツラフ広場脇の建物群;クリックすると大きな写真になります
ヴァーツラフ広場のヤン・パラハ慰霊プレート。奥が聖ヴァーツラフ騎馬像。その奥が、国立博物館ヴァーツラフ広場脇の建物群。黄色いホテルの壁面に銃痕が残っている、というkとだったが・・・。
 プラハに来て2日目の朝。プラハのシャンゼリーゼといわれる ヴァーツラフ広場に行った時は、どしゃぶりの雨だった。北西から南東に伸びる通りの南端。 聖ヴァーツラフの騎馬像の前に ヤン・パラフの慰霊プレートがあった。

 1969年1月。前年夏の「プラハの春」挫折に抗議して、学生ヤン・パラフはこの場所で焼身自殺した。小さな像を刻んだプレートの周りは、40数年後というのに小さな花輪やロウソクであふれていた。

 広場の両側は、ブランド品の店やホテルが並んでいる。一部の建物には侵攻の際、ソ連兵が威嚇射撃した銃弾の跡が残っている、という。カメラで追ってみたが、どしゃ降りの雨の暗さで確認できなかった。

 ジョセフ・クーデルカの写真集で、特に衝撃的な写真の2枚が印象に残っている。  1枚は、ヴァーツラフ広場を埋め尽くしている抗議の人たちの座り込みの写真だ。私が訪ねた時にはなかった市電の線路と石畳が伸びている。周りには、両側はソ連軍などの戦車と装甲車が砲準を向け、一発触発だったらしい。

 もう1枚は、人っ子一人いないヴァーツラフ広場を見下ろす窓に差し出された 左腕らしい写真。腕時計は午後6時を指している。写真集の資料には、こうある。  「(座りこんでいる人々に向かって)警察の拡声器が響いた。父親のような声だった。『さあ、馬鹿なことをしないで、解散するんだ。占領軍にいい口実を与えるじゃない。彼らの目的は何かわかっているだろう・・・』。・・・しぶしぶと群衆は三々五々解散を始めた。30分後には、広場に静寂がもどった」
 人っ子1人いない広場の情景は、8月22、23日の2度にわたって見られた。

 ブタペスト経由でプラハを訪ねた機中で小説 「プラハの春 上・下」(春江一也著、集英社文庫)を読んだ。「プラハの春」の挫折を題材にしてベストセラーとなった。軸は、プラハ駐在の日本人外交官と2人の女性とのロマンスだが、焼身自殺したヤン・パラフも主要な役割で登場し、プラハ侵攻の様子や外交交渉にも多くのページが割かれている。

 しかし、ジョセフ・クーデルカの写真集とそこに転載された文献とは、事実が少し異なる。写真と事実を積み重ねたドキュメンタリーの威力を痛感した。

 「プラハの春」から21年後、1989年の無血革命 「ビロード革命」で、共産主義国・チェコスロヴァキアは民主化された。その立役者となったハヴェル前大統領が、今月18日に死去した、という。

 チェコスロヴァキアからチェコ共和国となった首都・プラハは、その前に訪ねてハンガリーのブタペストに比べても民主化の果実を満喫しているように見えた。
 黒っぽい地味な服装が多かったが街を歩く人々の表情は明るく、ビアホールは夕方から地元の人たちで超満員。チェコ・フイルハーモニーの演奏を聴いた音楽公会堂 「ルドルフイヌム」は、正装の観客であふれていた。
 「建築の森」の別名がある通り、ロマネスク、ゴシック、アールヌーヴォからキュービスム様式の建物まで楽しめた旅だった。

2008年12月21日

読書日記「キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち 上・下」(平敷安常著、講談社)


キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち(上)
平敷 安常
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おすすめ度の平均: 5.0
5 写真という名の言葉−歴史の語り部達−
5 一気に読んだ!ベトナム戦争世代じゃなくても読みやすい。

 新聞記者を辞めて、もう何年もたつのに・・・。現役時代には、たいした仕事もしなかったのに・・・。ジャーナリズム関係の本を見ると、つい手にとってしまう。

 表題にある「キャパ」とは、もちろん ちょっとピンボケの著書でも有名な戦場カメラマン、ロバート・キャパのこと。

 著書の終りに近いところで、著者はこう述べる。
ベトナム戦争でキャパになりそこなった戦争カメラマンは、新しい戦争の中で、もう一度ロバート・キャパをめざす
自分のことらしい。

 しかし私には「キャパになれなかった」というのは、ある種の反語であるような気がする。この本にあるのは、ベトナム戦争などを取材したカメラマンや記者たちの勇猛果敢かつ壮絶な報道ぶりや悩み、苦しみなどの詳細な記録だ。

 "キャパに近づきたい"と願い続け、見事に"キャパになりきれた"「語り部たち」の姿が鮮やかに浮かび上がってくる。

 小競り合いがあった現場に急ぐ軍曹に同行した時のこと。山道の曲がり角で北ベトナムの兵士と鉢合わせする。兵士の手りゅう弾より、軍曹の小銃の引き金が一瞬早かった。戦死した北ベトナム兵士が持っていた日記には「私は悲しい。空腹だ。故郷に戻りたい」と書かれてあった。同行したベトナム記者は、同邦の若者の死を悼み、深く悩む。

 ベトナム兵を撃った軍曹は、間もなく休暇でハワイに行き、婚約者とデートをする予定だった。だが、数日後の戦闘で片脚を失う。

  NBCのハワード・タックナー記者は、弾が飛び交う戦場で、真っ直ぐ立ってカメラに向かって状況説明をすることから、伝説上の人物だった。しかし、ベトナム戦争が終わって5年後に48歳の若さで自らの命を絶った。
 「戦争に疲れ果てたという見方もされた」

  安全への逃避 という作品でピュリッツアー賞をとった、日本人カメラマンの沢田教一が、あの川面の家族を撮って数々の栄誉に輝いた時、著者は同じ現場で16㍉ムービー・カメラを回していた。
同じシーン、同じ対象を写したのに差が出たのは、名カメラマン沢田教一と私の『カメラ・アイ』の差であったかもしれない

 「冴えたカンと的確な身のこなしが抜群だった」その沢田も、プノンペンから30数キロの国道2号線で殺される。ベトナム戦争取材で死んだ報道マンは172人にも達っした、という。

 岡村昭彦は、南ベトナム政府から入国禁止処分を受けていた。6年前にジャングルのベトコン解放区に潜入、南ベトナム解放戦線の指導者に単独インタビューしたせいだった。

 1971年2月、南ベトナム政府軍は、電撃的にラオス国内に侵攻した。その2日後、ベトナムに戻れなかったはずの岡村が突然姿を現した。数日後には、報道陣がだれも入れなかったラオス領内に一番乗りして、続けざまに特ダネをものにした。
アメリカ軍補給基地で、アメリカ軍将校と話していた岡村は、目の前に停まった南ベトナム軍の輸送トラックに乗り込む。あまりに堂々としていたので、南ベトナム兵士はアメリカ軍将校が許可を与えたのだと勘違い。ラオス領内奥深くまで岡村を運んだそうだ


 この本を評した2008年11月16日付け産経新聞で、報道写真家の中村梧郎氏は、こう書いている。
 命がけの取材があったからこそ、世界は戦争を知りえた。・・・米国はベトナムでの敗北をメディアのせいにした。その後、取材の自由が奪われた。だから、今もイラク、アフガンで毎日出ているはずの犠牲者の姿は見えにくい


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ちょっとピンぼけ
ちょっとピンぼけ
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R.キャパ
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5 読み物としても面白い上に、キャパがやっぱりカッコいい
5 フォトジャーナリストを目指す若者に
4 死と隣り合わせの職業、ジャーナリズムとは
5 人間くさく生きること
5 やっぱ、キャパは凄い!