読書日記「快楽としての読書 [日本篇]」(丸谷才一著、ちくま文庫)
著者が、週刊朝日や毎日新聞などに1960年代から2000年代初めにかけて書いた全書評のうち、約3分の1の122篇を選びだした本。
この「読書ブログ」も、気ままに選んだ本の内容をほとんど引き写してきただけで、もう5年近くになる。たまにはプロの書評集を読んでみるのもいいかと、図書館に購入依頼したが、これがすこぶるおもしろかった。
「気になっていた本」「読んでみたくなる本」「おもしろそうだが、とても手におえそうにない本」などなど・・・。一流の教養人が書くうんちくに酔いしれる"快楽"に、はからずものめり込んでしまった。
私も以前にこのブログで書いたことがある 辻邦生の 「背教者ユリアヌス」(中公文庫)。
書評者は「作者が何に促されて書いたかといふことはやはり解説しておかなければならない」と、かねてからの疑問に「待ってました」とばかりに答えてくれる。
そしてもう一つ、戦争中に青春を生きた作者としては、当時の、もしできることなら何とかして軍事にたづさはることなく、学問と詩を楽しんでゐたいといふ切実な欲求が人生の最初の体験となつてゐて、それがこの大作を最も深いところで支へてゐるやうに思はれる。つまりここには歴史的世界への呪祖(じゆそ)があるのだ。
好きな作家の1人である、 池波正太郎の 「散歩のときに何か食べたくなって」(新潮文庫)では「最も印象的なのは、(店の)主人の描写」とある。
そこで主人は言ふ。
「はい、やはり、油には縁が深いのでしょうな」
小説家の藝だから、人物描写がうまいのは当り前だが、最高級の天ぶら屋の老主人の姿が、眼前に浮びあがるではないか。
これまでの江戸文学研究書について「(おおむね志が低く、琑末な事象にこだわる)通人か、(江戸の美意識と真っ向から対立する十九世紀西欧の美意識にあやつられている)学者にゆだねられており、指南役としてふさわしくない」と、こてんぱんにやっつけている。 そして 「江戸文學掌記」(講談社文芸文庫)の著者、 石川淳に言及していく。
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高島俊男著「中国の大盗賊」(講談社現代新書)の最後には、あの毛沢東が登場してくる。
中村隆英の「昭和史1(1926-45)」(東洋新報社)には、二・二六事件後に中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句が詠まれたことを指摘。そして中村自身が「明治以来の安定が、このとき完全に失われたことへの憤りと解釈している」ことを紹介している。
書評者は「経済学者にして置くには惜しい(失礼!)小太刀の冴え」と、粋な一言を放っている。
中村元の「インド人の思惟方法」 「日本人の思惟方法」「チベット・韓国人の思惟方法」(すべて春秋社)では「浩瀚(こうかん)な著作をわずかな紙数で推薦するのだから、遠慮しないで読んでくれ、ぜったい損はしないからと請合ふしかない」と書く。
そのついでに、読む順番は「シナ人の巻から取りかかって、日本人、インド人、チベット人および韓国人とゆくのがいいやうな気がする」と、誠に親切な読書指導まで。
中村元の、こんな記述も紹介している。
ところが韓国の僧は煙草をいつさい口にしない。戒律に禁止されてゐなくても、その底にある精神を大事にするのが韓国仏教なのである。
これは韓国仏教についての上手な説明だが、中村のこの本は、いつもかういふ調子で読者をおもしろがらせてくれる。
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これらだけではない。各篇ごとに原作のなかからすくいあげた文章が、玉のように輝いて見える。
インドのタミル語が日本語成立の源流だが、最近は「朝鮮の学者によって、朝鮮語とタミル語との対応が言われ出した」( 大野晋著 「日本語の起源 新版」=岩波新書)
岡本かの子の 「生々流転」(講談社文芸文庫)は、夫・ 岡本一平がかの子の死後に書き足した合作長編である。
「関ヶ原合戦での東軍の勝利は、豊臣系諸将の家康への贈り物だった。これによって、(徳川幕府は)国持大名の領内政治に介入しないという、分権・多元的な政治形態を近世日本にもたらした」( 笠谷和比古著「関ヶ原合戦」=講談社学術文庫)
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「セーラー服が女学校の制服として定着したのは、海軍⇒女児⇒軍艦⇒女陰という隠語が意識下にある」( 鹿島茂著「セーラー服とエッフェル塔」=文春文庫)
「再読 日本近代文学」(集英社)のなかで、中村真一郎は小林秀雄が培った近代日本文学論の常識に反旗を翻していること紹介しながら、書評者自らも「多少の異論」を試みているのも、考えたらまったくぜいたくな1篇だ・・・。
この本の最初に、著者の小エッセイが載っている。
1 本文が白い洋紙で、
2 その両面に、
3 主として活字で組んだ組版を黒いインクで印刷し、
4 各ページにノンブルを打ち、
5 それを重ねて綴ぢ、
6 表紙をつけてある
ものは、ずいぶん便利だなと感心する。
二十一世紀になつても、小学校用算数教科書、経済白書、六法全書、『広辞苑』第十何版、最後の社会主義国某国の全史の翻訳、卑弥呼のもらつた金印の発見をめぐる学術報告、貴乃花の回想録、マリリン・モンローとケネディの往復書簡集の翻訳などが、本といふ容器をぬきにして出ることは考へにくいのである。
わたしたちは本の制覇の時代に生きてゐる。
1993年に朝日新聞から刊行された「春も秋も本! 週間図書館40年」(1993年刊)という「週間朝日」の読書欄誕生40周年記念した本に所収されているのだが、現在の電子書籍をまったく意識していない牧歌的にも思える書籍礼讃がおもしろい。
ところが、この文庫本の表題裏に、出版社の注意書きが小さい活字で掲載されており、業者による "自炊" 行為などに警告している。
無許諾で複製することは、法令に規定された
場合を除いて禁止されています。
請負業者等
の第三者によるデジタル化は一切認められて
いませんので、ご注意ください。
書籍、それも文庫本に、このような"警告文"が載るのは、これまであったのだろうか。書評のなかで出版各社の書籍を引用しているという事情もあるのだろうが、それだけ出版社側のデジタル化への警戒感が現れていて、丸谷のエッセイとの対比がおもしろい。
このブログでも、著書のいくつかを引用させてもらっており、この警告に"抵触"しているのだろう。
「この著書のすばらしさを記録したいだけの個人プレー。大目に見てください『株式会社 筑摩書房様』」とわびるしかない。