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2020年9月17日

読書日記「教皇たちのローマ ルネサンスとバロックの美術と社会」(石鍋真澄著、平凡社)

 著者は、イタリア美術史を専門とする成城大学教授。本棚を見ると、「サン・ピエトロが立つかぎり 私のローマ案内」「聖母の都市シエナ 中世イタリアの都市国家と美術」「ありがとうジョット イタリア美術への旅」と、著書が3冊も見つかった。

 14年前に、イタリア巡礼ツアーに参加する際に購入したらしい。その後、2017年にはカラヴァッジョの作品を再び見たくて2度目のローマ訪問を果たしたが、この本でもローマという都市にはぐくまれた芸術の歴史を満喫することができた。

 著書は、歴代の教皇たちを縦軸に、その教皇らが推進したルネサンスバロック美術を横軸にしてローマの歴史を展望してみせる。

 著者は、その両軸が織りなしたローマの街に大打撃を与えたサッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠・ごうりゃく)という事件に多くのページを割いている。

 1527年5月、神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン国王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻、ローマの古い町並みを根こそぎ破壊し尽くした。

 兵士たちは金や銀を求めて、聖堂やパラッツオ(邸館)に押し入った。家財を奪ったあとは、その家の者に身代金を要求、払えない者は、残酷な拷問にかけられ殺害、少女から老女まで家族の前で乱暴され、殺された。
 多くの司祭や修道士が殺され、奴隷として売られた。修道女の多くはりん辱されて殺され、残った者も半裸か冗談で司教の衣装を羽織らされて売春宿に売られた。

 サン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン宮)にいた教皇クレメンス7世は、危機一髪でサンタンジェロ城に逃れた。

 14年前にローマを訪ねたときには、サンタンジェロ城は古い甲冑などが展示された博物館になっていたが、約1キロ離れたヴァチカン宮との間に秘密の地下道があると聞いた覚えがある。実際には、この2つを結ぶ城壁に造られたパセット(小道)を通って、教皇は逃げ込んだ。城に据えられていた大砲がなんとか教皇を守ったらしい。

 サッコ・ディ・ローマについて、多くの歴史家がこう記述している。
 「サッコ・ディ・ローマによってルネサンスは終った」

 ローマの町が徹底的に破壊されたことで、14,5世紀に教皇ユリウス2世レオ10世などがパトロンとなって栄華を極めていたローマのルネサンス文化も姿を消した。ミケランジェロラファエロの作品は残ったが、ローマ中の聖堂にあった、貴重な聖母子像、磔刑像、祭壇画の多くが破壊された。

 同時に、11,13世紀に花開いたコムーネ(自治都市)文化の貴重な海外や彫刻も破壊され、記録や資料さえ残っていない。

 しかし、ローマは不死鳥のようによみがえる。17世紀のカラヴァッジョ、ベルニーニに代表されるバロック美術が、教皇たちの強い後押しで栄華を極めたのだ。

   著者によると、サッコ・ディ・ローマから14年後の1541年に完成したミケランジェロの「最後の審判」の壁画も「サッコ・ディ・ローマという大きな悲劇が生み出した傑作」だという。

 システィーナ大聖堂の正面壁に描かれたこの大壁画に感じられるのは「サッコ・ディ・ローマ後に広がったペシミスティックな空気だ」 「罪の意識と悔悟、神の怒りへの畏怖、惨劇のトラウマ、無力感、そしてすべての人間の上に下される審判への待望。教皇は、・・・それらが時代を超えて理解されるようにミケランジェロの手で視覚化されることを望んだのだ」

 このようにして、荒廃のなかから再生されたローマの街を、現代の我々も楽しむことができる。

 ところで、この本には歴代の教皇の多くが、愛人を作り、司祭や枢機卿時代に実子や庶子をもうけていたという記述が何度も出てくるのに驚く。
 庶子などを「ニポーテ(イタリア語でおい、めいの意味)」と偽って、枢機卿などに登用する「ネポティズム(縁故主義)」という言葉が何回も出てくる。  「ルネサンス期の教皇は、枢機卿だけでなく、司教、教皇軍、教会国家の要職に身内の者を採用、教会の富が身内にわたるようにした」「身内の登用や不在聖職者の悪用、兼職、聖職売買、不要なポストの創設といった悪弊が行われるようになった」

 ウイキペディアによると、このような縁故主義が終るのは、1692年のインノケンティウス12世が発布した教皇勅書からだという。

 ひるがえって現代。カトリック教会では、聖職者の性的虐待事件が頻発している。現教皇フランシスコは「断固とした対応をする」と声明したが、解決の糸口は見えない。

 現在の性的虐待事件と中世の聖職者女性問題に、共通項があることは否めそうにない。  司祭志願者が減っているなかで、将来、プロテスタントのように婚姻する聖職者が現実の話しになった場合、ネポティズムの悪弊に染まった中世の教訓を生かせるだろうか。

2019年5月 4日

読書日記「受胎告知 絵画でみるマリア信仰」(高階秀爾著、PHP新書)



《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)
高階 秀爾
PHP研究所
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 受胎告知は、聖母マリアが、大天使ガブリエルから精霊によってキリストを懐妊したことを告げられるという新訳聖書の記載のことを示している。古くから西洋絵画の重要なテーマだった。

 著者は、この本の副題に「マリア信仰」という言葉を使っているが、カトリック教会では、聖母マリアを信仰の対象にすることを避けるためマリア(聖母)崇敬」という言葉を使っている。

 著者が最初に書いているとおり、受胎告知の事実は、新訳聖書ではごくあっさりとしか書かれていない。
 個人的には、これは聖ペトロを頂点とした初代教会が男性中心のヒエラルキー社会であったため、意識的に"女性"を排除しようとしたせいではなかったかと疑っている。しかし、受胎告知、聖母マリア崇敬が初代教会の意向を無視するように民衆の間に広がっていった現実を、この著書をはじめ参考にした本は歴然と示している。

 特に、伝染病のペスト(黒死病)がまん延し、英仏間の百年戦争が続いた13,4世紀のゴシックの時代には、聖母崇敬が強まり、聖母マリアに捧げる教会が増えていった。

 このほど大火災の被害に遭ったフランス・パリのノートルダム大聖堂を筆頭に各地にノートルダムという名前の教会の建設が相次いだ。フランス語の「ノートルダム」は「わたしの貴婦人」つまり聖母マリアのことをさすという。

 教会は普通、祭壇をエルサレムに向けるため、東向きに建てられ、正面入り口は西側に作られる。ゴシックの時代には、この西入口に受胎告知や聖母子像を飾る教会が増えた。
 入口の「アルコ・トリオンファーレ(凱旋アーチ)」と呼ばれる半円形アーチの上部外側に、大天使ガブリエルと聖母マリアを配する「受胎告知」図がしばしば描かれた。

 代表的なのは、イタリア・パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に描かれたジョットの壁画。凱旋アーチの左に大天使、右に聖母マリアが配置されているらしい。
 この礼拝堂には、十数年前にイタリア巡礼に参加した際に訪ねているが、残念ながら両側の壁画の記憶しかない。

 15世紀のルネサンス期には、様々な巨匠が「受胎告知」というテーマに挑んでいく。
 イタリア・フレンツエにあるサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェルコの作品は、「受胎告知」と聞いたら、この作品を思い浮かべる人も多そうだ。

 このブログでもふれたが、作家の村田喜代子はこの受胎告知についてこう書いている。

 「微光に包まれたような柔らかさが好きだ。・・・受諾と祝福で飽和して、一点の矛盾も不足もない。満杯である」

 十数年前に訪ねたが、作品は2階に階段を上がった正面壁に掛かっていた。同じ日本人旅行者らしい若い女性が、踊り場の壁にもたれて陶然と眺めていた。

   このほかの代表作として著者は、同じフレンツエのウフイツイ美術館にあるボッティチェリ、ダビンチの「受胎告知」を挙げている。イタリア巡礼で見たはずだが・・・。

 岡山・大原美術館長である著者は、同館所蔵のエル・グレコの「受胎告知」を取り上げている。
 大天使が宙に浮いている対角線構図が特色。ルネサンスからバロックに移行する前のマニエリスムの特色が現れている作品だという。

 「受胎告知」というテーマは、アンディ・ウオーホルなど現代ポップアートの旗手らも取り組んでいる。著者は本の最後をこう結ぶ。

 「人々はジョットやダ・ヴィンチ、グレコらの作品を鑑賞したのではなく、深い信仰の念に包まれて、絵の前で心からの祈りを捧げたのである」

「受胎告知」絵画  クリックすると大きくなります。
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 ※参考にした本
 「聖母マリア崇拝の謎」(山形孝夫著、河出ブックス)「聖母マリア崇敬論」(山内清海著、サンパウロ刊)「黒マリアの謎」(田中仁彦著、岩波書店)「聖母マリアの系譜」(内藤道雄著、八坂書房)「聖母マリアの謎」(石井美樹子著、白水社)「聖母マリア伝承」(中丸明著、文春新書)「ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂}(渡辺晋輔著、小学館)

2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

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② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
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⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
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⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2014年7月 9日

パリ・ロンドン紀行④「ルーブル美術館㊦」2014年4月30日(水)



 ルーブル美術館休館日明けの水曜日。この日は地下鉄を利用してリヴォリ通り沿いのリシュリュー翼3階18室「ギャラリー・メディティスの間」に入った。

 なんと女性警備員2人が、ガラス天井の下の大広間真ん中で朝の打合せをしている以外、観覧者はまだ1人もいない。同行Mが勧めた「開館直後の午前9時に入ろう」という作戦は大成功だった。

 広間の両側を飾っている24枚の大作は、イタリア・ メディチ家からフランス王・ アンリ4世の妃になった マリード・メディティスが、自らの生涯を描くようバロックの巨匠・ ルーベンスに依頼したもの。

 王妃メディシスはいささかメタボ気味で27歳の晩婚。国王アンリ4世は女好きで、ルーブル宮殿ではその愛人と一緒に住まわされ、フランス語がしゃべれないメディシスはいつも孤独だった。やっと息子 ルイ13世に恵まれたが、夫アンリ4世が暗殺されてしまったうえに、ルイ13世の取り巻きの貴族群に嫌われ、国外に追放されてしまう。

 こんな生涯を"自画自賛"の絵に描くよう依頼されたルーベンスは、神話の世界に仕立てることを思いつく。

 2人は、リヨンの町で初めて対面する設定になっているが、夫はローマ神話の神 ユーピテル、妻は女神ユーノーとして描かれる。下で馬車を曳くのはリヨンにちなんだ「LIYON(ライオン)と、寓話性にあふれている。

 間もなくこの広間に模写に現れた男性のキャンバスに描かれているのは、フランス・マルセイユ港にイタリアから到着したメディシスを歓迎する海の妖精たちだ。

この大広間の周辺には、17世紀 フランドルをはじめ、オランダ、ドイツなどの作品の部屋が続いている。

 24室には、フランドル出身の ヴァン・ダイクが描いた 「狩り場のチャールズ1世」が、38室にはあの ヤン・フェルメール 「レースを編む女」(24×21センチ)が宝石のように置かれていた。

 その間の部屋にあるはずの レンブランド 「バテシバ」を見つけることができなかったのは残念だった。旧約聖書に書かれている ダビデ王に横恋慕された家臣の妻の水浴姿というテーマは、それまでも何人もの画家が挑戦している。

  中野京子 「はじめてのルーヴル」によると、モデルは乳癌で亡くなったレンブランドの愛人で「左の乳房の明瞭な影がその証拠ということが、近代になって分かってきた」という。

 「光と闇の画家」と呼ばれたレンブランドが描く、モデルと「バテシバ」の"影"。その絵が飾られているはずの部屋番号まで事前に調べたのに、見落としてしまったのは「もう一度おいで」というルーブルの魔法をかけられたせいだろうか。

 もう1つの裸体画、10室にあるフォンテンブロー派 「ガブリエル・デストレとその妹」は、ちゃんと見つけることができた。

 入浴中の左側の女性が右側の女性の乳首をつまみ、懐妊を示唆している。つままれているのは、アンリ4世の愛人の愛妾・ガブレリエル・デストレ、つまんでいるのはその妹という不思議な構図だ。

 中野京子は 「怖い絵2」(朝日出版社)のなかで、こう書いている。

 
手と指の描写に、いささかデッサンの狂いが見られ、その狂いがかえって奇妙な効果を上げている。まるで白い蟹(かに)がガブリエルの柔肌を這(は)いまわっているような、エロティックでもあり、ユーモラスでもあり不気味でもあるいわく言いがたい皮膚感覚を、見る者に呼び起こす。


 ここで、いったん地下まで降り、ピラミッド経由で、見学初日に見落としていたドウノン2階の「大作の間」に入った。ここには、19世紀フランスを代表する大型絵画が、隣の「ナポレオンの間」と同じ赤い壁紙が張られている。

 入って正面左にあるのが、19世紀・ ロマン主義を代表するジェリコー 「メデューズ号の筏」。491×716センチという大作だ。

 難破したフランス艦から筏で脱出した150人の兵士のなかで生き残ったのは15人。ジェリコーは、それらの人々から取材を重ね、臨場感あふれた作品に仕上げた。

その右側には、 ドラクロアの代表作「民衆を導く自由の女神」がある。

 1830年の 7月革命を記念して描かれたものだ。女神の左にいる山高帽の男はドラクロア自身と言われる。しかし、革命は3日間で終わって王政は続き、この絵は国家に買い上げられたものの、人の目に触れることはなく、公開されたのは約40年後の共和制復活後だった、という。

 その隣にある、同じドラクロアの「サルダナパロスの死」にも引きつけられる。

 紀元前7世紀、死期が近いことを知ったアッシリア王・ サルダナパロスが、自分に仕えた人々を虐殺させるのを平然と見ている。画面には血は一滴も流れていないのに、赤いベッドと女体の肌色の色彩感で異常な光景を見事に演出している。

 ドラクロアのライバルであった新古典主義の アングルの代表作 「グランド・オダリスク」を見に「ナポレオンの戴冠式」のある75室に戻る。

 「オダリスク」というのは、トルコのハーレムに仕えた女性のこと。アングルは背中を異常に長く描いてその優美さを強調することで、絵画史上でも最も有名な裸婦像を完成させた。

  同じアングルの 「カロリーヌ・リヴィエール嬢」という肖像画にも引き込まれる。ルーブル美術館のWEBページでは、この絵のことを「少女の清新性と女性の悦楽という両義性を描いた」と解説している。

 最後に、グランド・ギャラリー経由でシュリー翼3階に向かう。 ロココを中心とした17-19世紀のフランス絵画が展示されている。

 ルーブルに寄贈された数百点のロココ絵画のなかでも、ヴァトー 「ピエロ(古称・ジル)」は、心引かれる絵画だ。白い道化服を着た等身大のピエロが、もの悲しい気な目で見る人をじっと見つめている。

 同じ18世紀ロココ時代を代表する フラゴナール 「水浴の女たち」「霊感」などにまじって、ちょっと不思議な絵が、窓際にそっと飾られていた。

  グルーズ「壊れた甕」だ。
 美しい少女が、左胸をあらわにし、乱れた服装のままでたたずんでいる。膝の上で抱えているバラの花と右腕にかけたひび割れたかめは、彼女が純潔を失ったばかりであることを表している、という。

 19世紀を代表する コローの作品は、 「真珠の女」などと並んで、一連の風景画が印象的だ。「次世代の 印象派への橋渡しをした画家」と言われるゆえんだろう。

 一番奥に、ルーブルが誇る逸品、 ラ・トウールの作品群が誇らしげに並んでいた。

 ラ・トウールは17世紀に活躍した画家だったが、その後何世紀も忘れられ20世紀初めに再認識された、という。再発見したのは、ルーブルの学芸員たち。

 明らかにカラヴァッジョの影響を受けて、光と闇に包まれた宗教画を描き続けたラ・トウールの作品のなかでも、「いかさま師」は、異色かつ不思議な作品だ。

 若い善良そうな若者に、他の3人がまさにいかさまを仕掛けようと目配せをしており、男が背中に隠したダイヤのエースのカードを抜きだそうとしている・・・。

 ルーブル美術館が主導して刊行、世界各国語に訳されている 「ルーヴル美術館 収蔵絵画のすべて」(日本語版・ディスカヴァー・ツエンティワン刊)は「『いかさま師』には3つの主題が隠されている」と解説している。

 
(それは)17世紀に最大の罪とされていた3つの悪徳、賭博、飲酒、淫蕩。・・・若者(無垢の擬人化)は自分を自分を待ち受けている悪徳に全く気づいていない。・・・ダイヤのエースを抜き取っているいかさま師の右手の先には。黄色いスカーフを頭に巻いた若い女性が2つ目の罪を表すワインを手にしている。テーブルの真ん中に座っているのは、宝石をたくさん着飾って豪華な服を着た娼婦である。彼女は女性の誘惑の象徴で、視線と手振りで、2人の仲間に今がチャンスだと合図を送っているようだ。


 NHKの番組によると、ラ・トウルが20世紀初めに再認識された時、ルーブルが所蔵していたのは 「羊飼いの礼拝」1点だけだった。

 しかし、その後全国的な募金活動をしたりして、現在は世界で十数点しかないといわれる作品のうち、ルーブルは8点を所蔵している。「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」は、パリ近郊の村の教会の壁にあったのを偶然に発見され 「ルーブル美術館友の会」が購入を決め、ルーブルに寄贈した、という。

ルーブル美術館写真集(2)
ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(リヨンでの対面);クリックすると大きな写真になります。" ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(王妃マルセイユに上陸)」;クリックすると大きな写真になります。 ヴァン・ダイク「狩り場のチャールズ1世」 フェルメール「レースを編む女」;クリックすると大きな写真になります。 フォンテンブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」;クリックすると大きな写真になります。
ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(リヨンでの対面)」 ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(王妃マルセイユに上陸)」 ヴァン・ダイク「狩り場のチャールズ1世」 フェルメール「レースを編む女」 フォンテンブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」
アングル「グランド・オダリスク」;クリックすると大きな写真になります。 同「カロリーヌ・リヴィエール嬢」;クリックすると大きな写真になります。 ジェリコー「メデューズ号の筏」;クリックすると大きな写真になります。 ドラクロア「民衆を導く自由の女神」;クリックすると大きな写真になります。 同「サルダナバロスの死」;クリックすると大きな写真になります。
アングル「グランド・オダリスク」 同「カロリーヌ・リヴィエール嬢」 ジェリコー「メデューズ号の筏」 ドラクロア「民衆を導く自由の女神」 同「サルダナバロスの死」
ヴァトー「ピエロ」;クリックすると大きな写真になります。 フラゴナール「水浴の女たち」;クリックすると大きな写真になります。 1フラゴナール「霊感」;クリックすると大きな写真になります。 グルーズ「壊れた甕」;クリックすると大きな写真になります。 コロー「真珠の女」;クリックすると大きな写真になります。
ヴァトー「ピエロ」 フラゴナール「水浴の女たち」 フラゴナール「霊感」 グルーズ「壊れた甕」 コロー「真珠の女」
16-20140428_141516.jpg ラ・トウール「羊飼いの礼拝」;クリックすると大きな写真になります。 「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」;クリックすると大きな写真になります。
ラ・トウール「いかさま師」 ラ・トウール「羊飼いの礼拝」 ラ・トウール「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」


2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

下の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
右の欄の地名をクリックすると、その場所にマークが立ちます。また、その下のをクリックすると関連した写真を見ることができます。


2009年9月 6日

ウイーン紀行②「ドウナ川、そしてクライン・ガルテン」



上の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
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世界遺産「ウイーン歴史地区」の中心にある「リングシュトラーセ(環状道路)」の沿道には、様々な時代の建築様式の建造物が並び、まるで歴史博覧会のパビリオン群のようだ。

 市役所は中世の都市の自治を象徴するゴシック様式、国会議事堂は民主主義の原点・ギリシャにならって新古典様式、ウイーン大学は文藝復興にふさわしいルネサンス様式バロック様式がいかめしい旧陸軍省(政府合同庁舎)。この建造物群は、その建築様式の時代に建造されたものではない。皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の命令で19世紀の半ばから城壁(市壁)を取り除いて次々と造られ、ちょっと、特異な都市景観を形づくっているのだ。

 この建造物を楽しむには、リングを回るトラム(路面電車)に乗るのが、手っとり早い。ウイーン大学の前をトラムがぐっと右に回ると、すぐに川にぶつかる。
「ドナウ川の向こうは、中心街と違って近代的な建物が多いですね」。ゲストルームをお借りしているパン文化史研究者、舟井詠子さんに、いささかトンチンカンだった問いかけをしたら「あれはドナウ川でなく、ドナウ運河」と。観光客も、よく間違えるらしい。さっそく、ほんもののドナウ川を見に連れて行ってもらった。

 夕方、街の中心・カールスプラッツ駅地下ターミナルで待ち合わせ、地下鉄U1に乗って10番目の駅・ドナウインゼル(ドナウ島)駅で途中下車する。2つの川の間に、中州(ドナウ島)があり、そこにかかっている橋の上に地下鉄の駅と歩道橋がある。

 川の1つは、洪水対策のために、20世紀後半に約10年をかけて掘られた全長20キロの放水路・ノイエドナウ(新ドナウ)川。島の森越しに見えるのが、ドナウ川本流。ドイツ南部の泉に始まって東欧10か国を流れ、世界遺産ドナウ・デルタ にそそぐ国際河川だ。教会の下に国際航路の大型船が停泊しているのが見える。

 長さ21キロもあるという中州、ドウナ島に降りてみる。広い公園があり、中国系らしい人たちが草地に座り込んでトランプを楽しんでいた。ここは、アジア、トルコ系の人たちのたまり場になっているらしい。
 この中州は長い間、川土を積み上げた荒地だったようだが、今では川辺に水草が繁り、生物が生きられるビオトープとして生き返っている。

 再び地下鉄に乗り、2つ目のアルテドナウ(旧ドナウ川)駅で降りる。IAEA(国際原子力機関)などが入っている国連都市(UNOシティ)のビル群を右に見ながら左折、大きな橋を渡り切って、アルテドナウの河畔に出た。

 アルテドナウは、19世紀末の治水工事でドナウ本流から切り離されて、ドナウ川の東端にできた約160ヘクタールの三日月型の湖。今ではウイーン市民の最大のレクリエーションの場になっている。
 もう午後の7時前というのに、ヨットがいくつも浮かび、艇庫からカヌーを運び出す人がおり、河畔で憩う水着姿の人、水に飛び込んで抜き手で泳ぐ人・・・。湖畔では、以前はヌーディストクラブだったという庭園でバーベキューを楽しむ風景が見られ、水辺のいくつものレストランも火曜日の夕方というのに大盛況だ。

 ぜひに、とお願いして、湖畔にある「クラインガルテン」をのぞかせてもらった。クラインガルテンはドイ語で「小さな庭」という意味。市民が公共団体から300平方メートル前後の小屋付き農園を借り、週末に野菜づくりを楽しむ。日本でも少しづつ普及しており、私も兵庫県下にあるクラインガルテンまがいの貸農園2か所ほどを借りたことがある。

 しかし、ウイーンのクラインガルテンは少し様子が違う。車の乗り入れを禁止した路地の両脇にある敷地に野菜畑は一つもなく、すべて整備された芝生と木々、季節の花であふれている。寝椅子でくつろいでいる老人や、アルテドナウで泳いできたのだろうか、バスタオルを身体に巻いたまま花の世話をしている女性の姿が垣間見える。ラウベと呼ばれる住宅も小屋と呼ぶのにはほど遠いりっぱなものばかりだ。なかには、敷地を買い取って地下室まで作った"別荘"もあるようだ。

 ネットサーフインをしてみると「調査した300区画のなかで、菜園らしいのは1区画しかなかった」という報告「州法の改正で、規制がなくなったことが生んだウイーンの特異性」というレポートもあった。ウイーンの市民が、クラインガルテンの快適性を追求して勝ち取った権利なのだろう。

   ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」で歌われる歌詞は次のように始まる。(「横顔のウイーン」=河野純一著、音楽之友社刊より)
  いとも青きドナウよ
  谷や野を越えて
  静かに波うちながら流れていく
  わがウイーンはお前に挨拶する
  銀色の流れは国々を結びつけ
  喜ばしい心が美しい岸辺ではずんでいる


 アルテドナウ河畔やクラインガルテンで、ウイーンの人たちの気持ちがウインナーワルツに乗ってはずんでいるのが見えてくるようだ。

 川の水が「青きドナウ」から程遠いのが、ちょっぴり残念だが・・・。

2008年12月13日

読書日記「建築史的モンダイ」(藤森照信著、ちくま新書)



建築史的モンダイ (ちくま新書)
藤森 照信
筑摩書房
売り上げランキング: 11150
おすすめ度の平均: 5.0
5 建築の面白さに気づかせてくれる良書。
5 住まいが先でしょう

  自宅の屋根にタンポポを並べ、赤瀬川原平の自宅の屋根をニラで覆ったユニークな建築史家兼建築家「藤森照信」の随筆集。

 「和と洋、建築スタイルの根本的違い」という項では、日本の町並みはなぜガチャガチャしていて、欧米の人々がこだわる景観を無視するのか、という疑問に答えてくれる。簡単に言うと、日本人は、新しい建築スタイルが生まれても、古いものも並行して生き続ける矛盾にまったくこだわらないからだ、という。

 著者は、こう主張する。
 あちら(ヨーロッパ)ではギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココというように建築の歴史はスタイルの歩みとして語られる。住宅も教会も役所も王宮も城も、橋の造形すら時代ごとに形を変えて変遷してゆく

 (日本でも)それまでのものが変化して新しいものが成立するところまではヨーロッパ建築と同じだが、その先が異なる。・・・日本では一度成立してしまうと生き続けるのだ。数寄屋が生まれても、書院はあいかわらず元気。時には、一軒の家の中に、書院造、数寄屋造、茶室が順に並んでいたりする

 とすると、スタイルは次々に蓄積されて、多くなるばっかりじゃないか、と心配になる。実際そうなのだが。それが日本の建築の宿命なのだと思いましょう


 ウーン。日本では和洋折衷建築をチグハグと思う人は少ない。JR京都駅が超モダンな高層ビルに建て替えられ、いささかの論議はあっても少し経つと北側の東寺などの風景になじんでしまったように思うのはそのせいなのか、となんとなく納得してしまう記述だ。

 しかし、建築史にはまったくの門外漢だが、ヨーロッパでは、時代が生んだスタイルに街ぐるみ変わってしまう、というのは本当だろうか。

 3年前に、聖書学者の和田幹男神父に引率されてローマ巡礼に旅に出た。初めてのヨーロッパ訪問だったが、確かゴシックとルネッサンス様式の違う教会が街なかで共存していて、まったく違和感がなかった印象がある。

クリックすると大きな写真になります ローマ訪問の初日。ホテルを出た道路から見た街並みと遠方に見える17世紀に再建されたという聖ペトロ大聖堂のドームが、まったく違和感がなく溶け込んでいるのに、心が膨らむような感動を覚えた記憶がある。

 同じように石を素材にしているせいだろうか。ヨーロッパの人々は、著者の言うスタイルの変化を乗り越えて、街全体の景観を大切にしてきた、という印象をその後の旅でもますます深めた。

 「ロマネクス教会は一冊の聖書だった」という項は、大いに納得した。
 「ロマネクスの教会の中はフレスコ画の図像と石を掘った彫像が充満していた」
「(初期キリスト教の)農民も商人も職人も字を読まず印刷技術もなかった時代、聖書の内容は図像を通してしか人々の間に浸透しようがなかった」


 同じローマ巡礼の旅で訪ねたアッシジの聖フランシスコ大聖堂で、同趣旨の説明を聞いた記憶がある。

 上部聖堂の壁面を埋め尽くす13世紀の画家ジョットが描く、聖フランシスコのフレスコ画を指さしながら、文盲の会衆に司祭は説教台から、その生涯を語ったという。

  「城は建築史上出自不明の突然変異」という項もおもしろい。
  姫路城なり松本城を頭に思い浮かべてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本のものでないような。国籍不明というか来歴不詳といか・・・それでいてイジケたりせず威風堂々、威はあたりを払い、白く輝いたりして


天守閣が視覚的になにかヘンに見えるのは「"高くそびえるくせに白く塗られている"」からだと、著者は「""」付きで断言する。「天守閣はある日突然、あの高さあの姿で出現したのだ。織田信長の安土城である」
なるほどなあ!天守閣は、異才・信長が生んだ突然変異だったのか!

 「茶室は世界でも稀な建築類型」「住まいの原型を考える」など、軽いタッチの筆致ながら、新鮮な驚きを誘う項目が続く本である。

2008年2月27日

読書日記「カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇」(宮下規久朗著、角川選書)

 イタリア・バロック時代の巨匠といわれるカラヴァッジョという画家を始めて知ったのは、一昨年9月、「和田幹男神父と行く『イタリア巡礼の旅』」(ステラ コーポレーション主催)というツアーに参加したのが、きっかけだった。

 著名な聖書学者である和田神父に導かれるままに古い教会にたどり着くと、薄暗い礼拝堂に掲げられたカラヴァッジョの宗教画が、かすかな光のなかに浮かびあがってくる。

 その強烈な印象が忘れられず、帰国してからカルヴァジョ研究の第一人者と言われる著者(神戸大大学院人文学研究科准教授)の本3冊を入手した。

 著者は、最新作「カラヴァッジョへの旅」の後書きにある「カラヴァッジョ文献案内」などで、この3冊について説明している。

 「私の集大成」と言う「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」(名古屋大学出版会、2004年)は、A5版、本文だけで300ページ近い大部なもの。作品の解釈なども詳しく、サントリー学芸賞や地中海ヘレンド賞を受けている。

 「カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠⑪」(小学館、2006年)は「これを越える画集は世界にない」と著者が自負する大型のカラー図版。

 カラヴァッジョ研究の総集編という「カラヴァッジョへの旅」は、各地に残る天才画家の足跡をたずねる旅で構成されている。

 ミラノに生まれ、ローマで後世に残る名品を残しながら、殺人を犯して南イタリアに逃亡。ナポリやシチリア、マルタ島でもけんかや暴力ざたなどの無頼をつくしながら描き続け、真夏のトスカーナの港町で行き倒れる。著書は、38歳の短い生涯を綴りながら、描いた作品を簡明に解説している。

 その内容を書くには、どうしても作品の図版が欠かせないが、著書からコピーすれば、やはり著作権にふれるのだろう。WEBを探していたら、サルヴァスタイル美術館という個人サイトを見つけた。画像はあまり鮮明ではないものの、カラヴァッジョの主要作品のコピーを見ることができる。

  一昨年のイタリア巡礼の後、ツアー仲間の岡本さんから詳細な記録をいただいた。それによると初めてカルヴァジョの作品に接したのは、ローマ滞在5日目。ナヴォーナ広場に近い聖ルイ教会(フランス人の教会)のなかにある5つの礼拝堂の一つの正面に「聖マタイと天使」、左の壁に「聖マタイの召命」、右に「聖マタイの殉教」と、マタイ3部作が掲げられていた。右側の献金箱にコインを入れると、電気の明かりがついて暗い闇に沈んでいた作品が浮かびあがる。

 「聖マタイの召命」は、絵画のなかの誰がキリストの召しだしを受けたのかという「マタイ論争」で有名な絵。諸説があるなかで、宮下准教授は右端でうつむきコインを数えている徴税吏の若者がマタイだと断言する。「次の瞬間、ばたんと立ち上がって、呆気にとられる仲間を背に、キリストとともにさっさと出て行くであろう」クライマックスの直前を捉えた作品、という。

 キリストが伸ばした右手は、システィーナ礼拝堂天井にミケランジェロが描いた「アダムの創造」のアダムの左手を左右半回転したもの。

 どこで読んだか、聞いたりしたのかの記憶がないのだが、この手を伸ばす構図が映画「ET」にも生かされていることでも知られている。

 ローマ滞在5日目の昼前には、聖アウグスチヌス教会で「ロレートの聖母」を見た。ひざまずく農夫の足の裏の汚れのリアリティさには、当時の「民衆が大騒ぎした」らしいが、聖母のモデルをめぐる著書の記述も興味深い。

 その日の夕方、聖マリア・デル・ポポロ教会礼拝堂で「聖パウロの改心」を見た印象は、とくに強烈だった。

 「画面を圧する大きな馬の足元に若い兵士が横たわって両手を広げている。この兵士はサウロ(後のパウロ)であり、今まさに改心しつつある」。

 その証拠に、絵に描かれた「馬丁も馬もパウロに起こった異変にきづいていないかのように動作を止めてうつむいている」。つまりこの絵は、パウロの脳のなかで起こったことを描いていると、宮下准教授。

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録第9節4章)という聖書の言葉を、ガラヴァジョは「一人の人間の内面に起こった静かなドラマに変容させてしまった」のだ。

 名画の完成度が高まるにつれてガラバッジョの無軌道ぶりは増していく。そして、友人やパトロンに何度も助けられながらも、同じ過ちを繰り返す。

 著者は終章でこう書く。「私がカラヴァッジョに引かれるのは・・・こうした彼の生涯と破滅的な人間性のためである」「私も自分が抑えられないかたちで、怒りを暴発させては・・・失敗と後悔を繰り返してきた」「誰しも『内なるカルヴァッジョ』を抱えて生きているのだ」

 宮下准教授のホームページに、ある雑誌に載った顔写真が貼り付けてある。

 「趣味は、任侠映画鑑賞」と言う無頼っぽい表情は、ウイキペディアに掲載されているカラヴァッジョの肖像画に似ていなくもない。

カラヴァッジョへの旅―天才画家の光と闇 (角川選書 416)
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5 お勧めです☆
5 画家の生涯を旅する!


カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン
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おすすめ度の平均: 5.0
5 カラッヴァジョについての最良の案内書


(追記:2013/3/10)  
 読書日記「カラヴァッジオからの旅」(千葉成夫著、五柳書院刊)
カラヴァッジオからの旅 (五柳叢書 96)
千葉 成夫
五柳書院
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 久しぶりのカラヴァッジオとの再会である。

著者のものを読むのは初めてだが、2度にわたるカラヴァッジオを訪ねる旅を綴っている。それを個人美術批判誌に連載しているうちに、表題の「カラバッジオへの旅」が刊行されたため「・・・からの旅」といった、いささか中途半端な題名になったようだ。
カラヴァッジオ作品の分析も、宮下紀久朗と一味違う。
 例えば、 「洗礼者聖ヨハネの斬首」(マルタ島、サン・ジョヴァンニ大聖堂)を見て発見したのは「色彩の二種類の美しさ」だという。
 
ひとつは、聖ヨハネの赤い布。すこし朱色のまじった、ほとんど超絶的としかいいようのない赤い色である。超絶的とは、色彩を極めていって色彩を超えるところまで到達してしまった色彩、という意味でもある。そして色彩を超えることによって「絵画」 の何かをまで超えてしまっているという意味にはかならない。この赤は、赤そのものであり、同時に赤という色を超えてしまった赤でもある。・・・
 そしてもうひとつは、背景の、というよりこの絵のひろがりそのものを作り出している色彩である。それは現実的には壁、格子窓、門、門のアーチの石組み、地面(床面)の茶色っぼい、黒っぼい色彩のことだ。この大作の面積からいうと、その部分がいちばん大きい。この色彩がうまく描けないと、絵そのものが台無しになる。左側の人物たちを描くことができても、それらを真に存在させるためには、ひとつのまとまったひろがりのなかへと着地させなければならない。そしてその「ひろがり」とは、色彩によってしか実現されえないのである。そういう「色彩」というものがある。そうして、そのような「色彩」が、とくべつの自己主張をすることなしに美しい、ということが起りうる。

「聖母の死」(パリ・ルーヴル美術館)が、現代人の心を打つのは「神々しくない」からだ、という。
 
髪はボサボサで、お腹はすこし膨れたように描かれ、美しいとはいいがたい素足の両足先が投げ出され、ありふれた、普通の死体としてころがっている。その顔は、大方の図版よりはずっと灰色に近く、骸の土気色をしている。テヴェレ河のじっさいの水死体をモデルにしたという説もある。

この絵のハイ・ライト、内容の点でいちばん光が当っているのは、いうまでもなく聖母の顔である。よく見ると、その顔には苦痛も神々しさもないかわりに、なんとも言い難い穏やかさが浮んでいる。この顔をそのように表現したことに、僕は、カラヴァッジオの鋭い直感力と天才を感ずる。

著者が「最高峰」と評価するのは、「ロレートの聖母」(ローマ・サンタゴスティーノ聖堂)
 
二人の巡礼が眼にしているのは、現実界に姿を現した聖母子というよりは、現実界に現実に存在する母子である、というように見える。・・・それはどまでに、「物語性」をこえて、「リアル」なのである。・・・
 その「リアル」さが、この絵を劇的なものではなくて、むしろ静かなものにしている。そこにいかなる大仰な身振りもなく、過剰な舞台背景もないことが、この作品の美しさをより深めている。そしてそういう深さが、静けさをもたらす。