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2014年8月19日

読書日記「バルテュス、自身を語る」(聞き手 アラン・ヴィルコンドレ、鳥取絹子訳 河出書房新社)「バルテュスとの対話」(コスタンツオ・コスタンティーニ編、北代美和子訳 白水社)「評伝 バルテュス」(クロード・ロワ著、輿謝野文子訳 河出書房新社)


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バルテュスとの対話
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バルテュスの名前を友人Mに聞き、お盆前に京都市美術館で開かれている「バルテュス展」に出かけた。

 その主な作品は「バルテュス展」のホームページにある「展覧会紹介」コーナーに掲載されているが、事前に友人Mがネットで購入していた展覧会図録を見て「なぜこんな絵を」「バルテュスってなにもの?」と、驚きが入り混じった興味がつのってきた。

描くテーマの多くが、「夢見るテレーズ」「美しい日々」など、あどけない少女たちが胸を見せ、膝をあらわにしたポーズなのだ。

 当然、発表当初からこれらの絵を巡る賛否両論が渦巻いたらしい。

 しかし、京都での展覧会では、これらの少女像や風景画に引き込まれ、個人の展覧会としては2時間半という自分でも異例の時間を過ごし、不思議な感動に包まれて美術館を後にした。

 帰ってからも、バルテュスなる人物への興味はつきず、標題の本を買ったり、図書館で借りたりすることになった。

 最初の2冊は、作家やジャーナリストによるインタビューをまとめたもの、最後のは小説家による評伝だが、やはりバルテュス描く少女たちがテーマの中心になっている。

 
人は私が描く服を脱いだ少女たちをエロチックだと言い張りました。私はそんな意図を持って描いたことは一度もありません。・・・少女たちを沈黙と深遠の光で囲み、彼女たちのまわりに目がくらむ世界を創りだしたかった。それだから私は少女たちを天使だと思っていました。(「バルテュス、自身を語る」より)


バルテュスは同じ本で「私はこれらの少女をたちとはつねに自然に、下心なく共謀してきました」とも語っている。

 「バルテュスとの対話」のなかで、バルテュスはここまで言い切る。

 
人がわたしの絵のなかに見出すエロティシズムは、それを見る人間の目、その精神、あるいはその創造力のなかにあるのです。聖パウロは言っています。淫らさは見る者の目のなかにある、と。


 
――あるフランスの雑誌によると、描いたのは天使だけだとおっしゃったそうですね。ほんとうですか?
 バルテュス ええ、そうだと思います。
  ――ちょっと淫らな天使たち?
 バルテュス なぜです?淫らなのはあなたのほうですよ!どうして天使が淫らになりえるでしょう?天使は天使なのですから。・・・わたしは宗教画家です。


 ただ、少女を「挑発的に描いた」ことが1回だけある、という。

1934年にパリ・ピエール画廊での個展に出された「ギターのレッスン」。「あまりにスキャンダラス」という批判が出るのを心配した画廊主は、この絵をカーテンの後ろに隠し、一部の人にしか見せなかった。

 
「ギターのレッスン」が引き起こしたスキャンダルは計画されたものでした。わたしはあの絵を、スキャンダルを呼ぶために描き、展示しました。ただお金が必要としていたからでしたが、私はすぐに有名になりたかった。残念なことに、あのころパリで有名になる唯一の方法はスキャンダルでした。(「バルテュスとの対話」より)


 バルテュスは、風景画「樹のある大きな風景」に見られるように、光を大切にする"光の画家"でもあった。

 
光を待ち構えることを学ばなければなりません。光の屈折。逃げていく光、そして通りすぎる光、・・・今日は絵が描けるかどうか、絵という神秘のなかで前進しているものが深まるかどうか。


 
毎朝、光の状態を見つめます。私は自然な光でしか描きません。・・・空の動きに合わせて変化し、ゆらめく光だけが絵を組み立て、光沢を与えます。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 
朝早く、まだ人びとが眠り、村を重い沈黙が支配するときには、美しい光があります。しかし、わずかの時間しか続かない光だ。・・・この冬のようにロシニエールに雪が降るとき、光は特別です。クリスタルのようで、純粋で、目を眩ませる。しかし、それははかない光。蜃気楼のように、わずかの時間しか続かない奇跡です。(「バルテュスとの対話」より)


 バルテュスは、光と同時に素描(デッサン)を大切にした。

 京都での展覧会では、生涯の友人だった彫刻家、アルベルト・ジャコメッティを描いた「アルベルト・ジャコメッティの肖像」など、多くの素描を見ることができた。

 
夢見る少女たちの顔やポーズをさまざまにデッサンする。私にとってこれ以上厳しい課題は見当たりません。・・・愛撫のように優しくデッサンするなかで、すぐに消えゆく子供時代の優美さ・・・を見いだす。・・・まだ何も知らない卵形の顔、天使の顔に近い形を、黒鉛で紙の上に見いだそうとする。


 
デッサンの仕事は絵より厳しく、おそらくより神秘的で、火、真っ赤に燃え上がる火にたどりつくことを意味します。ときに数本の線だけで火は奪われ、とらえられ、いまにも消えそうな状態でも、かすかに見てとれる閃光でもつかまえられる。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 
「常に素描(デッサン)をしなければなりません。鉛筆ではできないときは眼で素描(デッサン)しなければなりません」。・・・彼は、同時に、形態を「撫でる」ために、そして理解するために、そしてその形態と結ばれるために、そしてその形態を見抜くために、接触の暖かさそして知性の精密さを得るために、素描をするのである。(「評伝 バルテュス」より)


   バルテュスは、若い時からルーブル美術館などに通い有名画家の作品の模写を繰り返した。特に、14-16世紀に画法の中心だったフレスコ画に興味を持った。13歳の時にスイスのトウ―ン湖を望む小さな教会にフレスコ画を描こうとしたこともある。

 イタリア・フレンツエのサンタ・マリア・ノヴェラ教会パオロ・ウッチェツロ作やアッシッジのサン・フランチェスコ教会上・下院にあるチマブーエジョットの絵に「雷に打たれた」ようになり、模写を繰り返した。

 
油彩の持つ艶に対しては、つねになにか耐えがたいものを感じてきました。そのために50年代からカゼアルティ(カゼインに石灰を混ぜたもの),卵白のテンペラを使い始めたのです。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 バルテュスが若いときから学び、身体に染みついたフレスコ画の技法は、後年、バルテュスが、当時のフランス文化相だったアンドレ・マルローに委嘱されてローマに於けるフランス芸術の拠点、 ヴィラ・メディチ(メディチ館)の館長になり、すぐに始めた同館の壁の修復に生かされた。

 
メディチ館の壁面や建物の塗装にたずさわった職人たちは、バルテュスの式や数々の試みにあらわれた正確さ細やかさにすっかり敬服した。「バルテュス塗り」などというのは、二、三の塗料を混ぜ合わせてから、スポンジを使って塗る面にたたきつけたり、はけで軽く染みこませていく。そのようにして得られるのは、内にこもった振動のような感覚、表面が生きている感覚を与える彩りである。(「評伝 バルテュス」より)


 京都の展覧会での話題作品の1つが、「朱色の机と日本の女」だったが、じっくり見て驚いた。

図録では、ただ白い絵具を塗ったとしか見られなかった「日本の女」の肌が、ザラザラとした立体感のあるフレスコに似た画法で描かれていたのだ。

 この絵については、こう書かれている。

 
《朱色の机と日本の女》はバルテュスの仕事のなかで、遠近法に支配された西欧絵画と、造形的要素や色彩が奥行より重きを置かれる中国的・日本的宇宙観との間の縫目をなしている。この際の背景とモデルは、それまでにもけっこう豊富な可能性を示していた芸術家をして、新たな表現方法や新たな側面を実験させる気分にならせた。・・・ 節子、それがその人の名だった。(「評伝 バルテュス」より)


    節子とは、旧姓・出田節子さん。「朱色の机と日本の女」のモデルでもある。

 バルテュスと結婚し、その死後も2人が愛したスイスの木造建築「グランド・シャーレ」に住み、バルテュスから指導を受けた画法で絵画を描き続けている、という。

 バルテュスは、表題の著書のいくつかで、こんな言葉を繰り返している。

 
わたしは「芸術家」という言葉が大嫌いです。漫画『タンタン』(バルテュスが娘の春美さんが小さかった頃に一緒に見た本)に登場するアドック船長が使う最上級の侮辱語は「芸術家!」です。ピカソもまたこの言葉を毛嫌いしていました。「わたしは芸術家ではない、画家だ」と言ったものです。わたしも同じことが申せます。わたしは画家、あるいたよりよく言えば職人です。


 ピカソは、かなり年下のバルテュスを「二十世紀最後の巨匠」と高く評価、後にバルテュスの作品「ブランシャール家の子どもたち」を購入している。この作品は現在、フランスのパリ・マレ地区にある国立ピカソ美術館が所蔵している。

 「バルテュスとの対話」の最後は、こんな独白で終わる。「死を恐れない。私はカトリック教徒です。(肉体の死を越えた個人の来世を)信じていると思います」

 
人は神を想像したりしません。どうやったら生命を想像できるのです?神がわれわれを取り巻く現実に、自然のなかに、物と世界の美のなかに、現在それらになされている破壊にもかかわらず存在しています。神がその創造の驚異すべてを廃墟へ追いやるとお決めになった、そう思うことはわたしにはどうしてもできません。


  ▽ (付記)
朝涼やバルテュスの光こもれきて


2013年8月 2日

トルコ紀行・下「カッパドキア、そして、またイスタンンブール」


 突然、舞い込んだ家事にとらわれ、このブログもすっかりご無沙汰してしまった。

 トルコに行ってからもう3カ月も経ってしまったが「上」編を書いた以上「下」編でとりあえず、締めくくらないとなんとなく気持ちが収まらない。思いだしつつ、短くともまとめてしまおう。

 トルコ3日目の4月30日。世界遺産・ カッパドキアを見るため、昼前にトルコ中部・アナトリア高原のカイセリ空港に着いた。

 アンカラ大学日本語科出身の女性ガイド、Oya(オヤ)さんに迎えられて車に乗る。ブッシュのような低木しか生えていない荒涼とした道を進む。

 「高度が1000-1500メートルあり、木が生えない」ということだったが、どこかで見た風景だと思った。このブログを始めた5年半前に旅ををしたシルクロード・黄土高原の風景とそっくりなのだ。そういえば、この地域もヨーロッパに向かうシルクロードの一部だったのだと気づいた。

 カッパドキアは、数億年まえに噴火した火山の灰と溶岩が積み重なってできた地層が風雨の浸食でできた 凝灰岩台地といわれる地形。比較的柔らかいので、多くの洞窟が掘られているほか、長年の風雨が奇岩を作りだしている。

 最初に訪ねた国立公園 「ギョレメ屋外博物館」には、重なる山に大小数十もの 岩窟教会が残っている。

 保存のために、写真撮影が禁止なのは残念だったが、単純な十字架を描いたものから、聖書の物語を見事なフレスコ画まで、多彩な遺産である。

 ユダヤ人やローマ帝国の迫害から逃れた初期キリスト教徒から始まって、10-13世紀にかけて多くの修道僧が信仰生活を続けながら描き続けたのだ。

 帰国した後、5月19日の「精霊降臨の主日」のミサで読まれた聖書「使徒言行録」のなかに「カッパドキア(カパドキア)」の文字があったことからも、ここの教会群の歴史の古さが証明されている。

 ガイドのオヤさんに、熱気球フライトに乗らないか、と誘われた。

 今年の2月にエジプトで、過去最大の 熱気球墜落死亡事故があったばかりなので「乗らないでおこう」と"堅い"決意で来たのだが、オヤさんの熱意に負けて、翌日の早朝4時半起きで、同行4人ともバルーンに乗ることになった。

 広場に点在する十数個のバルーンが、ガスの熱を受けて浮かび上がり、お互いに接触する"危険"も見せながら、雄大な岩の奇形を上下し、風に流され約1時間。

「気持ちいいー!」。トルコ人パイロットの掛け声に、ほとんどが日本人の乗客が声を合わせる。降りると、なんと草の上に木机が出され、シャンパンまで抜かれて・・・。

 ところが、同じ場所で5月末に 気球の墜落事故が起き、英国人1人が死去した。

 旅の安全についての教訓がもう一つ。

  ユルギュップのきのこ岩(現地では、妖精の煙突と呼ばれている)を見た後、オープンしたばかりという洞窟ホテルで夕食をしていて気付いた。「財布がない!」

 翌日、帰りの空港でガイドのオヤさんに事情を話し、パスポートのコピーを渡して置いたら、なんとギョレメの観光案内所に預けられていたのを見つけてくれ、イスタンブールのホテルにカーゴ便で届けてくれた。
 今から思うとラッキー以外のなにものでもないのだが「旅は細心の注意を」という教訓が残った。

 イスタンブールに帰り、国立考古学博物館でトロイの出土品やアレキサンダー大王の石棺を鑑賞、かっては貯水池だった地下宮殿のコリンント様式の柱の敷石に使われたギリシャの女神 メドウ―サの顔にギョッとし、ブルーモスクの南にあるモザイク博物館の見事な組み込みに驚嘆した。

 そのたびに、ホテルの近くにあるゲジ公園と隣の タクシム広場を抜けて、トラムなどを利用した。

 ところが帰国後の6月初め。そのタクシム広場で大規模な 反政府デモが起きたという報道に接した。

 イスタンブールで数少ない緑の憩いを感じられるゲジ公園を2020年五輪開催を目指して商業施設を建設しようとしたことにイスラム色を強める現政権への反発が加わり、デモは一時、首都アンカラまで広がった。

 そういえば、イスタンブールに滞在中、ゲジ公園のかなりの敷地を鉄のゲートに囲まれて警官隊が常駐し「メーデーの5月1日はタクシム広場は使えそうにない」というホテルからの忠告を受けたのを思い出した。

 一触即発の状況が近付いていたなかで、我々はのんびり観光を楽しんでいたのだ・・・。

トルコ紀行写真
下に掲載した写真はクリックすると大きくなります。また、拡大写真の左部分をクリックすると一枚前の写真が、右部分をクリックすると次の写真が表示されます。キーボードの [→] [←] キーでも戻ったり、次の写真をスライドショウ的に見ることができます。


ギュレメ国立公園①;クリックすると大きな写真になります。
ギュレメ国立公園②;クリックすると大きな写真になります。
きのこ岩の奇岩;クリックすると大きな写真になります。 熱気球が上がる①;クリックすると大きな写真になります。
ギュレメ国立公園① ギュレメ国立公園② きのこ岩の奇岩 熱気球が上がる①
熱気球が上がる②;クリックすると大きな写真になります。 気球からの風景①;クリックすると大きな写真になります。 気球からの風景②;クリックすると大きな写真になります。 地下宮殿;クリックすると大きな写真になります。
熱気球が上がる② 気球からの風景① 気球からの風景② 地下宮殿
トラムのなかで;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館①;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館②;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館③;クリックすると大きな写真になります。
トラムのなかで モザイク博物館① モザイク博物館② モザイク博物館③

2012年7月 7日

読書日記「雪と珊瑚と」(梨木果歩著、角川書店刊)

雪と珊瑚と
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著者の追っかけ"をしているつもりはないのだが、この人の新しい作品が出ると読みたくなる。

 このブログで著書にふれるのは、 「西の魔女が死んだ」 「僕は、僕たちはどう生きるか」と訳書の 「ある小さなスズメの記録」に続いて4冊目になる。そのほかにも読んだ本が数冊。自分でも、いささか驚いた。

 この本の購読希望も多く、図書館に申し込んで借りられるまで3カ月待たされた。

 それぞれの筋立ては異なるが、キーとなる縦糸は変わらないような気がする。自然への憧憬や愛着、食べ物の大切さ、そして人を思いやる心・・・。

 主人公の珊瑚は、追い詰められていた。今年で21歳になったが、1年前に結婚した同い年の男は定職もなく、珊瑚が働いていたパン屋の収入を当てにしていた。男から言われて、すぐに離婚した。赤ん坊の雪は7か月。ようやくお座りができるようになったばかりだった。

 働かなければならないのに、公立の保育園も個人経営の託児所も受け入れてくれなかった。ただでさえ、少なかった貯金はみるみる底を突いてきた。

 小学校の時、母親が何も食べ物を置かずに家を出て行き、スクールカウンセラーのところでもらったトーストとミルクで生き延びたことがあった。それ以降も、自分の力でやってきた。しかし今は雪がいた。

 
貰いものの重いバギーに雪を乗せ、向かい風の吹く中を散歩しているうち、気がつけば下を向いて泣いていた。
 自分は泣いているのだ、と気づくのに、一瞬間があった。「泣く」という行為が、かつて自分のとろうとする行動の選択肢にあったためしはなく、とった行動にあったためしもなかった。


 歩いてきた通行人を避けるために、慌てて曲がった道沿いの古びた家に小さな貼り紙があった。

 「赤ちゃん、お預かりします」

 主人の薮内くららは、外国生活が長い元・カトリックの修道女。有名な聖人である アッシジの聖フランシスコを敬愛していた。くららという名前は、聖フランシスコの教えを体現化した クララ(アッシジのキアラ)からつけていた。

くららは、総菜を作る天才だった。

 珊瑚が翌日訪ねた時に出てきたのが「おかずケーキ」。具は、おかずの残り物。シチューやマッシュルームとピーマンを炒めた物、茹でたアスパラガスの残りが入っていた。

 そのやわらかいところをチキンスープに浸して、雪の口にそっと差し込んだ。二回目にスプーンを持っていくと腕を上下させ「ぶわぁ」と言った。「もっとくれ」という意思表示だった。

 クローヴを入れたスネ肉の煮込み、フェンネルのパウダー入りコールスロー。アトピーの子供に食べさせる長芋と、うるち米の粉、蜂蜜でつくったパン。
 有機栽培のキャベツの外葉(売り物にならず、捨てるところ)を炊いてどろどろにし、ベシャメル・ソースを混ぜたスープ、魚のタラとジャガイモ、サワークリームを使ったコロッケ。
 油揚げと小松菜、水菜を油なしに炒めたもの、大根の茹で汁に塩を入れただけの吸い物。小玉タマネギをコンソメスープで半透明になるまで煮たカップ入りのスープ。タコサラダに、ニンジン、クレソンンとプルーンのサラダ。ホウレンソウは大鍋で茹でて、ソテーに生クリーム煮、ポタージュ、キッシュ・・・。

くららに教えてもらいながら「これらの総菜を提供する店を作りたい」。珊瑚は、こんな夢を膨らませていった。
 周りの人たちの思いもよらない協力で、それが現実となっていく。資金は政府系機関の起業家資金400万円を借り、食品衛生責任者の講習も受けた。

店は、保護樹林付きの古い空家を借りることができた。
 庭には、時々タヌキが出た。「西の魔女」の庭や「僕は、僕たちは・・・」の「ユージン君」が住む家の庭によく似ている。

店の名前はズバリ「雪と珊瑚」。門から店までの道は雨になるとぬかるんだ。わざわざ厚底の靴を履いて来る常連に「舗装はしないでください」と頼まれた。

  常連の1人になっていたエッセイストが雑誌に掲載した文章が、評判になった。

「......そのいわば鎮守の杜になんとカフェが出来たのです。最初感じたのは、小さな憤慨と落胆でした。けれどそこでなにやら工事のようなものが始まったとき、あれ? と思いました。木が、一本も切られなかったのです......いつも閉ざされていた門扉は開け放たれ、細い小道を堂々と歩くことが出来るようになりました。小道は、普通の民家のようなカフェの入口まで続いており、天気の良い日は、鳥のさえずる声が陽の光と共に木々の枝を通して降り注ぐし、雨の降る日は、木々の菓を伝う滴の音が辺りに響いて、深い森の中にいるようです。この小道に足を踏み入れた時から、すでにカフェ 『雪と珊瑚』 は始まっているのです」


目の回るような忙しさが続いた。

 その成功を見て「あなたの無意識な計算高さ、ずる賢さ・・・が、鼻についてたまらない」とそしる手紙を送ってきた元同僚がいた。

 疲れとショックで珊瑚は寝込んでしまい、雪もひどい熱を出して夜泣きが続いた。

 それを、周りが支えた。別れた男の母親が突然現れた。養育費をと何度も申し出た。「なんだか炊きたてのご飯のように温かい人だ」と、珊瑚は思った。

 自分を捨てた母親に、開店資金を借りる保証人を頼んだら「あんたの保証ならできる」と断言した。「母性などないに等しい女性だったが、少なくとも子どもを信頼していた」

 
雪はサトイモの含め煮をスプーンにのせ、自分で口に運んだ。そしてもぐもぐと口を動かした後、呑み込むと、楽しそうに体を揺らし、歌うように繰り返した。 「おいちいねえ、ああ、ちゃーちぇ(幸せ)ねえ」


(追記①)
 この本の冒頭近くで詩人・ 石原吉郎(よしろう)の名前が突然出てきて、びっくりした。
 このブログに書いた辺見庸の 「瓦礫の中から言葉を」で紹介されていた詩人である。
 梨木果歩は、主人公の珊瑚に「私は好きでした。なんか、きゅーと気持ちが集中していく感じが」と語らせている。作者の心の琴線にどうふれ、作品に反映しているのか・・・?図書館で石原吉郎の詩集を借り直してみようと思う。

(追記②)
 この小説のちょうど真ん中あたりで、1997年に アッシジの聖フランチェスコ大聖堂を地震が襲った事件が出てくる。4人が死亡、上部大聖堂のフレスコ画が粉々になった。修道女だった薮内くららが現場で、被災者の支援活動をした、という想定だ。
 この時、多くのボランティアが30万個に及ぶフレスコ画の破片を拾い集め、修復のプロがジグソーパズルのような作業を続け、2006年4月にほとんどのフレスコ画を元に戻した。私が巡礼団に参加して、この再現されたフレスコ画を見たのは、その年の9月だった。

 くららは語る。
 
「どんな絶望的な状況からでも、人には潜在的に復興しょうと立ち上がる力がある。その試みは、いつか、必ずなされる。でも、それを、現実的な足場から確実なものにしていくのは温かい飲み物や食べ物――スープでもお茶でも、たとえ一杯のさ湯でも。そういうことも、見えてきました」 


 この小説は、東北大震災の被災者への応援歌でもあった。

 

2008年12月13日

読書日記「建築史的モンダイ」(藤森照信著、ちくま新書)



建築史的モンダイ (ちくま新書)
藤森 照信
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おすすめ度の平均: 5.0
5 建築の面白さに気づかせてくれる良書。
5 住まいが先でしょう

  自宅の屋根にタンポポを並べ、赤瀬川原平の自宅の屋根をニラで覆ったユニークな建築史家兼建築家「藤森照信」の随筆集。

 「和と洋、建築スタイルの根本的違い」という項では、日本の町並みはなぜガチャガチャしていて、欧米の人々がこだわる景観を無視するのか、という疑問に答えてくれる。簡単に言うと、日本人は、新しい建築スタイルが生まれても、古いものも並行して生き続ける矛盾にまったくこだわらないからだ、という。

 著者は、こう主張する。
 あちら(ヨーロッパ)ではギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココというように建築の歴史はスタイルの歩みとして語られる。住宅も教会も役所も王宮も城も、橋の造形すら時代ごとに形を変えて変遷してゆく

 (日本でも)それまでのものが変化して新しいものが成立するところまではヨーロッパ建築と同じだが、その先が異なる。・・・日本では一度成立してしまうと生き続けるのだ。数寄屋が生まれても、書院はあいかわらず元気。時には、一軒の家の中に、書院造、数寄屋造、茶室が順に並んでいたりする

 とすると、スタイルは次々に蓄積されて、多くなるばっかりじゃないか、と心配になる。実際そうなのだが。それが日本の建築の宿命なのだと思いましょう


 ウーン。日本では和洋折衷建築をチグハグと思う人は少ない。JR京都駅が超モダンな高層ビルに建て替えられ、いささかの論議はあっても少し経つと北側の東寺などの風景になじんでしまったように思うのはそのせいなのか、となんとなく納得してしまう記述だ。

 しかし、建築史にはまったくの門外漢だが、ヨーロッパでは、時代が生んだスタイルに街ぐるみ変わってしまう、というのは本当だろうか。

 3年前に、聖書学者の和田幹男神父に引率されてローマ巡礼に旅に出た。初めてのヨーロッパ訪問だったが、確かゴシックとルネッサンス様式の違う教会が街なかで共存していて、まったく違和感がなかった印象がある。

クリックすると大きな写真になります ローマ訪問の初日。ホテルを出た道路から見た街並みと遠方に見える17世紀に再建されたという聖ペトロ大聖堂のドームが、まったく違和感がなく溶け込んでいるのに、心が膨らむような感動を覚えた記憶がある。

 同じように石を素材にしているせいだろうか。ヨーロッパの人々は、著者の言うスタイルの変化を乗り越えて、街全体の景観を大切にしてきた、という印象をその後の旅でもますます深めた。

 「ロマネクス教会は一冊の聖書だった」という項は、大いに納得した。
 「ロマネクスの教会の中はフレスコ画の図像と石を掘った彫像が充満していた」
「(初期キリスト教の)農民も商人も職人も字を読まず印刷技術もなかった時代、聖書の内容は図像を通してしか人々の間に浸透しようがなかった」


 同じローマ巡礼の旅で訪ねたアッシジの聖フランシスコ大聖堂で、同趣旨の説明を聞いた記憶がある。

 上部聖堂の壁面を埋め尽くす13世紀の画家ジョットが描く、聖フランシスコのフレスコ画を指さしながら、文盲の会衆に司祭は説教台から、その生涯を語ったという。

  「城は建築史上出自不明の突然変異」という項もおもしろい。
  姫路城なり松本城を頭に思い浮かべてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本のものでないような。国籍不明というか来歴不詳といか・・・それでいてイジケたりせず威風堂々、威はあたりを払い、白く輝いたりして


天守閣が視覚的になにかヘンに見えるのは「"高くそびえるくせに白く塗られている"」からだと、著者は「""」付きで断言する。「天守閣はある日突然、あの高さあの姿で出現したのだ。織田信長の安土城である」
なるほどなあ!天守閣は、異才・信長が生んだ突然変異だったのか!

 「茶室は世界でも稀な建築類型」「住まいの原型を考える」など、軽いタッチの筆致ながら、新鮮な驚きを誘う項目が続く本である。