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2012年10月17日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・下



 大船渡市市赤崎町に住む金野俊さんという元中学校の校長先生に出会った。

 話しているうちに、金野さんの口からこんな言葉が飛び出した。「私は、日本人とは思っていません。 縄文人 弥生人が"和合"した子孫です」

 金野さんの話しは、東北・ 蝦夷征伐の英雄、 坂上田村麻呂と蝦夷(アイヌ)の指導者、アテルイの抗争と和解にまで及んだ。

 東北の地は1万年に及ぶ縄文文化にはぐくまれてきた土地であることに気づかされた。

 大船渡港に入るさんま漁船などが目標にするという尾崎三山。その南端の岬にある 「尾崎神社」に行ってみた。縄文人の流れをくむアイヌが神事に使う 「イナウ」に似たものが宝物として納められている、という。海岸の鳥居を抜け、揺拝殿までの境内は、このブログでもふれた 中沢新一の「アースダイバー」に書かれた縄文の霊性の世界。そんなパワー・スポットだった。

 たった3日間だけだったが、 カリタス大船渡ベース「地ノ森いこいの家」 で御世話になりながらのボランティア活動中も、縄文の昔からの「地の力」とそこで震災と闘い続ける「人の力」を不思議な思いで受けとめた。

 大船渡ベースは、カトリック大阪管区が管轄しており、管区の各教会の信者が交替でボランティアに来ているが、東京などから週末の連休を利用して来る若いサラリーマンも多い。

 初日の3日は、牡蠣の養殖をしている下船渡の漁場で、舟のアンカーや養殖棚の重しに使う土のう作り。60キロ入りの袋に浜の小石を詰め、運ぶ作業はけっこうきつい。軽いぎっくり腰になったのには参った。
 午後は、仮設住宅の草抜きをしていた女性グループと合流、堤防のすぐ後ろにある漁師の方の住宅跡の草抜き。腰をかばうのか、反対の膝まで痛くなり、裏返したバケツに座って作業をする始末。まさに「年寄りの冷や水」

 2日目は、漁師さんたちが住む末﨑町・大豆沢仮設住宅へ。倉庫を作る資材を運び上げたが、すぐれ(時雨=しぐれ)が降りだし、台風も近付いているというので、作業は中止。仮設の集会場で、仮設に住む人たち(老人が多い)の世話をする支援員の人たちと「お茶っこ(お茶飲み会)」。パソコンの写真を見せがら津波直後の話しがほとばしるように出てくる。瓦礫の山を避けて、山によじ登りながら家族や知り合いを必死に探した、という。
 午後はベースに帰り、リーダーの深堀さんが買ってきた材料キットで仮設の住民が使うベンチ作り。これも慣れない作業だったが、比較的短時間で完成し、皆でバンザイ。

 3日目は、再び大豆沢仮設住宅で、再度、倉庫造りに挑戦した。といっても、仮設住宅支援員の永井さん、志田さんの指示に従って砂利土を掘り下げてコンクリートの土台を埋め、床材を組み、支柱を打ち込み、床にベニア板を張る・・・。電動ドライバーの使い方にやっと慣れたころ、その日の作業は終了となった。

 午後の「お茶っこ」の時間に、女性支援員の村上さんが「最近ゆうれいが出る、という話しをよく聞く・・・」と言いだした。男たちは「そんなバカな」と笑いとばしたが、まだ行方不明になっている親類や知人を抱えている人は多い。「ここは多くの方が亡くなられた鎮魂の土地なのだ」と、改めて気づかされた。

「大船渡魚市場」でサンマの仕分けをしていた 鮮魚商「シタボ」の村上さん(61)は、末﨑町の家と店舗を流された。テント張りの店を再開しながら、近くの仮設住宅に来るボランティアやNPOの世話役も買って出ている。たくましい笑顔を絶やさない人だったが、津波でスーパーに勤めていた24歳の娘さんを亡くしたことを、他の人から聞くまで一言ももらさなかった。

元中学校長の金野さんが、ホテルに1枚のDVDを届けてくれた。
 地元の新聞社「東海新報社」が、社屋近くの広場から津波が襲ってくる様子を撮影したものだった。「湾内から脱出できず、転覆して亡くなった方の船も映っています。その場面では手を合わせていただければと思います」。そう書かれた手紙が添えられていた。

 「いこいの家」に常駐しているシスター(カトリックの修道女)の野上さんから「ここに来た若い方がたは、不思議に変わって帰られます」という話しをきいた。
  「ああ、アウシュヴィッツにボランティアとして来るドイツの高校生と同じだな」と思った。

 私も、少しは変われたろうか。縄文時代から培われた「地と人の力」、そして「鎮魂の思い」に揺り動かされ続けたたったの1週間だったが・・・。

 ※参考にした本
 ▽ 「白鳥伝説」 (谷川健一著、集英社刊)
 東北には、白鳥を大切にする白鳥伝説が伝えられている。その伝説を探りながら縄文・弥生の連続性を探った本。大船渡「尾崎神社」にもページを割いている。

 ▽「東北ルネサンス」(赤坂典雄編、小学館文庫)
 東北学を提唱している 赤坂典雄の対談集。
 このなかで、対談者の1人、 高橋克彦は「蝦夷は血とか民族ではなくて、・・・東北の土地という風土が拵(こしらえ)るもの」と話している。
 同じ対談者の1人の 井上ひさしは、岩手県に独立王国をつくる 「吉里吉里人」という小説を書いた意図について「我々一人ひとり、日本の国から独立して自分の国をつくるれぞということをどこかに置いておかないと、また兵隊をよこせ、女工さんをよこせ、女郎さんをよこせ、出稼ぎを言われつづけける東北になってしまうのではないか」と書いている。
 「原発の電気をよこせ」の一言は書かれていない。

尾崎神社;クリックすると大きな写真になります 鮮魚商の村上さん;クリックすると大きな写真になります 大船渡魚市場;クリックすると大きな写真になります
森閑とした尾崎神社。市内には、国の史跡に指定された縄文時代の貝塚も多い サンマの仕分けをする鮮魚商の村上さん。今年は、三陸沖の水温が高く、北海道産しか、あがっていない カモメが群れ飛ぶ大船渡魚市場。市場が古くなり、新市場を隣に建設中だが、完成まじかに震災に見舞われた
地ノ森いこいの家;クリックすると大きな写真になります 60キロの土のう;クリックすると大きな写真になります 仮設住宅の倉庫作り作業;クリックすると大きな写真になります
「地ノ森いこいの家」。ボランティア男女各8名が2食付き無料で泊れる 60キロの土のうを計66個。いや、きつい! 仮設住宅の倉庫作り作業。電動ドライバーも、慣れた手つきで?


付記・2012年11月21日

 ▽読書日記「気仙川(けせんがわ)」(畠山直哉著、河出書房新社刊)

 岩手県陸前高田市出身の写真家である著者が出した写真集。

 ちょうど、陸前高田市の隣の大船渡市のボランティアに行く準備をしていた9月中旬。 池澤夏樹の新聞書評でこの本のことを知り、図書館に購入申し込みをし、先週借りることができた。

 不思議な迫力で迫ってくる本である。前半は、著者が「カメラを持って故郷を散歩中にふと撮りたくなった」カラー写真が続く。
 ところが、ページの上半分は空白。下半分に載った風景は、もう見ることができない三陸の普通の風景・・・。戦慄が走る。

 写真の合い間に、著者が家族の安否を確認するためオートバイで故郷に向かう文章が挟み込まれている。これも、上半分は空白である。

「いまどこ?」「山形県の酒田。雪で進めなくて」「あたしは角地(かくち)。これから母さんと姉さん捜しに行くから」「え、一緒じゃないの?」「なに言ってるの」「だって避難者名簿に出てたんだから、末崎の天理教に三人一緒にいるつて」「宗教なんて信じちゃ駄目よ」「いやそうじやなくて」「後ろに待ってる人がいるから、じやあね」。あ、待って、切らないで。くそったれ。じゃあ、あれは存在する結果ではなかったのか。固い床の上で寄り添って、毛布を被っている三人なんて、いなかったというのか。あの情景を、いまさら僕の頭から消せというのか。


 真白な1ページをはさんで、写真は一変する。空白はない。

 津波が引き上げた跡の陸前高田市。瓦礫が積み重なり、民家の屋根だけが残り、杉林に自動車の残骸が押し込まれ、陸橋が浜辺の砂に埋まっている。

 これは、同じ場所の写真なのだろうか。この10月に見ただだっぴろい平野にコンクリートの建物と民家の土台だけが残っていた陸前高田市。

 しかし、行った時には切り倒されていた一本松も、大きな水門も、「幽霊が出る」といううわさが消えないホテルも、橋が流出して渡れなかった気仙川も、確かに写っている・・・。

 写真集の後半部には、文章はない。

「あとがきにかえて」には、こう書かれている。

あの時僕らの多くは、真剣におののいたり悩んだり反省したり、義憤に駆られたり他人を気遣ったしたではないか。「忘れるな」とは、あの時の自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを「忘れるな」ということなのだ。


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2012年10月13日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・上


 岩手県大船渡市の港近く。「大商人橋」のバス停を降りて10分弱のホテルは、津波で家屋が流されてコンクリートの土台だけが残る空き地にポツリと建っていた。
 昨年末に営業を再開したが、敷地周りの地盤沈下した商業地に大潮の海水が満ち、どこが入り口かさえ分かりにくい。

 ホテルの前に、盛り土をして急ごしらえで舗装された狭い2車線が走っており、その両脇はかってはにぎやかな商店街だったらしい。折れて数十センチだけ残された茶色の外灯が数メートル置きに残されている。根元に「茶屋前商店街」と刻まれていた。
 南側にある須崎川沿いの桜並木も、太い根元が無残に折れて残されている。近くに再建された寿司店の壁に、見事な桜並木を囲むように建つ家屋や商店の写真の額が飾ってあった。

 新築して営業を始めた飲食店がポツリ、ポツリと3軒ほど。それに、16軒の仮設屋台村、スーパーストアとコインランドリー、ちょっと離れてコンビニが1軒。仮設の商店街は、スーパーの再開で野菜などが売れなくなった、と聞いた。

 瓦礫は港沿いの2次処理場にほとんど移されたが、大船渡の下町にはまだ、復興にはほど遠い荒ばくとした風景が広がっている。

 10月1日の朝。ボランティア行にご一緒させてもらうことになったカトリック夙川教会(兵庫県西宮市)の一行4人(リーダーの河野さんと、水口さん、谷垣さん、野口さんの女性3人=年齢不詳につき順不同)と、教会バザーなどで販売する産地直送海産物探しを兼ねて、隣の陸前高田市に出かけた。

 巧みなドライブさばきを見せる水口さんがナビで設定した「陸前高田市市街地中心」には、だだっ広いコンクリート土台と、窓ガラスが吹き飛んだ鉄筋建物だけが残っていた。大船渡市の何倍もの広さに津波のつめあとが広がっている。

 白い建物のわきで青いシートを広げ、書類を乾かしている十人近くのマスク姿の男女がいた。ここは元の市役所。11月から取り壊しにかかり、跡地の利用は決まっていない、という。

 周辺では、大船渡でほぼ終わっている瓦礫の2次処理のためのクレーン起重機十数台が、いまだにフル活動している。

 枯れた1本松で有名になった高田松原の近くに特産品を売る仮設商店があるというので、ナビも駆使して探し回ったが、見つからない。

 「通行禁止」の綱を乗り越え、歩き回って、高田松原の"跡地"だけがやっと見つけた。少しだけ残された砂浜に枯れた松の切り株が十本近く残っているだけのすさまじい風景だ。

 「1本松のことばかりマスコミは書くけれど、あの2キロにわたる見事な砂浜がさらわれたことを、なぜ書かないのか・・・」。大船渡の寿司屋の亭主が嘆いていたのを思いだした。

 翌日、宮城県 気仙沼市に仮設店舗に鮮魚店などが集まったさかなの市場「さかなの駅」があると聞き、再度、産地直送海産物探しに出かけた。ここでしか売られていないという「サメの心臓」(別名・モウカの星)もあるらしい。

 街に入り、県道210号線と34号線が交差する場所でギョッとする風景にぶつかった。 巨大な船が、赤さびた船底を丸出しにして打ち上げられている。約60メートル、330トンもの巨大な巻き網漁船。船腹には「第十八共徳丸」とあった。
 気仙沼港から津波に流され、家屋をこわし、人をなぎ倒して北へ500メートルも流されたのだ。

 船体は、片側3本の鉄骨で支えられ、船底横にお地蔵さんの像と花が飾られ、手を合わせる人が絶えない。
 近くの保育園の保母さんによると、子供たちは、この船のことを「ころしぶね」と呼ぶ。通園バスで横を通る時に PTSD(心的外傷後ストレス障害) の症状を見せる園児もいる、という。この船を解体するのかどうかは、まだ決まっていない。

 6日に同行4人と別れ、学生時代に中学校の先生をしていた先輩を訪ねたことのある旧・ 田老町 (現在は宮古市に合併)まで、バスを乗り継いで行った。

 このブログでもふれたことがある 吉村昭の「三陸海岸大津波」にもくわしいいが、ここには、過去の津波の経験を生かし「万里の長城」の異名を持つ高さ10メートルの大防潮堤を築かれた。チリ地震津波でも被害が軽微だったことで有名になった。

 しかし、今回の地震では、津波は場所によっては高さ50メートルも越え、町は壊滅した。

 一部破壊された大堤防の上に立つと、右に田老の港と漁港、左に壊滅した町がほぼ等分に広がる。

 山が、意外に近く見える。「堤防に頼らず、まず山に逃げていたら・・・」。なんとも、せつない思いが胸を衝いた。

 「陸前高田市震災復興計画~『海と緑と太陽との共生・海浜新都市の創造』~」  陸前高田市のホームページに載っている、夢いっぱいの復興計画だ。三陸海岸各市も、同様のりっぱな復興計画をそろえている。

 しかし、防潮堤1つを取っても、県や各市、住民や漁業者の間で議論が絶えず、かんじんの高さがなかなか決まらないらしい。

 大船渡市は、比較的山に近いが、復興住宅の高台建設を巡って、市と民間の山林所有者で価格交渉が難航している、という。

 大船渡市立末崎小学校にある仮設住宅の支援員をしている永井さん(65)は、自宅再建はあきらめ、復興住宅に入るつもりだ。
 「いつ入れるやら、このままだと仮設暮らしが後5年、いやそれ以上・・・」

 たった2日間の出会いだったが、いつも明るく接してくれた永井さんの目が、少し遠くを見ているようだった。

現地の写真集
JR大船渡線・大船渡駅跡;クリックすると大きな写真になります 盛り土をした車道;クリックすると大きな写真になります 仮設の「大船渡屋台村」の朝。;クリックすると大きな写真になります さびついた大船渡線のレール;クリックすると大きな写真になります
JR大船渡線・大船渡駅跡。なにもない駅前広場は、タクシーの待機場になっていた。 盛り土をした車道。左の水中に歩道用の白いラインが見える。 仮設の「大船渡屋台村」の朝。 さびついた大船渡線のレール。バス専用道路にする話しがあるが・・
「茶屋前商店街」;クリックすると大きな写真になります 瓦礫処理;クリックすると大きな写真になります 旧陸前高田市役所;クリックすると大きな写真になります 無残な高田松原跡;クリックすると大きな写真になります
商業地の真ん中でにぎわっていた「茶屋前商店街」 陸前高田市の中心で続く瓦礫処理 旧陸前高田市役所。青いシートの下で書類の処理が続く 無残な高田松原跡。近くの橋に「国営メモリアル公園を高田松原へ」 と書かれた横幕が張られていた。
陸上を走った巻き網漁船;クリックすると大きな写真になります 旧田老町の大堤防;クリックすると大きな写真になります
気仙沼港から500メートルも陸上を走った巻き網漁船 旧田老町の大堤防に打ちつけられた瓦礫の処理は終わったが・・


2011年5月17日

読書日記「三陸海岸大津波」「関東大震災」(吉村 昭著、文春文庫)、「津波災害――減災社会を築く」(河田惠昭著、岩波新書)

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 震災のただ中にいた阪神淡路大震災の時と、なぜか違う。東北大震災の惨状を毎日のテレビを見聞きしながら、いつまでも心が落ち着かない。死者を悼み、復興を願う以上に、なぜまたこんな被害に遭遇してしまったのかという思いがふつふつとわき上がる。

 東北大震災直後にできた書店の特設コーナーをウロウロしていて見つけたのが、吉村 昭の文庫本「三陸海岸大津波」。1970年に旧中央公論社から旧題「海の壁」として出版され、2004年の文春文庫になって以来5万冊が出ていたが、この2カ月で15万冊を増刷する大ベストセラーになってしまった。明治から昭和にかけて三陸海岸を襲った津波の生存者などを訪ねて取材した事実、証言に圧倒される。
 この15日の朝日新聞書評欄でも「ひたすら『事実』だけが語られていながら、かといって単に客観的な『記録』とは異なる、・・・これは『記録=文学』なのだ」と書かれていた。

 
六十歳の木村トラという女性は、突然流れこんできた海水に驚いて十歳と五歳の孫を首にかじりつかせ鴨居にとびついた。水は見る間に上昇して顎(あご)にまで達した。
これまでと観念した時、家が浮き上がって流れ出した。沖にさらわれれば一命はなかったのだが、幸いにも家が石づくりの井戸の台にひっかかって止まった。・・・トラは、孫を抱えると家を飛び出し、屈強な男子でも上がることのできない背後の絶壁をよじのぼって死をまぬがれた。


死体の多くは、芥や土砂に埋もれていた。・・・掘り起こしても死体が発見されない場合が多い。
そのうちに経験もつみ重ねられて、・・・。死体からは脂肪分がにじみ出ているので、それに着目した作業員たちは地上に一面に水を流す。そして、ぎらぎらと油の涌く個所があるとその部分を掘り起こし、埋没した死体を発見できるようになったのだ。


三陸沿岸を旅する度に、私は、海に向かって立つ異様なほどの厚さと長さを持つ鉄筋コンクリートの堤防に眼をみはる。・・・が、その姿は一言にして言えば大袈裟(おおげさ)すぎるという印象を受ける。
 私は、その対比に違和感すらいだいていたが、同時にそれほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐さに背筋の凍りつくのを感じた。


 その防潮堤でさえ、今回の大津波は乗り越えてしまった。
 私が住む芦屋市は、確率60%で東海・東南海・南海同時地震が襲う可能性がある地域である。市関連機関が住民に配った資料では、我が家は海抜15メートル地区。今回の震災直後に再選された市長は、避難路などを見直す動きなどまったく見せない。

 「津波災害――減災社会を築く」の著者、河田惠昭(よしあき)さんは、京都大学防災研究所長を経て、現在は関西大学安全学部長。 「阪神・淡路大震災祈念 人と防災未来センタ」長を兼務しておられる。
 この本は、昨年2月に発生したチリ沖地震津波をきっかけに、昨年12月に出版された。初版の帯封には「必ず、来る!」というコピーが躍り「まえがき」にも「東海・東南海・南海地震津波や三陸津波の来襲に際して、万を越える犠牲者が発生しかねない」と書かれ、いささかセンセーショナルなのではという批判もあったそうだが、不幸にも専門家のカンはピタリと当たり、その警告は生かされなかった。

 この本には、今回の東北大震災で我々がテレビを通して目にした惨状が津波への正常な知識があれば防ぐことができた"人災"であることを、無残なほどあらわに予見している。

高さ五メートルの防波堤に高さ八メートルの津波が押し寄せた場合、津波はこの防波堤を乗り越える。そのとき変化が起こる。防波堤に津波が衝突すると、海底から深さ五メートルまでの津波の水粒子が防波堤で止められて前に進めなくなる。その瞬間、海底から五メートルまでの津波の運動エネルギーは位置エネルギーに変換される。このため、防波堤上で海面が三メートルよりもさらに盛り上がって通過することになる。
そして、防波堤を超えた瞬間に水塊が三メートル以上の落差をもって港内側に落下するので、激しく防波堤の脚部を洗うことになる。下手をすると海底の洗掘が発生し、防波堤が横倒しになってしまうことが起こる。


三陸沿岸は「宿命的な」津波常襲地帯であるといえる。それは、湾岸地域が津波を増幅させる屈曲に富んだリアス式海岸だからというだけではない。遥か沖合の水深数千メートルの海域が津波を集中させる海底地形となっているのである。これは、近地津波はもとより、太平洋沿岸各地で津波が発生し、遠地津波として伝播してくるとき、必ずこの海域で増幅することを示している。このように沖合で津波が増幅し、沿岸でも増幅するという津波の「二重レンズ効果」が三陸沿岸では起こる。


 そして、津波についての正確な知識を周知し、日頃から訓練していれば、避難さえすれば助かる「生存避難」につながる、と強調。「車で避難して渋滞に巻き込まれたら、徒歩で避難する」など、具体的なルールの徹底を繰り返して警告している。

 しかし、こんな記述もある。
したがって、津波防波堤のある大船渡、久慈(工事中)や釜石を除いて、世界屈指の津波危険地域であると言える。

防災危機の専門家でさえ、今回の"想定外"の津波は想定できなかった、ということだろうか。それだけに、今回の災害にすごさに「背筋が凍る」思いを新たにする。

 最後の第4章に書かれた「もしも東京に大津波が来たら・・・」にも、震えが来る。
津波はん濫が最初に襲うのは臨海コンビナートである。津波のはん濫水もしくは一緒に移動する船舶が、石油精製施設、化学物資合成施設やそれにつながるパイプ群を破壊し、ここから出火する危険がある。もっとも怖いのは致死性の有毒ガスの漏出である。


 
私はかねてから『水は昔を覚えている』と主張してきた。昔、海だったところや湿地帯だったところに市街地が発達しても、いったん、洪水や高潮、津波はん濫が起こると、・・・また海や湿地帯に戻るということである。

 ゼロメートル地帯や江戸時代に湿地帯や海中に位置していた約70もの地下鉄の駅が水没する危険がある、という。

 吉村 昭の「関東大震災」は、これらの予想がすでに現実に起こったことであることを如実に示す歴史証言である。

 本所被服廠で、避難者が持ち込んだ家具による火災で死んだ3万8千人のひとたち、浅草・吉原公園の池で幾重にも重なって死んでいった500人近い娼婦たち、累々たる死体を処理した事実を記載する1章・・・。
   そして、根拠のないデモの広がりによる日本人の暴動で死んだ朝鮮の人たち、この震災をきっかけに殺された社会運動家・ 大杉 栄。

 忘れていた、そして忘れてはいけない震災の歴史を、これらの本で記憶を新たにする。

2011年4月24日

読書日記「生まれ出づる悩み」(有島武郎著、新学社文庫)。そして「アート・エード・東北」構想


生れ出づる悩み (集英社文庫)
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 市立図書館の一般開架ではなく、書庫に埋もれていた明治時代の有島武郎の本を借りる気持ちになったのは、今回の東北大震災について書かれた記事がきっかけだった。

 3月26日付け読売新聞朝刊に芥川喜好・編集委員が連載している「時の余白に」というコラムで「〝災害の深い喪失の中から立ち上がった″漁師出身の油絵画家・木田金次郎」がこの本のモデルと書かれていた。

 
私が君に始めて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。・・・  君は座につくとぶっきらぼうに自分のかいた絵を見てもらいたいと言い出した。君は片手ではかかえ切れないほど油絵や水彩画を持ちこんで来ていた。・・・
 君がその時持って来た絵の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚がある。それは八号の風景にかかれたもので、・・・。単色を含んで来た筆の穂が不器用に画布にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中には決して存在しないと言われる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのままべとりとなすり付けてあったりしたが、それでもじっと見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その絵が与える全体の効果にもしっかりとまとまった気分が行き渡っていた。悒鬱(ゆううつ)――十六七の少年には哺(はぐく)めそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずる事ができた。
 しかし、この少年が作者の前から姿を消して十年後。突然、舞い込んだ3冊の手製のスケッチ帳と1通の手紙を見て、作者は北海道・岩内の地を訪ねる。少年は、逞しい漁師に成長していたが、絵を描くことへの熱情は失っていなかった。

 
「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山をじっとこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。だれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪(ふんだく)るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくりおら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけです」

 怒涛のような嵐のなかで船を操って九死に一生を得たり、家族や周辺で数えきれない不幸に出会ったりしながら、山への自然への憧れを捨てずに絵筆を握る漁師の異常ともいえる激情を綴られていく。
そして、小説は、以下の1節で終わる。

 
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈る。


 有島武郎は、大正12年に軽井沢の別荘で情死する。それをきっかけに漁師・木田金次郎は、画家として独立することを決意する。

 しかし、有島が祈った″春″は、とんでみないかたちでやってきた。

 芥川編集委員の記事には、こう記されている。
 
昭和29年の洞爺丸台風で岩内大火に遭い、千五、六百点という作品の一切を家とともに焼失した時、61歳でした。町は壊滅し、彼も丸裸になった。翌朝、焼け跡にへたりこむ木田の写真が残されている。
 その直後から彼は圧倒的に再び描き出し、人生の残り8年で代表作のすべてを生み出したのです。筆が猛然と画面を走り、線の激しい交錯のうちに豊潤きわまりない空間が開けます。


   金次郎が生涯を過ごした北海道岩内町に設立された「木田金次郎美術館」掲載されている 「大火直後の岩内港」という作品を見ていると、東北・三陸海岸の港の写真が二重写しで浮かんでくる。

 この記事を読んだのと同じころに、前回のブログにも書いた神戸・島田ギャラリー ・島田誠さんのメールマガジンが届いた。島田さんは、文化で被災地に貢献する「アート・エイド・東北」という構想を進めている、という。

 この構想は、島田さんらが阪神大震災直後の1995年2月に立ちあげた 「アート・エイド・神戸」の実績から実現に向けて動きだそうとしている。

 「アート・エイド・神戸」の活動については、島田ギャラリーのホームページに詳しいが、市民や企業からの寄付や事業収入、復興資金からの助成などを財源に、チャリティー美術展、被災アーティストへの支援(1人10万円)、被災詩集の出版などの事業を実施した。2001年に活動を終了した今でも様々な文化振興の輪は広がり続けている。

 今月初めには「アート・エイド・東北」の実現に向けた話し合いも持たれた。
 東北の文化施設の多くが被災し、再開のメドがたっていないことや、東北在住のアーティストにはキャンセルが相次ぎ、仕事を失ったことが報告された。とりあえず、来年3月までに行われるプロジェクトに総額100万円(1件20万円を限度)、来年4月以降に実施されるプロジェクトに総額100万円(同)を助成することを目標にすることになった。5月初めには「アート・エイド・東北」を立ち上げることを目標にしている。

 島田さんは、阪神大震災直後に「このような時期になぜアートなのか」という疑問に「人は生きていくには空気や水やパンが必要だが、それだけでは生きていけない。心の問題、すなわち希望が大切だ」と答えた、という。

 そして、神戸新聞で連載しているコラムで「お金の品格」と題して「寄付する喜び」について語っている。

 寄付をした人々が播いた1粒、1粒の種が芽をふき、被災者のよろこびに育つことを願う。