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2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

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② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
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⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
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⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2016年5月26日

 展覧会紀行「日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展」(於・ 国立西洋美術館、2016年5月21日)



   日本を代表する聖書学者である 和田幹男神父に引率された巡礼ツアーで、ローマの街を回り カラヴァッジョの作品に魅了されて、もう10年になる。

 今回、日本に来たのは接したことがなかった作品ばかりだった。ぜひ見たいと思い、世界遺産への登録が確実になった ル・コルビュジェ作の 国立西洋美術館に出かけてみた。

 上野のお山は、東京都立美術館で「伊藤若冲展」という待ち時間3時間半というばけものみたいな催しがあることもあって、週末の金曜日というのにごった返していた。

 幸い西洋美術館には、約30分並んで入場できた。

 一番、観客の目を惹きつけているのが、「法悦の マグダラのマリア」(1606年、個人蔵)だ。長年、この作品が本当にカラヴァッジョ作であるかどうかが専門家の間で議論されてきたが、ロベルト・ロンギ財団理事長でカラヴァッジョ研究の第一人者であるミーナ・グレゴーリ女史から本物であるというお墨付きが出て、この展覧会が世界初公開となった。

法悦のマグダラのマリア
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 所有者は「ヨーロッパのある一族の私的コレクションのひとつ」としか明かされていないから、この作品を見られるのは、これが最初で最後かもしれない。

 グレゴーリ女史が「真作」と確定した根拠は、第一に、キャンバスの裏にあるチラシに1600年代特有の書法で書かれた署名。第二に、その色使いや手法。「マグダラのマリア」は頭を後方にそらし、その眼は半閉じ状態で、口はわずかに開いている。両肩をのぞかせ、両手を組み、髪の毛は乱れている。服装は白のワンピースに、カラヴァッジョがいつも使う赤の絵具のマント。

 作品をじっと見てみると、右の眼から一滴の涙が流れ落ちようとしており、唇を半開きにしており「法悦」というより、まさに死を迎える寸前の「悔恨」の表情に見えた。

 カラヴァッジョが殺人を犯してローマを追われ、逃避行の末に死んだ時、荷物のなかに残っていた絵画3点のうち1つがこの作品だった。

 最近、マグダラのマリアについての本を読んだり、講演を聞く機会が何度かあった。

 それによると、これまで娼婦としてさげすまれてきたマグダラのマリアは、実はキリストの最後の受難に勇気をもって見届けた聖女で会った、という考えが出てきている、という。

 カラヴァッジョが現代に生きていたら、別のマグダラのマリア像を描くかもしれない。

   もう一つ、どうしても見たかったのが、「エマオの晩餐」(1606年、ミラノ・ブレラ絵画館)だった。

エマオの晩餐 -1
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 新約聖書のルカ福音書24章13-31によると「イエスが十字架につけられた3日後、2人の弟子がエルサレルからエマオの街に向かって歩いている時、イエスが現れたが、2人にはイエスと分からなかった。一緒に宿に泊まり、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂き、2人に渡した。その時、2人はやっとイエスと分かったが、その姿は見えなくなった」

 実はカラヴァッジョは、「エマオの晩餐」(1606年、ロンドン・ナショナルギャラリー)をもう1枚描いている。イエスはミラノのものよりずっと若く描かれ、光と影のコントラストも明快で明るい。

エマオの晩餐 -2
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 今回の展覧会に出された「果物籠を持つ少年」(1593-94年、ローマ・ボルゲーゼ美術館)や「バッカス」(1597-98頃、フレンツエ・ウフィツイ美術館)に見られる、光と影のなかに浮かびあがる躍動感が印象的だ。

果物籠を持つ少年                 バッカス
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 しかし、ミラノの「エマオの晩餐」は、暗い闇が広がる中に、イエスの静謐な顔だけが柔らかい光のなかに浮かびあがる。

 展覧会のカタログでは「消えた後になってはじめてキリストが『心の目』によって認識できたことが示されている」と、解説されている。

 このほかにも、まさしくカラヴァッジョしか描けなかったであろう多くの作品を堪能できる。

 「エッケ・ホモ」(1605年頃、ジェノヴァ・ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮)は、ヨハネ福音書19章5-7の一節から描かれた。

エッケ・ホモ
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 右側の老人、ピラトは大声で叫ぶ。「この人を見よ(エッケ・ホモ)・・・私はこの男に罪を見いだせない」。しかし、民衆はさらに叫ぶ「十字架につけろ。十字架につけろ」
 イエスは、すでに茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せかけられようとしている。しばられたイエスが持つ、竹の棒はなんだろうか。

 「洗礼者聖ヨハネ」(1602年、ローマ・コルシーニ宮国立古典美術館)は、長年、その"帰属"について論議があった作品。漆黒の闇のなかに、柔らかな光に包まれた若い肉体が浮かび上がる。憂いを帯びた表情は、聖職者で長年会わなかった弟を模したものともいわれる。

洗礼者聖ヨハネ
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 「女占い師」(1597年、ローマ・カピトリーノ絵画館)は、2年前にパリのルーブル美術館で見た同じ名前の作品とポーズはそっくりだが、衣装や背景が異なっている。モデルも違うらしい。

女占い師 -1
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女占い師 -2
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   「トカゲに噛まれる少年」や「ナルキッソス」(1599年頃、ローマ・バルベリーニ宮)国立古典美術館)、「メドウ―サ」(1597-98年頃、個人蔵)など、カラヴァッジョ・ワールドをたっぷりと堪能できた。

トカゲに噛まれる少年            ナルキッソス           メドウ―サ
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 今回の展覧会には、カラヴァジェスキと呼ばれるカラヴァッジョの画法を模倣、継承した同時代、次世代の画家の作品も多く展示されている。

 なんと、そのなかに ラ・トウ―ルの作品を見つけたのには驚いた。

 ラ・トウ―ルのことは、この ブログでもふれたが、パリ・ルーブル美術館の学芸員が、何世紀の忘れられていたこの作家を再発見した。

 今回の展覧会では、「聖トマス」(1615-24年頃、東京・国立西洋美術館)と「煙草を吸う男」(1646年、東京富士美術館)の2点が展示されていた。

聖トマス            煙草を吸う男
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 カラヴァッジョとは一味違う炎と光の世界の作品を所蔵しているのが、いずれも日本の美術館だったとは・・・。

2008年12月13日

読書日記「建築史的モンダイ」(藤森照信著、ちくま新書)



建築史的モンダイ (ちくま新書)
藤森 照信
筑摩書房
売り上げランキング: 11150
おすすめ度の平均: 5.0
5 建築の面白さに気づかせてくれる良書。
5 住まいが先でしょう

  自宅の屋根にタンポポを並べ、赤瀬川原平の自宅の屋根をニラで覆ったユニークな建築史家兼建築家「藤森照信」の随筆集。

 「和と洋、建築スタイルの根本的違い」という項では、日本の町並みはなぜガチャガチャしていて、欧米の人々がこだわる景観を無視するのか、という疑問に答えてくれる。簡単に言うと、日本人は、新しい建築スタイルが生まれても、古いものも並行して生き続ける矛盾にまったくこだわらないからだ、という。

 著者は、こう主張する。
 あちら(ヨーロッパ)ではギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココというように建築の歴史はスタイルの歩みとして語られる。住宅も教会も役所も王宮も城も、橋の造形すら時代ごとに形を変えて変遷してゆく

 (日本でも)それまでのものが変化して新しいものが成立するところまではヨーロッパ建築と同じだが、その先が異なる。・・・日本では一度成立してしまうと生き続けるのだ。数寄屋が生まれても、書院はあいかわらず元気。時には、一軒の家の中に、書院造、数寄屋造、茶室が順に並んでいたりする

 とすると、スタイルは次々に蓄積されて、多くなるばっかりじゃないか、と心配になる。実際そうなのだが。それが日本の建築の宿命なのだと思いましょう


 ウーン。日本では和洋折衷建築をチグハグと思う人は少ない。JR京都駅が超モダンな高層ビルに建て替えられ、いささかの論議はあっても少し経つと北側の東寺などの風景になじんでしまったように思うのはそのせいなのか、となんとなく納得してしまう記述だ。

 しかし、建築史にはまったくの門外漢だが、ヨーロッパでは、時代が生んだスタイルに街ぐるみ変わってしまう、というのは本当だろうか。

 3年前に、聖書学者の和田幹男神父に引率されてローマ巡礼に旅に出た。初めてのヨーロッパ訪問だったが、確かゴシックとルネッサンス様式の違う教会が街なかで共存していて、まったく違和感がなかった印象がある。

クリックすると大きな写真になります ローマ訪問の初日。ホテルを出た道路から見た街並みと遠方に見える17世紀に再建されたという聖ペトロ大聖堂のドームが、まったく違和感がなく溶け込んでいるのに、心が膨らむような感動を覚えた記憶がある。

 同じように石を素材にしているせいだろうか。ヨーロッパの人々は、著者の言うスタイルの変化を乗り越えて、街全体の景観を大切にしてきた、という印象をその後の旅でもますます深めた。

 「ロマネクス教会は一冊の聖書だった」という項は、大いに納得した。
 「ロマネクスの教会の中はフレスコ画の図像と石を掘った彫像が充満していた」
「(初期キリスト教の)農民も商人も職人も字を読まず印刷技術もなかった時代、聖書の内容は図像を通してしか人々の間に浸透しようがなかった」


 同じローマ巡礼の旅で訪ねたアッシジの聖フランシスコ大聖堂で、同趣旨の説明を聞いた記憶がある。

 上部聖堂の壁面を埋め尽くす13世紀の画家ジョットが描く、聖フランシスコのフレスコ画を指さしながら、文盲の会衆に司祭は説教台から、その生涯を語ったという。

  「城は建築史上出自不明の突然変異」という項もおもしろい。
  姫路城なり松本城を頭に思い浮かべてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本のものでないような。国籍不明というか来歴不詳といか・・・それでいてイジケたりせず威風堂々、威はあたりを払い、白く輝いたりして


天守閣が視覚的になにかヘンに見えるのは「"高くそびえるくせに白く塗られている"」からだと、著者は「""」付きで断言する。「天守閣はある日突然、あの高さあの姿で出現したのだ。織田信長の安土城である」
なるほどなあ!天守閣は、異才・信長が生んだ突然変異だったのか!

 「茶室は世界でも稀な建築類型」「住まいの原型を考える」など、軽いタッチの筆致ながら、新鮮な驚きを誘う項目が続く本である。

2008年7月27日

読書日記「止島」(小川国夫著、講談社)


 今年4月に80歳で亡くなった作者の略歴を見ると、旧制静岡高等学校に入学直後にカトリックの洗礼を受けられたようだ。霊名は、おそれ多くも私と同じアウグスチノ。

 小川国夫氏は、カトリックとプロテスタント諸教会が取り組んだ新共同訳聖書の国語委員でもあった。翻訳者兼編集委員として一緒に仕事をされた和田幹男・聖トマス大学名誉教授(カトリック箕面教会主任司祭)は「不必要な言葉を削り、詩的に文章を構成される節度ある作業が印象的。言葉を非常に大切にされる方だった」と追悼されていた。

 この話を聞いた直後に、遺作短編集「止島」と遺作随想集「虹よ消えるな」が同時発売された。地味な作風もあるのか、図書館ですぐに借りることができた。

 最初の「葦枯れて」は、収録されている10作品中唯一の時代小説。戦乱の末に、敵味方に分かれた幼なじみのいとこを殺した自分を責めてあちこちで告白を続け、ついにいとこの弟に殺されてしまう。犯した罪の懺悔をやめないやさしきキリスト者を思う。

  残りの9作は、郷里での出来事や思い出で綴られる。

 「琴の想い出」は、祖父の家に出入りしていた車夫・亀さんの孫、琴との淡い恋と別れを描く。祖父が死んだ夜、訪ねてきた亀さんが立ち去るのを見て「私の胸には琴の暗さがよみがえりました。忘れていないまでも、おおかた過去になっていた暗さでしたが・・・」

 「止島」は、いくしむように可愛がられた祖母が病気になり、深い孟宗竹の藪に囲まれた二階家に閉じ込められたように寝たきりでいる話し。それを見舞う作者。「本当か、裏二階に怖気をふるったのではないのか。裏二階は止島にされちまったんじゃないのか。お前も、胸に手を当てて考えてお見」。そして祖父の死。二人をモデルにしてやさしく、かなしい生と死を描く。

 これは、私小説なのだろうか。ちょっと違うような気もするが、よく分からない。

 「未完の少年像」では、作者の小説観が語られる。ある障害者施設で講演をした後、旧制高校の同級生だった園長と文学談義が始まる。
 文章を書く場合は、必ずあて先があります。ところが、小説を書く場合は、ブカブカする浮島の上を歩いているかのようで、とりとめがないのです。

 所詮小説は言葉による実験です。何を書いたっていい、自由な世界なのです。だから甘えが出てしまい、かえって本来の厳密さを見失ってしまうのです。

 随想集「虹よ消えるな」には、もう少し分かりやすい説明がされている。
小説家とは、自己の見聞を書く者ということです。たとえば私は私の祖母を見ていますし、その声を聞いています。・・・ですから・・・祖母から書き始めなければならないと気付いたのです。彼女から始めて、今後の私の見聞は孫の世代に及ぶでしょうから、その間ざっと百五十年です。・・・一人の小説家の目と耳は意外と長い時間に及ぶものだなあ、と思います。

 小説家として生きることを書くことは、これほど厳密に、ひと時、ひと事を見続けることなのかということを、心に深く思いいたされる。

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2008年2月27日

読書日記「カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇」(宮下規久朗著、角川選書)

 イタリア・バロック時代の巨匠といわれるカラヴァッジョという画家を始めて知ったのは、一昨年9月、「和田幹男神父と行く『イタリア巡礼の旅』」(ステラ コーポレーション主催)というツアーに参加したのが、きっかけだった。

 著名な聖書学者である和田神父に導かれるままに古い教会にたどり着くと、薄暗い礼拝堂に掲げられたカラヴァッジョの宗教画が、かすかな光のなかに浮かびあがってくる。

 その強烈な印象が忘れられず、帰国してからカルヴァジョ研究の第一人者と言われる著者(神戸大大学院人文学研究科准教授)の本3冊を入手した。

 著者は、最新作「カラヴァッジョへの旅」の後書きにある「カラヴァッジョ文献案内」などで、この3冊について説明している。

 「私の集大成」と言う「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」(名古屋大学出版会、2004年)は、A5版、本文だけで300ページ近い大部なもの。作品の解釈なども詳しく、サントリー学芸賞や地中海ヘレンド賞を受けている。

 「カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠⑪」(小学館、2006年)は「これを越える画集は世界にない」と著者が自負する大型のカラー図版。

 カラヴァッジョ研究の総集編という「カラヴァッジョへの旅」は、各地に残る天才画家の足跡をたずねる旅で構成されている。

 ミラノに生まれ、ローマで後世に残る名品を残しながら、殺人を犯して南イタリアに逃亡。ナポリやシチリア、マルタ島でもけんかや暴力ざたなどの無頼をつくしながら描き続け、真夏のトスカーナの港町で行き倒れる。著書は、38歳の短い生涯を綴りながら、描いた作品を簡明に解説している。

 その内容を書くには、どうしても作品の図版が欠かせないが、著書からコピーすれば、やはり著作権にふれるのだろう。WEBを探していたら、サルヴァスタイル美術館という個人サイトを見つけた。画像はあまり鮮明ではないものの、カラヴァッジョの主要作品のコピーを見ることができる。

  一昨年のイタリア巡礼の後、ツアー仲間の岡本さんから詳細な記録をいただいた。それによると初めてカルヴァジョの作品に接したのは、ローマ滞在5日目。ナヴォーナ広場に近い聖ルイ教会(フランス人の教会)のなかにある5つの礼拝堂の一つの正面に「聖マタイと天使」、左の壁に「聖マタイの召命」、右に「聖マタイの殉教」と、マタイ3部作が掲げられていた。右側の献金箱にコインを入れると、電気の明かりがついて暗い闇に沈んでいた作品が浮かびあがる。

 「聖マタイの召命」は、絵画のなかの誰がキリストの召しだしを受けたのかという「マタイ論争」で有名な絵。諸説があるなかで、宮下准教授は右端でうつむきコインを数えている徴税吏の若者がマタイだと断言する。「次の瞬間、ばたんと立ち上がって、呆気にとられる仲間を背に、キリストとともにさっさと出て行くであろう」クライマックスの直前を捉えた作品、という。

 キリストが伸ばした右手は、システィーナ礼拝堂天井にミケランジェロが描いた「アダムの創造」のアダムの左手を左右半回転したもの。

 どこで読んだか、聞いたりしたのかの記憶がないのだが、この手を伸ばす構図が映画「ET」にも生かされていることでも知られている。

 ローマ滞在5日目の昼前には、聖アウグスチヌス教会で「ロレートの聖母」を見た。ひざまずく農夫の足の裏の汚れのリアリティさには、当時の「民衆が大騒ぎした」らしいが、聖母のモデルをめぐる著書の記述も興味深い。

 その日の夕方、聖マリア・デル・ポポロ教会礼拝堂で「聖パウロの改心」を見た印象は、とくに強烈だった。

 「画面を圧する大きな馬の足元に若い兵士が横たわって両手を広げている。この兵士はサウロ(後のパウロ)であり、今まさに改心しつつある」。

 その証拠に、絵に描かれた「馬丁も馬もパウロに起こった異変にきづいていないかのように動作を止めてうつむいている」。つまりこの絵は、パウロの脳のなかで起こったことを描いていると、宮下准教授。

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録第9節4章)という聖書の言葉を、ガラヴァジョは「一人の人間の内面に起こった静かなドラマに変容させてしまった」のだ。

 名画の完成度が高まるにつれてガラバッジョの無軌道ぶりは増していく。そして、友人やパトロンに何度も助けられながらも、同じ過ちを繰り返す。

 著者は終章でこう書く。「私がカラヴァッジョに引かれるのは・・・こうした彼の生涯と破滅的な人間性のためである」「私も自分が抑えられないかたちで、怒りを暴発させては・・・失敗と後悔を繰り返してきた」「誰しも『内なるカルヴァッジョ』を抱えて生きているのだ」

 宮下准教授のホームページに、ある雑誌に載った顔写真が貼り付けてある。

 「趣味は、任侠映画鑑賞」と言う無頼っぽい表情は、ウイキペディアに掲載されているカラヴァッジョの肖像画に似ていなくもない。

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(追記:2013/3/10)  
 読書日記「カラヴァッジオからの旅」(千葉成夫著、五柳書院刊)
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 久しぶりのカラヴァッジオとの再会である。

著者のものを読むのは初めてだが、2度にわたるカラヴァッジオを訪ねる旅を綴っている。それを個人美術批判誌に連載しているうちに、表題の「カラバッジオへの旅」が刊行されたため「・・・からの旅」といった、いささか中途半端な題名になったようだ。
カラヴァッジオ作品の分析も、宮下紀久朗と一味違う。
 例えば、 「洗礼者聖ヨハネの斬首」(マルタ島、サン・ジョヴァンニ大聖堂)を見て発見したのは「色彩の二種類の美しさ」だという。
 
ひとつは、聖ヨハネの赤い布。すこし朱色のまじった、ほとんど超絶的としかいいようのない赤い色である。超絶的とは、色彩を極めていって色彩を超えるところまで到達してしまった色彩、という意味でもある。そして色彩を超えることによって「絵画」 の何かをまで超えてしまっているという意味にはかならない。この赤は、赤そのものであり、同時に赤という色を超えてしまった赤でもある。・・・
 そしてもうひとつは、背景の、というよりこの絵のひろがりそのものを作り出している色彩である。それは現実的には壁、格子窓、門、門のアーチの石組み、地面(床面)の茶色っぼい、黒っぼい色彩のことだ。この大作の面積からいうと、その部分がいちばん大きい。この色彩がうまく描けないと、絵そのものが台無しになる。左側の人物たちを描くことができても、それらを真に存在させるためには、ひとつのまとまったひろがりのなかへと着地させなければならない。そしてその「ひろがり」とは、色彩によってしか実現されえないのである。そういう「色彩」というものがある。そうして、そのような「色彩」が、とくべつの自己主張をすることなしに美しい、ということが起りうる。

「聖母の死」(パリ・ルーヴル美術館)が、現代人の心を打つのは「神々しくない」からだ、という。
 
髪はボサボサで、お腹はすこし膨れたように描かれ、美しいとはいいがたい素足の両足先が投げ出され、ありふれた、普通の死体としてころがっている。その顔は、大方の図版よりはずっと灰色に近く、骸の土気色をしている。テヴェレ河のじっさいの水死体をモデルにしたという説もある。

この絵のハイ・ライト、内容の点でいちばん光が当っているのは、いうまでもなく聖母の顔である。よく見ると、その顔には苦痛も神々しさもないかわりに、なんとも言い難い穏やかさが浮んでいる。この顔をそのように表現したことに、僕は、カラヴァッジオの鋭い直感力と天才を感ずる。

著者が「最高峰」と評価するのは、「ロレートの聖母」(ローマ・サンタゴスティーノ聖堂)
 
二人の巡礼が眼にしているのは、現実界に姿を現した聖母子というよりは、現実界に現実に存在する母子である、というように見える。・・・それはどまでに、「物語性」をこえて、「リアル」なのである。・・・
 その「リアル」さが、この絵を劇的なものではなくて、むしろ静かなものにしている。そこにいかなる大仰な身振りもなく、過剰な舞台背景もないことが、この作品の美しさをより深めている。そしてそういう深さが、静けさをもたらす。