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2018年7月26日

読書日記「潜伏キリシタンは何を信じていたか」(宮崎賢太郎著、株式会社KADOKAWA、2018年2月刊)、「かくれキリシタンの起源」(中園成生著、弦書房、同年3月刊)、「消された信仰」(広野真嗣著、小学館、同6月刊)

潜伏キリシタンは何を信じていたのか
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かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》
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 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、今月やっと世界遺産に登録されることが、ユネスコから認められた。

 文化庁の資料によると「『潜伏キリシタン』が密かにキリスト教への信仰を継続し,・・・既存の社会・宗教と共生しつつ,独特の文化的伝統を育んだ」こと が、世界遺産として認められた理由だという。

 登録を待っていたように、「潜伏キリシタン」についての著書が次々と発刊された。

 「潜伏キリシタンは何を信じていたか」の著者、宮崎賢太郎は、潜伏キリシタンを祖先に持ち、カトリック系の長崎純心大学の教授などをつとめたクリスチャンだが、これまでキリスト教会で常識とされてきたことに反論を試みる。

 
「(領主によって)強制的に集団改宗させられた大多数の民衆層のキリシタンたちは、(指導する司祭などが不在だったから)キリスト教についてほとんど何も知らなかった」「潜伏キリシタンたちが守り通してきたのはキリスト教信仰ではなく、いかなるものかよく知らないが、キリシタンという名の先祖が大切にしてきたものであった」「長崎県生月(いきつき)島などにごくわずか存在するカクレキリシタンには、隠れているという意識はまったくなく、その信仰の中身もキリスト教と呼ばれるようなものではなく、先祖崇拝的傾向の強いきわめて日本的な民族宗教である」


 さらに著者は、幕末の開国後の1865年(慶応元年)3月17日。長崎・浦上の潜伏キリシタンが、長崎市の大浦天主堂を訪ねてプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」も、プチジャン神父が自作自演したフィクションであると推理する。

 
 (かくれキリシタンが告白した)「我らの胸あなたの胸とおなじ」という言葉は、逆にプチジャン神父のほうから・・・告白した言葉ではなかったか。信徒たちが「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのでなく、プチジャンのほうから、「あなた方が慕っているサンタマリアの御像はこちら」と案内したのではないか。「あなた方がずっと大切にしてきたマリア観音は、本当はこのサンタマリアの御像なのです。御子ゼズス様を腕に抱いていらっしゃるでしょう」と。


 信徒発見のニュースは、たちまち世界中に伝えられた。日本のカトリック教会はこの日を祝日と定め、発見から150周年にあたる今年は、各司教区では様々な祈りのイベントを展開している。

 それをフィクションと片付けられても、カトリック信者の片割れとしては、にわかに納得しにくい。しかし、250年もの司祭不在の禁教期に、キリシタンの間でなにかが起きていたとしても不思議ではない。フイールドワークを踏まえて、それを分析・研究したのが「かくれキリシタンの起源」だ。

 著者、中園成生は、捕鯨の基地としても有名な生月町の生月島町博物館・島の館学芸員として長年、かくれキリシタンの研究に取り組んできた人。

 実は、3年も前の2015年2月に著者の最新研究成果を紹介する講演を聴講しており、このブログでも記録している。この著書の骨子にもなるブログの一部を再録してみる。

   
 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の中園成生さんが、平戸島の北西にある生月島で、現在でも隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。・・・
 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』(前述の宮崎賢太郎は、この説をとる)」が従来の考えだった。
 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。
 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。


 この講演の時には、長崎県は世界遺産への登録を「長崎教会群とキリスト教関連遺産」と題して申請していた。しかし、ユネスコの諮問機関であるイコモスから「禁教時に焦点を当てるべきだ」という注文がついて、登録申請をいったん取り下げ、潜伏キリシタンの遺産に焦点を当て直してやっと今回の登録決定にこぎつけた。

 この間に、「隠れキリシタン」についての学問研究も進み「潜伏キリシタン」「カクレキリシタン」といった区別もされるようになった。

 「消された信仰」は、生月島のかくれキリシタンの取材を通じて、世界遺産登録への隠された事実も明らかにしている。

 著者の広野真嗣は、新聞記者を経て、この本で題24回小学館ノンフィクション大賞を受賞したジャーナリストで、自称「信仰の薄いキリスト教徒」。

 著書の冒頭で「なぜ生月島は世界資産から外されたのか」という問いかけをしている。

 
 著者によると、世界遺産登録申請に関連して2014年に長崎県が作成したパンフレットでは「平戸地方(生月島を含む)の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる〈かくれキリシタン〉によって今なお大切に守られている」となっていたのが、再申請後の2017年のパンフレットでは「〈かくれキリシタン〉はほぼ消滅している」と変わった。
 著者が取材した、さきの中園学芸員はその理由について「これまでやってきたキリシタン史の説明との整合がとれなくなるからです」と答えた。
 中園学芸員は「彼ら(長崎県)は、(宮崎教授が主張する)〈禁教期変容論〉の影響を受けています。江戸時代の〈潜伏キリシタン〉と、現在に続く〈かくれキリシタン〉は違うもので、変容してきた、というスタンスをとっているんです」「でも、禁教期のいつから何が変容したのかという説明はできないのです。イコモスから突っ込まれたら説明が不能な厄介な問題になる。だからこそ、生月島のかくれキリシタンの存在を"消そうとしている"。その存在は、はっきりしているのに」と話した。


 当初、長崎県などが「長崎教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指したのは、教会群などによって、長崎の観光振興を図りたいのも狙いだった。
 しかし、イコモスの指摘で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変わっていく過程で、その内容があいまいになり、250年間、信仰を守り続け、「オラショ」などの文化遺産を持つ生月島のかくれキリシタンが切り捨てられ、当初あった遺産としての生月島は消えてしまった。

 かって、長崎の教会群や生月島などを3年にわたって訪ね、このブログで何回も取り上げてきた。それだけに、今回に世界遺産登録になにか冷めたものを感じてしまう。

※その他の参考文献
  • 「かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅」(後藤真樹著、新潮社刊)
  •  「祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」(松尾潤著、批評社刊)


2017年2月28日

映画鑑賞記「沈黙―サイレンスー」(パラマウント映画、KAKOKAWA配給、マーティン・スコセッシ監督)、読書日記「沈黙」(遠藤周作著、新潮文庫)


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 自宅の本棚で、遠藤周作の単行本「沈黙」を見つけた。なんと昭和41年、社会人になって2年目に初刊本を買っている。表装も現在、56刷を重ねている文庫本のものとは異なる。10年ほど前に多くの所蔵雑本と本棚を処分、寄贈したが、この本だけはなぜか残しておいたようだ。

 アメリカ映画の巨匠、マーティン・スコセッシ監督が、この作品を原作に28年かけて、映画 「沈黙―サイレンスー」を完成させたことを知り、日本封切の日に見に行った。

 隠れキリシタンが捕まって拷問を受けるシーンは、原作記の記述とほぼ同じだった。今年のアカデミー・撮影賞の受賞は逃したが、映像としての迫力はさすがだった。

 水磔(すいたく)という刑があった。

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 海中に立てた木柱に信者たちを縛り付け、満潮になると顔まで漬かる海水で「囚人は漸次に疲憊(ひはい)し、約1週間ほどすると悉く悶死してしまいます。


 熱湯をかける拷問もあった。裸にされて両手両足を縄でくくられ、杓子で熱湯をかけられた。それも、杓子の底にいくつもの穴を開け、苦痛が長引くようにした。

 棄教しようとしないポルトガル・イエズス会司祭2人の前に、どうしても"転ぶ"道を選ぼうとしない男女数人が筵巻きにされて小舟の上から、海に投げ込まれる。司祭の1人、 フランシス・ガルペは役人の手を振り切って海に飛び込み、同じように海中に沈む。

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フランシス・ガルペ  

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 牢に閉じ込められた司祭、セバスチャン・ロドリゴは、夜中に囚人たちが出すいびきのような耐えがたい声を聞いて寝られない。役人は「あれは、囚人たちのいびきではない」と、嘲るように言う。

 牢の前に掘られた穴に汚物が詰められ、囚人たちは逆さ吊りにされる。そのままでは、すぐに死んでしまうので、耳の後ろに小さな傷をつくり、そこから息が漏れていたのだ。

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セバスチャン・ロドリゴ

 ロドリゴの上司だった クリストファン・フェレイラは、この穴釣りの刑の耐えられず、棄教した。

 「日本のキリシタンがあそこまで拷問に絶えたのは、信仰のためだけだっただろうか」。一緒に映画を見た友人Mが言った。

   その答えが、原作にあった。

 
 ロドリゴが、イエズス会本部に送った書簡。
 「牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中ははじめてその足枷を棄てる一筋の路を我々の教えに見つけたのです」


   
 隠れキリシタンの女が、ロドリゴに話しかける。
 「 パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると(女に洗礼を授けた)石田さまは常々、申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓(うえ)も病の心配もなか。苦役もなか。もう働くだけ働かされて、わしら」彼女は溜息をついた。「ほんと、この世は苦患(くげん)ばかりじゃけえ。パライソにはそげんものはなかとですね。 パードレ


 映画の封切前に、スコセッシ監督はNHKのインタビューに「この映画には、いくつかの"沈黙"場面がある」と答えていた。

 通辞(通訳の役人)から「あなたが転ばず、キリストの踏絵をふんで棄教しない限り、キリシタン5人の穴吊りの形は続く」と、ロドリゴは言われる。

 Exaudi nos,・・・Sanctum qui custodiat・・・
 (ラテン語)の祈りを次から次へと唱え、気をまぎらわそうしたが、しかし祈りは心を鎮めはしない。主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼は呟き・・・。


   
 その時、じっと自分に注目している基督の顔を感じた。碧い、澄んだ眼がいたわるように、こちらを見つめ、その顔は静かだが、自信にみち溢れている顔だった。「主よ、あなたは我々をこれ以上、投っておかれないでしょうね」と司祭はその顔にむかって囁いた。すると、「私はお前たちを見棄てはせぬ」その答えを耳にしたような気がした。


   信徒たちへの拷問に耐え切れず、ロドリゴは、ついに転び、踏絵を踏む。

 
 多くの日本人が足をかけたため、銅板をかこんだ板には黒ずんだ親指の痕が残っていた。そしてその顔もあまり踏まれたために凹み摩擦していた。凹んだその顔は辛そうに司祭を見あげていた。辛そうに自分を見あげ、その眼はが訴えていた。(踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)


 ロドリゴは棄教後、死刑になった岡田三右衛門という男の名前とその妻子を与えられ、江戸の切支丹屋敷に住んだ。

 三右衛門が64歳で死去した時。死に装束を着て棺桶に入れられた死体の胸元に、涙ひとつ見せない日本人女房は、懐紙に巻いた手刀を三右衛門の胸元に差し込んだ。同時に、なにかを置いた。

 カメラがアップする。柔らかい光に包まれて、ロドリゴがずっと手元から離さなかった藁で作った十字架が、死体の足元に浮かび上がった。

 スコセッシ監督が描く映像美あふれたラストシーンである。

 この場面は、原作にはない。三右衛門を監視していた切支丹屋敷役人の日記がたんたんと綴られて終わっている。

2015年3月30日

聴講記「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県・朝日カルチャーセンター共催、2015年1月25、2月8日、22日)



長崎市内や五島列島の島々を世界遺産候補の教会群を友人Mと訪ね始めたのは7年前のこと。候補遺産のほぼすべてを回るのに3年かかった。

 その「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(地図)について、政府は今年1月、閣議決定を経て ユネスコに世界文化遺産追加の 推薦状を提出した。
 長崎県世界遺産登録推進課によると、ユネスコでの審議を経て来年9月にも正式に世界遺産登録が決まることが期待されているという。

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 それを記念するためか、表題のようなセミナーが大阪のフェスティバルホールで開かれた。それを知ったMに誘われ、聴講に行ってみた。

 今回の推薦状リストは、2007年に制定された「暫定リスト」とは様変わりになっていた。

 以前の世界遺産候補地は教会を中心に29遺産あったものが、新しい推薦状では教会は 国宝と国の重文に指定されたものに絞られ、替りに国の 重要文化景観というあまり聞きなれない制度に指定されている長崎、熊本両県の集落景観などが追加され、候補地は計14か所になっている。

 当初、250年に及んだキリスト教伝来と弾圧、 信徒発見による復興を経て次々と建造された教会群を世界遺産として申請しようとしていたのだが、長い論議のすえに、隠れキリシタンが移住を繰り返してその信仰を守り、復興をはたしたという世界でも例を見ないキリスト教の歴史を物語る世界遺産として登録しようとしたようだ。

 第1日目の1月25日は、 岩崎義則・九州大学大学院准教授の 五島灘・角力灘海域を舞台とした十八~十九世紀における潜伏キリシタンの移住についてという論文による話しで始まった。

 長崎県・角力(すもう)灘を望む 長崎市外海(そとめ)地区 隠れ(潜伏)キリシタンが、弾圧を逃れて対岸の 平戸五島列島に移住して行ったというのは、これまで一般キリシタン歴史書の常識だった。

 岩崎准教授は、この常識にいささかの異議をとなえる。

 「潜伏キリシタンと分かれば、 邪宗として弾圧されたはず。移住していったのは浄土真宗檀徒でした」

 しかし、百姓の他藩移住が簡単でなかった江戸時代に、なぜこんな移住ができたのか。
 「実は、外海地区を支配していた大村藩と五島・福江藩との間で百姓移住協定が成立していたのです」

 大村藩が分家抑制策を展開していたことや浄土真宗が間引きを禁じていたこともあって、外海地区の村々は人口増大と貧困に悩んでいた。反対に離島の福江藩は財政逼迫で新しい田畑を開拓する働き手が必要だった。
 「私見だが、大村藩は捜査網を使って潜伏キリシタンと目された世帯を見つけ出し、浄土真宗檀徒として福江藩に送り出した。これによって、大村藩は人口問題と異宗問題の一極解決を図った」

 18世紀の末、協定では100人だった百姓の移住は、約3000人を数えた。岩崎准教授は「そのほとんどが潜伏キリシタンだった」とみる。

 五島に渡った人々は「五島へ五島へとみな行きたがる 五島やさしや土地までも」と謡った。
 しかし、与えられたのは、農耕が困難な辺境の地だった。百姓たちは「五島極楽来てみて地獄 二度と行くまい五島が島」と嘆いた。

 セミナー2日目の2月8日には、五島列島・新上五島町教育委員会文化財主査の高橋弘一さんは、この隠れキリシタンの厳しい生活が生み出し集落景観について語った。

 五島に移住してきた隠れキリシタンたちは、昔から海岸沿いで漁業をしていた「地下(じげ)と呼ばれていた人々の土地には入植させてもらえなかった。
 「居付(いつき)」と呼ばれた隠れキリシタンは、しかたなく山の急斜面を切り拓き、段々畑を作り、防風石垣や林を築くなど独特の集落景観を形成していった。

 そんな痩せた土地で稲作はできない。彼らの生活を支えたのは、大村藩・外海(そとみ)から持ち込んだ甘藷栽培だった。甘藷を保存するために、家屋の床下に竪穴の「いもがま」を掘って生イモを蓄え、干し棚で乾燥させた 「かんころ」を作り、天井裏で保存した。

 国の重要文化景観に指定されている 「新五島町北魚目の文化的景観」は、まさしくそんな景観という。高橋さんは「文化景観とは、その地域の生活や生業により育まれた景観のこと」と話す。

 そして、明治6年にキリスト教禁教令が廃止されて以降、五島列島では次々にカトリックの教会が建設され、五島独自の文化景観が形成されていった。

 新上五島町には、狭い地域にかつては35、現在でも29のカトリック教会が点在している。

 3年かけて回った際にも、岬の両側に別の教会があり、船でしか行けない教会もあった。隠れキリシタンたちは、道もほとんどない地域にしか住めなかったのだ。

 段々畑の続く高い山の中腹に、立派な教会がそびえているのも不思議だった。

 案内してくれたカトリック教徒であるタクシー運転手・Kさんは「この道から上がカトリック地区、下の海沿いが昔からの住民」という。説Kさんが子供のころ、地元のお社の祭にも、カトリックの子供は参加できなかったという説明がなんとなく納得できた。

   実は、高橋さんは1級建築士。新上五島町に務めることになったのは、2007年に火事で全焼した江袋教会(同町江袋地区)を修復する調査・設計管理を請け負ったのがきっかけだった。高橋さんは、修復の調査をしていて不思議なことに気づいた。

 調査してみると、新装された 江袋教会の屋根と、外海地区にある創建時の 出津(しつ)教会の屋根の写真が、双子の教会のようにそっくりなのだ。
 それも、教会建築では非常に珍しい 「袴腰屋根」という方式を採用している。

 出津教会を設計したのは、外海地区の布教に貢献した パリ外国宣教会 ド・ロ神父だが、高橋さんは「江袋教会の設計には、ド・ロ神父が深くかかわっていたにちがいない。キリシタン移住によって、外海と上五島は、集落の文化景観やイモ文化だけでなく、教会建設でも強いつながりを保ってきたのだ」と話す。

 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の 中園成生さんが、平戸島の北西にある 生月島で、現在でも 隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。

 明治6年にキリスト禁教令が廃止されてからは、隠れキリシタンの人々は順次、カトリックに"改宗"していった。
 生月島でも、20世帯がカトリックに戻り、カトリックの教会もあるが、500世帯は昔ながらの信仰を守り続けている。

 その地域では、数十軒単位の「垣内」「津元」や数軒単位の「小組」など大中小の信仰組織が堅持されており、お掛け絵(掛軸型の聖画に似た絵像)、金仏様(メダイなど)、お水瓶(聖水を入れる瓶)などのご神体を信仰している。

 「ご誕生御」(クリスマス)」「上がり様(クリスマス)」などの年中行事も変わらず続けられており、祈りの「唄オラショ」は、16世紀にキリシタンが唱えていた文句とほとんど同じ、というのも驚きだ。

 女性人気指揮者の西本智美が、このオラショを甦らせ、バチカンで演奏の指揮をしたテレビ番組を見た記憶がある。彼女の曾祖母は、生月島出身だという。

 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』」が従来の考えだった。

 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。

 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。

 生月島では、なぜここまで隠れキリシタンの信仰が継続できたのだろうか。

 中園さんは①この島は捕鯨で培われた強い経済力で、信仰組織を維持できた②キリシタンへの迫害はあったが、平戸藩の弾圧は大村藩ほど厳しくなかった、ことを挙げている。この島では、踏絵の資料も見つかっていないらしい。

 最後に、少し整理しておきたい。

 世界遺産候補が、最初の29から14に絞られていく過程で、堂崎大曾宝亀などの教会や 日本26聖人記念碑などは国に重文でなかったために、国の重文だった 青砂ケ浦教会は「周辺に駐車場ができ、保有管理が不備」であることを理由に、候補から外れた。

 しかし、これらの教会なども3年間の旅で訪ねたがいずれもすばらしい建築物だった。

 そこで、長崎県では候補から外れた遺産を別途「長崎歴史文化遺産群」として、保存、継承していく方針らしい。

 これらの内容は、長崎県のウエブサイト 「おらしょ」の「資産」をクリックすると、見ることができる。

2010年2月22日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その2


 1月6日の午後。長崎駅前のバスターミナルで、隠れキリシタンのふる里、旧外海(そとみ)町(現在は長崎市)行きのバスを待った。

 1昨年の5月に、同じように外海方面行きのバス停を訪ねた若い主婦に「遠いですよ・・・」と言われたのを思い出した。前日よりぐっと冷え込み、寒風がこたえる。やっと来た長崎バスで桜の里バスターミナルまで約1時間、さいかい交通バスに乗り換え、約30分で大野のバス停に着いた。
世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストにも挙げられている国指定の重要文化財「大野教会」は、長崎市の中心からはかなり遠い。1昨年行きそびれたので、2年越しの再挑戦である。

 早くも水仙の花が所々に咲いている狭い農道を10数分登った山あいに、なんとも素朴な石造りの教会が建っていた。
 この教会は、外海地区の主任司祭として大きな足跡を残したフランス人マルク・マリ・ド・ロ神父 が、隣の出津教会に来られなくなったお年寄りのために明治26年に建設した小規模な巡回教会。地元で産出される玄武岩を砂と石灰、水を混ぜた赤土で積み上げた「ド・ロ壁」という独特の工法で建てられている。
 木の雨戸の上に赤煉瓦で縁取りされた半円形をした木組みの窓があり、和瓦の屋根の頂上と軒先の白い漆喰梁に描かれた小さな赤い十字架があざやかだ。

 正面の防風壁に守られている玄関から中をのぞくと、柱が一つもなく、簡素な造りの机が並んでいるだけ。がっしりとした「ド・ロ壁」が角力灘からの強風を防いでくれるのだろう。振り向くと、青く広がる角力灘(すもうなだ)越しに、この外海から迫害をのがれてキリシタンたちが移住していった五島列島が臨める。

 2006年には大修理が行われたという。周りの風土にすっかり溶け込んだ教会を後世に伝えたいという地元信徒たちの思いが伝わってくる。

 1昨年の5月には、同じバスのルートで大野教会の手前の出津教会をまず訪ねた。

 明治12年に赴任したド・ロ神父が明治15年、最初に建設した教会。明治24年に祭壇部、同42年に玄関部が増築されており、バス停から坂を下った窪地にあるが、煉瓦造りの建物を白い漆喰で包み、2つの尖塔と、正面左に別棟の鐘楼を持つ堂々とした、たたずまいだ。それでいて屋根までが非常に低い。外海の強風を考慮した設計だという。

 教会では、老夫婦のご主人の洗礼式が終わったところだった。翌日には、すでにカトリック信者である奥さんとの結婚式が改めて行われる、という。この地域にはいまだにおられる隠れキリシタンの"改宗"ではなかったのか、と今になって思う。

 ド・ロ神父は、貧しさにあえいでいたこの地区の人たちを助けるために、パンやそうめん(スパゲツティ)の作り方を教え、孤児院まで作った。夫を亡くした女性たちの生活を守るために神父が設計した鰯網工場跡は「ド・ロ神父記念館」になっている。入口を入ったところでシスターの橋口ロハセさんがオルガンで聖歌「いつくしみふかき」を弾いておられた。ド・ロ神父がフランスから取り寄せたものを、8年前に修理したのだ。

 国の重要文化財「旧出津救助院」は、2012までかかる大修理中で、工事用の壁に囲まれていた。授産場と「ド・ロ壁」に囲まれたそうめん工場が再現されるという。

 1時間に1本しかない長崎駅行きのバスで30分ほどの「道の駅 夕陽が丘そとめ」で降りる。長崎屈指といわれる夕陽を待っているライダーたちであふれていた。

 2,3分、海のほうに歩くと「遠藤周作文学館」 がある。まず遅めの昼食をと、付属のレストランで「ド・ロ様そうめん」を食べた。落花生油が練り込んであるとかで、もっちりしていてなかなかの味だった。

 文学館は、遠藤周作が愛用した書斎コーナーが再現されており、遺品や生原稿などで遠藤文学のすべてを閲覧できる。2方が天井までのガラス張りになっている「聴涛の間」からは、碧く広がる角力灘(すもうなだ)が見渡せる。壁に書家・近藤攝南が書いた額がかかっていた。
      
       物語は終わり 今は黄昏
       私は川原に腰をおろし
       膝をかかえ 黙々と
       流れる水を 永遠の
       生命のように凝視している


 遠藤周作作「男の一生」の1節だ。
 近藤攝南さんは昨春亡くなられたが、新聞社に勤めていたころに何度かお顔を拝見したことがある。遠藤周作は、近藤さんを父親のように慕っていたという。

 外海は、遠藤周作の代表作「沈黙」の舞台でもある。この本で「トモギ村」と書かれているのは、この後訪ねる黒崎の地がモデルらしい。

 出津教会の近く、文学館を臨む丘の上に「沈黙の碑」があった。
       
      人間が
      こんなに
      哀しいのに
      主よ
      海があまりに
      碧いのです
             遠藤周作


 1時間後のバスで20分ほど戻ったところが、黒崎のバス停。すぐわきの急な階段を登ったところに煉瓦造りの「黒崎教会」があった。

 やはりド・ロ神父の指導で明治30年から信徒が総がかりで敷地を整備、煉瓦を1つ、1つ積み上げて23年もかけて完成させた。内部はリブ・ヴォートル天井を持つ、ゴシック調の重厚な雰囲気。教会横の鐘楼は、この地区に多く住む隠れキリシタンの"教会復帰"を願って建てられたという。

 教会から15分ほど登ったところに、日本には3社しかないというキリシタン神社「枯松神社」 があり、毎年秋の祭りには、キリシタンの祈り「オラショ」が奉納される。日本にキリスト教が伝わって約470年、江戸時代に始まったキリシタン弾圧から約210年。その歴史を刻んできた神社である。

 世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に、なぜこの神社は入らないのだろうか。弾圧時代のキリシタンはキリスト信者でなかった、というのだろうか・・・。 ふと、そんな疑問がわいてきた。

「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会:クリックすると大きな写真になります波静かな角力灘(すもうなだ)。:クリックすると大きな写真になります堂々としたたたずまいの出津教会:クリックすると大きな写真になります「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター:クリックすると大きな写真になります
「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会波静かな角力灘(すもうなだ)。見えているのは、五島列島ではない。堂々としたたたずまいの出津教会"「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター。90歳前後らしい
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」:クリックすると大きな写真になります黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている:クリックすると大きな写真になります煉瓦造りの黒崎教会:クリックすると大きな写真になります
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている煉瓦造りの黒崎教会

2010年2月15日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その1


 1昨年から友人Mらと始めた「長崎教会群」巡りは、この正月で3年目。
 「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、1昨年5月に長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩き、昨年正月には五島列島の教会を巡ったから、これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 昨年1月の五島列島への紀行は、このブログ゙で3回に分けて書いたので、今回は1昨年の分も合わせて記録してみたい。

 3が日明け、4日早朝の全日空便で福岡に入り、一度は行ってみたいと思っていた大宰府の九州国立博物館で、アジアとの交流に焦点を絞った独自の常設展示を満喫した。ここと、前原市の「伊都国歴史博物館」、佐賀の「国営吉野ケ里歴史公園」を巡る「トライアングル構想」に挑戦する計画もしたのだが、勉強不足のうえ時間もなく、またの機会に。

翌日、朝の「特急みどり」で佐世保へ。タクシーに飛び乗り、相浦桟橋、午前11:00発の黒島行きフェリーになんとか間に合った。空気は冷たいが、波は静かな50分の航行。「隠れキリシタン」の島と知られるこの島の名前は「クルス」(ポルトガル語で十字架)がなまってつけられた、という説もあるそうだ。
港には、カトリック信者の観光ガイド゙「鶴崎商店」のご主人が迎えに来てくれていた。鶴崎さんの軽トラックに乗せてもらい20分弱で、島の中央部の丘にある国指定の重要文化財「黒島天主堂」に着いた。

 フランス人マルマン神父の設計と指導で明治35年に完成したレンガ゙造りのロマネクス様式で、国宝の大浦天主堂(長崎市)と並ぶ3層構造の先駆的な建築物。使われたレンガ゙はほとんど外から持ち込まれたが、一部は島の人たちが自ら焼いたもの。黒っぽいのがそれだという。昨年訪ねた五島列島・福江島の「楠原教会」と同じイギリス積みで積まれているのが分かる。大きなレンガと小さなレンガを交互に重ねて、強度を増すやり方だ。

 内部は、間伐材を組み合わせた16本の柱が並び林のような雰囲気。五島列島でおなじみのリブ・ヴォールト天井と呼ばれるアーチ状のはりが走っている。天井板は「くし目挽き」と呼ばれ、島民が細かく木目を手描きしただという。内陣には、有田焼の青いタイルが張られ、聖人像は中国・上海製、フランスから運んだ鐘と、信仰の自由を得た島民たちの意気込みが伝わってくる。

 しかし、島の過疎化は進んでおり、昭和30年に2500人だった人口は約600人に減り、小学生が24人、中学生は19人しかいない。多くの農地は荒れ放題でのびてきた竹に占拠されようとしている。五島列島の福江島で見たのと同じ風景だ。残された遺産を生かして、生活基盤を再構築する方法はないのかと思う。

 鶴崎商店で作ってもらった、タイのさしみやアラ炊き、島特産の豆腐という盛沢山な昼食と熱燗で体を温め、午後2:30のフェリーに飛び乗った。お土産に、長崎名産の「かんころ餅」をもらった。まだ温かい。サツマイモの素朴な味だった。

佐世保駅前発のバスの出発まで1時間しかない。相浦桟橋に1台だけ待っていたタクシーで、浅子教会へ急ぐ。山道を抜けて20数分。西海国立公園九十九島を望む入り江に面して三角形の尖塔が目立つ小さな木造の教会が建っていた。

 正面のアルミサッシのドアは閉まっている。裏に回って、神父さんが出入りする内陣側のドアが開いていたので、入らせてもらった。外壁と同じ空色で塗られた柱と天井が素朴な造り。しかし、柱頭飾りはイオニア風、天井へと続く柱の上部には十字架を思わせる四つ葉のクローバーの彫刻があるなど、工夫をこらした意匠だ。

 この教会は、クリスマスのイルミネーションで有名らしい。教会だけでなく、周りの信徒の家も毎年、違うイルミネーションを競い、教会の前の広場に屋台が並び、観光客でにぎわう。隠れキリシタン子孫の熱気が伝わってきそうだ。

 佐世保駅前にそびえるゴシック構造の三浦町教会は時間がなく、1昨年に続いて見そこなった。

 1昨年の5月にも佐世保に入ったが、そのまま民活鉄道の松浦鉄道で日本最西端の駅「たびる平戸口駅」からバスで平戸の島に入ってしまったからだ。

 平戸最古の宝亀教会は、木造瓦葺だが、正面は白い漆喰で縁取られた煉瓦造り。そのコントラストがおもしろかったし、教会の側壁にそった回廊もユニークだった。
寺院に囲まれて尖塔がのぞく聖フランシスコ・ザビエル記念教会 は時間がなく、写真だけ撮った。教会が建った後、キリシタン優遇方針を換えた平戸藩主が、教会を隠すように寺院を建てさせたという。捕鯨や隠れキリシタンの歴史を展示する平戸市生月島博物館「島の館」 も、宿から見た西海の夕日と並んで豊潤な旅の立役者になってくれた。

本土・田平に戻って訪ねた国重文指定「田平教会」は、五島列島での旅でおなじみの鉄川与助の最後の作品。内部のリブ・ヴォールト天井、コリント風の柱頭飾りは与助の自信にあふれているように見える。すべて新約聖書からテーマが選ばれたステンドグラスは、なんとも現代的なデザイン。聞けば、1998年、イタリア・ミラノの工房製だという。なんと、100年近くをかけて、この教会は新しくなり続けてきたのだ。

ロマネクス様式の黒島教会:クリックすると大きな写真になりますイギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製:クリックすると大きな写真になります三角形正面が特色の浅子教会:クリックすると大きな写真になります 日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
ロマネクス様式の黒島教会イギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製三角形正面が特色の浅子教会日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会:クリックすると大きな写真になります意匠をこらせた宝亀教会の内部:クリックすると大きな写真になります寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会:クリックすると大きな写真になります完成されたたたずまいの国重文・田平教会:クリックすると大きな写真になります
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会意匠をこらせた宝亀教会の内部寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会完成されたたたずまいの国重文・田平教会


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4 迫害されたキリスト教徒

2009年2月11日

「五島列島・教会めぐり② 久賀島、奈留島」(2009・1・5)


 五島列島2日目。福江港を午前9:10に出る遊覧船「シーガル号」で久賀(ひさか)島に向かう。五島列島で最初に隠れキリシタンが信仰を宣言、厳しい拷問を受けたという歴史を背負った島だ。それが五島列島全体に広がり「五島崩し」と呼ばれるキリシタン弾圧につながったことは、この紀行①でもふれた。

写真①写真②写真③ ガイド役は、遊覧船会社の三男坊で、カトリック信者でもある気のやさしそうなK青年。遣唐使船も風待ちに立ち寄ったという田の浦漁港に着くと、マイクロバスに乗り換えて漁港を見下ろす丘の上にある「浜脇教会」(写真①)へ。

 3層の白いコンクリートの上に、金色の十字架を抱いた薄緑の木製の塔。全体に、小ぶりな感じの簡素な建物だ。1881(明治41)に建立された最初の天主堂が潮風にさらされて痛みが激しくなり1931(昭和6年)に再築。旧聖堂は解体されて五輪地区に移された。
 内部は、8分割の見事なリブ・ヴォートル天井のアーチが続く(写真②)。ステンドグラス(写真③)は、この島に昔から野生していた椿の花をデザインしている。

 島には、天然記念物の椿原生林もあり、椿油の生産量が戦後日本一を記録したこともあるそうだ。道路沿いにも野生の椿が多く、2月に入れば咲き誇る花が見事らしい。早生の米がうまいことでも知られ、案内役のK青年は「水がよいのでしょう」という。しかし、行き交う車は少なく、人にも出会わない・・・。過疎が、福江島以上に進んでいる。

 島の中央部にある「牢屋の窄(さこ)」へ。窄(さこ)は「奥まったところ」という意味らしく、キリシタン弾圧の牢屋跡がある。
 K青年が「ここが、この島で一番大切なところですから」と、犠牲者の石碑が並ぶ前で、真剣な表情になって説明を始めた。

 1868(明治元年)、長崎・浦上で始まったキリシタン迫害は、翌年にはこの島にもおよび、6坪ほどの牢屋に信徒200人が8カ月の間押しこまれ、連日悲惨な拷問が行われて42人の殉教者が出た。
写真④ 最初の死者は、79歳のパウロ助市。圧迫死だった。牢内にはトイレもなく、13歳のドミニカたせは、わいたうじ虫に下腹をかまれて死んだ。牢内は立すいの余地もなく全員が立ったまますごしたが、全員が周辺に体を重ね合わせて中央部にわずかなすき間を作り、一人ずつが少しだけ睡眠をとることができた。
 昭和59年に、殉教を記念する聖堂(写真④)が建てられた。悲惨な殉教を忘れないため、聖堂中央部には6坪分の広さを示す灰色のじゅうたんが敷いてある。

 五島列島に隠れキリシタンが移り住んだのは、五島藩主から長崎県外海(現・長崎市)をおさめる大村藩主に開墾地拡大のための要員派遣の要請があったためだった。。
 キリシタン迫害の危険を感じていた彼らは、次々と五島列島に渡ってきた。1000人の要請に対し、やって来たのは3000人を越えた。

 「五島へ五島へと皆行きたがる 五島は優しや土地までも」とあこがれの地にやって来た人々に与えられたのは、やせた山間部や狭い砂浜だった。移住後、彼らは「五島は極楽 来てみりゃ地獄」と歌うようになった。。

 島の中心部から狭い山道を約30分、椿の林のなかで車を捨て、歩いてたどりついた五輪地区は、そんな狭い砂浜だった。かっては50世帯を越える信者が住んでいたこの地区も、今は数世帯8人が漁業を営んでいるだけ。

写真⑦写真⑥写真⑤ この浜辺に、国の重要文化財である旧五輪教会と隣接して現在の五輪教会が並んで建っている(写真⑤)。
 旧五輪教会(写真⑥)は、最初にふれたように浜脇地区から移築されたもの。窓が教会建築特有のポインテッド・アーチ(尖頭)型をしている以外は、まったくの和風建築。なかに入っても、窓に引き戸がつき、ステンドグラスはフイルムを挟んだ素朴な造りだが、リブ・ヴォートル天井の木目が浮かびだした美しさ(写真⑦)に見とれてしまう。

 五輪地区出身のカトリック教徒を父に持つ歌手・五輪真弓は、昭和61年に初めてここを訪れ、名曲「時の流れにー鳥になれ」を生み出したという。
  鳥になれ、おおらかな翼をひろげて。雲になれ、旅人のように自由になれ


写真⑧写真⑨写真⑩ 昼過ぎに福江港に戻り、定期船に乗り換えて奈留島に着いたのは、午後2時すぎ。「奈留教会」(写真⑧)を訪ねた後、タクシーで、世界遺産に暫定登録されている「江上教会」(写真⑨)に向かった。
 最盛期は60人を超えていた信徒も、現在では2人だけ。2軒目のお宅で、やっと教会のカギを借りることができた。
 廃校になり黄色い雑草で校庭が埋もれている小学校の隣の丘の上。木漏れ日になかに、木造ロマネスク様式の教会が立っていた。鉄川与助の作で、左右対称のシンプルな外観とクリーム色に塗られた外観、正面に書かれた「天主堂」の文字に、なにかなつかしい荘厳さを感じる。
 木目塗りの彫刻がほどかされた木の柱がアーチ状に天井に広がっていく造形(写真⑩)も見あきない。

 奈留島では、もう一つ「南越教会」を訪ねたかったが「個人の敷地を通らないでと言われているので・・・」と、タクシーの運転手さんに断られてしまった。福江島・堂崎教会では、「観光の車が多い」という付近の住民の反発で離れたところに駐車場ができ、上五島では、タクシーの運転手さんから「小学校のころ、カトリックの家の子はよくいじめられた」と聞いた。

 隠れキリシタンとその子孫は、100年以上たっても、まだ新参者らしい。

2009年1月20日

「五島列島・教会めぐり紀行① 福江島」(2009・1・4~7)


 昨年5月に島原、長崎、平戸、佐世保のカトリック教会をめぐりの旅をした。この旅のことは後述するとして、長崎の教会群などがユネスコの世界遺産に暫定登録されていることを知った。

 五島列島には50もの教会群があり、そのうち6つが世界遺産に暫定登録されている。五島列島への思いが、正月3が日明けにやっと実現した。

 大阪・伊丹から福岡経由で福江島の空港に着いた時は午後2時すぎ。伊豆の大島と並ぶ椿群生地の開花には少し早かったが、南国らしい暖かい日だった。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 最初に行ったのは、1912(明治45年)に完成された「楠原教会」。イギリス積みという方式で積まれた正面玄関は、男性的な力強さを感じる。子どもたちは学校の帰りに煉瓦運びを手伝い、老人を含めた信徒の総力で作り上げたという。お堂本体も、レンガ壁だが、天井部分は薄クリーム色に塗られた木造の囲いの上に日本瓦が載っている。なんだか、日本家屋の匂いが残る教会だ。
 内部に入ると、静ひつとしていながら温かみのある雰囲気に圧倒される。白い木の柱が支えているのは、リブ・ヴォールト天井 と呼ばれるアーチ状の白い木張りの天井。茶色のはり(これをリブというらしい)に4分割された小さな白いドームの連なりが入口から祭壇まで続く。

 タクシーの運転手さんは「こうもり天井」と呼んでいたが、はりや板の曲りぐあいが見事だ。「船大工さんの技術だろうか」。同行の一人が言っていたが、外国人宣教師の指導で、初めて立てるこの教会を、西洋様式に少しでも近づけたいと願った日本人大工の意気込みが伝わってくる。宣教師の指導を受けながら建てたのは、日本人大工の鉄川与助といわれる。

 この福原は、五島藩の要請で外海「旧・外海町、現・長崎市」から移住してきたキリシタンが最初に開墾した土地の一つ。「五島崩れ」と呼ばれる厳しい迫害のすえに、やっと建設を許された教会だっただけに、その意気込みが今でもレンガの壁に輝いているようだ。教会のすぐ近くに、キリシタン迫害に使われた「楠原牢屋跡」が復元されていた。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 海辺に、白いレースを組み上げたように建っている「水の浦教会」は「貴婦人の教会」と言われる。1880(明治13)年に建てられた最初の教会が長年の潮風にさらされて解体された後、1938(昭和13)年、すでに代表的な教会建築家になっていた鉄川与助によって建てられた。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合され、現存する木造教会としてはわが国最大規模だという。
 内部も、簡素なデザインのステンドグラスと白いリブ・ヴォールト天井のコントラストがすばらしい。
 ここでも、移住してきたキリシタンが厳しい迫害に会っており、近くの丘には牢屋跡地のレリーフや五島出身の聖職者たちの墓地が広がっている。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 行き交う人や車が少ない。正面の十字架がなければ普通の民家と見まちがう「宮原教会」へ向かう道の周辺には、荒れた田畑が広がる。「あの家も、この民家も空き家」。タクシーの運転手がつぶやく。漁獲量が減り、農業だけでは食べていけないため、離島していく人が絶えないらしい。
 「あれ、評判が悪いのだなあ」。運転手さんが指さした小聖堂風の建物は、なんと五島市が建てたトイレ。ちなみに、左側が男性用入口であります。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります そのすぐ先、エメラルドグリーンの内海が側面に広がり、正面に外海を見据えた広場に、レンガ造りの「堂崎教会」は、どっしりと構えていた。
 1908(明治41年)、イタリアから運ばれた赤レンガでゴシック様式に仕上げられたこの教会は、長年五島布教の中枢だった。ミサの30分前には、近くの修道院のシスターがホラ貝で知らせたという。五島で最初のクリスマス野外ミサが行われたのも、この広場だった。
 県の指定文化財に指定されており、現在はキリシタン資料館になっている。館内には、マリア観音、納戸神など隠れキリシタンの遺品や「ド・ロ木版画」と呼ばれる聖教木版画、聖ヨハネ五島の聖骨などがある。正面前の広場には、五島出身ただ一人の聖人である「聖ヨハネ五島」など、いくつかの銅像が並んでおり、キリシタン殉教の厳しさを訴えてくる。

クリックすると大きな写真になります 「浦頭教会」は、1968(昭和43年)に再築された五島では初めてのコンクリートの教会。正面に、ローマの聖ペトロ寺院をまねたのか、聖ペトロとパウロの彫像が並んでいたのにびっくりした。
 昭和20年代には約4千人いた信徒は、今では約5百人にまで減ったが、当時の漁師たちは土曜の午後と日曜日は網を入れず、教会に集まったと聞いた。



P1040284.JPG  福江島で最後に訪ねた「福江教会」は、福江市内の中心街にある。1962(昭和37)年4月に現在の教会は建てられたが、その年の9月未明、周辺を総なめにした福江大火で、この教会だけは奇跡的に焼失をまぬがれた、という。