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2012年5月22日

読書日記「氷山の南」(池澤夏樹著、文藝春秋刊)


氷山の南
氷山の南
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池澤 夏樹
文藝春秋
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 18歳のアイヌの血を引く日本青年、ジン・カイザワは、オーストラリアの港から南極を目指す「シンディバード」号に密かに乗り込む。密航だった。

 ニュージーランドの高校を出たばかりのジンは、ゲームやファンタジーの熱を上げている中学や高校の同級生にどうしてもなじめず、そんな閉塞感を破りたいと、この船が挑戦しようとしている" 氷山プロジェクト"を見てみたいと願った。

 氷山プロジェクトは、アブダビのオイルマネーを原資とした基金「氷山利用アラビア協会」が企画した。南極の氷山を曳航して帰り、それを溶かした真水をオーストリア南西部の畑地の灌漑に役立てようというもの。
運ぶ氷山は1億トン前後、小さめのダム1個分の貯水量。氷山は、 カーボン・ナノチューブの網をかぶせて、大型けん引船で運ぶ。名付けて「海の中を行く大河」作戦。食糧増産を可能にする壮大な計画だ。

 乗り込んでいるのは、このプロジェクトを成功させるための専門家ばかり。ジンを降ろそうとするリーダーを抑えて、協会総裁である「族長」の好意で、食堂と船内新聞の編集の手伝いという職を得る。

地球観測衛星など、最新科学技術を駆使して曳航するのにふさわしい氷山が見つかる。 ジムは、船内新聞の記者特権で、ヘリコプターで目的の氷山に降りる。

 
その場で仰向けに寝た。
 ・・・。
 青い空が広がっていた。
 ああ、空というのは絶対にこの色であるべきなんだ、と見る者に思わせるような青だった。その青のせいで空までの遠い距離がそのまま身体の下の側にも転移され、今、自分は上下左右あらゆる方向へ無限に広がる空間の中点に浮いているという幻覚が湧いた。
 背中の下には確かに固い氷があるのに、浮揚しているという感覚は消えない。
 宇宙サイズの目眩みたいな。
 それで、中心はこの氷山なんだ。
 他のどの氷山でもなく、この海域でたった一つ、地球の上でたった一つ、この氷山。
 奇妙な、とても不思議な気分だった。ずっと離れていた土地へ帰ってきた時のようにが反応している。ここは懐かしい。


  南極のオキアミを研究する科学者のアイリーンらと、カヌーでこの氷山を一周してみることにした。

 ジンは、カヌーを漕ぎながら、オーストリアの山、 ウルル(俗称エアーズ・ロック)に行ったことを思い出した。
この山は、先住民・ アボリジニの聖地であるため、登ることは禁止されている(実際には、観光客は登ることを許可されているらしい)。

 やむをえず、山の周り約10キロを歩いてみた。山そのものが迫ってくる。歩くうちに、山は「敬え!」と迫ってきた。

 
ぼくたちは今、この氷山の霊的な虜になっている。この氷山もやはり「敬え!」と言っている。だってこんなに大きくて、白くて、冷ややかに輝いているんだから。


 船に帰ってから、アイリーンも言った。「なぜだか人が手を掛けてはいけないもののような気がしたわ」

 この氷山曳航計画に反対し、阻止を公言しているグループがあった。「アイシスト」。「無理に訳せば、氷主義者?氷教徒?」。一種の宗教団体らしい。

 「氷を讃えよ」と機首に書いた無人飛行機が飛んできて「シンディバード」号の甲板に南極の氷の"弾"を降らしていった。警告のつもりらしい。この船の位置を正確に知っていた。ということは、船内に同調者がいることを示している。世界中にシンパもいるらしい。

 アイシストは、こう主張する。文明の規模を大きくし過ぎて、様々なひずみが生まれた。そんな社会を「冷却する。過熱した経済を冷まして、投機を控えて、みんな静かに暮らす」

 著者は、まさしく3・11を産んだ現代社会を批判している。フィクションという大きなオブラートに包んで「開発と浪費の悪循環を断つべきだ」と主張している。

 3・11だけでなく、世界で起きている現象を見ると「アイシスト」のような主張集団が出ることは、当然のことと思える。本当に、こんな集団があるのではないかと、私はGoogleで検索までしてしまった・・・。

 氷山曳航作戦は突然、終幕を迎える。

 港に曳航された氷山が、突然割れたのだ。
 氷山内部の計測を担当する科学者が、内部に歪みがあり、割れる危険があるデーター隠していたらしい。彼は、独立独歩の環境テロリストだったようだ。

 このプロジェクトへの投資家を納得させるため、もういちど氷山プロジェジュトを実施するための資金計画が決まった。

 航行の途中でタンカーに運んでおいた水をペットボトルで売る。「融ける時にぴちぴち音がする」氷も切り出して世界中のバーに売る、という。
 私も昔、ある会合で南極の氷のオンザロック・ウイスキーを飲んだことがある。10万年の前に氷に閉じ込められた空気が氷の融けるのと同時にグラスにはねて軽やかな音がするのだ。

 崇高な氷山曳航作戦は地にまみれて、単なる金もうけの手段に陥ってしまった・・・。

 著者の本のことをこのブログに書くのは、 「すばらしい新世界」など、数回に及ぶ。特に、3・11以降、著者が多く描く自然と人間、科学と社会をテーマにした著作に引かれるためだろう。これからも、これらのテーマの著作に出あえたらと思う。

   

2010年11月30日

読書日記「メッテルニヒ 危機と混迷を乗り切った保守政治家」(塚本哲也著、文藝春秋刊)

メッテルニヒ
メッテルニヒ
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塚本 哲也
文藝春秋
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 まず、著者の塚本哲也氏についてふれたい。

 著者の「エリザベート ハプスブルグ家最後の皇女」(文藝春秋刊)のことを、このブログで書いたのは、昨年の11月末だった。

 この本で大宅壮一ノンフィクション賞を受け、オーストリア政府から勲章を授与された直後の2002年、脳出血で倒れて右半身まひとなった。ルリ子夫人とともに群馬県の老人ホームに入り、リハビリを兼ねて左手パソコンを打つ練習を始め「マリー・ルイーゼ」を執筆中の2005年。「メッテルニヒを書いたら」と励ましていたルリ子夫人を腹部大動脈瘤破裂で亡くした・・・。そんなすさまじい生きざまを、WEBなどで知った。

 ブログを書いた約2週間後。昨年の12月12日付け読売新聞朝刊で橋本五郎特別編集委員の記事「メッテルニヒに学ぶ」を読んだ。塚本さんの「メッテルニッヒ」が完成したことを、新聞広告で知った直後だった。記事には「妻との永別の寂しさを紛らわすため、左手だけのパソコンで1年半かけ書き上げた」と書かれていた。

 「亡き妻 ルリ子に捧ぐ」と書かれた本をさっそく読んだが、雑事に追われてブログに書くのに1年近くかかってしまった。

 18世紀の末から19世紀に活躍したオーストリアの政治家、メッテルニヒの生涯を時系列的に追いながら、その魅力たっぷりな人間性を書き込まれている。元・米国国務長官、キッシンジャーをうならせた外交手腕も、ジャーナリストらしい簡潔な筆致で浮かび上がってくる。「繰り返しが多い」という批判も一部にあるが、現在のEUの基礎を築いたと言われる頑固なまでの保守・平和主義?をその時代とともに浮かび上がらせて、あきさせない。

 フランスに大使として赴任したメッテルニヒは、その大国主義から「生涯の敵」としていたナポレオンと渡り合い、友情を深めて、故国・オーストリアに大きな貢献をする。ナポレオンのロシア遠征をいち早く確認し、その準備にとりかかれたのだ。

 八年後の一八〇二年、メッテルニヒは回顧している。
 「ナポレオンと私は、お互いに相手の動きを注意深く観察しながら、あたかもチェスをするように数年間を過ごしたのです。私が彼に大手をかけようとすると、彼は、私をチェスの駒もろとも打ち滅ぼそうとした・・・」(『回復された世界平和』キッシンジャー)。


 メッテルニヒが、真骨頂の外交手腕を発揮したのは、ナポレオン戦争のヨーロッパ体制を話し合うために開かれたウイーン会議だった。

 議長のメッテルニヒは、各国の対立をさますために、実質的な論議を遅らせることをいとわなかった。

 音楽の都の本格的なオーケストラで、美しい女性と舞踏会で踊るチャンスは滅多にあるものではない。シャンパン、ワイン、食事代はすべてメッテルニヒが払ってくれる。責任ある数ヵ国の代表団以外は、みんな笑顔のほろ酔い加減で、夜更けまで踊った。寝坊しても会議はないのだ。
 だから「会議は踊る、されど進まず」なのである。


 その間。メッテルニヒの巧みな誘導で領土問題の話し合いは妥結し、長くヨーロッパの国際秩序を守ったウイーン体制が確立された。

 十九世紀のウイーン会議は今日のヨーロッパにつながっていく重要な分岐点でもあった。


 しかし、均衡と秩序を守ろうとしたメッテルニヒは、歴史家から「保守・反動」と呼ばれ、盛り上がっていく産業革命の中で「次第に浮き上がり、取り残されることになった」。

 そして、たぐまれな外交家も老いには勝てなかった。

 用事もないのにぶらっと宮廷の皇族の部屋を訪れて、よく自分の想いを、頼まれもしないのに一方的に話していくことが多くなった。この二、三年ぶつぶついっていた。


 大柄だが、すらっとしていて、優雅だが勇気があって、よく話をするが、お喋りではなく、人の話に耳を傾ける時は上手に沈黙し、いつもユーモアとエスプリがあって、女性には親切で優しかった。


 かってフランス社交界を魅了し、多くの女性を愛人にしたそんな姿は、もううかがえなかった。

 メッテルニヒの人生の最後の言葉は「私は秩序を守る岩石である」というもので、一生を貫いた信念だった・・・


 ▽最近読んだ、その他の本
  • 「黙祷の時間」(ジークフリート・レンツ著、松永美穂訳、新潮社刊)
     はじめて知ったが、82歳のときにこの本を書いた著者は現代ドイツ文学を代表する作家だそうだ。
     18歳の高校生が、美しい英語教師・シュテラに恋をする。表題は、その追悼式のことだが、最初から最後までの静ひつな文章に引き込まれる。主人公を見守る父親、シュテラが愛した父親、2人の恋人たち・・・。どの人たちも、しっとりとやさしい。
     シュテラからもらった最後の絵葉書には、こう書いてあった。
     クリスティアン、愛は暖かくて豊かな波のようです」

     遺体は灰となって、海に吸い込まれ、花束が投げられる。
     運ばれていくこれらの花々は、ぼくにとって永遠に不幸を象徴するだろうな、と思った。喪ったものを、この華が慰めに満ちた姿で体現してくれたことは、けっして忘れないだろう、とも。

     この小説は「ウラ」という女性に捧げられている。訳者によると、2006年に56年間連れ添った妻に先立たれた著者は、2008年にこの本を書き、2010年に長年の隣人だった女性、ウラと再婚したという。
    黙祷の時間 (新潮クレスト・ブックス)
    ジークフリート・レンツ
    新潮社
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  • 「私は売られてきた」(パトリシア・マコーミック著、代田亜香子訳、金原瑞人選、作品社刊)
     図書館で借りようとしたら、児童書の書架に並んでいた。ヤング・アダルトという分野の本。このブログに書いた本もいくつかリストアップされている。
     ネパールの山村で育った13歳の少女が、わずかな金で継父に売られ、インドの売春街で悲惨な経験をしながら、アメリカ人のボランティアに救われる。
     少女の日記というかたちを取っているが、ジャーナリストでもある著者は「言葉にならない恐怖を経験した」多くの少女と面談し、インド・コルカタの売春街、救助・援助団体の人たちに取材を重ね、この小説を書いた。
     訳者は「シアトルの書店で、あどけない少女の写真に"Sold"というタイトルの表紙を見た瞬間、胸がざわざわし・・・」翻訳を決めたという。
    私は売られてきた (金原瑞人選オールタイム・ベストYA)
    パトリシア・マコーミック
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2009年11月23日

読書日記「エリザベート ハプスブルク家最後の皇女」(塚本哲也著、文藝春秋刊)

エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女
塚本 哲也
文藝春秋
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おすすめ度の平均: 4.5
4 興味深かったですが、社会情勢が複雑で難しかったです
4 興味深い本
5 一人の人の人生とは思えない!


 きつーい中国語教室の宿題に追われたり、パソコンが不調だったりして、ブログを書くのも久しぶりだ。

 1992年に発刊されたけっこう古い本だが、この夏に出かけた「ウイーン紀行」を、このブログに書いた後、急に再読したくなって本棚からひっぱり出して一挙に読んだ。2003年には文春文庫(上、下)にもなっている。

著者は、毎日新聞のウイーン支局長や防衛大学教授を歴任した人で、この本で大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。

 今年は、日本、オーストリアの交流年。様々な行事が行われており、先日も大阪・天保山で「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」を見てきたが、来年1月早々からは京都国立博物館で「THEハプスブルク」展も開かれる。

 この本の主役は、京都の展覧会でも活躍するであろう絶世の美女「皇妃エリザベート」ではない。その孫娘「エリザベト・マリー・ペネック」だ。

 シシイの愛称で知られる「皇妃エリザベート」は、日本でもなんどかミュージカルになっているが、孫娘「エリザベート」もそれに負けない波乱に満ちた一生を送った。

 17歳の時に宮廷舞踏会で出会った青年騎馬中尉に一目ぼれ、孫を溺愛する皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の「余は軍の最高司令官として・・・エリザベートとの結婚を命ずる!」という一言で、皇位継承権まで放棄して身分違いの結婚をする。
 4人の子供に恵まれるが、夫の浮気と金遣いの荒さ、知性のなさに悩まされ、長い離婚訴訟が続く。海軍士官レルヒとの悲恋、ハプスブルク家の崩壊。そして社会民主党の指導者レポルト・ペツネックとの出会い。社会民主党に入党し「赤い皇女」とも呼ばれた79年の異色の生涯を、筆者はち密な取材で綴っていく。

 「皇妃エリザベート」の生きざまが縦糸だとすると、筆者は大切な2本の横糸をこの物語に織り込んでいく。
  •  1つは、筆者が「あとがき」で書いているように、この本が「エリザベートとハプスブルク王朝を軸にした中欧の歴史物語」であるということ。
  •  2つ目は、ハプスブルク家の歴史が、現在のEU誕生の原型になっているということだ。
 

 「エリザベート」の父で、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子ルドルフは、エリザベートが4歳の時に愛人と情死してしまう。フランス名画「うたかたの恋」のモデルにもなったが、筆者はルドルフをこう評価している。

 政治的外交的に鋭い洞察力を持ち、いち早く二十世紀を視野に入れていた有能な皇太子であった。先見の明があり過ぎたために、保守的な(ドイツ頼みをやめようとしない)フランツ・ヨーゼフ皇帝と衝突、父との戦いに敗れての自殺であった


 後にフランス首相となり、反ドイツ主義者であったジョルジュ・クレマンソーに会った時に、ルドルフがこう語ったという。
 ドイツ人には全く理解できないらしい、オーストリアにおいてドイツ人、スラヴ人、ハンガリー人、ポーランド人がひとつの王冠の下で一緒に暮らしていることが、どんなに意義深く重要かをーー。・・・オーストリアは、様々な人種、民族が一つの統合された指導部の下で一緒になった連合国家なのだ。世界文明にとっても大切な理念だと思っている。


 エリザベートが生まれ、育った十九世紀末のウイーンは、画家のクリムトやシーレ、作曲家ヨハン・シュトラウス親子らが活躍し「世紀末」の繁栄に酔っていた。

 しかし思いがけず第一次世界大戦が勃発し、広大な版図を持つハプスブルク帝国は崩壊、古き良き時代は突然幕を降ろす。傘下にあった各民族はナショナリズムに燃え、それぞれ自らの国家建設に走り出し、四部五裂になっていく。ばらばらになった国々はみな小国で、国づくりの困難と格闘しているうちに、ヒトラーの餌食となり、続いてスターリンの圧政に苦しみ、不幸な苦難の途をたどった。


 「ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の経験をしなくてもすんだであろう」。英国の首相だったウイストン・チャーチルも嘆いている。

 第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争といわれる、ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争も、ハプスブルグ王朝の崩壊に遠因があったと言えなくもないかもしれない。

 しかし、著者はエピローグで明確に語っている。
 とはいっても、王朝の復活はありえないし、一度滅びた多民族国家はもはやもとに戻らないことを、ハプスブルク帝国崩壊の歴史は教えている。
 一方で、著者はもう一本の横糸を繰り出す。

 エリザベートは「汎ヨーロッパ運動主義」に関心を持ち、それを提唱「EUの父」とも呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーへの支援を惜しまなかった、というのだ。

 こんな記述がある。
 (ヒトラー率いるドイツのオーストリア併合の危機が迫るなかで)いち早く逃亡脱出したエリザベートの知り合いもいた。パン・ヨーロッパ運動のクーデンホーフ・カレルギー伯爵・・・
  映画「カサブランカ」の主要登場人物のモデルとなるクーデンホーフ・カレルギー伯爵の逃避行の始まりである。
クーデンホーフ家の墓碑。クーデンホーフ・ミツコの名前も刻まれている(ウイーン・ヒーツイング墓地で):クリックすると大きな写真になります

 この夏、ウイーン在住のパンの文化史研究者、舟井詠子さんに案内されてシェーンブルン宮殿南端にあるヒーツイング墓地にあるクーデンホーフ家の墓地を訪ねた。
 墓碑に刻まれた名前の一つに「グーテンホーフ・ミツコ」とある。日本名は「青山光子」。「EUの父」リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの母親である。



2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

下の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
右の欄の地名をクリックすると、その場所にマークが立ちます。また、その下のをクリックすると関連した写真を見ることができます。


2009年9月 2日

ウイーン紀行①「ウイーンの森」


 ウイーンの森への旅は、かって貴族の別荘だった館の庭にある小さな森から始まった。

オーストリアに640年にわたって君臨したハプスブルグ家の夏の離宮だった世界遺産・シェーンブルン宮殿のすぐ近く。ビーダーマイヤー時代最盛期の1825年に建てられたこの館に、アトリエを構えておられるパン文化史研究者、舟田詠子さんのゲストルームに泊まらせていただく幸運に恵まれたのだ。

 建物の玄関は石の壁と巨大な木の扉で守られているが、庭に面して大きなガラス窓のサンルームが広がり、外壁はカラマツのこけら板で覆われている。庭には、トウヒらしい巨木のほか、サクラ、レンギョウ、カリン、アンズ、モモ、洋ナシ、クルミなどの樹木が繁り、フジの大枝が伸び、壁をおおうツタの太い枝が時代を感じさせる。
奥の小山をぐるりと回って上ると、頂上のブドウ棚から「世紀末ウイーン」をリードしたウイーン分離派の建築家・ヨーゼフ・ホフマンが設計した館などが臨める。
 舟田さんのアトリエを含めたこれらの館は、ウイーンでも貴重な建築物として文化財の保護下にあるという。

 庭のテーブルに並べられた朝食の皿には、ウイーン名産のハム、ソーセージの逸品や野菜料理が盛られ、日曜日にはいくつも教会の鐘が次々と響いてくる。向いの作曲家の館からピアノの音まで聞こえてきて・・・。なんともはや「森の都」ウイーン文化の奥深さに圧倒されてしまった。

 
舟田さんのアトリエのある館:クリックすると大きな写真になります館の外壁:クリックすると大きな写真になります庭の小さな森:クリックすると大きな写真になりますウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸:クリックすると大きな写真になります
舟田さんのアトリエのある館。かって貴族は、この木のドアーを開けさせ、直接、馬車を乗りいれたという庭に面した外壁はこけら板とツタで覆われている庭の小さな森は奥深く、見あきないウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸


 さっそく、ウイーンの森の探訪に出かけた。シェーンブルン宮殿の周辺は、もう森の一部だという。
 宮殿の南西部にある公園は、歩く人も少ない広葉樹の森。ウイーンの森を管理するウイーン市森林局の事務所の横にある門をくぐって、宮殿南部の高台にある記念碑・グロリエッテへ。道を少しそれると、昼でも薄暗いブナなどの林が続く。
  森が急に切れて、細長い草原に出た。はるか下にウイーンの街並みが臨める。なんと、この草原は、ウイーンの街に森の冷気を送りこむ「風の道」なのだ。確か、皇居に風の道を通せば、東京都心のヒートアイランド現象はかなり緩和できるという話しを聞いたことがあったが、ウイーンの街は残された貴重な遺産を見事に生かしきっている。

シェーンブルン宮殿とウイーンの市街:クリックすると大きな写真になります宮殿内の森:クリックすると大きな写真になります「風の道」森の観察路の説明板:クリックすると大きな写真になります
グロリエッテから見たシェーンブルン宮殿とウイーンの市街人気も少ない宮殿内の森森を貫く「風の道」森の観察路の説明板


 マリア・テレジアの夫のフランツⅠ世が1792年、宮殿内に作った世界最古という動物園に入ってみた。
 パンダやペンギンは珍しくもないが、階段を上って森の木々や葉を下からでなく目の前で眺められる樹木観察路があるのが「森の都」の動物園らしい。
 所々に、樹木の葉や小鳥、小動物など森の住民を解説した掲示板まである。ブナ、シデ、シナノキ(菩提樹)、トネリコ、カエデなどの名前が書いてある。

 オーストリア連邦森林局(現在は民営化されてオーストリア連邦森林株式会社)の林業専門家であるアントン・リーダーが書いた「ウイーンの森―自然・文化、歴史―」(戸口日出夫訳、南窓者刊)によると、ウイーンの森の木々の75%がブナ、ナラなどの広葉樹、25%がクロマツ、トウヒといった針葉樹という。
 針葉樹が多いドイツの黒い森と違って、広葉樹がつくる明るい森がウイーンの人々の開放的でのんびりした気風を育てているのだろうか。

 著者と訳者によると、ブドウ畑や居住地を含めたウイーンの森の総面積はおよそ1250平方キロと、東京23区の2倍以上。
世界のいかなる大都市も、このような周辺部を持つものはなく、・・・その自然のなかで、ビーダーマイヤー時代には、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」やベートーヴェン「田園」が生まれ、ウイーンの森と音楽の都が結びついた


 舟田さんに、さらに森の奥へと案内してもらった。
 夕方、中心街・リンク沿いにあるウイーン大学前のショッテントーア駅の地下ターミナルで待ち合わせてトラム(路面電車)38番でワインを飲ますホイリゲが並ぶグリンツイングへ。そこで白ワインを軽く飲み、バス38Aで海抜484メートルのカーレンベルクに着く。

 カーレンベルクのことをアントン・リーダー氏は「忘れがたい場所」の筆頭にあげて、こう書いている。
頂からウイーンを見下ろせば、その中心にはシュテファン大聖堂も見える。少し先にベルヴェテーレ宮殿も見える。きらきら光るドナウ(川)のわきに国連都市のビルがあり、その右にプラーター(公園)の大観覧車も小さく確認できる。・・・真下の麓には一面に葡萄畑が広がり、それが上方のブナ林のなかに吸い込まれてゆく。


 この丘にある小さな教会にも、ウイーン市指定の史跡であることを示す国旗を模した旗が掲げてある。
1683年、ポーランド王率いるキリスト教連合軍が、この教会でミサにあずかった後、一気に斜面を駆け降りて、ウイーン城を包囲していたトルコ軍を急襲、敗走させた、という。

 ウイーンの森が終わるレオポルヅベルクまで森のなかを歩く予定だったが、時間がなくなった。ブドウ畑の間を早足で降りる。「ブドウ畑を持つ首都はウイーンだけ」と、舟田さん。

予約した7時は少し過ぎたが、ワインセラーの庭にはウイーンの街を真下に臨む席が用意されていた。降りた分だけ、街が近く見える。
 ローストポークにチーズ味のパテ、オリーブがいっぱい入ったサラダと、白ワイン。街が少しずつ夕日から夜景に変わっていく。ウイーンの森で飲むワインの一口、一口が、深く静かに身体に回ってきて・・・。

ホイリゲの陽気なボーイさん:クリックすると大きな写真になります;">カーレンベルクの丘から見たウイーン市街:クリックすると大きな写真になります;">キリスト教連合軍が祈願した教会:クリックすると大きな写真になりますワインセラーの団らん:クリックすると大きな写真になります
ホイリゲの陽気なボーイさん。チップはずみすぎ?カーレンベルクの丘から見たウイーン市街。左にドナウ川が見えるキリスト教連合軍が祈願した教会。18世紀初めに再建された(壁にあるのが、史跡指定の旗)ウイーン市街の夜景を眼下に、森のなかの団らんは続く


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