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2020年4月23日

読書日記「ペスト」(アルベール・カミュー著、宮崎峰雄訳、新潮文庫)

     2月の末に、このが話題になっているのを知り、AMAZONに注文したが、注文が殺到しているのか、さっぱり届かない。
 それを知った友人が倉庫の段ボール箱から探し出し、貸してくれた。「昭和63年7月、38刷」とある。活字が小さく、読むのに苦労した。

 194※年4月16日の朝、フランスの植民地であるアルジェリアの港町、オランに住む医師ベルナール・リューは、診療室から出ようとして階段で1匹の鼠の死骸につまずいた。・・・新聞は、約8千匹の鼠が収集されたと、報じた。

 具合が悪くなった門番のミッシェル老人を診にいくと、老人は苦しそうだった。

 
半ば寝台の外に乗り出して、片手を腹に、もう一方の手を首のまわりに当て、ひどくしゃくりあげながら、薔薇色がかかった液汁を汚物溜めのなかに吐いていた。・・・熱は三十九度五分で、頸部のリンパ腺と四肢が腫脹し、脇腹に黒っぽい斑点が二つ広がりかけていた。


 救急車の中で、老人は死んだ。やがて、街には死人があふれ出した。20年ほど前に本国のパリを襲い、黒死病と恐れられたペストの来襲だった。県には、血清の手持ちがない。当局の公布で、市の門が閉じられ、オランの街は封鎖された。

 
(電車の)すべての乗客は、できうるかぎりの範囲で背を向け合って、互いに伝染を避けようとしているのである。停留所で、電車が積んできた一団の男女を吐き出すと、彼らは、遠ざかり一人になろうとして大急ぎのていである。煩雑に、ただ不機嫌なだけに原因する喧嘩が起こり、この不機嫌は慢性的なものになってきた。


 街の中央聖堂の説教台にバヌルー神父が上がった。

 
「皆さん、あなたがたは禍のなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのです。・・・今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべきときが来たということであります」
 「あなたがたは、日曜日に神の御もとを訪れさえすればあとの日は自由だと思っていた。二、三度跪座(きざ)しておけば罪深い無関心が十分償われると思っていた。しかし、神はなまぬるいかたではないのであります」


 しかし、その後バヌルー神父は大きく変わる。「最初ペストに神の懲罰を見、人々の悔悛を説いていた彼は、救護活動に献身し、『少なくとも罪のない者』だった少年の死を目撃して、(あの説教)が『慈悲の心なく考えかつ言われた』言葉であったこと」を反省する。

 やがて、その神父も「寝台から半ば身を乗りだして死んでいる」のが発見される。

 鼠が再び姿を現し始めた。「統計は疫病の衰退を明らかにしていた」

  

だが、ペストが遠ざかり、最初音もなく出てきた、どことも知れぬ巣穴にまたもどろうとしているようにしているように見えたとき、市中で少なくとも誰かだけは、この引揚げ開始によって愕然たる思いに突き落とされていた。

 「この町のなかで、一向憔悴した様子も気落ちした様子もなく、さながら満足の権化という姿を保っている」犯罪者、コタールだった。

 市の門がついに開き、大通りは踊る人々であふれた。祝賀騒ぎをしている群衆に向かって、コタールは突然、自分の部屋から発砲して何人も傷つけ、警官に捕まった。

 医師のリューは、この歓喜する群衆の知らないことを知っていた。

 
ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴蔵やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来る日が来るであろうということを。


 今月の中旬、NHKの「100分de名著」という番組でこの「ペスト」が再放送されていた。

「ペストとは、人を殺すこと。書いた背景には、ナチスのユダヤ大虐殺があった」と、出席者はカミューの不条理の世界を解説していた。

   再放送の直後に、AMAZONから新潮文庫「ペスト」の増刷版がやっと届いた。この文庫本の累計発行部数は104万部に達したという。

book

2019年5月 4日

読書日記「受胎告知 絵画でみるマリア信仰」(高階秀爾著、PHP新書)



《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)
高階 秀爾
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 受胎告知は、聖母マリアが、大天使ガブリエルから精霊によってキリストを懐妊したことを告げられるという新訳聖書の記載のことを示している。古くから西洋絵画の重要なテーマだった。

 著者は、この本の副題に「マリア信仰」という言葉を使っているが、カトリック教会では、聖母マリアを信仰の対象にすることを避けるためマリア(聖母)崇敬」という言葉を使っている。

 著者が最初に書いているとおり、受胎告知の事実は、新訳聖書ではごくあっさりとしか書かれていない。
 個人的には、これは聖ペトロを頂点とした初代教会が男性中心のヒエラルキー社会であったため、意識的に"女性"を排除しようとしたせいではなかったかと疑っている。しかし、受胎告知、聖母マリア崇敬が初代教会の意向を無視するように民衆の間に広がっていった現実を、この著書をはじめ参考にした本は歴然と示している。

 特に、伝染病のペスト(黒死病)がまん延し、英仏間の百年戦争が続いた13,4世紀のゴシックの時代には、聖母崇敬が強まり、聖母マリアに捧げる教会が増えていった。

 このほど大火災の被害に遭ったフランス・パリのノートルダム大聖堂を筆頭に各地にノートルダムという名前の教会の建設が相次いだ。フランス語の「ノートルダム」は「わたしの貴婦人」つまり聖母マリアのことをさすという。

 教会は普通、祭壇をエルサレムに向けるため、東向きに建てられ、正面入り口は西側に作られる。ゴシックの時代には、この西入口に受胎告知や聖母子像を飾る教会が増えた。
 入口の「アルコ・トリオンファーレ(凱旋アーチ)」と呼ばれる半円形アーチの上部外側に、大天使ガブリエルと聖母マリアを配する「受胎告知」図がしばしば描かれた。

 代表的なのは、イタリア・パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に描かれたジョットの壁画。凱旋アーチの左に大天使、右に聖母マリアが配置されているらしい。
 この礼拝堂には、十数年前にイタリア巡礼に参加した際に訪ねているが、残念ながら両側の壁画の記憶しかない。

 15世紀のルネサンス期には、様々な巨匠が「受胎告知」というテーマに挑んでいく。
 イタリア・フレンツエにあるサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェルコの作品は、「受胎告知」と聞いたら、この作品を思い浮かべる人も多そうだ。

 このブログでもふれたが、作家の村田喜代子はこの受胎告知についてこう書いている。

 「微光に包まれたような柔らかさが好きだ。・・・受諾と祝福で飽和して、一点の矛盾も不足もない。満杯である」

 十数年前に訪ねたが、作品は2階に階段を上がった正面壁に掛かっていた。同じ日本人旅行者らしい若い女性が、踊り場の壁にもたれて陶然と眺めていた。

   このほかの代表作として著者は、同じフレンツエのウフイツイ美術館にあるボッティチェリ、ダビンチの「受胎告知」を挙げている。イタリア巡礼で見たはずだが・・・。

 岡山・大原美術館長である著者は、同館所蔵のエル・グレコの「受胎告知」を取り上げている。
 大天使が宙に浮いている対角線構図が特色。ルネサンスからバロックに移行する前のマニエリスムの特色が現れている作品だという。

 「受胎告知」というテーマは、アンディ・ウオーホルなど現代ポップアートの旗手らも取り組んでいる。著者は本の最後をこう結ぶ。

 「人々はジョットやダ・ヴィンチ、グレコらの作品を鑑賞したのではなく、深い信仰の念に包まれて、絵の前で心からの祈りを捧げたのである」

「受胎告知」絵画  クリックすると大きくなります。
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 ※参考にした本
 「聖母マリア崇拝の謎」(山形孝夫著、河出ブックス)「聖母マリア崇敬論」(山内清海著、サンパウロ刊)「黒マリアの謎」(田中仁彦著、岩波書店)「聖母マリアの系譜」(内藤道雄著、八坂書房)「聖母マリアの謎」(石井美樹子著、白水社)「聖母マリア伝承」(中丸明著、文春新書)「ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂}(渡辺晋輔著、小学館)

2011年12月20日

読書日記「ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻1968」(ジョセフ・クーデルカ著、阿部憲一訳、平凡社刊)。そして「プラハ紀行」(2011年5月)



ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻 1968
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 1968年8月、共産党政権下のチェコスロバキアで起きた民主化運動 「プラハの春」をあっけなく踏みつぶしたソ連のチェコ侵攻。首都・プラハの市民たちは、武器も持たずに素手と言葉で戦車に立ち向かっていった。それをつぶさに記録した30歳のカメラマンがいた。
 フィルムは秘かにアメリカに持ち出され、匿名のまま発表され、 ロバート・キャパ賞を受賞した。匿名作者が ジョセフ・クーデルカとして名乗ることができたのは、父親が死んだ1984年のことだった。

 その写真集の日本語版が、今年の春に出版された。B4変形判295ページ、なんと重さが2キロもあるアルバムをめくるたびに、衝撃のシーンが胸に迫ってくる。

チェコ橋;クリックすると大きな写真になります
ホテルから見たチェコ橋。正面奥がレトナー公園。左手にプラハ城が広がる
 ソ連軍率いる ワルシャワ条約機構軍の戦車と装甲車はあっという間に国境を越え、 ブルタバ川に架かるチェコ橋を封鎖してしまう。橋の北にあるレトナー公園の丘から市民たちが乗り出すように戦車群を見降ろしている写真がある。

今年の春にプラハを訪れた際、近くのホテルに泊まり、橋詰にある天使の石塔を見上げながら何度か行き来しただけに、40数年前にそんな歴史を刻んでいた橋だったのかと戦車に占拠された橋の姿が目に焼き付いて離れなかった。

老人や子供は、あっけに取られて戦車群を見ているしかない。サラリーマン風の男性もしかりだ。左手を額につけ、顔をしかめて嘆きながら街を歩く中年女性のカット写真も、アルバムの冒頭にあった。

旧市庁舎の天文時計;クリックすると大きな写真になりますヤン・フス像;クリックすると大きな写真になります
旧市庁舎の天文時計。毎正時に時計の上のしかけ人形が動き出すアダムとイヴを象徴する2つの塔が特徴のティーン教会。右手前が、ヤン・フス像
 何度か出かけた 旧市街広場は、旧市庁舎のからくり人形や天文時計、2本の塔が目立つゴシック様式のティーン教会を訪ねる観光客でごった返していた。

 しかし1968年夏には、その広場の中央に据えられた宗教改革の先駆者、 ヤン・フス像の周りも戦車で占拠された。その前を、1人の少年が恐怖心を押し隠すように前かがみになりながら乳母車を押している写真が印象的だ。

 しかし、市民らは静かに立ち上がる。

 戦車の上で休憩するソ連兵を 幾重にも取り囲み、通じない言葉で抗議の爆弾を投げつける。戦車のソ連兵に向かって、片手を伸ばし絶叫する 若者、戦車にナチスを表す「卍」マークを張り付ける勇気ある 女性

 火炎砲の攻撃を受けたラジオ局を棒と国旗で守ろうとする 2人の若者、敵の戦車によじ登って抗議の旗を振りかざす 青年・・・。衝撃のショットが続く。

 この写真集には、プラハ侵攻後の様々な資料が、日本語に翻訳されて掲載されている。

 プラハ侵攻が始まった8月21日に ドウプチェク第一書記が率いるチェコスロヴァキア共産党プラハ市委員会がラジオで流した宣言には、こうある。
 「偶発的な挑発は決して行わないでください。現在、武力による防御はもはや不可能です・・・」

 替わりに市民らは「見事なアイデアを思いつく」

「何十万という無名の、素性の知られていない人々が街路や広場の名前が書かれた標識を破壊し、番地の標識すら消してしまった。・・・招かれざる客にとって、プラハは死んだ町と化したのだ。ここで生まれなかった者、ここに住んでいない者は、100万人の匿名都市を目のあたりにする。占領軍がここで見出すのは、多種多様な抗議文だけだろう」

「イワン、家に帰れ、ナターシャが待ってるぞ」
「ソ連兵よ、家に帰って、どうしてチェコスロヴァキアにいたのと子どもに尋ねられたら、何と答える?」
「顔を上に向けろーーー手は上げるな!」

 あのヤン・フス像の黒い壁面には、なぜか英語で「GO HOME」そして「卍=☆」のマークが、何度消されても描かれた・・・。

ヴァーツラフ広場;クリックすると大きな写真になりますヴァーツラフ広場脇の建物群;クリックすると大きな写真になります
ヴァーツラフ広場のヤン・パラハ慰霊プレート。奥が聖ヴァーツラフ騎馬像。その奥が、国立博物館ヴァーツラフ広場脇の建物群。黄色いホテルの壁面に銃痕が残っている、というkとだったが・・・。
 プラハに来て2日目の朝。プラハのシャンゼリーゼといわれる ヴァーツラフ広場に行った時は、どしゃぶりの雨だった。北西から南東に伸びる通りの南端。 聖ヴァーツラフの騎馬像の前に ヤン・パラフの慰霊プレートがあった。

 1969年1月。前年夏の「プラハの春」挫折に抗議して、学生ヤン・パラフはこの場所で焼身自殺した。小さな像を刻んだプレートの周りは、40数年後というのに小さな花輪やロウソクであふれていた。

 広場の両側は、ブランド品の店やホテルが並んでいる。一部の建物には侵攻の際、ソ連兵が威嚇射撃した銃弾の跡が残っている、という。カメラで追ってみたが、どしゃ降りの雨の暗さで確認できなかった。

 ジョセフ・クーデルカの写真集で、特に衝撃的な写真の2枚が印象に残っている。  1枚は、ヴァーツラフ広場を埋め尽くしている抗議の人たちの座り込みの写真だ。私が訪ねた時にはなかった市電の線路と石畳が伸びている。周りには、両側はソ連軍などの戦車と装甲車が砲準を向け、一発触発だったらしい。

 もう1枚は、人っ子一人いないヴァーツラフ広場を見下ろす窓に差し出された 左腕らしい写真。腕時計は午後6時を指している。写真集の資料には、こうある。  「(座りこんでいる人々に向かって)警察の拡声器が響いた。父親のような声だった。『さあ、馬鹿なことをしないで、解散するんだ。占領軍にいい口実を与えるじゃない。彼らの目的は何かわかっているだろう・・・』。・・・しぶしぶと群衆は三々五々解散を始めた。30分後には、広場に静寂がもどった」
 人っ子1人いない広場の情景は、8月22、23日の2度にわたって見られた。

 ブタペスト経由でプラハを訪ねた機中で小説 「プラハの春 上・下」(春江一也著、集英社文庫)を読んだ。「プラハの春」の挫折を題材にしてベストセラーとなった。軸は、プラハ駐在の日本人外交官と2人の女性とのロマンスだが、焼身自殺したヤン・パラフも主要な役割で登場し、プラハ侵攻の様子や外交交渉にも多くのページが割かれている。

 しかし、ジョセフ・クーデルカの写真集とそこに転載された文献とは、事実が少し異なる。写真と事実を積み重ねたドキュメンタリーの威力を痛感した。

 「プラハの春」から21年後、1989年の無血革命 「ビロード革命」で、共産主義国・チェコスロヴァキアは民主化された。その立役者となったハヴェル前大統領が、今月18日に死去した、という。

 チェコスロヴァキアからチェコ共和国となった首都・プラハは、その前に訪ねてハンガリーのブタペストに比べても民主化の果実を満喫しているように見えた。
 黒っぽい地味な服装が多かったが街を歩く人々の表情は明るく、ビアホールは夕方から地元の人たちで超満員。チェコ・フイルハーモニーの演奏を聴いた音楽公会堂 「ルドルフイヌム」は、正装の観客であふれていた。
 「建築の森」の別名がある通り、ロマネスク、ゴシック、アールヌーヴォからキュービスム様式の建物まで楽しめた旅だった。