検索結果: Masablog

このブログを検索

大文字小文字を区別する 正規表現

Masablogで“ユダ”が含まれるブログ記事

2020年4月23日

読書日記「ペスト」(アルベール・カミュー著、宮崎峰雄訳、新潮文庫)

     2月の末に、このが話題になっているのを知り、AMAZONに注文したが、注文が殺到しているのか、さっぱり届かない。
 それを知った友人が倉庫の段ボール箱から探し出し、貸してくれた。「昭和63年7月、38刷」とある。活字が小さく、読むのに苦労した。

 194※年4月16日の朝、フランスの植民地であるアルジェリアの港町、オランに住む医師ベルナール・リューは、診療室から出ようとして階段で1匹の鼠の死骸につまずいた。・・・新聞は、約8千匹の鼠が収集されたと、報じた。

 具合が悪くなった門番のミッシェル老人を診にいくと、老人は苦しそうだった。

 
半ば寝台の外に乗り出して、片手を腹に、もう一方の手を首のまわりに当て、ひどくしゃくりあげながら、薔薇色がかかった液汁を汚物溜めのなかに吐いていた。・・・熱は三十九度五分で、頸部のリンパ腺と四肢が腫脹し、脇腹に黒っぽい斑点が二つ広がりかけていた。


 救急車の中で、老人は死んだ。やがて、街には死人があふれ出した。20年ほど前に本国のパリを襲い、黒死病と恐れられたペストの来襲だった。県には、血清の手持ちがない。当局の公布で、市の門が閉じられ、オランの街は封鎖された。

 
(電車の)すべての乗客は、できうるかぎりの範囲で背を向け合って、互いに伝染を避けようとしているのである。停留所で、電車が積んできた一団の男女を吐き出すと、彼らは、遠ざかり一人になろうとして大急ぎのていである。煩雑に、ただ不機嫌なだけに原因する喧嘩が起こり、この不機嫌は慢性的なものになってきた。


 街の中央聖堂の説教台にバヌルー神父が上がった。

 
「皆さん、あなたがたは禍のなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのです。・・・今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべきときが来たということであります」
 「あなたがたは、日曜日に神の御もとを訪れさえすればあとの日は自由だと思っていた。二、三度跪座(きざ)しておけば罪深い無関心が十分償われると思っていた。しかし、神はなまぬるいかたではないのであります」


 しかし、その後バヌルー神父は大きく変わる。「最初ペストに神の懲罰を見、人々の悔悛を説いていた彼は、救護活動に献身し、『少なくとも罪のない者』だった少年の死を目撃して、(あの説教)が『慈悲の心なく考えかつ言われた』言葉であったこと」を反省する。

 やがて、その神父も「寝台から半ば身を乗りだして死んでいる」のが発見される。

 鼠が再び姿を現し始めた。「統計は疫病の衰退を明らかにしていた」

  

だが、ペストが遠ざかり、最初音もなく出てきた、どことも知れぬ巣穴にまたもどろうとしているようにしているように見えたとき、市中で少なくとも誰かだけは、この引揚げ開始によって愕然たる思いに突き落とされていた。

 「この町のなかで、一向憔悴した様子も気落ちした様子もなく、さながら満足の権化という姿を保っている」犯罪者、コタールだった。

 市の門がついに開き、大通りは踊る人々であふれた。祝賀騒ぎをしている群衆に向かって、コタールは突然、自分の部屋から発砲して何人も傷つけ、警官に捕まった。

 医師のリューは、この歓喜する群衆の知らないことを知っていた。

 
ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴蔵やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来る日が来るであろうということを。


 今月の中旬、NHKの「100分de名著」という番組でこの「ペスト」が再放送されていた。

「ペストとは、人を殺すこと。書いた背景には、ナチスのユダヤ大虐殺があった」と、出席者はカミューの不条理の世界を解説していた。

   再放送の直後に、AMAZONから新潮文庫「ペスト」の増刷版がやっと届いた。この文庫本の累計発行部数は104万部に達したという。

book

2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

170531-01.jpg 170531-02.png
170531-03.jpg 170531-04.jpg 170531-05.jpg

② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

170531-11.jpg 170531-12.jpg

 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
170531-13.jpg

 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

170531-15.jpg 170531-16.jpg

③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

170531-31.jpg 170531-32.jpg

170531-33.jpg 170531-34.jpg

 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

170531-35.jpg

 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

170531-36.jpg

 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

170531-39.jpg

 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
170531-38.jpg 170531-37.jpg

④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
170531-42.jpg 170531-41.jpg

⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
170531-51.jpg

 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
170531-52.jpg 170531-53.jpg

⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

170531-61.jpg 170531-62.jpg

 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
170531-64.jpg

 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
170531-66.jpg

⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
170531-71.jpg 170531-721.jpg

 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
170531-74.jpg

⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
170531-81.jpg

⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
170531-91.jpg

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
170531-92.jpg

 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
170531-93.jpg

 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
170531-95.jpg

 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
170531-94.jpg

 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
170531-96.jpg



2016年12月28日

映画鑑賞記「ニコラス・ウイントンと669人の子どもたち」(マティ・ミナーチェ監 督)、 読書日記「キンダートランスポートの少女」(ヴェラ・ギッシング著、木畑和子 訳、未来社)


キンダートランスポートの少女
ヴェラ ギッシング
未来社
売り上げランキング: 347,727


 クリスマスの日。ナチスによるユダヤ人迫害に興味を持ち続けている友人Mに誘われて、この映画を見た。
 主役は、イギリス人のニコラス・ウイントン

cap-01.jpg

ユダヤ人を虐殺から救ったオスカー・シンドラー杉原千畝やこのブログにもアップした小辻節三以外にも、こんな人物がいたことを初めて知った。

 第2次世界大戦直前。ロンドンで株式仲買人をしていた29歳の時、かかってきた1本の電話がニコラス・ウイントンの運命を変えた。

 かけてきたのは、一緒にスイスにスキー旅行に出かける計画をしていたチェコの友人。ナチスによる迫害の危険が迫っており、プラハの街に住むユダヤ人を救援するために旅行をキャンセルしたい、という。

 よく事情が分からないまま、ニコラスはプラハに飛ぶ。そして、ユダヤの子供たちをチェコから連れ出す「キンダートランスポート(子供の輸送)」プロジェクトを始める。しかし、アメリカをはじめ各国はこの計画に冷たく、子供たちの受け入れを拒否した。
 ユダヤ難民の受け入れで、失業者がさらに増え、反ユダヤ主義が高まるのを懸念したのだ。
 ようやく受け入れを認めたのがイギリスだった。ただ、50ポンドの保証金を政府に払い、里親を確保すること、その費用はすべてニコラスらが立ち上げた民間団体が負担する、という条件を付けた。ニコラスは、ロンドンの自宅を事務所にし、プラハとロンドンの友人らに助けられて、旅行許可証や入国許可証を取得するための書類作成や里親を確保する仕事に没頭した。時には、許可証を偽造することまでした。

 そして、最初に200人の子どもを乗せた列車がプラハ・ウイルソン駅(現在のプラハ本駅)を出発、計8本の列車が仕立てられて計669人の子どもたちを逃し、彼らは生き延びた。

cap-02.jpg

 チェコでの帰属意識や財産、仕事を捨てきれなかったこともあったのか。残った親たちは、その後の第2次世界大戦の勃発によるナチ・ドイツ軍の侵攻で、強制収容所に送られ、ほとんどの人が亡くなった。

cap-03.jpgcap-032.JPG この映画の原案本となった「トランスポートの少女」の著者、ヴェラ・ギッシングも、この列車に乗った1人、当時10歳だった。
ギッシングは、この著書のなかで駅を出発した時のことをこう回想している。




 駅のホームでは不安な面持ちの親たちがあふれかえり、列車は興奮状態の子供たちでいっぱいでした。そこで繰り広げられていたのは、涙と、最後の注意と、最後のはげましと、最後の愛の言葉と、最後の抱擁でした。出発の笛がなると、私は思わず「自由なチェコスロヴァキアでまた会おうね!」と叫びました。その言葉に、私の両親もまわりの人も、近くにいるゲシュタポを気にして不安そうな顔になりました。汽車がゆっくりと動き始めると、多くの人びとの中、私の目には、身を切られるような苦しさを隠そうと必死に笑顔を浮かべる最愛の両親の姿しか入りませんでした。


   確かに映画でも、列車はドイツの軍服に囲まれていた。
 ナチが支配しているなかで、子どもたちだけでも、なぜ出国できたのか?

 このことについて、「トランスポートの少女」の訳者である木畑和子・成城大学名誉教授は、映画のパンフレットで「当時のナチ政権がまずとったのは、ユダヤ人の強制的出国政策であった」と解説している。この政策の目的の1つは「ユダヤ人たちの資産を奪い、貧窮化したユダヤ人を大量入国させて、相手国の負担にさせることであった」

 子どもたちを乗せた列車は、ナチが支配する恐怖のニュールンベルク、ケルンを抜け、オランダのから船でイギリスに渡り、ロンドンに着いた。

 途中、オランダの停車駅では、民族衣装の女性たちがオランダ名産のココアと白いパンをふるまってくれた。
 この白いパンを食べたであろうヴェラ・ギッシングはしかし、著書のなかでは丸くて堅いチェコのパンを何度もなつかしがっている。

cap-04.jpg
cap-05.jpgcap-06.jpg

 ニコラスのリストには、出国させるべき6000人の子どもの名前が載っていた。
 しかし、250人の子どもたちを乗せた9本目の列車が出発しようとした1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦が勃発した。計画は中止され、子供たちは強制収容所で死んだ。

 これを悔やんだニコラスは、彼の偉業についてけっして語ろうとせず、里親や助けた子どもたちとも会わなかった。

 それから50年後、1988年のある日。ニコラスの2度目の妻グレタが屋根裏部屋でほこりをかぶった1冊のスクラップブックを見つけた。そこには、ニコラスが救った子どもたちの住所などの詳細な記録が残っていた。

 ニコラスによって生かされた80人の"子どもたち"が見つかり、テレビ番組で対面した。

cap-07.jpg

 世界中で暮らす"生かされた"子どもたちと、その子や孫は約2200人に及ぶという。

 彼らや、ニコラスの行動に感動した多くの人々は、世界各地で様々なボランティア活動を始めた。それが"ニコラスの遺産"となって、今でも大きく広がり続けている。

 ニコラス自身も、自らの活動を多くの子どもたちに語り始めた。
 エリザベス女王からナイトの爵位を与えられ、チェコの大統領からも栄誉勲章を受けた。2015年、106歳で世を去った。

cap-08.jpg

 子どもたちが到着したロンドンの リヴァプール・ストリート駅前には、当時の様子を残した銅製の群像が立っている、という。

cap-09.jpg

2016年4月23日

読書日記「イエス伝」(若松英輔著、中央公論新社刊)



イエス伝
イエス伝
posted with amazlet at 16.04.23
若松 英輔
中央公論新社
売り上げランキング: 86,208


 本の冒頭近くに出てくる著者の指摘に、エッと思った。

 「奇妙なことに、イエスの誕生を物語る福音書のどこを探しても、『馬小屋』に相当する文字は見当たらない」

 「イエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれた」。それは、キリスト信者なら子供でも知っている常識だろう。

 所属していたカトリック芦屋教会でも、クリスマス前になると、祭壇の脇に小さな馬小屋の模型と聖母子の塑像を故浜崎伝神父が置いていた。そして、前の芦屋川から採ってきた草やコケで馬小屋の周りを飾る手伝いをさせられたものだ。

 いや、今でも世界中の教会や家庭で同じような馬小屋の模型が作られ、クリスマスの準備をしている。

 しかし著書は20世紀のアメリカ人神学者であるケネス・E・ベイリーの 「中東文化の目で見たイエス」の一節を紹介、「イエスが中東の人であることを(世界の人は)忘れている」と強調する。

 「西欧的精神の持主にとって、"飼い葉桶"という語は"馬屋"や"納屋"という語を連想させる。しかし、伝統的な中東の村ではそうではない」

 聖書の記述( ルカ伝2章4~7節)によれば、イエスの父 ヨセフは、ダビデ王の血を引く人だった。「客人に対して、ゆえなき無礼な行いをするのは不名誉なことこの上ない」中東人にとって、王族につながる旅人であるヨセフ、 マリア夫婦は歓迎さるべき客人だった。

 しかし、一行が訪ねた家の客間には先客がおり、家族が暮らす居間に通された。

 家畜を大切にする当時の中東の村では、居間の端に複数の飼葉桶が床石を掘って造られていた。

 「出産に際して、男たちは部屋から出され、女たちがマリアに寄り添う。マリアは庶民の家の居間で、彼女たちに見守られ、歓待されながらイエスを産んだ」。そして、聖書にあるとおり居間の「飼い葉桶に寝かされた」

 ベツレヘムに着いたヨセフ一行がやっと見つけられたのは、貧しい馬小屋。そこで生まれたイエスを祝ったのは、貧しい羊飼いたち。
 我々が、長年信じてきた物語は、西欧文明が作った虚構だったのだ。

 中東に住む聖書学者たちは、この事実を以前から理解していた。「しかし、西欧のキリスト教神学界が、長く中東文化圏の声を無視してきた」と、ベイリーは訴えている。

 だが、著者は「ベイリーが指摘したいのは、誤りの有無ではなく、新たなる聖書解釈の可能性である」という。

 
幼子イエスは、羊飼いのような貧しく身分の低い人々だけでなく、ヨセフらを迎え入れた普通の庶民や富裕な人々、「王」への貢物を持参した異教の預言者たちのためにも世に下ったのだ。
 「イエスは、救われない、孤独であると苦しむ人に寄り添うために生まれた」


 ベイリーは、イエス降誕を論ずる1文の最後を、こう締めくくっている、という。

 「確かにわれわれはわれわれのクリスマス劇を書き直さなければならない。しかし書き直されることによって、物語は安っぽくされるのではない。かえって豊かなものにされるのである」

 この本には、以前から気になっていたいくつかのことが記述されている。

 例えば、イエスと関わる女性たちのことだ。

 カトリック教会には、イエスが捕えられ、十字架につけられるまでの14の行程について書かれた 「十字架の道行き」という祈りがある。どこの教会でも、各場面を描いた木彫りや陶板の聖画が両側の壁に掛けられており、信者はその聖画を順に回ってイエスの受難を思って祈るのだ。

 イエスは、十字架を背負わされて処刑場に向かう途中、何度も倒れる。それを見て、 ヴェロニカという女性が駆け寄り、汗を拭いてもらおうと自分のベールを差し出す場面がある。

 
死刑の宣告を受けたイエスの近くに寄ることは命を賭けた行いだった。男の弟子たちにはそれが出来なかった。「十字架の道行』では、イエスの遺体を引き取るまで、男の弟子たちの姿は描かれない。道中、イエスに近づいたのは女性の弟子ばかりである。


 
イエスの時代、女性が虐げられることは少なくなかった。だが、イエスはその文化的常識も覆したのである。


 十字架で処刑される場に居合わせたのも、女性の弟子たちだけだった。

 共観福音書マタイ伝マルコ伝、ルカ伝)では、(女性たちは)「遠くに立ち」十字架上の見守っていたと記されている。

ヨハネ伝の記述はなまなましい。女性たちは「十字架の傍らに」たたずんでいたと書かれている。女性たちとはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。・・・
 天使たちのよって、イエスの復活を最初に伝えられたのもマグダラのマリアを含む三人の女性たちだった。


 イエスが誕生する前にも、女性を重視する記述が聖書に書かれている。

 身籠っていたマリアは、のちにイエスに洗礼を授けることになる ヨハネの母 エリザベトに会いにいく。
 エリザベトは、 聖霊の働きでマリアの子が救世主であることを知り、こう語りかける。

 「あなたは女の中で祝福された祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」(ルカ伝1章42)

 
この一節こそ・・・"人間の口"を通して、もっとも早い時期にイエスが「主」すなわち救世主であることが告げられた場面なのである。  ルカ伝は・・・圧倒的な男性優位の当時の社会で、女性・・・に大きな役割があることを示そうとする。このことにもまた、今日再度顧みるべき問題がある。


ペトロを中心に、男性重視の組織を形成してきた 原始キリスト教会は、あえて女性の存在を軽視し、イエスに近いマグダラのマリアを「罪深い女(娼婦)」と呼ぶことさえいとわなかった。

 それが、第2バチカン公会議以降になって、やっと見直しが始まったらしい。
 その動きが、女性司祭の登場などにつながるかどうかは、あまりに"遠い道筋"だろうが・・・。

 若松英輔は、イエスを裏切った弟子・ユダのことに何回も言及する。

 そして「イエスはユダの裏切りを知りながら、なぜ回避しなかったのか」「ユダの裏切りは自由意思によるものなのか」など、以前から多くの神学者、哲学者が取り組んできた問題に答えようとする。

 聖書によれば、「最後の晩餐」の席上、イエスはユダに「しょうとしていることを、今すぐしなさい」と言い、ユダは逃げるように出ていく。

   その後のヨハネ伝の記述は「共観福音書などとは著しい違いがある」と、著者は言う。

 
さて、ユダがでていくと、イエスは仰せになった。
   「今こそ、人の子は栄光を受けた。
 神もまた人の子によって
  栄光をお受けになった
 神が人の子によって
 栄光をお受けになったのなら、
 神もご自身によって
 人の子に栄光をお与えになる。
 しかも、すぐにも栄光をお与えになる。(13章31~32)


 
「今こそ」との一語は、ユダの裏切りもまた、自身の生涯が完成するために避けて通ることができない出来事であることを示している。そのことによって、「神もまた」栄光を受けるとまで、イエスは語ったのだ。


 イエスは、神の意志による受難を実現するために、ユダに裏切りを促したということだろうか。しかし、そのことが「イエス、神が栄光を受ける」ことにつながるという聖書の言葉は、あまりに難解だ。

 ユダについての記述は、まだまだ続く。

 
福音書を読んでいると、イエスのコトバに真実の権威、威力、意味をどの弟子よりも敏感に感じ取っていたのがユダだったように思われてくる。・・・彼は、師のコトバを受容することに戦慄を伴う畏れと恐怖を感じている。・・・


   
弟子たちの中で自ら意図して裏切りを行ったのはユダだけだった。・・・もっとも美しく、また聖らかで、完全を体現している、愛する師を裏切ったユダは、イエスの実相にもっとも近づいた弟子だったのかもしれない。その分、ユダの痛みは深く、重い。


 
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


 「姦通の女」の記述は、ヨハネ伝8章に詳しい。

 
この記述を読んで、「女」に自分を重ね合わせない者は少ないだろう。今日の私たちも彼女に「石」を投げることはできない。この「女」はイエスを裏切ったユダを象徴している。


 
誤解を恐れずに言えば、ユダは私たちを含む「人間」という、罪から免れることはできない存在の象徴でもある。


 ここで著者は 遠藤周作の小説 『沈黙』の最後の場面を引用する。棄教を迫られて踏み絵を踏んだ司祭がイエスと対話する場面だ。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせといわれた。ユダはどうなるのですか」
 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」


遠藤は、ユダを人類の代表者として描いている。ユダの裏切りは、いつもイエスの赦しと共にある。イエスは、人の弱さを裁く前に寄り添う。


 このブログでも書いたのだが、 故井上洋治神父 「遺稿集『南無アッパ』の祈り」のなかで、同じようなことを強調しておられたことを思い出した。

 某日刊紙の書評子によると「今、もっとも注目を浴びていると言っていい批評家」である若松英輔は、故井上神父を師と仰いでいる、という。

2016年2月24日

「命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民」(山田純大著、NHK出版)

命のビザを繋いだ男―小辻節三とユダヤ難民
山田 純大
NHK出版
売り上げランキング: 28,101


 亡命を求めるユダヤ人の求めに応じて、 リトアニアの地で日本行きのビザを発行し、6000人ノユダヤの命を救った日本人外交官 杉原千畝。その名前は、あまりに有名になってしまった。

 しかし、短期ビザで日本に来たはずのユダヤ人は、どうして安住の地に旅立つことができたのか・・・。

 先月、ある会合でこんなことが話題になった時、この会の主唱者である元銀行家のK氏が紹介してくれたのが、この本。

 あまり期待もせずに、図書館で借りた。意外に面白かった。

 小辻節三。始めて聞いた名前だ。この本の表紙などで見ると、口ひげを生やした細おもての朴訥そうな人物。実はこの人が、日本に亡命して来たユダヤ人の「命のビザを繋いだ男」だった。

 京都の神官の家に生まれた小辻はある時聖書に出会い、勘当同然の身で、東京・ 明治学院大学神学部に進学、牧師になる。しかし、新約聖書の教義に疑問を持ち、旧約聖書を学ぶために、妻子を連れて渡米する。

 旧約聖書の研究から、当然のようにユダヤ教に興味を持つ。 古典ヘブライ語の研究で博士号を得て帰国するが、不遇の日々が続く。

 1938(昭和13)年、小辻のもとに南満州鉄道(略称・満鉄)総裁の 松岡洋右(後の外務大臣)から「総裁アドバイザーとして働いてほしい」という招へい状が舞い込み、一家を挙げて満州に渡る。

 当時、日本陸軍は、河豚計画」という奇怪な作戦を進めていた。
 ヨーロッパでナチス・ドイツに迫害されつつあったユダヤ難民を満州に大量移住させ、ユダヤ系米国人の政治力で、満州で米国の協力を得ようとするものだった。

 間接的にこの計画にかかわった小辻は、満州でのユダヤ人との会議で、古典ヘブライ語を駆使した演説をして喝采を博した。

 松岡が、外務大臣になった直後に、小辻も満鉄を辞し、帰国した。

 同じころ、杉原千畝に「命のビザ」をもらった6000人の亡命ユダヤ人は、シベリア鉄道経由で渡日、敦賀経由で神戸に滞在していた。

 ただ、杉原ビザで許可された日本滞在日数はわずか10日。それを過ぎると、ユダヤ難民は強制送還され"死"が待っている。

 ユダヤ難民の代表が、あの感激的なスピーチをした小辻を思い出し、手紙を出した。

 小辻は外務大臣の松岡を訪ねた。しかし、軍部からの圧力で外務省は、すでに強制送還の方針を決めていた。

 しかし、松岡は小辻を外に連れ出し、皇居のお堀に沿って歩きながら、そっと話した。

 「ユダヤ難民のビザを延長する権限は、神戸の自治体にある。もし、君が自治体を動かせたら、外務省は見て見ぬふりをしよう」
 松岡には、ユダヤ人を助けておけば、アメリカとの戦争を回避できるかもしれない、という読みがあった。

 滞在許可を発行する窓口は、警察署だった。小辻は、親戚から資金を借り、警察幹部の接待を繰り返した。ユダヤ人の長期滞在が可能になった。

 日本に滞在するナチス幹部の圧力が続くなかで、小辻は、ユダヤ人たちをやっと目的の国に送り出すことができた。

 1959(昭和34年)、小辻は妻の強い勧めでエルサレムに渡り、ユダヤ教に改宗した。

 1973(昭和48年)、アブラハム小辻は永眠した。享年74歳。小辻の遺体は、本人の希望でエルサレムに空輸され葬られた。

 当時、イスラエルは第4次中東戦争という混乱のまっさい中。尽力したのは、日本から脱出した難民の1人であるイスラエルの宗教大臣、ゾラフ・バルフティックだった。

 この本の著者、山田純大の父は、俳優で歌手の杉良太郎。杉の現在の妻で演歌歌手の伍代 夏子は義母に当たる。

追記(2016/2/27):

 杉原千畝や小辻節三だけでなく、ユダヤ難民の「命のビザ」を繋いだ多くの日本人がいたらしい。

 外務省の訓令を無視して、シベリア鉄道でやって来たユダヤ難民を日本に向けた船に乗せた駐ウラジオストック日本総領事館の 根井三郎総領事代理のことは、上記の本にも記載されている。

 真偽ははっきりしないが、満州の避難してきたユダヤ人を救済した、ハルピン特務機関長の 樋口 季一郎・元陸軍中将などの軍人のほか、ウラジストックからの船の手配に尽力した日本交通公社、日本郵船の社員たち、敦賀では、営業を一日休んで悪臭を放つユダヤ難民に開放した銭湯「朝日湯」の主人などの話しなども文献などに記録されているようだ。

 妹尾河童の自伝小説 「少年H」には、神戸に着いたユダヤ人の汚れた衣服を繕う少年の両親たちの話しが載っていたのも思い出した。

2015年6月 4日

読書日記「井上洋治著作集5 遺稿集『南無アッバ』の祈り」(日本キリスト教団出版局)


遺稿集「南無アッバ」の祈り (井上洋治著作選集)
井上 洋治
日本キリスト教団出版局
売り上げランキング: 148,798


昨春亡くなった故・井上洋治神父 の著作集を先月初めに、朝日新聞書評欄で見つけた。なつかしく、かつ正直ちょっと驚いた、というのが実感だった。


 もう50年以上も前のこと。大学を出て新聞社に就職、信仰からも教会から遠ざかっていた時期に、この著者の本を買い込んだ記憶がある。

 数年前から、2度の引っ越しをした機会にあふれかえっていた所蔵本を本棚ごと整理したのだが、わずかに残した書棚に、著者の本がなんと5冊も残っていた。
 カトリックの信仰が身につかず、それなりに悩んでいた時期に出合った著書をなんとなく捨てがたかったのだろう。

 しかし、この「『南無アッバ』の祈り」は、私が知らなかった井上神父が築き上げた世界を描き出したものだった。

 「著作集5」は、遺稿集と銘打っており、様々な講演、講話、対談集などが収められている。晩年に書かれた自伝的エッセイ「漂流――「南無アッバまで」のなかに、神父が見たある夢が記録されている。

 
 ある夜。神父は、中年の長い髪の女性に「長い間、お待ちしていました」と、暗い森が広がる道へと案内される。そこへ、突然大聖堂が浮かび上がる。神父はそこへ女性を連れて行こうとするが、女性は「このなかにははいれないのです」と涙を流す。


 「カトリック教会は、信者同士で結婚した場合、離婚を認めません。ですから私のように、信者同士で結婚してから離婚し、いまいちど好きな人ができて再婚した場合、国はその結婚を認めてくれても、教会は認めてくれません。ですから日曜のミサにあずかっても、祭壇に近づいてパンを頂く友人たちの後ろ姿を哀しい思いでながめるだけ。決して祭壇に近づくことはできず、一番後ろの席で涙を流しているしか仕方がないのです。あの森のなかには、そういう私の仲間たちが淋しく集まってお祈りをしているのです」


   1950年、東京大学を卒業した井上青年は、親の反対を押し切ってフランスの カルメル会男子修道院に入会しようと、豪華船「マルセイエーズ号」に乗り込んだ。暗い4等船室で、留学に行く遠藤周作とたまたま同室になった。

 修道院で井上修道士は、20世紀の有名なフランスの神学者、ジャン・ダニエルーの「過去をひきずりすぎているキリスト教は、もう現代人のからだに合わなくなっている。現代人のからだに会うように・、キリスト教という洋服を仕立て直さなければならない」という言葉に出会う。

 「既存のキリスト教がからだにピタッとこなくて、着にくいな、不愉快だな・・・そう思いながらじたばたしてきた」井上青年は、この「服の仕立て直し」が自分に課せられて大きな課題だと気づいた。

 1957年に帰国した井上元修道士(カルメル会を退会した)は、カトリック東京教区の神学生として受け入れられる。

 帰国してびっくりしたのは「日本のカトリック教会がすっぽりと浸りこんでしまっている、呑気というか平和というか、少し理解に苦しむ、とにかく何の問題意識すら感じられないその雰囲気であった」

 その当時の先進的なフランスのカトリック教会は、保守的なバチカンとの間のきしみもあり、まさに疾風にあおられたような危機感にゆれていた。そこから帰国してきた私は、危機感の一片すら感じられない日本のカトリック教会やローマ以上にローマ式に思えた神学教育に、ただ唖然とするばかりであった。
 「ヨーロッパ・キリスト教という豪華な、しかしダブダブの着づらい服を仕立て直さなければ駄目だ」などということを口にしようものなら変人扱いされそうな雰囲気のなかで、再び窒息感にとらわれた私は、一縷の望みをいだいて、遠藤周作さんを訪ねた。


 「生涯の同志」となった遠藤周作が「洋服の仕立て直し」の第一作ともいえる小説 「沈黙」を出版したのは、1966年の春だった。

 「沈黙」は、切支丹迫害時代、日本に宣教にやってきた宣教師ロドリゴが捕らえられ、精神的に追いつめられた末、踏絵を踏んでイエスを裏切り棄教する、という物語。このロドリゴの裏切りを、遠藤さんはイエスの一番弟子のベトロの裏切りと重ね合わせて措いていく。師イエスを裏切ったベトロは、自分を赦してくださっているイエスのあたたかな慈母のような慈愛のまなざしにふれて、神は、「言うことをきく者には限りない祝福を。しかし言うことをきかない者には、三代、四代までの呪いと罰を」という「旧約聖書」「申命記」にいわれているような父性原理の強い神ではなく、もっと裏切り者をも包みこんでくださる母性原理の強い神であることに目覚めていく。そのベトロのようにロドリゴも、師イエスが告げておられた母性の原理が強く、やさしくあたたかな神に目覚めていくという点が、ここでもっとも大切なのである。


                                    ′
 しかし、この「沈黙」が与えた影響は、キリスト教世界において、全く私たちの予想を大きく裏切るものとなっていった。
 「沈黙」に対して轟々たる非難、批判の言葉が降りそそいだのである。そしてその批判は、もっぱら次の一点に集中していた。すなわち、イエスが、踏み絵を前にしたロドリゴにむかって、「踏むがいい」と言ったという点に対してである。踏み絵を踏んでしまって痛悔したロドリゴをイエスが赦すのは当然としても、ロドリゴに棄教という悪行をイエスがすすめたりするわけがない、というのである。


 ・・・たしかに倫理的分野での一般論からすれば、イエスが罪となる悪行をすすめたり、命令したりするはずはない。その通りであろう。しかし、「最後の晩餐」の席上でのイエスのベトロに向けられたまなざしは、「お前がつかまって処刑されるのをこわがっている気持ちは痛いほどよくわかるよ。裏切ってもいいよ。私はあなたをうらみはしない。ガリラヤで待っているよ」という、母のような、ひろいあたたかな赦しのまなざしであり、ベトロに対してもユダに対しても、裏切りの行為を決して力ずくで止めようとなどなさっておられなかったこともまた確かである。〃イエスは一体何を私たちに告げたかったのか、イエスはその十字架まで背負った苦難の生涯で、何を私たちに語りかけていたのか......。もっと、しっかり「新約聖書」に取りくんで、それを知らなければならない"。これが遠藤さんの「沈黙」が私に投げかけた強烈な課題であった。


 聖書の勉強を続けるうちに、井上神父は「心の琴線をぎゅっとつかまえてかきならす」言葉に出会う。エレミアスとい著名な聖書学者が残した「イエスの示した神はアッバと呼べる神なのだ」という指摘だった。

「エレミアスによれば、アッパというのは、イエスが日常弟子たちと話していたアラム語という言語において、赤ん坊が乳離れをしたむきに、抱かれた腕の中から父親に向けて最初に呼びかける言葉であり、親愛の情をもって父親を呼ぶ言葉として、大人も使うという。」

 神は「旧約聖書」の「申命記」が語るような、嵐と火の中でシナイ山頂に降臨し、言うことをきかない者には三代、四代に及ぶまでの厳罰をくわえる神ではなく、赤子を腕のなかに抱いて、じつと悲愛のまなざしで見守ってくださっている父親のような方なのだと、イエスが私たちに開示してくださったのだということを、エレミアスによってアッパは教えてくださった。


 先週の日曜日、たまたまこの本を持って東京に出かけた。四谷のイグナチオ教会で「三位一体の主日」ミサを受けた。第2朗読で使徒パウロの「神の霊によって導かれた者は皆、神の子なのです。・・・この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ人への手紙8章14-15)が読まれた。

 イエス・キリストはまた、十字架の貼り付けになる前夜、 ゲッセマネの園で「アッバ、父よ」(マルコ書14章36)と、神に祈っている。

 やがて井上神父は「アッバの導きで、法然上人に出会う」ことになる。

 (四十三歳で京都に下山するまで、ひとり比叡山の黒谷の青龍寺で道を求めておられた(法然)上人を苦しめた課題、すなわち、"金のある人は寺にお布施をすることによって、頭の良い人間はお経を学ぶことによって、意志の強い人は戒律を厳守することによって救われよう。しかし金もなく、頭も悪く、意志も弱い人はどうしたら救われるのだろうか。ただ涙するしかないのか〃、というのがまさに上人から私の心に烈しく問いつめられてきた思いだったのである。
 上人のように、独り、暗い杉木立の道を、人々の哀しみや痛みや涙をともにするため自らの叡山を降りるべきなのか。
 私は辛かった。苦しんだ。そして、この問いをさけようと、浴びるように酒をのんだ。


  そして、このブログの冒頭に書いた「夢」を見る。

  2001年、故井上神父は「法然 イエスの面影をしのばせる人(筑摩書房)という本を書き、法然上人の生涯をこんな言葉で締めくくった。

 あるいは富がなく、あるいは学問がなく、あるいは強い意志がなく、あるいは女として生まれたことによって、救いの道をとざされていた人たちにただ一筋の南無阿弥陀仏によって救いの道を開き、国家権力、朝廷権力にこびることもなく、ついに最後まで無位無冠、墨染の衣一枚で生きぬいたその生涯であった。


 社会の下積みの生活に喘ぎ、そのうえ救いへの遺さえ閉ざされていた人たちの哀しみや痛みをご自分の心にうつしとり、救いの門をその人たちに開かれたため、あの孤独と苦悩と屈辱の死をとげられた、師イエスの生涯の真骨頂を、アッパは法然上人の生涯を通して私に示してくださったのだといまも私は信じている。


  1986年、井上神父は当時の東京教区の白柳誠一大司教(後の枢機卿)から、 インカルチュレーション(文化内開花)担当司祭としての任命書を受けた。
 ただし①カトリックの小教区教会では活動しない②ミサで使う言葉、少なくとも「奉献文」決して変えない、という条件がついた。

  神父は、マンションの1室を借りて、 「風の家」という活動を始めた。

  風の家で挙げられるミサでは「南無アッバ」の祈りが奉げられる。「南無」は法然の「南無阿弥陀仏」から取った「全面的にすべてをおまかせします」という意味だという。

  しかし井上神父の死後、ミサのなかでこの「南無アッバ」の祈りが唱えられることはほとんどなくなったらしい。

  井上神父は、著書でこう書いている。

 神は「モーセ五書」が伝えるような、厳しい「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」(お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の『創世 神は 「モーセ五書」が伝えるような、厳しい 「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」 (お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」 のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の「創世記」に記されているように「生きとし生けるものはすべて人間によって支配される」というもの(『創世記』一章二八節)ではなく、パウロが『ローマの信徒への手紙』八草で言っているように、同じ「キリストのからだの部分としてともに苦しみともに祈る」存在なのだということである。


高齢化社会に向かうなかで、カトリック教会は井上神父が「夢」に見た厳しい戒律を変えようとしない。社会が認知に向かっている同性愛につても結論を出せずにいる。


神は、井上神父が語っているように、ユダの裏切りもペトロの3度の裏切に対しても、直接言わなくても「裏切ってもいいよ」と、やさしいまなざしを見せている。それが「新約聖書」の正しい読み方ではないのか。そんな確信を強くした。


2015年2月23日

読書日記「トリエステの坂道」(須賀敦子著、新潮文庫)


トリエステの坂道 (新潮文庫)
須賀 敦子
新潮社
売り上げランキング: 32,813


 著者が、自ら日本語に翻訳した詩集も刊行されているウンベルト・サバ は、急死した夫が愛し続けた詩人だった。
 この本は、12章で構成されている。表題と同じ「トリエステの坂道」は、夫の死後、日本に帰って20年ぶりにサバの故郷であるトリエステの街を訪ねた時のことを綴っている。

 なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。二十年まえの六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。イタリアにとっては文化的にも地理のうえからも、まぎれもない辺境の町であるトリエステまで来たのも、サバをもっと知りたい一念からだと自分にいい聞かせながらも、いっぽうでは、そんな自分をこころもとなく思っている。サバを理解したいのならなぜ彼自身が編集した詩集『カンツォニューレ』をたんねんに読むことに専念しないのか。彼の詩の世界を明確に把握するためには、それしかないのではないか。実像のトリエステにあって、たぶんそこにはない詩の中の虚構をたしかめようとするのは、無意味ではないか。サバのなにを理解したくて、自分はトリエステの坂道を歩こうとしているのだろう。さまざまな思いが錯綜するなかで、押し殺せないなにかが、私をこの町に呼びよせたのだった。その《なにか》は、たしかにサバの生きた軌跡につながってはいるのだけれど、同時にどこかでサバを通り越して、その先にあるような気もした。トリエステをたずねないことには、その先が見えてこなかった。


 
 ・・・列車の窓から、海の向こうに遠ざかるトリエステを眺めて、私は、イタリアにありながら異国を生きつづけるこの町のすがたに、自分がミラノで暮らしていたころ、あまりにも一枚岩的な文化に耐えられなくなると、リナーテ空港の雑踏に異国の音をもとめに行った自分のそれを重ねてみた。たぶんトリエステの坂のうえでは、きょうも地中海の青を目に映した《ふたつの世界の書店主》、私のサバが、ゆったりと愛用のパイプをふかしているはずだった。


 イタリアのあまり裕福でない男たちは、雨でも傘を持たないのが風習らしい。雨のなかを行く時、背広のえりを立て、両手で上着の前をきっちり合わせて走り出すのが、イタリアの男たちのスタイルだ。
 「雨のなかを走る男たち」で描かれるのは、20年たっても鮮明に思い出す夫・ペッピーノの姿だった。

 ・・・停留所のまえで待っていると、夫が電車から降りてきた。降りしなに、たしかに私と視線があったと思ったのに、彼は知らん顔をして、信号をどんどん渡って行ってしまった。迎えに来られて照れくさかったのだろうか。それとも出迎えを押しつけがましく感じたのだろうか。家に帰ってからたずねても、彼は見えなかったの一点張りで、喧嘩にもならなかった。私としては、彼は私をたしかに見たと、いまでも確信がある。私を置き去りにしたあのときの彼も、雨のなかを両手できっちり背広の前を閉めて、走っていった。


 「ガードのむこう側」は、義父ルイーズを主人公にした小説風に書かれている。この一家にとりついて離れない"貧乏"と"不幸"が象徴的に描かれる。

 俺の一生はいったいなんだったのだろう。淋しいルイージ氏は歩きながら考える。九つで両親に死にわかれ、それからは村の居酒屋の仕事を手伝わせてもらって、どうにか食べてはいけた。鉄道の職員になって、居酒直の八番目の娘と結婚し、子供たちがつぎつぎに生まれころは、これでやっと人間なみの暮らしができると思ったのに、ファッシスト政権が天下をとって、戦争は始まるしで、まったくろくなことはなしだった。そしてマリオ(長男)が死に、ブルーナ(長女)が死んだ。
 空地を通りぬけ、製菓工場のすこし先の大通りまで足をのばせば、市電の停留所のまえにいつも行く飲み屋がある。まずは安い《赤》を一杯。塩づけのカタクチイワシを一匹とれば、それを肴に、夜の時間はゆっくり流れるはずだった。


 「セレネッラ(リラ、ライラック)の花の咲くころ」でも、"貧乏"と"不幸"を背負って生きるイタリアの庶民階級の人々が、清明な文章で綴られる。

 ・・・(亡夫の実家は)鉄道員官舎と呼ばれてはいたけれど、その家に私が出入りするようになったころはすでに、もともと世帯主であるはずの鉄道員たちは、どうしてこの家の住人ばかりがと思うほど、大半が戦争や病気やはては鉄道事故などで亡くなっていて、あとに残されたもう若くはない妻たちが、前歯が抜け落ちたような侘しさのなかで、乏しい年金をたよりにひっそりと暮らしていた。貧しく生まれたものは貧しいまま、老年、そしてやがては死を迎える。まるで目に見えない神様にそう申し渡されたみたいに、彼らは運命に逆らわず、小学校は出たがその先はとても、といった息子や娘たちも、いつのまにか親と同じ底辺の暮らしに吸い込まれていった。彼らのあきらめとも鋭い怒りともつかない感情のわだかまりが、あちこち汚れた階段口の白壁や、片手に大きな黒い皮製の買物袋をさげ、もういっぽうの手で手すりに体重をあずけて、ゆっくりと階段を登っていく、しゆうとめと同年輩の老女たちのうしろ姿にこびりついていた。


 著者が、義弟アルドからその妻の実家であるシルヴァーナの故郷である山村・フォルガリアへの旅行に誘われたのは、亡夫が急死して2年ほど過ぎた時だった。

 岩に穿った細いトンネルをいくつかくぐりぬけ、林が牧草地に変わるころからしだいに空気が軽くなり、青い実をつけたリンゴの木が一本、澄んだ空を背に風に逆らって立っている角を大きく曲ったあたりで始まるフォルガリアは、それまでミラノの周辺で私が知っていた湿度の高い平野の農地の重い感触や、飼っていた乳牛一頭が栄養源のすべてだったというシルヴァーナの子供時代の哀しい貧乏話から想像していた《寒村》のイメージとはほど遠い、みずみずしい緑と乾いた明るさに満ちた、のびやかな高原の村だった。


 アルドからミラノを引き払ってフォルガリアに家を建てるという手紙が来たのは、著者が日本に帰って20年近く経ってからだった。戦後の経済復興でスキー場の開発などが進み、この山村も様変わりしていた。新居は、アルド夫妻がやっと見つけた安住の地だった。
 「山の村に越してしまっても、きみの部屋はちゃんとつくっておく。・・・忘れないでほしい。ぼくらの家はきみの家だということを」

※(寄り道)
 この本の最終章「ふるえる手」には、著者がローマのサン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会に立ち寄り、カラヴァッジョの聖マタイの召命(マッテオの召し出し)」を2回にわたって見る記述がある。
 私も9年前のイタリア巡礼に同行した際、この絵に見とれたことを、昨日のように思い出す。

カラヴァッジョの聖マタイの召命
Michelangelo_Caravaggio_040.jpg



 「聖マタイの召命」では、右端のキリストが召し出そうとしているのは誰か、というのが長年、論議されてきた。

 Wikipediaには、こう記されている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始めた。・・・。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、髭の男は自分ではなく隣に居る若者を指差しているようにも見え、・・・この左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイは・・・次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る、そのクライマックス直前の緊迫した様子を捉えているのである。」

   しかし、須賀敦子は「マタイ(マッテオ)は正面の中年男だ」という考えを崩さず、こう書く。

 私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿させるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている。
 カラヴァッジョだ。とっさに私は思った。ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。画家が自分を描いているのだ。そう私は思った。


※(付記)
 松山巌著「須賀敦子の方へ」(新潮社刊)
 毎日新聞の書評委員同士で、長年の親友同士だった小説・評論家である 松山巌が「私はこれから須賀敦子のことを辿ろうと思う」と、須賀敦子が過ごした兵庫県西宮市や小野市、東京・麻布、広尾、四谷などに親類や友人、知人を訪ね歩き、須賀敦子への"熱き"思いを語った1冊だ。

 孤独は人間が一人になることではない。自分がどこを向いて歩いているのか、わからなくなるとき、人は孤独の穴に落ち、もがく。たとえ苦しくとも進むべき道が見えるならば、孤独からは救われる。だがしかし、自明な道などあるはずもない。結局のところ、孤独であることにもがき悩み、その悩みの末に抜けだすしかないのだろう。だから須賀は『コルシア書店の仲間たち』のエピグラフにウンベルト・サバの一句、「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない」を置き、同時に巻末を「弧独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」 の一言で結び、この思いを膨らまして、孤独の荒野を全休のテーマとして『ヴェネツィアの宿』を書こうと思ったのだ。


 この本は、須賀敦子がパリに旅立つところで終わっている。これからも、須賀敦子を訪ねる旅は続くらしい。

2015年1月21日

読書日記「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子著、文春文庫)


コルシア書店の仲間たち (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
売り上げランキング: 26,487


 コルシア書店のことは、前回のこのブログでもふれた。著者がローマでの留学生生活を辞め、ミラノに移って勉強と仕事を結局11年続けることになった大切な場所だった。

 コルシア書店は、単なる本屋さんではない。戦時中、 反ファシシズム・パルチザン運動の同志だったダヴィッド・マリア・トウロルドとカミッロ・デ・ピアツという2人の司祭が戦後間もなく始めたカトリック左派による生活共同体活動の拠点でもあった。

 ダヴィッド神父に心酔した須賀は、この本の冒頭近くで、詩人としても知られた神父の作品を紹介している。
 1945年4月25日「ファッシスト政権とドイツ軍の圧政からの解放を勝ち取った歓喜を、都会の夏の夕立に託した作品」だ。

 
 ずっとわたしは待っていた。
 わずかに濡れた
 アスファルトの、この
 夏の匂いを。
 たくさんねがったわけではない。
 ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
 奇跡はやってきた。
 ひびわれた土くれの、
 石の叩きのかなたから。


カトリック左派の活動について、著者はこう解説している。

 
 カトリック左派の思想は、遠くは十三世紀、階級的な中世の教会制度に刷新をもたらしたアッシジのフランシスコなどに起源がもとめられるが、二十世紀におけるそれは、フランス革命以来、あらゆる社会制度の進展に背をむけて、かたくなに精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もういちど現代社会、あるいは現世にくみいれようとする運動として、第二次世界大戦後のフランスで最高潮に達した。
 一九三〇年代に起こった、聖と俗の垣根をとりはらおうとする「あたらしい神学」が、多くの哲学者や神学者、そして、 モリアック ベルナノスのような作家や、失意のキリストを描いて、宗教画に転機をもたらした ルオーなどを生んだが、一方、この神学を一種のイデオロギーとして社会的な運動にまで進展させたのが、 エマニュエル・ムニエだった。一九五〇年代の初頭、パリ大学を中心に活躍したカトリック学生のあいだに、熱病のようにひろまっていった。教会の内部における、古来の修道院とは一線を画したあたらしい共同体の模索が、彼らを活動に駆りたてていた。


 しかし、聖心女子大時代にカトリック学生運動に属して反 破防法運動などをしたこともある須賀にとって、パリ留学中にふれたカトリック左派活動は「純粋を重んじて頭脳的つめたさをまぬがれない」感じがして肌に合わなかった。

そして、パリから一時帰国した際に、イタリアのコルシア書店の活動を知り「フランスの左派にくらべて、ずっとと人間的にみえて」引かれていく。再びローマ留学のチャンスをつかみ、ダヴィッド神父にローマやロンドンで何度か会った須賀は、コルシア書店の激流の中に、運命に導かれるように飛び込んでいく。

 夕方六時をすぎるころから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた。作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかには、カトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれてミラノに亡命していたカタローニヤの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ教のラビもいた。そして、若者の群れがあった。兵役の最中に、出張の名目で軍服のままさぼって、片すみで文学書に読みふけっていたニーノ。両親にはまだ秘密だよ、といって恋人と待ちあわせていた高校生のバスクアーレ。そんな人たちが、家に帰るまでのみじかい時間、新刊書や社会情勢について、てんで勝手な議論をしていた。ダゲイデがいる日もあり、カミッロだけの日もある。フアンファーニが、ネンニらと、政治談義に花が咲かせる。共産党員がキリスト教民主党のコチコチをこっぴどくやっつける。だれかが仲裁にはいる。書店のせまい入口の通路が、人をかきわけるようにしないと奥に行けないほど、混みあう日もあった。


コルシア書店での交流を通じて、須賀敦子の活動は大きく花開いていく。 ミニコミ誌「どんぐりのたわごと」を前回のブログでも出てきたガッティに教わりながら編集、日本の知人に送り始め、後に急死した夫のペッピーノを介してイタリアの詩人や文学者の作品を深く知り、日本の小説などの翻訳もするようになる。
須賀敦子全集〈第7巻〉どんぐりのたわごと・日記 (河出文庫)
須賀 敦子
河出書房新社
売り上げランキング: 93,856


しかし、コルシア書店のこんな急進的な活動を「教会当局が黙認するはずがなかった」

 一九五〇年から七〇年代までのはぼ二十年間に、こうして多くの若者が育っていったコルシア・デイ・セルヴイ書店は、ほとんど定期的に、近く教会の命令で閉鎖されるという噂におびやかされ、そのたびに友人たちは集会をひらいて、善後策を講じなければならなかった。


 
 コルシア・デイ・セルヴイ書店に、最初の具体的な危機がおとずれたのは、一九五八年の春だった。ダヴイデとカミッロが、ほとんど同時に、教会当局のさしがねで、ミラノにいられなくなったのである。ダヴイデが大聖堂でインターナショナルを歌って、善男善女をまどわしたとか、カミッロが若者に資本論を読ませているとか、理由はいろいろ取り沙汰されたけれど、実際には、彼らリーダーを書店から遠ざけることによって、書店の「危険な」活動に水をさそうというわが教会の意図であったことは、だれの目にもあきらかだった。


  その後コルシア書店は、政治活動を辞めるか、移転かの2者選択を教会当局から迫られて都心に移転したが、後に経営不振で人手に渡った。
  サン・カルロ教会の軒先を借りていたコルシア書店の跡は、ある修道会が運営するサン・カルロ書店になっている。
 今でも人気が絶えないダヴィッド神父の作品を並べたコーナーがあるという。

 前回のブログでも引用した「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著)によると、1992年2月に死去したダヴィッドの葬儀は、サン・カルロ教会で行われ、多くの 枢機卿が参列した。当時、ミラノの統括していたマルティーニ枢機卿は「ローマ教会は(ダヴィッド・)トウロルド神父を誤解しており、生前、大変な苦渋を味わわせた。彼に赦しを乞いたい」と語った。

 コルシカ書店が、聖と俗の垣根を払う活動を始めた同じ時期に、教皇 ヨハネス23世が提唱した 第2バチカン公会議が始まり、 信徒使徒職などカトリック教会の大改革が着手された。

 「須賀敦子全集・第1巻」の別冊に、当時82歳になっていたカミッロ神父のインタビューが載っている。神父は、こう答えている。「コルシア・ディ・セルヴィは、ある意味で第二ヴァティカン公会議を先取りしていたものといえます」

 この本の「あとがき」で、著者は記している。

 
 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐつて、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しょうとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、 人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。  若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私た ちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったよ うに思う。


 須賀敦子は夫が死去して帰国して2年後、42歳の時、東京・練馬区に、貧者のために廃品回収などをする「 エマウスの家」を設立、責任者となった。いつもGパン姿で、自ら小型トラックを運転することもあった、という。

2014年7月20日

パリ・ロンドン紀行⑤・終「パリの景観」2014年4月26日―5月1日



パリに出かける前に読んだ「フランスの景観を読む 保存と規制の現代都市計画」(和田幸信著、鹿島出版会)という本の序文に、ちょっとびっくりするような記述があった。

フランスの「建築に関する法律」第1条にはこう書いてある、という。

フランスの景観を読む―保存と規制の現代都市計画
和田 幸信
鹿島出版会
売り上げランキング: 365,602


 「建築は文化の表現である。建築の創造、建築の室、これらを環境に調和させること、自然景観や都市景観あるいは文化遺産の尊重、これらは公器である」

 これに対し、日本の建築基準法第2条では建築物を「土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの・・・」と、なんとも素っ気ない記述しかない。

 日本の法律には、建築や景観と公益あるいは公共性についてはまったく規定されていない。要するに建築は私権に属することであり、個人の好きなように建てられることになっている。この結果、日本中どこの街に行っても、高い建物や低い建物、陸屋根のビルや切妻の建物、灰色の日本瓦の住宅や。青やオレンジ色のスペイン瓦の住宅、さらにはケバケバしいゲームセンターやパチンコ屋などが、おもちゃ箱をひっくり返したように溢れることになる。


 フランスの景観は決して何もせずにきたわけではなく、フランスの文化と伝統を反映した街並みを公益として保存しょうとする国や自治体の意思と、これらを公共の財産として受け継ごうとする市民の意識により支えられて、現在の姿を留めているのである。


 「華のパリ」の別名がある通り、パリは厳しい景観保全政策で、その"美観"を維持している。そのきっかけになったのが、ドゴール政権下で文化相だった アンドレ・マルローによって作られた マルロー法(1962年8月4日法)らしい。

 この法律によって、パリでは第1号の歴史的建築保存地区となった マレ地区にぜひ行ってみたいと思った。旅に同行してくれたパリ通のYさん夫妻に案内してもらった。

 マレ地区は、オペラ座近くのホテルからも歩いて行けるセーヌ河右岸のパリ3区と4区一帯。途中、若い日本人女性にも人気という「ラデュレ」で、この店の名物であるフレンチトーストの朝食を楽しみ、マレ地区に入ったのは、午前10時半過ぎ。

 緑の並木に囲まれた小さな路地があるかと思ったら、両側に自動車をびっしり止めた小路がある・・・。意外に狭い石畳の道路の両側に同じ高さでそろった石造りの古い建物が続く。なんだか狭苦しい雰囲気で「ここが、パリの誇る景観地区なのか」と、意外な感じがする。素人目には、周辺の街区との違いが見つけられない。

 マレ地区は17世紀には優美な貴族の館が並ぶ街だった。それが18世紀になると、貴族に替って手工業者や低所得層が住む街になり、建物の崩壊を防ぐために道路の上に木材の梁を渡すという荒廃した街になっていった、という。

 長くユダヤ人の住む場所でもあった。このブログでもふれた「サラの鍵」の舞台にもなった「ゲットー」(ユダヤ人強制居住地域)も作られ、建物の内部を監視するための広場が強制的に作られたという。その後ユダヤ人は強制移送され、一時マレ地区から姿を消した悲しい歴史も刻んでいる。

 この法律による保全地区では、 フランス建築物建築家(ABF)という専門官が建造物の新築や改変を厳しく管理している。

そのせいか、多くの貴族の館が、パリ市などに買収され、博物館や美術館になっている。

 カルナヴァル博物館は、17世紀のセヴィニュエ侯爵夫人邸だったし、かつて塩税請負人が住んだサレ(塩)館は、国立のピカソ美術館になっている。

 建築家の ル・コルビッジェの業績などを紹介している スイス文化センターのある行き止まりの小路は、落書きばかりが目立つ場所だったが・・・。

 マレ地区の東端にある ヴオージュ広場と周辺の館は「パリを世界で最も美しい都にしたい」と、16世紀の王、 アンリ4世が作らせたという。

 正方形の公園を囲んで建てられた、オレンジとベージュのレンガや黒い屋根のファサード(建物正面のデザイン)で統一された36の館は、 ブルボン王朝初代の王が目指したパリで最古の建築景観を現在に残し、ほれぼれと見とれてしまう。

   ただ、マレ地区全体は「貴族館の保存」という最初の目的からちょっぴりはずれ、観光客に人気の街になったようだ。

 各通りの1階には、瀟洒な店やギャラリー、カフェ、日本でも有名な紅茶専門店の マリアージュ・フレールなどが軒を並べ、ユダヤ料理などのレストランも多い。

 昼食は、ユダヤ人学校前広場近くのユダヤ料理店屋外テーブルで陽光を浴びながら取った。なすびのパテや ファラフエルと呼ばれるひよこ豆のコロッケなど野菜料理ばかり。パリ滞在中に連れて行ってもらった レバノン料理に似てスパイスがきつくない野菜料理がワインに合う。考えてみると、イスラエルとレバノンは、紛争の地の隣国同士だ。

 ヴォージュ広場から歩いてすぐの バスティーユ広場から、69番のバスに乗り、パリ最古の橋・「ボン・ヌフ」で降りる.。

ボン・ヌフから見渡せるのが、世界遺産の 「パリ・セーヌ河岸」。ルーブル美術館、 ノートルダム寺院 オルセー美術館、さらには エッフェル塔まで約8キロに及ぶパリ最大の景観地区である。

 この地区は、マルロー法に先立つ19世紀に ナポレオン3世の指示で、セーヌ県知事だったジョルジュ・オスマンが断行した「パリ大改造」の一環として実現した。

 ノートルダム寺院のあるシテ島は、大改造まで貧民窟だった、という。

 セーヌ河をのぞき込むと、右岸のトンネルから出て、すぐにまたトンネルに消える自動車専用道路が少し見える。大阪や東京の河の景観を無視して縦横に走る高速道路に比べ、なんと風格のある都市設計だろう。

 ボン・ヌフを渡りきると、マルロ法にパリ2号目の歴史建築物保存地区・ サン・ジェルマン地区だ。

 「17世紀にマレ地区に住んでいた貴族たちが手狭になった館を嫌って、この地区に移ってきた」と文献にあったが、第2次世界大戦以降は、知識、文化人の一大中心地でもあったらしい。

 現在は、街の中心にある サン・ジェルマン・デ・プレ教会を中心にブティックやカフェが並び、観光客でごった返している。Yさん夫妻について行った小さなチョコレート店は、あふれる注文客を日本人男性 パテイシエ1人がきりきり舞いで応対していた。

 保存地区の広告規制が厳しいらしい。店舗のディスプレーも控えめだ。小さな白い「M」のマークをつけただけのマクドナルドの店舗が、なにかほほえましく見えた。

 パリの景観で忘れられないのは、初日の夕方に訪れたエッフェル塔だった。

 早くも電飾に輝くこの塔は、広い シャン・ド・マルス公園の真ん中に4本の柱に支えられて真っ直ぐに伸び、レースで編んだような半円形の鉄製アーチの間に立つと、セーヌ川の向こうに シャイヨ宮が望める。

 振り向いても、もういちど前を見ても、周りに高い建物はなにもない。胸いっぱいに空気を吸い込み、ため息をつきたくなる。そんなすがすがしい空(そら)空間が広がる。

 なんと、Yさんがこの塔にある1ツ星レストラン 「ル・ジュール・ヴェルス」に予約を入れてくれていた。アーチ型の脚の間に設置されている専用エレベーターで高さ125メートルのレストランに入る。

 窓際の席からパリの街が一望できる。見事に同じ高さにそろった石造りの建物群。その間を「パリ大改造」で作られた通りが放射線状に延び、細い路地が入り組んだように建物の間を縫っている。

 右手の黒い塊は、 ブローニュの森だろうか。正面に見えるのは、悪名高い高層ビル 「モンパルナス・タワー」

 ところが、その素晴らしい風景を撮ったカメラを、翌日、ルーブル美術館で盗難にあって失ってしまった。カメラそのものは、入っていた海外旅行保険のおかげで8%の消費税付きで代金が戻ってきたが、あのすばらしいパリの景観の写真は戻ってこない。

 かつてエッフエル塔が出来た時に、この塔の建設に反対した、かのモーパッサンは「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と、エッフエル塔のレストランによく通った、という。

 機会があったら、もう一度、このパリの景観を見に来たいと思う。今度は「モンパルナス・タワー」からエッフエル塔の建つパリの街を見るために。

▽参考に読んだ、その他の本

※ 「パリ神話と都市景観 マレ保全地区に7置ける浄化と排除の論理」(荒又美陽著、明石書店)

パリ神話と都市景観―マレ保全地区における浄化と排除の論理―
荒又 美陽
明石書店
売り上げランキング: 606,027


 ※ 「セーヌの川辺」池澤夏樹著、集英社)

※ 「美館都市パリ 18の景観を読み解く」(和田幸信著、鹿島出版会)

美観都市パリ―18の景観を読み解く
和田 幸信
鹿島出版会
売り上げランキング: 262,399


パリの景観:写真集
パリ・オペラ座の天井部外観;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区の小路;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区の通り;クリックすると大きな写真になります。 ユダヤ人街でのレストラン;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区・スイス文化デンター小路;クリックすると大きな写真になります。
パリ・オペラ座の天井部外観。「パリ大改造」計画では、この外観が見通せるように広いオペラ通りが造られたという マレ地区の小路 マレ地区の通り。見事に建物の高さがそろっている ユダヤ人街でのレストラン マレ地区・スイス文化センター小路。落書きがなぜか。
カリナヴァル博物館;クリックすると大きな写真になります。 ヴォージュ広場;クリックすると大きな写真になります。 バスティーユ広場;クリックすると大きな写真になります。 セーヌ河岸の自動車専用道路;クリックすると大きな写真になります。" ノートルダム寺院;クリックすると大きな写真になります。
カリナヴァル博物館 ヴォージュ広場 バスティーユ広場。後ろに見えるのは新オペレ座 セーヌ河岸の自動車専用道路 ノートルダム寺院
サンジェルマン地区の通り;クリックすると大きな写真になります。 サンジェルマン・デ・フレ教会;クリックすると大きな写真になります。 サンジェルマン地区のマクドナルド店;クリックすると大きな写真になります。 雨の凱旋門;クリックすると大きな写真になります。 世界遺産・セーヌ川岸とエッフエル塔;クリックすると大きな写真になります。
サンジェルマン地区の通り サンジェルマン・デ・フレ教会 サンジェルマン地区のマクドナルド店 雨の凱旋門 世界遺産・セーヌ川岸とエッフエル塔
パリの地下鉄車内;クリックすると大きな写真になります。 P1040167.JPG
パリの地下鉄車内。けっこう黒い人が・・・。 設立当初は賛否両論だったルーブル美術館のガラスのピラミッド入口。周りの景観との違和感はない


2014年3月11日

読書日記「旅立つ理由」(旦 敬介著、岩波書店)


旅立つ理由
旅立つ理由
posted with amazlet at 14.03.11
旦 敬介
岩波書店
売り上げランキング: 139,215


 今年の読売文学賞の「随筆・紀行賞」受賞作。全日空(ANA)の機内誌に掲載された21の短篇をまとめたものだ。

 「旅立つ理由」なんて正面切った表題には「いささか抵抗感があるなあ」と思いながらも、図書館で借りてしまった。

 「BOOK」データベースにも「現代の地球において、人はどういう理由で旅に出るのか、どうして故郷を離れることを強いられるのかを問う」とあり、硬派の旅分析と想像していた。

 ところが読んでいくうちに、ほとんどが南米やアフリカのへき地といった、よほどの旅好きでないといかない土地を訪ね、そこに流れついた人々との"激流"のような交流を描いたフィクションであることが分かってくる。

 南米のメキシコとグアテマラ に国境を接するベリーズという国では、半年前に中国・上海から来て小さな中華料理店を切り盛りする娘と エル・サルバドル出身の港で働く若者という「遠くから来た」もの同志の「熱帯の恋愛誌」に出合ってしまう。

 メキシコ沿岸の港湾都市ベラクルス郊外にあるマンディンガという集落にある、水上に張り出した小さな海鮮食堂。牡蠣料理の注文を聞いてから海に飛び込み採りにいくのは、その昔アフリカから奴隷として連れてこられた人々の子孫たち。

 ケニアの首都・ナイロビで友達になったマリオは、政変でエチオピアの政変で逃れてきた。そのマリオも、何代もの祖先が住んでき土地をたたんだお金を手にビザのとれたカナダにまた新天地を求めて旅立っていく。

 「ダン」と呼ばれる著者と二重写しを思わせる主人公の旅もまことに"浪漫"かつ"放浪"的だ。

 ケニアで知り合った手足の長いウガンダ人の難民女性・アミーナが、ナイロビの病院で2人の息子を生んだことを知らされた時、父親のダンは「アフリカを西にまるごと横断し、さらに南太平洋を横断した」ブラジルにいた。

 「子どもの誕生」というまったく新しい体験に狂騒状態に陥った彼は、2か月以上もカーニバルで友人たちと祝い騒ぐ。

 やっと「会いにいかなくちゃ」と思ったが、手元にあった航空券がリスボンに途中下車できるチケットであることが分かると「ドキドキしてしまい」ポルトガルに10泊する予定で飛行機の予約を入れてしまう。

 旧約聖書の「逃れの町」と同じよう城塞都市が国境の山岳地帯に点在することを知ったからだ。

 南米・ベリーズに国境を越えて入った時、彼はこんなことを思う。

 通り過ぎる車のラジオからはスペイン語の歌と広告の断片が流れてくる。商店からは観光客目当ての正統的な英語が聞こえてくる。道端からは、動詞の活用形が省略されたクレオール英語が地を這(は)うように響いてくる。・・・ことばなんて、手近にあるものを適宜便利に組み合わせて使っていけばいい。人生は整理整頓されてなくていい。パッチワーク、寄せ集め、ミクスチャーでいい。


 旅した土地で出会うのは、流れてきた人をはぐくんできたその国の民族料理だ。

 アミーナがよく作ったのは「細かく刻んで塩もみしてから洗ったり絞ったりした玉ねぎやャベツに、やはり細かく切ったトマトと香菜と緑トウガラシを混ぜてレモン汁でじっくり和えた」「カチュンバーリ」というサラダ。その来歴がすごい。

 
 ヴァスコ・ダ・ガマの時代から続く全地球的規模の暴虐な歴史の展開にダイレクトに結びついていて、流行語として「ポスト・コロニアル」と呼ばれる世界の構成と分かちがたいものであることを思う・・・


 ブラジルで借りたアパートの披露パーティに友人の女性・ナルヴァが作ってくれたブラジル料理の「フエイジョアータ」は、材料の仕入れから完成まで3日もかかった。

 豚の足や尻尾、耳、腸詰め、牛のばら肉や塩漬け肉、色々な内臓を水で洗い、酢につけ、全体にクミンとパプリカを塗り込める。塩漬け肉は空の鍋で加熱、水を何度も取り替えて塩抜きする。水に浸したインゲン豆を入れ、みじん切りの玉ネギ、コリアンダー、トマト、ピーマンを入れて、時間が料理を完成してくれるのを待つ。


 ナルヴァは、あの時のパーティで知り合ったアルゼンチン人と一緒にブエノス・アイレスに旅立ったことを半年後に知る。

  ナイロビでマリオが焼いていたインジェラは、エチオピア料理には欠かせない。

 テフとい粒の細かい雑穀をすりつぶして水で溶き、3,4日発酵させてから円形の鉄板か陶板に流しこんで蒸し焼きにする。・・・ひんやりと冷たくて、しっとりと湿り気があって・・・、かなり酸味がある。パンやクレープの仲間であることはたしかなのだが、・・・そのどれとも似ていない。


 食べるときには、丸い大きなインジェラスの上に、何種類ものシチュー状の煮物や炒め物、野菜が、混ざらないように分けて盛りつけられている。・・・エチオピア人は右手だけでちぎったインジェラで巧みに包んで食べる。


ウガンダでの最初の食事は「肉のかけらがころりと入った落花生味のソースにマトーケ(青バナナ)を浸して食べる」料理だった。

 手を洗ってから素手で食べた。味わい深くて、染み入るようにうまくて、機嫌は跳ねあがった。マトーケはつぶした芋のようにとろりとなって、料理の味をまったく邪魔しない理想の主食に思えた。他に一人の客もいない国境の食堂でうまい料理が食べられるのだから、悪い国のはずはなかった。


 先月下旬に発刊された対談集 「一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」 (集英社新書)(内田樹、中田考著)という本で、著者の1人、 内田樹が、遊牧民と定住(農耕)民の違いについて、こんなことを語っている。

 旅しながらでないと生きていけないような人の場合、「身一つが資本」というか、生身の身体のリアリティを常に意識する生き方になるような気がするんです。人とのつながりを大事にする。助け合って生きる。


 「旅する理由」で著者が出会った人々の多くは、まちがいなく「旅しながらでないと生きていけない遊牧民」「著者自身もひょっとすると生まれながらに遊牧民のDNAを身につけているのではないか」

 読み終えて、そんなことをふと思った。