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2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

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② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
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⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
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⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2014年2月18日

読書日記「バチカン近現代史 ローマ教皇たちの『近代』との格闘」(松本佐保著、中公文庫)


バチカン近現代史 (中公新書)
松本 佐保
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 月に1回、カトリック夙川教会で開かれている「信徒によるカテキズム勉強会」に時々、出席させてもらっている。

 表題の本は、先月の会合で I さんや K さんに教えられ、図書館で借りた。キリスト教抜きには語れないヨーロッパの歴史が、近代から現代にまで延々と及んでいることが簡明に書かれている。

 名古屋市大教授でイギリス外交史などが専門の著者は、この本のなかで、 ローマ教皇の誕生や中世の教皇覇権の歴史はたった5ページで片付け、宗教と国家の分離を図った18世紀末のフランス革命という「近代」の幕開けから表題通り「バチカン」の歴史をひも解こうとする。

 象徴的なのは、1804年の ナポレオンのフランス皇帝戴冠式だった。

 著書では、フランス・新古典主義の画家、 ダヴィッドの大作 「ナポレオンの戴冠」(フランス・ルーブル美術館所蔵)について書いている。

 本来教皇が授けるはずの冠をナポレオンが自ら手で頭に戴いたのである。ダヴィッドの絵では後ろに座っているローマ教皇の ピウス7世が困惑した表情を浮かべている様子も描かれる。


 最近見たNHKの番組によると、ダヴィッドが事前に描いた下絵(素描) もルーブル美術館に残されているらしい。

 この下絵では、ナポレオンが教皇から奪った冠を自らの頭に乗せようとしており、わざわざ戴冠式だけのために、パリに呼びつけられた教皇はなにもできずに下を向いている。

 しかし、これではあまりに教皇に対して挑戦的だというダヴィッドの"演出"なのか、出来上がった作品では、しぶい顔ながら 右手で皇帝を祝福している教皇が描かれた、という。

 バチカンにとっては、あまりに屈辱的な近代の始まりであった。

 ソ連で生まれた共産主義の脅威に対抗するため、バチカンが ムッソリーニ ヒトラーに傾斜していった第2次世界大戦前後の様子は第4章で詳しく記される。

 ローマ教皇は、イタリア王国がローマ市街の引き渡しを求めた「 ローマ問題」の解決を図ろうと、ファシズムのムッソリーニ政権に積極的に近づき、 ラテラノ条約を締結、結果的に世界最小の独立国家・バチカン市国を得る。

 第2次世界大戦下で就任した教皇 ピウス12世下は、後に「ヒトラーの教皇」とも批判されほど、ヒトラーと親密な関係保持に努めた。

 一昨年,ポーランドの アウシュヴィッツを訪ねた際に「なぜ、カトリック教会は、 ホロコーストを防げなかったのか」という疑問を持ったことはこの ブログでもふれたことがある。

 ただ、ホロコーストへの教皇の対応について、こんな事実があったことも著者は明らかにしている。

 
 (ローマが枢軸国と連合国戦争のはざまで無防備都市になった際)ナチス親衛隊がユダヤ人ゲットーに踏み込んだという一報を聞いたピウス12世は、すぐに・・・ドイツ大使を呼び、ユダヤ人逮捕の中止を要請した。これに対しドイツ大使は、本国政府に直接抗議するよう求めた。ピウス12世は、直接本国政府への抗議は行わず、バチカン市国内とカトリック施設にユダヤ人を匿う行動をとる。


 この事実を評価した建国後のイスラエル政府はピウス12世に「諸国民の中の正義の人」賞を贈る。  しかし著者は「(ピウス12世のホロコーストへの対応は)生ぬるいという批判はついて回るだろう」と、次のような歴史認識も示す。

 いずれにしろ、第二次世界大戦中のピウス12世、ひいてはバチカンに対する批判的な論調が大きくなるのは、冷戦終結後の一九九〇年以降である点が興味深い。バチカンは冷戦中、西側勢力の反共産主義の牙城であり、そのイデオロギーの拠り所として重視されていた。しかし冷戦が終結すると、封印されていたものが出てくるようになったのである。


 歴史が生み出した皮肉な結果だと言えるかもしれない。

  この著書の圧巻は、第8章の「ポーランド人教皇の挑戦――ベルリンの壁崩壊までの道程」だろう。イタリア人以外では約450年ぶり、共産党一党独裁国・ポーランドからはもちろん初めて選出された ヨハネ・パウロ2世と共産主義体制との闘争の物語だ。

 教皇は、就任翌年の1979年6月、母国ポーランドを訪問した。教皇が共産圏に足を踏み入れるのは初めてで、東ヨーロッパだけでなく、共産圏諸国に大きな衝撃を与えた。

 ポーランド共産党政権は、なんとか教皇の入国を阻止しようとしたが、教皇の絶大な人気の前に、暴動を恐れて失敗に終わった。「教皇はスピーチで、ソ連の隷属状態にあり、信仰の自由のないポーランドを間接的に批判した。・・・これがポーランドのカトリック教会と労働者の反体制運動とのつながりを生むことになる」

  ヨハネ・パウロ2世はその直後、国連の安保理総会にオブザーバーとして参加、人権が尊重されていない東側共産主義国を批判する。「ポーランド訪問と国連でのスピーチは、教皇による共産主義国への宣戦布告とも受け取られた」

 ポーランドで,労働者組織 「連帯」が結成され、全土に社会不安が広がるなか、1981年5月に教皇暗殺未遂事件がローマで起きた。「ソ連・KGBが計画し、ブルガリアや東ドイツが協力したという」

 1983年、教皇は戒厳令下のポーランドに2度目の訪問をして政府と交渉し、非合法化されていた「連帯」の限定的復活と戒厳令の解除で合意した。

 1987年には、3度目のポーランド訪問をし、ポーランドの国旗に「連帯」のシンボルを付けた旗を振る民衆の大歓迎を受けた。「ヨハネ・パウロ2世に勇気づけられた民主化運動の動きは全国的な勢いを得て、もはや止めることはできなかった」。1989年の総選挙で「連帯」が勝利し、共産党政権は崩壊した。この年、ベルリンの壁も崩壊した。

 1980年代後半から ペレストロイカ(政治体制の改革運動)を推進してきたソ連のゴルバチョフ書記長は1989年12月、バチカンにヨハネ・パウロ2世を訪ねた。

 新聞は「マルクス主義がカトリック信仰に敗北したことを認める『二〇世紀末の カノッサの屈辱』」と論評した。

 ヨハネ・パウロ2世は教皇就任直前まで、ポーランドの古都で世界遺産であるクラクフ教区を管轄する枢機卿だった。

 1昨年、アウシュヴィッツを訪ねた際、アウシュヴィッツ唯一の外国人公式ガイドである 中谷剛さんにクラクフの街を案内してもらった。

 歴史地区の広場にある広場の前に教会横の建物は、ヨハネ・パウロ2世がクラクフ訪問の際に泊まった宿舎で、正面2階の窓にいまだに教皇のカラー写真がはめ込まれていた。すぐ横の教会に入ると、後方右側のベンチに「教皇が滞在中、いつも祈っていた席」と書かれた銅板が貼ってあった。

 中谷さんによると、教皇が滞在中は広場に若者が詰めかけ教皇の名を呼び続けた。教皇は、いつも午前2時前後に、宿舎2階の窓を開けて、集まった人々に祝福を与えた。「あの熱気は忘れられない」と、中谷さんは言う。

 ローマ教皇庁はこのほど、ヨハネ・パウロ2世が、この4月に 列聖(聖人の地位にあがる)される、と発表した。没後9年という異例の速さである。

クラコフの宿舎2階に飾られているヨハネ・パウロ2世の写真P1080354.JPG


2012年5月12日

アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)



 「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
 中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。

 同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。

 11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。

 ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
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 「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。

 ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。

 「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」

 神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。

 アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。

 レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。

 140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。

 第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。

 ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。

 150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。

 多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。

 中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。

 北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。

 周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。

 第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。

 2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。  学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。

 移民の多いドイツで、小学生の90%が「ホロコースト」を知っていると答えたことに対して、10%も知らないのは問題であるというのがドイツのメディアの論調。「我が国・日本の若年層の歴史認識と比較するとドイツ社会の意識の高さを感じる」と、中谷さんは話す。

 一方で「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張が、いまだに絶えない。

 「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。

 日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」

 世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」

 30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。

 最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

関連写真集
コルベ神父の名前がある名簿。収容者が奇跡的に持ち出した 野焼される遺体。収容者が手製のカメラでひそかに撮影 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」。献花が絶えない 2重の鉄条網。220ボルトの電流が流れる網に身を投げる自殺者も
コルベ神父の名前がある名簿;クリックすると大きな写真になります 野焼される遺体;クリックすると大きな写真になります 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」;クリックすると大きな写真になります 2重の鉄条網;クリックすると大きな写真になります
第1収容所に再現されたガス室の模型 レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線 咲き乱れるタンポポの向こうは、ビルケナウ女子収容棟 ドイツ軍によって破壊されたガス室
第1収容所に再現されたガス室の模型;クリックすると大きな写真になります レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ女子収容棟;クリックすると大きな写真になります ドイツ軍によって破壊されたガス室;クリックすると大きな写真になります
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑 ビルケナウ収容所内のベッド。1つに2人が収容させられた 隔壁もないトイレの穴。カポにせかされ、1つの穴を争うように用をたした
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ;クリックすると大きな写真になります 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ収容所内のベッド;クリックすると大きな写真になります 隔壁もないトイレの穴;クリックすると大きな写真になります


2010年3月 9日

紀行「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)その3・終


 1月7日。長崎市内を走る路面電車の「浜口町」駅を降りてすぐの丘の上にある「長崎原爆資料館」を訪ねた。長崎市に来たのは5回目だが、資料館に来るのは恥ずかしながら初めて。
 らせん状の通路を降り、地下2階の展示場に入ると、急に照明が暗くなった。右側の天井に原爆投下1カ月後の写真が浮かびあがり、正面に被爆でほぼ崩壊した浦上天主堂側壁が浮かびあがった。10分ごとに照明を落とし、写真を投影する仕掛けになっているようだ。

 昨秋、このブログで「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」という本について書いた際、残った天主堂が保存されずに取り壊わされたのを残念に思った。
それだけに、浮かび上がった側壁を見て「しっかり保存されているじゃないか」と勘違いしてしまったが・・・。実は、煉瓦やウレタン樹脂を使って実物大に模した"再現造形"と呼ばれるものだった。

展示説明画像:クリックすると大きな写真になります  近くの原爆落下中心地には、天主堂の側壁の一部が移築されていると聞いていた。この"再現造形"との位置関係が分からない。
帰宅してから資料館に電話、研究員の方から見落としていた展示説明画像 を次のようなメールで送ってもらった。再現された側壁の前にあるディスプレーに表示してあったのを、見落としていたのだ。

 先ほど、お電話いただきました、長崎原爆資料館の奥野と申します。

添付いたしました画像は、当館展示解説文の写真です。画像の右下にある写真に、当館の再現造型と移設した遺壁の位置関係を示しております。

当館の再現造型は、写真等からサイズを割り出しておりますので、原寸大に近いものとなっております。

よろしくお願いいたします。

長崎原爆資料館
被爆継承課
担当:奥野
tel:095-844-3913
fax:095-846-5170


 資料館でもらったパンフレットに、被爆建造物マップが載っていた。浦上教会関係では鐘楼ドームや当時の石垣が残っていることになっている。昨年5月、五島列島の帰りに浦上教会を訪ねた時にはうかつにも気付かなかった。

 資料館から教会までは歩いて10分もかからない。教会の臨む左側の川沿いに、確かに黒く焼け焦げた鐘楼の一部が保存されていた。直径5・5メートル、重さ30トンもあったものが、35メートルも吹き飛ばされたのだ。

 丘の上の教会に向かって、かなり急な坂を登っていくと、正面手前に被爆した聖ヨゼフやマリア像や天使像、獅子の頭などが残されており、千羽鶴などが絶えない。

 聖堂は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、1980年(同55年)に翌年の前・ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世が訪日されたのにあわせて、外壁に煉瓦を張り、内部も窓をすべてステンドグラスにし、天井も"リブ・ヴォートル風"に張り替えられた。交替で当番をしておられる信者の方によると「五島列島の教会のような、ちゃんとしたリブ・ヴォートル天井ではない」そうだが、司教座聖堂にふさわしい荘厳で堂々とした雰囲気だ。

 聖堂右の通路を入ってすぐのところにある「被爆マリア像小聖堂」を昨年に続いて訪ねた。
 入口には旧天主堂の被爆遺構をステンドグラスにしたものが組み込まれ、内部左側の壁面に張られた6枚の銅製銘板には、原爆で亡くなった信者の名前がびっしりと刻みこまれている。一緒に教会巡りをした一人・Yさんの祖父や叔父なども亡くなっており、名前を見つけようとしたが、暗くて分からなかった。約1万2000人の信徒のうち約8500もの人が犠牲になったのだ。

 被爆のマリア像は正面祭壇の中央に安置されている。
 被爆後の瓦礫のなかから、一人の神父が探し出して北海道に持ち帰ったが、長い年月の末に浦上教会に戻ってきた。
 木製で、右ほおが焼け焦げ、両目は焼けてくぼんでいるが、じっと上を見つめる頭部だけの像は胸に迫るものがある。
 このマリア像は4月にカトリック長崎大司教区が主催する平和巡礼団とともにスペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカ市などスペイン、イタリアの13都市を訪ねる。

 これだけ多くの多くの被爆遺産が残っておれば、被爆の歴史を継承していくのには十分だと考えるのか。広島の原爆ドーム が世界遺産になっているのを考えると、被爆天主堂を残さなかったのはやはり残念だったとみるのか・・・。戦後の歴史が刻んだ事実をこれからも見つめていくしかなさそうだ。

 教会横の敷地では、ちょうど司祭館の新築工事が進んでいた。

 浦上教会の坂を下り途中で右折した住宅地のなかに、故永井隆博士が亡くなるまで住んだ「如己堂」と市立永井隆記念館がある。

 永井博士は、戦後発の大ベストセラーとなった「長崎の鐘」で有名だが、現在でも博士を巡る論争が続いているのは「長崎の鐘」に書かれ、廃墟の浦上教会での原爆合同葬でも博士が述べた「神の恩寵によって、浦上に原爆が投下された」という言葉を巡ってだった。

 同じカトリック信者で作家の井上ひさしは、著書「ベストセラーの戦後史 1」 で「これが本当なら、長崎市以外で命を落とした人びとは・・犬死ということになる」と批判、「この著者の思想をGHQは『これは利用できる』と踏んだにちがいない」と述べている。

 この論争は、永井博士生誕100年の2008年にも、新聞などで再燃している。
 白血病で病床にいる博士を昭和天皇やヘレン・ケラー、ローマ教皇特使が見舞い、吉田茂首相が表彰状を贈るなど"浦上の聖者"が"日本聖者"になっていった経緯は、いささか普通でないようにも見える。やはり戦後歴史の一つとして見つめ続けられていくのだろう。  1昨年の5月と昨年1月には、このほか国宝の大浦天主堂日本二十六聖人殉教地、聖トマス西と十五殉教者に捧げられた「中町教会」、長崎港を見下ろす丘の上に建つ神の島教会、それに聖コルベ記念館サント・ドミンゴ教会跡資料館を訪ねた。

その前にある長崎歴史文化博物館では、開催されていた「バチカンの名宝とキリシタン文化展」を鑑賞する幸運にも恵まれた。

様々な思いを心に刻み込まれた3年間の「長崎教会群巡り」だった。

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浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡:クリックすると大きな写真になります黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面:クリックすると大きな写真になります浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」:クリックすると大きな写真になります国宝の大浦天主堂:クリックすると大きな写真になります
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」。たった2畳1間。前の道路を通る観光バスも、ガイドの説明を聞いただけで素通りしていく国宝の大浦天主堂。聖灯が消え、入口で入場料を取る天主堂からは、聖堂の荘厳さは消えている。正面反対側に新しい大浦教会がある。
日本二十六聖人殉教地:クリックすると大きな写真になります中町教会:クリックすると大きな写真になります神の島教会聖コルベ記念館の内部:クリックすると大きな写真になります
日本二十六聖人殉教地。ちょうど、フイリッピンからの巡礼団が記念撮影中中町教会。原爆で崩壊したが、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建された急な階段を登って、行きつく神の島教会。俳優の故・上原謙が、この風景を見て、結婚式を挙げたとか聖コルベ記念館の内部。日本で殿堂後、帰国してアウシュビッツ収容所で他の囚人に代わって餓死刑を受け、後に聖人に列せられた。壁画は、それを描いたもの


戦後史
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