検索結果: Masablog

このブログを検索

大文字小文字を区別する 正規表現

Masablogで“黄河”が含まれるブログ記事

2010年9月24日

津和野紀行・下 「安野光雅美術館」と三国志の世界(2010・7・18-19)



 安野光雅美術館は、津和野の駅から数分のところにある白壁と赤い煉瓦のコントラストが見事な堂々とした和風建築だ。

  入場すると「すぐにプラネタリウムが始まる」という。津和野の夜空を彩る星座群を眺めながら心地よい午睡を愉しみ、第1展示室へ。幸運なことに、見逃していた「『安野光雅 繪本 三国志』展 ~中国、悠々の大地を行く~」が、開催されていた。

 入口に行程図があった。安野光雅画伯は、中国文学者の中村愿(すなお)氏とともに2004年から約4年にわたって「魏・蜀・呉」三国の歴史を巡った。この展覧会には、1万キロに及んだ旅の成果98枚が展示されている。

 これが「繪本」だろうか。
  淡い絵具で描かれた黄河や長江、山河の大作があり、三国志時代の「露天市場」がある。もちろん「曹操出盧」「荷進暗殺」「赤壁の戦い」「流星未捷(諸葛亮の死去)など、三国志おなじみの人物が安野ワールドらしいきめ細かなタッチで描きこまれている。

  美術館で買った図録「安野光雅  繪本 三国志展」のなかで、画伯は「少しでも中国に近づ くために」未晒し(みさらし)の絹本(けんぽん)を用い、黄河、長江の土、敦煌の砂から作った絵具も使った、と書いている。紙の実用化に功績のあった 蔡倫の記念館を訪ねて、はじめて作られたのと同じ技法の紙を使った作品もある。「長江群青(ぐんじょう)」という作品の山腹を彩る見事な蘭青色の絵具、ラピスラズリは、北京の画材店で求めた、という。

 作品に押されている落款印は、日本の小林 斗盦(こばやし とあん)や中国の有名な篆刻家らに依頼、それらの作品がガラスケースに入れて展示されていた。

  宿に帰って図録を眺めていたが、どうももの足りない。翌朝、美術館の開館を待って安野画伯が書いた「繪本 三國誌」を購入した。
  A5大横開きの大型本で、A5大の絵画作品ごとに2ページにわたる画伯の説明文がつ いている。これは、そのまま読み応えのある「安野 三國志」である。
sangokusi.jpg
繪本 三國志
posted with amazlet at 10.09.24
安野 光雅
朝日新聞出版
売り上げランキング: 89147
おすすめ度の平均: 5.0
5 世界にひたれます。


  もう1冊、衝動買いしたのが、三国志取材旅行に同行した中国文学者の中村愿(すな お)氏が著した「三国志逍遥」(山川出版社)。著者のサインがあった。安野画伯の作品を随所に挿入した「共同作業」の本だという。
三國志逍遙
三國志逍遙
posted with amazlet at 10.09.24
中村 愿 安野 光雅
山川出版社
売り上げランキング: 252914


 おもしろいのは、明代に書かれた歴史小説「三国志演義」や、最近ヒットした映画「レッドクリフ(赤壁)」で、悪者になっていた魏(ぎ)の曹操を高く評価していることだ。

 
 後漢王朝の衰弱のみならず、世の中の人びとと共に歩むべき政治家・軍人たちの道義が地に落ちきった時代にあって、曹操ほどひたむきに文・武の字義に違わぬよう生きる努力をした為政者が他にいただろうか


 この本が脱稿される寸前に「曹操の墓を発見」というニュースが流れた。
 ニセものでは?という論議もあるようだが、前の奈良文化財研究所長の町田章氏は、先日の読売新聞で「副葬品の銘文からも間違いないだろう」と書いている。

 三国志ブーム再燃の気配である。

 津和野から帰って、図書館で 「三国志談義」(安野光雅、半藤一利著、平凡社)を借りた。
三国志談義
三国志談義
posted with amazlet at 10.09.24
安野 光雅 半藤 一利
平凡社
売り上げランキング: 556071
おすすめ度の平均: 3.0
3 もっと三国志してるかと...


 2人が「三国志」の舞台となった黄河、長江流域の遺跡への旅を語りあい、曹操 、劉備ら英雄・豪傑や孔明周瑜など軍師、謀将を人物評を採点し合うのがおもしろい。  三国志に出てくる「蟷螂の斧」 「豚児」 「涙をふるって馬謖(ばしょく)を斬る」 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」などの名言至言についての半藤のうんちくもナルホドと・・・。
  最後の章では、日本の俳句や川柳に読みこまれた名場面を解説しており「三国志」がここまで日本人の心のなかに溶け込んでいたのか、と感心させられる。

 月刊・文藝春秋で、宮城谷昌光が「三國志」を連載している。先月号では、孔明が死去するところまで書き進められていた。先日、本屋をのぞいたら、すでに9巻目の単行本になっている。
三国志 第一巻
三国志 第一巻
posted with amazlet at 10.09.24
宮城谷 昌光
文藝春秋
売り上げランキング: 129094
おすすめ度の平均: 4.5
5 宮城谷版『三国志』は揚震からはじまる。
5 文芸春秋で見かけて、最近ハマりました。
4 正史中心
5 三国志最高峰
5 これこそ次世代三国志


  1冊ずつ、図書館で・・・。短い夏の初めに始まった"三国志逍遥"はまだながーく続きそうだ。

2007年11月26日

黄河の森緑化ワークツアー同行記・下

 植樹を終えて、第1次植樹林に向かう。

クリックすると大きな写真になります まっすぐ伸びた道の向こうに、おむすび形をした小山が見える。びっしり緑に包まれているとはまだいえないが、樹木が上下左右に整然と育っている。これが、7年前から始まった神戸のNPO「黄河の森緑化ネットワーク」のボランティアと蘭州市政府の共同作業の成果なのだ。

 この会の理事、Kさんによると、始めたころは、木は一本もなく、雨が降ると土壌が流れ、砂漠化現象が始まっている荒山だった、という。

 「継続は、本当に力だなあ」。なんだか胸のなかに気持ちのよい空気を一杯吸い込んだような気分になる。

 植えたのは、最大3メートル近くに育ったコノテガシワを中心に、イタチハギ、ニセアカシアなど8種類、合計13万2000本。

 NPO所属のメンバーが、毎年シルクロードなどへの旅行も兼ねて植樹するほか、会員の会費や協力団体からの協賛金で、これまで毎年160万から180万円を緑化のために寄付してきた。

 小山のふもとに「中日友好林記」と書かれた記念碑があった。三角錐をした大理石製だ。

 唐詩の韻をふんでいて、とても読めない。このツアーのコンダクターで、ラストエンペラーの先代の子孫である金さんに翻訳をお願いした。

 「かって(蘭州が)金城と呼ばれた時は、緑が鬱蒼と広がっていたが、人災と戦争で荒野が広がってしまった」

 「新中国誕生後50年をかけ、すべての市民が背に氷を担ぎ、てんびん棒で水を運び、鍬、斧を持ち、苦難を乗り越えて3・5ヘクタールの植樹をし、海外まで知れ渡った」

 「東の緑溢れる国(注:日本)から緑の文明が紹介され、生態への意識が急速に広まった。2001年、甘粛省政府の命を受け、柴生芳氏(注:元神戸大留学生)が東奔西走し、中日友好林を実現させた」

 「日本黄河の森緑化ネットワークは、毎年この地を訪れて植樹し、緑を与え、金城を輝かせる」

 「人々の知恵で、砂が搭になるように、美しい山河に改造しよう。シルクロードが文化を伝えた頃のように」

 「海外からの初めてのお客様も、長く行き来すれば無二の朋となる。水が流れるごとく。松がいつまでも緑のように・・・」

 友好林のふもとは、カラマツやアカシア、ハゼなどの苗木畑が広がっている。蘭州政府は、ここ一帯を緑のテーマパークにする計画を進めている。その中心になる建物も、年末には完成する予定だ。全面の青いガラスは、黄河が昔のような清河に帰る、という願いが込められている。「黄河を清河に」。これは、NPOがスタートした時からのキャッチフレーズでもある。

クリックすると大きな写真になります 近くの蘭州市政府緑化工程指揮部の事務所(なぜか別荘と呼ばれている)での昼食会で、乾杯が続く白酒に酔った。その後、第2次友好林プロジェクトの調印式が行われた。

 100ヘクタールを植樹する計画だが、新たに三井物産環境基金からの助成がきまったため、6年かかる計画が3年に短縮できた。植林だけでなく、三水造林法の開発や根を育てる菌根菌の研究も日中共同で行い、蘭州市民にアンケートしてボランティアを募ることも検討している。

 緑化に力を入れた成果が出たのか、昨年の蘭州市の降雨量は約100ミリ増えた。といっても、この街の緑化率は7%とも、9%とも。まだまだ、道は遠い。

クリックすると大きな写真になります 心配なのは、この街の急速な経済成長だ。蘭州は、シルクロードの要だし、黄河を抱える唯一の都市でもあるため、内陸部の物流拠点として発展している。近くに大きな石油コンビナートもあり、スモッグと交通渋滞が悩み。偶数、奇数日で屋根が緑と黄色のタクシーが、交替で走るという規制もしているが・・・。

 果樹園がどんどん買い占められてマンションに変り、中山橋から見た黄河沿いも建設中のマンションが多く見えた。建設計画が発表されると、すぐに売り切れるという、どこかの国のバブル期みたいな様相らしい。

 環境改善と経済発展の追いかけっこが続く。

2007年11月17日

黄河緑化ワークツアー同行記・上

 約1週間のシルクロード・天山北路への旅を終え、甘粛省の省都、蘭州へ。いよいよ、この旅の本来の目的である植林ボランティアが始まる。

 ここ、蘭州は、中国中央部の黄河流域に広がる黄土高原の一部。長年の戦乱、中国政府による食糧増産政策、そして急激に進む砂漠化現象で、約2000年まえには緑豊かだった高原が、荒地が続く不毛の土地になってしまっている。

 その荒地に再び緑を取り戻すことを、甘粛省政府は重要政策にしている。空港から市内に入る国道沿いには、明らかに植林されたばかりだと分かる並木が続いている。省政府の強い指示で、蘭州の企業などが植林したものだが、一歩、裏に回ると砂漠化が続く荒地と畑が続いている、らしい。

 荒地があまりにも膨大なため、甘粛省政府の当面の目的も「とりあえず蘭州市内から見える山に植林をする」ことだという。

 神戸にあるNPO「黄河緑化ネットワーク」による植林ワークツアー」は今年で7年目。今年から第二期のプロジェクトに入り、植林の場所も植える木も変わるという。

 小さなマイクロバスに乗り換えて、河原のような小石の多い道を走ること約30分。山腹に「歓迎」の赤い横幕が張ってある荒山が、植林現場だ。

クリックすると大きな写真になります 斜度が45度はありそうな急な山腹には、すでに細い小道が作られ、等間隔であけられた直径30センチほどの穴にビニールシートが張ってある。

 今年から植えるのは、紅砂(ベニスナ)という小低木。これまで植えていたコノテガシワは、黄河から水を引いて定期的に散水するなどコストも人手もかかるため、水やりの必要がないこの木に替わった。「低木でも,低コストで荒地を緑でおおえる」と、この会の顧問である徳岡正三・元高知大教授は期待する。なにしろ3年間で100ヘクタールもの土地を、ベニスナの緑で埋め尽くす計算なのだ。

 先が丸くなっていない変った形をしたスコップを借り、ビニールの真ん中に穴を深く掘る。「スッコ」と、なんの抵抗もなくスコップが入る。粘土質のように見えるが、少ししめっぽいサラサラした感じの非常に細かい土。周りにある乾いた土を手でこすると、風に散っていった。

 「なるほど、これが黄砂か」。春先の日本に黄砂が降ってくるのは「砂漠化した畑に農民がいっせいに鍬を入れ、砂が舞い上がるため」と、この会の会報に深尾葉子・大阪外国語大学准教授が書いておられたのが、なんとなく納得できた。

 今回「ベニスナ」を植えるために、蘭州市の環境緑化指揮部という役所が開発したのは「三水造林」という植林法。
 真ん中にあけた穴にベニスナの苗木を入れ、土でしっかり押さえる。そして、残った土で、ビニールシートの周りを、やはりしっかり固める。

  「ビニールシートで雨水を集め=集水」「根に水を注ぎ=注水」「シートで蒸発を抑える=保水」。

  年間降雨量389ミリという、少ない雨水を有効に利用しようという、なんだか中国語らしい命名だ。

クリックすると大きな写真になります
 林の最中に、近くにおかしな雑草が生えているのを見つけた。ラクダしか食べないという「ラクダ草」だった。とげがあるのに下あごを使って食べてしまうという砂漠特有の草。またもや、ここが“砂漠”であることを再認識した。

 2時間強の作業を終えたワークツアーや現地参加の約50人、それに地元・中国のメンバー十数人が横幕の前に集まり、記念撮影をした。

 ベニスナは、大きくなっても最大1・5メートルにしかならない。しかし、それがしっかり根を張り、数年後には、この荒山を緑のじゅうたんに変えることを夢見て、ズボンやシャツを真っ白にした、みんなの顔が輝いて見えた。

2007年10月16日

シルクロード紀行① 「天山北路を行く・上」

 九月の中旬から、神戸にあるNPO「黄河の森緑化ネットワーク」の植樹ワーキングツアーに同行して、中国・天山北路を訪ね、黄土高原・蘭州での植樹ボランティアに参加させてもらった。酷暑の日本とは様変わり。あこがれのシルクロードは爽やかな冷気に満ちていた。


クリックすると大きな写真になります
 中国の最北にある新疆ウイグル自治区は、中国全土の六分の一、日本の約四倍もの広さがある。その中央に、長さ2000キロ・メートル、幅400キロ・メートルと、日本の青森から鹿児島をすっぽり入ってしまう巨大山脈、天山山脈が、東西に延々と連なっている。

 飛行機の窓から見ると、9月というのにもう山頂に雪を抱いていた。木が一本もない、山塊だけの風景が一時間以上も続く。 この天山山脈の北側を走るのが、「草原の道」と呼ばれる天山北路。シルクロード三幹線の一つだ。 国境に近い街・イリ(伊寧=イーニン)ら隣国・カザフスタンに向かう天山北路、現在の国道312号線の主人公は、トウモロコシの黄色い帯と茶褐色の羊の群れだった。

 朝8時にホテルを出た貸し切りバスは、トラック、荷馬車、人の群れでごった返す街中で警笛を鳴らし続ける。少し郊外に出て、やっとスピードを上げた。

 歩道だけでなく車道にまではみ出して、収穫したばかりのトウモロコシを広げて乾燥させている黄色い帯が、断続的に続いている。なんと、いくつかの帯の上には鉄製の簡易ベッドが載っている。ベッドで、まだ布団をかぶっている人がいる。徹夜で、トウモロコシの番をしていたのだろう。すでに粉にしたものをクワでひっくり返して乾燥させる作業に追われている人もいる。天山山脈北側の比較的温暖な気候とはいえ、年間降雨量が260ミリ前後と少ないからこそできる“離れ業”だ。

国道に入る道路となると、トウモロコシは遠慮会釈なく道一杯に広げられている。

 14世紀に、この地を支配したモンゴル族の王の陵墓を見学するためわき道に入った時には、トウモロコシの皮をむきながら、無邪気な笑顔でバスの窓を見上げる子どもたちの横を、ようやくすり抜けることができた。

 もっと離合に苦労したのが、冬の間の飼料に使う枯れ草を満載した荷車や三輪車。その山は、車体の3,4倍。枯れ草は、車体から数メートルははみ出している。沿道の農家の軒先には、屋根より高く枯れ草が積まれていた。

 バスが時々、急にスピードを落とす。前を見ると、羊や牛の群れが道一杯に広がってやってくる。警笛を鳴らしながら、ゆっくり進むと、羊の群れは悠々と少しだけ道を空ける。後方で馬に乗ってムチを持っている羊飼いらは知らん顔だ。

 羊や牛、時には馬の群れは、いつも西、天山山脈のふもとからやってくる。山の草原にもそろそろ雪が降るため、ふもとにある“秋の牧場”への引越しラッシュなのだ。

 沿道の草原にポツポツとあるパオ(遊牧民の移動式テント)の横では、蜂蜜のビンを並べて売っていた。しかし、蜂の巣箱は、もう片付けられて、ほとんど見られない。周辺の高山植物は、まだ枯れてはいないが、花はすっかり散っている。

 草原の道・天山北路の冬支度は、真っ盛りだった。