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2007年12月11日

読書日記「中国を追われたウイグル人」(水谷尚子著、文春新書)

 1か月ほど前、本屋漁りをしていて、ふと目を引かれたのが、この本。目次に「イリ事件を語る」とあるのを見てエット思った。

 前回、書いたように「中国・シルクロードウイグル女性の家族と生活」という本のあとがきに、編者の岩崎雅美さんは、国を持たないウイグル人と中国政府との衝突について触れられている。

 「中国を追われたウイグル人」という本を見て、この、あとがきを思い出した。

 9月の中旬に天山北路のツアーに参加した時は、そんなことはまったく知らず、イリの街ではカワプ(羊肉の串焼き)や野菜などを揚げる屋台の賑わいを、周辺の山や草原では、羊や牛を放牧するウイグル族の牧歌的な生活の観光を楽しんできた。

 しかし、まったく無知だったが、郷愁漂うシルクロードが走る中国・新疆ウイグル自治区はウイグル人の祖国だったのだ。この"祖国"を彼らは、東トルキスタンと呼ぶ。

 歴史年表によると、1933年に続き、1944年にも東トルキスタンは独立をはたしたことがある。しかし、いずれもソ連の介入や中国政府による占領で、短命に終わっている。

 しかし、イリを中心に祖国を持たないウイグル人の反政府、独立運動は続発し、中国政府による弾圧も続いているらしい。

 この本は、この独立運動に関与したと見なされて、海外に亡命したり、投獄されたりしているウイグル人たちの実情を記録したものだ。

 圧巻は、世界ウイグル会議議長として、ウイグル人の人権擁護活動をしている在米ウイグル人女性、ラビア・カーディルさんへのインタビューだ。

 ラビアさんはアルタイ生まれ。中国共産党の軍隊が「東トルキスタン」を占領した際、母、弟妹とともにトラックに乗せられ、タクラマカン砂漠に置き去りにされた。大変な思いで砂漠を抜け出した後、自らの才覚で中国十大富豪の一人と呼ばれるようになり、中国共産党関連組織の要職まで務めた。

 だが、江沢民を前に反政府演説をしたのをきっかけに、その地位と財産を奪われて6年間投獄されたが、欧米の人権団体の擁護などもあり、米国に亡命した。

 この11月にはアムネスティ・インターナショナルの招きで来日、各地で講演している。11月10日付け読売新聞によると、ラビアさんは「ウイグル族の若い女性が沿岸都市に安価な労働力として強制移住させられている」「政治的迫害を受けて中央アジア諸国に逃亡したウイグル族が中国に強制送還されて投獄されている」など、中国の人権侵害の実態を訴えた。

 この本では、こんなエピソードも紹介されている。

 「2000年6月、日韓共催サッカーワールドカップで、トルコ対中国戦がソウルのスタジアムで行われた際、世界中のウイグル人が興奮し目を疑い、快哉を叫んだ。中国のゴール裏に広げられた巨大な東トルキスタン国旗(トルコ国旗の赤い部分を青にした旗)が、中継画面に何度も映し出され、全世界に配信された。実況中継のため中国でもそのシーンをカットすることはできなかった・・・」

 ただ、この本の著者である水谷尚子・中央大学非常勤講師は「序にかえて」で「ウイグル人亡命者の口述史をまとめる作業は、まるで平均台の上を歩かされているような感覚である。彼らの『語り』は、傍証となる資料を探すことがほぼ不可能で、客観的検証が非常に難しい・・・」と、書いている。

 私もこのブログを、その他の本やWEB検索資料で書いている。出所を確かめる作業はまったくしていないが、無責任な記述が許される「おたくメディア」だからと、自分を納得させるしかない。

中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書 599)
水谷 尚子
文藝春秋 (2007/10)
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5 恐るべきチャイナ
4 中共政府による少数民族弾圧の実態
5 アジアにおける「人権」を問う


 参考文献:「もうひとつのシルクロード」(野口信彦著、大月書店)=岩崎先生からの寄贈
もうひとつのシルクロード―西域からみた中国の素顔
野口 信彦
大月書店 (2002/05)
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2007年12月 3日

読書日記「中国・シルクロードの女性と生活」(岩崎雅美=編、東方出版)

 駆け出し記者のころ。確か、本多勝一だったと思う。「ルポルタージュの方法」という本かなにかで「知らない土地にルポに出かける時は、その土地の歴史と地図をしっかり調べる」と書いてあったのを読んで「なるほど」と思った覚えがある。

 今年の9月に、古い友人の久保さんにお願いしてシルクロードへの旅をご一緒させてもらうことになった際、出発まであまり時間がなかったが、できるだけシルクロードの歴史を書いたものや紀行文を読もうとしてみた。

 だが、行くところが天山北路という新疆ウイグル自治区でも、一番北にあるためか、関連する資料が少ない。特に、そこに住むウイグル族の人々の生活などを事前に知る手立ては見つけられなかった。消化不良のまま、出発日が来た。

 この旅は、久保さんご夫妻と同じ古いテニス仲間だった吉田さんご夫妻ともご一緒した。新疆ウイグル自治区の州都ウルムチの飛行場で便待ちをしていた際、吉田夫人(芦屋女子短期大学教授)から「こんなのがあるのですよ」と、手渡されたのが、この本。

 手に取ってパラパラとめくって見て驚いた。

 ウイグル族の生活を女性中心に記述した詳細なフイールドワークだった。具体的なルポを積み重ねた平易な文章だけでなく、その生活ぶりが分かる写真が多いのにも引かれた。

 2004年の発刊だから、本屋で手には入らないだろう。「この本を買いたいのですが」と、興奮気味にお願いしたら「二冊持っていますから、それ差し上げます!」。

 北西の都市、イリに向かう機中でむさぼり読んだ。

 この本は、吉田夫人の母校、奈良女子大学出身の7人の学者が、4年をかけて新疆各地の民家を実際に訪問して、女性の生活ぶりを調べたもの。

 家族構成や親子の同居実態、親族関係、子どものしつけ。それに、服装や髪型、化粧法など、女性だから調べられたと思う徹底したフイールドワークだ。

 おもしろかったのは、眉毛の化粧。ウイグル族女性の化粧のなかで、特に眉毛は大切らしい。どの家庭でも庭先にオスマという植物を一年中栽培していて、その葉を手のひらでよく揉んで出てくる緑の汁で眉を描く。出来あがると、濃いグレーで、太くて濃い化粧が好まれる、という。

 イリでツアーガイドをしてくれたウイグル族の女性、Cさんが、そっくりの眉をしていた。「オスマで描くの」と聞いたら、違うという。働く女性は、市販のものを使うのだろうか。

 この本はもちろん、ウイグル族の民族料理にも詳しい。

 日常食で、我々の食事にも出たナンは、羊肉のみじん切りやタマネギ、カボチャのペーストを入れたものなど、種類は非常に多いようだ。

 日本では、なぜかシシカバブと呼ばれている羊肉の串焼き「カワプ」は、石炭で焼く途中で、唐辛子やジーレンと呼ぶ調味料をふりかけながら、こんがりと焼く、と書いてある。ジーレンの実には揮発油が含まれていて、特有の香りがする、という。「ああ、あの香りはそのせいなのか」。納得。

 帰国してしばらくしたら,吉田夫人から、この本の続編「中国・シルクロード ウイグル女性の家族と生活」(編者、出版社:同)が送られてきた。編者の岩崎先生が寄贈していただける、という。

 同じ先生方7人が、その後3年、計7年続けられた調査が書かれている。民族料理の記載がぐっと増え、民家の詳細な見取り図までが描かれているなど、さらにウイグル族女性の生活に入り込んだ様子が生き生きと書かれている。

 岩崎先生のあとがきに、このような記載があった。

「ウイグル人は国を持たない民族であるために、一種心のよりどころとなる国を求める意識が働き中国政府と衝突する」

 この文章のおかげで、別の本に出会うことになる。

中国・シルクロードの女性と生活
岩崎 雅美
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5 写真が沢山載ってます!
中国シルクロード ウイグル女性の家族と生活
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2007年11月10日

シルクロード紀行⑤ 「氷河がつくった湖」

 急に秋の世界が拓けてきた。

 これまでの針葉樹林帯に広葉樹の木々が混じり始めた。それがすでに黄葉し始めている。紅葉樹の林もある。

 天山北路の西のはし、イリの空港から一挙に東に1時間強のアルタイ。この街から、バスで、ロシア国境に近いカナス湖を目指した。

 バスが、急峻な山道を登り、高度を上げているたびに、周辺の森が深みを増していく。イリ周辺の草原の山々まったく違う、密度の濃い樹林帯が続く。

 「高度は1700メートル近くありますね」。古い友人で、このツアーに誘ってもらったKさんが、腕時計についている高度計をのぞき込んだ。

 黄葉している林を、最初は信州の山でよく見るダケカンバかと思った。「白樺ですよ。幹がまっすぐ伸びているでしょう」。ツアー仲間で、植物に詳しいMさんが教えてくれた。日本とは比較にならない広大な白樺の樹林帯と、まだ落葉していないシベリアカラマツ(落葉松)やトウヒ、モミなどの針葉樹林帯との対比が際立っている。

 アルタイから約150キロ・メートル。カナス湖は、海抜約1300メートルのアルタイ山脈の奥深い森のなかにある。

 この湖は太古の昔は、氷河だった。その後の、温暖化で氷河が消え、そこにアルタイ山脈の雪解け水や雨水が流れこんで湖になった、という。

 氷河がつくった湖だから、全長24キロ・メートルと、三日月のように細長く続き、近くの山に登っても、なかなか全貌がつかめない。

 氷河が大きくえぐったからか、一番深いところは188メートルもあり、中国で最も深い淡水湖でもある。

 この深さのせいか、この湖には一つの伝説がある。長さ10メートルを越える怪魚が生息している、というのだ。

 旅に出かける前に「You Tube」の画面で見た映像では、確かに小船のようなUMA(未確認生物)らしきものが動いているのが映っていた。開高健の著書「オーパ、オーパ!!」にも、このカッシー(別名・ハナス湖からハッシー)のことが書かれているらしい。

 もう一つ、この湖には、有名な不思議がある。季節と時間で湖の色が変わるらしい。

 確かに、初日の夕方にみた「月亮湾」は、夕日を受けて黄色に見えたし、竜のような中州を抱えた「臥竜湾」は逆光のせいか深い緑に見えた。翌日、約30分かけて上った「観魚亭」から見たカナス湖は青白く輝いていた。

クリックすると大きな写真になります 湖の湖底には、氷河がつくった大量の小石が風化して堆積し、その粒上の石が、太陽の光を受けて、季節と時間で異なる色で反射する、という。

 観魚亭から見た湖の対岸に広がるアルタイ山脈の山並みが見事だった。大きく延びる裾野にカラマツの緑と白樺の黄葉が広がり、峻険な頂上を飾っている。

 ここカナス自然保護区は、中国で唯一の西シベリア系動植物分布地域。この風景が、遠くロシア・シベリアまで続いている、ということだろうか。

開高健の著書「オーパ、オーパ!!」

オーパ、オーパ!!〈モンゴル・中国篇・スリランカ篇〉 (集英社文庫)
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3 完結編だが・・・
4 宝石
3 東の端に生まれて


2007年10月31日

シルクロード紀行④ 「ジンギスカンが来た草原・下」

 翌日は、カザフスタン国境に近いサリム湖へ。

クリックすると大きな写真になります イリから国道312号線(天山北路)に出て、東へ向かう。別名「果物の道」と言われるだけあって、国道沿いにあるテント張りの屋台には、果物が堆く積まれている。小ぶりだが、甘さたっぷりのリンゴやブドウ、そしてザクロ。ナツメ(500グラムが2元)は、スカスカのリンゴのような味。干したらうまいらしい。スモモ(1キロで4元)は、堅いが甘酸っぱい素朴な味がした。

 昼前に着いたサリム湖は、海抜2073メートルと、世界で一番高いところにある内陸湖(流れ出す川がない湖)。面積は458平方キロ、一番深いところで98メートルあり「天山の真珠」という別名があるとおり、透明で澄んだ湖面が広がっていた。

 魚も多いらしいが、捕獲禁止。水はアルカリ性が強く、飲めないため、周りの草原で羊などを放牧しているモンゴル族の人たちは、湧き水しか使えない。ちょっと飲んでみたが、冷たくてうまい天山山脈の地下水だった。

 夏の最盛期は、約45万頭の羊や牛が放牧されるという、大草原観光(一人140元)に出かけた。まず、モンゴル族独自の儀式。それぞれがハーターという白い絹の布を首に巻き、ツアー仲間のMさんが代表して、白酒を入れた杯に指をつけて天と地面を指し、額につけて飲み干した。

 この儀式は、後日、アルタイのカナス湖畔だけに住むモンゴル族トア人の住居を訪ねた時も同じだったし、数年前に内モンゴルを旅したZさんも同じ体験をした、というからモンゴル族共通のものらしい。

クリックすると大きな写真になります 小型自動車に分乗、湖畔を走る。湖の向こうに山並み、後ろに大草原が広がる。モンゴル族ガイドの指示に従って、川に下りて、小石を3個拾って首の布に包んだ。車で丘にあがると、小石を積み上げた小山が4つほど築かれている。その周りを3回回って、小石を一つずつ落とし、小山の上にある柱に白い布を巻きつけ、儀式は終わった。

 この小山の横に、表に中国語、裏はモンゴル語で書かれた大きな石碑があった。その赤い字を、帰国してから通っている中国語教室の先生に教えてもらいながら拾い読みし、この儀式が、なんとなく理解できた。

 「紀元前1219年、天驕(北方民族の君主)である成吉思汗(ジンギスカン)率いる20万の西征軍は、アルタイ山を越え、サリム湖に入り、将台(兵を指揮し、謁見する台)とオボを築いた。人々は長年、蒙古人民の供養のため朝拝した・・・」。

 オボとは、モンゴル族特有の祭壇、我々が小石をささげた小山のことだった。

 この故事を記念するため「西海草原」と名付けられた石碑がある大草原で、毎年7月中旬にあらゆるモンゴル族が集まって「ナーダム」という祭りが開かれ、競馬や相撲、歌や踊りを楽しんできた、という。

  石碑の百メートルほど横にぽつんとたっている棒は、祭りの時の国旗掲揚のためのものだった。

 しかし、この祭りも「草原が荒れる」のことを理由に、昨年禁止されてしまった。ここの地主は、中国政府。少数民族保護政策と、なにか関係があるのだろうか。

 祭りができなくなった草原に向かって、大きく風を吸い込んでみた。山から駆け下りてきたジンギスカンを思った。

2007年10月23日

シルクロード紀行③ 「ジンギスカンが来た草原・上」

 イリを朝8時に出て、国道218号線を東へ。途中下車しながら280キロ・メートルをバスで走り、世界四大高山河川高原の一つナラティ草原に着いた時は、もう午後3時を少し過ぎていた。

「なんだ、ここは遊園地か」。野球場の三倍ほどの草原には、観光客を乗せるラクダが数匹うずくまっており、その向こうは、なんとゴルフ練習場。観光客があふれる駐車場の柵で休んでいた鷹飼いの老人にカメラを向けたら、右腕に留まらせていた鷹の羽を大きく広げてみせ「5元(約80円)!」と、手を突き出された。
クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります なんだかガッカリした気分は、馬で草原探索をするという初体験で、すっかり晴れた。 カザフ族の少年や少女が後ろに乗ってくれて、ワークツアーのメンバーのうち、約20人で約1時間のツアー。料金は、チップを入れて一人50元。私の同伴者は、日焼けして彫が深い精悍な顔の少年。ウイグル語しか話さないようだが、覚えたての北京語で「止って!」と言うと、ちゃんと馬を止め写真を撮らせてくれた。

 乗ったのは、ちょっと小ぶりの8歳馬。通っている中国語教室の元同級生Zさんは、以前に内モンゴール自治区の旅行した際、同じような馬に乗ったことがあるという。「ロバとサラブレットの間ぐらいの大きさで、乗りやすかった」。どちらも、漢の武帝が追い求めたという匈奴の名馬「汗血馬」の子孫なのだろう。

 こぶりといっても馬上からの目線はけっこう高い。少年の動きに合わせてアブミに乗せた両脚を挙げ下ろしすると、馬はトットとスピードを上げる。草原を駆け抜ける風を心地よく感じ、気分は爽快。翌日から数日間、両脚に軽い筋肉痛になった。
 30分ほど走ったところで、休憩。近くにコヨの林を見つけた。ツアーガイドの張さんによると「生きて1200年、立ち枯れて1200年、倒れて1200年」持つ、砂漠のオアシス特有の木だという。

 小型自動車に分乗して、山並み散策に出かけた別グループの見た高原は、深い谷とどこまでも広がる緑の草原に囲まれ、すばらしい眺めだったらしい。

 約1万6千ヘクタールもあるというこの大草原に、シルクロードらしい物語が残っていた。

 ジンギスカン(成吉思汗)が西征に乗り出したころのこと。一団の蒙古軍が、天山山脈を越えて、イリに向かった。季節は春だったが、風雪が激しく、兵士たちは飢えと寒さで疲労困憊、引き返そうかと思った瞬間。突然、目の前に花があふれた草原が広がった。その時、夕日のように真っ赤な朝日が昇ってきた。兵士たちは、大声で叫んだ。「ナラティ、ナラティ!」。「ナラティ」は、モンゴール語で「太陽」という意味。悠久の昔の兵士たちの声が、そのまま、この大草原の地名となっている・・・。

 

2007年10月19日

シルクロード紀行② 「天山北路を行く・下」


クリックすると大きな写真になります
 天山北路は、国境に通ずる交通の要路でもある。

 行きかう車は、ほとんどが、日本でもほとんど見かけない超大型トラック。西に向かう中国ナンバーは、大きなダンボールをこぼれるように積み上げている。中味は、中国製の衣類や食品だろうか。西から来る車は、鋳鉄の塊や鋼鉄管を載せている。

 国境の街・コルガスの街に入る手前の検問所で、若い中国人民軍兵士がバスに乗り込んできてパスポートをチェックした。カメラを向けたら、厳しい目で阻止された。

 国境の駐車場は、通関待ちの大型トラックで一杯。国境を守る兵士の横にある標識の石には「312国道 4825」と赤く刻まれていた。終着点・上海まで4825キロという意味らしい。

 国境は、目の前の枯れた河。カザフスタン側には、鉄さくだけで人影は見えない。記念撮影の観光客でごったがえす国境に緊張感は見られない。

 しかし、秦の時代から、この天山北路では、遊牧民と漢民族の間で厳しい戦いが繰り返されてきた。19世紀、清の時代には、ロシアがイリを占領、その後の交渉で締結された「イリ条約」で、現在の国境が決められた。

 第二次世界大戦後に長く続いた中ソ対立で、東西の交流はほとんど途絶え、人々は長年、この国境を越えてシルクロードを西に行くことはできなくなった。交易が再開できるようになったのは、ソ連崩壊以降だという。

 コルガスの街で見つけた国道312号線の道路標識には「亜欧(YAOU)路」とあった。亜細亜から欧州に通じる路という意味だろう。 国境を越えて北アジアから地中海に通じる砂漠とオアシスの路・天山南路と草原の北路、そして南方の東南アジアからインド洋、紅海にいたる南海路。この三つのシルクロードは、古代ローマの時代から、絹織物や陶器を運び、東に向かえば唐の首都・長安(現在の西安)から朝鮮半島、そして日本の奈良・正倉院の収蔵品に、その足跡を残している。 中国は今、急激な高度成長。カザフスタンも豊富な石油資源で、いずれも年間10%を越える経済成長に潤っている。 二つの国を貫く現在のシルクロードを行き交う人とモノの群れは、悠久の太古に始まった交易の歴史を引き継いで、新しい盛り上がりを見せている。

2007年10月16日

シルクロード紀行① 「天山北路を行く・上」

 九月の中旬から、神戸にあるNPO「黄河の森緑化ネットワーク」の植樹ワーキングツアーに同行して、中国・天山北路を訪ね、黄土高原・蘭州での植樹ボランティアに参加させてもらった。酷暑の日本とは様変わり。あこがれのシルクロードは爽やかな冷気に満ちていた。


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 中国の最北にある新疆ウイグル自治区は、中国全土の六分の一、日本の約四倍もの広さがある。その中央に、長さ2000キロ・メートル、幅400キロ・メートルと、日本の青森から鹿児島をすっぽり入ってしまう巨大山脈、天山山脈が、東西に延々と連なっている。

 飛行機の窓から見ると、9月というのにもう山頂に雪を抱いていた。木が一本もない、山塊だけの風景が一時間以上も続く。 この天山山脈の北側を走るのが、「草原の道」と呼ばれる天山北路。シルクロード三幹線の一つだ。 国境に近い街・イリ(伊寧=イーニン)ら隣国・カザフスタンに向かう天山北路、現在の国道312号線の主人公は、トウモロコシの黄色い帯と茶褐色の羊の群れだった。

 朝8時にホテルを出た貸し切りバスは、トラック、荷馬車、人の群れでごった返す街中で警笛を鳴らし続ける。少し郊外に出て、やっとスピードを上げた。

 歩道だけでなく車道にまではみ出して、収穫したばかりのトウモロコシを広げて乾燥させている黄色い帯が、断続的に続いている。なんと、いくつかの帯の上には鉄製の簡易ベッドが載っている。ベッドで、まだ布団をかぶっている人がいる。徹夜で、トウモロコシの番をしていたのだろう。すでに粉にしたものをクワでひっくり返して乾燥させる作業に追われている人もいる。天山山脈北側の比較的温暖な気候とはいえ、年間降雨量が260ミリ前後と少ないからこそできる“離れ業”だ。

国道に入る道路となると、トウモロコシは遠慮会釈なく道一杯に広げられている。

 14世紀に、この地を支配したモンゴル族の王の陵墓を見学するためわき道に入った時には、トウモロコシの皮をむきながら、無邪気な笑顔でバスの窓を見上げる子どもたちの横を、ようやくすり抜けることができた。

 もっと離合に苦労したのが、冬の間の飼料に使う枯れ草を満載した荷車や三輪車。その山は、車体の3,4倍。枯れ草は、車体から数メートルははみ出している。沿道の農家の軒先には、屋根より高く枯れ草が積まれていた。

 バスが時々、急にスピードを落とす。前を見ると、羊や牛の群れが道一杯に広がってやってくる。警笛を鳴らしながら、ゆっくり進むと、羊の群れは悠々と少しだけ道を空ける。後方で馬に乗ってムチを持っている羊飼いらは知らん顔だ。

 羊や牛、時には馬の群れは、いつも西、天山山脈のふもとからやってくる。山の草原にもそろそろ雪が降るため、ふもとにある“秋の牧場”への引越しラッシュなのだ。

 沿道の草原にポツポツとあるパオ(遊牧民の移動式テント)の横では、蜂蜜のビンを並べて売っていた。しかし、蜂の巣箱は、もう片付けられて、ほとんど見られない。周辺の高山植物は、まだ枯れてはいないが、花はすっかり散っている。

 草原の道・天山北路の冬支度は、真っ盛りだった。