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2014年2月18日

読書日記「バチカン近現代史 ローマ教皇たちの『近代』との格闘」(松本佐保著、中公文庫)


バチカン近現代史 (中公新書)
松本 佐保
中央公論新社
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 月に1回、カトリック夙川教会で開かれている「信徒によるカテキズム勉強会」に時々、出席させてもらっている。

 表題の本は、先月の会合で I さんや K さんに教えられ、図書館で借りた。キリスト教抜きには語れないヨーロッパの歴史が、近代から現代にまで延々と及んでいることが簡明に書かれている。

 名古屋市大教授でイギリス外交史などが専門の著者は、この本のなかで、 ローマ教皇の誕生や中世の教皇覇権の歴史はたった5ページで片付け、宗教と国家の分離を図った18世紀末のフランス革命という「近代」の幕開けから表題通り「バチカン」の歴史をひも解こうとする。

 象徴的なのは、1804年の ナポレオンのフランス皇帝戴冠式だった。

 著書では、フランス・新古典主義の画家、 ダヴィッドの大作 「ナポレオンの戴冠」(フランス・ルーブル美術館所蔵)について書いている。

 本来教皇が授けるはずの冠をナポレオンが自ら手で頭に戴いたのである。ダヴィッドの絵では後ろに座っているローマ教皇の ピウス7世が困惑した表情を浮かべている様子も描かれる。


 最近見たNHKの番組によると、ダヴィッドが事前に描いた下絵(素描) もルーブル美術館に残されているらしい。

 この下絵では、ナポレオンが教皇から奪った冠を自らの頭に乗せようとしており、わざわざ戴冠式だけのために、パリに呼びつけられた教皇はなにもできずに下を向いている。

 しかし、これではあまりに教皇に対して挑戦的だというダヴィッドの"演出"なのか、出来上がった作品では、しぶい顔ながら 右手で皇帝を祝福している教皇が描かれた、という。

 バチカンにとっては、あまりに屈辱的な近代の始まりであった。

 ソ連で生まれた共産主義の脅威に対抗するため、バチカンが ムッソリーニ ヒトラーに傾斜していった第2次世界大戦前後の様子は第4章で詳しく記される。

 ローマ教皇は、イタリア王国がローマ市街の引き渡しを求めた「 ローマ問題」の解決を図ろうと、ファシズムのムッソリーニ政権に積極的に近づき、 ラテラノ条約を締結、結果的に世界最小の独立国家・バチカン市国を得る。

 第2次世界大戦下で就任した教皇 ピウス12世下は、後に「ヒトラーの教皇」とも批判されほど、ヒトラーと親密な関係保持に努めた。

 一昨年,ポーランドの アウシュヴィッツを訪ねた際に「なぜ、カトリック教会は、 ホロコーストを防げなかったのか」という疑問を持ったことはこの ブログでもふれたことがある。

 ただ、ホロコーストへの教皇の対応について、こんな事実があったことも著者は明らかにしている。

 
 (ローマが枢軸国と連合国戦争のはざまで無防備都市になった際)ナチス親衛隊がユダヤ人ゲットーに踏み込んだという一報を聞いたピウス12世は、すぐに・・・ドイツ大使を呼び、ユダヤ人逮捕の中止を要請した。これに対しドイツ大使は、本国政府に直接抗議するよう求めた。ピウス12世は、直接本国政府への抗議は行わず、バチカン市国内とカトリック施設にユダヤ人を匿う行動をとる。


 この事実を評価した建国後のイスラエル政府はピウス12世に「諸国民の中の正義の人」賞を贈る。  しかし著者は「(ピウス12世のホロコーストへの対応は)生ぬるいという批判はついて回るだろう」と、次のような歴史認識も示す。

 いずれにしろ、第二次世界大戦中のピウス12世、ひいてはバチカンに対する批判的な論調が大きくなるのは、冷戦終結後の一九九〇年以降である点が興味深い。バチカンは冷戦中、西側勢力の反共産主義の牙城であり、そのイデオロギーの拠り所として重視されていた。しかし冷戦が終結すると、封印されていたものが出てくるようになったのである。


 歴史が生み出した皮肉な結果だと言えるかもしれない。

  この著書の圧巻は、第8章の「ポーランド人教皇の挑戦――ベルリンの壁崩壊までの道程」だろう。イタリア人以外では約450年ぶり、共産党一党独裁国・ポーランドからはもちろん初めて選出された ヨハネ・パウロ2世と共産主義体制との闘争の物語だ。

 教皇は、就任翌年の1979年6月、母国ポーランドを訪問した。教皇が共産圏に足を踏み入れるのは初めてで、東ヨーロッパだけでなく、共産圏諸国に大きな衝撃を与えた。

 ポーランド共産党政権は、なんとか教皇の入国を阻止しようとしたが、教皇の絶大な人気の前に、暴動を恐れて失敗に終わった。「教皇はスピーチで、ソ連の隷属状態にあり、信仰の自由のないポーランドを間接的に批判した。・・・これがポーランドのカトリック教会と労働者の反体制運動とのつながりを生むことになる」

  ヨハネ・パウロ2世はその直後、国連の安保理総会にオブザーバーとして参加、人権が尊重されていない東側共産主義国を批判する。「ポーランド訪問と国連でのスピーチは、教皇による共産主義国への宣戦布告とも受け取られた」

 ポーランドで,労働者組織 「連帯」が結成され、全土に社会不安が広がるなか、1981年5月に教皇暗殺未遂事件がローマで起きた。「ソ連・KGBが計画し、ブルガリアや東ドイツが協力したという」

 1983年、教皇は戒厳令下のポーランドに2度目の訪問をして政府と交渉し、非合法化されていた「連帯」の限定的復活と戒厳令の解除で合意した。

 1987年には、3度目のポーランド訪問をし、ポーランドの国旗に「連帯」のシンボルを付けた旗を振る民衆の大歓迎を受けた。「ヨハネ・パウロ2世に勇気づけられた民主化運動の動きは全国的な勢いを得て、もはや止めることはできなかった」。1989年の総選挙で「連帯」が勝利し、共産党政権は崩壊した。この年、ベルリンの壁も崩壊した。

 1980年代後半から ペレストロイカ(政治体制の改革運動)を推進してきたソ連のゴルバチョフ書記長は1989年12月、バチカンにヨハネ・パウロ2世を訪ねた。

 新聞は「マルクス主義がカトリック信仰に敗北したことを認める『二〇世紀末の カノッサの屈辱』」と論評した。

 ヨハネ・パウロ2世は教皇就任直前まで、ポーランドの古都で世界遺産であるクラクフ教区を管轄する枢機卿だった。

 1昨年、アウシュヴィッツを訪ねた際、アウシュヴィッツ唯一の外国人公式ガイドである 中谷剛さんにクラクフの街を案内してもらった。

 歴史地区の広場にある広場の前に教会横の建物は、ヨハネ・パウロ2世がクラクフ訪問の際に泊まった宿舎で、正面2階の窓にいまだに教皇のカラー写真がはめ込まれていた。すぐ横の教会に入ると、後方右側のベンチに「教皇が滞在中、いつも祈っていた席」と書かれた銅板が貼ってあった。

 中谷さんによると、教皇が滞在中は広場に若者が詰めかけ教皇の名を呼び続けた。教皇は、いつも午前2時前後に、宿舎2階の窓を開けて、集まった人々に祝福を与えた。「あの熱気は忘れられない」と、中谷さんは言う。

 ローマ教皇庁はこのほど、ヨハネ・パウロ2世が、この4月に 列聖(聖人の地位にあがる)される、と発表した。没後9年という異例の速さである。

クラコフの宿舎2階に飾られているヨハネ・パウロ2世の写真P1080354.JPG


2013年12月15日

読書日記「イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」(ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳、みすず書房)、そして映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告
ハンナ・アーレント
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  一昨年、ポーランド・アウシュビッツを一緒に訪ねた友人に先日、映画 「ハンナ・アーレント」を見ることを勧められ、大阪で鑑賞した。

  事前に渡された新聞広告には「ナチス戦犯アイヒマンの裁判レポートに世界が揺れた」とあったから、単にユダヤ人大虐殺の張本人と言われてきた アドルフ・アイヒマンを告発する映画だと思ったが、とんでもない勉強不足だった。

  見終わった後、友人は「思わず拍手をしたくなった」と話したが、私も同じ思いを持ったすごい作品だった。

 まったく知らなかったが、 ハンナ・アーレントは、かってユダヤ人収容所から逃げ出した経験があり、アメリカに渡って十数年かかってアメリカ国籍を取った。小惑星に彼女の名前がつけられたり、ドイツ切手の表紙にもなったりしたことがある著名な政治学者だ。

 1960年、アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでイスラエル防諜特務庁(モサド)に捕まり、エルサレムで裁判が行われた際、雑誌 「ザ・ニューヨーカー」に傍聴レポートを書いた。

  そのレポートが「世界を揺るがせた。

 
アイヒマンは、単に上の命令に従っただけの凡庸な官僚で、悪の無思想性、悪の陳腐さを持った人間でしかなく、反ユダヤ主義者でもなかった。


 
一部のユダヤ人組織のリーダーが、少数のユダヤ人を救うためにナチに協力し、それが450万人とも600万人ともいわれるユダヤ人大虐殺につながった。


 この2つの記述が、迫害で生き残ったユダヤ人だけでなく、迫害した側にいた非ユダヤ人を含めた人々の怒りを買うことになる。これに対し、ハンス・アーレントは「考えることで人間は強くなる」という強い意志と主張を、友人を失いながらも果敢に貫く。そのシナリオが観衆の感動を呼んでいく。

 この映画には種本があるにちがいないと鑑賞後、売店でパンフレットを買い、表題の 「イエルサレムのアイヒマン」を知り、伊丹市立図書館で借りることができた。2冊も同じ蔵書があった。

 解説を含めても250ページほどの本だが、なんとも難解。一度はあきらめかけたが、どうしても気になり第一章「法廷」、第二章「被告」、第三章「ユダヤ人問題専門家」のほか、各章、エピローグ、あとがきをなんとか拾い読みして著者の.意図がおぼろげに浮かびあがってきた。

   最初に著者は、アイヒマンを(国際法上)不法逮捕したイスラエルの当時の首相 ベン・グリオンの言葉を紹介する。

「数百万の人間がたまたまユダヤ人だったために、百万もの嬰児がたまたまユダヤ人だったために、ナチスの手によっていかにして殺されたかをわれわれは世界の諸国民に明らかにしたいと思う」


   しかし世間の常識では当然とも思えるこの意図は、裁判を傍聴した著者がレポートに示した「悪の陳腐さ」という思いもよらない分析によって、成就できなかったことが明らかになる。

  さらにベン・グリオンは、語る。

「あの大虐殺の後に成長したイスラエル人の世代は、ユダヤ民族への連帯、ひいては自らの歴史への連帯を失う危機に曝されている。・・・必要なのは、わが国の若い世代の人々がユダヤ民族に起こったことを想い起こすことである。われわれの歴史上の最も悲劇的な事実を彼らが知ることをわれわれは、望んでいる」


  この意図も、ある意味で失敗したことも、著者は的確に指摘していく。

  第1に指摘した事実について、著者はアイヒマンの裁判の記録を詳細に検証、自らの考えを明らかにしていく。

「ユダヤ人殺害には私は全然関係しなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない―ーそもそも人間というものを殺していないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人の殺害を命じたことはない。・・・たまたま、私はそんなことをしなければならない立場になかったのです」


 アーレントは、こう分析する。

 
彼は常に法に忠実な市民だったのだ。・・・今日アイヒマンにむかって、別のやりかたもできたはずだと言う人々は、当時の事情がどうだったかをしらぬ人々、もしくは忘れてしまった人々なのだ。


 
もっと困ったことに、あきらかにアイヒマンは狂的なユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ主義の持主で・・・なかった。・・・反対に彼はユダヤ人を憎まない〈個人的な〉理由を充分に持っていたのだ。・・・身内にユダヤ人がいることは、彼がユダヤ人を憎まない〈個人的な理由〉の一つだった。彼には、ユダヤ人の愛人さえいた。


 
俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。


 
彼は愚かでではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。


   ハンナ・アーレントの第2の論点については「裁判の記録を述べただけだ」と、あまり多くの記述はない。

  アイヒマンが遇ったユダヤ人のうち最大の〈理想主義者〉は ルードルフ・カストナー博士だった。アイヒマンは彼と・・・次のような協定に達した。すなわち、数十万の人々がそこ(ハンガリア)からアウシュヴィッツへ送り出される収容所のなかで〈平静と秩序〉を保たれるならば、その代償としてアイヒマンは数千人 のユダヤ人のパレスチナへの〈非合法〉の出国を許す・・・というのである。この協定によって救われた数千人の人々は、つまりユダヤ人名士や シオニズム青年組織のメンバー・・・であった。

   「ナチスとシオニストの協力関係」というネット上の記述を見ると、エルサレムに独立国建設をめざしたシオニズムのメンバーが、世界各地に ディアスポラ(難民移住)しているユダヤ人がその地に同化するのを恐れて、ナチと手を結んだ、とある。

  ハンナ・アーレント関連の著書を調べると、びっくりするほど多くの文献がでてくる。伊丹図書館の蔵書から「ユダヤ論集 1 反ユダヤ主義」「同 2 アイヒマン論争」と、1冊3,400ページ近い大著を借りることができた。

  いずれも、アンナ・アーレントと論者との対談で構成されているが、このような本まで1つの自治体の図書館に所蔵されている事実にいささか驚いた。

  「アイヒマン論争」のなかで、アーレントは「世界は沈黙しなかった。しかし、沈黙したままでなかったことを除けば、世界はなにもしなかった」と語る。

  さらにアーデントは、表題の著書で国際法上 『平和に対する罪』に明確な定義がないことを指摘し、ソ連による カティンの森事件やアメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している。

  この映画の最後には、アーレントが学生たちにむけて講義する感動的なシーンが映される。

 
「彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこに罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。・・・"自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけだ"と」


 
「こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名付けました」


人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。・・・"思考の嵐"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。ありがとう」


  考え、想いをめぐらせる・・・。本もいいけれど、映画もいい。「ありがとう」

2013年9月20日

読書日記「四つの小さなパン切れ」(マグダ・オランデール=ラフォン著、高橋啓訳、みすず書房刊)


四つの小さなパン切れ
マグダ・オランデール=ラフォン
みすず書房
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 この本は、昨年5月のポーランド・ アウシュヴィッツ訪問に同行してくれた若い友人Yさんが自分のブログでふれているので知った。
 Yさんは、あの旅行を自分の人生のなかでかみしめようとして、この本に出会ったのだろう。図書館で、さっそく借りた。

 訳者によると、ハンガリー生まれのユダヤ人である著者は、 アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に収容された家族のなかでただ1人生き残った。しかし、長い間そこでの体験を封印してきた。「語りはじめるには、まず自分自身について勉強し、自分の人生に意味を与えるところから始めるしかなかった」
 ベルギー、フランスへと渡り、教職の資格を取得し、心理学を修めた過程で彼女は自らの意志でカトリックの洗礼を受けた。アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所での「パン」の経験が、福音書のなかにある言葉とつながったからだ。

 そして、解放されて32年後に沈黙を破って刊行されたのがこの本の前半の「時のみちすじ」。周囲の人たちは驚いた。「いつもほほえみをたやさない明るいマグダさんが、こんな壮絶な過去を持っていたなんて」
 これを機会に彼女は地元の中高校生に自分の体験を語るようになった。その後に書かれた後半部「闇から喜びへ」を加えて、マグダさんが85才の昨年、この本が上梓された。

 「時のみちすじ」「闇から喜びへ」でも、マグダさんは過去の経験を詳しく語ろうとはしない。短い詩と文章で1篇、1篇が構成されている。
 彼女の体験は、巻末に2人のインタビューヤーなどによる「著者の生きた時代について」に詳しく掲載されている。

 炉がはぜる。
 空は低く、灰色と黄色に染まっている。
 風に舞い散る彼らの灰をわたしたちは吸う。
 あれから三十年
 わたしは自分の記憶のぶ厚い壁に穴を開け、揺する。
 希望をほしがっていたたくさんのまなざしが
 ほこりとなって
 消えてしまわないように。(時のみちすじ・まなざし)


 1944年春。ハンガリーから毎日1万2千から1万5千ものハンガリーのユダヤ人がビルケナウ収容所に貨物列車で送り込まれた。すでに収容されていた1人が命がけでなんどか列のなかに入ってきて、唇を動かさずに「おまえは18歳、18歳だからね」というのをマグダは耳にした。
 年齢をたずねられた16歳のマグダは「18歳」と答えた。18歳以上の若い女性は、労働に耐えられるだろうからと右の列に、母と妹は左に行かされた。
 家族の行方をたずねるマグダに女性のブロック長は、炎と煙が見える火葬場の煙突を指さし答えた。「もうあそこに入っているだよ・・・」

 厳しい労働が続いた。バラックの周囲の遺体を集め、人間の遺灰を荷車で近くの湖まで運んだ。マグダは何度もこの湖に身を投じようと思った。

 「生きることを信じよう。絶望を払いのけよう。・・・弱い人はここでは生きていけない。わたしたちは生きのびなければならない。わたしたちには生き証人が必要なのよ」
 これは、見知らぬ修道女の口から出た言葉だった。この言葉は、わたしの心の奥に根を下ろし、衰弱したときに生きる力を与えつづけてくれた。(時のみちすじ・生きる)


 
 (労働に駆り出された帰り)ゴール兼スタートの正門まで、わたしたちは駆けていかなければならない。それは、わたしたちがまだ労働に耐えられるかどうかを調べるための日課のようなものだ。・・・わたしたちは走る、恐怖で麻痺したまま。・・・鞭や杖でぶたれないように、犬に噛みつかれないようにするために、ドタ靴や木靴は捨てる。・・・死に至る選別。(時のみちすじ・足)


 瀕死の女性が合図を送ってきた。手のひらに黴びた四つのパン切れ、かろうじて聞き取れる声で、わたしに言った。「ほら、これをあげる。あんたは若いんだから、ここで起こったことを証言するために生きておくれ」。わたしは四つのパン切れを受け取り、彼女の目の前で食べた。見つめる彼女の目のなかには、善意と自棄の両方があった。わたしは若く、この行為とそれを支える重みをどう受け取ればいいかわからず途方に暮れた。(闇から喜びへ・わたしの人生の意味)


 8月の点呼のとき、自分のいる列に並ぶ人々の背中と足取りが衰弱しきっているのを感じ、マグダはこっそり隣の列に移り、ガス室に行くのをまぬがれた。

 収容所にいたときは、自分の身に何が起きたかを理解しようと思ったことはない。直感の声に耳を傾けながら、本能的に状況に合わせていただけだった。直感とは生のもつ知性だ。わたしたちのなかから出てくるものではないけれども、光のほうへ導いてくれる霊感。(闇から喜びへ・直感)


 フランクフルトに近い収容所で、鉄路に沿って枕木を地面に固定する作業をさせられた。

 親切はたびたびわたしを訪れた。・・・(靴を盗まれてしまい)・・・凍りついた足の痛みはおそろしいほど生き生きとしている。・・・(労働者でもある看守の)男が、人目の届かない焚き火の近くまでわたしを連れていき、新聞紙を丸めて、わたしの足をこすった。・・・バッグから木靴を一足取り出し、わたしにはかせた。この無償の行為によって、彼はわたしを生かしてくれると同時に、自分のいのちを危険にさらしたのだ。(時のみちすじ・親切な看守)


 女性たちは徒歩で出発した。徒歩のグループにはマグダも含まれていて、四人のハンガリー出身の女性たちとともに隊列から逃れることに成功した。彼女たちは近くの森に六日間隠れていた。・・・たまたまアメリカ軍の戦車が森の縁で止まった。・・・ほとんど骸骨同然に痩せこけ、疥癬(かいせん)に蝕まれ・・・。

 一九四五年五月、四人の収容所仲間といっしょにベルギー・ ナミュール駅に到着したとき、わたしたちを待っていたのはパンだった。いい香りがした。思わずパンに向かって満面の笑みを送った。喜びが心に満ちていた。(闇から喜びへ・再生)


 あるとき、適当に聖書のページを開き、マタイ福音書の第二十五章〔三十五説から三十六節〕を読んだ。ふいに感動がやってきた。「わたしが飢えていたとき、あなたは食べ物をわたしにくれた。渇いているときに飲み物をくれた。裸でいるときは、服を着せてくれた」
 わたしは心でつぶやいた。「ここにわたしの知り合いになりたいと思う人がいる」。それ以来〈彼〉はずっとわたしといっしょにいる。(闇から喜びへ・神の顔)


 わたしは確信している。神よ、あなたは ショアを望んだわけではなく、わたしたちひとりひとりの苦しみはあなたご自身の苦しみであったことを。
 幾多の戦争の、あらゆる兄弟殺しの責任を負うべきは、わたしたちがつくり出す偽の神なのだとわたしは思う。(闇から喜びへ・希望の熱烈な支持者)


 昨年、アウシュヴィッツで感じた 「神の沈黙」への疑問に対する答えがここにあった。

 

2012年10月17日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・下



 大船渡市市赤崎町に住む金野俊さんという元中学校の校長先生に出会った。

 話しているうちに、金野さんの口からこんな言葉が飛び出した。「私は、日本人とは思っていません。 縄文人 弥生人が"和合"した子孫です」

 金野さんの話しは、東北・ 蝦夷征伐の英雄、 坂上田村麻呂と蝦夷(アイヌ)の指導者、アテルイの抗争と和解にまで及んだ。

 東北の地は1万年に及ぶ縄文文化にはぐくまれてきた土地であることに気づかされた。

 大船渡港に入るさんま漁船などが目標にするという尾崎三山。その南端の岬にある 「尾崎神社」に行ってみた。縄文人の流れをくむアイヌが神事に使う 「イナウ」に似たものが宝物として納められている、という。海岸の鳥居を抜け、揺拝殿までの境内は、このブログでもふれた 中沢新一の「アースダイバー」に書かれた縄文の霊性の世界。そんなパワー・スポットだった。

 たった3日間だけだったが、 カリタス大船渡ベース「地ノ森いこいの家」 で御世話になりながらのボランティア活動中も、縄文の昔からの「地の力」とそこで震災と闘い続ける「人の力」を不思議な思いで受けとめた。

 大船渡ベースは、カトリック大阪管区が管轄しており、管区の各教会の信者が交替でボランティアに来ているが、東京などから週末の連休を利用して来る若いサラリーマンも多い。

 初日の3日は、牡蠣の養殖をしている下船渡の漁場で、舟のアンカーや養殖棚の重しに使う土のう作り。60キロ入りの袋に浜の小石を詰め、運ぶ作業はけっこうきつい。軽いぎっくり腰になったのには参った。
 午後は、仮設住宅の草抜きをしていた女性グループと合流、堤防のすぐ後ろにある漁師の方の住宅跡の草抜き。腰をかばうのか、反対の膝まで痛くなり、裏返したバケツに座って作業をする始末。まさに「年寄りの冷や水」

 2日目は、漁師さんたちが住む末﨑町・大豆沢仮設住宅へ。倉庫を作る資材を運び上げたが、すぐれ(時雨=しぐれ)が降りだし、台風も近付いているというので、作業は中止。仮設の集会場で、仮設に住む人たち(老人が多い)の世話をする支援員の人たちと「お茶っこ(お茶飲み会)」。パソコンの写真を見せがら津波直後の話しがほとばしるように出てくる。瓦礫の山を避けて、山によじ登りながら家族や知り合いを必死に探した、という。
 午後はベースに帰り、リーダーの深堀さんが買ってきた材料キットで仮設の住民が使うベンチ作り。これも慣れない作業だったが、比較的短時間で完成し、皆でバンザイ。

 3日目は、再び大豆沢仮設住宅で、再度、倉庫造りに挑戦した。といっても、仮設住宅支援員の永井さん、志田さんの指示に従って砂利土を掘り下げてコンクリートの土台を埋め、床材を組み、支柱を打ち込み、床にベニア板を張る・・・。電動ドライバーの使い方にやっと慣れたころ、その日の作業は終了となった。

 午後の「お茶っこ」の時間に、女性支援員の村上さんが「最近ゆうれいが出る、という話しをよく聞く・・・」と言いだした。男たちは「そんなバカな」と笑いとばしたが、まだ行方不明になっている親類や知人を抱えている人は多い。「ここは多くの方が亡くなられた鎮魂の土地なのだ」と、改めて気づかされた。

「大船渡魚市場」でサンマの仕分けをしていた 鮮魚商「シタボ」の村上さん(61)は、末﨑町の家と店舗を流された。テント張りの店を再開しながら、近くの仮設住宅に来るボランティアやNPOの世話役も買って出ている。たくましい笑顔を絶やさない人だったが、津波でスーパーに勤めていた24歳の娘さんを亡くしたことを、他の人から聞くまで一言ももらさなかった。

元中学校長の金野さんが、ホテルに1枚のDVDを届けてくれた。
 地元の新聞社「東海新報社」が、社屋近くの広場から津波が襲ってくる様子を撮影したものだった。「湾内から脱出できず、転覆して亡くなった方の船も映っています。その場面では手を合わせていただければと思います」。そう書かれた手紙が添えられていた。

 「いこいの家」に常駐しているシスター(カトリックの修道女)の野上さんから「ここに来た若い方がたは、不思議に変わって帰られます」という話しをきいた。
  「ああ、アウシュヴィッツにボランティアとして来るドイツの高校生と同じだな」と思った。

 私も、少しは変われたろうか。縄文時代から培われた「地と人の力」、そして「鎮魂の思い」に揺り動かされ続けたたったの1週間だったが・・・。

 ※参考にした本
 ▽ 「白鳥伝説」 (谷川健一著、集英社刊)
 東北には、白鳥を大切にする白鳥伝説が伝えられている。その伝説を探りながら縄文・弥生の連続性を探った本。大船渡「尾崎神社」にもページを割いている。

 ▽「東北ルネサンス」(赤坂典雄編、小学館文庫)
 東北学を提唱している 赤坂典雄の対談集。
 このなかで、対談者の1人、 高橋克彦は「蝦夷は血とか民族ではなくて、・・・東北の土地という風土が拵(こしらえ)るもの」と話している。
 同じ対談者の1人の 井上ひさしは、岩手県に独立王国をつくる 「吉里吉里人」という小説を書いた意図について「我々一人ひとり、日本の国から独立して自分の国をつくるれぞということをどこかに置いておかないと、また兵隊をよこせ、女工さんをよこせ、女郎さんをよこせ、出稼ぎを言われつづけける東北になってしまうのではないか」と書いている。
 「原発の電気をよこせ」の一言は書かれていない。

尾崎神社;クリックすると大きな写真になります 鮮魚商の村上さん;クリックすると大きな写真になります 大船渡魚市場;クリックすると大きな写真になります
森閑とした尾崎神社。市内には、国の史跡に指定された縄文時代の貝塚も多い サンマの仕分けをする鮮魚商の村上さん。今年は、三陸沖の水温が高く、北海道産しか、あがっていない カモメが群れ飛ぶ大船渡魚市場。市場が古くなり、新市場を隣に建設中だが、完成まじかに震災に見舞われた
地ノ森いこいの家;クリックすると大きな写真になります 60キロの土のう;クリックすると大きな写真になります 仮設住宅の倉庫作り作業;クリックすると大きな写真になります
「地ノ森いこいの家」。ボランティア男女各8名が2食付き無料で泊れる 60キロの土のうを計66個。いや、きつい! 仮設住宅の倉庫作り作業。電動ドライバーも、慣れた手つきで?


付記・2012年11月21日

 ▽読書日記「気仙川(けせんがわ)」(畠山直哉著、河出書房新社刊)

 岩手県陸前高田市出身の写真家である著者が出した写真集。

 ちょうど、陸前高田市の隣の大船渡市のボランティアに行く準備をしていた9月中旬。 池澤夏樹の新聞書評でこの本のことを知り、図書館に購入申し込みをし、先週借りることができた。

 不思議な迫力で迫ってくる本である。前半は、著者が「カメラを持って故郷を散歩中にふと撮りたくなった」カラー写真が続く。
 ところが、ページの上半分は空白。下半分に載った風景は、もう見ることができない三陸の普通の風景・・・。戦慄が走る。

 写真の合い間に、著者が家族の安否を確認するためオートバイで故郷に向かう文章が挟み込まれている。これも、上半分は空白である。

「いまどこ?」「山形県の酒田。雪で進めなくて」「あたしは角地(かくち)。これから母さんと姉さん捜しに行くから」「え、一緒じゃないの?」「なに言ってるの」「だって避難者名簿に出てたんだから、末崎の天理教に三人一緒にいるつて」「宗教なんて信じちゃ駄目よ」「いやそうじやなくて」「後ろに待ってる人がいるから、じやあね」。あ、待って、切らないで。くそったれ。じゃあ、あれは存在する結果ではなかったのか。固い床の上で寄り添って、毛布を被っている三人なんて、いなかったというのか。あの情景を、いまさら僕の頭から消せというのか。


 真白な1ページをはさんで、写真は一変する。空白はない。

 津波が引き上げた跡の陸前高田市。瓦礫が積み重なり、民家の屋根だけが残り、杉林に自動車の残骸が押し込まれ、陸橋が浜辺の砂に埋まっている。

 これは、同じ場所の写真なのだろうか。この10月に見ただだっぴろい平野にコンクリートの建物と民家の土台だけが残っていた陸前高田市。

 しかし、行った時には切り倒されていた一本松も、大きな水門も、「幽霊が出る」といううわさが消えないホテルも、橋が流出して渡れなかった気仙川も、確かに写っている・・・。

 写真集の後半部には、文章はない。

「あとがきにかえて」には、こう書かれている。

あの時僕らの多くは、真剣におののいたり悩んだり反省したり、義憤に駆られたり他人を気遣ったしたではないか。「忘れるな」とは、あの時の自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを「忘れるな」ということなのだ。


気仙川
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2012年6月12日

読書日記「サラの鍵」(タチアナ・ド・ロネ著、高見浩訳、新潮社クレスト・ブックス)



サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス)
タチアナ・ド ロネ
新潮社
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  この本が原作の映画は数カ月前に見た。友人から借りて、長い間サイドテーブルに積んだままだった 原作を読んだのは、このゴールデンウィークにポーランドのアウシュヴィッツを訪ねた後だった。

 映画は、第23回東京国際映画祭で監督賞、観客賞をW受賞するなど評価が高かったようだ。ただ、 「イングリッシュ・ペイシェント」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた クリスティン・スコット・トーマスが演じる米国人の女性ジャーナリスト・ジュリアの役割をもう一つ理解できないで終わっってしまった。ユダヤ人少女サラが生きた第二次世界大戦の時代と、ジュリアが生活している現代という2つの時空が交錯するストーリーにいささか戸惑ったせいかもしれない。

 しかし、この本を読んでみると、ジュリアの悩みや生きざま、視点が目や心に焼きついてくる。これは、先日のアウシュヴィッツ体験の結果だったようにも思える。ジュリアが繰り返した「ただ、伝えたい。決してあなたをわすれはしないと」という言葉を、あの場所でも聞いたような気がしてきて・・・。

 この小説はフィクションだが、フランス・パリで起きた1つの史実が軸になっている。

 フランスがナチス・ドイツの占領されていた親ナチスの ヴィシ政権(1940-1944)下で起きた「ヴェルディヴ事件」は、半年ほど前に見た映画「黄色い星の子供たち」の主題でもある。

 映画「サラの鍵」のパンフレットに、 渡辺和行・奈良女子大学教授の小エッセイが載っていた。

フランスは1942年、パリを中心にユダヤ人の一斉検挙に踏み切った。検挙の主役はフランス警察や憲兵で、パリを占領していたドイツ軍の姿はなかった。約13000人が逮捕され、うち家族連れ8000人がパリ郊外の自転車競技場「ヴェルディヴ」に収容された。食糧、水不足で病人も出るなか、数日後にはアウシュヴィッツに移送、子供たちはそのままガス室に送り込まれた。フランスからユダヤ人を乗せた移送列車は計74回、7万6000人を運んだ。


 シラク大統領が「時効のない負債」とフランス政府の責任を認めたのは1995年7月16日。53年前の一斉検挙と同じ日だった。「ヴェルディヴ」跡地に建てられた記念碑には「道行く人よ、忘れるな!」と刻まれている。


 1942年のその日、10歳のユダヤ人少女・サラは、住んでいたアパート来た警官に両親とともに連行されるが、すぐに戻れると信じて怖がる弟を秘密の納戸に隠して鍵をかける。「なんとか、弟を助けなければ」という一念から収容所を脱出したサラは、住んでいたアパートにたどり着くが・・・。

 パリ在住のアメリカ人を対象にした雑誌に勤務していたジュリアは、編集長から「ヴェルディヴ事件」の取材を命じられ「正真正銘のフランス国民だったユダヤ人を、フランス政府自身が迫害していた」事実に衝撃を受ける。

 取材を始めたジュリアは、収容所に送られたはずのサラと弟が行方不明者として名簿にないことをつきとめる。サラ探しを始めたジュリアは、驚くべき事実に直面する。

 ジュリアが愛する夫と引っ越そうとしていたサントンジュ通りアパート。夫の祖母から譲り受けたものだった。
 「そこに、かってサラが住んでいた」・・・。

「あの女の子」(義父の)エドウアールはくり返した。奇妙な響きを帯びた、くぐもった声で。「あの女の子はな、もどってきたんだ。サントンジュ通りに。わたしはそのとき、まだ十二歳の少年だった。でも、忘れられない。この先も忘れられないだろう、サラ・スタジンスキーのことは」


サラと少年(義父)は、納戸の奥で「膝を抱いてまるくなって・・・すっかり黒ずんで、眼鼻立ちもくずれた」小さな人間の塊を見た。サラは「ミッシェル」と絶叫した。


   ジュリアは、収容所から脱出したサラをかくまった老夫婦の孫・ガスパール・デュフォールに会うことができた。

 サラの行方を知りたいと懇願するジュリアに、デュフォールは鋭い眼を向けて何度も尋ねた。「それを知ることが、なぜあんたにとってそれほど重要なのだ。・・・アメリカ人のあんたに」

 
わたしは答えた、サラに伝えたいんです。わたしはいまも彼女のことを思っている。わたしたちは忘れていない、と。・・・


   
「わたし、自分が何も知らなかったことを謝りたいんです。ええ、四十五歳になりながら、何も知らなかったことを」


   サラは1952年の末にアメリカに渡っていた。そして、結婚して子供までもうけながら、自動車で立ち木に激突して死去していた。自殺だった・・・。

 ジュリアは、45歳で恵まれた子供を産むことに反対された夫と別れ、ニューヨークに住むことになった。

 生まれた子供を「サラ」と名付けた。

 
他の名前など、考えられなかった。この子はサラ。私のサラ。もう一人の、別のサラの谺(こだま)。あの黄色い星をつけた、私の人生を根底から変えた少女の谺。


2012年5月12日

アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)



 「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
 中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。

 同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。

 11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。

 ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
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 「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。

 ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。

 「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」

 神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。

 アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。

 レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。

 140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。

 第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。

 ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。

 150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。

 多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。

 中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。

 北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。

 周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。

 第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。

 2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。  学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。

 移民の多いドイツで、小学生の90%が「ホロコースト」を知っていると答えたことに対して、10%も知らないのは問題であるというのがドイツのメディアの論調。「我が国・日本の若年層の歴史認識と比較するとドイツ社会の意識の高さを感じる」と、中谷さんは話す。

 一方で「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張が、いまだに絶えない。

 「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。

 日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」

 世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」

 30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。

 最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

関連写真集
コルベ神父の名前がある名簿。収容者が奇跡的に持ち出した 野焼される遺体。収容者が手製のカメラでひそかに撮影 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」。献花が絶えない 2重の鉄条網。220ボルトの電流が流れる網に身を投げる自殺者も
コルベ神父の名前がある名簿;クリックすると大きな写真になります 野焼される遺体;クリックすると大きな写真になります 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」;クリックすると大きな写真になります 2重の鉄条網;クリックすると大きな写真になります
第1収容所に再現されたガス室の模型 レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線 咲き乱れるタンポポの向こうは、ビルケナウ女子収容棟 ドイツ軍によって破壊されたガス室
第1収容所に再現されたガス室の模型;クリックすると大きな写真になります レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ女子収容棟;クリックすると大きな写真になります ドイツ軍によって破壊されたガス室;クリックすると大きな写真になります
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑 ビルケナウ収容所内のベッド。1つに2人が収容させられた 隔壁もないトイレの穴。カポにせかされ、1つの穴を争うように用をたした
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ;クリックすると大きな写真になります 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ収容所内のベッド;クリックすると大きな写真になります 隔壁もないトイレの穴;クリックすると大きな写真になります


2012年5月11日

アウシュヴィッツ紀行・上「ホロコースト」(2011年5月2日)


 友人Mらと長年語らっていたアウシュヴィッツ訪問が、この連休やっと現実となり、コペンハーゲン、フランクフルト経由でポーランドに入った。

 世界遺産の古都・クラクフからオシフイエンチム(旧ドイツ軍は、ここをアウシュヴィッツと改名した)までの2時間近くは、両側に深い新緑の森が広がる気持ちのよい道だった。途中の村の家の庭先には、道路に向けて木の十字架や陶製の聖マリアの像が建ててあり、カトリック教徒が90%というこの国の敬虔な雰囲気を演出してくれる。

 アウシュヴィッツ強制収容所跡(現在は、負の世界遺産として登録されているアウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館)前の広場は、ベンチで休憩する若者などであふれ、ピクニックのような雰囲気だ。

 午後2時前、午前のガイドを終えた日本人唯一の公式ガイド、中谷剛さんがかけつけてくれる。25歳の時にこの地を訪れ、もうガイド生活20年の経験を持つ。

 中谷さんには、新聞社時代の同僚でアウシュヴィツの研究を続けておられるK・武庫川女子大教授に紹介してもらい、前日のクラコフの街の観光から、車の手配まですっかりお世話になった。

 午後のガイドツアーに参加するのは、我々4人のほかに6人の日本人。ほとんどが、2、30代の若者だ。

 4人でガイド料243ズローチ(約6500円)と、離れて歩いても中谷さんの声が聞こえるようにと、1人10ズローチでイアホーンを借りる。まず、最大2万人が収容されていたアウシュヴィッツ第1収容所。事前に読んだ本で見た「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由への道)」と書かれた鉄の門をくぐる。

 実は、この門の標識は一時盗まれ、3つに折れて帰ってきた。現在のものは、レプリカなのだが「B」の字が反対に溶接され、小さい部分が下になっている。制作者のささやかな抗議の現れらしい。

 「自由への道」というのはあまりに皮肉な命名だった。収容者は毎朝、同じユダヤ人による「囚人楽団」による演奏と、ドイツ軍親衛隊員(SS)が選んだ囚人頭(カポ)の振う棒とムチでこの門を追い出された。収容所建設のための森林伐採や近くに建設された化学工場などの作業に毎日11時間以上も働かされ、栄養失調で力を失って死去した仲間を背に帰って来る「死への道」でしかなかった。

 収容所内の建設作業も過酷なものだった。重い建設資材をかつぎながら、与えられた木靴で走るように運ばないと、カポのムチが飛んだ。倒れて、道路整備用の石製のローラーに引き殺される人もいた。そのローラーが道路わきに残されていた。

 ドイツ軍が直接手を下さない「奴隷制がしかれていた」と、中谷さんは解説する。

門を入ると、赤レンガの収容所群とポプラ並木が続いている。このポプラ並木が植えて60年が過ぎて大きくなりすぎ、枝が折れて見学者などに当たってはいけないので、最近、建設当初の大きさのものに植え替えられたばかりだ。

4号館と5号館にある収容者の遺品に圧倒される。

 SS衛生兵がガス室の天井から投下した殺害のためにチクロンB(なんとシラミなどの殺虫剤!)の空き缶のほか、死後に刈り取られた約1800キロもの女性の髪、歯ブラシや衣服用のブラシの、家庭用食器(チーズ用なのか小さなおろし金まで)、眼鏡、靴、義足、そして、本人に還すことを偽るために白い塗料で住所などが書かれたかばんの山、山、山・・・。

髪の毛は繊維会社に送られて生地などに加工され、死者の金歯は抜かれて延べ棒として出荷された。それの数量をドイツ人らしい正確さで記録された資料も残されている。

 大きなヨーロッパ地図が掲げられ、ナチス・ドイツが支配した広大な地域からユダヤ人が連行されてきたことを示していた。

 アウシュヴィッツに行くことを決めてから、様々な本や資料にあたったが、なぜユダヤ人がナチスだけでなく、ヨーロッパの長い歴史のなかで排斥されてきたのかが、どうしても釈然としなかった。

 そんな時に、新約聖書の1節に遭遇した。

 ユダヤ教の祭司長たちは、イエスを殺そうと、総督ピラトに身柄を渡した。
 「皆は、『(イエスを)十字架につけろ』と言った・・・。民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』(マタイ27章19-25節、新共同訳)

 「こう叫んだのは、その場にいる人々だけだった。しかし、その後、キリスト教世界の人々は、ユダヤ人のことを『神殺しの民、ユダヤ』と呼ぶようになった」。著名な聖書学者であるW神父の解説である。

 こういった考えがヨーロッパのキリスト教世界に広がり 十字軍の遠征途中で、多くのユダヤ人が虐殺されたことは、 塩野七生 「十字軍物語」などにくわしい。

そのほかにも、ヨーロッパ各地でユダヤ人は何度も虐殺に会い、 ディアスポラ(民族離散)を続けてきたことは、いくつもの歴史事実が証明している。

 ヨーロッパ社会にまん延していった、この反ユダヤ主義を、ヒトラーも巧みに利用した。

ポーランドの総督区総督だった ハンス・フランクの獄中回想記「絞首台を眼の前にして」によると、 ヒトラーは1938年のある日、もの思いにふけりながらこう語ったという。

 「福音書の中でユダヤ人たちはピラトに向かって叫んでいる。『その血の責任はわれわれとわれわれの子孫にある』と。余は、おそらく、この呪いを執行しなければならないだろう」

 ナチスの「民族浄化」の対象になったのは、ユダヤ人だけでなく、ポーランド人、ロシア人などのスラブ民族、ジプシーと呼ばれたロマ・シンティの人たちも含まれていた、事実も忘れてはいけない。中谷さんは、何度も強調した。

 そして、ナチスによる ホロコーストだけではなく、クロワチアのセルビア人虐殺、ルワンダ虐殺などの ジェノサイド 大量虐殺も同じように現実の史実であることも、私たちに迫ってくる。

「カティンの森事件」が、いまだにポーランド市民の心に深い傷を残している。

第2次大戦中に、ソ連・カティンの森で22000人ものポーランド将校などが虐殺されて埋められた。当初ソ連は、ナチス・ドイツのしわざと主張したが、ソ連の行為であることがわかった。

ポーランドの首都ワルシャワやクラクフの街にあるこの事件の慰霊碑を見ながら、ホロコーストという言葉の意味の広がりを考えた。

関連写真
若者でにぎわう第1収容所前広場 収容所の航空図。Aが第1、Dは第2収容所 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団
若者でにぎわう第1収容所前広場;クリックすると大きな写真になります 収容所の航空図;クリックすると大きな写真になります 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん;クリックすると大きな写真になります 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団;クリックすると大きな写真になります
「労働は自由への道」と書かれた門 ポプラの並木が植え替えられた第1収容所 ガス室に投入されたチクロBの空き缶 処刑された女性から刈り取られた髪の毛
「労働は自由への道」と書かれた門;クリックすると大きな写真になります ポプラの並木が植え替えられた第1収容所;クリックすると大きな写真になります ガス室に投入されたチクロBの空き缶;クリックすると大きな写真になります 処刑された女性から刈り取られた髪の毛;クリックすると大きな写真になります
食器類の山 義足の山 眼鏡の山 かかとが取られた靴
食器類の山;クリックすると大きな写真になります 義足の山;クリックすると大きな写真になります 眼鏡の山;クリックすると大きな写真になります かかとが取られた靴;クリックすると大きな写真になります
洗顔する収容者。右の太って棒を振うのがカポ 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち 収容者を引き殺したこともある石製のローラー 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅。妻は庭仕事が趣味だった
洗顔する収容者。;クリックすると大きな写真になります 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち;クリックすると大きな写真になります 収容者を引き殺したこともある石製のローラー;クリックすると大きな写真になります 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅;クリックすると大きな写真になります
ヘスが絞首刑になった処刑台 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑 クラクフの教会前広場にそっと置かれた「カティンの森事件」の追悼十字架
ヘスが絞首刑になった処刑台;クリックすると大きな写真になります 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑;クリックすると大きな写真になります 「カティンの森事件」の追悼十字架;クリックすると大きな写真になります