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2020年9月17日

読書日記「教皇たちのローマ ルネサンスとバロックの美術と社会」(石鍋真澄著、平凡社)

 著者は、イタリア美術史を専門とする成城大学教授。本棚を見ると、「サン・ピエトロが立つかぎり 私のローマ案内」「聖母の都市シエナ 中世イタリアの都市国家と美術」「ありがとうジョット イタリア美術への旅」と、著書が3冊も見つかった。

 14年前に、イタリア巡礼ツアーに参加する際に購入したらしい。その後、2017年にはカラヴァッジョの作品を再び見たくて2度目のローマ訪問を果たしたが、この本でもローマという都市にはぐくまれた芸術の歴史を満喫することができた。

 著書は、歴代の教皇たちを縦軸に、その教皇らが推進したルネサンスバロック美術を横軸にしてローマの歴史を展望してみせる。

 著者は、その両軸が織りなしたローマの街に大打撃を与えたサッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠・ごうりゃく)という事件に多くのページを割いている。

 1527年5月、神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン国王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻、ローマの古い町並みを根こそぎ破壊し尽くした。

 兵士たちは金や銀を求めて、聖堂やパラッツオ(邸館)に押し入った。家財を奪ったあとは、その家の者に身代金を要求、払えない者は、残酷な拷問にかけられ殺害、少女から老女まで家族の前で乱暴され、殺された。
 多くの司祭や修道士が殺され、奴隷として売られた。修道女の多くはりん辱されて殺され、残った者も半裸か冗談で司教の衣装を羽織らされて売春宿に売られた。

 サン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン宮)にいた教皇クレメンス7世は、危機一髪でサンタンジェロ城に逃れた。

 14年前にローマを訪ねたときには、サンタンジェロ城は古い甲冑などが展示された博物館になっていたが、約1キロ離れたヴァチカン宮との間に秘密の地下道があると聞いた覚えがある。実際には、この2つを結ぶ城壁に造られたパセット(小道)を通って、教皇は逃げ込んだ。城に据えられていた大砲がなんとか教皇を守ったらしい。

 サッコ・ディ・ローマについて、多くの歴史家がこう記述している。
 「サッコ・ディ・ローマによってルネサンスは終った」

 ローマの町が徹底的に破壊されたことで、14,5世紀に教皇ユリウス2世レオ10世などがパトロンとなって栄華を極めていたローマのルネサンス文化も姿を消した。ミケランジェロラファエロの作品は残ったが、ローマ中の聖堂にあった、貴重な聖母子像、磔刑像、祭壇画の多くが破壊された。

 同時に、11,13世紀に花開いたコムーネ(自治都市)文化の貴重な海外や彫刻も破壊され、記録や資料さえ残っていない。

 しかし、ローマは不死鳥のようによみがえる。17世紀のカラヴァッジョ、ベルニーニに代表されるバロック美術が、教皇たちの強い後押しで栄華を極めたのだ。

   著者によると、サッコ・ディ・ローマから14年後の1541年に完成したミケランジェロの「最後の審判」の壁画も「サッコ・ディ・ローマという大きな悲劇が生み出した傑作」だという。

 システィーナ大聖堂の正面壁に描かれたこの大壁画に感じられるのは「サッコ・ディ・ローマ後に広がったペシミスティックな空気だ」 「罪の意識と悔悟、神の怒りへの畏怖、惨劇のトラウマ、無力感、そしてすべての人間の上に下される審判への待望。教皇は、・・・それらが時代を超えて理解されるようにミケランジェロの手で視覚化されることを望んだのだ」

 このようにして、荒廃のなかから再生されたローマの街を、現代の我々も楽しむことができる。

 ところで、この本には歴代の教皇の多くが、愛人を作り、司祭や枢機卿時代に実子や庶子をもうけていたという記述が何度も出てくるのに驚く。
 庶子などを「ニポーテ(イタリア語でおい、めいの意味)」と偽って、枢機卿などに登用する「ネポティズム(縁故主義)」という言葉が何回も出てくる。  「ルネサンス期の教皇は、枢機卿だけでなく、司教、教皇軍、教会国家の要職に身内の者を採用、教会の富が身内にわたるようにした」「身内の登用や不在聖職者の悪用、兼職、聖職売買、不要なポストの創設といった悪弊が行われるようになった」

 ウイキペディアによると、このような縁故主義が終るのは、1692年のインノケンティウス12世が発布した教皇勅書からだという。

 ひるがえって現代。カトリック教会では、聖職者の性的虐待事件が頻発している。現教皇フランシスコは「断固とした対応をする」と声明したが、解決の糸口は見えない。

 現在の性的虐待事件と中世の聖職者女性問題に、共通項があることは否めそうにない。  司祭志願者が減っているなかで、将来、プロテスタントのように婚姻する聖職者が現実の話しになった場合、ネポティズムの悪弊に染まった中世の教訓を生かせるだろうか。

2014年6月18日

パリ・ロンドン紀行③「ルーブル美術館㊤」2014年4月28日(月)、30日(水)



  ルーブル美術館は、泊まっていた オペラ座(オペラ・ガルニエ)近くのホテルからオペラ通りを歩いて15分ほど。現地でチケットを買おうとすると1時間は並ばなければならないらしい。途中、通りをちょっと入ったフランス政府観光局まで別行動のYさん夫妻に案内してもらい、28、30日の2日分のチケットを手に入れた。同行の友人Mと合わせて49・5ユーロ。29日の火曜日は残念ながら休館日だ。

 チケットがあると列も別で、手荷物検査もかばんのチャックを開いてちょっと見せるだけ。ガラスのピラミッド地下の入り口にすぐに入場できた。それでも10時過ぎというのに、かなり混雑している。

 まずセーヌ河沿いにあるドウノン翼2階75室「ナポレオンの間」に入った。「あった、あった!」。広間中央左壁に 新古典主義の大家、ダヴィッドが3年かけて描いた 「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」がデーンと飾られていた。

 この絵については、以前にこの ブログでもふれたが、縦6・3メートル、横9・7メートルのほんものの迫力は違う。自らの手で妃・ジョセフイーヌに冠を載せようとしているナポレオン、渋い顔の教皇ピウス7世、白いドレスのナポレオンの妹たち、そして作者・ダヴィッド自身もそっくりに描かれている。

 額縁の下に、主な登場人物の似顔絵が名前入りで書かれているのもおもしろい。

ミロのヴィーナス;クリックすると大きな写真になります。 この絵は、ルーブルでも1,2を争う人気作品だから、とにかく混んでいる。後で見た 「ミロのヴィーナス」像の周囲より混んでいた気がする。

 この部屋にはそのほか、ダヴィッド作,社交界の花形女性 「レカミエ夫人」(ダヴィッドが気に入らず未完の作だが、ルーブル美術館がダヴィッドの遺産のなかから買い上げたらしい)、ローマ共和国への忠誠を描いた 「ホラティウス兄弟の誓い」 「自画像」などの名作が並んでいる。

 新古典主義の絵画というのは様式美に優れている感じで、それまでフランス宮廷絵画を支配してきたという装飾がすぎる ロココ主義の絵画よりずっと分かりやすい。

 豪華な天井画の76室(ドウノン室というらしい)を右折したところが、あの 「モナ・リザ」(フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニの肖像像)のある7室だ。

 この部屋は、何度も盗難などに会った「モナ・リザ」を守るため2005年に大改修されている。彼女は、特殊な防弾ガラスのケースのなかにいる。内部の木の床のなかには、防弾ガラスのために緑がかって見えるのを防ぐ特殊LED照明(東芝製)や最新の湿度管理システムが収納され、作者・ レオナルド・ダ・ヴィンチが駆使した スフマート(ぼかし技法)を自然光のなかで見られる工夫がされている。

 写真を撮ろうとすると、何重もの観覧者をかきわけて前に出るしかない。特殊ケースを囲む囲いのなかにいる大柄な警備員になにか大声で指さされたので振り返ると、男性が男の子を肩車させてなんとか見せようとしていた。これは「危険行為」ということらしい。

 振り返ると、隣は隔壁のないまま広がる6室。一番奥に、ヴェロネーゼ作の 「カナの婚宴」が飾られていた。

 広い部屋の両端にある77センチ×55センチの小さな「モナ・リザ」と、6・66メートル×9・90メートルというルーブル最大の壁画が見事なバランスを取っている。心憎い空間設計だ。

 「カナの婚宴」は、カナの地で開かれた婚宴で水を葡萄酒に変えるというキリスト最初の奇跡を描いたものだが、ナポレオンが北イタリアに遠征した際、 ヴェネツイアサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の食堂にあったものを奪ってきた作品だ。

 ナポレオン失脚後、いくつかの芸術作品は所有国に返されたが、この作品がフランスに残ったいきさつについてふれた WEBページもなかなか興味深い。

 6室をつなぐ狭い空間を抜けたところが、待ちに待った 「グランド・ギャラリー」ルネサンス期をふくむ13-18世紀のイタリア絵画が、長さ450メートルという長い寄木細工廊下の両側に所せましと並べられ、いっぱいに人々があふれている。

 さて、どう回るか・・・。向かい側の壁に、ダ・ヴィンチの作品群を見つけた。

「岩窟の聖母」は、狭い岩窟のなかで、幼き聖イエスと聖母マリア、聖マリアの母・聖アンナ、これも幼い洗礼者・聖ヨゼフが一緒にいるという聖書ではありえない設定だ。

 隣の 「聖アンナと聖母子」は、聖アンナの膝に聖母マリアが腰かけ、幼き聖イエスを抱き上げようとしている不思議な構図。幼き聖イエスが子羊を抱いているのは、将来の受難をあらわしているというのだが・・・。この2作品とも「モナ・リザ」と同じ、スフマート(ぼかし)技法が使われている。

 そのすぐ左が 「洗礼者ヨハネ」。右手で天を指しているのは分かるが、表情が女性ぽっくちょっと理解しがたい。いささか不可解な作品だ。

 反対の壁面に、ダ・ヴィンチ、 ミケランジェロと並んで盛期ルネサンスの三大巨匠の1人といわれる ラファエロの代表作「美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)」があった。慈しみあふれた表情の聖母マリアを中心としたピラミッド型の構図。やわらかな光につつまれた明るい画面はいつまででも見飽きないやさしさにあふれている。

 反対側の壁の柱の陰にかくれるように掲げられている、同じラファエロの男性貴族肖像 「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」。来る前に見たNHKのBS番組 「あなたの知らないルーブル美術館」で「男のヴィーナス、と呼ばれている」と聞いていなかったら、見落としていただろう。
 斜め前に体を向け、顔が正面に向いているからそう呼ばれているようだが、じっとこちらを見る青い眼に引き込まれる。

 同じく来る前に読んだ 「はじめてのルーヴル(集英社)」という本で、著者の中野京子は、この絵のことを「ルーベンスも模写したというこの傑作は、・・・レンブランドを先取りしたような表現だ」と絶賛している。廊下は人であふれているが、この絵の前で立ち止まる観覧者はマーいないから、じっくり鑑賞できる。なんだか得をした気分になる。

 カラヴァッジョ「聖母の死」はどうしても見たいと思っていた。グランド・ギャラリーのなかにあるはずなのにどうしても見つからない。結局、2日目の30日に再度、同ギャラリーを訪ねてやっと対面することができた。

 7年ほど前のイタリア巡礼でイタリア・ローマのいくつかの教会で接した大作に比べると、意外に小さく見える。そして、いささか異様な作品でもある。

 真ん中に横たわる聖母の腹部は膨れ、顔も神々しさからはほど遠い。「娼婦の水死体をモデルにした」といううわさが流れ、祭壇画として発注した教会は引き取りを拒否した、という。

 しかし、カラヴァッジョらしい光と闇のコントラストは健在で、それを評価されたのか、ちゃんと、こうしてルーブルの収蔵品として収まっている。

 この ブログでもなんどかふれたが、カラヴァッジョ大好き人間。またローマへ"カラヴァッジョ巡礼"に出かけたくなった。

ルーブル美術館写真集(1)
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
朝から行列ができるルーブル美術館のピラミッド入口 ダヴィッド「ナポレオンの戴冠」 額縁下にある似顔絵。左端がナポレオン ダヴィッド「レカミエ夫人」 ダヴィッド「ホラティウス兄弟の誓い」
;クリックすると大きな写真になります。 P1040182.JPG ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
ダヴィッド「自画像」 ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」 ヴェロネーゼ「カナの婚宴」 混乱するグランド・ギャラリー(イタリア絵画展示場) ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」 ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」 ラファエロ「美しき女庭師」 ラファエロ「バルダッサレの肖像」 カラヴァッジョ「聖母の死」
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
アルチンボルド「秋」 マンテーニャ「聖セバスティアヌス」 マンテーニャ「磔刑」 ギルランディオ「老人と少年」


2011年3月13日

 読書日記「舟越保武 石と随想」(舟越保武著、求龍堂刊)、「石の音、石の影」(同、筑摩書房刊)


 もう故人である、 この彫刻家のことは、NHKの番組で紹介された 画文集で初めて知った。

 佐藤忠良 と、東京美大の同級生で、文化功労章を受けた戦後日本を代表する作家だったらしい。

 どうしても見たくなりAMAZONに申し込んだ。版元で在庫切れだったらしく、1か月近く待たされた。
 白い堅紙で装丁した大型本で、作品の写真も文章も聖謐さにあふれている。いつものように気に行った箇所に線を引く気にとてもならない。
 先日来、思い立って3000冊近くの蔵書を整理、本棚の一部も寄付した。しかし、この本だけは本棚にしまっておいて、時々そっと開きたくなりそうだ。

 2度ほど訪ね、このブログにも書いた 「長崎26殉教者記念像」が、この彫刻家の代表作の1つであるのを浅学にして知らなかった。もっと、しっかりと像の1つ1つを見ておくべきだった。

 著者は、この像を「探しまわって、どうしても見つからない夢」をなんども見たという。
 私はあの夢を見るのが怖い。
 一度でいいから、夢の中でも二十六聖人像の現実のままを見たい。・・・
 昨年の秋、長崎に行って、・・・長い時間、眼がいたくなるまで二十六体の彫像をにらむように見据えてきた。


 ヴァチカン美術館に買い上げられた 「原の城」も代表作の1つ。
 この像の粘土の原型を東京芸大の研究室で完成させた時、作者は不思議な体験をしている。
 (隣室で謡曲の練習している学生たちの声に)しばらく耳をかたむけていると眼の前の粘土の武士の彫像がゆっくりよろよろと歩き出すように見えた。謡曲の声につれて私のつくった粘土の武士が静かに歩き出すのを私は呆然と眺めていた。


 著者は長男の死をきっかけに受洗したカトリック信者。西坂の地で殉教した 日本二十六聖人島原の乱原城 に散ったキリシタンへの思いが、自分の彫像と重なりあう深層体験だったのだろうか。

 この彫刻家は、聖謐な女性像をいくつも残している。それが、神戸の街にあると知って、見に出かけた。
 神戸市役所1号館の1階喫茶室にある頭像「LOLA」(1980年)は、こげ茶の金属で仕上げられ、清々しくほほえんでいた。セビリアで知り合ったレオン家の2女であるという。
 市役所のすぐ南、フラワーロード沿いにある「シオン」(1979年)は、小柄なブロンズの全身像。雨に打たれてできたらしい白い涙を流している。
 市役所の「LOLA」のすぐ近くには、生涯の友人だった佐藤忠良作の「若い女・シャツ」が逆光のなかに立っていた。
「LOLA」;クリックすると大きな写真になります「若い女・シャツ」;クリックすると大きな写真になります「シオン」;クリックすると大きな写真になります
「LOLA」の頭像「若い女・シャツ」のブロンズ像「シオン」の像


 著者は、いくつかの随筆集も残しており、日本エッセイクラブ賞も受けている文章の練達でもあるらしい。

 「石の音、石の影」は、1985年に発行された、たぶん著者最初の随筆集。

 本は、それまで挑戦する彫刻家がほとんどいなかった石彫に挑戦するエピソードから始まる。
 うす赤い色のその大理石を見たとき、私の身体の中を熱いものが走るように思った。・・・
 (近くに住む墓石屋の親方から、2本の鑿(のみ)を借り)・・・
 力まかせに石をたたくものだから、槌が鑿から外れて、いやというほど手の甲をひっぱたいた。河がやぶけて血が出る。痛みをこらえて、生まれてはじめて石を彫るという感動の方が大きかった。カーン、カーンと四方にひびく石の音が快かった。

 著者の石彫第一作の頭像は、こうして誕生した。

 石彫は、粘土で作る塑造と違って「付け足すことが出来ない。・・・削り減らして、或る形に到達する作業」になる。
 不定形の荒石を前にして、この石の中に自分の求める顔が、すでに埋もれて入っているのだと自分に思い込ませて、仕事にかかるのだが、石の中にある顔を見失うまいとする心の緊張があった。・・・
 たしかに見えていた筈のその顔が、私の前に現れるのを恥じらって、なかなか現れてこない。作業はいつも捗らなかった。


 自己嫌悪に陥って、完成したばかりの大理石頭像を衝動的にハンマーで毀したことがあった。
 粉々に砕けた床一面が白一色の石片で埋まった中の、一片のかけらに私の眼がとまった。五センチほどに欠けた石片は、眼の部分であった。・・・恨めしい眼でも悲しい眼でもなく、やさしい眼のままで私の方を見ていた。


     舟越保武という彫刻家は知らなかったが、その作品にどこかで出会った"幻想"が消えない。そうだ、 天童荒太「永遠の仔」表紙を飾っているあの作品群・・・

作者は 舟越 桂。舟越保武の次男だった。なにか、DNAの森を遡って清冽な泉に突き当たったような思いがした

2011年1月17日

読書日記「イサム・ノグチ 宿命の越境者 上・下」(ドウス昌代著、講談社文庫)



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 このブログにも書いたが、昨年末に見た映画「レオニー」が、年が明けても尾を引いている。

 映画を見終えてすぐ、1階下の書店で表記の文庫本2冊を買った。日系2世のアメリカ人彫刻家、イサム・ノグチの詳細なドキュメンタリー伝記だ。読み終えて、この人最後の作品となったモエレ沼公園 をどうしても見たくなった。先週末、神戸空港からANA便に乗り、大雪の札幌に向かった。

 札幌郊外にあるこの公園は、海に近いだけ市街地より雪が多いらしい。JR札幌駅下の地下鉄で3駅、そこから約30分バスに揺られ、降りたバス停から方向も分からなくなるほど降る雪の中を約20分。やっと、この公園のシンボルである「ガラスのピラミッド」(愛称・HIDAMARI)に飛び込んでひと息ついた。

 事前に問い合わせたとおり、イサム・ノグチが長年温めていた構想がやっと実現した「プレイマウンテン(遊び山)」も、公式の地図にもちゃんと載っている札幌一低い人工の山「モエレ山」(標高62メートル)も雪ですっぽりおおわれていた。

 そのモエレ山で、子どもたちが喜々としてソリ遊びをし、カラマツの森の周りをスキーで歩いている人がいる。広い公園の雪の下には、ノグチが「閑(レジャー)を大切にする」というコンセプトでデザインした遊具や、サンゴに囲まれた池、噴水からの水が流れる運河が春まで眠っている・・・。

 ノグチ自身が「HIDAMARI」2階のギャラリーに置かれた映像施設で語っていた「地球そのものを彫刻する」という世界観をしっかりと実感できた雪見行だった。

 イサムは、日本人詩人・野口米次郎とアメリカ人の教師でありジャーナリストのレオニー・ギルモアの間で1904年にニューヨークで生まれた。2歳の時に母とともに来日するが、米次郎にはすでに日本人の妻がいた。イサムは生涯、私生児として生きた。

 《「バカ」「ガイジン」と毎日、罵られた。アイノコなのが、ただの外人よりよくないとされた。なぜだかよくわからずに、でも自分だけが他の子供たちの世界に属せないのを意識させられた》


 《結局、ぼくのような生まれには、帰属問題がつねについてまわる。それが問題とならないのは芸術の世界しかない。・・・芸術家には自分しかない。一人だけで何かを作りあげていく、孤独な世界だ。孤独の絶望からこそ、芸術は生まれる》


 19歳の時、母親に勧められて医学校を辞め、グリニッチ・ヴィレッジの近くにある美術学校に入る。校長は「初対面で、イサムのけた外れな天分を直感した。ミケランジェロの再来だと思った」

 イサムは雑誌インタビューで「創造の源泉となった力は?」と聞かれて《怒り》と答えている。
 《絶望と闘争ともいえる怒りだ。闘争こそ創造を刺激する源だ》


 彫刻家をめざしたとき、イサムを奮い立たせた怒りの根源には、父親米次郎の姿がある。自分に日本の国籍をあたえなかった父親への行き場にない愛憎が、イサムの野心に火を放つ。無断でノグチ姓を選ぶことで、自分の権利としての「日本人」を主張した。父親の姓を名乗ることで、イサムは自分の内部ではげしく燃える炎を、逆に生きるエネルギーに置き換えようとした。


 イサム・ノグチの作品を生みだす、もう一つのエネルギーは、その豊潤かつ怒涛のような女性遍歴だったのかもしれない。

 著者は、イサムが愛した女性たちをくわしく記述している。画家、舞踏家、女優、美術評論家、作家、インド・ネール首相の姪ナヤンタラ・・・。メキシコの画家、フリーダ・カローラと密会しているのを夫のリベラに見つかり「屋根越しに逃げるイサムをリベラがピストルを手に追いかけた」。そして、女優山口淑子との結婚と離婚。

 イサムが京都にくれば顔をあわせた佐野藤右衛門は、イサムの作品の「色気」に感心して、あるとき「あんないい色、どこから出すんや」と尋ねた。「このおなごから」とイサムは真顔でそのとき一緒にいた若い女性を指さした。


 数多くの彫刻、庭園設計で評価を高めていったイサムは、しだいに《石に取りつかれて》いく。

 石の本性は重さにある。重力と闘うのは「離れ業」である。・・・最も深遠な価値は各材料本来の性質のなかにこそ見出されるべきだ。いかにして、これを壊すことなく変貌せしめるか!》


倉敷・大原美術館の庭園にあるイサム作品;クリックすると大きな写真になります
昨年末に訪ねた倉敷・大原美術館の庭園にあるイサム作品、「山つくり」とあった
 現在、アメリカ美術界でイサム・ノグチという日本名をもつ彫刻家について語られるとき、「ノグチの本領」として評価されるのは、晩年の約二十年間に制作した石彫である。「彫刻に自然を取り入れた」とも評されるユニークな石の彫刻は、すべて牟礼の仕事場で制作されたものである。


 石工からスタートしてイサムに育てられた彫刻家、和泉正敏との出会いである。

 高松市牟礼にある「イサムノグチ庭園美術館」、ニューヨーク・ロングアイランド市の「the Noguchi museum」・・・。「イサム・ノグチへの旅」を続けたい思いがつのる。

▽参考にしたWEBページ 「ISAMU NOGUCHI PRIVATE TOUR」

ガラスのピラミッド;クリックすると大きな写真になりますモエレ山;クリックすると大きな写真になりますイサム作の黒御影の滑り台;クリックすると大きな写真になります北海道神社;クリックすると大きな写真になります
モエラ沼公園のシンボル「ガラスのピラミッド」は、半分雪に埋もれていたピラミッドから見たモエレ山。午後から雪もやみ、雪遊びの人々が増えた札幌・大通り公園にあるイサム作の黒御影の滑り台。雪まつりの準備で、立ち入り禁止だった最終日に訪ねた北海道神社。第二鳥居の前にあるフレンチの「モリエール」でランチを堪能、前日夜は南3条の「oggi」でイタリアンを。同行3人がプレゼントしてくれた思いもよらない古希記念の"口福"


2008年12月13日

読書日記「建築史的モンダイ」(藤森照信著、ちくま新書)



建築史的モンダイ (ちくま新書)
藤森 照信
筑摩書房
売り上げランキング: 11150
おすすめ度の平均: 5.0
5 建築の面白さに気づかせてくれる良書。
5 住まいが先でしょう

  自宅の屋根にタンポポを並べ、赤瀬川原平の自宅の屋根をニラで覆ったユニークな建築史家兼建築家「藤森照信」の随筆集。

 「和と洋、建築スタイルの根本的違い」という項では、日本の町並みはなぜガチャガチャしていて、欧米の人々がこだわる景観を無視するのか、という疑問に答えてくれる。簡単に言うと、日本人は、新しい建築スタイルが生まれても、古いものも並行して生き続ける矛盾にまったくこだわらないからだ、という。

 著者は、こう主張する。
 あちら(ヨーロッパ)ではギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココというように建築の歴史はスタイルの歩みとして語られる。住宅も教会も役所も王宮も城も、橋の造形すら時代ごとに形を変えて変遷してゆく

 (日本でも)それまでのものが変化して新しいものが成立するところまではヨーロッパ建築と同じだが、その先が異なる。・・・日本では一度成立してしまうと生き続けるのだ。数寄屋が生まれても、書院はあいかわらず元気。時には、一軒の家の中に、書院造、数寄屋造、茶室が順に並んでいたりする

 とすると、スタイルは次々に蓄積されて、多くなるばっかりじゃないか、と心配になる。実際そうなのだが。それが日本の建築の宿命なのだと思いましょう


 ウーン。日本では和洋折衷建築をチグハグと思う人は少ない。JR京都駅が超モダンな高層ビルに建て替えられ、いささかの論議はあっても少し経つと北側の東寺などの風景になじんでしまったように思うのはそのせいなのか、となんとなく納得してしまう記述だ。

 しかし、建築史にはまったくの門外漢だが、ヨーロッパでは、時代が生んだスタイルに街ぐるみ変わってしまう、というのは本当だろうか。

 3年前に、聖書学者の和田幹男神父に引率されてローマ巡礼に旅に出た。初めてのヨーロッパ訪問だったが、確かゴシックとルネッサンス様式の違う教会が街なかで共存していて、まったく違和感がなかった印象がある。

クリックすると大きな写真になります ローマ訪問の初日。ホテルを出た道路から見た街並みと遠方に見える17世紀に再建されたという聖ペトロ大聖堂のドームが、まったく違和感がなく溶け込んでいるのに、心が膨らむような感動を覚えた記憶がある。

 同じように石を素材にしているせいだろうか。ヨーロッパの人々は、著者の言うスタイルの変化を乗り越えて、街全体の景観を大切にしてきた、という印象をその後の旅でもますます深めた。

 「ロマネクス教会は一冊の聖書だった」という項は、大いに納得した。
 「ロマネクスの教会の中はフレスコ画の図像と石を掘った彫像が充満していた」
「(初期キリスト教の)農民も商人も職人も字を読まず印刷技術もなかった時代、聖書の内容は図像を通してしか人々の間に浸透しようがなかった」


 同じローマ巡礼の旅で訪ねたアッシジの聖フランシスコ大聖堂で、同趣旨の説明を聞いた記憶がある。

 上部聖堂の壁面を埋め尽くす13世紀の画家ジョットが描く、聖フランシスコのフレスコ画を指さしながら、文盲の会衆に司祭は説教台から、その生涯を語ったという。

  「城は建築史上出自不明の突然変異」という項もおもしろい。
  姫路城なり松本城を頭に思い浮かべてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本のものでないような。国籍不明というか来歴不詳といか・・・それでいてイジケたりせず威風堂々、威はあたりを払い、白く輝いたりして


天守閣が視覚的になにかヘンに見えるのは「"高くそびえるくせに白く塗られている"」からだと、著者は「""」付きで断言する。「天守閣はある日突然、あの高さあの姿で出現したのだ。織田信長の安土城である」
なるほどなあ!天守閣は、異才・信長が生んだ突然変異だったのか!

 「茶室は世界でも稀な建築類型」「住まいの原型を考える」など、軽いタッチの筆致ながら、新鮮な驚きを誘う項目が続く本である。

2008年2月27日

読書日記「カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇」(宮下規久朗著、角川選書)

 イタリア・バロック時代の巨匠といわれるカラヴァッジョという画家を始めて知ったのは、一昨年9月、「和田幹男神父と行く『イタリア巡礼の旅』」(ステラ コーポレーション主催)というツアーに参加したのが、きっかけだった。

 著名な聖書学者である和田神父に導かれるままに古い教会にたどり着くと、薄暗い礼拝堂に掲げられたカラヴァッジョの宗教画が、かすかな光のなかに浮かびあがってくる。

 その強烈な印象が忘れられず、帰国してからカルヴァジョ研究の第一人者と言われる著者(神戸大大学院人文学研究科准教授)の本3冊を入手した。

 著者は、最新作「カラヴァッジョへの旅」の後書きにある「カラヴァッジョ文献案内」などで、この3冊について説明している。

 「私の集大成」と言う「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」(名古屋大学出版会、2004年)は、A5版、本文だけで300ページ近い大部なもの。作品の解釈なども詳しく、サントリー学芸賞や地中海ヘレンド賞を受けている。

 「カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠⑪」(小学館、2006年)は「これを越える画集は世界にない」と著者が自負する大型のカラー図版。

 カラヴァッジョ研究の総集編という「カラヴァッジョへの旅」は、各地に残る天才画家の足跡をたずねる旅で構成されている。

 ミラノに生まれ、ローマで後世に残る名品を残しながら、殺人を犯して南イタリアに逃亡。ナポリやシチリア、マルタ島でもけんかや暴力ざたなどの無頼をつくしながら描き続け、真夏のトスカーナの港町で行き倒れる。著書は、38歳の短い生涯を綴りながら、描いた作品を簡明に解説している。

 その内容を書くには、どうしても作品の図版が欠かせないが、著書からコピーすれば、やはり著作権にふれるのだろう。WEBを探していたら、サルヴァスタイル美術館という個人サイトを見つけた。画像はあまり鮮明ではないものの、カラヴァッジョの主要作品のコピーを見ることができる。

  一昨年のイタリア巡礼の後、ツアー仲間の岡本さんから詳細な記録をいただいた。それによると初めてカルヴァジョの作品に接したのは、ローマ滞在5日目。ナヴォーナ広場に近い聖ルイ教会(フランス人の教会)のなかにある5つの礼拝堂の一つの正面に「聖マタイと天使」、左の壁に「聖マタイの召命」、右に「聖マタイの殉教」と、マタイ3部作が掲げられていた。右側の献金箱にコインを入れると、電気の明かりがついて暗い闇に沈んでいた作品が浮かびあがる。

 「聖マタイの召命」は、絵画のなかの誰がキリストの召しだしを受けたのかという「マタイ論争」で有名な絵。諸説があるなかで、宮下准教授は右端でうつむきコインを数えている徴税吏の若者がマタイだと断言する。「次の瞬間、ばたんと立ち上がって、呆気にとられる仲間を背に、キリストとともにさっさと出て行くであろう」クライマックスの直前を捉えた作品、という。

 キリストが伸ばした右手は、システィーナ礼拝堂天井にミケランジェロが描いた「アダムの創造」のアダムの左手を左右半回転したもの。

 どこで読んだか、聞いたりしたのかの記憶がないのだが、この手を伸ばす構図が映画「ET」にも生かされていることでも知られている。

 ローマ滞在5日目の昼前には、聖アウグスチヌス教会で「ロレートの聖母」を見た。ひざまずく農夫の足の裏の汚れのリアリティさには、当時の「民衆が大騒ぎした」らしいが、聖母のモデルをめぐる著書の記述も興味深い。

 その日の夕方、聖マリア・デル・ポポロ教会礼拝堂で「聖パウロの改心」を見た印象は、とくに強烈だった。

 「画面を圧する大きな馬の足元に若い兵士が横たわって両手を広げている。この兵士はサウロ(後のパウロ)であり、今まさに改心しつつある」。

 その証拠に、絵に描かれた「馬丁も馬もパウロに起こった異変にきづいていないかのように動作を止めてうつむいている」。つまりこの絵は、パウロの脳のなかで起こったことを描いていると、宮下准教授。

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録第9節4章)という聖書の言葉を、ガラヴァジョは「一人の人間の内面に起こった静かなドラマに変容させてしまった」のだ。

 名画の完成度が高まるにつれてガラバッジョの無軌道ぶりは増していく。そして、友人やパトロンに何度も助けられながらも、同じ過ちを繰り返す。

 著者は終章でこう書く。「私がカラヴァッジョに引かれるのは・・・こうした彼の生涯と破滅的な人間性のためである」「私も自分が抑えられないかたちで、怒りを暴発させては・・・失敗と後悔を繰り返してきた」「誰しも『内なるカルヴァッジョ』を抱えて生きているのだ」

 宮下准教授のホームページに、ある雑誌に載った顔写真が貼り付けてある。

 「趣味は、任侠映画鑑賞」と言う無頼っぽい表情は、ウイキペディアに掲載されているカラヴァッジョの肖像画に似ていなくもない。

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(追記:2013/3/10)  
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 久しぶりのカラヴァッジオとの再会である。

著者のものを読むのは初めてだが、2度にわたるカラヴァッジオを訪ねる旅を綴っている。それを個人美術批判誌に連載しているうちに、表題の「カラバッジオへの旅」が刊行されたため「・・・からの旅」といった、いささか中途半端な題名になったようだ。
カラヴァッジオ作品の分析も、宮下紀久朗と一味違う。
 例えば、 「洗礼者聖ヨハネの斬首」(マルタ島、サン・ジョヴァンニ大聖堂)を見て発見したのは「色彩の二種類の美しさ」だという。
 
ひとつは、聖ヨハネの赤い布。すこし朱色のまじった、ほとんど超絶的としかいいようのない赤い色である。超絶的とは、色彩を極めていって色彩を超えるところまで到達してしまった色彩、という意味でもある。そして色彩を超えることによって「絵画」 の何かをまで超えてしまっているという意味にはかならない。この赤は、赤そのものであり、同時に赤という色を超えてしまった赤でもある。・・・
 そしてもうひとつは、背景の、というよりこの絵のひろがりそのものを作り出している色彩である。それは現実的には壁、格子窓、門、門のアーチの石組み、地面(床面)の茶色っぼい、黒っぼい色彩のことだ。この大作の面積からいうと、その部分がいちばん大きい。この色彩がうまく描けないと、絵そのものが台無しになる。左側の人物たちを描くことができても、それらを真に存在させるためには、ひとつのまとまったひろがりのなかへと着地させなければならない。そしてその「ひろがり」とは、色彩によってしか実現されえないのである。そういう「色彩」というものがある。そうして、そのような「色彩」が、とくべつの自己主張をすることなしに美しい、ということが起りうる。

「聖母の死」(パリ・ルーヴル美術館)が、現代人の心を打つのは「神々しくない」からだ、という。
 
髪はボサボサで、お腹はすこし膨れたように描かれ、美しいとはいいがたい素足の両足先が投げ出され、ありふれた、普通の死体としてころがっている。その顔は、大方の図版よりはずっと灰色に近く、骸の土気色をしている。テヴェレ河のじっさいの水死体をモデルにしたという説もある。

この絵のハイ・ライト、内容の点でいちばん光が当っているのは、いうまでもなく聖母の顔である。よく見ると、その顔には苦痛も神々しさもないかわりに、なんとも言い難い穏やかさが浮んでいる。この顔をそのように表現したことに、僕は、カラヴァッジオの鋭い直感力と天才を感ずる。

著者が「最高峰」と評価するのは、「ロレートの聖母」(ローマ・サンタゴスティーノ聖堂)
 
二人の巡礼が眼にしているのは、現実界に姿を現した聖母子というよりは、現実界に現実に存在する母子である、というように見える。・・・それはどまでに、「物語性」をこえて、「リアル」なのである。・・・
 その「リアル」さが、この絵を劇的なものではなくて、むしろ静かなものにしている。そこにいかなる大仰な身振りもなく、過剰な舞台背景もないことが、この作品の美しさをより深めている。そしてそういう深さが、静けさをもたらす。