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2013年9月 4日

読書日記「森の力 植物生態学者の理論と実践」(宮脇 昭著、講談社現代新書)

森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書)
宮脇 昭
講談社
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 横浜国立大学名誉教授の  著者は、85歳の現在まで、ポット苗という40年前に発案した植樹法で国内外1700カ所に4000万本もの木を植え続けてきたという驚異の人。

 最近は、東北被災地の再生に取り組む 公益法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」副理事長や 「いのちを守る森の防潮堤推進東北協議会」名誉会長として「120歳まで生きて、このプロジェクトの完成を見届けたい」と、人々に勇気を与えずにはおれないエネルギーあふれた活動をしている。

 著者はまず、ボランティアによって植樹された東北被災地の30年後の「ふるさとの森」へと案内してくれる。

 
ひときわ目立つ背の高い樹は、タブノキ。多数の種類の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」という宮脇理論によって、シラカシ ウラジロガシ アカガシ スダジイも見事に育っている。

 森の中に入ってみる。

 タブノキなどの高木が太陽の光のエネルギーを吸収するため、森の中は薄暗い。
 そのなかでも、 モチノキヤブツバキ シロダモなどの亜高木が育っている。

ヒサカキ アオキヤツデなど、海岸近くでは シャリンバイ ハマヒサカイなどの低木も元気いっぱいだ。トベラの花からは甘い香りが漂ってくる。

 足元には ヤブコウジ テイカカズラ ベニシダイタチシダ ヤブラン ジャノヒゲなどの草本植物が確認できる。


 著者が、長く学んだドイツには「森の下にもう一つの森がある」ということわざがあるという。「一見すると邪魔ものに思える下草や低木などの"下の森"こそが、青々と茂る"上の森"を支えている」という意味だそうだ。

  自然植生の森には、人間の手が入る必要はない。森に生きる微生物や昆虫、動物の循環システムが確立しているからだ。

 しかしこれまで我々は、森林従業者の老齢化と安い輸入ない南洋材におされて、マツ、スギやヒノキの森の下草刈りなどが行われず、森が荒れてしまったと、様々な機会に聞かされてきた。

 著者によると、マツ、スギ、ヒノキなどの針葉樹林は、第二次大戦後の木材需要に対応するための人工林。その土地になじんだ自然植生でない 代償植生であり「極端な表現を許されるなら、ニセモノの森」である、という。

 「もともと無理をして土地本来の森を伐採してまで客員樹種として植えられてきたスギ、ヒノキ、カラマツ、クロマツ、アカマツなどの針葉樹。その土地に合わないために、下草刈り、枝打ち、間伐などの人間による管理を止めた途端に、 ネザサ、ススキ、ツル植物の クズ ヤマブドウ、などの林縁植物が林内に侵入繁茂します。そのため山は荒れているように見えるのです」

 マツ、スギなどの針葉樹は、成長が早いかわりに自然災害や山火事、松くい虫などの病虫害を受けやすい。最近、大きな問題になっている花粉症も「あまりに多くの針葉樹が大量に植えられたことが影響しているのではないか」と、著者は疑う。

7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。;クリックすると大きな写真になります。" P1080967.JPG;クリックすると大きな写真になります。
7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。 高田松原再生を願う横幕。マツの替わりにタブノキを植える動きも、全国各地で見られるという。
 昨年、東北へボランティアを兼ねた旅に出かけた際、陸前高田市の海岸に植えられていた約7万本の松林が見事に津波に打ち倒された荒漠とした風景を目にした。

 近くの橋には「国営メモリアム公園を高田松原へ」という大きな横幕が張られていた。松林を再生しよう、というのだ。

 著者は「確かに クロマツは海辺の環境に強い。・・・人がしっかり管理し続けられるところでは、必要に応じて今後もマツ、スギ、ヒノキをよいと思います」と言う一方「東日本大震災を経験したいまこそ『守るべきは、人為的な慣習・前例なのか、・・・景観なのか。それともいのちなのか』を考えてみる必要があるのではないでしょうか」と語っている。

 著者は、日本の土地本来の主役である木々が、人々の命を救った例をいくつかあげている。

 昭和51年10月に起きた山形県酒井市の大火で、 酒井家という旧家に屋敷林として植えられていたタブノキ2本が屋敷への延焼を防ぎ、同市では「タブノキ1本、消防車1台」を合言葉に植林運動が続けられている、という。

 対象12年9月の関東大震災の時には、「 旧岩崎別邸の敷地を囲むように植えられていたタブノキ、 シイ カシ類の常用広葉樹が『緑の壁』となって、(逃げ込んだ)人々を火災から守った」

 平成7年1月の阪神大震災の際、著者は熱帯雨林再生調査のためにボルネオにいたが、苦労して神戸に入った。

 長田区にある小さな公園では常緑広葉樹の アラカシの並木が、その裏のアパートへの類焼を食い止めたことを目にした。
 鎮守の森
の調査でもシイノキ、カシノキ、モチノキ、シロダモなどは「葉の一部が焼け落ちても、しっかり生きていた」
  神戸市の依頼で植生調査をしたことがある六甲山の高級住宅地の上にある斜面でも「土地本来の常緑広葉樹のアラカシ、ウラジオガシ、シラカシ、 コジイ、スダジイ、モチノキ、ヤブツバキなどが元気に繁っていた」

img1_04.jpg 平成13年3月の東日本大震災の直後に、なんどか調査に行った。仙台のイオン・多賀城店の近くでは、平成5年に建築廃材を混ぜた幅2,3メートルのマウンド(土手)の上に地元の人と一緒に植えたタブノキ、スダジイ、シラカシ、アラカシ、ウラジオガシ、 ヤマモモなどの木々は「大津波で流されてきた大量の自動車などをしっかり受け止めでもなお倒れていなかった」

 土地本来のホンモノの樹種は、深根性、直根性、つまり根を深く、まっすぐ降ろして、その下にある石などをしっかりつかむため、家事や地震、洪水にもびくともしない。

 著者は、すべて瓦礫と化した被災地に言葉を失ったが「この瓦礫は使える」とも確信した。東北の本来種であるタブノキなどを植樹すれば、深く根を降ろし、埋めてあった瓦礫をしっかりつかんで、大津波も防いでくれる。それが、冒頭に著者が30年後の世界として案内してくれた"自然植生の森"なのだ。

 海岸などに瓦礫を混ぜたマウンド(土堤)をつくり、ボランティアの人々が拾い集めたドングリで育てたポット苗を植林する。「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」による小さな森が、こうして東北各地で少しずつ育ち始めている。



2012年3月30日

読書日記「蜩ノ記 ひぐらしのき」(葉室 麟著、祥伝社刊)


蜩ノ記
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葉室 麟
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 この本を知ったのは昨年末。和歌山の山小屋に夫婦で暮らす友人のブログ 「森に暮らすひまじん日記」でだった。

 その時にも気にはなっていたのだが、この1月初めに直木賞の候補になったのを知って図書館に貸出予約を入れた。16人待ちだったのが、先日やっと順番が回ってきて、一気に読んだ。無事、今年の直木賞に決まったから、私の後にはまだ70人近い購読希望者が待っている。

「森に暮らすひまじん日記」に書かれた、あらすじを借りることにしよう。

 九州は豊後の小藩で奥祐筆を勤める壇野庄三郎は、城内で刃傷沙汰を起こした。切腹は免れたが、山村に幽閉され、藩史の編纂を続ける元郡奉行戸田秋谷の監視と編纂の手伝いを命じられた。

 戸田は、前藩主の側室と密通した罪で幽閉され、10年後には切腹するよう言い渡されていた。それまでは藩史編纂が課せられ、命を区切られた人生を生きて行く。庄三郎が戸田の幽閉先に赴いたのは、切腹まで残り3年に迫っていた。

 庄三郎は、戸田の凛とした生き方に心を動かされ、不義密通にも疑問を持つようになった。妻と子供二人は戸田の生き方を信じ、切腹までの残された日々を見つめながら健気に生きて行く。

 「蜩ノ記」とは、山村に幽閉されて家譜編纂に携わってきた戸田秋谷が書いてきた日記の名前だ。
 
「夏がくるとこのあたりはよく蜩が鳴きます。とくに秋の気配が近づくと、夏が終わるのを哀しむかのような鳴き声に聞こえます。それがしも、来る日一日を懸命に生きる身の上でござれば、日暮らしの意味合いを寵(こ)めて名づけました」   


 庄三郎は、訪ねてきた親友・信吾に戸田を助けられないかと、無理を承知であることを頼む。信吾は、城内で刃傷沙汰を起こした当の相手だ。

 
「・・・ここに来て(三浦家譜)編纂を手伝ううちに、わたしは武士とは何なのかを考えるようになった」
 ・・・「御家(おいえ)には昔から対立や争いがあったようだ。時にそれは、村の百姓も巻き込んでいる。村に住んでみて、武士というものがいかに居丈高なものか、徐々にわかってきた」
 ・・・「しかし、戸田様はさような武士の在り方とは違って、百姓たちとともに生きようとなされておる。わたしはそのような戸田様の武士としての生き方に感じ入った。それゆえ、戸田様をお守り いたしたいと思っておるのだ」


 著者は、直木賞を受賞した際の1月18日付読売新聞「顔」欄で「編集者から武士の矜持(きょうじ)をと言われ、スッピンのストレートの思いを書いた」と、正直に答えている。そんな注文を小説に仕立てられるのは、さすがプロの作家である。

 物語は、百姓の息子で戸田の嫡男、郁太郎の親友である源吉が、お家の奉行の拷問を受けで死んだことでクライマックスを迎える。

 源吉のかたきを討つため、私欲で策を弄していた家老の屋敷に押しかける決心をする。庄太郎は「道案内をする」と、同行を申し出る。

 そっと出ていった2人を心配する妻と娘に、戸田は静かに答える。

 
「武士(もののふ)の心があれば、いまの郁太郎は止められぬ。檀野(庄太郎」殿は郁太郎を見守るつもりで追ってくれたのであろう」
 「檀野殿は武士だ。おのれがなそうと意を固めたならば、必ずなさずにはおられまい。檀野殿の 心を黙って受けるほかないのだ」


 郁太郎と庄太郎は、家老家に押し入り、見事な技で家老の助っ人を退け、家老が武士にあるまじき"命乞い"の言葉を出すまでに追い詰める。

 家老がどうしてもほしかった文書を手に家老宅に来た戸田は、家老の胸倉をつかみ、顔を殴りつけると、静かに話した。

 
「源吉が受けた痛みは、かようなものではなかったのでござる。領民の痛みをわが痛みとせねば家老は務まりますまい」


 郁太郎と庄太郎とともに、山村に帰った戸田は、約束されていた8月8日の朝。検分役の見守る前で、見事に切腹をしてはてた。

 読売「顔」欄で、著者はこうも答えている。

 「東日本大震災を経た今、日本人のありようが問われている。・・・日本人古来の生き方を描く時代小説だからこそ、できることがきっとある」

2011年10月19日

読書日記「春を恨んだりはしない」(池澤夏樹著、中央公論新社)、「日本の大転換」(中沢新一著、集英社新書)、「神様2011」(川上弘美著、講談社)

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 表題最初の「春を恨んだりはしない」の著者、池澤夏樹は、9月20日付け読売新聞の著者インタビューで「この半年は(東日本大震災について)考えているか、書いているか、被災地に行っているか。ほかのことはほとんどしていない」と語っている。
 
たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景になって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。
 死は祓えない。祓おうとすべきではない。
 更に、我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。


そして池澤は「原子力は人間の手に負えないもので、使うのを止めなけばならない」と、次のように力説する。
 
原子力は原理的に安全ではないのだ。原子炉の中でエネルギーを発生させ、そのエネルギーは取り出すが同時に生じる放射性物質は外に出さない。・・・あるいは、どうしても生じる放射性廃棄物を数千年に亘って安全に保管する。
 ここに無理がある。その無理はたぶん我々の生活や、生物たちの営み、大気の大循環や地殻変動まで含めて、この地球の上で起こっている現象が原子のレベルでの質量とエネルギーのやりとりに由来しているのに対して、原子力はその一つ下の原子核と素粒子に関わるものだというところから来るのだろう。


 ここまで読んで、同じような考え方にふれたのを思い出した。

 震災直後に朝日新聞出版から緊急出版された宗教学者の中沢新一、神戸女学院大学名誉教授の 内田樹、経済関係の著書が多い平川克美の鼎談冊子「大津波と原発」のなかで、中沢はこんなことを話している。

「核力からエネルギーを取り出す核融合反応というものは、もともと太陽で行われているものです。・・・核分裂はようするに生態圏の外にある」「原子力は一神教的技術なんです」

 なぜ生態圏の外にあった反応を生態圏に持ち込んだから、原発は制御不能なのか?
  超自然的な存在である神と原子力を一神教という名のもとにひとくくりしてしまうのも、キリスト教信者のはしくれである身には理解しがたい・・・。

大津波と原発
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 最近、その中沢が「日本の大転換」という本を出した。「大津波と原発」で言っていたことを敷衍しているらしい。各紙の書評欄でも次々取り上げられたので、読んでみた。

 中沢は、これまでの世界・社会は太陽の恵み(贈与)で成り立っていたのに、人間は原子炉のなかで"小さな太陽"を作ろうという無謀な試みをしようとして厳しいしっぺ返しを受けようとしている、と主張する。

 
太陽から放射される莫大なエネルギーの一部は、地球上の植物の行う光合成のメカニズムをつうじて「媒介」されることによって、生態圏に持ち込まれている。そうした植物や動物がバクテリアなどによって分解・炭化され、化石化したものが石炭や石油なのである。・・・
 ところが、原子炉はこのような生態圏との間に形成されるべき媒介を、いっさいへることなしに、生態圏の外部に属する現象を、生態圏のなかに持ち込む・・・。


 
津波によって、生態圏外的な原子炉と生態系をつないでいた、脆弱な媒介システムが破壊されたのである。むきだしになった核燃料は、臨界に達する危険をはらみながら、大量の放射性物質を放出し続けることとなった。そしてあらためて、人々の意識は、数万年かかっても処理しきれない、おびただしい放射性廃棄物を生み出すこの技術の、もうひとつの致命的な欠陥に注がれることになった。


 川上弘美の「神様2011」は、1993年に初めて書いた「神様」という短編を3・11後の世界に置き換えたものだ。放射能に汚染されて、人々は防護服を着、被爆量を気にしながら生きている。「神様」では2行で終わっている結びが5行に増えている。

 
部屋に戻って(熊の神様が作ってくれた)干し魚をくつ入れの上に飾り、眠る前に少し日記を書き、最後に、いつものように総被爆量を計算した。今日の推定外部被爆量・30μ㏜、内部被爆量・19μ㏜、推定累積内部被爆量178μ㏜・・・。


 池澤の「春を恨んだりはしない」のなかで、このブログでもふれた著書 「新しい新世界」で予言した世界をこう描いている。

   
進む方向を変えた方がいい。「昔、原発というものがあった」と笑えて言える時代の方へ舵を向ける。陽光と風の恵みの範囲で暮らして、しかし何かを我慢しているわけではない。高層マンションではなく屋根にソラー・パネを載せた家。そんなに遠くない職場とすぐ近くの畑の野菜。背景に見えている風車。アレグロではなくモデレート・カンタービレの日々。


 
人々の心の中で変化が起こっている。自分が求めているモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。
 これからやってくる世界は、どちらだろうか。

 川上の描く世界が、ますます″日常化"するなるなかで、池澤らが提言する世界を目指す努力がどこまでできるのか。これからを生きる孫たちを思う・・・。

2011年7月26日

読書日記「津波と原発」(佐野眞一著、講談社刊)


津波と原発
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佐野 眞一
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 東日本大震災からもう4か月あまり。そろそろ関連の本から離れたいと思うのだが・・・。

 「津波と原発」というあまりに直截的な表題。読むのをいささかちゅうちょした。しかし、さすがにピカイチのノンフィクション作家、冴え冴えとした月光が、瓦礫に下にまだ多くの遺体が横たわっているはずの無人の廃墟を照らしている。
 それは
ポール・デルボーが描く夢幻の世界のようでもあり、上田秋成「雨月物語」の恐怖と怪奇の世界が、地の果てまで続いているようでもあった。
 骨の髄まで凍てつく不気味な世界だった。いま見ているのは黙示録の世界だな。これは、きっと死ぬまで夢に出るな。建物という建物が原型をとどめてないほど崩落した無残な市街地の光景を眺めながら、ぼんやりそう思った。


新宿ゴールデン街「ルル」の元ママの"おかまの英坊"を大船渡の避難所で探しあてた。
 
「いま、火事場ドロボーみたいな連中が、あちこち出没しているらしいの。五,六人の集団が車で乗りつけて、無人の家の中に入り込んで金目のものを盗んでいるらしいの。・・・津波で流された車からガソリンなんかも抜き取るそうよ。だからここでは、いま夜間パトロールしているのよ」


 
私は地震直後、東京新聞に寄稿した短文に「これほどの大災害に遭いながら、略奪一つ行われなかった日本人のつつましさも誇りをもって未来に伝えよう」と書いた。
 だがこの話しを聞いて、そんなナイーブな考えも改めなければならないかもしれない・・・。この未曾有の大災害は、人間の崇高さも醜悪さも容赦なくあぶり出す。


 宮古市の田老地区を訪ねる。津波は二重に設けられた高さ十メートルの防潮堤を楽々と越え、見渡す限り瓦礫の荒野にしてしまっていた。
しかし、どんな大津波も海の上では陸地を襲うほどの波の高さはないという。だから、仮にその上を船が走っていても、揺れはほとんどないらしい。このため、三陸地方には、古くから多くの怪異譚が伝わっている。
 
漁から帰ったら、村が忽然と消えていた。そんな信じられない光景を見て、一夜にして白髪になった漁師がいた。なかには、恐怖のあまり発狂した漁師もいた。
 帰って見ればこは如何に 元居た家も村もなく 路に行きあう人びとは 顔も知らない者ばかり・・・と童謡に歌われた浦島太郎の話しは、こうした津波伝説から生まれたといわれる。


 花巻市で、日本共産党の元文化部長で在野の津波研究家の山下文男氏を見つけ出す。陸前高田市の病院4階で津波に襲われ、窓のカーテンを腕にぐるぐる巻きにして助かった、という。「津波が来たら、てんでバラバラに逃げろ」という意味の 「津波てんでこ」という本を書いている。

 
「田老の防潮堤は何の役にも立たなかった。それが今回の災害の最大の教訓だ。ハードには限界がある。ソフト面で一番大切なのは、教育です。海に面したところには家を建てない、海岸には作業用の納屋だけおけばいい。それは教育でできるんだ」
 「日本人がもう一つ反省しなきゃならないのは、マスコミの報道姿勢だ。家族の事が心配で逃げ遅れて死体であがった人のことを、みんな美談仕立てで書いている。これじゃ何百年経っても津波対策なんてできっこない」


 立ち入り禁止区域の浪江町や富岡町に畜舎に潜入した。あばら骨が浮き出た死体のそばで、肩で息をしている牛がいた。豚も折り重なるように死んでいた。腐敗臭がすさまじく「共食いされたのだろうか、内臓がむき出しになった豚もいた」。

 農業法人代表取締役の村田淳氏は、立ち入り禁止の検問をかいくぐって、牛たちに水トエサを与えてに通っている。
 
「瀕死の状態の牛を安楽死させるっちゅうのは、仕方ない。でも元気な牛を殺す資格は誰にもねえ。平気で命を見捨てる。それは同じ生き物として恥ずかしくねえか」
 「(東電に言いたいのは)ここへ来て、悲しそうな牛の目を見てみろ。・・・それだけだ」


いわき市内では福島第一原発で働く労働者に会った。
「起床は朝の五時です。(旅館で)身支度をして東電のバスで Jヴィレッジに向かいます。朝食はJヴィレッジで食べます。ジュース、お茶、カロリーメイト、魚肉ソーセージ、みそ汁、真空パックのニシンの煮つけ、クラッカーなど好きなものが食べられますが、冷たいものが多くてあまり食指は動きません。
 原発に向かうバスに乗り込む前は、必ずタバコを一服します。心を落ち着かせるためですが、一服していると、これが最後の一服か、と思う瞬間がありますね」


 炭鉱の労働者からは「むやみに明るい『炭坑節』が生まれた」。「炭鉱労働が国民の共感を得たことは、東映ヤクザ映画に通じる『川筋者』の物語が数多く生まれたことでもわかる。その系譜は斜陽化した常磐炭鉱を再生する 「フラガール」の物語までつながっている。

 
だが、原発労働者からは唄も物語も生まれなかった。原発と聞くと、寒々とした印象しかもてないのは、たぶんそのせいである。原発労働者はシーベルトという単位でのみ語られ、その背後の奥行きある物語は語られてこなかった。


 
それは、原発によってもたらされる物質的繁栄だけを享受し、原発労働者に思いをいたす想像力を私たちが忘れてきた結果でもある。原発のうすら寒い風景の向うには、私たちの恐るべき知的怠慢が広がっている。


2011年7月14日

読書日記「ウアヴェリ地球を征服す(旧題:電獣ヴァヴェリ)=『天使と宇宙船』より」:フレドリック・ブラウン著、小西 宏訳、創元SF文庫



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 このSF小説は、内田樹・神戸女学院大学名誉教授のブログで知った。太陽系外の獅子座からやって来たらしい「電気を食べる生物」のために地球上から電気がなくなってしまう、という1967年の米国での話しである。

 鉄道はディーゼルに替わり蒸気機関車の使用態勢が整い、電信と電気信号なしに運転されるようになった。馬は1頭残らず政府の監督下に置かれ、積極的な繁殖計画で、6,7年後には国内全部のガレージに馬が1頭ずつつながれる見通し。
 工場はすべて24時間稼働で蒸気機関を生産、十分に蒸気機関が整ってから、石油ランプ、衣類、石炭・石油ストーブ、浴槽、ベッドの生産を始めた。また、家具、靴、ローソクなどを作る個人的な手工業も芽生えてきた。

 ニューヨークでラジオのCM作家をしていたジョージは、コネティカット州の田舎町に引っ込み、小さな新聞社を経営している。その町にやってきた旧友からニューヨークの様子を聞く。
 
「人口は百万ほどに減ってしまって、そこで一応おちついている。人ごみもないし、万事、余裕しゃくしゃくだよ。空気はーーなにしろガソリンの臭気がないから・・・」
 「乗り回せるだけの馬は、もうそろっているの?」
 「ほぼね。でも、自転車が大流行だよ。丈夫な人間は、みな自転車で通勤している。健康にもいいんだ。もう二、三年もすれば、医者にかかる人間が減るだろうよ」


2人とも、なぜか強い酒を飲まなくなった。「おたがいに飲む必要がないから、飲まないってことだなーー」。夜のすごし方も変わった。
 
「なにをするって?読んだり、書いたり、訪問しあったたり、・・・。映画がなくなったので、猫も杓子も芝居熱につかれている・・・。音楽はいうまでもないよ。一億総楽士だよ」

今夜のコンサートに飛び込み参加することになった旧友のフルート、ジョージのクラリネット、妻のピアノの合奏が始まる。

 内田名誉教授のブログは引用自由ということらしい。関西電力が求めた一律15%節電について、こう書いている。

 
私自身は電力浪費型のライフスタイルよいものだと思っていないので、節電が15%でも50%でも、最終的には100%になっても「それはそれでしかたがないわ」と思うことにしている。
 だから、電力会社が「これからはできるだけ電気を使わないライフスタイルに国民的規模で切り替えてゆきましょう」というご提案をされるというのなら、それには一臂の力でも六臂の力でもお貸ししたいと思っているのである。
 でも、この15%節電は「そういう話」ではない。
 電力依存型の都市生活の型はそのままにしておいて、15%の節電で不便な思いを強いて、「とてもこんな不便には耐えられない。こんな思いをするくらいなら、原発のリスクを引き受ける方がまだましだ(それにリスクを負うのは都市住民じゃないし)」というエゴイスティックな世論を形成しようとしているのである。


電力に限らず、有限なエネルギー資源をできるだけていねいに使い延ばす工夫をすることは私たちの義務である。
 そして、その工夫はそのまま社会の活性化と、人々の未来志向につながるようなものでなければならない。
 70年代に、IBMの中央集権型コンピュータからアップルのパーソナル・コンピュータという概念への「コペルニクス的転回」があった。
 同じように、電力についても、政官財一体となった中枢統御型の巨大パワープラントから、事業所や個人が「ありもの」の資源と手元の装置を使って、「自分が要るだけ、自分で発電する」というパーソナル・パワー・プラント(PPP)というコンセプトへの地動説的な発想の転換が必須ではないかと思うのである。


 脚本家の倉本聰が、自ら塾長を務める富良野自然塾の季刊誌(2011年夏号)で「ヒトに問う 東日本大震災に寄せて」という巻頭文を載せているのを新聞で知った。

 
「覚悟」という言葉を今考える。
 我々はこの不幸な大事故後の人間生活のあり方について、大きな岐路に立たされている。
 一つの道は、これまで通り、経済優先の便利にしてリッチな社会を望む道である。その場合これまでの夜の光量、スピード、奔放なエネルギーの使用を求めることになるから、現状では原発に頼らざるを得ない。その場合再び今回同様の、もしかしたらそれ以上の、想定外の事故に遭遇する可能性がある。
 その時に対する「覚悟」があるのか。


 
今一つの道は今を反省し、現在享受している便利さを捨てて、多少過去へと戻る道である。この場合、今の経済は明らかに疲弊し、日本は世界での位置を下げる。そうしたことを認識した上で今ある便利さを、捨てさる「覚悟」があるのか。


 
以上二つの選択の道を宮津市の講演会で問うてみた。
 その日の講演会場は八百の客席が満員。一階が一般市民。二階が全て高校生だった。まず一般市民にのみ問うてみた。
 何と90%が、過去へ戻る道。
 一寸驚いた。
 次に高校生たちの問うてみた。一般市民は首をめぐらし、二階席を仰ぎ見た。
 70%が、今の便利さをつづける道。30%が便利を捨てる道。静かなどよめきが会場に流れた。
 全国民に僕はこの二者選択の答えを聞きたい。


2011年5月25日

読書日記「震災歌集」(長谷川櫂著、中央公論新社刊)

震災歌集
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 4月下旬の読売新聞朝刊と夕刊のコラムで、俳人の長谷川櫂さんが「震災に関した短歌集」を出版するという記事を続けさまで見てエッ!と思った。

 伝統派俳人と言われる著者が、句集でなく歌集を出すという。それも東日本大震災発生からたった12日間に詠まれた119首が収められるらしい。さっそくAMAZONに予約を入れ、出版直後の2週間後に届いた。

 
かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを


 
夥(おぼただ)しき死者を焼くべき焼き場さへ流されてしまひぬといふ町長の嘆き


 著者は、序文「はじめに」で、私自身も感じていたことをズバリと書いている。
今回の未曾有の天災と原発事故という人災は日本という国のあり方の変革を迫るだろう。そのなかでもっとも改めなければならないのは政治と経済のシステムである。


 
原発を制御不能の東電の右往左往の醜態あはれ


原発をかかる人らに任せてゐたのかしどろもどろの東電の会見


 「はじめに」はこう続く。
決して立派とはいえない首相が何代もつづくのは、間接民主制という政治家を選ぶシステムそのものがすでに老朽化してしまっているからではないか。


 
おどおどと首相出てきておどおどと何事かいひて画面より消ゆ


かかるときかかる首相をいだきてかかる目に遭う日本の不幸


 被災地からは遠く離れながらも、人々を不安に陥れている放射能汚染への恐怖を五七五七七に託す。

如何(いかん)せんヨウ素セシウムさくさくの水菜のサラダ水菜よさらば


降りしきるヨウ素セシウム浴びながら変に落ち着いてゐる我をあやしむ


見しことはゆめなけれどもあかあかと核燃料棒の爛(ただ)をるみゆ


 避難所に押し込められ、じっと耐える東北人のこころ根を思う。

避難所に久々にして足湯して「こんなときに笑っていいのかしら」


被災せし老婆の口をもれいづる「ご迷惑おかけして申しわけありません」


 なぜ俳句でなく和歌だったのか。筆者は「理由はよくわからない。『やむにやまれぬ思い』というしかない」としか語らない。

 実は、長谷川櫂さんのことを少し存じ上げている。以前、新聞社に勤めていたころ、東京本社から出向して来られていて一緒に朝刊制作の仕事をしていたことがあった。
刷り上がった朝刊を見た後の午前2時半過ぎ。帰る方向が一緒で、時々タクシーに同乗した。その時、長谷川さんは俳句のことは一言も話されなかった。
 東京に帰られて少しして、サイン入りの句集が送られてきて驚いた。あまりいい言葉ではないが、礼状に「エイリアンに遭った気分」と書いた記憶がある。

 そして今回また「やむにやまれぬ思い」で歌集を出された偉才ぶりに遭うことになった。やはり「エイリアン」だと・・・。

2011年3月26日

読書日記「ある小さなスズメの記録 」(クレア・キップス著、梨木果歩訳、文藝春秋刊)



 未曾有の惨事を引き起こした東日本大震災。テレビから眼が離せない。被災の惨状に戦りつし、犠牲者、被災者を思って胸を熱くする。

 たまたま、図書館から借りている本も多かったのだが、どれを開いても内容が頭のなかに入って来ない。心がザワザワと落ち着かない。
 そんな時、関西に一時避難してきた知人を迎え行ったJR新大阪駅の書店で買ったのが、この本。書評などで内容は知っていたから「これなら読めるかも」と・・・。被災地の方々に思いを寄せながら、ページを繰った。

 副題に「人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯」とある。
 ドイツの空爆が絶えない第二次世界大戦中のロンドン郊外。ピアニストのキップス夫人は、玄関前で「明らかに瀕死の状態にある、丸裸で目も見えていない、おそらく数時間前に生まれたばかりなのだろう」オスのスズメを見つける。
 それから12年間にわたる2人(1人と1羽)の交遊が始まる。クラレンスは、自分の目が開くようになった時、初めて見たキップス夫人を「何の疑いもなしに・・・自分の保護者として自然に受け入れた」

 (羽毛が生えそろったころには)彼は私の枕の上に置いた古い毛皮の手袋の中で眠り、夜明けにチュンチュン騒いで私の髪の毛を引っ張って起こしては、朝食をせがむのだった。


 彼は幾度となく、私の頭で「砂浴びをやっているつもり」を楽しんでは、一方の耳からもう一つの耳へ全速力で移り、さらに巻き毛でぶらぶら揺れたりしてふさぎ散らした。


 ある時、キップス夫人に「直感が閃いた」。空襲で防空壕に押し込められている子どもたちを慰めるために「クラレンスに芸を教えよう」
 夫人とのヘアピンを使った綱引き。トランプノカードをくわえて10回から12回、落とさないでぐるぐる回し続ける。

 最も人気のあった演目は「防空壕」。夫人は麻の実を入れた左手を右手で丸く蓋う。「サイレンだ!」という声を聞くと・・・。
 彼はすぐさまこのにわかづくりの防空壕へ駆け込んで。数分の間じっとしているが、しばらくすると、警報解除のサイレンはまだ鳴らないの?と言わんばかりに。頭だけちょんと突き出して辺りを窺うのだった。


    肩に止まらせてピアノの練習をしているうちに、彼は音楽家としてもデビューする。
 それはさえずりから始まり、小さなターンを経て、メロディを形づくろうと試み、高い音色を出し、そして――驚異中の驚異!――小さなトリルに至ったのだ。


 窓辺に来る小さなアオガラから求愛されたり「『私(キップス夫人)』に愛を仕掛け」たりする「青春時代」もあったが、その彼にも"老病死"がやってくる。

 11歳を過ぎた頃から、彼の足は弱り始め、夜中に止まり木から落ちたり、時々ヒステリーの発作を起こしたりした。
 ある朝彼は水浴びからふらふらと出てきて籠の床に横向きに倒れた。・・・まだ息はしていたものの、くちばしを開けたまま気を失っている・・・。


 卒中だった。部分的な麻痺も引き起こした。体のバランスがうまくとれず、しょっちゅう、ひっくり返って、夫人に起こしてもらわなければならなくなった。リハビリが必要になった。
 が、彼はこの難題を、自分一人の力で解決したのだ。
 いったん蛙のようにぴょんとジャンプすることを学ぶと、それから間もなく、ひっくり返った状態から即座に空中に跳ね上がり、完璧な宙返りをして、正しい状態に着地できるまでに熟達した――


 私のスズメは・・・一九五二年、八月二十三日に死んだ。耳はまだしっかりしていたが、目の方はほとんど見えなくなっていた。・・・私の温かい手の中に静かに体を横たえ、数時間、じっとしていた。それからふいに頭を上げると、昔から慣れ親しんだ格好で私を呼び、そして動かなくなった。


 この本は60年も前に欧米で大ベストセラーになった。日本でも、2回ほど翻訳本が出ている。その幻の名作を、キップス夫人がスズメと暮らした場所から車で十数分の場所に暮らしたことがあり、「渡りの足跡」という本を著すなど鳥の生態にも詳しい梨木果歩が、ていねいな日本語でよみがえらせた。

 訳者は、あとがきにこう書いている。
 キップス夫人の文章は格調高く、感情表現を極力抑制し、スズメの行動を客観的に推測するのに必要な情報を冷静に著述しようとする意志が見られた。だからこそ、そこから隠しようもなく滲んでくる、クラレンスと共に過ごした日々への愛惜が胸を打つ。こういう文章を訳す喜びを幾度となく思った。いつまでも手元に置いて訳し続けていたかった気がする。