検索結果: Masablog

このブログを検索

大文字小文字を区別する 正規表現

Masablogで“沈黙”が含まれるブログ記事

2017年2月28日

映画鑑賞記「沈黙―サイレンスー」(パラマウント映画、KAKOKAWA配給、マーティン・スコセッシ監督)、読書日記「沈黙」(遠藤周作著、新潮文庫)


沈黙 (1966年)
沈黙 (1966年)
posted with amazlet at 17.02.28
遠藤 周作
新潮社
売り上げランキング: 333,029


 自宅の本棚で、遠藤周作の単行本「沈黙」を見つけた。なんと昭和41年、社会人になって2年目に初刊本を買っている。表装も現在、56刷を重ねている文庫本のものとは異なる。10年ほど前に多くの所蔵雑本と本棚を処分、寄贈したが、この本だけはなぜか残しておいたようだ。

 アメリカ映画の巨匠、マーティン・スコセッシ監督が、この作品を原作に28年かけて、映画 「沈黙―サイレンスー」を完成させたことを知り、日本封切の日に見に行った。

 隠れキリシタンが捕まって拷問を受けるシーンは、原作記の記述とほぼ同じだった。今年のアカデミー・撮影賞の受賞は逃したが、映像としての迫力はさすがだった。

 水磔(すいたく)という刑があった。

水責め.jpg

 海中に立てた木柱に信者たちを縛り付け、満潮になると顔まで漬かる海水で「囚人は漸次に疲憊(ひはい)し、約1週間ほどすると悉く悶死してしまいます。


 熱湯をかける拷問もあった。裸にされて両手両足を縄でくくられ、杓子で熱湯をかけられた。それも、杓子の底にいくつもの穴を開け、苦痛が長引くようにした。

 棄教しようとしないポルトガル・イエズス会司祭2人の前に、どうしても"転ぶ"道を選ぼうとしない男女数人が筵巻きにされて小舟の上から、海に投げ込まれる。司祭の1人、 フランシス・ガルペは役人の手を振り切って海に飛び込み、同じように海中に沈む。

yjimage.jpg
フランシス・ガルペ  

1360b1f6f322269499cec4f83bf7458b-660x276.jpg

 牢に閉じ込められた司祭、セバスチャン・ロドリゴは、夜中に囚人たちが出すいびきのような耐えがたい声を聞いて寝られない。役人は「あれは、囚人たちのいびきではない」と、嘲るように言う。

 牢の前に掘られた穴に汚物が詰められ、囚人たちは逆さ吊りにされる。そのままでは、すぐに死んでしまうので、耳の後ろに小さな傷をつくり、そこから息が漏れていたのだ。

1bc295d4fc6ac9fad5aab49c3e417f40.jpg
セバスチャン・ロドリゴ

 ロドリゴの上司だった クリストファン・フェレイラは、この穴釣りの刑の耐えられず、棄教した。

 「日本のキリシタンがあそこまで拷問に絶えたのは、信仰のためだけだっただろうか」。一緒に映画を見た友人Mが言った。

   その答えが、原作にあった。

 
 ロドリゴが、イエズス会本部に送った書簡。
 「牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中ははじめてその足枷を棄てる一筋の路を我々の教えに見つけたのです」


   
 隠れキリシタンの女が、ロドリゴに話しかける。
 「 パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると(女に洗礼を授けた)石田さまは常々、申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓(うえ)も病の心配もなか。苦役もなか。もう働くだけ働かされて、わしら」彼女は溜息をついた。「ほんと、この世は苦患(くげん)ばかりじゃけえ。パライソにはそげんものはなかとですね。 パードレ


 映画の封切前に、スコセッシ監督はNHKのインタビューに「この映画には、いくつかの"沈黙"場面がある」と答えていた。

 通辞(通訳の役人)から「あなたが転ばず、キリストの踏絵をふんで棄教しない限り、キリシタン5人の穴吊りの形は続く」と、ロドリゴは言われる。

 Exaudi nos,・・・Sanctum qui custodiat・・・
 (ラテン語)の祈りを次から次へと唱え、気をまぎらわそうしたが、しかし祈りは心を鎮めはしない。主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼は呟き・・・。


   
 その時、じっと自分に注目している基督の顔を感じた。碧い、澄んだ眼がいたわるように、こちらを見つめ、その顔は静かだが、自信にみち溢れている顔だった。「主よ、あなたは我々をこれ以上、投っておかれないでしょうね」と司祭はその顔にむかって囁いた。すると、「私はお前たちを見棄てはせぬ」その答えを耳にしたような気がした。


   信徒たちへの拷問に耐え切れず、ロドリゴは、ついに転び、踏絵を踏む。

 
 多くの日本人が足をかけたため、銅板をかこんだ板には黒ずんだ親指の痕が残っていた。そしてその顔もあまり踏まれたために凹み摩擦していた。凹んだその顔は辛そうに司祭を見あげていた。辛そうに自分を見あげ、その眼はが訴えていた。(踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)


 ロドリゴは棄教後、死刑になった岡田三右衛門という男の名前とその妻子を与えられ、江戸の切支丹屋敷に住んだ。

 三右衛門が64歳で死去した時。死に装束を着て棺桶に入れられた死体の胸元に、涙ひとつ見せない日本人女房は、懐紙に巻いた手刀を三右衛門の胸元に差し込んだ。同時に、なにかを置いた。

 カメラがアップする。柔らかい光に包まれて、ロドリゴがずっと手元から離さなかった藁で作った十字架が、死体の足元に浮かび上がった。

 スコセッシ監督が描く映像美あふれたラストシーンである。

 この場面は、原作にはない。三右衛門を監視していた切支丹屋敷役人の日記がたんたんと綴られて終わっている。

2016年4月23日

読書日記「イエス伝」(若松英輔著、中央公論新社刊)



イエス伝
イエス伝
posted with amazlet at 16.04.23
若松 英輔
中央公論新社
売り上げランキング: 86,208


 本の冒頭近くに出てくる著者の指摘に、エッと思った。

 「奇妙なことに、イエスの誕生を物語る福音書のどこを探しても、『馬小屋』に相当する文字は見当たらない」

 「イエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれた」。それは、キリスト信者なら子供でも知っている常識だろう。

 所属していたカトリック芦屋教会でも、クリスマス前になると、祭壇の脇に小さな馬小屋の模型と聖母子の塑像を故浜崎伝神父が置いていた。そして、前の芦屋川から採ってきた草やコケで馬小屋の周りを飾る手伝いをさせられたものだ。

 いや、今でも世界中の教会や家庭で同じような馬小屋の模型が作られ、クリスマスの準備をしている。

 しかし著書は20世紀のアメリカ人神学者であるケネス・E・ベイリーの 「中東文化の目で見たイエス」の一節を紹介、「イエスが中東の人であることを(世界の人は)忘れている」と強調する。

 「西欧的精神の持主にとって、"飼い葉桶"という語は"馬屋"や"納屋"という語を連想させる。しかし、伝統的な中東の村ではそうではない」

 聖書の記述( ルカ伝2章4~7節)によれば、イエスの父 ヨセフは、ダビデ王の血を引く人だった。「客人に対して、ゆえなき無礼な行いをするのは不名誉なことこの上ない」中東人にとって、王族につながる旅人であるヨセフ、 マリア夫婦は歓迎さるべき客人だった。

 しかし、一行が訪ねた家の客間には先客がおり、家族が暮らす居間に通された。

 家畜を大切にする当時の中東の村では、居間の端に複数の飼葉桶が床石を掘って造られていた。

 「出産に際して、男たちは部屋から出され、女たちがマリアに寄り添う。マリアは庶民の家の居間で、彼女たちに見守られ、歓待されながらイエスを産んだ」。そして、聖書にあるとおり居間の「飼い葉桶に寝かされた」

 ベツレヘムに着いたヨセフ一行がやっと見つけられたのは、貧しい馬小屋。そこで生まれたイエスを祝ったのは、貧しい羊飼いたち。
 我々が、長年信じてきた物語は、西欧文明が作った虚構だったのだ。

 中東に住む聖書学者たちは、この事実を以前から理解していた。「しかし、西欧のキリスト教神学界が、長く中東文化圏の声を無視してきた」と、ベイリーは訴えている。

 だが、著者は「ベイリーが指摘したいのは、誤りの有無ではなく、新たなる聖書解釈の可能性である」という。

 
幼子イエスは、羊飼いのような貧しく身分の低い人々だけでなく、ヨセフらを迎え入れた普通の庶民や富裕な人々、「王」への貢物を持参した異教の預言者たちのためにも世に下ったのだ。
 「イエスは、救われない、孤独であると苦しむ人に寄り添うために生まれた」


 ベイリーは、イエス降誕を論ずる1文の最後を、こう締めくくっている、という。

 「確かにわれわれはわれわれのクリスマス劇を書き直さなければならない。しかし書き直されることによって、物語は安っぽくされるのではない。かえって豊かなものにされるのである」

 この本には、以前から気になっていたいくつかのことが記述されている。

 例えば、イエスと関わる女性たちのことだ。

 カトリック教会には、イエスが捕えられ、十字架につけられるまでの14の行程について書かれた 「十字架の道行き」という祈りがある。どこの教会でも、各場面を描いた木彫りや陶板の聖画が両側の壁に掛けられており、信者はその聖画を順に回ってイエスの受難を思って祈るのだ。

 イエスは、十字架を背負わされて処刑場に向かう途中、何度も倒れる。それを見て、 ヴェロニカという女性が駆け寄り、汗を拭いてもらおうと自分のベールを差し出す場面がある。

 
死刑の宣告を受けたイエスの近くに寄ることは命を賭けた行いだった。男の弟子たちにはそれが出来なかった。「十字架の道行』では、イエスの遺体を引き取るまで、男の弟子たちの姿は描かれない。道中、イエスに近づいたのは女性の弟子ばかりである。


 
イエスの時代、女性が虐げられることは少なくなかった。だが、イエスはその文化的常識も覆したのである。


 十字架で処刑される場に居合わせたのも、女性の弟子たちだけだった。

 共観福音書マタイ伝マルコ伝、ルカ伝)では、(女性たちは)「遠くに立ち」十字架上の見守っていたと記されている。

ヨハネ伝の記述はなまなましい。女性たちは「十字架の傍らに」たたずんでいたと書かれている。女性たちとはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。・・・
 天使たちのよって、イエスの復活を最初に伝えられたのもマグダラのマリアを含む三人の女性たちだった。


 イエスが誕生する前にも、女性を重視する記述が聖書に書かれている。

 身籠っていたマリアは、のちにイエスに洗礼を授けることになる ヨハネの母 エリザベトに会いにいく。
 エリザベトは、 聖霊の働きでマリアの子が救世主であることを知り、こう語りかける。

 「あなたは女の中で祝福された祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」(ルカ伝1章42)

 
この一節こそ・・・"人間の口"を通して、もっとも早い時期にイエスが「主」すなわち救世主であることが告げられた場面なのである。  ルカ伝は・・・圧倒的な男性優位の当時の社会で、女性・・・に大きな役割があることを示そうとする。このことにもまた、今日再度顧みるべき問題がある。


ペトロを中心に、男性重視の組織を形成してきた 原始キリスト教会は、あえて女性の存在を軽視し、イエスに近いマグダラのマリアを「罪深い女(娼婦)」と呼ぶことさえいとわなかった。

 それが、第2バチカン公会議以降になって、やっと見直しが始まったらしい。
 その動きが、女性司祭の登場などにつながるかどうかは、あまりに"遠い道筋"だろうが・・・。

 若松英輔は、イエスを裏切った弟子・ユダのことに何回も言及する。

 そして「イエスはユダの裏切りを知りながら、なぜ回避しなかったのか」「ユダの裏切りは自由意思によるものなのか」など、以前から多くの神学者、哲学者が取り組んできた問題に答えようとする。

 聖書によれば、「最後の晩餐」の席上、イエスはユダに「しょうとしていることを、今すぐしなさい」と言い、ユダは逃げるように出ていく。

   その後のヨハネ伝の記述は「共観福音書などとは著しい違いがある」と、著者は言う。

 
さて、ユダがでていくと、イエスは仰せになった。
   「今こそ、人の子は栄光を受けた。
 神もまた人の子によって
  栄光をお受けになった
 神が人の子によって
 栄光をお受けになったのなら、
 神もご自身によって
 人の子に栄光をお与えになる。
 しかも、すぐにも栄光をお与えになる。(13章31~32)


 
「今こそ」との一語は、ユダの裏切りもまた、自身の生涯が完成するために避けて通ることができない出来事であることを示している。そのことによって、「神もまた」栄光を受けるとまで、イエスは語ったのだ。


 イエスは、神の意志による受難を実現するために、ユダに裏切りを促したということだろうか。しかし、そのことが「イエス、神が栄光を受ける」ことにつながるという聖書の言葉は、あまりに難解だ。

 ユダについての記述は、まだまだ続く。

 
福音書を読んでいると、イエスのコトバに真実の権威、威力、意味をどの弟子よりも敏感に感じ取っていたのがユダだったように思われてくる。・・・彼は、師のコトバを受容することに戦慄を伴う畏れと恐怖を感じている。・・・


   
弟子たちの中で自ら意図して裏切りを行ったのはユダだけだった。・・・もっとも美しく、また聖らかで、完全を体現している、愛する師を裏切ったユダは、イエスの実相にもっとも近づいた弟子だったのかもしれない。その分、ユダの痛みは深く、重い。


 
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


 「姦通の女」の記述は、ヨハネ伝8章に詳しい。

 
この記述を読んで、「女」に自分を重ね合わせない者は少ないだろう。今日の私たちも彼女に「石」を投げることはできない。この「女」はイエスを裏切ったユダを象徴している。


 
誤解を恐れずに言えば、ユダは私たちを含む「人間」という、罪から免れることはできない存在の象徴でもある。


 ここで著者は 遠藤周作の小説 『沈黙』の最後の場面を引用する。棄教を迫られて踏み絵を踏んだ司祭がイエスと対話する場面だ。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせといわれた。ユダはどうなるのですか」
 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」


遠藤は、ユダを人類の代表者として描いている。ユダの裏切りは、いつもイエスの赦しと共にある。イエスは、人の弱さを裁く前に寄り添う。


 このブログでも書いたのだが、 故井上洋治神父 「遺稿集『南無アッパ』の祈り」のなかで、同じようなことを強調しておられたことを思い出した。

 某日刊紙の書評子によると「今、もっとも注目を浴びていると言っていい批評家」である若松英輔は、故井上神父を師と仰いでいる、という。

2015年6月 4日

読書日記「井上洋治著作集5 遺稿集『南無アッバ』の祈り」(日本キリスト教団出版局)


遺稿集「南無アッバ」の祈り (井上洋治著作選集)
井上 洋治
日本キリスト教団出版局
売り上げランキング: 148,798


昨春亡くなった故・井上洋治神父 の著作集を先月初めに、朝日新聞書評欄で見つけた。なつかしく、かつ正直ちょっと驚いた、というのが実感だった。


 もう50年以上も前のこと。大学を出て新聞社に就職、信仰からも教会から遠ざかっていた時期に、この著者の本を買い込んだ記憶がある。

 数年前から、2度の引っ越しをした機会にあふれかえっていた所蔵本を本棚ごと整理したのだが、わずかに残した書棚に、著者の本がなんと5冊も残っていた。
 カトリックの信仰が身につかず、それなりに悩んでいた時期に出合った著書をなんとなく捨てがたかったのだろう。

 しかし、この「『南無アッバ』の祈り」は、私が知らなかった井上神父が築き上げた世界を描き出したものだった。

 「著作集5」は、遺稿集と銘打っており、様々な講演、講話、対談集などが収められている。晩年に書かれた自伝的エッセイ「漂流――「南無アッバまで」のなかに、神父が見たある夢が記録されている。

 
 ある夜。神父は、中年の長い髪の女性に「長い間、お待ちしていました」と、暗い森が広がる道へと案内される。そこへ、突然大聖堂が浮かび上がる。神父はそこへ女性を連れて行こうとするが、女性は「このなかにははいれないのです」と涙を流す。


 「カトリック教会は、信者同士で結婚した場合、離婚を認めません。ですから私のように、信者同士で結婚してから離婚し、いまいちど好きな人ができて再婚した場合、国はその結婚を認めてくれても、教会は認めてくれません。ですから日曜のミサにあずかっても、祭壇に近づいてパンを頂く友人たちの後ろ姿を哀しい思いでながめるだけ。決して祭壇に近づくことはできず、一番後ろの席で涙を流しているしか仕方がないのです。あの森のなかには、そういう私の仲間たちが淋しく集まってお祈りをしているのです」


   1950年、東京大学を卒業した井上青年は、親の反対を押し切ってフランスの カルメル会男子修道院に入会しようと、豪華船「マルセイエーズ号」に乗り込んだ。暗い4等船室で、留学に行く遠藤周作とたまたま同室になった。

 修道院で井上修道士は、20世紀の有名なフランスの神学者、ジャン・ダニエルーの「過去をひきずりすぎているキリスト教は、もう現代人のからだに合わなくなっている。現代人のからだに会うように・、キリスト教という洋服を仕立て直さなければならない」という言葉に出会う。

 「既存のキリスト教がからだにピタッとこなくて、着にくいな、不愉快だな・・・そう思いながらじたばたしてきた」井上青年は、この「服の仕立て直し」が自分に課せられて大きな課題だと気づいた。

 1957年に帰国した井上元修道士(カルメル会を退会した)は、カトリック東京教区の神学生として受け入れられる。

 帰国してびっくりしたのは「日本のカトリック教会がすっぽりと浸りこんでしまっている、呑気というか平和というか、少し理解に苦しむ、とにかく何の問題意識すら感じられないその雰囲気であった」

 その当時の先進的なフランスのカトリック教会は、保守的なバチカンとの間のきしみもあり、まさに疾風にあおられたような危機感にゆれていた。そこから帰国してきた私は、危機感の一片すら感じられない日本のカトリック教会やローマ以上にローマ式に思えた神学教育に、ただ唖然とするばかりであった。
 「ヨーロッパ・キリスト教という豪華な、しかしダブダブの着づらい服を仕立て直さなければ駄目だ」などということを口にしようものなら変人扱いされそうな雰囲気のなかで、再び窒息感にとらわれた私は、一縷の望みをいだいて、遠藤周作さんを訪ねた。


 「生涯の同志」となった遠藤周作が「洋服の仕立て直し」の第一作ともいえる小説 「沈黙」を出版したのは、1966年の春だった。

 「沈黙」は、切支丹迫害時代、日本に宣教にやってきた宣教師ロドリゴが捕らえられ、精神的に追いつめられた末、踏絵を踏んでイエスを裏切り棄教する、という物語。このロドリゴの裏切りを、遠藤さんはイエスの一番弟子のベトロの裏切りと重ね合わせて措いていく。師イエスを裏切ったベトロは、自分を赦してくださっているイエスのあたたかな慈母のような慈愛のまなざしにふれて、神は、「言うことをきく者には限りない祝福を。しかし言うことをきかない者には、三代、四代までの呪いと罰を」という「旧約聖書」「申命記」にいわれているような父性原理の強い神ではなく、もっと裏切り者をも包みこんでくださる母性原理の強い神であることに目覚めていく。そのベトロのようにロドリゴも、師イエスが告げておられた母性の原理が強く、やさしくあたたかな神に目覚めていくという点が、ここでもっとも大切なのである。


                                    ′
 しかし、この「沈黙」が与えた影響は、キリスト教世界において、全く私たちの予想を大きく裏切るものとなっていった。
 「沈黙」に対して轟々たる非難、批判の言葉が降りそそいだのである。そしてその批判は、もっぱら次の一点に集中していた。すなわち、イエスが、踏み絵を前にしたロドリゴにむかって、「踏むがいい」と言ったという点に対してである。踏み絵を踏んでしまって痛悔したロドリゴをイエスが赦すのは当然としても、ロドリゴに棄教という悪行をイエスがすすめたりするわけがない、というのである。


 ・・・たしかに倫理的分野での一般論からすれば、イエスが罪となる悪行をすすめたり、命令したりするはずはない。その通りであろう。しかし、「最後の晩餐」の席上でのイエスのベトロに向けられたまなざしは、「お前がつかまって処刑されるのをこわがっている気持ちは痛いほどよくわかるよ。裏切ってもいいよ。私はあなたをうらみはしない。ガリラヤで待っているよ」という、母のような、ひろいあたたかな赦しのまなざしであり、ベトロに対してもユダに対しても、裏切りの行為を決して力ずくで止めようとなどなさっておられなかったこともまた確かである。〃イエスは一体何を私たちに告げたかったのか、イエスはその十字架まで背負った苦難の生涯で、何を私たちに語りかけていたのか......。もっと、しっかり「新約聖書」に取りくんで、それを知らなければならない"。これが遠藤さんの「沈黙」が私に投げかけた強烈な課題であった。


 聖書の勉強を続けるうちに、井上神父は「心の琴線をぎゅっとつかまえてかきならす」言葉に出会う。エレミアスとい著名な聖書学者が残した「イエスの示した神はアッバと呼べる神なのだ」という指摘だった。

「エレミアスによれば、アッパというのは、イエスが日常弟子たちと話していたアラム語という言語において、赤ん坊が乳離れをしたむきに、抱かれた腕の中から父親に向けて最初に呼びかける言葉であり、親愛の情をもって父親を呼ぶ言葉として、大人も使うという。」

 神は「旧約聖書」の「申命記」が語るような、嵐と火の中でシナイ山頂に降臨し、言うことをきかない者には三代、四代に及ぶまでの厳罰をくわえる神ではなく、赤子を腕のなかに抱いて、じつと悲愛のまなざしで見守ってくださっている父親のような方なのだと、イエスが私たちに開示してくださったのだということを、エレミアスによってアッパは教えてくださった。


 先週の日曜日、たまたまこの本を持って東京に出かけた。四谷のイグナチオ教会で「三位一体の主日」ミサを受けた。第2朗読で使徒パウロの「神の霊によって導かれた者は皆、神の子なのです。・・・この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ人への手紙8章14-15)が読まれた。

 イエス・キリストはまた、十字架の貼り付けになる前夜、 ゲッセマネの園で「アッバ、父よ」(マルコ書14章36)と、神に祈っている。

 やがて井上神父は「アッバの導きで、法然上人に出会う」ことになる。

 (四十三歳で京都に下山するまで、ひとり比叡山の黒谷の青龍寺で道を求めておられた(法然)上人を苦しめた課題、すなわち、"金のある人は寺にお布施をすることによって、頭の良い人間はお経を学ぶことによって、意志の強い人は戒律を厳守することによって救われよう。しかし金もなく、頭も悪く、意志も弱い人はどうしたら救われるのだろうか。ただ涙するしかないのか〃、というのがまさに上人から私の心に烈しく問いつめられてきた思いだったのである。
 上人のように、独り、暗い杉木立の道を、人々の哀しみや痛みや涙をともにするため自らの叡山を降りるべきなのか。
 私は辛かった。苦しんだ。そして、この問いをさけようと、浴びるように酒をのんだ。


  そして、このブログの冒頭に書いた「夢」を見る。

  2001年、故井上神父は「法然 イエスの面影をしのばせる人(筑摩書房)という本を書き、法然上人の生涯をこんな言葉で締めくくった。

 あるいは富がなく、あるいは学問がなく、あるいは強い意志がなく、あるいは女として生まれたことによって、救いの道をとざされていた人たちにただ一筋の南無阿弥陀仏によって救いの道を開き、国家権力、朝廷権力にこびることもなく、ついに最後まで無位無冠、墨染の衣一枚で生きぬいたその生涯であった。


 社会の下積みの生活に喘ぎ、そのうえ救いへの遺さえ閉ざされていた人たちの哀しみや痛みをご自分の心にうつしとり、救いの門をその人たちに開かれたため、あの孤独と苦悩と屈辱の死をとげられた、師イエスの生涯の真骨頂を、アッパは法然上人の生涯を通して私に示してくださったのだといまも私は信じている。


  1986年、井上神父は当時の東京教区の白柳誠一大司教(後の枢機卿)から、 インカルチュレーション(文化内開花)担当司祭としての任命書を受けた。
 ただし①カトリックの小教区教会では活動しない②ミサで使う言葉、少なくとも「奉献文」決して変えない、という条件がついた。

  神父は、マンションの1室を借りて、 「風の家」という活動を始めた。

  風の家で挙げられるミサでは「南無アッバ」の祈りが奉げられる。「南無」は法然の「南無阿弥陀仏」から取った「全面的にすべてをおまかせします」という意味だという。

  しかし井上神父の死後、ミサのなかでこの「南無アッバ」の祈りが唱えられることはほとんどなくなったらしい。

  井上神父は、著書でこう書いている。

 神は「モーセ五書」が伝えるような、厳しい「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」(お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の『創世 神は 「モーセ五書」が伝えるような、厳しい 「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」 (お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」 のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の「創世記」に記されているように「生きとし生けるものはすべて人間によって支配される」というもの(『創世記』一章二八節)ではなく、パウロが『ローマの信徒への手紙』八草で言っているように、同じ「キリストのからだの部分としてともに苦しみともに祈る」存在なのだということである。


高齢化社会に向かうなかで、カトリック教会は井上神父が「夢」に見た厳しい戒律を変えようとしない。社会が認知に向かっている同性愛につても結論を出せずにいる。


神は、井上神父が語っているように、ユダの裏切りもペトロの3度の裏切に対しても、直接言わなくても「裏切ってもいいよ」と、やさしいまなざしを見せている。それが「新約聖書」の正しい読み方ではないのか。そんな確信を強くした。


2014年9月30日

読書日記「海うそ」(梨木果歩著、岩波書店)



海うそ
海うそ
posted with amazlet at 14.09.30
梨木 香歩
岩波書店
売り上げランキング: 9,211


 今年の暑さには、年のせいかいささか参った。そこへ、風邪のヴィールスが悪さしたとかで、軽いふらつきがでるおかしな症状まで見舞われた。

 本は、けっこう読んでいるのだが、どうもブログに書く気が起こらない。

 この本も、図書館で2回目に借りたまま放置していたのだが、 著者の新作が出るというAMAZONのPRメールを見たとたん、なぜか急にこの本のページを繰り直す気になった。

 昭和の初め、K大学で人文地理学を研究する秋野は、南九州にある遅島を調査のために訪ねた。

 かなり大きな島で、以前には修験道の「紫雲山法興寺」という大きな寺院があり、一時は西高野山と呼ばれるほどの隆盛を誇った。しかし今では、木々と藪で覆われていた跡地とかっての地名だけが残っている。

 秋野は2年前に許嫁が理由も分からず自殺し、1年前に両親を相次いで亡くし、今年、指導教授を亡くしていた。そんな寂寞と孤独感のなかで、教授の残した報告書にあったこの島に心を惹かれたのだ。

 護持谷、権現川、胎蔵山、薬師寺・・・その地名のついた風景のなかに立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。


 照葉樹林帯の湿気と高温に囲まれたこの島には、様々な昔話伝説、風俗習慣が残っていた。

 宿を借りた老婆は話す。

 「昔は、こういう雨の日には、よく海から雨坊主がやってきて、縁先にずらりと並んでおんおん泣いていたというたもんやけど」・・・
 「しけのとき遭難した船子たちじゃね。こんな雨になると陸(おか)に上がりやすいがね」


 入江には、もともとアワビやウニをとるための小舟が、高齢者の島になって使われずに、風に曝されている。

 「こまい船やが、船霊(ふなだま)はちゃんとおるし、乗るときはちゃんと頼まんとあかんよ」
 「この島の、どこの船にも船霊がおるよ。船大工は船霊をつけて、仕事を終えるからねえ」
 「船のどこに」・・・
 「それは知ったらあかんの。けど船のどっかに入れてるねえ」・・・「女の子の髪やったり、歯やったり、いろいろやねえ」


 船で島を回ると、島の突端の小藪のなかに無理に壊された廃墟が見えた。

 「あそこは、モノミミさんがおいやったところじゃ」・・・  「病気を治したり、探し物を当ててもろたり、死んだ人からの伝言を伝えたり、そんなことをする人のこと」


 南西諸島の ユタ ノロに当たるものか、と秋野は思う。

 島の大寺院が跡かたもなくなったのは、明治初年前後の廃仏毀釈で壊されたためだった。

 「明治政府は神仏分離を宣言しただけで、廃仏毀釈までは指示していません。・・・が、長年仏教に下に見られることに屈辱を感じていた神道の関係者たちが、ここぞとばかりに暴走したのです」


 「政府は、ともかく浸透を国体として確固たるものにしなければならなかった。キリスト教とともに迫ってくるような諸外国に対しても、すっきりと論理的に説明できる力強い独自の宗教が欲しかった。そういう意味で、本当は、仏教より排除したかったものがあった」・・・
 「民間宗教です。この島でいえば、モノミミ、が、まずその標的になりました」

 法興寺の遺跡を訪ね歩いて、秋野は胸を引き千切られるような寂寥感に陥る。

 「空は底知れぬほど青く、山々は緑濃く、雲は白い。そのことが、こんなにも胸つぶるるほどにつらい」


 50年後、その遅島で一大レジャー開発計画が持ち上がる。次男がそのプロジェクトを担当していることを知り、秋野は島を訪ねる。

 そして開発の結果見つかった膨大な木簡のなかから、この島は平家の人々が都を落ちてきたところだった証拠を見つける。

 海岸に良信という僧がたった一人で奥深い山から石を切り出し、海岸に築いた長大な石壁は、追っ手から守る防塁だったのかもしれない。

 樹冠の緑から海へと視線を移すと、見覚えのあるものが、目に入った。遅島の人々は古来から「海うそ」と呼んでいた蜃気楼だった。

 揺らめい見える風景のなかで、白い壁が幾重にも積み重なり、長く連なっていた。それは、良信の築いた防塁のようにも見えた。

 「海うそ。これだけは確かに、昔のままに在った。」

  「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が増えていくことなのだ。・・・私の遅島は時間の陰影を重ねて私のなかに新しく存在し始めていた。・・・喪失が、実在の輪郭を帯びて輝き始めていた。」

2014年8月19日

読書日記「バルテュス、自身を語る」(聞き手 アラン・ヴィルコンドレ、鳥取絹子訳 河出書房新社)「バルテュスとの対話」(コスタンツオ・コスタンティーニ編、北代美和子訳 白水社)「評伝 バルテュス」(クロード・ロワ著、輿謝野文子訳 河出書房新社)


バルテュス、自身を語る
バルテュス アラン・ヴィルコンドレ
河出書房新社
売り上げランキング: 376,488

バルテュスとの対話
バルテュスとの対話
posted with amazlet at 14.08.19

白水社
売り上げランキング: 378,354

評伝 バルテュス
評伝 バルテュス
posted with amazlet at 14.08.19
クロード・ロワ
河出書房新社
売り上げランキング: 511,080


バルテュスの名前を友人Mに聞き、お盆前に京都市美術館で開かれている「バルテュス展」に出かけた。

 その主な作品は「バルテュス展」のホームページにある「展覧会紹介」コーナーに掲載されているが、事前に友人Mがネットで購入していた展覧会図録を見て「なぜこんな絵を」「バルテュスってなにもの?」と、驚きが入り混じった興味がつのってきた。

描くテーマの多くが、「夢見るテレーズ」「美しい日々」など、あどけない少女たちが胸を見せ、膝をあらわにしたポーズなのだ。

 当然、発表当初からこれらの絵を巡る賛否両論が渦巻いたらしい。

 しかし、京都での展覧会では、これらの少女像や風景画に引き込まれ、個人の展覧会としては2時間半という自分でも異例の時間を過ごし、不思議な感動に包まれて美術館を後にした。

 帰ってからも、バルテュスなる人物への興味はつきず、標題の本を買ったり、図書館で借りたりすることになった。

 最初の2冊は、作家やジャーナリストによるインタビューをまとめたもの、最後のは小説家による評伝だが、やはりバルテュス描く少女たちがテーマの中心になっている。

 
人は私が描く服を脱いだ少女たちをエロチックだと言い張りました。私はそんな意図を持って描いたことは一度もありません。・・・少女たちを沈黙と深遠の光で囲み、彼女たちのまわりに目がくらむ世界を創りだしたかった。それだから私は少女たちを天使だと思っていました。(「バルテュス、自身を語る」より)


バルテュスは同じ本で「私はこれらの少女をたちとはつねに自然に、下心なく共謀してきました」とも語っている。

 「バルテュスとの対話」のなかで、バルテュスはここまで言い切る。

 
人がわたしの絵のなかに見出すエロティシズムは、それを見る人間の目、その精神、あるいはその創造力のなかにあるのです。聖パウロは言っています。淫らさは見る者の目のなかにある、と。


 
――あるフランスの雑誌によると、描いたのは天使だけだとおっしゃったそうですね。ほんとうですか?
 バルテュス ええ、そうだと思います。
  ――ちょっと淫らな天使たち?
 バルテュス なぜです?淫らなのはあなたのほうですよ!どうして天使が淫らになりえるでしょう?天使は天使なのですから。・・・わたしは宗教画家です。


 ただ、少女を「挑発的に描いた」ことが1回だけある、という。

1934年にパリ・ピエール画廊での個展に出された「ギターのレッスン」。「あまりにスキャンダラス」という批判が出るのを心配した画廊主は、この絵をカーテンの後ろに隠し、一部の人にしか見せなかった。

 
「ギターのレッスン」が引き起こしたスキャンダルは計画されたものでした。わたしはあの絵を、スキャンダルを呼ぶために描き、展示しました。ただお金が必要としていたからでしたが、私はすぐに有名になりたかった。残念なことに、あのころパリで有名になる唯一の方法はスキャンダルでした。(「バルテュスとの対話」より)


 バルテュスは、風景画「樹のある大きな風景」に見られるように、光を大切にする"光の画家"でもあった。

 
光を待ち構えることを学ばなければなりません。光の屈折。逃げていく光、そして通りすぎる光、・・・今日は絵が描けるかどうか、絵という神秘のなかで前進しているものが深まるかどうか。


 
毎朝、光の状態を見つめます。私は自然な光でしか描きません。・・・空の動きに合わせて変化し、ゆらめく光だけが絵を組み立て、光沢を与えます。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 
朝早く、まだ人びとが眠り、村を重い沈黙が支配するときには、美しい光があります。しかし、わずかの時間しか続かない光だ。・・・この冬のようにロシニエールに雪が降るとき、光は特別です。クリスタルのようで、純粋で、目を眩ませる。しかし、それははかない光。蜃気楼のように、わずかの時間しか続かない奇跡です。(「バルテュスとの対話」より)


 バルテュスは、光と同時に素描(デッサン)を大切にした。

 京都での展覧会では、生涯の友人だった彫刻家、アルベルト・ジャコメッティを描いた「アルベルト・ジャコメッティの肖像」など、多くの素描を見ることができた。

 
夢見る少女たちの顔やポーズをさまざまにデッサンする。私にとってこれ以上厳しい課題は見当たりません。・・・愛撫のように優しくデッサンするなかで、すぐに消えゆく子供時代の優美さ・・・を見いだす。・・・まだ何も知らない卵形の顔、天使の顔に近い形を、黒鉛で紙の上に見いだそうとする。


 
デッサンの仕事は絵より厳しく、おそらくより神秘的で、火、真っ赤に燃え上がる火にたどりつくことを意味します。ときに数本の線だけで火は奪われ、とらえられ、いまにも消えそうな状態でも、かすかに見てとれる閃光でもつかまえられる。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 
「常に素描(デッサン)をしなければなりません。鉛筆ではできないときは眼で素描(デッサン)しなければなりません」。・・・彼は、同時に、形態を「撫でる」ために、そして理解するために、そしてその形態と結ばれるために、そしてその形態を見抜くために、接触の暖かさそして知性の精密さを得るために、素描をするのである。(「評伝 バルテュス」より)


   バルテュスは、若い時からルーブル美術館などに通い有名画家の作品の模写を繰り返した。特に、14-16世紀に画法の中心だったフレスコ画に興味を持った。13歳の時にスイスのトウ―ン湖を望む小さな教会にフレスコ画を描こうとしたこともある。

 イタリア・フレンツエのサンタ・マリア・ノヴェラ教会パオロ・ウッチェツロ作やアッシッジのサン・フランチェスコ教会上・下院にあるチマブーエジョットの絵に「雷に打たれた」ようになり、模写を繰り返した。

 
油彩の持つ艶に対しては、つねになにか耐えがたいものを感じてきました。そのために50年代からカゼアルティ(カゼインに石灰を混ぜたもの),卵白のテンペラを使い始めたのです。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 バルテュスが若いときから学び、身体に染みついたフレスコ画の技法は、後年、バルテュスが、当時のフランス文化相だったアンドレ・マルローに委嘱されてローマに於けるフランス芸術の拠点、 ヴィラ・メディチ(メディチ館)の館長になり、すぐに始めた同館の壁の修復に生かされた。

 
メディチ館の壁面や建物の塗装にたずさわった職人たちは、バルテュスの式や数々の試みにあらわれた正確さ細やかさにすっかり敬服した。「バルテュス塗り」などというのは、二、三の塗料を混ぜ合わせてから、スポンジを使って塗る面にたたきつけたり、はけで軽く染みこませていく。そのようにして得られるのは、内にこもった振動のような感覚、表面が生きている感覚を与える彩りである。(「評伝 バルテュス」より)


 京都の展覧会での話題作品の1つが、「朱色の机と日本の女」だったが、じっくり見て驚いた。

図録では、ただ白い絵具を塗ったとしか見られなかった「日本の女」の肌が、ザラザラとした立体感のあるフレスコに似た画法で描かれていたのだ。

 この絵については、こう書かれている。

 
《朱色の机と日本の女》はバルテュスの仕事のなかで、遠近法に支配された西欧絵画と、造形的要素や色彩が奥行より重きを置かれる中国的・日本的宇宙観との間の縫目をなしている。この際の背景とモデルは、それまでにもけっこう豊富な可能性を示していた芸術家をして、新たな表現方法や新たな側面を実験させる気分にならせた。・・・ 節子、それがその人の名だった。(「評伝 バルテュス」より)


    節子とは、旧姓・出田節子さん。「朱色の机と日本の女」のモデルでもある。

 バルテュスと結婚し、その死後も2人が愛したスイスの木造建築「グランド・シャーレ」に住み、バルテュスから指導を受けた画法で絵画を描き続けている、という。

 バルテュスは、表題の著書のいくつかで、こんな言葉を繰り返している。

 
わたしは「芸術家」という言葉が大嫌いです。漫画『タンタン』(バルテュスが娘の春美さんが小さかった頃に一緒に見た本)に登場するアドック船長が使う最上級の侮辱語は「芸術家!」です。ピカソもまたこの言葉を毛嫌いしていました。「わたしは芸術家ではない、画家だ」と言ったものです。わたしも同じことが申せます。わたしは画家、あるいたよりよく言えば職人です。


 ピカソは、かなり年下のバルテュスを「二十世紀最後の巨匠」と高く評価、後にバルテュスの作品「ブランシャール家の子どもたち」を購入している。この作品は現在、フランスのパリ・マレ地区にある国立ピカソ美術館が所蔵している。

 「バルテュスとの対話」の最後は、こんな独白で終わる。「死を恐れない。私はカトリック教徒です。(肉体の死を越えた個人の来世を)信じていると思います」

 
人は神を想像したりしません。どうやったら生命を想像できるのです?神がわれわれを取り巻く現実に、自然のなかに、物と世界の美のなかに、現在それらになされている破壊にもかかわらず存在しています。神がその創造の驚異すべてを廃墟へ追いやるとお決めになった、そう思うことはわたしにはどうしてもできません。


  ▽ (付記)
朝涼やバルテュスの光こもれきて


2013年12月15日

読書日記「イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」(ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳、みすず書房)、そして映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告
ハンナ・アーレント
みすず書房
売り上げランキング: 2,947


  一昨年、ポーランド・アウシュビッツを一緒に訪ねた友人に先日、映画 「ハンナ・アーレント」を見ることを勧められ、大阪で鑑賞した。

  事前に渡された新聞広告には「ナチス戦犯アイヒマンの裁判レポートに世界が揺れた」とあったから、単にユダヤ人大虐殺の張本人と言われてきた アドルフ・アイヒマンを告発する映画だと思ったが、とんでもない勉強不足だった。

  見終わった後、友人は「思わず拍手をしたくなった」と話したが、私も同じ思いを持ったすごい作品だった。

 まったく知らなかったが、 ハンナ・アーレントは、かってユダヤ人収容所から逃げ出した経験があり、アメリカに渡って十数年かかってアメリカ国籍を取った。小惑星に彼女の名前がつけられたり、ドイツ切手の表紙にもなったりしたことがある著名な政治学者だ。

 1960年、アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでイスラエル防諜特務庁(モサド)に捕まり、エルサレムで裁判が行われた際、雑誌 「ザ・ニューヨーカー」に傍聴レポートを書いた。

  そのレポートが「世界を揺るがせた。

 
アイヒマンは、単に上の命令に従っただけの凡庸な官僚で、悪の無思想性、悪の陳腐さを持った人間でしかなく、反ユダヤ主義者でもなかった。


 
一部のユダヤ人組織のリーダーが、少数のユダヤ人を救うためにナチに協力し、それが450万人とも600万人ともいわれるユダヤ人大虐殺につながった。


 この2つの記述が、迫害で生き残ったユダヤ人だけでなく、迫害した側にいた非ユダヤ人を含めた人々の怒りを買うことになる。これに対し、ハンス・アーレントは「考えることで人間は強くなる」という強い意志と主張を、友人を失いながらも果敢に貫く。そのシナリオが観衆の感動を呼んでいく。

 この映画には種本があるにちがいないと鑑賞後、売店でパンフレットを買い、表題の 「イエルサレムのアイヒマン」を知り、伊丹市立図書館で借りることができた。2冊も同じ蔵書があった。

 解説を含めても250ページほどの本だが、なんとも難解。一度はあきらめかけたが、どうしても気になり第一章「法廷」、第二章「被告」、第三章「ユダヤ人問題専門家」のほか、各章、エピローグ、あとがきをなんとか拾い読みして著者の.意図がおぼろげに浮かびあがってきた。

   最初に著者は、アイヒマンを(国際法上)不法逮捕したイスラエルの当時の首相 ベン・グリオンの言葉を紹介する。

「数百万の人間がたまたまユダヤ人だったために、百万もの嬰児がたまたまユダヤ人だったために、ナチスの手によっていかにして殺されたかをわれわれは世界の諸国民に明らかにしたいと思う」


   しかし世間の常識では当然とも思えるこの意図は、裁判を傍聴した著者がレポートに示した「悪の陳腐さ」という思いもよらない分析によって、成就できなかったことが明らかになる。

  さらにベン・グリオンは、語る。

「あの大虐殺の後に成長したイスラエル人の世代は、ユダヤ民族への連帯、ひいては自らの歴史への連帯を失う危機に曝されている。・・・必要なのは、わが国の若い世代の人々がユダヤ民族に起こったことを想い起こすことである。われわれの歴史上の最も悲劇的な事実を彼らが知ることをわれわれは、望んでいる」


  この意図も、ある意味で失敗したことも、著者は的確に指摘していく。

  第1に指摘した事実について、著者はアイヒマンの裁判の記録を詳細に検証、自らの考えを明らかにしていく。

「ユダヤ人殺害には私は全然関係しなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない―ーそもそも人間というものを殺していないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人の殺害を命じたことはない。・・・たまたま、私はそんなことをしなければならない立場になかったのです」


 アーレントは、こう分析する。

 
彼は常に法に忠実な市民だったのだ。・・・今日アイヒマンにむかって、別のやりかたもできたはずだと言う人々は、当時の事情がどうだったかをしらぬ人々、もしくは忘れてしまった人々なのだ。


 
もっと困ったことに、あきらかにアイヒマンは狂的なユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ主義の持主で・・・なかった。・・・反対に彼はユダヤ人を憎まない〈個人的な〉理由を充分に持っていたのだ。・・・身内にユダヤ人がいることは、彼がユダヤ人を憎まない〈個人的な理由〉の一つだった。彼には、ユダヤ人の愛人さえいた。


 
俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。


 
彼は愚かでではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。


   ハンナ・アーレントの第2の論点については「裁判の記録を述べただけだ」と、あまり多くの記述はない。

  アイヒマンが遇ったユダヤ人のうち最大の〈理想主義者〉は ルードルフ・カストナー博士だった。アイヒマンは彼と・・・次のような協定に達した。すなわち、数十万の人々がそこ(ハンガリア)からアウシュヴィッツへ送り出される収容所のなかで〈平静と秩序〉を保たれるならば、その代償としてアイヒマンは数千人 のユダヤ人のパレスチナへの〈非合法〉の出国を許す・・・というのである。この協定によって救われた数千人の人々は、つまりユダヤ人名士や シオニズム青年組織のメンバー・・・であった。

   「ナチスとシオニストの協力関係」というネット上の記述を見ると、エルサレムに独立国建設をめざしたシオニズムのメンバーが、世界各地に ディアスポラ(難民移住)しているユダヤ人がその地に同化するのを恐れて、ナチと手を結んだ、とある。

  ハンナ・アーレント関連の著書を調べると、びっくりするほど多くの文献がでてくる。伊丹図書館の蔵書から「ユダヤ論集 1 反ユダヤ主義」「同 2 アイヒマン論争」と、1冊3,400ページ近い大著を借りることができた。

  いずれも、アンナ・アーレントと論者との対談で構成されているが、このような本まで1つの自治体の図書館に所蔵されている事実にいささか驚いた。

  「アイヒマン論争」のなかで、アーレントは「世界は沈黙しなかった。しかし、沈黙したままでなかったことを除けば、世界はなにもしなかった」と語る。

  さらにアーデントは、表題の著書で国際法上 『平和に対する罪』に明確な定義がないことを指摘し、ソ連による カティンの森事件やアメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している。

  この映画の最後には、アーレントが学生たちにむけて講義する感動的なシーンが映される。

 
「彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこに罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。・・・"自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけだ"と」


 
「こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名付けました」


人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。・・・"思考の嵐"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。ありがとう」


  考え、想いをめぐらせる・・・。本もいいけれど、映画もいい。「ありがとう」

2013年9月20日

読書日記「四つの小さなパン切れ」(マグダ・オランデール=ラフォン著、高橋啓訳、みすず書房刊)


四つの小さなパン切れ
マグダ・オランデール=ラフォン
みすず書房
売り上げランキング: 130,851


 この本は、昨年5月のポーランド・ アウシュヴィッツ訪問に同行してくれた若い友人Yさんが自分のブログでふれているので知った。
 Yさんは、あの旅行を自分の人生のなかでかみしめようとして、この本に出会ったのだろう。図書館で、さっそく借りた。

 訳者によると、ハンガリー生まれのユダヤ人である著者は、 アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に収容された家族のなかでただ1人生き残った。しかし、長い間そこでの体験を封印してきた。「語りはじめるには、まず自分自身について勉強し、自分の人生に意味を与えるところから始めるしかなかった」
 ベルギー、フランスへと渡り、教職の資格を取得し、心理学を修めた過程で彼女は自らの意志でカトリックの洗礼を受けた。アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所での「パン」の経験が、福音書のなかにある言葉とつながったからだ。

 そして、解放されて32年後に沈黙を破って刊行されたのがこの本の前半の「時のみちすじ」。周囲の人たちは驚いた。「いつもほほえみをたやさない明るいマグダさんが、こんな壮絶な過去を持っていたなんて」
 これを機会に彼女は地元の中高校生に自分の体験を語るようになった。その後に書かれた後半部「闇から喜びへ」を加えて、マグダさんが85才の昨年、この本が上梓された。

 「時のみちすじ」「闇から喜びへ」でも、マグダさんは過去の経験を詳しく語ろうとはしない。短い詩と文章で1篇、1篇が構成されている。
 彼女の体験は、巻末に2人のインタビューヤーなどによる「著者の生きた時代について」に詳しく掲載されている。

 炉がはぜる。
 空は低く、灰色と黄色に染まっている。
 風に舞い散る彼らの灰をわたしたちは吸う。
 あれから三十年
 わたしは自分の記憶のぶ厚い壁に穴を開け、揺する。
 希望をほしがっていたたくさんのまなざしが
 ほこりとなって
 消えてしまわないように。(時のみちすじ・まなざし)


 1944年春。ハンガリーから毎日1万2千から1万5千ものハンガリーのユダヤ人がビルケナウ収容所に貨物列車で送り込まれた。すでに収容されていた1人が命がけでなんどか列のなかに入ってきて、唇を動かさずに「おまえは18歳、18歳だからね」というのをマグダは耳にした。
 年齢をたずねられた16歳のマグダは「18歳」と答えた。18歳以上の若い女性は、労働に耐えられるだろうからと右の列に、母と妹は左に行かされた。
 家族の行方をたずねるマグダに女性のブロック長は、炎と煙が見える火葬場の煙突を指さし答えた。「もうあそこに入っているだよ・・・」

 厳しい労働が続いた。バラックの周囲の遺体を集め、人間の遺灰を荷車で近くの湖まで運んだ。マグダは何度もこの湖に身を投じようと思った。

 「生きることを信じよう。絶望を払いのけよう。・・・弱い人はここでは生きていけない。わたしたちは生きのびなければならない。わたしたちには生き証人が必要なのよ」
 これは、見知らぬ修道女の口から出た言葉だった。この言葉は、わたしの心の奥に根を下ろし、衰弱したときに生きる力を与えつづけてくれた。(時のみちすじ・生きる)


 
 (労働に駆り出された帰り)ゴール兼スタートの正門まで、わたしたちは駆けていかなければならない。それは、わたしたちがまだ労働に耐えられるかどうかを調べるための日課のようなものだ。・・・わたしたちは走る、恐怖で麻痺したまま。・・・鞭や杖でぶたれないように、犬に噛みつかれないようにするために、ドタ靴や木靴は捨てる。・・・死に至る選別。(時のみちすじ・足)


 瀕死の女性が合図を送ってきた。手のひらに黴びた四つのパン切れ、かろうじて聞き取れる声で、わたしに言った。「ほら、これをあげる。あんたは若いんだから、ここで起こったことを証言するために生きておくれ」。わたしは四つのパン切れを受け取り、彼女の目の前で食べた。見つめる彼女の目のなかには、善意と自棄の両方があった。わたしは若く、この行為とそれを支える重みをどう受け取ればいいかわからず途方に暮れた。(闇から喜びへ・わたしの人生の意味)


 8月の点呼のとき、自分のいる列に並ぶ人々の背中と足取りが衰弱しきっているのを感じ、マグダはこっそり隣の列に移り、ガス室に行くのをまぬがれた。

 収容所にいたときは、自分の身に何が起きたかを理解しようと思ったことはない。直感の声に耳を傾けながら、本能的に状況に合わせていただけだった。直感とは生のもつ知性だ。わたしたちのなかから出てくるものではないけれども、光のほうへ導いてくれる霊感。(闇から喜びへ・直感)


 フランクフルトに近い収容所で、鉄路に沿って枕木を地面に固定する作業をさせられた。

 親切はたびたびわたしを訪れた。・・・(靴を盗まれてしまい)・・・凍りついた足の痛みはおそろしいほど生き生きとしている。・・・(労働者でもある看守の)男が、人目の届かない焚き火の近くまでわたしを連れていき、新聞紙を丸めて、わたしの足をこすった。・・・バッグから木靴を一足取り出し、わたしにはかせた。この無償の行為によって、彼はわたしを生かしてくれると同時に、自分のいのちを危険にさらしたのだ。(時のみちすじ・親切な看守)


 女性たちは徒歩で出発した。徒歩のグループにはマグダも含まれていて、四人のハンガリー出身の女性たちとともに隊列から逃れることに成功した。彼女たちは近くの森に六日間隠れていた。・・・たまたまアメリカ軍の戦車が森の縁で止まった。・・・ほとんど骸骨同然に痩せこけ、疥癬(かいせん)に蝕まれ・・・。

 一九四五年五月、四人の収容所仲間といっしょにベルギー・ ナミュール駅に到着したとき、わたしたちを待っていたのはパンだった。いい香りがした。思わずパンに向かって満面の笑みを送った。喜びが心に満ちていた。(闇から喜びへ・再生)


 あるとき、適当に聖書のページを開き、マタイ福音書の第二十五章〔三十五説から三十六節〕を読んだ。ふいに感動がやってきた。「わたしが飢えていたとき、あなたは食べ物をわたしにくれた。渇いているときに飲み物をくれた。裸でいるときは、服を着せてくれた」
 わたしは心でつぶやいた。「ここにわたしの知り合いになりたいと思う人がいる」。それ以来〈彼〉はずっとわたしといっしょにいる。(闇から喜びへ・神の顔)


 わたしは確信している。神よ、あなたは ショアを望んだわけではなく、わたしたちひとりひとりの苦しみはあなたご自身の苦しみであったことを。
 幾多の戦争の、あらゆる兄弟殺しの責任を負うべきは、わたしたちがつくり出す偽の神なのだとわたしは思う。(闇から喜びへ・希望の熱烈な支持者)


 昨年、アウシュヴィッツで感じた 「神の沈黙」への疑問に対する答えがここにあった。

 

2013年3月22日

読書日記「葬られた王朝―古代出雲の謎を解くー」(梅原 猛著、新潮文庫)


葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫)
梅原 猛
新潮社 (2012-10-29)
売り上げランキング: 14,515


 昨年末、松江に「松本竣介展」を見に行くのを機会に「出雲大社」に寄ってみようと思った。

 ちょうど大社周辺では、古事記編纂1300年などを記念して 「神話博しまね」が開催されていることも知り、事前に古代出雲や神話の本を読みあさった。

 これほど多くの関連本があふれているとは・・・。考古学者や歴史学者、博物館の学芸員、出雲国造と呼ばれる宮司、街の学者といわれる人などが、口々に「出雲王朝は現存したが、大和王朝に抹殺された」「出雲に支配勢力など存在しなかった」「いや実は、ヤマトをつくったのは出雲人」などと、てんでに主張している。

 そんななかで遭遇したのが、表題の本。分からないままに3回ほど読み返し、古代出雲王朝と古代神話とのつじつまが合うように思えて、古代出雲への興味が深まっていった。

 実はこの本の「はじめに」でふれているように、著者は40年ほど前に刊行した「神々の流竄 」 (集英社文庫)に記載したことが誤りであったことを自ら証明するために、表題の本を書いたと告白している。

神々の流竄 (集英社文庫)
梅原 猛
集英社
売り上げランキング: 30,532


    「神々の流竄 」で梅原氏は「出雲神話は大和神話を出雲に仮託したもの」と主張した。古事記には、出雲神話が全体の3分の1を占めているが「出雲」という国や勢力が実在したわけではなく、出雲神話は大和の政権内で起きた数々の事件を、出雲の地に置き換えて語っている、としたのだ。

 これでは「出雲神話ばかりか、日本の神話そのものを全くのフィクションと考える津田左右吉の説と変わりがない」。戦後の歴史家の多くもこの説を採用し続けた。
 それは「出雲には神話にふさわしい遺跡がない」ことも根拠になっていた。

 ところが、出雲では考古学上の大発見が相次いだ。1984年、85年には、出雲市斐川町の荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が見つかった。銅剣の本数は当時の国内出土総数を上回る数である。1996年には、荒神谷遺跡から山を隔てて3キロ強しか離れていない雲南市加茂町の 加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見された。これまた日本最大の銅鐸出土数であった。

 そこで梅原氏は「学問的良心を持つ限り、出雲神話が全くの架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならない」と、古事記に書かれた神話がいかに考古学的遺物によって裏付けられるかを確かめるために出雲への旅に出る。

 筆者はまず「出雲王国は スサノオから始まった」と、 「ヤマタノオロチ」伝説の分析から始める。

 古事記には、次のように書かれている。

   「その目はほおずきのように赤く、八つの頭と八つの尾があり、その身体には苔と 槍と杉が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にも渡るほどで、その腹はい っも爛れています(抄訳・筆者)」

 
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。・・・ヤマタノオロチとは、人民を苦しめる強くて悪い豪族を指すのかもしれない。出雲王国の交易範囲は、西は朝鮮半島・ 新羅から東は(こし、現在の北陸地方)に及んでいた・・・。そしてこの越の国からやってきた豪族が出雲の山々を支配し、・・・人々を苦しめていたのではなかろうか。その強く悪しき越の豪族ども、すなわち「高志の八俣のをろち」に、スサノオは酒を飲ませ、油断させ、皆殺しにしたのではなかろうか。


 スサノオから数えて6代目の子孫である 国津神 オオクニヌシ「国引き神話」について、著者はこう解説する。

 オオクニヌシは、朝鮮半島・新羅の岬や隠岐、越の国から余った土地を引いてきて現在の島根半島を完成させた、というのが「国引き神話」の骨子。

 
この国引きをどう考えるかは問題だが、それは、かつて島であった島根半島が海面下の地盤が隆起によって本州と陸続きになり、また火山灰が堆積するなどして陸地が飛躍的に増えたことを祝賀する話であると考えるべきであろう。
 日本列島において海面が最も高くなった縄文海進は、今から約六千年前のこととされる。その後、時間の経過とともに海面下の地盤が隆起し、火山灰が堆積して現在のような広大な平野ができたと考えられている。ちょうどその頃が弥生時代にあたり、出雲の稲作農業に携わった当時の民衆は耕地が増えたことを心から喜んだに違いない。


 「因幡(いなば)の素兎(しろうさぎ)」という話しには「他愛のないメルヘンではあるが、・・・政治的な意味合いが含まれている」と、梅原氏は見る。

 
ウサギが住んでいたのは隠岐島であるが、対岸の因幡の地は鳥取の 妻木晩田(むきばんだ)遺跡が示すように、豊穣な地であり、農業文明が繁栄していたとかんがえられる。そのような本土の地を、繁栄とはほど遠い隠岐島に住でいた素兎は羨望し、なんとか海を越えて本土に渡ろうとしたのであろう。その手段として、ワニを欺いたわけである。しかし、最後まで嘘を貫けばよかったのに、どこか正直者で嘘をつけない素兎はつい本当のことをしやべってしまった。
 これは、隠岐島から本土へ移住しょうとする島民と、その移住を手伝った船頭との間に起きたトラブルを思わせる話である。


 その後、出雲の王国を継いだオオクニヌシは、越も支配し、日本海沿岸に強大な勢力を持つ大国となり、続いて南進して、ヤマトを征服しようとする。
 このヤマト征服の旅は「オオクニヌシの大勝利に終わったことは間違いない」と著者は語る。

   
関西周辺の地域には、オオクニヌシおよび彼の子たちを祀る神社や「出雲」の名を伝える場所がはなはだ多い。・・・
古くはヤマトも山城も出雲族の支配下にあり、この地を多くの出雲人が住んでいたとみるのが、もっとも自然だろう。


 しかし、オオクニヌシの出雲王国は、内部分裂と韓の国からきた アメノヒビコという強力な神に追い詰められて崩壊の危機にたつ。そして、ついにヤマトから使者がやってくる。
  「国譲り」神話である。

 オオクニヌシは、大きな大社を建造することを条件にお隠れになる。

 梅原氏は「隠居」とも「稲作の海に隠れた」とも書いている。"自決した"という事かもしれない。

 次に梅原氏は、さきに書いた荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で出土した青銅器が、どのような形でスサノオ、オオオクニヌシの「出雲王朝の歴史に結びつくのか」を考えるために調査を続け「銅鐸の起源は出雲にある」という結論を得る。

 そして「これほど大量の青銅器を所有したのは地方の豪族であるか、それとも王であるのか」と、考古学者や歴史学者に問いかけた、という。

彼らはしばらく沈黙し、首を傾げながら「王としか考えられませんね」と答えた。王だと言えば、私とともに彼らが今まで信じていた「出雲王朝は存在しなかった」という説は覆ってしまうのである。・・・これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく出雲王朝の大王であり、おそらくオオクニヌシといわれる「人」であったに違いない。


 さらに「荒神谷遺跡などから出土した銅器に『☓』印がついているのは、死者に贈られたものの印だろう」とする一方、こんな推論をしている。

荒神谷遺跡は 「出雲風土記」に記された ヤマトタケルの家来が住みついた地であった。それは出雲の神の反乱を恐れたヤマト朝廷が派遣した進駐軍のような軍隊であったと思われる。おそらくそこはかつてイズモタケルが住んでいたところで、イズモタケルは、『古事記』 が語るようなオオクニヌシ政権崩壊後もなお細々ながら十七代紋いた出雲王朝の最後の王であったのではなかろうか。とすれば、そこはかつてオオクニヌシの住んでいた宮殿があったところである。そしてその町外れの小さな丘の中腹に、オオクニヌシの大切にしていた青銅器を埋めて、黄泉の回の王となったオオクニヌシに贈り届けようとしたものと考えてもおかしくはない。


 ちなみに、現在オオクニヌシが祀られている出雲大社は、荒神谷遺跡から西北に10数キロのところにある。

▽その他、参考にした本

  • 「出雲と大和」( 村井康彦著、岩波新書、2013年1月刊)
      大和の中心三輪山に出雲系の神が祭られていることなどを理由に「出雲勢力は早くから大和に進出し、< 邪馬台国も出雲人が立てたクニだった」という新説を打ち出した。
      著書には、茶の湯などいわゆる京都学のものが多いが、突然の"古代史"帰り・・・?。

  • 「出雲大社の暗号」( 関 裕二著、講談社刊)「『出雲抹殺』の謎」(同、PHP文庫)
      著者は、独学で日本古代史を研究した歴史作家。「出雲を解くヒントは、祟りである」と書く。

  • 「出雲の古代史」(門脇禎二著、日本放送教会刊)「古代日本の『地域王朝』と『ヤマト王朝』(上)」(同、学生社刊)
     著者は、京都府立大名誉教授の歴史学者。「1世紀ごろスサノオに率いられた朝鮮の東海岸から渡来した新羅人系統集団 "スサ族" が先住の 海人族を駆逐、2世紀には出雲の砂鉄地帯を占領した」と解説している。

  • 「『出雲』からたどる古代日本の謎」(瀧音能之著、青春出版社刊)
     著者は、日本子古代史が専門の駒沢大学教授。「出雲と九州・宗像との親密な関係」についての記述が興味をひく。「ヤマト王国が出雲にこだわったのは、新羅を仮想敵国と見ていたから」とも。

  • 「古代史コレクション⑧ 古代史を疑う」(古田武彦著、ミネルヴァ書房刊)
     著者は、高校の教師を長く勤めた異色の古代史研究家。「古代、中世には多くの王朝が並列していた」という 「多元王朝説」を展開している。

     

2013年1月 5日

読書日記「松本竣介 線と言葉」(コロナ・ブックス編集部編)「『生誕100年 松本竣介展』図録」(岩手県立美術館など編) 出雲紀行・上「島根県立美術館・松本竣介展」


松本 竣介 線と言葉 (コロナ・ブックス)

平凡社
売り上げランキング: 15,919



ネット検索をしていた昨秋、盛岡の 岩手県立美術館(盛岡市)で開かれた画家松本竣介の生誕100年展を知った。
 ちょうど東北ボランティア行を計画していた時期だったが、残念ながら盛岡の会期は終わり、松江市に巡回していた。

 本屋で買ってきた 「新潮日本美術文庫45 松本竣介」(日本アート・センター編)で、青を基調にした清逸でいて透明感のあふれた色調に引かれた。矢も楯もたまらず、友人Mらと昨年11月の連休に松江市に飛んだ。

 2日の夕方、空港から宿に向かうバスの窓から宍道湖に映える夕日のなかに浮かびあがった会場の島根県立美術館を見る僥倖に恵まれた。この 「夕日の見える美術館」は、湖岸の芝生から夕日を楽しんでもらうために閉館時間を「日没後30分」にするという、自治体としてはなかなかシャレたことをしている。

 翌日朝、松江大橋の北端にある宿から美術館までは、整備された宍道湖畔の遊歩道を歩いて20分弱。開館時間の少し前に会場に入ることができた。

 竣介は、旧盛岡中学1年の時に、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失ったことをきっかけの一つとして画家を志すようになったが、昭和4年中学を3年で中退し上京してしまう。

建物;クリックすると大きな写真になります このため、広い会場に展示された作品に、盛岡時代の作品は少ない。すぐに、透明感のある青い絵の具の上に、太い黒い線で形どられた 「建物」(1935年、福島県立美術館蔵)や「婦人蔵」(1936年、個人蔵)などが並んでいる。

 素人目にも明らかに、ルオーやモヂリアニの影響が見てとれる。

 竣介自身「モヂリアニが好きになったのも理由の一つは、量を端的に握んでゐる天下一品の線の秘密にあった」「モヂリアニの作品は、長いこと私を翻弄した。実際困った程だった」と記している。

 竣介は「線に生きた」画家だった。「線は僕の気質などだ、子供の時からのものだった」という言葉が「松本竣介 線と言葉」のなかにある。同時に「線は僕の メフストフェレス(悪魔)なのだが、気がつかずにゐる間僕は何も出来なかった」という言葉も引用されいる。

 岩手県立美術館の原田光館長は「『線描家』序説」(「松本竣介 線と言葉」より引用)という短文に、こう書いている。

 
烏口で引いた硬質の線、何度でもなぞり返して生まれる細線の束、太線の流動、子どもの絵にでてくるような奔放な線、それぞれの線の質を生かすため、青の加減の目くばりがさえたとき、線は街になり、街歩きする人々の姿へと転じる。竣介は無闇な線描家ではない。したたかな計算によって線を生かす工夫に余念がない。デッサンを繰り返してからでないと画家竣介の基本の確立であったろう。

白い建物;クリックすると大きな写真になります
 「線の画家」竣介は、同時に「青の画家」でもあった。

 作家堀江敏幸が自著「郊外へ」(白水Uブック刊)の表紙カバーに竣介の 「白い建物」(1941年、宮城県立美術館蔵)を選んだ理由について「線と言葉」の冒頭文に書いている。

 
空の青みは、中央を左右に横切る高架線のホームの上、画面の四分の一ほどにすぎず、残りを占めているのは、建物の壁だ。白、灰色、茶色、黒、灰緑色。粗塗りのようでいてそうではなく、面で捉えられているようでいて、そのじつ線のリズムがすべてを支えている。青はいたるところ沁みだして白を上書きし、灰に溶け込み、さらにまた藍鼠や桝花に変化する。鉄骨のいかにも重そうな建造 物なのに、海に浮かぷ空っぼの貨物船を思わせる相対的な軽みがあり、人の気配を消しつつ負の印象を与えない。この絵を措いている(私)は、幾度も表面を削られ、また絵の具を乗せられて出来あがった見えない多重露出像となって、青と同様、壁のいたるところに在しているようだ。
  画布ではない板の堅さと、透明な絵具を溶いて薄め、乾いている絵具の上に薄く塗って膜をつくるグラツシの技法が硬質な輝きをもたらしている反面、青を水槽のガラスにうっすらと張り付いた苔のように、鈍く、半透明にひろげていく。画家はこの膜に身を包んで画面のなかに姿を消し、耳を澄ますという行為さえ許されない静寂に身を潜めている。ここには、ある種の若さにしかない繊細さと脆さが、そして若さだけでは持ち得ない時間と沈黙の積み重ねがある。


 浅学非才の身。これほど1つの絵画に惚れ込み、入り込み、表現した文章に会った経験がない。
 ただ、じっと透き通るような空の青に引きこまれ、白い壁の合間に浮かぶブルーに目をこらすしかなかった。

立てる像;クリックすると大きな写真になります 自画像;クリックすると大きな写真になります  竣介の作品なかで、最も迫力があり、名が知れているのは、 「立てる像」(1942年、神奈川県立近代美術館蔵)竣介がよく描くさびれた街の風景のなかに、等身大にも見える大きな人物がスクッと立っている。人物は、 作品「顔(自画像)」(1940年、個人蔵)とそっくり。モデルは、竣介自身であることが分かる。

 神奈川県立近代美術館の水沢勉館長が「『生誕100年 松本竣介展』図録」に寄せた文によると、子どもたちにこの絵を見せると「画面の中から帰ってきたかの様子で戦争が描いてあるね』」と答えたという。

 廃虚の仁王立ちになっている竣介は、耳が聞こえないために兵役を免れている不安と虚無感を浮かべつつ、戦争に反対する不退転の決意を作品にしたように見える。

五人;クリックすると大きな写真になります  作品「五人」(1943年、個人蔵)からも「家族と共に生き残ってみせる。負けないぞ」という叫びが聞こえてくる。縦1・6メートル、横1.3メートルの大作だ。

 竣介「反戦の画家」とも言われる。

 日中戦争が始まった翌年。美術雑誌「みづゑ」新年号に掲載された「国防国家と美術」とい座談会で、陸軍省の将校らが「大事なのは国家であって文化は国家の産物にすぎない。だから総力戦に備えて絵描きも国策に協力すべきだ」と発言したのに対し、竣介は猛然と反論に出たことがある。

 4月号に掲載された「生きてゐる画家」は、いささか分かりにくい長文のものだが、冒頭だけをみても、時局に逆らう決断とした言葉が満ちている。

 
沈黙の賢さといふことを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思ふ。たとへ、美学の著書などを読んでゐるよりも、世界地図を前に日々の政治的変転を按じてゐるはうに遥か身近さを想ふ私であつても、私は一介の青年画家でしかない。美といふ一つの綜合点の発見に生涯を託してゐるものである私は、政治の実際の衝にあつて、この国家の現実に、耳目、手足となつて活躍してゐる先達から見れば、国家の政治的現状を知らぬこと愚昧を極めた弱少な蒼生に過ぎないのである。そのやうな私が、現実の推進力となつてゐる方達の言説に嘴(くちばし)をはさむといふことは甚だしい借越であるかも知れない。だが、座談会『国防国家と美術』の諸説の中から私は知らんとする何ものも得られなかつたことを甚だ残念に思ふものである。今、沈黙することは賢い、けれど今たゞ沈黙することが凡てに於て正しいのではないと信じる。


 出雲の出かける直前に、図書館から借りることができた「 舟越保武随筆集 巨岩と花びら ほか」(求龍堂刊)を開いて、アッと思った、舟越保武はなんと、旧岩手中学の同級生で、上京してからも絵画と彫刻とジャンルは違っても互いに励まし合ってきた仲だったのだ。

 この随筆集に「松本竣介の死に寄せて」(岩手新報 1948年8月14日号)が収録されている。

  
水晶のような男だった
 透明な結晶体のような男だった
 適確な中心をえて円満であり
 しかもその稜ほ十分に切れる鋭さをそなえでいた
 構いなく冴えた画家だった
 美についで底の底まで掘りさげて語り合える
 これは得難い友であった
 言葉少なに意味深く、切るように話しの出来る友であった
 自らの仕事を鋭く解剖し、絶えず我が身を鞭うって、精励する真の作家であった
 その竣介が
 突然死んでしまった
 竣介の絵の前で、幾多の既成作家、浸心の大家たちが、冷汗をかいて反省したことであろう
 美術界はかけがえのない作家を失った
 美術家の真の生き方を、純粋な声で絶叫しつづけた
 竣介は
 今は骸になってしまった
 水族館のように静かな青い光のアトリエには
 飽くことのない探究の記録、数々の素描油絵の
 習作が輝いていた
 心ある画家、文芸家たちにほんとうに愛されていた竣介が、なんということだ
 死んでしまうとは
 「アトハキミガヤレ」
 と死んだ竣介はいうにちがいない
 イヤだ、
 も一度生きかえって、あの橋の絵を描いてくれ
 君ののこした子供の絵を仕上げてくれ
 竣介、僕は君に初めて怒鳴りつける
 なぜ断りなしに死んだのだ


 どうしても見たいと思っていた1枚の絵があった。

 竣介の絶筆となった「建物」(1948年、東京国立近代美術館蔵)だ。

 画集を見ただけでも、不思議な感覚に抱かれる絵だ。竣介の「青」をおおうように白と茶色ではみ出すように描かれているのは、教会だろうか。その上に描かれた竣介の細い「線」太い「線」・・・。まるで2枚の絵を重ねたように、荘厳さと立体感にあふれた絵だ。

 島根県立美術館を歩きまわった数時間、この絵を見つけることはできなかった。出口近くで係の人に聞いたら、近くで鑑賞していた女性が「その絵、この展覧会に来ていないのです。私も、見たかったのですが」と、声をかけてくれた。

 この絵は、現在世田谷美術館に巡回中の「生誕100年 松本竣介展」にも展示されておらず、所蔵している東京国立近代美術館の「60周年記念特別展 美術にぶるっ!」で見れる、という。

 会期末の14日直前に東京に行く用事がある。のぞくことができればと思う。

 ▽参考にした本
 ・「求道の画家 松本竣介」(宇佐美 承著、中公新書)
 ・「青い絵具の匂い 松本竣介と私」(中野淳著、中公文庫)
 ・「アヴァンギャルドの戦争体験―松本竣介、滝口修造そして画学生たち」(小沢節子著、青木書店刊)

求道の画家 松本竣介―ひたむきの三十六年 (中公新書)
宇佐美 承
中央公論社
売り上げランキング: 69,146

青い絵具の匂い - 松本竣介と私 (中公文庫)
中野 淳
中央公論新社 (2012-07-21)
売り上げランキング: 70,745



 

2012年5月12日

アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)



 「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
 中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。

 同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。

 11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。

 ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
モルデカイ パルディール
柏書房
売り上げランキング: 584277


 「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。

 ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。

 「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」

 神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。

 アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。

 レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。

 140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。

 第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。

 ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。

 150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。

 多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。

 中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。

 北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。

 周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。

 第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。

 2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。  学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。

 移民の多いドイツで、小学生の90%が「ホロコースト」を知っていると答えたことに対して、10%も知らないのは問題であるというのがドイツのメディアの論調。「我が国・日本の若年層の歴史認識と比較するとドイツ社会の意識の高さを感じる」と、中谷さんは話す。

 一方で「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張が、いまだに絶えない。

 「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。

 日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」

 世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」

 30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。

 最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

関連写真集
コルベ神父の名前がある名簿。収容者が奇跡的に持ち出した 野焼される遺体。収容者が手製のカメラでひそかに撮影 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」。献花が絶えない 2重の鉄条網。220ボルトの電流が流れる網に身を投げる自殺者も
コルベ神父の名前がある名簿;クリックすると大きな写真になります 野焼される遺体;クリックすると大きな写真になります 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」;クリックすると大きな写真になります 2重の鉄条網;クリックすると大きな写真になります
第1収容所に再現されたガス室の模型 レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線 咲き乱れるタンポポの向こうは、ビルケナウ女子収容棟 ドイツ軍によって破壊されたガス室
第1収容所に再現されたガス室の模型;クリックすると大きな写真になります レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ女子収容棟;クリックすると大きな写真になります ドイツ軍によって破壊されたガス室;クリックすると大きな写真になります
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑 ビルケナウ収容所内のベッド。1つに2人が収容させられた 隔壁もないトイレの穴。カポにせかされ、1つの穴を争うように用をたした
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ;クリックすると大きな写真になります 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ収容所内のベッド;クリックすると大きな写真になります 隔壁もないトイレの穴;クリックすると大きな写真になります