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2013年12月15日

読書日記「イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」(ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳、みすず書房)、そして映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告
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  一昨年、ポーランド・アウシュビッツを一緒に訪ねた友人に先日、映画 「ハンナ・アーレント」を見ることを勧められ、大阪で鑑賞した。

  事前に渡された新聞広告には「ナチス戦犯アイヒマンの裁判レポートに世界が揺れた」とあったから、単にユダヤ人大虐殺の張本人と言われてきた アドルフ・アイヒマンを告発する映画だと思ったが、とんでもない勉強不足だった。

  見終わった後、友人は「思わず拍手をしたくなった」と話したが、私も同じ思いを持ったすごい作品だった。

 まったく知らなかったが、 ハンナ・アーレントは、かってユダヤ人収容所から逃げ出した経験があり、アメリカに渡って十数年かかってアメリカ国籍を取った。小惑星に彼女の名前がつけられたり、ドイツ切手の表紙にもなったりしたことがある著名な政治学者だ。

 1960年、アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでイスラエル防諜特務庁(モサド)に捕まり、エルサレムで裁判が行われた際、雑誌 「ザ・ニューヨーカー」に傍聴レポートを書いた。

  そのレポートが「世界を揺るがせた。

 
アイヒマンは、単に上の命令に従っただけの凡庸な官僚で、悪の無思想性、悪の陳腐さを持った人間でしかなく、反ユダヤ主義者でもなかった。


 
一部のユダヤ人組織のリーダーが、少数のユダヤ人を救うためにナチに協力し、それが450万人とも600万人ともいわれるユダヤ人大虐殺につながった。


 この2つの記述が、迫害で生き残ったユダヤ人だけでなく、迫害した側にいた非ユダヤ人を含めた人々の怒りを買うことになる。これに対し、ハンス・アーレントは「考えることで人間は強くなる」という強い意志と主張を、友人を失いながらも果敢に貫く。そのシナリオが観衆の感動を呼んでいく。

 この映画には種本があるにちがいないと鑑賞後、売店でパンフレットを買い、表題の 「イエルサレムのアイヒマン」を知り、伊丹市立図書館で借りることができた。2冊も同じ蔵書があった。

 解説を含めても250ページほどの本だが、なんとも難解。一度はあきらめかけたが、どうしても気になり第一章「法廷」、第二章「被告」、第三章「ユダヤ人問題専門家」のほか、各章、エピローグ、あとがきをなんとか拾い読みして著者の.意図がおぼろげに浮かびあがってきた。

   最初に著者は、アイヒマンを(国際法上)不法逮捕したイスラエルの当時の首相 ベン・グリオンの言葉を紹介する。

「数百万の人間がたまたまユダヤ人だったために、百万もの嬰児がたまたまユダヤ人だったために、ナチスの手によっていかにして殺されたかをわれわれは世界の諸国民に明らかにしたいと思う」


   しかし世間の常識では当然とも思えるこの意図は、裁判を傍聴した著者がレポートに示した「悪の陳腐さ」という思いもよらない分析によって、成就できなかったことが明らかになる。

  さらにベン・グリオンは、語る。

「あの大虐殺の後に成長したイスラエル人の世代は、ユダヤ民族への連帯、ひいては自らの歴史への連帯を失う危機に曝されている。・・・必要なのは、わが国の若い世代の人々がユダヤ民族に起こったことを想い起こすことである。われわれの歴史上の最も悲劇的な事実を彼らが知ることをわれわれは、望んでいる」


  この意図も、ある意味で失敗したことも、著者は的確に指摘していく。

  第1に指摘した事実について、著者はアイヒマンの裁判の記録を詳細に検証、自らの考えを明らかにしていく。

「ユダヤ人殺害には私は全然関係しなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない―ーそもそも人間というものを殺していないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人の殺害を命じたことはない。・・・たまたま、私はそんなことをしなければならない立場になかったのです」


 アーレントは、こう分析する。

 
彼は常に法に忠実な市民だったのだ。・・・今日アイヒマンにむかって、別のやりかたもできたはずだと言う人々は、当時の事情がどうだったかをしらぬ人々、もしくは忘れてしまった人々なのだ。


 
もっと困ったことに、あきらかにアイヒマンは狂的なユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ主義の持主で・・・なかった。・・・反対に彼はユダヤ人を憎まない〈個人的な〉理由を充分に持っていたのだ。・・・身内にユダヤ人がいることは、彼がユダヤ人を憎まない〈個人的な理由〉の一つだった。彼には、ユダヤ人の愛人さえいた。


 
俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。


 
彼は愚かでではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。


   ハンナ・アーレントの第2の論点については「裁判の記録を述べただけだ」と、あまり多くの記述はない。

  アイヒマンが遇ったユダヤ人のうち最大の〈理想主義者〉は ルードルフ・カストナー博士だった。アイヒマンは彼と・・・次のような協定に達した。すなわち、数十万の人々がそこ(ハンガリア)からアウシュヴィッツへ送り出される収容所のなかで〈平静と秩序〉を保たれるならば、その代償としてアイヒマンは数千人 のユダヤ人のパレスチナへの〈非合法〉の出国を許す・・・というのである。この協定によって救われた数千人の人々は、つまりユダヤ人名士や シオニズム青年組織のメンバー・・・であった。

   「ナチスとシオニストの協力関係」というネット上の記述を見ると、エルサレムに独立国建設をめざしたシオニズムのメンバーが、世界各地に ディアスポラ(難民移住)しているユダヤ人がその地に同化するのを恐れて、ナチと手を結んだ、とある。

  ハンナ・アーレント関連の著書を調べると、びっくりするほど多くの文献がでてくる。伊丹図書館の蔵書から「ユダヤ論集 1 反ユダヤ主義」「同 2 アイヒマン論争」と、1冊3,400ページ近い大著を借りることができた。

  いずれも、アンナ・アーレントと論者との対談で構成されているが、このような本まで1つの自治体の図書館に所蔵されている事実にいささか驚いた。

  「アイヒマン論争」のなかで、アーレントは「世界は沈黙しなかった。しかし、沈黙したままでなかったことを除けば、世界はなにもしなかった」と語る。

  さらにアーデントは、表題の著書で国際法上 『平和に対する罪』に明確な定義がないことを指摘し、ソ連による カティンの森事件やアメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している。

  この映画の最後には、アーレントが学生たちにむけて講義する感動的なシーンが映される。

 
「彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこに罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。・・・"自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけだ"と」


 
「こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名付けました」


人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。・・・"思考の嵐"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。ありがとう」


  考え、想いをめぐらせる・・・。本もいいけれど、映画もいい。「ありがとう」

2012年9月21日

読書日記「風の島へようこそ」(アラン・ドラモンド著、松村由利子訳、福音館書店刊)「ロラン島のエコ・チャレンジ」(ニールセン北村朋子著、野草社刊)



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 2冊とも、風車などで「自然エネルギー100%自給」を実現したデンマークの島の話しである。

 「風の島へようこそ」は、変形版40ページの絵本。舞台は、デンマークの首都コペンハーゲンから西100キロの海峡にある面積114平方キロ、人口4300人の小さな島、 サムソ島だ。  
あるとき、デンマーク政府が1つの計画を思いつきました。
 どこかの島をえらび、そこでつかうエネルギーをすべてその島でつくろうという計画です。そして、いくつかの島の中から、わたしたちの島がえらばれたのでした。


 この計画のリーダーになったのが、この島で生まれ育ち、島の中学校で環境学を教えていた ソーレン・ハーマンセンさん(現サムソ・エネルギー・アカデミー代表)(52)。
 ソーレンさんの提案に、こどもたちはわくわくした。「でも、おとなたちがわくわくしはじめるには、もうちょっと時間がかかりました」  
ある日、電気工のブリーアン・ケアさんが、ハーマンさんをよびだしました。
 「うちに中古の風車をとりつけたいと思うんだ」


 ある夜、激しいみぞれまじりの雪が降り、停電になった。  
でも、ケアさんの家には、あかりがついていました。「停電なんてへっちゃらだ!」
 ケアさんは大きな声でいいました。「家の風車は動いている!電気をつくっているんだ」
 小さな風車は、ぶんぶんとたのもしい音をたててまわっていました。


 これがきっかけで、島民たちの自然エネルギー熱に火がついた。銀行から融資を受けて大きな風車を建て、法律による電力の固定価格買い取り制を使って電力を電力会社に売る人が出てきた。農場に太陽パネルを並べて電力をまかなう人、ナタネから採った油でトラクターを動かす人・・・。島にたっぷりある藁や木片を燃やすバイオマス暖房プラントが立ち上がり、環境保全に目覚めて電気自動車や自転車に乗る人が増えた。  現在、島には1メガワットの風力発電が11基稼働しており、島内の全電力需要をまかない、洋上にある2メガワットの風力タービン10基も、売電で年率6-7%の利益を生み出している。

 今や、サムソ島は「エネルギーの島」として世界的に有名になり、日本のNHKなどの取材が絶えない。

 ソーレン・ハーマンセンさんも、福島原発の事故以降しばしば訪日し、講演やインタビューなどをこなし「自然エネルギー100%」を推奨している。

 「ロラン島のエコ・チャレンジ」の舞台となっているロラン島は、サムソ島と同じ「自然エネルギー100%自給の島」。 著者は、ロラン島にデンマーク人の夫、小学生の息子と住む日本人環境ジャーナリストだ。

 この島は、約1200平方キロ、人口約6万9000人とサムソ島に比べるとかなり大きく、可動橋で結ばれている東隣の ファルスタ島と合わせると風車は陸上、洋上を合わせて550基以上もある。つくられた電力の一部は、首都コペンハーゲンまで供給されている、という。

 著書には、1973年のオイルショックで政府は一時、原発推進を決め、ロラン島も原発2つの建設予定地の1つだったことが書かれている。しかし、島民など国をあげてての根強い草の根運動で政府は原発を断念、それがデンマークを再生可能エネルギーの先進国にしたきっかけになった。

 大きかったのは、政府が「原子力政策推進」のために設置したはずの「エネルギー情報委員会(EOU)が、原発建設論議で公平な活動を貫いたことだった。

 著者は、こう書く。  
EOUの事務局長であったウフエ・ゲアトセンが、インタビューで語ってくれた言葉が、私たち日本人にとってはとても心に響く。
 「日本は今、エネルギー問題について考える重要な岐路にある。日本にとって大事なことは、公平な第三者委員会を立ち上げて正しい情報を提供、共有し、原発やそれ以外のエネルギーや社会について、国民と共にホリスティックに議論することだ。そこで重要なのは、見識者、専門家は 『独立した』『政府や権力の息のかかっていない』『中立的な立場』 の人選をすること。それなくして、公正な議論は成り立たない」
 はたして、今の日本は、そういう選択ができているだろうか。


 ロラン島はかって造船で栄えた街だった。それが、日本などに追われて造船業が衰退、周辺地域も含めて地形がバナナに似ていたため、長く「腐ったバナナ」と呼ばれていた。それが、廃業した造船所跡に風力発電機メーカーを誘致、自然エネルギーのメッカになることで「グリーン・バナナ」と名前を換えた。

 しかし、今回の金融危機や中国など新興国の追い上げで、人件費の高いデンマーク経済は苦境に陥り、風力発電機メーカーも大幅な工場閉鎖、人員閉鎖に追い込まれた。

 しかしロラン島自治体は、2つのプロジェクトで「自然エネルギー先進国」の看板をさらに推進しようとしている。  1つは、風力発電機メンテナンスの専門技術者を育てる職業訓練学校を設立するなど環境関連ビジネスの推進、もう1つは燃料電池で熱と電気をまかなう水素プロジェクトの開発だ。

 在デンマーク日本大使館の 住田智子さんのレポートによると、バルト海に浮かぶ デンマーク・ボーンホルム島でも「ブライト・グリーン・アイランド戦略」というプロジェクトを展開、「カーボン・ニュートラル」を目指している。

 日本にも 「エネルギー自給100%を目指す島」がある。

 対岸の原発建設計画に反対し続けている瀬戸内海、 祝島の住民が、 「祝島 自然エネルギー100%プロジェクト」を推し進めている、という。

 「エネルギー自給100%を目指す」のは、小さな島でしかできないのだろうか。

 絵本「風の島へようこそ」に、こんな1節がある。  
ちょっと考えてみてください。
 地球は、宇宙にうかぶ、とても小さな島みたいなものです。
 だから、あなたがどこの国の人であっても、
 わたしたちと同じように「島にすむ人」だと考えていいと思います。
 地球という島を守るために、あなたのできることがあるはずです。


 日本も、地球に浮かぶ島の1つ。そして揺れ動く岩盤と活断層の上の薄い地表に、 54基もの原発を建ててしまった。

 もし原発のメルトダウンが再度、起きたら 「日本沈没」 ディアスポラ(民族離散)・・・。

 ※参考にした本
 ▽「グリーン経済最前線」(井田徹治、末吉竹次郎著、岩波新書)
 共著者の1人、井田徹治さんは、表題の絵本「風の島へようこそ」でも、巻末解説を書いている。
 サムソ、ロラン島をはじめ「21世紀に目指すべき自然環境と調和した新しい『グリーン経済』への胎動を紹介している。
グリーン経済最前線 (岩波新書)
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   ▽画集「井上よう子作品集」( 井上よう子著、 ギャラリー島田刊)
 兵庫県西宮市在住の画家だが、長年デンマークに滞在していた。その作品の多くに風車が描かれる。深くすんだ青い色調のなかにとけこんだ風車がなんとものびやかで、たくましくみえる。
 この6月にギャラリー島田で開かれた 展覧会に出かけた。作品はとても買えなかったが、求めた画集を時々めくりながら、1昨年、デンマークで聞いたのと同じ風車の音が聞こえてきたような気がしている。

2012年9月13日

読書日記「光線」(村田喜代子著、文藝春秋刊)、「原発禍を生きる」(佐々木孝著、論創造社刊)



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 福島第一原発にからんだ本を続けて読んだ。

 「光線」の 著者の本について、このブログで書くのは、 「あなたと共に逝きましょう」 「偏愛ムラタ美術館」以来、3回目。

 「あなたと共に逝きましょう」は夫が大動脈瘤に患うことがテーマだったが、今度は、妻(著者)が子宮体ガンになってしまう。
 しかも、その病魔は、奇妙なタイミングでやってきた。「あとがき」にこうある。

 
二〇一一年の三月がきて、突然、東日本の大地が揺れた。いや、海が揺れた。海を持ち上げて海底の地殻が揺れた。そしてじつはその一ケ月前くらいから私の身体にも変動が起きていて、地震の数日後にガンの疑いが現われたのだった。


 著書に収められているのは8つの短編集だが、このうち「光線」「原子海岸」は、ガンになった妻を見守る夫・秋山の立場で書かれている。

 
思えば治療前に撮ったPET画像のガンは、妻の下腹部で鶏卵大のオレンジ色の炎のようにあかあかと燃えていた。・・・
 それが、鹿児島で行われていることを知った治療法でガンは消えてしまった・・・。(原子海岸)


 
放射線治療で妻の子宮体ガンが消えたとき、秋山は焚き火の燃えた後の灰を見るような気がした。日曜祭日なし連続三十日間の四次元ピンポイント照射で、ガンの焚き火は鎮火したのだ。(同)


 
自分の妻が乳ガンや子宮ガンに罷ったら、男はどういう気持ちになるだろうかと秋山は思う。病気の軽重ではない、臓器の部位だ。妻の乳房や子宮は結婚以来長い年月かけて付き合ってきたもので、肺や胃や腸などとはまた違う。妻が病院で検査を受けるのも無惨な思いがする。(光線)


 この治療法でガンを克服した患者たちの"同窓旅行"の席上、秋山の妻は院長に思わず聞いてしまった。

「あのう、私たちがかけられる放射能って、原発で出来るのですか」。・・・周囲の人々もにわかに静かになって院長を見る。(原子海岸)


 日々、東北の人々を苦しめている原発への恐怖と放射能に助けられたという思いがないまぜになって、思わず出てきた素朴な質問だった。

私のガンが見つかったのは三・一一の明くる日でした。もう日本中がどんどん放射能に震えののし上がっていった頃です。大きな鬼が暴れまくつているときに、日本中がその鬼を憎んで罵って 石投げてるときに、車一台買えるくらいのお金を持って、その鬼の毒を貰いに行ったようで、何とも言えない気分だったの。(同)


放射線治療をして助かった者だけじゃありませんよ。この時期はきっと、手術で助かった人も、抗ガン剤で助かった人も、ガンとは別の病気で命を取り戻した人も、事故で命拾いした人も、子どもが就職できた人もです。大学受かった人も、何か良いことがあった人、幸福を得た人はみんな今度のことではそんな気持ちじゃないでしょうか。良かったって言えない。叫べない。みんな、どこかで苦しいんじゃないですか。(同)


私ね、治療から帰ると途中から放射線宿酔が始まるので、帰り着くとベッドに倒れ込むの。それで毎日毎日見たくないのにやっぱりテレビを見てしまうの。ほら、もうすぐ煙が出る。私は布団をずり上げて眼を覆うの。あそこから出る見えない光線と、今自分の下腹にかけられてるものが、混ざり合ってしまう。あっちのと、こつちのとは、同じじゃないのに、なぜか同じになってしまうの。(同)


   「あとがき」は、こんな言葉で結ばれている。

 
その頃、鹿児島の桜島は年間の観測史上最高となる爆発回数を記録し、私が滞在中の四月と五月の噴火は百六十人回を数えた。市内には黒い灰が臭気を伴って降り積んでいた。地球の深部は放射性元素の崩壊が行なわれている。核分裂の火が燃えているのだ。人間世界の動きから眼を空に移すと、太陽は核融合する巨大な裸の原子炉だ。そして地上では人間の手で造られた福島原発の炉に一大事が起こつている。
 私が鹿児島の火山灰の舞う町で日々めぐらせた思いは、これもまた一つの3・11に続く体験というしかない。原発への恐怖と、放射線治療の恩恵と、太陽を燃やし地球を鳴動させる巨き世界への驚異である。


 「原発禍を生きる」は、 「フクシマを歩いて ディアスポラの眼から」( 徐京植著、毎日新聞刊)を読んで、知った。

  著者・佐々木孝は、福島第一原発から約25キロ、屋内非難地域に指定されている南相馬市で「私は放射能から逃げない」と、認知症(元・高校教師)の妻と暮らす反骨のスペイン思想研究家。永年、 ブログ「モノディアロゴス」を書き続けてきたが、大震災後1日に5000件ものアクセスが集中、単行本化された。

 著者は、緊急避難地域、屋内非難地域といった政府の方針に翻弄され、発表される放射線測定に不信感を強めた住民の多くが「避難民化」している状況について「三月十九日午後十一時半」付けブログで、こう書く。

 
だれも言わないのではっきり言おう。いま各地の避難所にいる避難民(!)のうち、おそらく一割は、例えば南相馬市からの避難者のように、家屋も損壊せず電気や水道も通っている我が家を見捨てて過酷な避難所生活に入っているのである。もっとはっきり言えば無用な避難生活を選んでしまった人たちなのだ。・・・私の知っている或る人は、この無用の生活を選んでしまった。高齢で病身であるにも拘らず、そして家屋損壊もなく、電気・水道が通っている我が家を離れ、たとえば30キロ圏外をわずか逸れた町の体育館で不便きわまりない避難生活をしている。・・・その人が避難生活を送っている場所は、この南相馬市より放射線の測定値が六倍もある場所なのに。


  一方で、国家命令に毅然として立ち向かった「東北のばっぱさん(4月十二日付け)」のことが忘れられない。

 
時おりあのおばあさんの姿が目の前にちらつく。双葉町だったか、10キロ圏内ながら迎えに行った役場の人に向かって避難することを丁重に断って家の中に消えたあのおばあさんである。・・・「私は自分の意志でここに留まります」といった意味の老婆の言葉に、困惑した迎え人がつぶやく、「そういう問題じゃないんだけどなー」
いやいや、そういう問題なんですよ。君の受けた教育、君のこれまでの経験からは、おばあちゃんの言葉は理解できるはずもない。ここには、個人と国家の究極の、ぎりぎりの関係、換言すれば、個人の自由に国家はどこまで干渉できるか、という究極の問題が露出している。


 「人類を破滅の危険に晒されることになった」原子力を「早急に封印する方向に叡智を結集すべきではなかろうか」と書く一方で、被災地に住んでいると、こんな発言にも違和感を持つ。

 このブログでも書いた 小出裕章・京大原子炉実験所助教は、5月の参議院員会で「もし現在の日本の法律を厳密に適用するなら、福島県全体と言ってもいい広大な土地を放棄しなければならない。それを避けようとすれば住民の被曝限度を引き上げなければならない...これから住民たちはふるさとを奪われ、生活が崩壊していくことになるはずだと私は思っています」と述べ。その 動画がWEB上でおおきな話題を読んだ。

 これに対しても著者は「被災者目線 五月二十六日」という一文で、ズバリ被災地住民の怒りを率直にぶつける。

「ふざけんな、と言いたいね。代議士先生たちを前に滔々と歯切れよく演説をぶったつもりだろうが、てめえは被災者が今どんな気持ちで毎日を送っているのか少しでも考えたことがあるのか聞きたいね。てめえが全滅と抜かしおった福島県で、こうして元気に生きているし、これからだって生き抜いてみせるぜ。ただちに健康に被害はない、と言われる放射線の中で、ちょうど酷暑や極寒、旱魃や洪水にも耐え抜いてきた先祖たちに負けないくらいしたたかに生き抜いてやらーな」


 怒りをぶつけながらも、被災地で認知症の妻を抱える現状をユーモラスにさえ描く「或る終末論 四月十一日付け」という一文に、読む人は釘づけになる。

妻は言葉で意志表示ができません。ですから便器に坐らせても、それが大なのか小なのか、分からないのです。空しく十分くらい待って、結局何も出ないことだってあります。だから耳を澄ませて、あっ今は小の音だ、あっ今度のは大が水に落ちる音だ、と判断しなければなりません。そのときの喜び、分かります?・・・私にとって、一日のうちの大仕事がそのとき無事完了するのであります。・・・ 先日も便所の中に一緒に居るときに揺れが始まりました。一瞬、ここで死ぬのはイヤだ、と思いましたが、でもここで終末を迎えるのは時宜にかなったことかな、とも思ったのであります。地震よ、大地の揺れよ、汝など我ら夫婦の終末に較ぶれば、なんぞ怖るるに足らん!


 地元紙「福島民報」の9月11付け 記事に掲載された夫婦の相寄る写真がいい。 本の帯び封に載った愛する孫との3ショットもいい写真だが、被災地での壮絶な生活ぶりを浮かび上がらせる。

 

2012年5月11日

アウシュヴィッツ紀行・上「ホロコースト」(2011年5月2日)


 友人Mらと長年語らっていたアウシュヴィッツ訪問が、この連休やっと現実となり、コペンハーゲン、フランクフルト経由でポーランドに入った。

 世界遺産の古都・クラクフからオシフイエンチム(旧ドイツ軍は、ここをアウシュヴィッツと改名した)までの2時間近くは、両側に深い新緑の森が広がる気持ちのよい道だった。途中の村の家の庭先には、道路に向けて木の十字架や陶製の聖マリアの像が建ててあり、カトリック教徒が90%というこの国の敬虔な雰囲気を演出してくれる。

 アウシュヴィッツ強制収容所跡(現在は、負の世界遺産として登録されているアウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館)前の広場は、ベンチで休憩する若者などであふれ、ピクニックのような雰囲気だ。

 午後2時前、午前のガイドを終えた日本人唯一の公式ガイド、中谷剛さんがかけつけてくれる。25歳の時にこの地を訪れ、もうガイド生活20年の経験を持つ。

 中谷さんには、新聞社時代の同僚でアウシュヴィツの研究を続けておられるK・武庫川女子大教授に紹介してもらい、前日のクラコフの街の観光から、車の手配まですっかりお世話になった。

 午後のガイドツアーに参加するのは、我々4人のほかに6人の日本人。ほとんどが、2、30代の若者だ。

 4人でガイド料243ズローチ(約6500円)と、離れて歩いても中谷さんの声が聞こえるようにと、1人10ズローチでイアホーンを借りる。まず、最大2万人が収容されていたアウシュヴィッツ第1収容所。事前に読んだ本で見た「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由への道)」と書かれた鉄の門をくぐる。

 実は、この門の標識は一時盗まれ、3つに折れて帰ってきた。現在のものは、レプリカなのだが「B」の字が反対に溶接され、小さい部分が下になっている。制作者のささやかな抗議の現れらしい。

 「自由への道」というのはあまりに皮肉な命名だった。収容者は毎朝、同じユダヤ人による「囚人楽団」による演奏と、ドイツ軍親衛隊員(SS)が選んだ囚人頭(カポ)の振う棒とムチでこの門を追い出された。収容所建設のための森林伐採や近くに建設された化学工場などの作業に毎日11時間以上も働かされ、栄養失調で力を失って死去した仲間を背に帰って来る「死への道」でしかなかった。

 収容所内の建設作業も過酷なものだった。重い建設資材をかつぎながら、与えられた木靴で走るように運ばないと、カポのムチが飛んだ。倒れて、道路整備用の石製のローラーに引き殺される人もいた。そのローラーが道路わきに残されていた。

 ドイツ軍が直接手を下さない「奴隷制がしかれていた」と、中谷さんは解説する。

門を入ると、赤レンガの収容所群とポプラ並木が続いている。このポプラ並木が植えて60年が過ぎて大きくなりすぎ、枝が折れて見学者などに当たってはいけないので、最近、建設当初の大きさのものに植え替えられたばかりだ。

4号館と5号館にある収容者の遺品に圧倒される。

 SS衛生兵がガス室の天井から投下した殺害のためにチクロンB(なんとシラミなどの殺虫剤!)の空き缶のほか、死後に刈り取られた約1800キロもの女性の髪、歯ブラシや衣服用のブラシの、家庭用食器(チーズ用なのか小さなおろし金まで)、眼鏡、靴、義足、そして、本人に還すことを偽るために白い塗料で住所などが書かれたかばんの山、山、山・・・。

髪の毛は繊維会社に送られて生地などに加工され、死者の金歯は抜かれて延べ棒として出荷された。それの数量をドイツ人らしい正確さで記録された資料も残されている。

 大きなヨーロッパ地図が掲げられ、ナチス・ドイツが支配した広大な地域からユダヤ人が連行されてきたことを示していた。

 アウシュヴィッツに行くことを決めてから、様々な本や資料にあたったが、なぜユダヤ人がナチスだけでなく、ヨーロッパの長い歴史のなかで排斥されてきたのかが、どうしても釈然としなかった。

 そんな時に、新約聖書の1節に遭遇した。

 ユダヤ教の祭司長たちは、イエスを殺そうと、総督ピラトに身柄を渡した。
 「皆は、『(イエスを)十字架につけろ』と言った・・・。民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』(マタイ27章19-25節、新共同訳)

 「こう叫んだのは、その場にいる人々だけだった。しかし、その後、キリスト教世界の人々は、ユダヤ人のことを『神殺しの民、ユダヤ』と呼ぶようになった」。著名な聖書学者であるW神父の解説である。

 こういった考えがヨーロッパのキリスト教世界に広がり 十字軍の遠征途中で、多くのユダヤ人が虐殺されたことは、 塩野七生 「十字軍物語」などにくわしい。

そのほかにも、ヨーロッパ各地でユダヤ人は何度も虐殺に会い、 ディアスポラ(民族離散)を続けてきたことは、いくつもの歴史事実が証明している。

 ヨーロッパ社会にまん延していった、この反ユダヤ主義を、ヒトラーも巧みに利用した。

ポーランドの総督区総督だった ハンス・フランクの獄中回想記「絞首台を眼の前にして」によると、 ヒトラーは1938年のある日、もの思いにふけりながらこう語ったという。

 「福音書の中でユダヤ人たちはピラトに向かって叫んでいる。『その血の責任はわれわれとわれわれの子孫にある』と。余は、おそらく、この呪いを執行しなければならないだろう」

 ナチスの「民族浄化」の対象になったのは、ユダヤ人だけでなく、ポーランド人、ロシア人などのスラブ民族、ジプシーと呼ばれたロマ・シンティの人たちも含まれていた、事実も忘れてはいけない。中谷さんは、何度も強調した。

 そして、ナチスによる ホロコーストだけではなく、クロワチアのセルビア人虐殺、ルワンダ虐殺などの ジェノサイド 大量虐殺も同じように現実の史実であることも、私たちに迫ってくる。

「カティンの森事件」が、いまだにポーランド市民の心に深い傷を残している。

第2次大戦中に、ソ連・カティンの森で22000人ものポーランド将校などが虐殺されて埋められた。当初ソ連は、ナチス・ドイツのしわざと主張したが、ソ連の行為であることがわかった。

ポーランドの首都ワルシャワやクラクフの街にあるこの事件の慰霊碑を見ながら、ホロコーストという言葉の意味の広がりを考えた。

関連写真
若者でにぎわう第1収容所前広場 収容所の航空図。Aが第1、Dは第2収容所 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団
若者でにぎわう第1収容所前広場;クリックすると大きな写真になります 収容所の航空図;クリックすると大きな写真になります 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん;クリックすると大きな写真になります 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団;クリックすると大きな写真になります
「労働は自由への道」と書かれた門 ポプラの並木が植え替えられた第1収容所 ガス室に投入されたチクロBの空き缶 処刑された女性から刈り取られた髪の毛
「労働は自由への道」と書かれた門;クリックすると大きな写真になります ポプラの並木が植え替えられた第1収容所;クリックすると大きな写真になります ガス室に投入されたチクロBの空き缶;クリックすると大きな写真になります 処刑された女性から刈り取られた髪の毛;クリックすると大きな写真になります
食器類の山 義足の山 眼鏡の山 かかとが取られた靴
食器類の山;クリックすると大きな写真になります 義足の山;クリックすると大きな写真になります 眼鏡の山;クリックすると大きな写真になります かかとが取られた靴;クリックすると大きな写真になります
洗顔する収容者。右の太って棒を振うのがカポ 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち 収容者を引き殺したこともある石製のローラー 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅。妻は庭仕事が趣味だった
洗顔する収容者。;クリックすると大きな写真になります 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち;クリックすると大きな写真になります 収容者を引き殺したこともある石製のローラー;クリックすると大きな写真になります 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅;クリックすると大きな写真になります
ヘスが絞首刑になった処刑台 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑 クラクフの教会前広場にそっと置かれた「カティンの森事件」の追悼十字架
ヘスが絞首刑になった処刑台;クリックすると大きな写真になります 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑;クリックすると大きな写真になります 「カティンの森事件」の追悼十字架;クリックすると大きな写真になります


2012年1月 9日

読書日記「ディアスポラ」(勝谷誠彦著、文藝春秋刊)


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 日本人の精神構造を大きく変えてしまった「3・11」。文学の分野でも、これから「フクシマ」をテーマにした様々な作品が発表されていくのだろう。

 川上弘美の 「神様 2011」については、このブログでもふれた。この小説もポスト「フクシマ」の1つだろうと思って手にしたが、10年前に書かれたものと知っていささか驚いた。随所に故・小松左京の名著「日本沈没」に似た予見があふれている。

著者の勝谷誠彦のことはまったく知らなかったが、ちょっと破天荒な経歴を持つコラムニストだったことも、ちょっとした驚きだった。

「事故」とだけ呼ばれる出来事で日本列島は居住不能になり、日本人は世界中に設けられた難民キャンプに散っていく。
主人公の「私」は国連職員。チベットの首都・ラサから2000キロも離れた奥地・メンシスに「日本人難民状況巡回視察官」として派遣されて来る。

キャンプで人々がランプの灯火の下ひそひそと話す夜、ただ「事故」と呼ばれる出来事、私たちが有史以来くぐり抜けてきた災厄など語るほどのことですらないと思われる、あの出来事・・・。
 (灯)の背後の闇にこそ、会うべき人々がうずくまっているのである。東海に浮かぶ恵まれ過ぎた島に、ぬくぬくと何十万年も抱かれていた人々が、裸で、むつきもされぬ赤子のように。


難民キャンプのあるチベットの地は、世界最大級の高原が広がる自然豊かな土地だった。しかし、今やいたるところで腐臭が漂う場所になってしまった。

コンクリートで造られた階段を上がると、四角に切られた穴が並ぶのだが、そこまでたどり着くのが苦行なのだ。人糞の散乱は階段から始まる。なんとか踏まずに昇っても、穴の横には足を置く場所がない。大便の主は、すべからくここで漢人と呼ばれる中国人だ。チベット人たちは遊牧民の誇りとして、便所などというものは使わない。


キャンプの近くの湖には、苛性ソーダが飽和状態ぎりぎりまで溶け込んだぬめぬめとした異臭を放つ水が寄せている。プラスチックやガラスの砕けたものなども累々と重なりあっている。
このことは漢人の宿痾(しゅくあ)としか私には思えない。彼らは、いかなる美しい風景の中にも平気でゴミを投げ捨てるのである。


こんな描写で、著者は、 チベット自治区という名のもとに中国がこの地域を支配、チベット人はすでに"難民"になっている現状を浮かび上がらせる。

この地域の日本人難民キャンプを統括しているユダヤ人の国連職員・ダヤンが登場してくることで、表題の 「ディアスポラ」の意味が分かってくる。

 
「私たちは二千年間、世界に散らばっていました。紀元七三年 マサダという砦に立てこもっていた最後のユダヤ国民がローマに滅ぼされてから、再び建国に成功するまで。その出来事を私たちは民族離散、ディアスポラといいます」


 
ディアスポラ。今日からここにいる(日本の)人々の生には未来永劫、禍々しい影のように、その言葉が寄り添うに違いない。


 ユダヤ(イスラエル)人のダヤンの口を通して、国連、世界は日本人に終わることのない放浪を強いようとしていることが示される。

 実は「私」は、国連職員としての仕事以外に、かって日本を支配していた「組織」の人々から"密命"を受けている。

 
もし、また日本人たちがどこかで土地を得て集まろうとする時に、はたして求心力たりうるものがあるのかどうかということを、あの人々は考えているのである。・・・
 世界中に散った、日本人たちの集団の中に、新たなる「核」が生まれつつあるのか。「組織」の彼らは、少なくともそれを知りたいのだ。


 しかし難民キャンプにいる日本人の一部は、チベットの風土に同化する道を選ぶ。

 高山病に苦しんでいた中年の主婦が、不法就労で働いていた店で殴られたのがもとで死ぬ。夫と娘は火葬でも土葬でもなく、 鳥葬を選ぶ。「お母さんを風に還すの」と、娘はつぶやく。

 娘の友人であるチベット人・ナムゲルは、こう説明する。
「まず、魂を抜く。あとの肉体は、モノだ。それでも天上に送るために、鳥に食べさせるのだ。専門の処理人が、鋭いナイフなどをつかって、遺体を切る。細かく、細かくだ。小麦粉を混ぜ込むこともある。それを、岩の上に置く。すると、鳥たちがあつまってきて、食べていく。あっという間。おしまい」

 鳥葬場までは遺体と処理人しか行くことを許されていない。最後のわかれの儀式は、峠で行われた。僧たちの読経が終わった後、列席した日本人たちが歌い出す。
 うさぎ追いし、かの山
 小鮒釣りし、かの川・・・ 


 やって来たユダヤ人・ダヤンがしたり顔で講釈する。
 
「家族や民族はどうしても、二つのことにこだわるんだよ。名前と、肉体の始末だ」
 「しかし、そんなものはとどのつまり、どうでもいいことだ。・・・魂は名前を持たず、魂は肉体を持たない」
 「けれども、そのこだわりが、家族や民族のよりどころじゃないのか」
 「ヘッ」
 ユダヤ人は、足元の石を蹴る。・・・
 「名前のかわりに番号を刺青され、影も形もなくなるまで、バーナーで燃やされ、いや、それどころか髪の毛で、スーツ、脂(あぶら)で石鹸を作られても、彼らはユダヤ人だった」


 母を見送った娘は、チベット人の青年の手にしっかりと握られて、高原のなかに消えていった。

 読み終えて、あまりに長い歴史を持つ 「ホロコースト」を思い、「3・11」以降"沈みゆく"列島のなかでもがいている日本人の「核」はなになのか・・・と問いかけてみる。