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2019年3月29日

日々逍遙「秋田県立美術館、乳頭温泉」「北海道神社、円山公園」「横浜美術館、横浜中華街」

  

【2019年2月10日(日)】

 前日遅くにJR秋田駅前のホテルに泊まり、翌朝朝食に行ったら、窓の外にからすの群れ。
 北海道に多く見られるワタリガラスという渡り鳥で、街中でゴミをあさるのとは違う種類。旧約聖書のノアの方舟に登場したり、イギリスのロンドン塔に飼われたりしていた由緒ある鳥らしい。
  ちょうどハクチョウなどがシベリアなどに帰る季節だが、ワタリガラスもそうなのだろうか。

 
 鳥帰る五千キロてふ北帰行


 ホテルから歩いてすぐの秋田県立美術館に、以前から鑑賞したいと思っていた藤田嗣治「秋田の行事」を見に行く。

 2階の主展示場にドドドーンと広がる圧巻の大作は、高さ3・65メートル、横20・5メートルもある。依頼した秋田の資産家、平野政吉の米蔵で制作した後、壁の一部を壊して運び出したらしい。  橋の左に秋田の暮らし、右に山王祭、梵天奉納、竿灯祭りという3つの祭りが展開されており、70人近い人物が生き生きと描かれている。大作の前を何度も行き来し、あきずに眺めた。

秋田の行事          同・拡大
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    JR秋田駅から新幹線・こまち、バスを乗り継いで乳頭温泉郷へ。2泊した妙の湯は、硫酸塩と単純泉が男女交替で4つづつ。混浴と貸し切りの露天風呂もあり、湯につかりながら雪景色を堪能した。

 翌日は、乳白色の湯で知られる鶴の湯へ。乳頭温泉は、この乳白色の湯から名付けられたと思っていたが、近くの乳頭山に由来するらしい。この山「遠くから見るほど、女性のおっぱいに見える」ということだった。

 付近は、けやきらしい木を中心とした雑木林。春めいてきた日差しのなかで、小枝にかかった六花(むつのはな、俳句で雪の傍題)が輝いている。  近くの桜並木の枝に咲く雪も、量がたっぷり。前年の夏に形成される桜の花芽は、冬の寒さにさらされて目覚めるという。もう桜は、蕾のなかで満開だなと思った。  
 むつのはな木木に咲きては輝ける


妙の湯       鶴の湯            雪が咲く林
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【2019年3月3日(日)】

 JR札幌駅から地下鉄南北線、東西線を乗り継いで北海道神社へ。2度目の訪問だが、前回よりかなり雪が少ない。入り口に、今年の厄年・祝い年の掲示板が出ていた。85歳は、後厄に当たるらしい。そこまで生きていたらの話しだが・・・。

 敷地続きの円山公園を歩く。明治初期に開拓使が設置した樹木の試験場だったそうだが、広大な敷地に雑木林が広がる。イチイ、キササゲ、カシワ、ハルニレ、ミズナラなどの木々に動物をかたどった木の札に名前が記されており、楽しくなる。5月には、一斉に芽吹くという。

北海道神社           円山公園の林
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 ものの芽のさざめき初めし北原野




【2019年3月18日(月)】

 横浜・桜木町のホテルに泊まった翌日、みなとみらい地区へ。

 帆船日本丸が停泊している公園で、早咲きのオオカンザクラがほぼ満開。後ろの高層ビルランドマークタワーと競っている。
  横浜美術館前の紫木蓮の並木も花真っ盛りだ。

 美術館では、思いもよらず イサム・ノグチの展覧会をしていた。イサム・ノグチの作品を訪ねてニューヨーク札幌、高松と行脚したのは、もう8年も前だ。展示された石の彫刻になつかしさを覚えた。

みなとみらい・大寒桜             美術館前・紫木蓮
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 みなとみらい線で、中華街へ。以前にいとこ達と行った店で食事の後、横浜関帝(Guan Yu)廟横浜媽祖(Ma Zu)廟を訪ねる。三国志の英雄・関帝(関羽)、航海の守護女神である媽祖は、いずれも特に華僑の人びとの信仰を集めており、習っている中国語のテキストでなじみの神様。台湾の人らしい女性たちが長い線香を煙らせながら、深々と頭を下げていた。

 うららかや線香煙る中華廟


関帝廟                   媽祖廟
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2019年1月30日

読書日記「なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949」(富田芳和著、静人舎刊)



 昨年12月、京都国立近代美術館で開かれていた「没後50年 藤田嗣治展」へ閉幕直前に出かけた。年明けの14日にも、「ルーヴル美術館展」の閉幕日に、大阪市立美術館に飛び込んだ。喜寿が過ぎたせいか、どうも行動のスピードが鈍ってきたような気がする。

 数え日や閉幕前の美術展


 セーターの胸すくっとして喜寿の人


 セーターの首からのぞく笑顔かな


 着古したセーターにある思ひかな


藤田嗣治は、戦後のパリで描いた「カフェ」(1949年、パリ・ポンピドゥーセンター蔵)や「舞踏会の前」(1925年、大原美術館蔵)など「乳白色の女性」像で有名だが、戦後、画壇の批判勢力にパリへ追われるきっかけになった戦争画のことが気になっていた。

 会場でも、幅160センチの大作「アッツ島玉砕」(1943年、東京国立近代美術館・無期限貸与作品)が圧倒的な迫力で迫ってきた。
 昭和18年5月、日本軍の守備隊は上陸してきた米軍に最後の夜襲をかけて玉砕した。雄叫びを上げて銃を振り下ろす兵士、敵と味方もなく折り重なる死体・・・。 画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。フジタは時に絵の横に直立不動で立ち、鑑賞者に腰を折って礼を返した、という。

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「カフェ」
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「舞踏会の前」
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 「アッツ島玉砕」


これが戦争礼賛目的に描かれた絵だろうか。そんな疑問を抱きながら会場を出たが、1階のショップで見つけたのが、表題の本だ。

 これまでは、戦争協力への批判を強める日本画壇に嫌気したフジタが、フランス・パリに居を移した、と言われてきた。
 しかし、美術ジャーナリストである著者はこの見方に異議を示し、著書の冒頭でフジタの夫人君代さんの話しを紹介する。「フジタはことあるごとに私に言いました。私たちが日本を捨てたのではない。日本が私たちをを捨てたのだ、と」

 この著書には、2つの座標軸がある。1つは、戦後日本画壇の執拗なフジタ排斥の動き。2つ目は、そんなフジタを崇拝し、とことん支援した元日本占領軍(GHQ)の民生官だったフランク・シャーマンの存在だ。

 1946年、フジタはGHQから日本中の戦争画を集めて、米国で展覧会を開くという依頼を受けた。しかし、日本の美術界には、フジタがGHQと手を組むことを恐れる勢力があった。

 同じ年の秋、朝日新聞に画家、宮田重雄の投稿が載った。
 「きのうまで軍のお茶坊主画家でいた藤田らが、今度は進駐軍に日本美術を紹介するための油絵と彫刻の会を開くとは、まさに娼婦的行動ではないか?」

 同じころ、フジタが可愛がっていた画家、内田巌が訪ねてきて、こう通告した。

 「日本美術会の決議で、あなたは戦犯画家に指名された。今後美術界での活動を自粛されたい」
 さらに内田は、フジタが入会を希望していた新制作協会への入会も断る、と伝えた。

 新制作公募展の控え室でのこと。フジタは顔見知りの画家たちに声をかけようとした。「気付いた者たちは突然静まり返り、形ばかり頭を下げて、あらぬ方へ視線を遊ばせるばかり」・・・。

 美術界の"黒い勢力"の追求で四面楚歌に陥ったフジタを救ったのが、少年時代から画家フジタを尊敬していた米国人フランク・シャーマンだった。

 何度もフジタを訪ねて親交を深めたシャーマンは、フジタの渡米を計画、まずニューヨークでフジタの個展を開いて成功させた。
 しかし、当時の厳しい渡米の条件を満たすには、米国での保証人や定期的な収入の確保などが必要だった。

 シャーマンらは、これらの困難を次々と克服、ついにGHQの認可を得た。決め手となったのは、フジタがGHQ司令官、マッカサーの夫人のために描いたクリスマスカード、「十二単のマリアとキリスト像」だった。

 米国を経てパリに渡り、フランスに帰化して日本国籍を抹消したフジタは、渡米直前の記者会見でこんな言葉を残した。

 「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」

 ※参考にした資料


2018年11月22日

読書日記「権力と新聞の大問題」(望月衣塑子、マーティン・ファクラー著、集英社新書)



権力と新聞の大問題 (集英社新書)
集英社 (2018-06-22)
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望月衣塑子は、東京新聞社会部記者。政治部記者の牙城である内閣官房・管 義偉官房長官定例会見に出て、既存政治部記者から異端視されながら矢継ぎ早に質問してネットでも話題になっている。

 マーティン・ファクラーは、ニューヨーク・タイムズ前東京支局長で、日本のマスコミへの厳しい批判で知られるジャーナリスト。

 この本は、その2人の対談で構成されているが、マスコミと権力の問題だけでなく、安倍内閣の密かな狙いを批判するなどホットな話題に満ちている。

 知らなかったが、望月記者によると、経済産業省は2017年2月から「執務室全部に施錠を始めた」という。「これは明らかな記者の締め出しであり、取材拒否の姿勢に見える」。これまで取材対応をすることが多かった課長補佐が対応しなくなったらしい。

 古い話しだが、私が経済記者だった頃は、通産省(現・経済産業省)や大蔵省(同・財務省)執務室への出入りはもちろん自由だったし、課長や課長補佐の横に座り込んで、無駄話をしながら、取材をしたものだ。
 そんな、当たり前だったことが、もうできなくなっている。

 「安倍政権がやろうとすることに対してゴチャゴチャ言うヤツは邪魔だ。余計なことは言わず書かない、すべて忖度して都合のいい報道をしてくれる記者だけを受け入れようとするわけです」

 門外漢にはよく分からないことだが、望月記者によると、安倍政権は2013年に特定秘密保護法、2015年に安保法制、2017年にテロ等準備罪(共謀法)を成立させ、昨年は巡航ミサイル導入の報道が相次ぐなど「いつでもアメリカと一緒に戦争ができる」体制を整えつつある。

 2013年に発足した国家安全保障会議(日本版NSC)は、マスコミも実態がつかめないブラッックボックスだという。

 同記者は最近、埼玉県入間市で、自衛隊基地に防衛省所管の病院を作る計画を聞いたという。「ミサイル導入や日米軍事協力を想定して、負傷者の受け入れ体制を想定」しているらしい。

 ファクラー氏は「他国にミサイル攻撃を仕掛ける装備を持つということは、日本にとって戦後最大の方向転換だということを海外の政権やメディアは注意深く見ている。それなのに、日本国内でそういう議論が行われていないのは非常に危険な状態だと思う」と警告する。

 望月記者は言う。「憲法九条の論議が始まる前に専守防衛を超えて敵基地攻撃を持つ装備(巡航ミサイルやイージス・アショア)を一気に持とうとしている。憲法九条の議論の前に現実論として装備してしまえと。民主主義の手続きをすっ飛ばして『そっちを先にやってしまえ』みたいな空気もあり、すごく怖いなあと思っています」

 その法制や装備が現実に使われるのは、我々が死んで孫たちの時代になってからかもしれない。いや、もっと近い話しかもしれない。本当に「すごく怖い」ことである。

 最後に「記者が身の危険を感じたり、国家権力から監視されたりすることがあるのか」という質問に、ファクラー氏はこう答えている。

 「アメリカではビックデータによる監視が可能だから、取材先との秘密裏の情報交換などに、外部の人には解析不可能な暗号を用いた通信方法、例えば "Signal" といったSNSを使う」

 NHKの人気番組ではないが、日本の国民、記者諸侯に、こう呼びかけることにしよう。

 「ボヤーと生きてんじゃないよ!」

2013年10月 9日

読書日記「ひと皿の記憶」(四方田犬彦著、ちくま文庫)、「にっぽん全国 百年食堂」(椎名誠著、講談社)、「浅草のおんな」(伊集院静著、文藝春秋)

ひと皿の記憶: 食神、世界をめぐる (ちくま文庫)
四方田 犬彦
筑摩書房
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にっぽん全国 百年食堂
椎名 誠
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 残暑の秋に読んだ食へのこだわり関連本3冊。

 「ひと皿の記憶」には「食神、世界をめぐる」という副題がついている。 著者の本は、数年前に 「四方田犬彦の引っ越し人生」(交通新聞社刊)を読んだことがあるが、日本や世界各地の大学で教べんを取るかたわら、各地の食にこだわり続けたエッセイスト。著書は100冊を越えるという。

 著者が育った大阪・箕面近くの「伊丹の酒粕」から始まって「神戸の洋菓子」「金沢のクナリャ(深海魚の一種)」、そして韓国、台湾、中国、バンコクなどの東南アジア、イタリア、デンマーク、フランスと、つきることなく「ひと皿」への思いが記される。それも高級料理店でない庶民の味に徹しており、読み進むごとに垂ぜんの味わいを楽しめる随筆である。

   
粕汁とは不思議なスープ、いやシチューである。魚やいろいろな野菜を水煮し、そこに酒粕と味噌を流し込んでさらに煮込む。・・・この汁には味檜汁や澄まし汁にはない独特の重たげな魅力があり、一口でも口に含むだけで腹がしっかりと温まる気持ちになった。いうまでもなくそれには酒粕から滲み出るアルコールが作用していたに違いない。加えて白濁した汁の合間に覗く紅い人参や色が透けかかった大根、細かく刻まれた黄色い油揚げといった組み合わせが・・・愉しげな抽象絵画のように思われてくるのだった。


 
(北京の朝)市場のすぐわきの路地に入ると早々と小食店が開いていて、すでに何人もが仕事前の食事をしている。北京では 豆腐脳(トウフナオ)、南方では豆花(タウファー)といって、ひどく柔らかい豆腐椀に盛り、好みで辣油をかけて食べる。店先では大鍋に煮え滾った油のなかで、直径三〇センチほどの巨大な素妙餅(スウチャオビン)が揚げられている。しばらく店内を見回してみると豆腐脳はこの餅を千切りながら匙で口に運ぶものらしいと、見当がついてくる。揚たてのパリパリとした餅と、匙で掬おうとしても崩れてしまうほどに柔らかい豆腐脳の組み合わせには、絶妙なものがある。


 牡蠣のついての記述も多い。とくにこれまで3回訪ねた米国・ニューヨークで計10回近く通ったグランド・セントラル駅の「オイスターバア」についても書かれている。

 
そこには主にアメリカの東海岸で採られた、実に多様な牡蠣があった。ずんぐりとした殻をもつブラスドールもあれば、底の深いブロンも、強い刻み目をもつキルセンもあった。一番巨大な牡蠣をと狙ってメーンを注文したところ、水っぽすぎて落胆したこともあった。もっとも小さいのはカタイグチと呼ばれ、伝説の牡蠣クマモトの一統だった。わたしは最初に訪れたときには盛り合わせを頼み、それからは気に入ったものを半ダースほど改めて注文することで、少しずつ牡蠣の個性を学んでいった。


 デンマーク・コペンハーゲンのスモーブローについての記述も、かってこの街に行った時に何軒もの店頭で見つけたことがなつかしい。バターをたっぷり塗ったパンの上にサーモンやニシンなどの具材をトッピングしたものだが、なにか寿司の"デンマーク版"と感じた覚えがある。

 「ロンドンにおいていい食堂を見分ける5つの条件」という項もある。フイッシュ&チップスの名店や鰻の煮こごりの店が記述されている。いつかロンドンを訪ねる機会があれば参考にしようと思う。

 この本の最後近くに出てくる「肉」についてのうんちくは、世界中で食べ歩いた著者の真骨頂だろう。

 
牛肉はそれ自体で自立した味の個性をもち、どのように調理されても自分のアイデンティティを崩すことがない。ローストビーフであれ、カルビ焼きであれ、そもそも牛の調理とは、いかにその本来の肉の味を引き出すかという一点にかかっている。だが牛は、どこまで行っても牛肉が牛という宿命から逃れることができない。中華料理において素材としての牛肉が豚肉と比べて圧倒的に不振であるのは、もっぱらこの自己完結性によるものである。羊の強烈な個性にしても同様。羊であることを消し去って羊料理を作ることはできない。鴨またしかり。では逆に鶏は、兎はどうだろう。鶏は鴨とは逆に、味が万事において控えめであり、とても塩漬けや角煮といった荒事に向きそうにない。兎は先天的に脂気が欠けているので、しばしばベーコンなどを添えて調理しなければならない。こうして一長一短がある他の肉と比べてみたとき、豚の卓越性は否定しようがない。人間がもっぱら食べるためだけに改良を重ねてきたプロの肉という気がするのである。


 「にっぽん全国 百年食堂」は、雑誌「自遊人」に2008年7月号から2011年11月号連載されたものを単行本にしたもの。 著者が編集者3人と全国の地方都市で百年前後続いている大衆食堂を延々と食べ歩く。

 先取の気概に満ちている県民性の新潟には、洋食をいち早く取り入れた百年食堂の候補がいっぱいあるという。
   「元祖洋食レストラン キリン」の代表メニューは、オムライス。 「鍋とフライパンを上手に使い、タマゴは殆ど半焼けぐらいの状態でかまわずそこにチキンライスをのせてドバッと皿の上にひっくりかえすともう完成」(千二百円)
 上野・精養軒で修業した先々代が、コメがうまいからという理由だけで新潟に来て「首が長いから長持ちするだろう」と、かなりいい加減な理屈で店名を決めた。

 長野県の小諸駅前にある 「揚羽屋」は、島崎藤村直筆の看板がある店として有名。藤村は「千曲川のスケッチ」のなかで、こう書いている、という。
 「そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った」

 茨城県水戸市の 「富士食堂」は、メニューが百種類はある「フアミリーレストラン」の元祖。味はもうひとつだが、著者はこう書く。
 「要するに『土地のヒトが安心する味』というのが厳然としてあって、これを東京で流行っている味だの盛りつけだのにしてしまうと、百年食堂でなくなってしまう、という数値であらわせない『長続きの公式』があるような気がする」

 北海道古平町の 「堀食堂」は、かってニシン漁が盛んだった頃の開店。
 ラーメンにエビの天ぷらが二本のった「天ぷらラーメン」や鶏肉にヒミツの味つけをして衣をつけて揚げた「ザンギ定食」など重労働のヤン衆に好まれそうなメニューが人気だが「実は、二つともニシン漁がすたれた後に始めたもの」と聞いて、取材の一行は不思議そうな顔。

 北海道釧路市の 「竹老園 東家総本店」は、御殿のような造りで、観光バスで団体客がやって来るほど人気のある蕎麦屋。
 極上の上更科粉に新鮮な卵黄をつなぎにしている「藍切りそば」など、蕎麦の種類で変えている「つゆ」がどれもうまく「百年のあいだに積み重ねられた、本物の老舗の味」。暖簾分けで26軒の支店がある、というのもすごい。

 千葉県野田市の 「やよい食堂」は「大盛り」で超有名。
 一人前で、4,5合使うカレーやカツ丼は、皿や丼からこぼれてもよいように受け皿がついている。「安い値段でお腹いっぱい食べさせてあげたい」という思いがふくらみ、歴史を重ねるごとに盛りが大きくなったという。タマネギと肉だけの昔ながらのカレーライスが一番人気だが、大盛りで五百八十円という安さ。

 取材の最後近くで、著者はこう結論付ける。
 「地元の人の好みに変わらず応える味と人間づきあいが、百年を生きる正直な原動力になっている」
 そして駐車場が大きく、厨房が広くて清潔で使用人が沢山いて活気があるのが、流行っている「百年食堂」の二大ポイントだという。

   「あさくさの女」は、伊集院静らしい哀感あふれる艶っぽい小説だが、主人公が浅草の小さな居酒屋の女主人だから、出て来る酒の肴の描写がなかなかいい。

 
志万はすぐに裏に行き、朝方干しておいた柳鰈(やなぎがれい)を取り込み、灰汁(あく)抜きの蕨(わらび)を漬けておいた金ボウルを手に調理場に入った。冷蔵庫の中から朝のうちに開いておいたぐじを包んだ布をほどいた。ふたつの小鍋に火を入れ、 がめ煮と、京菜油揚げの炊き合わせの準備にかかった。氷水を金ボウルに入れ、そこに鰺をつけ、・・・。真空パックから白魚を出す。・・・鍋を洗って天豆(そらまめ)を湯搔(ゆが)く。・・・


 
今日の一番はちらし寿司である。留次が好きだった鯯(つなし)をたっぷりまぶしたちらしである。店裏からいい匂いがしてきた。美智江が椎茸を煮込みはじめている。志万はサヤエンドウを湯搔いている。冷蔵庫から鮪(まぐろ)を出して柵(さく)に分けていく。


 
「ほう、突き出しが天豆に鱲子(からすみ)とは、この不況でもここだけは贅沢だね」
 「贅沢じゃなくて親切でしょう。春から、"志万田(しまだ)"は料金を安くしてくれてるのよ」・・・
 「(肴は)きんぴら、インゲンのゴマ和え、じゅんさい」・・・
 「・・・私は鱧に鴨ロース、それにポテトサラダ」


 

2012年6月12日

読書日記「サラの鍵」(タチアナ・ド・ロネ著、高見浩訳、新潮社クレスト・ブックス)



サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス)
タチアナ・ド ロネ
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  この本が原作の映画は数カ月前に見た。友人から借りて、長い間サイドテーブルに積んだままだった 原作を読んだのは、このゴールデンウィークにポーランドのアウシュヴィッツを訪ねた後だった。

 映画は、第23回東京国際映画祭で監督賞、観客賞をW受賞するなど評価が高かったようだ。ただ、 「イングリッシュ・ペイシェント」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた クリスティン・スコット・トーマスが演じる米国人の女性ジャーナリスト・ジュリアの役割をもう一つ理解できないで終わっってしまった。ユダヤ人少女サラが生きた第二次世界大戦の時代と、ジュリアが生活している現代という2つの時空が交錯するストーリーにいささか戸惑ったせいかもしれない。

 しかし、この本を読んでみると、ジュリアの悩みや生きざま、視点が目や心に焼きついてくる。これは、先日のアウシュヴィッツ体験の結果だったようにも思える。ジュリアが繰り返した「ただ、伝えたい。決してあなたをわすれはしないと」という言葉を、あの場所でも聞いたような気がしてきて・・・。

 この小説はフィクションだが、フランス・パリで起きた1つの史実が軸になっている。

 フランスがナチス・ドイツの占領されていた親ナチスの ヴィシ政権(1940-1944)下で起きた「ヴェルディヴ事件」は、半年ほど前に見た映画「黄色い星の子供たち」の主題でもある。

 映画「サラの鍵」のパンフレットに、 渡辺和行・奈良女子大学教授の小エッセイが載っていた。

フランスは1942年、パリを中心にユダヤ人の一斉検挙に踏み切った。検挙の主役はフランス警察や憲兵で、パリを占領していたドイツ軍の姿はなかった。約13000人が逮捕され、うち家族連れ8000人がパリ郊外の自転車競技場「ヴェルディヴ」に収容された。食糧、水不足で病人も出るなか、数日後にはアウシュヴィッツに移送、子供たちはそのままガス室に送り込まれた。フランスからユダヤ人を乗せた移送列車は計74回、7万6000人を運んだ。


 シラク大統領が「時効のない負債」とフランス政府の責任を認めたのは1995年7月16日。53年前の一斉検挙と同じ日だった。「ヴェルディヴ」跡地に建てられた記念碑には「道行く人よ、忘れるな!」と刻まれている。


 1942年のその日、10歳のユダヤ人少女・サラは、住んでいたアパート来た警官に両親とともに連行されるが、すぐに戻れると信じて怖がる弟を秘密の納戸に隠して鍵をかける。「なんとか、弟を助けなければ」という一念から収容所を脱出したサラは、住んでいたアパートにたどり着くが・・・。

 パリ在住のアメリカ人を対象にした雑誌に勤務していたジュリアは、編集長から「ヴェルディヴ事件」の取材を命じられ「正真正銘のフランス国民だったユダヤ人を、フランス政府自身が迫害していた」事実に衝撃を受ける。

 取材を始めたジュリアは、収容所に送られたはずのサラと弟が行方不明者として名簿にないことをつきとめる。サラ探しを始めたジュリアは、驚くべき事実に直面する。

 ジュリアが愛する夫と引っ越そうとしていたサントンジュ通りアパート。夫の祖母から譲り受けたものだった。
 「そこに、かってサラが住んでいた」・・・。

「あの女の子」(義父の)エドウアールはくり返した。奇妙な響きを帯びた、くぐもった声で。「あの女の子はな、もどってきたんだ。サントンジュ通りに。わたしはそのとき、まだ十二歳の少年だった。でも、忘れられない。この先も忘れられないだろう、サラ・スタジンスキーのことは」


サラと少年(義父)は、納戸の奥で「膝を抱いてまるくなって・・・すっかり黒ずんで、眼鼻立ちもくずれた」小さな人間の塊を見た。サラは「ミッシェル」と絶叫した。


   ジュリアは、収容所から脱出したサラをかくまった老夫婦の孫・ガスパール・デュフォールに会うことができた。

 サラの行方を知りたいと懇願するジュリアに、デュフォールは鋭い眼を向けて何度も尋ねた。「それを知ることが、なぜあんたにとってそれほど重要なのだ。・・・アメリカ人のあんたに」

 
わたしは答えた、サラに伝えたいんです。わたしはいまも彼女のことを思っている。わたしたちは忘れていない、と。・・・


   
「わたし、自分が何も知らなかったことを謝りたいんです。ええ、四十五歳になりながら、何も知らなかったことを」


   サラは1952年の末にアメリカに渡っていた。そして、結婚して子供までもうけながら、自動車で立ち木に激突して死去していた。自殺だった・・・。

 ジュリアは、45歳で恵まれた子供を産むことに反対された夫と別れ、ニューヨークに住むことになった。

 生まれた子供を「サラ」と名付けた。

 
他の名前など、考えられなかった。この子はサラ。私のサラ。もう一人の、別のサラの谺(こだま)。あの黄色い星をつけた、私の人生を根底から変えた少女の谺。


2011年9月11日

紀行「ザ・ノグチ・ミュージアム(米国・ロングアイランド市、2011・8・18)


 この 美術館(ホームページに日本語解説)は、米国人を母、日本人を父にもつ彫刻家、 イサム・ノグチが、自ら財団を作って所蔵作品を集め、1985年に開設した。
 以前このブログに書いた 「イサムノグチ 宿命の越境者」(ドウス昌代著)や映画 「レオニー」(松井久子監督)にふれて以来、ここにはぜひ行きたいと思い続けてきた。

 当初は、ニューヨークに着いた2日目の14日(日)に、日曜だけマンハッタンから出る有料シャトルバスに乗るつもりだった。
 ところが、あいにく2カ月分の雨量が1日で降ったという大雨。ホテルに近い セント・パトリック教会 ニューヨーク近代美術館(MoMA)に行くだけで時間がなくなってしまった。

 やはり小降りにはなったが、雨がやまない16日(火)。地図では黄色で表示されている 地下鉄「N、Q線」に乗った。

以前は、ニューヨークの地下鉄と言えば、構内、車内での落書きや凶悪犯罪行為が続き評判が悪かった。20数年前にニューヨークに仕事で来た時も、1人で乗る勇気がなく、デトロイトからわざわざ出張名目で来てくれた大学時代の友人・Nに連れられて、こわごわ体験乗車したことを思い出す。

 マンハッタン・レキシントン通りの駅から4つ目。イーストリバーを越え、地上に出てすぐの駅名がなんと「ブロードウエー」。確かに、駅と直角に同じ名前の通りが走っていたが、あのニューヨークのミュージカルで有名な 「ブロードウエー」とは、まったく別の通り。「ブロードウエー(広い道)」は"目抜き通り"の意味らしく、米国各地にあるようだ。

   やっと雨が上がったこの通りを20分近く歩き、突き当たりを右折して2ブロック。自動車工場や倉庫に囲まれて、工場を改装したとは思えない一部レンガ造りの瀟洒な建物が、目指す美術館だった。できた当初、地元の人は「日本人の建てた別荘」ぐらいにしか思っていなかったらしい。

 小さな入口が、なぜか開かない?・・・。ぐるりと回って、事務所の鉄製ドアーをたたくと、出てきた小柄な女性が「今日は、サンクスギビング(休日)」と。月曜日が休館日だというのは確認して出かけたのだが、連休とは・・・。ブロードウエーをむっつり戻る。雨はすっかり上がり、暑い日差しが戻ってきた。「ああ、かき氷が食べたい」。入ったスーパーストアーで売られていたシャボテンの葉が気になった。

地上に出た地下鉄[N・Q線」;クリックすると大きな写真になりますブロードウエー駅;クリックすると大きな写真になります中庭にある石柱;クリックすると大きな写真になります石のくぐり戸;クリックすると大きな写真になります
地上に出た地下鉄[N・Q線」ブロードウエー駅中庭にある石柱(イサム・ノグチ美術館で)石のくぐり戸、リラックス!
目玉の石と松の木;クリックすると大きな写真になります水が流れる黒いつくばい?;クリックすると大きな写真になりますサボテンを売る駅前スーパー;クリックすると大きな写真になります
目玉の石と松の木(イサム・ノグチ美術館で)水が流れる黒いつくばい?(イサム・ノグチ美術館で)サボテンを売る駅前スーパー
 あきらめるつもりだったが、実質最終日の18日。「やはり、もう一度」と同行Mに肩を押され、再度「ブロードウエー駅」に降りた。

 入場料は、シルバー割引で5ドル。入ったとたんに「しだいに《石に取りつかれて》いった」(ドウス昌代)というイサム・ワールドが飛び込んで来る。

 大理石、玄武岩、花崗岩・・・。石だけではない。ステンレスや鋳鉄、角材、青銅、アルミ板など様々な材料を使った彫刻がゆったりと間隔を取って置かれている。自然光を取り入れた2階建て、延べ2500平方メートルの館内には、10室のギャラリーに分かれている。塑造や、ゆるやかなタッチで描かれた裸婦や猫の墨絵もある。

 それぞれの制作意図は分からなくても「ああ、この造形いいな」と思えるものがいくつもあり、なんだかほっとできる不思議な空間だ。

 1階からも2階からも自然に入り込める庭園が、また良い。松や竹、ニレのような大木を配置した石庭風の敷地に、大きな目玉をのぞき込みたくなる石柱や真ん中のくぼみから静かにあふれ出た水が壁面を流れ落ちる大きめのつくばいのような黒大理石。  イサム・ノグチは、日本に滞在していた時、昭和初期の作庭家、 重森三玲が造った庭を熱心に見て回った、という。

 その影響を確かに受けていることは感じるが、同時にアメリカの風土が持つカラリとした明るさもある。春には、コブシや枝垂れ桜も咲くらしい。

 この美術館の正式名は「イサム・ノグチ庭園美術館」。日本の四国・高松にあり、どうしても行ってみたいと思っている 「イサム・ノグチ庭園美術館」と同じ名前なのである。

 やっと朝から快晴になった17日(水)には、ニューヨークに来れば逃せない メトロポリタン美術館を訪ねた。それも、ニューヨークにいる娘が親しくさせていただいている方が、この美術館の友の会?メンバーで、我々をゲストとして無料入館させもらえるという。

 約束の午後1時前。美術館向かいの高級マンションらしい建物前の植え込みに座って娘を待つ。なんと、そのマンションの高層階が招待していただいたEさん一家の住まいだった。セントラルパークが一望できるお宅でお茶をごちそうになり、ご主人のご厚意という分厚い美術館ガイドまでいただいた。案内していただいた美術館入り口で、胸に付けるアルミ製の青いバッジを受け取る。お世話になりました、Eさんご一家。

 前回来た時にわけも分からずウロウロして、すっかり疲れたことを思い出し、見るのは2階の「ヨーロッパ絵画」に限った。

 ルノアールのゆったりした名品の数々。モネの「睡蓮」、ゴッホの名作が、これでもか、これでもかと押し寄せる。スーラ、ピカソ、マネ、ミレー、クールベ、ドガ、セザンヌ・・・。ウイーンでたっぷり見たクリムトも数作。
 「そうだ、フェルメールを見ていなかった」。ギャラリーを何度も行き来し、案内の人にたずねてやっと「水差しをもつ若い女」「若い女の肖像」「信仰の寓意」に出会えた。

 一休みしようと、屋上庭園カフエに出たが、暑い!周辺の摩天楼をカメラに収めただけで逃げだし、また2階をウロウロ。膨大な作品群に圧倒され、疲れはて、1階にある巨大なエジプト「デンドウ―ルの神殿」の奥にあるカフエにどっと座り込んだ。

 鉄鋼王のコレクションを集めた 「フリック・コレクション」も2度目だが、フェルメールの作品が3つもあるのは初めて知った。
ルノアール「シャンバンティエ夫人と子供たち」;クリックすると大きな写真になりますゴッホ「ひまわり」;クリックすると大きな写真になりますクリムトの作品;クリックすると大きな写真になりますミレー「干し草の山」;クリックすると大きな写真になります
ルノアール「シャンバンティエ夫人と子供たち」(メトロポリタン美術館で)ゴッホ「ひまわり」を初めて見た!(メトロポリタン美術館で)おなじみクリムトの作品(メトロポリタン美術館で)ミレー「干し草の山」(メトロポリタン美術館で)
フエルメール「若い女の肖像」レンブランド「自画像」(メトロポリタン美術館で)屋上庭園から見える摩天楼;クリックすると大きな写真になりますエジプト「デンドウール」の神殿;クリックすると大きな写真になります
フエルメール「若い女の肖像」(メトロポリタン美術館で)レンブランド「自画像」(メトロポリタン美術館で)屋上庭園から見える摩天楼(メトロポリタン美術館で)エジプト「デンドウール」の神殿(メトロポリタン美術館で)


 近代美術館(MoMA)では「ここでしか見られない」ことで評判のセザンヌ・「水浴する人」、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」だけでなく、アメリカ近代・現代を代表するポロックの「ワン;ナンバー31」、リキテンスタイン・「ボールを持つ少女」、ウオーホル作「ゴールド・マリリン・モンロー」にも初めて出会えた。いやー、満足、満足!
ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」;クリックすると大きな写真になりますセザンヌ「水浴する人」;クリックすると大きな写真になりますウオーホル「ゴールド・マリリン・モンロー」;クリックすると大きな写真になりますリキテンスタイン「ボールを持つ少女」;クリックすると大きな写真になりますポロック「ワン;ナンバー31」;クリックすると大きな写真になります
ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」(MoMAで)セザンヌ「水浴する人」(MoMAで)ウオーホル「ゴールド・マリリン・モンロー」(MoMAで)リキテンスタイン「ボールを持つ少女」(MoMAで)ポロック「ワン;ナンバー31」(MoMAで)


 19世紀の終わり、アメリカの世界的規模の美術館がないことを憂えた実業家たちの会合で、メトロポリタン美術館の開設を決めた時、建物はおろか、1点の絵画さえ所有していなかった、という。
 建国してたった200余りで世界トップクラスの所蔵を誇る美術館を持つ。アメリカという国のすごさを思う。

 9・11、10年を迎えた。訪ねた「グラウンド・ゼロ」では、記念公園の整備と新しい高層ビルが建設中だった。 br />
 テロとの抗争、ドルの価値低下、経済の低迷。アメリカが悩んでいる・・・。それだけ、各美術館に遺された作品群が輝きを増しているようにも思えた。

2011年8月31日

読書日記「陰翳礼讃」(谷崎潤一郎著、中公文庫)


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 8月下旬にニューヨークを次々に襲った百数十年ぶりの地震と、ウオール街近くまで洪水が迫った  ハリケーン「アイリーン」を 予知していたわけではないのだが・・・。
その直前に娘のいるマンハッタン島に出かけた。酷暑を覚悟して行ったのに、朝の気温が華氏70度(摂氏20度)前後と、すっかり初秋の気配だった。

 3度目のニューヨークだが、ミュージカル劇場がひしめく タイムズスクウエア周辺を別にすると、いつもながら夜の街並みの暗さが気になる。

 街だけではない。ホテルの部屋の枕元のライトでは本も読めない。レストランの照明も天井にわずかに付いているだけで薄暗い。部屋全体を明るくする日本のやり方に慣れていると、間接照明はなんとなく落ち着かない

タイムズ・スクエアー;クリックすると大きな写真になりますステーキハウス;クリックすると大きな写真になりますスターバクス・コーヒー店;クリックすると大きな写真になりますオイスターバー;クリックすると大きな写真になります
ミュージカルが引けた直後の不夜城、タイムズ・スクエアー昼なお暗きステーキの名店「ウオルガンフ ステーキハウス」スターバクス・コーヒー店も、この暗さ(ロックフェラーセンターで)懐かしのオイスターバーでは、夏でも牡蠣は食べられました。20年前もこんなに暗かっただろうか(セントラルステーション地下で)
 機中で読んだ「陰翳礼讃」に、こんな記述があった。

 
先年、武林夢想庵(滞欧生活の長い知人の小説家)が巴里から帰ってきての話しに、欧州の都市に比べると東京や大阪の夜は格段に明るい。巴里などでではシャンゼリゼエの真ん中でもランプをともす家があるのに・・・。


 
夢想庵の話は、今から四、五年も前、まだネオンサインなど流行り出さない頃であったから、今度彼が帰って来たらいよいよ明るくなっているのにさぞかし吃驚(びっくり)するであろう。


 
これは 「改造」山本社長に聞いた話しだが、かつて社長が アインシュタイン博士を上方へ案内する途中汽車で石山のあたりを通ると、窓外の景色を眺めていた博士が、「あヽ、個処に大層不経済なものがある」と云うので訳を聞くと、そこらの電信柱か何かに白昼電燈のともっているのを指したと云う。


 著者・谷崎は、こう結論づける。

 
何にしても今日の室内の照明は、書を読むとか、字を書くとか、針を運ぶとか云うことは最早問題ではなく、専ら四隅の蔭を消すことに費やされるようになったが、その考は少なくとも日本家屋の美の観念とは両立しない。


 そして伝統的な日本家屋を構成する「陰翳」の美に「礼讃」を惜しまない。

「ほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払う力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じる」障子。「もやもやとした薄暗がりの光線で包んで。何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧とぼかして置いた方がよい」厠(かわや、トイレ)。
「外の光が届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠く遠く庭の明かりの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返している」様子や、お膳に並ぶ漆器が「暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいる」のを眺めことにまで、「陰翳」の美を見つけるのである。


 この6月に出た、言語学者で慶応大学名誉教授の 鈴木孝夫氏の 「しあわせ節電」(文藝春秋刊)という本を読んだ。

 鈴木氏は言う。
 
高速道路を照らし続けるオレンジのカドニウムライト、二十四時間営業のコンビニエンスストア、深夜まで放送を続けるテレビ・・・私たちの身近には、いつのまにか不要不急電気製品が大量にあふれかえっていました。


 そして「ほんの少し前の日本人の生活に戻るため、進歩を少し止め」「部屋の電気は暗いものと考えて、今すぐできる節電・節約を」と呼びかける。

 
いま否応なしに要請され始めた節電の日々は、目に見える所で、肌に感じる形で、何が幸福かを問いかけてきます。節電という生き方の中に「しあわせ」のあたたかい灯が、感じられてくるのです。久しく失っていた美しい星空が、再び都会の空に戻ってきたのです。


 最近、寝る前に居間の電気を消し、合成樹脂製の疑似障子窓から漏れる暗やみの明るさを楽しむことにした。政府や電力会社の押しつけがましい節電要請とは無縁な「陰翳礼讃」である。

しあわせ節電
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2011年7月14日

読書日記「ウアヴェリ地球を征服す(旧題:電獣ヴァヴェリ)=『天使と宇宙船』より」:フレドリック・ブラウン著、小西 宏訳、創元SF文庫



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 このSF小説は、内田樹・神戸女学院大学名誉教授のブログで知った。太陽系外の獅子座からやって来たらしい「電気を食べる生物」のために地球上から電気がなくなってしまう、という1967年の米国での話しである。

 鉄道はディーゼルに替わり蒸気機関車の使用態勢が整い、電信と電気信号なしに運転されるようになった。馬は1頭残らず政府の監督下に置かれ、積極的な繁殖計画で、6,7年後には国内全部のガレージに馬が1頭ずつつながれる見通し。
 工場はすべて24時間稼働で蒸気機関を生産、十分に蒸気機関が整ってから、石油ランプ、衣類、石炭・石油ストーブ、浴槽、ベッドの生産を始めた。また、家具、靴、ローソクなどを作る個人的な手工業も芽生えてきた。

 ニューヨークでラジオのCM作家をしていたジョージは、コネティカット州の田舎町に引っ込み、小さな新聞社を経営している。その町にやってきた旧友からニューヨークの様子を聞く。
 
「人口は百万ほどに減ってしまって、そこで一応おちついている。人ごみもないし、万事、余裕しゃくしゃくだよ。空気はーーなにしろガソリンの臭気がないから・・・」
 「乗り回せるだけの馬は、もうそろっているの?」
 「ほぼね。でも、自転車が大流行だよ。丈夫な人間は、みな自転車で通勤している。健康にもいいんだ。もう二、三年もすれば、医者にかかる人間が減るだろうよ」


2人とも、なぜか強い酒を飲まなくなった。「おたがいに飲む必要がないから、飲まないってことだなーー」。夜のすごし方も変わった。
 
「なにをするって?読んだり、書いたり、訪問しあったたり、・・・。映画がなくなったので、猫も杓子も芝居熱につかれている・・・。音楽はいうまでもないよ。一億総楽士だよ」

今夜のコンサートに飛び込み参加することになった旧友のフルート、ジョージのクラリネット、妻のピアノの合奏が始まる。

 内田名誉教授のブログは引用自由ということらしい。関西電力が求めた一律15%節電について、こう書いている。

 
私自身は電力浪費型のライフスタイルよいものだと思っていないので、節電が15%でも50%でも、最終的には100%になっても「それはそれでしかたがないわ」と思うことにしている。
 だから、電力会社が「これからはできるだけ電気を使わないライフスタイルに国民的規模で切り替えてゆきましょう」というご提案をされるというのなら、それには一臂の力でも六臂の力でもお貸ししたいと思っているのである。
 でも、この15%節電は「そういう話」ではない。
 電力依存型の都市生活の型はそのままにしておいて、15%の節電で不便な思いを強いて、「とてもこんな不便には耐えられない。こんな思いをするくらいなら、原発のリスクを引き受ける方がまだましだ(それにリスクを負うのは都市住民じゃないし)」というエゴイスティックな世論を形成しようとしているのである。


電力に限らず、有限なエネルギー資源をできるだけていねいに使い延ばす工夫をすることは私たちの義務である。
 そして、その工夫はそのまま社会の活性化と、人々の未来志向につながるようなものでなければならない。
 70年代に、IBMの中央集権型コンピュータからアップルのパーソナル・コンピュータという概念への「コペルニクス的転回」があった。
 同じように、電力についても、政官財一体となった中枢統御型の巨大パワープラントから、事業所や個人が「ありもの」の資源と手元の装置を使って、「自分が要るだけ、自分で発電する」というパーソナル・パワー・プラント(PPP)というコンセプトへの地動説的な発想の転換が必須ではないかと思うのである。


 脚本家の倉本聰が、自ら塾長を務める富良野自然塾の季刊誌(2011年夏号)で「ヒトに問う 東日本大震災に寄せて」という巻頭文を載せているのを新聞で知った。

 
「覚悟」という言葉を今考える。
 我々はこの不幸な大事故後の人間生活のあり方について、大きな岐路に立たされている。
 一つの道は、これまで通り、経済優先の便利にしてリッチな社会を望む道である。その場合これまでの夜の光量、スピード、奔放なエネルギーの使用を求めることになるから、現状では原発に頼らざるを得ない。その場合再び今回同様の、もしかしたらそれ以上の、想定外の事故に遭遇する可能性がある。
 その時に対する「覚悟」があるのか。


 
今一つの道は今を反省し、現在享受している便利さを捨てて、多少過去へと戻る道である。この場合、今の経済は明らかに疲弊し、日本は世界での位置を下げる。そうしたことを認識した上で今ある便利さを、捨てさる「覚悟」があるのか。


 
以上二つの選択の道を宮津市の講演会で問うてみた。
 その日の講演会場は八百の客席が満員。一階が一般市民。二階が全て高校生だった。まず一般市民にのみ問うてみた。
 何と90%が、過去へ戻る道。
 一寸驚いた。
 次に高校生たちの問うてみた。一般市民は首をめぐらし、二階席を仰ぎ見た。
 70%が、今の便利さをつづける道。30%が便利を捨てる道。静かなどよめきが会場に流れた。
 全国民に僕はこの二者選択の答えを聞きたい。


2011年7月 2日

読書日記「日本経済復活まで 大震災からの実感と提言」(竹森俊平著、中央公論新社刊)

日本経済復活まで―大震災からの実感と提言
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 5月中旬に大震災に関する経済書が次々と発刊された。3冊ほど買ったが、図書館で借りたこの本を"返済期限"というデッドラインのおかげで最初に読んでしまった。第一部は日記形式の「実感」篇、第二部が標準的な経済書スタイルの「提言」篇になっている。

 「なんだ、上げ底か」と思ったが、この「実感」篇は予想外に興味ある内容だった。とくに「安全基準の想定外」というテーマについて、多くのページが割かれている。

 筆者はまず、原発の耐震安全性についての毎日新聞の3月23日付け(インターネット版)記事を紹介している。国会審問で社民党の福島党首が、原子力安全委員会委員長の過去の発言を問いただしたところ「その委員長は、<07年2月の中部電力浜岡原発運転差し止め訴訟で、複数の非常用発電機が作動しない可能性を問われ『そのような事態は想定しない。想定したら原発はつくれない』と発言した>という」。

 
この発言からうかがえるのは、「どこ」までを想定範囲にするかは所詮、「どこか」までを範囲としないかぎり原発がつくれないために便宜的に決められたものであって、想定された「範囲」それ自体には、かならずしも絶対的な根拠はないという事実である。


要するに、日本の原発についての安全システムと、電力の供給についての安全システムは「想定範囲を超える規模の地震は起こらない」という前提にすべてが依存していた。それゆえ、ひとたびその前提が崩れ、事態がどんどん悪化していくと、次の防御が存在せず、管理が不能で、危機がひたすらするという仕組みになっていたのである。一つの前提に、国民の生命の安全と経済機能の安全とがすべて寄りかかっていたという点で、日本のシステムはまさに「一点張り」の仕組みだった。その「一点張り」が外れて、われわれの暮らしは重大な危機に晒されている。


 そして筆者は、今回の原発事故についてニューヨークタイムズ、フィナンシャル・タイムなどが危機状況をずばずば報道している事実に着目する。これに対し、日本政府が「もし重大な事実を隠ぺいして発表した」とするなら、それは「首都圏の人口を退避させるのが不可能だから」ではないか?という大胆な推論を展開する。

 
しかし、日本政府が曖昧な発表をつづける一方で、海外のマスコミが真実の踏みこんだ報道をしているだとすると、重大なジレンマが生じる。そうした海外の報道を聞いて、それに基づいて行動を起こせるのは、金融界の人々、エリート、富裕層といったグループだろう。彼らは報道を知って、必要とあれば東京から退避する、他方で、日本政府の発表しか利用できない者は、その発表を信じて東京に残る。・・・


 以前から気になっていた記事があった。6月12日付け産経新聞に載っていた国際原子力機関(IAEA)元事務次長、ブルーノ・ペロード氏への インタビュー記事である。

 このなかで、元事務次長は「福島第1原発が運転していた米国ゼネラル・エレクトリック(GE)製の沸騰水型原子炉 マーク1型については、1970年代から水素爆発の危険性が議論されていた」と指摘、東京電力に対し、格納容器や建屋の強化を助言した、という。
 しかし東電は「GEが何も言ってこないので、マーク1型を改良する必要はないと答えた」。自然災害対策を強化するというIAEA会合での約束も怠っており「東電の不作為はほとんど犯罪的」と、元事務次長は弾劾している。

 先日、ある会合で原子炉の基本設計をしていた元電機メーカーの技術者・Mさんの話しを聞く機会があり、この記事について質問した。Mさんは「マーク1型の安全上の欠陥は以前から指摘されていたが、1つの原発を改良すると、すべての原発に及ぶことを電力会社は懸念したのですよ」と説明してくれた。
 竹森教授の言う「『一点張り』の仕組み」から抜け出そうとしない、まさに"犯罪的"な思考が電力会社を支配しているのだ。

 雑誌、 中央公論7月号が「『想定外』の虚実」という特集を組んでおり、 畑村洋太郎・東大名誉教授へのインタビュー論文「『 失敗学』から見た原発事故」が載っている。
 そのなかで畑村教授は、まさに思考方式の転換を求めている。

 
通常、物事を進めるときには、大きな課題を分析し、小さな課題に落としこんで解決していく。これを「順演算」と呼ぶ。しかし、この思考方式では、「想定漏れ」が起きる危険性がある。
 そこで必要になるのが「逆演算思考」だ。「事故は起こる」と最初に想定し、それを防ぐためには何をすればいいかを、スタート地点に遡りながら考えるやり方である。その結果、「順演算」では見えていなかった失敗の原因を探ることができる。「うまくいく」ではなく、「うまくいかない」から出発することでしか、「想定外」の事態は見えてこない。


 畑村教授は、このほど 今回の事故を調査・検証する委員会の長に就任した。原発肯定論者という見方もあるようだが、はたして"張りぼて"の安全神話を葬り去ることができるかどうか。

2011年1月17日

読書日記「イサム・ノグチ 宿命の越境者 上・下」(ドウス昌代著、講談社文庫)



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 このブログにも書いたが、昨年末に見た映画「レオニー」が、年が明けても尾を引いている。

 映画を見終えてすぐ、1階下の書店で表記の文庫本2冊を買った。日系2世のアメリカ人彫刻家、イサム・ノグチの詳細なドキュメンタリー伝記だ。読み終えて、この人最後の作品となったモエレ沼公園 をどうしても見たくなった。先週末、神戸空港からANA便に乗り、大雪の札幌に向かった。

 札幌郊外にあるこの公園は、海に近いだけ市街地より雪が多いらしい。JR札幌駅下の地下鉄で3駅、そこから約30分バスに揺られ、降りたバス停から方向も分からなくなるほど降る雪の中を約20分。やっと、この公園のシンボルである「ガラスのピラミッド」(愛称・HIDAMARI)に飛び込んでひと息ついた。

 事前に問い合わせたとおり、イサム・ノグチが長年温めていた構想がやっと実現した「プレイマウンテン(遊び山)」も、公式の地図にもちゃんと載っている札幌一低い人工の山「モエレ山」(標高62メートル)も雪ですっぽりおおわれていた。

 そのモエレ山で、子どもたちが喜々としてソリ遊びをし、カラマツの森の周りをスキーで歩いている人がいる。広い公園の雪の下には、ノグチが「閑(レジャー)を大切にする」というコンセプトでデザインした遊具や、サンゴに囲まれた池、噴水からの水が流れる運河が春まで眠っている・・・。

 ノグチ自身が「HIDAMARI」2階のギャラリーに置かれた映像施設で語っていた「地球そのものを彫刻する」という世界観をしっかりと実感できた雪見行だった。

 イサムは、日本人詩人・野口米次郎とアメリカ人の教師でありジャーナリストのレオニー・ギルモアの間で1904年にニューヨークで生まれた。2歳の時に母とともに来日するが、米次郎にはすでに日本人の妻がいた。イサムは生涯、私生児として生きた。

 《「バカ」「ガイジン」と毎日、罵られた。アイノコなのが、ただの外人よりよくないとされた。なぜだかよくわからずに、でも自分だけが他の子供たちの世界に属せないのを意識させられた》


 《結局、ぼくのような生まれには、帰属問題がつねについてまわる。それが問題とならないのは芸術の世界しかない。・・・芸術家には自分しかない。一人だけで何かを作りあげていく、孤独な世界だ。孤独の絶望からこそ、芸術は生まれる》


 19歳の時、母親に勧められて医学校を辞め、グリニッチ・ヴィレッジの近くにある美術学校に入る。校長は「初対面で、イサムのけた外れな天分を直感した。ミケランジェロの再来だと思った」

 イサムは雑誌インタビューで「創造の源泉となった力は?」と聞かれて《怒り》と答えている。
 《絶望と闘争ともいえる怒りだ。闘争こそ創造を刺激する源だ》


 彫刻家をめざしたとき、イサムを奮い立たせた怒りの根源には、父親米次郎の姿がある。自分に日本の国籍をあたえなかった父親への行き場にない愛憎が、イサムの野心に火を放つ。無断でノグチ姓を選ぶことで、自分の権利としての「日本人」を主張した。父親の姓を名乗ることで、イサムは自分の内部ではげしく燃える炎を、逆に生きるエネルギーに置き換えようとした。


 イサム・ノグチの作品を生みだす、もう一つのエネルギーは、その豊潤かつ怒涛のような女性遍歴だったのかもしれない。

 著者は、イサムが愛した女性たちをくわしく記述している。画家、舞踏家、女優、美術評論家、作家、インド・ネール首相の姪ナヤンタラ・・・。メキシコの画家、フリーダ・カローラと密会しているのを夫のリベラに見つかり「屋根越しに逃げるイサムをリベラがピストルを手に追いかけた」。そして、女優山口淑子との結婚と離婚。

 イサムが京都にくれば顔をあわせた佐野藤右衛門は、イサムの作品の「色気」に感心して、あるとき「あんないい色、どこから出すんや」と尋ねた。「このおなごから」とイサムは真顔でそのとき一緒にいた若い女性を指さした。


 数多くの彫刻、庭園設計で評価を高めていったイサムは、しだいに《石に取りつかれて》いく。

 石の本性は重さにある。重力と闘うのは「離れ業」である。・・・最も深遠な価値は各材料本来の性質のなかにこそ見出されるべきだ。いかにして、これを壊すことなく変貌せしめるか!》


倉敷・大原美術館の庭園にあるイサム作品;クリックすると大きな写真になります
昨年末に訪ねた倉敷・大原美術館の庭園にあるイサム作品、「山つくり」とあった
 現在、アメリカ美術界でイサム・ノグチという日本名をもつ彫刻家について語られるとき、「ノグチの本領」として評価されるのは、晩年の約二十年間に制作した石彫である。「彫刻に自然を取り入れた」とも評されるユニークな石の彫刻は、すべて牟礼の仕事場で制作されたものである。


 石工からスタートしてイサムに育てられた彫刻家、和泉正敏との出会いである。

 高松市牟礼にある「イサムノグチ庭園美術館」、ニューヨーク・ロングアイランド市の「the Noguchi museum」・・・。「イサム・ノグチへの旅」を続けたい思いがつのる。

▽参考にしたWEBページ 「ISAMU NOGUCHI PRIVATE TOUR」

ガラスのピラミッド;クリックすると大きな写真になりますモエレ山;クリックすると大きな写真になりますイサム作の黒御影の滑り台;クリックすると大きな写真になります北海道神社;クリックすると大きな写真になります
モエラ沼公園のシンボル「ガラスのピラミッド」は、半分雪に埋もれていたピラミッドから見たモエレ山。午後から雪もやみ、雪遊びの人々が増えた札幌・大通り公園にあるイサム作の黒御影の滑り台。雪まつりの準備で、立ち入り禁止だった最終日に訪ねた北海道神社。第二鳥居の前にあるフレンチの「モリエール」でランチを堪能、前日夜は南3条の「oggi」でイタリアンを。同行3人がプレゼントしてくれた思いもよらない古希記念の"口福"