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2008年11月18日

蓼科・紅葉紀行(2008・11・1~3)



 紅葉を訪ねて、11月の初めに信州・蓼科に出かけた。

 昨年7月には、蓼科にある友人・I君の山荘を訪ねたが、今回は友人Mが加入している「エクシブ蓼科」というリゾートクラブに同行させてもらった。

 午後に大阪を出たので、中央線・茅野駅着が午後5:30。すっかり暗くなって、なにも見えない。翌朝、部屋から見えるカラマツ林の黄葉と葉を少し残した白樺、窓から流れこむ冷気が、やっと信州を感じさせてくれた。

 タクシーで横谷渓谷の入り口、横谷観音へ。

 ここは、昨年の夏、I君の別荘を辞した後、若い時によく歩いた八ヶ岳を見たくて泊まった奥蓼科温泉の近く。ここから八ヶ岳・縞枯山ロープウエイまでのバスに乗ったが、雨だった昨年とは大違い。紅葉狩りの観光客でけっこうにぎわっている。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります タクシーの運転手さんは「1週間遅かったね。先週は、それはきれいだった」と言ったが、観音入口まで道路にある紅葉(写真①)は、けっこうな色合いだ。

 運転手さんに勧められて、世界の樹木の化石などを集めた「柏木博物館」をのぞいた(運転手さんが受付の人に声をかけてくれ、入場料が100円安くなった)。埋れ木に浸みこんだ溶岩の鉱物が創り出す不思議な文様はいつまで見ていてもあきない。入口前にあるドウダンツツジの生垣も見事だ(写真②)。

クリックすると大きな写真になります  横谷観音展望台に下った。雲ひとつない快晴の空の向こうに、すでに冠雪したアルプスの山々がくっきりと望める。(写真③)
 右から北アルプス。学生時代に友人Sと新雪を踏んで登った西穂高。その奥に槍ヶ岳。中央アルプス・御岳山では、ご来光を仰いだ後に、うとうとしてしまって紫外線を浴びすぎ、翌日、顔の皮がすっかりむけてしまったことを思い出す。左に見える南アルプス・北岳は、腰痛で途中断念した忘れられない山だ。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 展望台からけっこうきつい下り坂をゆっくりと30分。王滝(写真④)で一休み。朝食の残りのパンにジャムをはさみ、携帯燃料で沸かしたお湯でいれた紅茶にアイル島のシングルモルトをちょっぴりたらす。 確かに紅葉のピークは過ぎているようにみえるが、赤や黄色、茶色のコラボレーションはけっこう楽しめる。1時間半ほど下った乙女滝(写真⑤)付近の紅葉は、これからという感じ。




クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 元気いっぱいの友人Mに引きずられて、蓼科湖までさらに2時間弱、イチョウの黄色や周辺の山々の紅葉(写真⑥)をめでながら歩いた。蓼科湖で紅葉の群落をたっぷり楽しみ(写真⑦)、湖畔の蕎麦屋でざるそばと熱燗。



 翌朝は、タクシーで、尖石(とがりいし)縄文考古館に向かう。

クリックすると大きな写真になります 途中、運転手さんに「東山魁夷が描いた池を見に行かないか」と誘われた。湖畔に白い馬がたたずむ、あの絵「緑響く」だ。奥蓼科温泉方向へ左折して10分前後。御射鹿池は農業用のため池だが、カラマツ林のすぐそばに作られたためだろう。黄葉の林を水面に映しだしている(写真⑧-2)。タクシー代で3000円前後のぜいたくな寄り道。

 途中、南八ヶ岳の山々が見事に望める。山麓のオーレン小屋を起点に、横岳、赤岳、硫黄岳をよく歩いたものだ。硫黄岳のガレ場に群生していた高山植物の女王、コマクサの見事さを思い出す。同じ高山植物のセリバオーレンから名づけられたオーレン小屋は、今でも健在だという。もう、山頂に立つのが難しいだろうが、別棟の風呂小屋もまだあるのだろうか。

 横谷渓谷の下流にかかる橋を渡る。見事なカラマツの黄葉だ。なぜか、このあたりはカラマツが多い。八ヶ岳山麓あたりは唐檜(とうひ)の原生林?が多かったが。

 運転手さんによると、これらのカラマツ林は明治時代から戦後にかけて、このあたりに開拓に入った人々が植林したのだという。「成長は早いが、使い道が少ない。チップにしてしまうしか・・・」

 しかし、たまたま読んだ宮崎駿監督の「折り返し点」のなかに「カラマツは役に立つんです」と話す講演記録が載っている。「電信柱や炭鉱の坑木として、カラマツはお金になると言われて、いま八ヶ岳南麓を占める森になったのです。・・・長野オリンピックではカラマツの集成材を使ったスケートリンクが話題になりましたが、集成材にすれば巨大な建物も全部木造で造れます」

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 尖石(とがりいし)縄文考古館は、昨年夏にI君に連れていってもらったが、もう一度、あの国宝の土偶「縄文のヴィーナス」(写真⑨)を見たくなった。

 切れ長の目の顔に続く、デフォルメされたおなかや尻の見事さに、縄文文化の奥深さを思う。重要文化財の土偶「仮面の女神」(写真⑩)は、死の霊から守るために仮面をかぶっているという。その後に続く日本人の死生観の原点をみる思いがする。

 考古館周辺は、尖石遺跡や与助尾根遺跡の住居などが整備された史跡公園(写真⑪)になっている。

 広い緑の芝生や林の落ち葉を踏みしめて歩きながら、縄文文化の素朴な豊かさに思いをはせた。

2008年9月28日

知床紀行③(終)「見えてくるアイヌ民族への差別」


 世界遺産登録を審査する国際自然保護連合(IUCN)は、2004年の7月に知床の登録を認めた際、今後の知床管理(自然保護)にアイヌ民族が参画を促し、アイヌ文化を生かしたエコツーリズムを開発すべきだと勧告している。

 知床はアイヌ語で「シリエトク(大地の果て)」を意味するし、アイヌ民族の遺跡も多い。世界遺産・知床は、もともとアイヌ民族の地だったのだ。

 まったくの無知だったが「そういうことなら」と、知床への旅の最終日に「アイヌ民族・聖地巡礼」というエコツアーに申し込んだ。あまり人気がないのか、参加したのは私と友人・Mの二人だけ。

 アイヌ民族の母と日本人の父の間に生まれた自然ガイド・Hさんは、もともと旭川の「ペニユンクル(川上に住む人の意)」の出身で、面長な精悍な顔つき。知床など道東に住むアイヌ民族は彫りの深い丸顔の人が多く、アイヌ民族にも様々な種族があることを教えられた。

 最初に行ったのは、小学校の跡地。小学校ができる前には、アイヌ民族の砦や住居、見張り台であり、祈りの場でもあったチャシ(城柵という意味)の遺跡があったそうだが、現在は跡形もない。

 対岸には、ウトロ港のわきにあるオロンコ岩が見下ろせる。ここ住むオホーツク海を渡ってきたなぞの部族・オロッコ族とは、長年闘争が続いていた。ある時、アイヌ民族は、木と草で作ったクジラの上に魚を乗せて浜に置いた。オオセグロカモメなどの海鳥が群がったのを見て、オロッコ族はクジラの肉を取りに岩を降りてきた。そこを一網打尽。オロッコ族は滅んだ・・・。

クリックすると大きな写真になります 国道334号線沿いの樹木に囲まれた暗いくぼ地に、白い土嚢を積み上げてあるところがあった。アイヌの儀礼として有名なイヨマンテ(熊の霊送り)の遺跡だという。(写真①)

 数年前に北海道大学の発掘隊が、土器や矢じり、熊の骨などを採取した。しかし、ここは地元漁民の私有地。川に遡上したシャケなどを採るアイヌ民族への漁民の反発は昔から強く、遺跡もこれ以上の保存ができないでいる、という。

 うっそうと樹木が茂る山に入った。その前に,Hさんは山の神に祈りをささげる。両手をすり合わせ、山の空気を感じて手を広げる。「武器はなにも持っていません。指も5本ともそろっています」と、入山の許しを得る祈りだ。

 道もない、けっこう険しい山腹をつたや木の根をつかみながら登ること約30分。細い道のある平地に出た。「あれ!これ、やじりにしては大きいなあ」。Hさんが、黒い三角形をした小石を拾い、渡してくれた。長さ約5センチ、底辺が約4センチ、先端が1センチ強。小さな削り跡もある黒曜石。13,14世紀のアイヌ文化期のものだというが、小道でHさんが拾ったタイミングが、ちょっと出来すぎという感じ。ツアー参加者へのサービスかな?。

クリックすると大きな写真になります オホーツク海が見下ろせる台地に出た。回りに、2メートルほどの溝のようなものがあるのが特色のチャシ遺跡の一つだった。(写真②)

クリックすると大きな写真になります Hさんが、オホーツク海の荒波を見下ろす崖際で、アイヌ伝統の楽器・トンコリを弾いてくれた。赤エゾマツで自作したもので、曲もオリジナル。「あなたのこころにそっとふれさせて」「わたしのこころをあなたにさしあげます」・・・。文字を持たないアイヌの言葉が、低い弦の音とともに風に乗っていった。(写真③)

 アイヌ民族は、無駄に木々を傷つけない。しかし、帰り道で「ちょっと、折れているところがあるから」と、キハダという木の表皮を小刀で削り、内側の小さな黄色い樹皮をくれた。Hさんは、お腹が痛くなるとこの樹皮を食べさせられ、キズにも効くという。友人・Mが山を這い登る時に手に軽いケガをして血が出ていたので、この樹皮でこすってみると、翌日にはすっかり治っていたのには、びっくり!

 広辞苑を引くと「黄肌」という生薬だった。自然と共生するアイヌ民族の知恵の一旦にふれることができた。

クリックすると大きな写真になります オシンコシン(エゾマツのはえている川)の滝(写真④)の近くにあるオンネペツ川(大きなかわ)に、カラフトマスを見に行った。前日から、漁は解禁されていたが、カラフトマスは、河口でグルグル泳ぎ回っていた。海水から真水の川に入るのにちゅうちょ?しているらしく、数日後には産卵のために一斉に遡上するらしい。沖合いに、マス漁の漁船が波に揺れている。コンブのふくよかな匂いがあふれる豊かなオホーツクの海だった。

 しかし、アイヌ民族は、昔のようにマスやシャケを自由に採ることができない。「アイヌ民族を先住民族として認める決議」が昨年の国会で採択されたが、知床管理計画にどうアイヌ民族を参加させるかについての、具体的な動きはまだない。それどころか、先日は就任したばかりの中山国土交通相が「日本は非常に内向きな単一民族」などと発言して、反発を買うおそまつさだ。

 しいたげられた民族が、この日本に存在することを忘れるわけにはいかない。

参考にしたい本
  • 「もうひとつの日本への旅」(川田順造著、中央公論新社)
    「1万2千年前にくらいから・・・縄文文化を生んだ人たちがいて・・・それがアイヌと、現在の私たちのかなりの部分との共通の先祖であったことは、ほぼ疑いない・・・」
  • 「学問の暴力」(植木哲也著、春風社)
      幕末にイギリス人がアイヌの墓から人骨を盗掘した事件や北海道大学の研究者が研究目的でアイヌ人骨を墓から掘り出し、現在でも大学は1千体以上のアイヌ人骨を保管しているという、驚くような事実を明らかにしている。

 この本を新聞で書評した米本昌平氏は「学問の名の下に、アイヌの人たちの伝統や尊厳を踏みにじる所業を許したのは、最近までわれわれの心に塗り込められていた、知的権威に対するあがめ立てと、差別感覚であったことは、再認識しておく必要がある」と、書いている。

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2008年9月19日

知床紀行②「野生動物との共生」


 世界遺産・知床の象徴であるヒグマには、2度ほど遭遇というより、遠くからかいま見ることができた。

 1回は、この時期だけ行けるというカムイワッカの滝を見に出かけたバスのなかから。道路沿いの斜面をゆっくり歩いていた。双眼鏡で観察していた監視員によると、アリを食べにきた子グマだという。

クリックすると大きな写真になります このカムイワッカの滝(写真①)は、緩やかな岩面を川の水と温泉の水が混じって流れ落ちており、触ると温かい不思議な滝だ。アイヌ語で、カムイワッカとは「神の水が流れる川」。温泉の酸性が強いので、岩面にコケなどがつかないから、トレッキングシューズのまま沢登りを試みても、まったく滑らない。といっても、ところによってはかなりの急斜面。歩くのに不慣れな同行・Mは、数日間、足の筋肉痛に悩まされてしまった。

 もう1回はクルーザーツアーで、切り立った断崖や滝がオホーツク海に流れこむのを見に行った時。滞在中、海が荒れて観光船は連日休航だっただけに、船酔いの薬まで飲み、大波に揺れるクルーザーに乗るのは、なかなかの迫力だった。ウトロ港を出て、約1時間。海から遡上するカラフトマスやシロザケをねらって、ヒグマがよく出没するというルシャ川沖まで来た時、草原のなかを牡グマが歩いているのが遠目でも分かった。近くに知床自然センター(知床財団)の観察車2台がいて監視を続けている。

クリックすると大きな写真になります そこから、1キロほどウトロ側に戻った海岸でもヒグマ2匹がなにかを食べている(写真②)。間違って海岸に打ち上げられて死んでしまったイルカかクジラらしい。100メートルほど後ろには、別のヒグマが待機している。そのまた後ろの草原にも、もう1匹。ヒグマは、集団では行動しないようだ。

クリックすると大きな写真になります ホテルのロビーで「ヒグマが出没しているため本日、知床5湖中、1湖と2湖以外立ち入り禁止」という表示が連日、かかっていた。しかし、自然ツアーガイドのKさんによると、これは観光客向けの一種のトリック。本当は、ヒグマが出てくることが少ない5月から6月中旬までと9、10月以外は、知床5湖中、3、4、5湖の3つの周辺には電気柵が設けられ、終日立ち入り禁止なのだ(写真③)。しかし、観光ハイシーズンの遊歩道閉鎖には、地元観光業者の批判も強く、「本日立ち入り禁止」の表示が連日続くことになったという。

クリックすると大きな写真になります 1湖までの木道わきでは、ヒグマが好物のミズバショウの根を食べるために掘り起こした跡がいくつもあったし、2湖近くのクワの木には、実を採るために昇り降りした爪あとも残っていた(写真④)。丸い穴は登る時のもの。滑り降りる際の爪あとは長く残っている。

 知床にいるヒグマは、約400頭。空港に帰るバスのガイドの説明によると「東京・新宿区に約10頭いる」勘定だそうだ。知床は、世界でも有数なクマの高密度生息地なのだ。そこへ世界遺産に認定されたこともあって、我々観光客が、野生動物に遭遇しようと胸を躍らせて押し寄せてくる。

 「新世代ヒグマ」という言葉を聞いた。

 ヒグマは本来、人間に遭遇した場合、危険を感じなければ(ヒグマ側が)避けて行き、危険を感じれば襲いかかる。

 しかし、最近の新世代グマは人間をおそれない。駐車場に現れて、観光客が車から投げたエサを平気で食べるらしい。

 キタキツネも同じような状況だ。ツアーの途中で、道路わきをトコトコ歩くキツネたちを何度か見た。ツアーガイドのHさんよると、ホテルのゴミ箱などエサをあさりに出かける途中らしい。早朝ツアーの途中、魚の頭をくわえて、子キツネの待つ巣へ急ぐ姿を良く見るという。行く前に読んだ「知床・北方四島」(大泰司紀之、本間浩昭著、岩波新書)という本は、人間が与えた食パンをくわえるキタキツネの写真を載せ、やはり「新世代」と呼んでいる。しかし、キタキツネはエキノコックスという寄生虫を仲介し、接触して発病した人間は死亡することもある、という。

 10数年前にニュージランドにオットセイの生息地や森に住むペンギンを見に行ったが、ナチュラルガイドに導かれて、彼らの世界をそっとのぞかせてもらうのは、ワクワクするような体験だった。

 先日、NHKが「エコツアー」という番組を放映していた。ルーマニアのドナウデルタで、10種類の野鳥が一緒に1000以上の巣を作っているコロニーを訪れた女性アナウンサーが「ここは、私たちが来てはいけないところ」と、つぶやくのが印象的だった。

 知床で、人間と野生動物との"ニアミス"が発生するのは、人間が野生動物たちの世界に入り込んだからだ。

クリックすると大きな写真になります 知床5湖などがある岩尾別地区には、クマザサが生い茂る草原が各所で見られる。大正時代に始まった農業開拓が失敗し、離農した跡地だ。エゾジカさえほとんど食べないクマザサが密集地には、木も生えない。「知床100平方メートル運動」と呼ばれる、ボランティアによる森の復元運動も始まっている(写真⑤)。

 しかし、クマザサが密生した草原を見ると「100年たって、森に帰っているだろうか」という絶望感に襲われる。

 そして、世界遺産に認定された現在の知床に観光客が押し寄せ「新世代」のヒグマやキタキツネを誕生させている。

 ヒグマの保護や安全対策のための地道な活動は続いている。http://www.shiretoko.or.jp/bear/bear_01.htm

 だが、知床の自然と観光の両立を考える前に、世界遺産・知床を野生動物たちに返すための活動をすべきなのではないのか。そんな疑問への答えは、知床を離れた今も出てこない。

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