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2014年7月 9日

パリ・ロンドン紀行④「ルーブル美術館㊦」2014年4月30日(水)



 ルーブル美術館休館日明けの水曜日。この日は地下鉄を利用してリヴォリ通り沿いのリシュリュー翼3階18室「ギャラリー・メディティスの間」に入った。

 なんと女性警備員2人が、ガラス天井の下の大広間真ん中で朝の打合せをしている以外、観覧者はまだ1人もいない。同行Mが勧めた「開館直後の午前9時に入ろう」という作戦は大成功だった。

 広間の両側を飾っている24枚の大作は、イタリア・ メディチ家からフランス王・ アンリ4世の妃になった マリード・メディティスが、自らの生涯を描くようバロックの巨匠・ ルーベンスに依頼したもの。

 王妃メディシスはいささかメタボ気味で27歳の晩婚。国王アンリ4世は女好きで、ルーブル宮殿ではその愛人と一緒に住まわされ、フランス語がしゃべれないメディシスはいつも孤独だった。やっと息子 ルイ13世に恵まれたが、夫アンリ4世が暗殺されてしまったうえに、ルイ13世の取り巻きの貴族群に嫌われ、国外に追放されてしまう。

 こんな生涯を"自画自賛"の絵に描くよう依頼されたルーベンスは、神話の世界に仕立てることを思いつく。

 2人は、リヨンの町で初めて対面する設定になっているが、夫はローマ神話の神 ユーピテル、妻は女神ユーノーとして描かれる。下で馬車を曳くのはリヨンにちなんだ「LIYON(ライオン)と、寓話性にあふれている。

 間もなくこの広間に模写に現れた男性のキャンバスに描かれているのは、フランス・マルセイユ港にイタリアから到着したメディシスを歓迎する海の妖精たちだ。

この大広間の周辺には、17世紀 フランドルをはじめ、オランダ、ドイツなどの作品の部屋が続いている。

 24室には、フランドル出身の ヴァン・ダイクが描いた 「狩り場のチャールズ1世」が、38室にはあの ヤン・フェルメール 「レースを編む女」(24×21センチ)が宝石のように置かれていた。

 その間の部屋にあるはずの レンブランド 「バテシバ」を見つけることができなかったのは残念だった。旧約聖書に書かれている ダビデ王に横恋慕された家臣の妻の水浴姿というテーマは、それまでも何人もの画家が挑戦している。

  中野京子 「はじめてのルーヴル」によると、モデルは乳癌で亡くなったレンブランドの愛人で「左の乳房の明瞭な影がその証拠ということが、近代になって分かってきた」という。

 「光と闇の画家」と呼ばれたレンブランドが描く、モデルと「バテシバ」の"影"。その絵が飾られているはずの部屋番号まで事前に調べたのに、見落としてしまったのは「もう一度おいで」というルーブルの魔法をかけられたせいだろうか。

 もう1つの裸体画、10室にあるフォンテンブロー派 「ガブリエル・デストレとその妹」は、ちゃんと見つけることができた。

 入浴中の左側の女性が右側の女性の乳首をつまみ、懐妊を示唆している。つままれているのは、アンリ4世の愛人の愛妾・ガブレリエル・デストレ、つまんでいるのはその妹という不思議な構図だ。

 中野京子は 「怖い絵2」(朝日出版社)のなかで、こう書いている。

 
手と指の描写に、いささかデッサンの狂いが見られ、その狂いがかえって奇妙な効果を上げている。まるで白い蟹(かに)がガブリエルの柔肌を這(は)いまわっているような、エロティックでもあり、ユーモラスでもあり不気味でもあるいわく言いがたい皮膚感覚を、見る者に呼び起こす。


 ここで、いったん地下まで降り、ピラミッド経由で、見学初日に見落としていたドウノン2階の「大作の間」に入った。ここには、19世紀フランスを代表する大型絵画が、隣の「ナポレオンの間」と同じ赤い壁紙が張られている。

 入って正面左にあるのが、19世紀・ ロマン主義を代表するジェリコー 「メデューズ号の筏」。491×716センチという大作だ。

 難破したフランス艦から筏で脱出した150人の兵士のなかで生き残ったのは15人。ジェリコーは、それらの人々から取材を重ね、臨場感あふれた作品に仕上げた。

その右側には、 ドラクロアの代表作「民衆を導く自由の女神」がある。

 1830年の 7月革命を記念して描かれたものだ。女神の左にいる山高帽の男はドラクロア自身と言われる。しかし、革命は3日間で終わって王政は続き、この絵は国家に買い上げられたものの、人の目に触れることはなく、公開されたのは約40年後の共和制復活後だった、という。

 その隣にある、同じドラクロアの「サルダナパロスの死」にも引きつけられる。

 紀元前7世紀、死期が近いことを知ったアッシリア王・ サルダナパロスが、自分に仕えた人々を虐殺させるのを平然と見ている。画面には血は一滴も流れていないのに、赤いベッドと女体の肌色の色彩感で異常な光景を見事に演出している。

 ドラクロアのライバルであった新古典主義の アングルの代表作 「グランド・オダリスク」を見に「ナポレオンの戴冠式」のある75室に戻る。

 「オダリスク」というのは、トルコのハーレムに仕えた女性のこと。アングルは背中を異常に長く描いてその優美さを強調することで、絵画史上でも最も有名な裸婦像を完成させた。

  同じアングルの 「カロリーヌ・リヴィエール嬢」という肖像画にも引き込まれる。ルーブル美術館のWEBページでは、この絵のことを「少女の清新性と女性の悦楽という両義性を描いた」と解説している。

 最後に、グランド・ギャラリー経由でシュリー翼3階に向かう。 ロココを中心とした17-19世紀のフランス絵画が展示されている。

 ルーブルに寄贈された数百点のロココ絵画のなかでも、ヴァトー 「ピエロ(古称・ジル)」は、心引かれる絵画だ。白い道化服を着た等身大のピエロが、もの悲しい気な目で見る人をじっと見つめている。

 同じ18世紀ロココ時代を代表する フラゴナール 「水浴の女たち」「霊感」などにまじって、ちょっと不思議な絵が、窓際にそっと飾られていた。

  グルーズ「壊れた甕」だ。
 美しい少女が、左胸をあらわにし、乱れた服装のままでたたずんでいる。膝の上で抱えているバラの花と右腕にかけたひび割れたかめは、彼女が純潔を失ったばかりであることを表している、という。

 19世紀を代表する コローの作品は、 「真珠の女」などと並んで、一連の風景画が印象的だ。「次世代の 印象派への橋渡しをした画家」と言われるゆえんだろう。

 一番奥に、ルーブルが誇る逸品、 ラ・トウールの作品群が誇らしげに並んでいた。

 ラ・トウールは17世紀に活躍した画家だったが、その後何世紀も忘れられ20世紀初めに再認識された、という。再発見したのは、ルーブルの学芸員たち。

 明らかにカラヴァッジョの影響を受けて、光と闇に包まれた宗教画を描き続けたラ・トウールの作品のなかでも、「いかさま師」は、異色かつ不思議な作品だ。

 若い善良そうな若者に、他の3人がまさにいかさまを仕掛けようと目配せをしており、男が背中に隠したダイヤのエースのカードを抜きだそうとしている・・・。

 ルーブル美術館が主導して刊行、世界各国語に訳されている 「ルーヴル美術館 収蔵絵画のすべて」(日本語版・ディスカヴァー・ツエンティワン刊)は「『いかさま師』には3つの主題が隠されている」と解説している。

 
(それは)17世紀に最大の罪とされていた3つの悪徳、賭博、飲酒、淫蕩。・・・若者(無垢の擬人化)は自分を自分を待ち受けている悪徳に全く気づいていない。・・・ダイヤのエースを抜き取っているいかさま師の右手の先には。黄色いスカーフを頭に巻いた若い女性が2つ目の罪を表すワインを手にしている。テーブルの真ん中に座っているのは、宝石をたくさん着飾って豪華な服を着た娼婦である。彼女は女性の誘惑の象徴で、視線と手振りで、2人の仲間に今がチャンスだと合図を送っているようだ。


 NHKの番組によると、ラ・トウルが20世紀初めに再認識された時、ルーブルが所蔵していたのは 「羊飼いの礼拝」1点だけだった。

 しかし、その後全国的な募金活動をしたりして、現在は世界で十数点しかないといわれる作品のうち、ルーブルは8点を所蔵している。「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」は、パリ近郊の村の教会の壁にあったのを偶然に発見され 「ルーブル美術館友の会」が購入を決め、ルーブルに寄贈した、という。

ルーブル美術館写真集(2)
ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(リヨンでの対面);クリックすると大きな写真になります。" ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(王妃マルセイユに上陸)」;クリックすると大きな写真になります。 ヴァン・ダイク「狩り場のチャールズ1世」 フェルメール「レースを編む女」;クリックすると大きな写真になります。 フォンテンブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」;クリックすると大きな写真になります。
ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(リヨンでの対面)」 ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(王妃マルセイユに上陸)」 ヴァン・ダイク「狩り場のチャールズ1世」 フェルメール「レースを編む女」 フォンテンブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」
アングル「グランド・オダリスク」;クリックすると大きな写真になります。 同「カロリーヌ・リヴィエール嬢」;クリックすると大きな写真になります。 ジェリコー「メデューズ号の筏」;クリックすると大きな写真になります。 ドラクロア「民衆を導く自由の女神」;クリックすると大きな写真になります。 同「サルダナバロスの死」;クリックすると大きな写真になります。
アングル「グランド・オダリスク」 同「カロリーヌ・リヴィエール嬢」 ジェリコー「メデューズ号の筏」 ドラクロア「民衆を導く自由の女神」 同「サルダナバロスの死」
ヴァトー「ピエロ」;クリックすると大きな写真になります。 フラゴナール「水浴の女たち」;クリックすると大きな写真になります。 1フラゴナール「霊感」;クリックすると大きな写真になります。 グルーズ「壊れた甕」;クリックすると大きな写真になります。 コロー「真珠の女」;クリックすると大きな写真になります。
ヴァトー「ピエロ」 フラゴナール「水浴の女たち」 フラゴナール「霊感」 グルーズ「壊れた甕」 コロー「真珠の女」
16-20140428_141516.jpg ラ・トウール「羊飼いの礼拝」;クリックすると大きな写真になります。 「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」;クリックすると大きな写真になります。
ラ・トウール「いかさま師」 ラ・トウール「羊飼いの礼拝」 ラ・トウール「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」


2014年6月10日

ロンドン・パリ紀行②「大英博物館㊦パルテノン・ギャラリー」(2014年5月3日)



  大英博物館1階西端にある幅をたっぷりとった長い空間・18室が、この博物館で最大の観覧者を集めると言われる「パルテノン・ギャラリー」。世界遺産である古代ギリシャのパルテノン神殿を飾っていた大理石(マーブル)の彫刻群が陳列されている。

 大英博物館の正面が、パルテノン神殿に似せて作られているのは、このギャラリーがあるからこそ。この彫刻群をギリシャから持ち出した英国の元・駐ギリシャ大使、 エルギン卿の名前を採って、このコレクションが別名「エルギン・マーブル」と称されている。それが、古代ギリシャ絶頂期の最高傑作がここロンドンにある理由なのだ。

 参観者の多くは、圧倒されたように言葉も少なく両脇壁に飾られた彫刻群を見入っている。まず一番奥まで進み、3段の低い階段を上ってみた。正面台座にあるのは、立体彫刻群。パルテノン神殿正面の東破風(はふ、大屋根の下の三角形をした部分)に飾られていたものだ。

 破風にあったから、左から大屋根を登るように段々と高くなっていく。まず「ディオニュソスと女神たち」。左の男性裸像は、酒神ディオニュソスヘラクレスという。女神たちを乗せた馬車を駈っているように見える。真ん中の空間になっている台座の上には、すでに失われた アテナ女神の像があったらしい。

 さらに右へ低く流れるように3体の「女神たち」。体を包む衣の襞(ひだ)が彫刻とは思えない優美な明暗を生んでいる。

 台座右端にある「セレネの馬」は、大英博物館でも自慢の所蔵品らしい。月の神 セレネを乗せて夜を徹して天を駆けてきた馬の頭部は、口をあえぐように開き、眼と鼻は膨らみ、首をたれて息絶え絶えの表情だ。

 この立体彫刻群は、台座を回って、群像の裏側を見ることができる。高い大屋根の下にある破風の裏まで覗けるはずがないのに、女神たちの衣装のひだ、背中のふくらみまで、2500年前の姿そのままに彫り込まれている。造った工匠たちのこだわりを越えた意気込みを感じる。

 さらに右に進むと「西破風」を構成していた彫像の一部が続く。「女神イリス」は風を受けて空中を舞う姿を表し、横たわる男性像「イリッソス」はアテネ周辺の川を象徴している、という。

 広間中央部の両側には、神殿を支える46本の円柱の上に渡されている梁(はり)の部分に1面づつはめ込まれて半立体の大理石版「メトープ」と、神殿内部の廊下の上を飾っていた浮彫大理石板「フリーズ」の1部が飾られている。

  「メトープ」には、ギリシャ神話に登場する半人半馬「 ケンタウロス」と人間の争いが、「フリーズ」は、古代アテネで4年に1度行われる「 パンアテナイア大祭」の祭礼行列が描かれており、「騎士たちの行列」や「座せる神々」「行列を先導する乙女たち」が次々と登場する。

  このコレクションに関連した本などには、そろって「古代ギリシャが生んだ"人類の至宝"」と書かれている。確かに、そうなのだろうが・・・。

  しかし数度にわたって見るたびに、なんともいえない"殺伐感"を感じてしまうのはなぜだろうか。

  馬を駆っているように見える男性彫像の両手足は途中で切られ、女神の立体彫像には頭部がない。台座にデンと置かれた首から切られた馬の頭部は、神に捧げらた"いけにえ"に見える。
  メトープやフリーズも、大きなノミで無理やり切り取られたようで、不自然な形をしている。

  午後の日本語ツアーの時に、ガイドのSさんはこう説明した。「これらの彫刻群の多くは、ギリシャがオスマントルコに占領されていた際、ヴェネツイア共和国の攻撃で崩落したものです。エルギン卿の関係者は、残っていた一部も切り取って持ち帰ったようですが・・・」

  ただ、旅に出る前に読んだ『パルテノン・スキャンダル 大英博物館の「略奪美術品」』(朽木ゆり子著、新潮選書)のなかには、エルギン卿の秘書が神殿から彫刻を取り外す作業を指揮しているのを目撃した、という英国の考古学者の著書の一部が引用されている。
パルテノン・スキャンダル (新潮選書)
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 最初のギリシャ巡遊で、私はパルテノンから最良の彫刻が強奪される瞬間に立ち合い、そして建築物の一部が落下するのを見るという何ともいえない屈辱を経験することになりました。
 神殿のもっとも南東にあるメトープのいくつかが、外されるのを目撃したのです。メトープはその両側が トリグリュフ(縦に溝がついている束石)と呼ばれている溝(板)にはめ込まれていたので、それを取り外すために、その上に載っている美しい軒蛇腹( コーニスが地上に投げ捨てられました。破風の南東の角の部分も同じ運命をたどりました。そして私が一番最初に見た絵のような美しい気高い姿に代わって、それらは無残な廃墟と化してしまいました。


 アテネの一般住民、それどころかトルコ人ですらこの荒廃を前にその場に居合わせ、この行為が全員に巻き起こした憤りの念を観察、いやそれに参加するチャンスを得ました。作業全体が非常に評判が悪いので、労働者はこのような冒瀆に力を貸すために普通よりかなり高い労賃を払われる必要がありました。


  高い労賃でしか雇用できなかった労働者が"人類の至宝"を乱暴に扱う様子が目に見えるようだ。

  もちろん、ギリシャは国際世論の力も借りて長年、この彫刻群の返還を求めてきた。
 しかし、著書「パルテノン・スキャンダル」などによると、英国側は国会などの場で「大気汚染のひどいギリシャでは、大理石にダメージを与える」などと反論し、大英博物館の館長自身が「全人類のためには、ギリシャより世界から観覧者が集まる大英博物館に留まるのがふさわしい」と、いささか苦しい言い訳を公表している。

 この間、大英博物館内部でとんでもないスキャンダルが起きていた。

 午前中、友人Mと「パルテノン・ギャラリー」を見た後、近くの小さな小部屋に迷い込んだ。一番奥の壁面に取り付けられたDVD画面で「メトープの一部が青く着色されている」ことを特殊カメラで撮影した映像を繰り返し放映していた。
 長年"白い"と信じられていた大理石彫刻群が、実は「華やかな色で彩られていた」というのだ。

 20世紀半ば、ヨーロッパでは「大理石は白い」というイメージが定着していた。そこで大英博物館のスタッフは、密かに彫刻群の表面を金属たわしと研磨剤でこすり、白いむきだしの状態にするという荒っぽい洗浄作業を行った。
 「彫刻群は、大気汚染のひどいアテネよりロンドンに置くのがふさわしい」ことを"実証"するためにも・・・。

 この小部屋は、大英博物館側が、それらを率直に明らかにし、弁明するための資料コーナらしい。

 ギリシャ区画にある 「ネレイデス・モニュメント」(イオニア式の墓廟の模型)は、記念撮影の人気スポット。いつも各国の参観者で混んでいる。

;クリックすると大きな写真になります。  午後からのガイドツアーで、この墓廟の裏に回ったところ、目立たない場所にそっと立つ乙女の立像を見つけた。「彼女はここにいたのか」

 この像は、パルテノン神殿の奥にある神殿 エレクティオンの張り出し屋根を支えていた6体の女性の柱像( カリアティード)の1つなのだ。

 大英博物館に行きたいと思うきっかけになった本 「パレオマニア 大英博物館からの13の旅」(集英社文庫)のなかで、著者の 池澤夏樹は、彼女のことを「恋人」と呼んで、何度もロンドンまで会いに行っている。
パレオマニア―大英博物館からの13の旅 (集英社文庫)
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 左の膝をわずかに前に出した形で、すっくと立っている。台の上に載っているから見上げる形になるが、背は男とさほど違わない。ああ、変わっていないと男は安心した。
 彼女は実は建物の梁を全身で支えて立っているのだが、そのなにげない挙措からはそれを重荷に思っている風はまったくない。あくまでも普通に立っている。胸は豊かだけれども、肩幅があるので今の時代に理想とされる女たちの身体(からだ)のように一部が奇形的に突出してはいない。いかにも健康そうな力強い乙女(おとめ)。
  顔の細部は(なにしろ二千年以上風雨にさらされていたのだから)失われてしまった。
 が、それでも気品のある顔立ちはまだ見てとることができる。顎の線が美しいと男はいつ見ても思う。


 著者は「道で行き会ったらどぎまぎするだろう」と書いているが、私には「彼女」が必死に悲しみをこらえているように見えた。

 さきほどの著書「パルテノン・スキャンダル」によると、実はこの乙女像もエルギン・グル―プが1803年初頭に切り取って」ロンドンに持ち帰ったのだ。

 現在、アテネのエレクティオンを支えている6体のカリアティードは、すべてレプリカ(模造品)だ。

 持ち去られた1体を除く5体は新しく建設されたアクロポリス博物館に移された。

 しかし、その5体は、天井の低いガラス張りのなかに押し込まれて「辛(つら)そうにみえた」(池澤「パレオマニア」)という。

 2007年に新博物館が建設された際、ギリシャ政府は「新博物館がエルギン・マーブル返還運動の一助となることを望む」という声明を発表した。

 しかし、財政危機でEU諸国の援助でやっと生き延びているギリシャに大英博物館のコレクションを移すべきだという、国際世論の高まりは見られない。

 "人類の至宝"を未来に生かすためには、なにが最善の方法なのか。今の私にはわからない。

大英博物館での写真
;クリックすると大きな写真になります。P1040372.JPG ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
パルテノン・ギャラリー① フリーズ「騎士たちの行列 同② メトープ「半人半馬と人間の争い 同③ 西破風の立体彫刻「イリッソス 同④ 同「女神イリス」 同⑤ パルテノン・ギャラリーの大広間
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
同⑥ 東破風の立体彫像 同⑦ 同「女神たち 同⑧ 同「セレネの馬 同⑨ 着色されたメトープのCG 「ネレイデス・モニュメント」(墓廟の模型)


2013年8月 2日

トルコ紀行・下「カッパドキア、そして、またイスタンンブール」


 突然、舞い込んだ家事にとらわれ、このブログもすっかりご無沙汰してしまった。

 トルコに行ってからもう3カ月も経ってしまったが「上」編を書いた以上「下」編でとりあえず、締めくくらないとなんとなく気持ちが収まらない。思いだしつつ、短くともまとめてしまおう。

 トルコ3日目の4月30日。世界遺産・ カッパドキアを見るため、昼前にトルコ中部・アナトリア高原のカイセリ空港に着いた。

 アンカラ大学日本語科出身の女性ガイド、Oya(オヤ)さんに迎えられて車に乗る。ブッシュのような低木しか生えていない荒涼とした道を進む。

 「高度が1000-1500メートルあり、木が生えない」ということだったが、どこかで見た風景だと思った。このブログを始めた5年半前に旅ををしたシルクロード・黄土高原の風景とそっくりなのだ。そういえば、この地域もヨーロッパに向かうシルクロードの一部だったのだと気づいた。

 カッパドキアは、数億年まえに噴火した火山の灰と溶岩が積み重なってできた地層が風雨の浸食でできた 凝灰岩台地といわれる地形。比較的柔らかいので、多くの洞窟が掘られているほか、長年の風雨が奇岩を作りだしている。

 最初に訪ねた国立公園 「ギョレメ屋外博物館」には、重なる山に大小数十もの 岩窟教会が残っている。

 保存のために、写真撮影が禁止なのは残念だったが、単純な十字架を描いたものから、聖書の物語を見事なフレスコ画まで、多彩な遺産である。

 ユダヤ人やローマ帝国の迫害から逃れた初期キリスト教徒から始まって、10-13世紀にかけて多くの修道僧が信仰生活を続けながら描き続けたのだ。

 帰国した後、5月19日の「精霊降臨の主日」のミサで読まれた聖書「使徒言行録」のなかに「カッパドキア(カパドキア)」の文字があったことからも、ここの教会群の歴史の古さが証明されている。

 ガイドのオヤさんに、熱気球フライトに乗らないか、と誘われた。

 今年の2月にエジプトで、過去最大の 熱気球墜落死亡事故があったばかりなので「乗らないでおこう」と"堅い"決意で来たのだが、オヤさんの熱意に負けて、翌日の早朝4時半起きで、同行4人ともバルーンに乗ることになった。

 広場に点在する十数個のバルーンが、ガスの熱を受けて浮かび上がり、お互いに接触する"危険"も見せながら、雄大な岩の奇形を上下し、風に流され約1時間。

「気持ちいいー!」。トルコ人パイロットの掛け声に、ほとんどが日本人の乗客が声を合わせる。降りると、なんと草の上に木机が出され、シャンパンまで抜かれて・・・。

 ところが、同じ場所で5月末に 気球の墜落事故が起き、英国人1人が死去した。

 旅の安全についての教訓がもう一つ。

  ユルギュップのきのこ岩(現地では、妖精の煙突と呼ばれている)を見た後、オープンしたばかりという洞窟ホテルで夕食をしていて気付いた。「財布がない!」

 翌日、帰りの空港でガイドのオヤさんに事情を話し、パスポートのコピーを渡して置いたら、なんとギョレメの観光案内所に預けられていたのを見つけてくれ、イスタンブールのホテルにカーゴ便で届けてくれた。
 今から思うとラッキー以外のなにものでもないのだが「旅は細心の注意を」という教訓が残った。

 イスタンブールに帰り、国立考古学博物館でトロイの出土品やアレキサンダー大王の石棺を鑑賞、かっては貯水池だった地下宮殿のコリンント様式の柱の敷石に使われたギリシャの女神 メドウ―サの顔にギョッとし、ブルーモスクの南にあるモザイク博物館の見事な組み込みに驚嘆した。

 そのたびに、ホテルの近くにあるゲジ公園と隣の タクシム広場を抜けて、トラムなどを利用した。

 ところが帰国後の6月初め。そのタクシム広場で大規模な 反政府デモが起きたという報道に接した。

 イスタンブールで数少ない緑の憩いを感じられるゲジ公園を2020年五輪開催を目指して商業施設を建設しようとしたことにイスラム色を強める現政権への反発が加わり、デモは一時、首都アンカラまで広がった。

 そういえば、イスタンブールに滞在中、ゲジ公園のかなりの敷地を鉄のゲートに囲まれて警官隊が常駐し「メーデーの5月1日はタクシム広場は使えそうにない」というホテルからの忠告を受けたのを思い出した。

 一触即発の状況が近付いていたなかで、我々はのんびり観光を楽しんでいたのだ・・・。

トルコ紀行写真
下に掲載した写真はクリックすると大きくなります。また、拡大写真の左部分をクリックすると一枚前の写真が、右部分をクリックすると次の写真が表示されます。キーボードの [→] [←] キーでも戻ったり、次の写真をスライドショウ的に見ることができます。


ギュレメ国立公園①;クリックすると大きな写真になります。
ギュレメ国立公園②;クリックすると大きな写真になります。
きのこ岩の奇岩;クリックすると大きな写真になります。 熱気球が上がる①;クリックすると大きな写真になります。
ギュレメ国立公園① ギュレメ国立公園② きのこ岩の奇岩 熱気球が上がる①
熱気球が上がる②;クリックすると大きな写真になります。 気球からの風景①;クリックすると大きな写真になります。 気球からの風景②;クリックすると大きな写真になります。 地下宮殿;クリックすると大きな写真になります。
熱気球が上がる② 気球からの風景① 気球からの風景② 地下宮殿
トラムのなかで;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館①;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館②;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館③;クリックすると大きな写真になります。
トラムのなかで モザイク博物館① モザイク博物館② モザイク博物館③

2013年5月29日

 トルコ紀行・上「イスタンブール」(2013・4・27―5・6)



 トルコ・イスタンブールのアタテュルク空港に着いたのは、4月28日の早朝6時前だった。

 さっそく、空港の銀行出張所で日本円3万円をトルコリラ(TL)に替える。ガイドブックには1TL=40円と書いてあったが、急激に進んだ円安で、関西空港の両替所では1TL=75円と言われてびっくり。アタテュルク空港では55・5円だった。しかし、超円高が続いた1年も前に友人が先行して格安往復航空券を手に入れてくれていたから、おかげで気分は悠々である。

 予約しておいたタクシーは、高台に世界遺産の トプカプ宮殿を望む ボスポラス海峡沿いの旧市街地を快適に飛ばす。
 道沿いに 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代の古いレンガ造りの城壁が続いている。

 機中で読んだ塩野七生の 「コンスタンティノープルの陥落」(新潮文庫)によると、現在の新市街に布陣したオスマントルコ軍の大砲から飛んでくる巨大な石弾が難攻不落といわれた城壁を壊し、 コンスタンティノープル(現在の イスタンブール)市民を震撼させたらしい。
 しかし、主戦場は北西の陸側城門の攻防だったから、海峡沿いの城壁は現在でもよく保存されているように見える。

旧市街から金角湾を渡るガラダ橋を通り新市街地に。早朝から橋の2階歩道から釣り人が長い糸をたれている。1階はすべて魚専門のレストランフロワーで、釣りは禁止らしい。釣り人の収穫のほとんどは、イワシかベラに似た赤っぽい小魚。昼食に1階の店で食べてみたが、唐揚げにレモンと塩が結構いけた。

新市街の高台にあるホテルに荷物を置き、先行していた友人ら計4人で、タクシム広場から、イスタンタンブール最大の繁華街「イスティイクラル通り」を港の方へ下る。

1両編成の赤いアインティーク調の路面電車と車数台が時々行き交うだけで、ほとんど歩行者天国。朝食の定番というトマトやレンズ豆のチョルバ(スープ)がいける。特産のナッツ屋、蜂蜜などを使ったお菓子屋、伸びるアイスクリーム・、ドンヅオウルマの店、「濡れハンバーク(パンの上下を特製ソースに浸けてある)」は意外にうまい。
魚市場「バルック・バザール」というアーケードに入る。友人が揚げるのを試したムール貝の串揚げを楽しみ、貝に詰めたムール貝のピラフは少々冷たい。欧米にも広がっているという 「ドネル・ケパブ」(回転焼肉)は、ほとんどの店が焼く準備中だった。

イスラム教の国なのに、道沿いに様々な宗教の教会があるのが、不思議だった。

オスマン帝国は、コンスタンティノープル陥落後、イスタンブールと名前を変えたこの都市をヨーロッパとアジアを結ぶ世界都市とするため、他宗教の施設を認め、移民を奨励した。住民の4割ほどが ムスリム(イスラム教徒)以外が占める政策を取った。

「オスマン帝国」(講談社現代新書)の著者・鈴木薫は、これを「イスラム世界の『柔らかい専制』」と名付けている。

イスラム教では、礼拝堂・ モスクの大規模なものを「ジャーミイ」と呼ぶ。イスティイクラル通りに入ってすぐ北の路地にある「アー・ジャーミイ」に入ってみようと思ったが、道沿いのベンチで トルココーヒーをすすっていた男性が「2ヶ月後まで工事中。この裏のバザールはやっているよ」と巧みな日本語で教えてくれた。

 ちょうど日曜日。通りの左にあるカトリックの聖アントニオ教会では、朝8時からのミサの最中で欧米からの観光客もいて超満員だった。ビザンチン時代の1221年に修道院ができ、オスマン時代の木造教会はなんどか火災で損傷、1912年に現在の バジリカ方式のレンガ造り教会になった。イスタンブール最大のカトリック教会で、完成の時にはローマから代表団も来た、という。

 翌週、土曜日の朝、再びイスティイクラル通りを歩いていて、聖アントニオ教会の向かいに ギリシャ正教の大理石造りらしい教会を見つけた。

 入ってみて驚いた。白いあごひげを付け赤い祭服に金色の ミトラ(宝冠)をかぶった 主教が、司祭たちに抱えさせた幅1・5メートルはある竹籠にあふれた月桂樹らしい葉を群がり寄る老若男女の体に投げ、祝福を与えているのだ。なぜだか、参加者の顔が喜びに輝いている。

 なんとギリシャ正教では、翌日5月5日が、十字架上で死んだキリストの復活を祝う 復活祭(イースター)なのだ。カトリック教会では3月31日に終わっているだが、両教会の暦の違いらしい。カリック教会では、前日の聖土曜日は静かな祈りのうちに過ごすが、ギリシャ正教会では、 聖大スポタと呼び、キリストの復活を先取りするお祝いをするようだ。

 ちなみに、来年のイースターはギリシャ正教、カトリックとも4月21日・・・。

 ギリシャ正教を統括する 「コンスタンディヌーポリ総主教庁」は、コンスタンティノーブル没落後も スルターン メフメト2世に許され、今だにここコンスタンティノーブルの金角湾沿いの教会内にある。

 「民族も宗教も異にする多種多様な人々をゆるやかに包み込む」(前述「オスマン帝国」)「"柔らかい専制"」は、世界の歴史でも、あまり例がないのではないかと思う。

  「イスタンブル」(長場紘著、慶応義塾大学出版会)によると、現在イスタンブールには2000近いモスクがあるが、オスマンに滅ぼされたギリシャ正教教会が80,シナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝堂)15,キリスト教がカトリック、プロテスタントを合わせて10,その他アルメニア正教20,その他にロシア正教、ブルガリア正教、アルメニア・カトリック・・・。

 そんな宗教建築に混じって、欧米の観光客、スカーフ姿のトルコ女性やアジア系の人も多く、ちょっと他では見られない世界都市の風景が描き出されている。

 スルターンは勝利後、3日間の略奪は許したが、捕虜になることを免れた旧市民は保護され、帰宅させた。港に寄留していた ジェノヴァ人の多くも保護された。

 ユダヤ人地区が旧住民の攻撃を受けた際には、自らの軍隊で撃退し、これを知ったエジプトなどから多くのユダヤ人も移民してきた。

 一方で、スルターンは、かってのギリシャ正教総主教座聖堂 「ハギ・ソフイア聖堂(現在の世界遺産『アヤソフイア博物館』)」など多くのキリスト教会を、イスラム教のモスクに変えた。

改造されたモスクでは、堂内正面にメッカに向かって礼拝するための 「ミフラーブ」と呼ばれるアーチ型の壁が作られた、イスラム教には、祭壇はない。博物館になっているアヤソフイアでは、旧祭壇に横にメッカに方向を向いたミフラーブが斜めの方向に向けて作られていた。

礼拝への誘い 「アザーン」を肉声で呼びかけるための尖塔 (ミナレット)も何本かモスク脇に建設された。

 今では、肉声に代って拡声器で「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なるかな)」に始まる、祈りへの誘いが、イスタンブールの街中に流れる。

 男たちは、この拡声器に誘われるようにモスクにやってきて、水場で足と手を洗い、顔を水でぬぐって、モスクに入っていく。礼拝の時間は30分ほどだが「夜明け、夜明け以降、三回目は影が自分の身長と同じになるまで、そして日没から日がなくなるまで、最後は夜」の計5回。
 といっても、集まって来るのは、1回に5,60人程度だ。それに比べると。路地のベンチでコーヒーやチャ(紅茶のこと、オレンジ・チャがうまい!)を飲んでいる男性のほうが多いように見える。

 女性の姿があまり見えないが、1日ツアーのガイドに聞くと「ほとんど家で祈る」という。モスクに来ても、入り口近くの透かし壁で囲まれた狭い空間で祈っている。厳しい"男尊女卑"に同行した女性軍は憤慨気味である。

 スカーフから衣装まで黒尽くめの女性は意外に少ない。多くの女性は青スーツに紫のスカーーフを合わせたりして、なかなかファッショナブルだ。トルコ・民主制の成果だろうか、スカーフで顔を隠さない女性も多い。エジプシャンバザールのコーヒー売り場で、スカーフをしていない女性にカメラを向けたたら、にらみ返された。

  「偶像礼拝を禁ずる」イスラムの教えにそって、モスクに変わったキリスト教会の聖像などは取り外されたり、白い漆喰で塗りつぶされたりはしたが、柱や大ドームの見事なビザンチン壁画は、幸いそのまま残された。

   「アヤソフイア博物館」では、1931年、アメリカ人の調査隊によって壁の中のモザイク画が発見され、トルコ共和国の初代大統領・ アタテュルクは、翌年ここを博物館とし、一般公開した。

 同じような事情で現代にまで生き残ったというビザンチン壁画を、どうしても見たいと思った。

カーリエ博物館(旧コーラ修道院)は、コンスタンティノープル陥落のきっかけになった、テオドシウスの城壁の近くにある。ホテルからは、地下ケーブルカーとトラム2本を乗り継いで行く。駅員は「駅か博物館までは分かりにくい」と・・・。

 車中で一緒になったハンガリーの若い男女4人と一緒になって探す。結局、見つけたのは「年の功」の我々だった。入る前に、道路を隔てたレストランにはいったが、アルコールル禁止だったので、しぼりたてのザクロのジュースでのどをうるおした。悠々と「水パイプ」を楽しむ客もいた。

 カーリエ博物館は、小さな庭に囲まれたレンガ造りの小づくりの建物。モスクに変えさ世良田ことを示す尖塔も1本残っている。20世紀中頃に、やはりアメリカのビザンツ研究所によって、13,14世紀に描かれたキリストや聖母マリアのモザイク画が発見された。天井や壁に描かれた見事なモザイク画を、欧米から来たと思われる観光客がほうけたように見上げている。歴史が、現代に生き返った輝きを実感する。

   ビザンチン美術だけでなく、イスラム社会が生んだ芸術にも圧倒され続けた。

 シルエットが美しいイエニ・ジャーミイ、香辛料はじめ食料品を買う客でごった返すエジプシャンバザールを楽しみ、店舗の間の狭い石段をやっと見つけ、 「リュステム・パシャ・ジャーミイ」にたどり着いた。

 ここは、訪れる観光客はおおくないが、外壁や内部の柱などをおおう 「イズミック・タイル」の美しさに目を見張る。とくに、トルコ特産のチューリップの赤とコバルトブルーの対比にはいつまでも見飽きない。

 歴史地区・スルタンアメフット地区の中心にある スルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)は、朝から観光客の長い列ができていた。
 信徒とは別の入口から入り、スカーフを持たない女性は入り口で貸してもらい、男女とも靴を脱いで入る。

 同じイスラム教の国でも、サウジアラビアのメッカなどにはイスラム教徒しか入れない、という。こここにも「柔らかい専制」の伝統が生きているのだろうか。

 内部は数万枚の青いイズニクタイルで飾られ、大ドームを飾る260ものステンドグラスの窓からもれる光で青く輝いている。6つの尖塔を持つのも、世界でこのモスクだけだという。

 「トプカプ宮殿」は現在は博物館になっているが、最後の展示室は、イスラム教の開祖者であるモハメッド( ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ) の白髪、モハメッドの「足型」など、モハメッドを"神聖化"する陳列物が目白押しに置いてある。

 しかしイスラム教ではモハメッドは、モーゼ、イエス・キリストに続く最後の預言者である、という位置づけをしており、神は 「アッラー」と呼ぶ。

 つまり、イスラム教では「キリストを人間と認めながら、神性はきっぱりと否定」しているのだ。キリスト教とは、まったく相容れない宗教である。

 イスラムの聖典 「コーラン」の日本語訳を見ると「聖母マリア」の項があってびっくりする。「コーラン」には、聖書と似たところや矛盾する記述があり、簡単には理解できそうにない。

 そして、そのイスラム世界にイスラエルがカネの力で国を建設して以来、パレスチナでイラク、レバノン、シリアで・・・民族間の紛争が絶え間ない。

 昔の「柔らかい専制(共和制)」をイスタンブールの街に見つけながら、それとはほど遠い、現実の世界にりつ然とするしかないのである。

トルコ旅行写真集

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「濡れハンバーク」;クリックすると大きな写真になります 魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ;クリックすると大きな写真になります 開店準備中の野菜・果物店;クリックすると大きな写真になります 聖アントニオ・カトリック教会;クリックすると大きな写真になります トルコ特産、ナッツ専門店;クリックすると大きな写真になります
「濡れハンバーク」
 約140円
魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ 開店準備中の野菜・果物店 聖アントニオ・カトリック教会 トルコ特産、ナッツ専門店
ドネル・ケバブは、焼く準備中;クリックすると大きな写真になります トルコの炉端焼き盛り合わせ;クリックすると大きな写真になります 朝食はスープにパン、チャが定番;クリックすると大きな写真になります ブルーモスク;クリックすると大きな写真になります 港沿いイエニ・ジャーミイ;クリックすると大きな写真になります
ドネル・ケバブは、焼く準備中 トルコの炉端焼き盛り合わせ 朝食はスープにパン、チャが定番 ブルーモスク 港沿いイエニ・ジャーミイ
エミノニュ港名物「サバサンド」;クリックすると大きな写真になります ごった返すエジプシャン・バザール;クリックすると大きな写真になります 長い列ができるトルココーヒー店;クリックすると大きな写真になります 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・;クリックすると大きな写真になります リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂;クリックすると大きな写真になります
エミノニュ港名物「サバサンド」。生タマネギとレタスもたっぷり ごった返すエジプシャン・バザール 長い列ができるトルココーヒー店 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・ リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所;クリックすると大きな写真になります ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所;クリックすると大きな写真になります ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地;クリックすると大きな写真になります レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する;クリックすると大きな写真になります 元気なトルコの女性たちら;クリックすると大きな写真になります
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所 ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所 ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地 レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する 元気なトルコの女性たちら
アヤソフイア博物館;クリックすると大きな写真になります 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい);クリックすると大きな写真になります 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト;クリックすると大きな写真になります 聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります
アヤソフイア博物館 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい) 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト 聖母子のモザイク
キリスと皇后ゾエら;クリックすると大きな写真になります ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿;クリックすると大きな写真になります 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像;クリックすると大きな写真になります トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい;クリックすると大きな写真になります 斬新なデザインに驚く「植物の間;クリックすると大きな写真になります
キリストと皇后ゾエラ ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像 トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい 斬新なデザインに驚く「植物の間
宮殿の中庭。対岸は新市街;クリックすると大きな写真になります 閑散とした6時過ぎのグランドバザール;クリックすると大きな写真になります 陶器を物色するトルコ人母子;クリックすると大きな写真になります ディナー付きベリーダンスショー;クリックすると大きな写真になります イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会;クリックすると大きな写真になります
宮殿の中庭。対岸は新市街 閑散とした6時過ぎのグランドバザール 陶器を物色するトルコ人母子 ディナー付きベリーダンスショー イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています);クリックすると大きな写真になります
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています)


  
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2010年5月25日

「デンマーク紀行」(2010・4・29-5・5)、上


 アイスランドの火山爆発再燃を気にしながら出かけたデンマーク。火山の影響か、冷たい雨の日が続く。憂うつになりかけた気分に"ニセ警官"が輪をかけた。

 コペンハーゲンに着いて2日目の朝。たまたま移動祝祭日の「大祈祷祭」に当たり人影もない官庁街に入り込んだ。レンガ造りの建物や青銅の騎士像にカメラを向けていて同行の友人たちに遅れてしまった。
どこから現れたのか、ジャンパー姿の青年に「チボリ公園はどこ?」と尋ねられた。持っている地図を広げて親しげに話しかけてくる。「日本人?私はギリシャから」

気づいたら屈強な2人の男が目の前に立っていた。「壁に手をつけ!麻薬捜査だ」。金バッチのついた警察手帳らしいものを見せ、旅券、日本円は?と、ウエストポーチに手を突っ込んでくる。
ポケットの財布に入っていたデンマーク・クローネの札束をパラパラとめくって返してきたが、妙に厚さがうすい。「NO!」と、男が握っていた右手を開けさせ、たたんだ札束を取り返した。
そこへ戻ってきた友人の1人が「警察に電話したぞ」と大声を出してくれた。男たちは、あわてて行ってしまった。あのギリシャ男?も一緒に・・・。

安全に気配りしなかった自分が悪い。だが、前日までのこの街への好印象は暗転した。

捨てた煙草の吸殻や紙くずが散らかる中心街。まばらな街路樹もみすぼらしい。休日の歩行者天国・ストロイエ通りの店先では、汚れたザックを抱えた老人が朝から眠りこけている。街のどこからでも見える4本の煙突が、もくもくと白煙をはき出している。「これが福祉の国、エコの国デンマークなのか」

 街を歩くと、ベールをかぶったイスラム系の女性や黒人、アジア系の人たちが異常に目につく。
 着いた日に市庁舎広場前でホンダ車に乗ったベール姿の女性に笑いかけられたが、ストロイエを歩くと黒っぽいベールの年取った女性にたびたび行き交った。タクシーや自転車王国の象徴・輪タクの運転手はたいてい黒人。
「スモーブロー」(デンマーク名物のオープンサンドウイッチ)のテークアウト店やコンビニ「セブン・イレブン」(日本資本のチェーン店、国内に126店)の店員は、アジア系か黒人が多い。

 この国の人口は、たったの550万人ほど。高度成長時代には、人手不足を解消するためトルコ、イラク、レバノン、ボスニア、パキスタンなどから移民が流入、一時は難民の受け入れにも積極的だった。人口に占める移民の比率は9・5%にもなっている。しかし最近は、移民の人たちの失業率の高さと教育水準の低さが、福祉国家のあい路になっているらしい。市庁舎前広場のベンチに座って動かない黒い人たちが、街の印象を暗くしているようにも思える。もちろん移民に慣れていない黄色人種の偏見でしかないが。

 落書きの多さには驚いた。ホテルから見下ろせるコペンハーゲン中央駅や古都・リーベ の駅舎、世界遺産の聖堂があるかっての首都・ロスキレ駅前にある巨大な陶器のモニュメント・・・。見事に、カラースプレーで彩られている。

 アンデルセン童話の主人公である「人魚姫の像」は、たまたま上海万博に出かけていて会えなかったが、落書き以上の被害に何度も合っている。頭部や腕を切られたり、赤いペンキを塗られたり、イスラム女性のスカーフをかぶせられたり・・・。
 犯人は、怒れる若者たちだとか、移民の人たちのフラストレーションの現れだとか、色々な憶測が飛び交っているらしい。

 すばらしい笑顔の人たちにたくさん出会えた。おかげで、八つ当たり気味の悪印象も少しづつ薄らいでいった。

 ロスキレから乗った長距離列車「インターシティ」で、老夫婦と同席になった。「エッ、リーベに行くの?私、そこの出身」と、奥さんのベスさん。弟さんが、駅前で朝食付きの宿を経営している、という。「あの街に行くなんて、すばらしい選択ね」

 途中、アンデルセンが生まれたオーデンセ に途中下車した。リュックをロッカーに預けようとして10クローネ・コイン4枚を入れたが、カギが閉まらない。改札口で「インフォメーション」と書かれた黄色い腕章をしている私服の女性にたずねるとすぐに男性駅員を連れて来てくれて一件落着。アンデルセン博物館への道順を聞いたら、地図を取りに走ってくれた。
 博物館からの帰り、リーベまでの列車時刻を確かめに切符売場に行くと、なんとさきほどの女性が制服姿でニッコリ笑いかけてきた。人手不足のこの国では、駅員は何役もこなさなければならないらしい。

 リーベ駅前のヴァイキング博物館に寄ったら、昔のヴァイキングらしい衣装を着た一群がいた。「ヤーパンから?写真を撮ってくれるのかい」。別の町のヴァイキング博物館のボランティア・ガイドをしているが、着替える時間がなかったという。5人(+赤ちゃん)も集まってくれて、いい笑顔の写真が撮れた。

 朝の9時半。ロスキレの港近くの公園で「ようこそロスキレ」へと、両手を広げて笑いかけてきたスキンヘッドの男性。世界遺産の大聖堂前広場の蚤の市で、ニコニコ笑いながら1クローネもまけてくれなかった気品あふれる中年女性。コペンハーゲンのデンマーク料理店やリーベのレストランで応対してくれたホスピタリティあふれた女主人たち・・・。

 コペンハーゲンに戻って同じホテルに1泊、空港に向かった。ベルボーイなんて、最初からいないから、コンセルジェの男性が自らタクシーに荷物を載せてくれた。

「この国の5日間、どうでしたか」「いい旅でした」「また、お待ちしていますよ」

デンマーク紀行写真集1
チボリ公園;クリックすると大きな写真になりますホンダ車に乗ったイスラム系の女性たち;クリックすると大きな写真になります青銅の騎士像;クリックすると大きな写真になります「セブン・イレブン」;クリックすると大きな写真になります
ホテルの窓から見たチボリ公園、着いた日の夕方に出かけ、パントマイムやオーケストラ演奏など、白夜の初日を楽しんだが・・・ホンダ車に乗ったイスラム系の女性たち。官庁街にある青銅の騎士像。この付近で"ニセ警官"に襲われたコペンハーゲンの街のどこにもある「セブン・イレブン」。カップラーメンもある
ストロイエ;クリックすると大きな写真になります輪タクの修理に忙しいドライバーたち;クリックすると大きな写真になります「ニューハウン」;クリックすると大きな写真になります電力会社の煙突;クリックすると大きな写真になります
休日のストロイエ。閉まったシャッターの前で眠りこける老人輪タクの修理に忙しいドライバーたち運河に沿ってカラフルな木造家屋が並ぶ「ニューハウン」白煙を吐き出す電力会社の煙突。出ているのは水蒸気だそうだが
コペン中央駅に並ぶ自転車;クリックすると大きな写真になります見事に落書きされたモニュメント;クリックすると大きな写真になります落書き;クリックすると大きな写真になりますロスキレの蚤の市;クリックすると大きな写真になります
コペン中央駅に並ぶ自転車。専用道路が整備され、列車にも持ち込める見事に落書きされたモニュメント(ロスキレ駅前で)緑に包まれた駅舎にも落書き(リーベ駅で)ロスキレの蚤の市。左の女性がオーナー。リキュールグラス、きれいな絵皿が1個5クローネ(100円弱)
乳母車の親子;クリックすると大きな写真になりますヴァイキング博物館;クリックすると大きな写真になります田園地帯の風車;クリックすると大きな写真になります
乳母車の親子ヴァイキング博物館で会ったボランティアの人たち田園地帯の風車。エネルギー消費の20%を風力がまかなうという

2009年9月 6日

ウイーン紀行②「ドウナ川、そしてクライン・ガルテン」



上の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
右の欄の地名をクリックすると、その場所にマークが立ちます。また、その下のをクリックすると関連した写真を見ることができます。


世界遺産「ウイーン歴史地区」の中心にある「リングシュトラーセ(環状道路)」の沿道には、様々な時代の建築様式の建造物が並び、まるで歴史博覧会のパビリオン群のようだ。

 市役所は中世の都市の自治を象徴するゴシック様式、国会議事堂は民主主義の原点・ギリシャにならって新古典様式、ウイーン大学は文藝復興にふさわしいルネサンス様式バロック様式がいかめしい旧陸軍省(政府合同庁舎)。この建造物群は、その建築様式の時代に建造されたものではない。皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の命令で19世紀の半ばから城壁(市壁)を取り除いて次々と造られ、ちょっと、特異な都市景観を形づくっているのだ。

 この建造物を楽しむには、リングを回るトラム(路面電車)に乗るのが、手っとり早い。ウイーン大学の前をトラムがぐっと右に回ると、すぐに川にぶつかる。
「ドナウ川の向こうは、中心街と違って近代的な建物が多いですね」。ゲストルームをお借りしているパン文化史研究者、舟井詠子さんに、いささかトンチンカンだった問いかけをしたら「あれはドナウ川でなく、ドナウ運河」と。観光客も、よく間違えるらしい。さっそく、ほんもののドナウ川を見に連れて行ってもらった。

 夕方、街の中心・カールスプラッツ駅地下ターミナルで待ち合わせ、地下鉄U1に乗って10番目の駅・ドナウインゼル(ドナウ島)駅で途中下車する。2つの川の間に、中州(ドナウ島)があり、そこにかかっている橋の上に地下鉄の駅と歩道橋がある。

 川の1つは、洪水対策のために、20世紀後半に約10年をかけて掘られた全長20キロの放水路・ノイエドナウ(新ドナウ)川。島の森越しに見えるのが、ドナウ川本流。ドイツ南部の泉に始まって東欧10か国を流れ、世界遺産ドナウ・デルタ にそそぐ国際河川だ。教会の下に国際航路の大型船が停泊しているのが見える。

 長さ21キロもあるという中州、ドウナ島に降りてみる。広い公園があり、中国系らしい人たちが草地に座り込んでトランプを楽しんでいた。ここは、アジア、トルコ系の人たちのたまり場になっているらしい。
 この中州は長い間、川土を積み上げた荒地だったようだが、今では川辺に水草が繁り、生物が生きられるビオトープとして生き返っている。

 再び地下鉄に乗り、2つ目のアルテドナウ(旧ドナウ川)駅で降りる。IAEA(国際原子力機関)などが入っている国連都市(UNOシティ)のビル群を右に見ながら左折、大きな橋を渡り切って、アルテドナウの河畔に出た。

 アルテドナウは、19世紀末の治水工事でドナウ本流から切り離されて、ドナウ川の東端にできた約160ヘクタールの三日月型の湖。今ではウイーン市民の最大のレクリエーションの場になっている。
 もう午後の7時前というのに、ヨットがいくつも浮かび、艇庫からカヌーを運び出す人がおり、河畔で憩う水着姿の人、水に飛び込んで抜き手で泳ぐ人・・・。湖畔では、以前はヌーディストクラブだったという庭園でバーベキューを楽しむ風景が見られ、水辺のいくつものレストランも火曜日の夕方というのに大盛況だ。

 ぜひに、とお願いして、湖畔にある「クラインガルテン」をのぞかせてもらった。クラインガルテンはドイ語で「小さな庭」という意味。市民が公共団体から300平方メートル前後の小屋付き農園を借り、週末に野菜づくりを楽しむ。日本でも少しづつ普及しており、私も兵庫県下にあるクラインガルテンまがいの貸農園2か所ほどを借りたことがある。

 しかし、ウイーンのクラインガルテンは少し様子が違う。車の乗り入れを禁止した路地の両脇にある敷地に野菜畑は一つもなく、すべて整備された芝生と木々、季節の花であふれている。寝椅子でくつろいでいる老人や、アルテドナウで泳いできたのだろうか、バスタオルを身体に巻いたまま花の世話をしている女性の姿が垣間見える。ラウベと呼ばれる住宅も小屋と呼ぶのにはほど遠いりっぱなものばかりだ。なかには、敷地を買い取って地下室まで作った"別荘"もあるようだ。

 ネットサーフインをしてみると「調査した300区画のなかで、菜園らしいのは1区画しかなかった」という報告「州法の改正で、規制がなくなったことが生んだウイーンの特異性」というレポートもあった。ウイーンの市民が、クラインガルテンの快適性を追求して勝ち取った権利なのだろう。

   ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」で歌われる歌詞は次のように始まる。(「横顔のウイーン」=河野純一著、音楽之友社刊より)
  いとも青きドナウよ
  谷や野を越えて
  静かに波うちながら流れていく
  わがウイーンはお前に挨拶する
  銀色の流れは国々を結びつけ
  喜ばしい心が美しい岸辺ではずんでいる


 アルテドナウ河畔やクラインガルテンで、ウイーンの人たちの気持ちがウインナーワルツに乗ってはずんでいるのが見えてくるようだ。

 川の水が「青きドナウ」から程遠いのが、ちょっぴり残念だが・・・。

2009年9月 2日

ウイーン紀行①「ウイーンの森」


 ウイーンの森への旅は、かって貴族の別荘だった館の庭にある小さな森から始まった。

オーストリアに640年にわたって君臨したハプスブルグ家の夏の離宮だった世界遺産・シェーンブルン宮殿のすぐ近く。ビーダーマイヤー時代最盛期の1825年に建てられたこの館に、アトリエを構えておられるパン文化史研究者、舟田詠子さんのゲストルームに泊まらせていただく幸運に恵まれたのだ。

 建物の玄関は石の壁と巨大な木の扉で守られているが、庭に面して大きなガラス窓のサンルームが広がり、外壁はカラマツのこけら板で覆われている。庭には、トウヒらしい巨木のほか、サクラ、レンギョウ、カリン、アンズ、モモ、洋ナシ、クルミなどの樹木が繁り、フジの大枝が伸び、壁をおおうツタの太い枝が時代を感じさせる。
奥の小山をぐるりと回って上ると、頂上のブドウ棚から「世紀末ウイーン」をリードしたウイーン分離派の建築家・ヨーゼフ・ホフマンが設計した館などが臨める。
 舟田さんのアトリエを含めたこれらの館は、ウイーンでも貴重な建築物として文化財の保護下にあるという。

 庭のテーブルに並べられた朝食の皿には、ウイーン名産のハム、ソーセージの逸品や野菜料理が盛られ、日曜日にはいくつも教会の鐘が次々と響いてくる。向いの作曲家の館からピアノの音まで聞こえてきて・・・。なんともはや「森の都」ウイーン文化の奥深さに圧倒されてしまった。

 
舟田さんのアトリエのある館:クリックすると大きな写真になります館の外壁:クリックすると大きな写真になります庭の小さな森:クリックすると大きな写真になりますウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸:クリックすると大きな写真になります
舟田さんのアトリエのある館。かって貴族は、この木のドアーを開けさせ、直接、馬車を乗りいれたという庭に面した外壁はこけら板とツタで覆われている庭の小さな森は奥深く、見あきないウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸


 さっそく、ウイーンの森の探訪に出かけた。シェーンブルン宮殿の周辺は、もう森の一部だという。
 宮殿の南西部にある公園は、歩く人も少ない広葉樹の森。ウイーンの森を管理するウイーン市森林局の事務所の横にある門をくぐって、宮殿南部の高台にある記念碑・グロリエッテへ。道を少しそれると、昼でも薄暗いブナなどの林が続く。
  森が急に切れて、細長い草原に出た。はるか下にウイーンの街並みが臨める。なんと、この草原は、ウイーンの街に森の冷気を送りこむ「風の道」なのだ。確か、皇居に風の道を通せば、東京都心のヒートアイランド現象はかなり緩和できるという話しを聞いたことがあったが、ウイーンの街は残された貴重な遺産を見事に生かしきっている。

シェーンブルン宮殿とウイーンの市街:クリックすると大きな写真になります宮殿内の森:クリックすると大きな写真になります「風の道」森の観察路の説明板:クリックすると大きな写真になります
グロリエッテから見たシェーンブルン宮殿とウイーンの市街人気も少ない宮殿内の森森を貫く「風の道」森の観察路の説明板


 マリア・テレジアの夫のフランツⅠ世が1792年、宮殿内に作った世界最古という動物園に入ってみた。
 パンダやペンギンは珍しくもないが、階段を上って森の木々や葉を下からでなく目の前で眺められる樹木観察路があるのが「森の都」の動物園らしい。
 所々に、樹木の葉や小鳥、小動物など森の住民を解説した掲示板まである。ブナ、シデ、シナノキ(菩提樹)、トネリコ、カエデなどの名前が書いてある。

 オーストリア連邦森林局(現在は民営化されてオーストリア連邦森林株式会社)の林業専門家であるアントン・リーダーが書いた「ウイーンの森―自然・文化、歴史―」(戸口日出夫訳、南窓者刊)によると、ウイーンの森の木々の75%がブナ、ナラなどの広葉樹、25%がクロマツ、トウヒといった針葉樹という。
 針葉樹が多いドイツの黒い森と違って、広葉樹がつくる明るい森がウイーンの人々の開放的でのんびりした気風を育てているのだろうか。

 著者と訳者によると、ブドウ畑や居住地を含めたウイーンの森の総面積はおよそ1250平方キロと、東京23区の2倍以上。
世界のいかなる大都市も、このような周辺部を持つものはなく、・・・その自然のなかで、ビーダーマイヤー時代には、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」やベートーヴェン「田園」が生まれ、ウイーンの森と音楽の都が結びついた


 舟田さんに、さらに森の奥へと案内してもらった。
 夕方、中心街・リンク沿いにあるウイーン大学前のショッテントーア駅の地下ターミナルで待ち合わせてトラム(路面電車)38番でワインを飲ますホイリゲが並ぶグリンツイングへ。そこで白ワインを軽く飲み、バス38Aで海抜484メートルのカーレンベルクに着く。

 カーレンベルクのことをアントン・リーダー氏は「忘れがたい場所」の筆頭にあげて、こう書いている。
頂からウイーンを見下ろせば、その中心にはシュテファン大聖堂も見える。少し先にベルヴェテーレ宮殿も見える。きらきら光るドナウ(川)のわきに国連都市のビルがあり、その右にプラーター(公園)の大観覧車も小さく確認できる。・・・真下の麓には一面に葡萄畑が広がり、それが上方のブナ林のなかに吸い込まれてゆく。


 この丘にある小さな教会にも、ウイーン市指定の史跡であることを示す国旗を模した旗が掲げてある。
1683年、ポーランド王率いるキリスト教連合軍が、この教会でミサにあずかった後、一気に斜面を駆け降りて、ウイーン城を包囲していたトルコ軍を急襲、敗走させた、という。

 ウイーンの森が終わるレオポルヅベルクまで森のなかを歩く予定だったが、時間がなくなった。ブドウ畑の間を早足で降りる。「ブドウ畑を持つ首都はウイーンだけ」と、舟田さん。

予約した7時は少し過ぎたが、ワインセラーの庭にはウイーンの街を真下に臨む席が用意されていた。降りた分だけ、街が近く見える。
 ローストポークにチーズ味のパテ、オリーブがいっぱい入ったサラダと、白ワイン。街が少しずつ夕日から夜景に変わっていく。ウイーンの森で飲むワインの一口、一口が、深く静かに身体に回ってきて・・・。

ホイリゲの陽気なボーイさん:クリックすると大きな写真になります;">カーレンベルクの丘から見たウイーン市街:クリックすると大きな写真になります;">キリスト教連合軍が祈願した教会:クリックすると大きな写真になりますワインセラーの団らん:クリックすると大きな写真になります
ホイリゲの陽気なボーイさん。チップはずみすぎ?カーレンベルクの丘から見たウイーン市街。左にドナウ川が見えるキリスト教連合軍が祈願した教会。18世紀初めに再建された(壁にあるのが、史跡指定の旗)ウイーン市街の夜景を眼下に、森のなかの団らんは続く


ウィーンの森―自然・文化・歴史
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南窓社
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2007年12月11日

読書日記「中国を追われたウイグル人」(水谷尚子著、文春新書)

 1か月ほど前、本屋漁りをしていて、ふと目を引かれたのが、この本。目次に「イリ事件を語る」とあるのを見てエット思った。

 前回、書いたように「中国・シルクロードウイグル女性の家族と生活」という本のあとがきに、編者の岩崎雅美さんは、国を持たないウイグル人と中国政府との衝突について触れられている。

 「中国を追われたウイグル人」という本を見て、この、あとがきを思い出した。

 9月の中旬に天山北路のツアーに参加した時は、そんなことはまったく知らず、イリの街ではカワプ(羊肉の串焼き)や野菜などを揚げる屋台の賑わいを、周辺の山や草原では、羊や牛を放牧するウイグル族の牧歌的な生活の観光を楽しんできた。

 しかし、まったく無知だったが、郷愁漂うシルクロードが走る中国・新疆ウイグル自治区はウイグル人の祖国だったのだ。この"祖国"を彼らは、東トルキスタンと呼ぶ。

 歴史年表によると、1933年に続き、1944年にも東トルキスタンは独立をはたしたことがある。しかし、いずれもソ連の介入や中国政府による占領で、短命に終わっている。

 しかし、イリを中心に祖国を持たないウイグル人の反政府、独立運動は続発し、中国政府による弾圧も続いているらしい。

 この本は、この独立運動に関与したと見なされて、海外に亡命したり、投獄されたりしているウイグル人たちの実情を記録したものだ。

 圧巻は、世界ウイグル会議議長として、ウイグル人の人権擁護活動をしている在米ウイグル人女性、ラビア・カーディルさんへのインタビューだ。

 ラビアさんはアルタイ生まれ。中国共産党の軍隊が「東トルキスタン」を占領した際、母、弟妹とともにトラックに乗せられ、タクラマカン砂漠に置き去りにされた。大変な思いで砂漠を抜け出した後、自らの才覚で中国十大富豪の一人と呼ばれるようになり、中国共産党関連組織の要職まで務めた。

 だが、江沢民を前に反政府演説をしたのをきっかけに、その地位と財産を奪われて6年間投獄されたが、欧米の人権団体の擁護などもあり、米国に亡命した。

 この11月にはアムネスティ・インターナショナルの招きで来日、各地で講演している。11月10日付け読売新聞によると、ラビアさんは「ウイグル族の若い女性が沿岸都市に安価な労働力として強制移住させられている」「政治的迫害を受けて中央アジア諸国に逃亡したウイグル族が中国に強制送還されて投獄されている」など、中国の人権侵害の実態を訴えた。

 この本では、こんなエピソードも紹介されている。

 「2000年6月、日韓共催サッカーワールドカップで、トルコ対中国戦がソウルのスタジアムで行われた際、世界中のウイグル人が興奮し目を疑い、快哉を叫んだ。中国のゴール裏に広げられた巨大な東トルキスタン国旗(トルコ国旗の赤い部分を青にした旗)が、中継画面に何度も映し出され、全世界に配信された。実況中継のため中国でもそのシーンをカットすることはできなかった・・・」

 ただ、この本の著者である水谷尚子・中央大学非常勤講師は「序にかえて」で「ウイグル人亡命者の口述史をまとめる作業は、まるで平均台の上を歩かされているような感覚である。彼らの『語り』は、傍証となる資料を探すことがほぼ不可能で、客観的検証が非常に難しい・・・」と、書いている。

 私もこのブログを、その他の本やWEB検索資料で書いている。出所を確かめる作業はまったくしていないが、無責任な記述が許される「おたくメディア」だからと、自分を納得させるしかない。

中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書 599)
水谷 尚子
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5 恐るべきチャイナ
4 中共政府による少数民族弾圧の実態
5 アジアにおける「人権」を問う


 参考文献:「もうひとつのシルクロード」(野口信彦著、大月書店)=岩崎先生からの寄贈
もうひとつのシルクロード―西域からみた中国の素顔
野口 信彦
大月書店 (2002/05)
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