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2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

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② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
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⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
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⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2016年5月26日

 展覧会紀行「日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展」(於・ 国立西洋美術館、2016年5月21日)



   日本を代表する聖書学者である 和田幹男神父に引率された巡礼ツアーで、ローマの街を回り カラヴァッジョの作品に魅了されて、もう10年になる。

 今回、日本に来たのは接したことがなかった作品ばかりだった。ぜひ見たいと思い、世界遺産への登録が確実になった ル・コルビュジェ作の 国立西洋美術館に出かけてみた。

 上野のお山は、東京都立美術館で「伊藤若冲展」という待ち時間3時間半というばけものみたいな催しがあることもあって、週末の金曜日というのにごった返していた。

 幸い西洋美術館には、約30分並んで入場できた。

 一番、観客の目を惹きつけているのが、「法悦の マグダラのマリア」(1606年、個人蔵)だ。長年、この作品が本当にカラヴァッジョ作であるかどうかが専門家の間で議論されてきたが、ロベルト・ロンギ財団理事長でカラヴァッジョ研究の第一人者であるミーナ・グレゴーリ女史から本物であるというお墨付きが出て、この展覧会が世界初公開となった。

法悦のマグダラのマリア
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 所有者は「ヨーロッパのある一族の私的コレクションのひとつ」としか明かされていないから、この作品を見られるのは、これが最初で最後かもしれない。

 グレゴーリ女史が「真作」と確定した根拠は、第一に、キャンバスの裏にあるチラシに1600年代特有の書法で書かれた署名。第二に、その色使いや手法。「マグダラのマリア」は頭を後方にそらし、その眼は半閉じ状態で、口はわずかに開いている。両肩をのぞかせ、両手を組み、髪の毛は乱れている。服装は白のワンピースに、カラヴァッジョがいつも使う赤の絵具のマント。

 作品をじっと見てみると、右の眼から一滴の涙が流れ落ちようとしており、唇を半開きにしており「法悦」というより、まさに死を迎える寸前の「悔恨」の表情に見えた。

 カラヴァッジョが殺人を犯してローマを追われ、逃避行の末に死んだ時、荷物のなかに残っていた絵画3点のうち1つがこの作品だった。

 最近、マグダラのマリアについての本を読んだり、講演を聞く機会が何度かあった。

 それによると、これまで娼婦としてさげすまれてきたマグダラのマリアは、実はキリストの最後の受難に勇気をもって見届けた聖女で会った、という考えが出てきている、という。

 カラヴァッジョが現代に生きていたら、別のマグダラのマリア像を描くかもしれない。

   もう一つ、どうしても見たかったのが、「エマオの晩餐」(1606年、ミラノ・ブレラ絵画館)だった。

エマオの晩餐 -1
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 新約聖書のルカ福音書24章13-31によると「イエスが十字架につけられた3日後、2人の弟子がエルサレルからエマオの街に向かって歩いている時、イエスが現れたが、2人にはイエスと分からなかった。一緒に宿に泊まり、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂き、2人に渡した。その時、2人はやっとイエスと分かったが、その姿は見えなくなった」

 実はカラヴァッジョは、「エマオの晩餐」(1606年、ロンドン・ナショナルギャラリー)をもう1枚描いている。イエスはミラノのものよりずっと若く描かれ、光と影のコントラストも明快で明るい。

エマオの晩餐 -2
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 今回の展覧会に出された「果物籠を持つ少年」(1593-94年、ローマ・ボルゲーゼ美術館)や「バッカス」(1597-98頃、フレンツエ・ウフィツイ美術館)に見られる、光と影のなかに浮かびあがる躍動感が印象的だ。

果物籠を持つ少年                 バッカス
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 しかし、ミラノの「エマオの晩餐」は、暗い闇が広がる中に、イエスの静謐な顔だけが柔らかい光のなかに浮かびあがる。

 展覧会のカタログでは「消えた後になってはじめてキリストが『心の目』によって認識できたことが示されている」と、解説されている。

 このほかにも、まさしくカラヴァッジョしか描けなかったであろう多くの作品を堪能できる。

 「エッケ・ホモ」(1605年頃、ジェノヴァ・ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮)は、ヨハネ福音書19章5-7の一節から描かれた。

エッケ・ホモ
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 右側の老人、ピラトは大声で叫ぶ。「この人を見よ(エッケ・ホモ)・・・私はこの男に罪を見いだせない」。しかし、民衆はさらに叫ぶ「十字架につけろ。十字架につけろ」
 イエスは、すでに茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せかけられようとしている。しばられたイエスが持つ、竹の棒はなんだろうか。

 「洗礼者聖ヨハネ」(1602年、ローマ・コルシーニ宮国立古典美術館)は、長年、その"帰属"について論議があった作品。漆黒の闇のなかに、柔らかな光に包まれた若い肉体が浮かび上がる。憂いを帯びた表情は、聖職者で長年会わなかった弟を模したものともいわれる。

洗礼者聖ヨハネ
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 「女占い師」(1597年、ローマ・カピトリーノ絵画館)は、2年前にパリのルーブル美術館で見た同じ名前の作品とポーズはそっくりだが、衣装や背景が異なっている。モデルも違うらしい。

女占い師 -1
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女占い師 -2
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   「トカゲに噛まれる少年」や「ナルキッソス」(1599年頃、ローマ・バルベリーニ宮)国立古典美術館)、「メドウ―サ」(1597-98年頃、個人蔵)など、カラヴァッジョ・ワールドをたっぷりと堪能できた。

トカゲに噛まれる少年            ナルキッソス           メドウ―サ
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 今回の展覧会には、カラヴァジェスキと呼ばれるカラヴァッジョの画法を模倣、継承した同時代、次世代の画家の作品も多く展示されている。

 なんと、そのなかに ラ・トウ―ルの作品を見つけたのには驚いた。

 ラ・トウ―ルのことは、この ブログでもふれたが、パリ・ルーブル美術館の学芸員が、何世紀の忘れられていたこの作家を再発見した。

 今回の展覧会では、「聖トマス」(1615-24年頃、東京・国立西洋美術館)と「煙草を吸う男」(1646年、東京富士美術館)の2点が展示されていた。

聖トマス            煙草を吸う男
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 カラヴァッジョとは一味違う炎と光の世界の作品を所蔵しているのが、いずれも日本の美術館だったとは・・・。

2015年10月28日

読書日記「エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦」(梨木果歩著、新潮社)


エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦
梨木 香歩
新潮社
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 ナチュラリスト、梨木果歩の真骨頂あふれる紀行文。

エストニアの首都タリンに着き、旧市街(世界遺産「タリン歴史地区」)に出かけてすぐに、著者らは「なんだか場違いなほど壮麗なタマネギ屋根のロシア正教の教会に出会う。



  アレクサンドル・ネフスキー聖堂と言います。なんだかこの建物、悪目立ちしますよね、この町では」
 通訳兼ガイドで、地元の大学で日本語を教えている宮野さんは、この教会の特色に「ぴったりと当てはまる」言葉を言ってのけた。

 フインランド湾に面するエストニアは、北と東の国境をロシアに接し、常にこの国の支配と脅威にさらされてきた。「悪目立ち」する教会も帝政ロシアの支配時代に建てられたものだった。

P1080325.JPG  以前にポーランドの首都・ワルシャワに行った際、ホテルの前に旧ソ連占領時代に建てられた異常に威嚇的な宮殿風の建物(=写真:「スターリンがポーランドに贈与したという摩天楼・文化科学館」)に違和感を覚えたことがある。それと同じような感覚だろうか。








 午後の新市街で訪ねた宮殿(ロシアのピョートル1世が建てた カドリオルグ宮殿では、庭のあちこちで新婚カップルが記念撮影をしていた。

 
 市井の善男善女が人生のスタートを祝うに十分な晴れがましさと無難さ。だがやはり、この半日回っただけでこんなに惹きつけられているエストニアの魅力とは無縁のもののように感じた。あのロシア正教の派手な寺院と同じように、「浮いて」いる。これから回ることになるエストニアのあちこちでも、北欧やドイツのエッセンスが感じられることはあっても、かつての占領国・ロシアの文化のある部分は、癒蓋のようにいつまでも同化せずに、あるいは同化を拒まれ、「浮いて」いた。けれどその癖蓋もまた、長い年月のうちには、この国に特徴的などこか痛々しく切ない陰影に見えてくるのだろうか。東ヨーロッパのいくつかの国々のように。


「歌の原」は、この宮殿の東にある。

   1988年9月11日、この場所にソ連からの独立を強く願った国民30万人、エストニア国民の3分の1に当たる人が全国から集まり、演説の合間にエストニア第2の国歌といわれる 「わが祖国はわが愛」を歌った。

これが結果的に民族の独立への気運を高め、1991年の独立回復へと繋がっていく。この無血の独立達成は、「歌う革命」と言われる。

 
 しかし、実際その場所に立つと、え、ここが、あの? と、半信半疑になるほど、ガランとしたひと気のない草地、グラウンドのようにも見えるが、奥の方に野外ステージらしきものが建っているので、やはり、ここが、そうなのだ、と往時の緊張と興奮を自分の中で想像してみる。その歴史的な「エストニアの歌」から約一年後、一九八九年八月二十三日に、ここ、タリンから隣国ラトビアリガリトアニアヴイリニュス (バルト三国という言い方もあるが、使わない)(=それぞれ違う歴史を刻んできたから、という意味だろうか)に至る六百キロメートル以上、約二百万の人々が手をつなぎ、「人間の鎖」をつくつた。スターリンとヒトラーにより五十年前に締結された、この三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書の存在を国際社会に訴え、暴力に依らず、静かに抗議の意思を表明するデモンストレーションだった。


 北の端、タリンから南下したヴォルという町にあるホテルは「厚い森」に囲まれていた。

 窓から広がるエゾマツやトドマツの森を見ていると、著者は「こうしてはいられない、という気になって」、スーツケースから旅には必ず持っていく長靴、ウンドパーカー、双眼鏡を取り出す。

 赤い土の小道の両側の木々は厚い緑の苔で覆われている。苔の上には、紅や濃紺のベリーをつけた灌木が茂り、茸の ヤマドリタケの仲間があちこちに見える。遠くでシカの声も聞こえる。転がっていた丸太に腰を下ろす。

 
 しばらくじつとして、森の声に耳を傾ける。ゆっくりと深呼吸して、少しだけ目を閉じる。右斜め前方から、左上へ、それから後方へ、松頼の昔が走っていく。走っていく先へ先へと、私の意識が追いつき世界が彫られていく。北の国独特の乾いた静けさ。


  キフィヌ島に入る。ここに住む女性が着る 赤い縦じまのスカートや織物は無形世界遺産。それらをIT技術をいかして世界に売っているという、テレビドキュメンタリーを見たことがある。

 森と森の中間にある木立に建つ一軒家で昼食をごちそうになる。大麦の自家製ビール、黒パン、燻製の魚、温かな魚のスープ。すべて、島のおばあさんたちの手作りだ。

 機を織っていたおばあさんがふと織るのをやめ、ぽつんと「自給自足は出来ても、お金持ちにはなれない」と呟いた。

 旅から帰国してすぐにリーマンショックが起きた。

 「あのおばあさんの言葉は『金持ちになれないけれど、自給自足は出来る』ということであった」と著者は悟った。

 サーレマー島は、エストニアで一番大きな島。車に乗り込んできたきさくなガイドの女性は、最後まで律儀な英語で話した。

 
 この島は、古いエストニアそのままの生態系が保持されています。それというのも、ソ連時代、軍事拠点だったせいでサーレマー島はほとんど孤島も同然、ソ連は西側からの侵入やにしがわへの逃亡を警戒して・・・そんな中、自然だけは見事なほど保たれました。ムース(ヘラジカ)やイノシシは約1万薮、オオカミ、オオヤマネコ、クマ、カワウソは数百匹が確認されています。・・・
  ――ではクロライチヨウキバシオオライチョウも・...‥。
 ――もちろんです。カワウソだっています。


 
 この時、私は本気で後半生をこの島で過ごすことを考えた。


 このところ、どうもピンと来る本に出合わない。「介護民俗学」とうたった本や今年度の谷崎潤一郎受賞作品のページを開いては途中下車ばかりしていた。やむをえず、本棚にあったこの本を取り出した。やはり、この著者の本は、老化した脳にもすっきり沁み込んでくれる。

 同じ著者の「不思議な羅針盤」(新潮文庫)が文庫本になったので、これも同時進行で読んだ。「サステナビリティー(持続可能性)のある生活」を考える、しっとりとしたエッセイ集だった。

2014年3月11日

読書日記「旅立つ理由」(旦 敬介著、岩波書店)


旅立つ理由
旅立つ理由
posted with amazlet at 14.03.11
旦 敬介
岩波書店
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 今年の読売文学賞の「随筆・紀行賞」受賞作。全日空(ANA)の機内誌に掲載された21の短篇をまとめたものだ。

 「旅立つ理由」なんて正面切った表題には「いささか抵抗感があるなあ」と思いながらも、図書館で借りてしまった。

 「BOOK」データベースにも「現代の地球において、人はどういう理由で旅に出るのか、どうして故郷を離れることを強いられるのかを問う」とあり、硬派の旅分析と想像していた。

 ところが読んでいくうちに、ほとんどが南米やアフリカのへき地といった、よほどの旅好きでないといかない土地を訪ね、そこに流れついた人々との"激流"のような交流を描いたフィクションであることが分かってくる。

 南米のメキシコとグアテマラ に国境を接するベリーズという国では、半年前に中国・上海から来て小さな中華料理店を切り盛りする娘と エル・サルバドル出身の港で働く若者という「遠くから来た」もの同志の「熱帯の恋愛誌」に出合ってしまう。

 メキシコ沿岸の港湾都市ベラクルス郊外にあるマンディンガという集落にある、水上に張り出した小さな海鮮食堂。牡蠣料理の注文を聞いてから海に飛び込み採りにいくのは、その昔アフリカから奴隷として連れてこられた人々の子孫たち。

 ケニアの首都・ナイロビで友達になったマリオは、政変でエチオピアの政変で逃れてきた。そのマリオも、何代もの祖先が住んでき土地をたたんだお金を手にビザのとれたカナダにまた新天地を求めて旅立っていく。

 「ダン」と呼ばれる著者と二重写しを思わせる主人公の旅もまことに"浪漫"かつ"放浪"的だ。

 ケニアで知り合った手足の長いウガンダ人の難民女性・アミーナが、ナイロビの病院で2人の息子を生んだことを知らされた時、父親のダンは「アフリカを西にまるごと横断し、さらに南太平洋を横断した」ブラジルにいた。

 「子どもの誕生」というまったく新しい体験に狂騒状態に陥った彼は、2か月以上もカーニバルで友人たちと祝い騒ぐ。

 やっと「会いにいかなくちゃ」と思ったが、手元にあった航空券がリスボンに途中下車できるチケットであることが分かると「ドキドキしてしまい」ポルトガルに10泊する予定で飛行機の予約を入れてしまう。

 旧約聖書の「逃れの町」と同じよう城塞都市が国境の山岳地帯に点在することを知ったからだ。

 南米・ベリーズに国境を越えて入った時、彼はこんなことを思う。

 通り過ぎる車のラジオからはスペイン語の歌と広告の断片が流れてくる。商店からは観光客目当ての正統的な英語が聞こえてくる。道端からは、動詞の活用形が省略されたクレオール英語が地を這(は)うように響いてくる。・・・ことばなんて、手近にあるものを適宜便利に組み合わせて使っていけばいい。人生は整理整頓されてなくていい。パッチワーク、寄せ集め、ミクスチャーでいい。


 旅した土地で出会うのは、流れてきた人をはぐくんできたその国の民族料理だ。

 アミーナがよく作ったのは「細かく刻んで塩もみしてから洗ったり絞ったりした玉ねぎやャベツに、やはり細かく切ったトマトと香菜と緑トウガラシを混ぜてレモン汁でじっくり和えた」「カチュンバーリ」というサラダ。その来歴がすごい。

 
 ヴァスコ・ダ・ガマの時代から続く全地球的規模の暴虐な歴史の展開にダイレクトに結びついていて、流行語として「ポスト・コロニアル」と呼ばれる世界の構成と分かちがたいものであることを思う・・・


 ブラジルで借りたアパートの披露パーティに友人の女性・ナルヴァが作ってくれたブラジル料理の「フエイジョアータ」は、材料の仕入れから完成まで3日もかかった。

 豚の足や尻尾、耳、腸詰め、牛のばら肉や塩漬け肉、色々な内臓を水で洗い、酢につけ、全体にクミンとパプリカを塗り込める。塩漬け肉は空の鍋で加熱、水を何度も取り替えて塩抜きする。水に浸したインゲン豆を入れ、みじん切りの玉ネギ、コリアンダー、トマト、ピーマンを入れて、時間が料理を完成してくれるのを待つ。


 ナルヴァは、あの時のパーティで知り合ったアルゼンチン人と一緒にブエノス・アイレスに旅立ったことを半年後に知る。

  ナイロビでマリオが焼いていたインジェラは、エチオピア料理には欠かせない。

 テフとい粒の細かい雑穀をすりつぶして水で溶き、3,4日発酵させてから円形の鉄板か陶板に流しこんで蒸し焼きにする。・・・ひんやりと冷たくて、しっとりと湿り気があって・・・、かなり酸味がある。パンやクレープの仲間であることはたしかなのだが、・・・そのどれとも似ていない。


 食べるときには、丸い大きなインジェラスの上に、何種類ものシチュー状の煮物や炒め物、野菜が、混ざらないように分けて盛りつけられている。・・・エチオピア人は右手だけでちぎったインジェラで巧みに包んで食べる。


ウガンダでの最初の食事は「肉のかけらがころりと入った落花生味のソースにマトーケ(青バナナ)を浸して食べる」料理だった。

 手を洗ってから素手で食べた。味わい深くて、染み入るようにうまくて、機嫌は跳ねあがった。マトーケはつぶした芋のようにとろりとなって、料理の味をまったく邪魔しない理想の主食に思えた。他に一人の客もいない国境の食堂でうまい料理が食べられるのだから、悪い国のはずはなかった。


 先月下旬に発刊された対談集 「一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」 (集英社新書)(内田樹、中田考著)という本で、著者の1人、 内田樹が、遊牧民と定住(農耕)民の違いについて、こんなことを語っている。

 旅しながらでないと生きていけないような人の場合、「身一つが資本」というか、生身の身体のリアリティを常に意識する生き方になるような気がするんです。人とのつながりを大事にする。助け合って生きる。


 「旅する理由」で著者が出会った人々の多くは、まちがいなく「旅しながらでないと生きていけない遊牧民」「著者自身もひょっとすると生まれながらに遊牧民のDNAを身につけているのではないか」

 読み終えて、そんなことをふと思った。

2013年5月29日

 トルコ紀行・上「イスタンブール」(2013・4・27―5・6)



 トルコ・イスタンブールのアタテュルク空港に着いたのは、4月28日の早朝6時前だった。

 さっそく、空港の銀行出張所で日本円3万円をトルコリラ(TL)に替える。ガイドブックには1TL=40円と書いてあったが、急激に進んだ円安で、関西空港の両替所では1TL=75円と言われてびっくり。アタテュルク空港では55・5円だった。しかし、超円高が続いた1年も前に友人が先行して格安往復航空券を手に入れてくれていたから、おかげで気分は悠々である。

 予約しておいたタクシーは、高台に世界遺産の トプカプ宮殿を望む ボスポラス海峡沿いの旧市街地を快適に飛ばす。
 道沿いに 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代の古いレンガ造りの城壁が続いている。

 機中で読んだ塩野七生の 「コンスタンティノープルの陥落」(新潮文庫)によると、現在の新市街に布陣したオスマントルコ軍の大砲から飛んでくる巨大な石弾が難攻不落といわれた城壁を壊し、 コンスタンティノープル(現在の イスタンブール)市民を震撼させたらしい。
 しかし、主戦場は北西の陸側城門の攻防だったから、海峡沿いの城壁は現在でもよく保存されているように見える。

旧市街から金角湾を渡るガラダ橋を通り新市街地に。早朝から橋の2階歩道から釣り人が長い糸をたれている。1階はすべて魚専門のレストランフロワーで、釣りは禁止らしい。釣り人の収穫のほとんどは、イワシかベラに似た赤っぽい小魚。昼食に1階の店で食べてみたが、唐揚げにレモンと塩が結構いけた。

新市街の高台にあるホテルに荷物を置き、先行していた友人ら計4人で、タクシム広場から、イスタンタンブール最大の繁華街「イスティイクラル通り」を港の方へ下る。

1両編成の赤いアインティーク調の路面電車と車数台が時々行き交うだけで、ほとんど歩行者天国。朝食の定番というトマトやレンズ豆のチョルバ(スープ)がいける。特産のナッツ屋、蜂蜜などを使ったお菓子屋、伸びるアイスクリーム・、ドンヅオウルマの店、「濡れハンバーク(パンの上下を特製ソースに浸けてある)」は意外にうまい。
魚市場「バルック・バザール」というアーケードに入る。友人が揚げるのを試したムール貝の串揚げを楽しみ、貝に詰めたムール貝のピラフは少々冷たい。欧米にも広がっているという 「ドネル・ケパブ」(回転焼肉)は、ほとんどの店が焼く準備中だった。

イスラム教の国なのに、道沿いに様々な宗教の教会があるのが、不思議だった。

オスマン帝国は、コンスタンティノープル陥落後、イスタンブールと名前を変えたこの都市をヨーロッパとアジアを結ぶ世界都市とするため、他宗教の施設を認め、移民を奨励した。住民の4割ほどが ムスリム(イスラム教徒)以外が占める政策を取った。

「オスマン帝国」(講談社現代新書)の著者・鈴木薫は、これを「イスラム世界の『柔らかい専制』」と名付けている。

イスラム教では、礼拝堂・ モスクの大規模なものを「ジャーミイ」と呼ぶ。イスティイクラル通りに入ってすぐ北の路地にある「アー・ジャーミイ」に入ってみようと思ったが、道沿いのベンチで トルココーヒーをすすっていた男性が「2ヶ月後まで工事中。この裏のバザールはやっているよ」と巧みな日本語で教えてくれた。

 ちょうど日曜日。通りの左にあるカトリックの聖アントニオ教会では、朝8時からのミサの最中で欧米からの観光客もいて超満員だった。ビザンチン時代の1221年に修道院ができ、オスマン時代の木造教会はなんどか火災で損傷、1912年に現在の バジリカ方式のレンガ造り教会になった。イスタンブール最大のカトリック教会で、完成の時にはローマから代表団も来た、という。

 翌週、土曜日の朝、再びイスティイクラル通りを歩いていて、聖アントニオ教会の向かいに ギリシャ正教の大理石造りらしい教会を見つけた。

 入ってみて驚いた。白いあごひげを付け赤い祭服に金色の ミトラ(宝冠)をかぶった 主教が、司祭たちに抱えさせた幅1・5メートルはある竹籠にあふれた月桂樹らしい葉を群がり寄る老若男女の体に投げ、祝福を与えているのだ。なぜだか、参加者の顔が喜びに輝いている。

 なんとギリシャ正教では、翌日5月5日が、十字架上で死んだキリストの復活を祝う 復活祭(イースター)なのだ。カトリック教会では3月31日に終わっているだが、両教会の暦の違いらしい。カリック教会では、前日の聖土曜日は静かな祈りのうちに過ごすが、ギリシャ正教会では、 聖大スポタと呼び、キリストの復活を先取りするお祝いをするようだ。

 ちなみに、来年のイースターはギリシャ正教、カトリックとも4月21日・・・。

 ギリシャ正教を統括する 「コンスタンディヌーポリ総主教庁」は、コンスタンティノーブル没落後も スルターン メフメト2世に許され、今だにここコンスタンティノーブルの金角湾沿いの教会内にある。

 「民族も宗教も異にする多種多様な人々をゆるやかに包み込む」(前述「オスマン帝国」)「"柔らかい専制"」は、世界の歴史でも、あまり例がないのではないかと思う。

  「イスタンブル」(長場紘著、慶応義塾大学出版会)によると、現在イスタンブールには2000近いモスクがあるが、オスマンに滅ぼされたギリシャ正教教会が80,シナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝堂)15,キリスト教がカトリック、プロテスタントを合わせて10,その他アルメニア正教20,その他にロシア正教、ブルガリア正教、アルメニア・カトリック・・・。

 そんな宗教建築に混じって、欧米の観光客、スカーフ姿のトルコ女性やアジア系の人も多く、ちょっと他では見られない世界都市の風景が描き出されている。

 スルターンは勝利後、3日間の略奪は許したが、捕虜になることを免れた旧市民は保護され、帰宅させた。港に寄留していた ジェノヴァ人の多くも保護された。

 ユダヤ人地区が旧住民の攻撃を受けた際には、自らの軍隊で撃退し、これを知ったエジプトなどから多くのユダヤ人も移民してきた。

 一方で、スルターンは、かってのギリシャ正教総主教座聖堂 「ハギ・ソフイア聖堂(現在の世界遺産『アヤソフイア博物館』)」など多くのキリスト教会を、イスラム教のモスクに変えた。

改造されたモスクでは、堂内正面にメッカに向かって礼拝するための 「ミフラーブ」と呼ばれるアーチ型の壁が作られた、イスラム教には、祭壇はない。博物館になっているアヤソフイアでは、旧祭壇に横にメッカに方向を向いたミフラーブが斜めの方向に向けて作られていた。

礼拝への誘い 「アザーン」を肉声で呼びかけるための尖塔 (ミナレット)も何本かモスク脇に建設された。

 今では、肉声に代って拡声器で「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なるかな)」に始まる、祈りへの誘いが、イスタンブールの街中に流れる。

 男たちは、この拡声器に誘われるようにモスクにやってきて、水場で足と手を洗い、顔を水でぬぐって、モスクに入っていく。礼拝の時間は30分ほどだが「夜明け、夜明け以降、三回目は影が自分の身長と同じになるまで、そして日没から日がなくなるまで、最後は夜」の計5回。
 といっても、集まって来るのは、1回に5,60人程度だ。それに比べると。路地のベンチでコーヒーやチャ(紅茶のこと、オレンジ・チャがうまい!)を飲んでいる男性のほうが多いように見える。

 女性の姿があまり見えないが、1日ツアーのガイドに聞くと「ほとんど家で祈る」という。モスクに来ても、入り口近くの透かし壁で囲まれた狭い空間で祈っている。厳しい"男尊女卑"に同行した女性軍は憤慨気味である。

 スカーフから衣装まで黒尽くめの女性は意外に少ない。多くの女性は青スーツに紫のスカーーフを合わせたりして、なかなかファッショナブルだ。トルコ・民主制の成果だろうか、スカーフで顔を隠さない女性も多い。エジプシャンバザールのコーヒー売り場で、スカーフをしていない女性にカメラを向けたたら、にらみ返された。

  「偶像礼拝を禁ずる」イスラムの教えにそって、モスクに変わったキリスト教会の聖像などは取り外されたり、白い漆喰で塗りつぶされたりはしたが、柱や大ドームの見事なビザンチン壁画は、幸いそのまま残された。

   「アヤソフイア博物館」では、1931年、アメリカ人の調査隊によって壁の中のモザイク画が発見され、トルコ共和国の初代大統領・ アタテュルクは、翌年ここを博物館とし、一般公開した。

 同じような事情で現代にまで生き残ったというビザンチン壁画を、どうしても見たいと思った。

カーリエ博物館(旧コーラ修道院)は、コンスタンティノープル陥落のきっかけになった、テオドシウスの城壁の近くにある。ホテルからは、地下ケーブルカーとトラム2本を乗り継いで行く。駅員は「駅か博物館までは分かりにくい」と・・・。

 車中で一緒になったハンガリーの若い男女4人と一緒になって探す。結局、見つけたのは「年の功」の我々だった。入る前に、道路を隔てたレストランにはいったが、アルコールル禁止だったので、しぼりたてのザクロのジュースでのどをうるおした。悠々と「水パイプ」を楽しむ客もいた。

 カーリエ博物館は、小さな庭に囲まれたレンガ造りの小づくりの建物。モスクに変えさ世良田ことを示す尖塔も1本残っている。20世紀中頃に、やはりアメリカのビザンツ研究所によって、13,14世紀に描かれたキリストや聖母マリアのモザイク画が発見された。天井や壁に描かれた見事なモザイク画を、欧米から来たと思われる観光客がほうけたように見上げている。歴史が、現代に生き返った輝きを実感する。

   ビザンチン美術だけでなく、イスラム社会が生んだ芸術にも圧倒され続けた。

 シルエットが美しいイエニ・ジャーミイ、香辛料はじめ食料品を買う客でごった返すエジプシャンバザールを楽しみ、店舗の間の狭い石段をやっと見つけ、 「リュステム・パシャ・ジャーミイ」にたどり着いた。

 ここは、訪れる観光客はおおくないが、外壁や内部の柱などをおおう 「イズミック・タイル」の美しさに目を見張る。とくに、トルコ特産のチューリップの赤とコバルトブルーの対比にはいつまでも見飽きない。

 歴史地区・スルタンアメフット地区の中心にある スルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)は、朝から観光客の長い列ができていた。
 信徒とは別の入口から入り、スカーフを持たない女性は入り口で貸してもらい、男女とも靴を脱いで入る。

 同じイスラム教の国でも、サウジアラビアのメッカなどにはイスラム教徒しか入れない、という。こここにも「柔らかい専制」の伝統が生きているのだろうか。

 内部は数万枚の青いイズニクタイルで飾られ、大ドームを飾る260ものステンドグラスの窓からもれる光で青く輝いている。6つの尖塔を持つのも、世界でこのモスクだけだという。

 「トプカプ宮殿」は現在は博物館になっているが、最後の展示室は、イスラム教の開祖者であるモハメッド( ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ) の白髪、モハメッドの「足型」など、モハメッドを"神聖化"する陳列物が目白押しに置いてある。

 しかしイスラム教ではモハメッドは、モーゼ、イエス・キリストに続く最後の預言者である、という位置づけをしており、神は 「アッラー」と呼ぶ。

 つまり、イスラム教では「キリストを人間と認めながら、神性はきっぱりと否定」しているのだ。キリスト教とは、まったく相容れない宗教である。

 イスラムの聖典 「コーラン」の日本語訳を見ると「聖母マリア」の項があってびっくりする。「コーラン」には、聖書と似たところや矛盾する記述があり、簡単には理解できそうにない。

 そして、そのイスラム世界にイスラエルがカネの力で国を建設して以来、パレスチナでイラク、レバノン、シリアで・・・民族間の紛争が絶え間ない。

 昔の「柔らかい専制(共和制)」をイスタンブールの街に見つけながら、それとはほど遠い、現実の世界にりつ然とするしかないのである。

トルコ旅行写真集

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「濡れハンバーク」;クリックすると大きな写真になります 魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ;クリックすると大きな写真になります 開店準備中の野菜・果物店;クリックすると大きな写真になります 聖アントニオ・カトリック教会;クリックすると大きな写真になります トルコ特産、ナッツ専門店;クリックすると大きな写真になります
「濡れハンバーク」
 約140円
魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ 開店準備中の野菜・果物店 聖アントニオ・カトリック教会 トルコ特産、ナッツ専門店
ドネル・ケバブは、焼く準備中;クリックすると大きな写真になります トルコの炉端焼き盛り合わせ;クリックすると大きな写真になります 朝食はスープにパン、チャが定番;クリックすると大きな写真になります ブルーモスク;クリックすると大きな写真になります 港沿いイエニ・ジャーミイ;クリックすると大きな写真になります
ドネル・ケバブは、焼く準備中 トルコの炉端焼き盛り合わせ 朝食はスープにパン、チャが定番 ブルーモスク 港沿いイエニ・ジャーミイ
エミノニュ港名物「サバサンド」;クリックすると大きな写真になります ごった返すエジプシャン・バザール;クリックすると大きな写真になります 長い列ができるトルココーヒー店;クリックすると大きな写真になります 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・;クリックすると大きな写真になります リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂;クリックすると大きな写真になります
エミノニュ港名物「サバサンド」。生タマネギとレタスもたっぷり ごった返すエジプシャン・バザール 長い列ができるトルココーヒー店 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・ リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所;クリックすると大きな写真になります ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所;クリックすると大きな写真になります ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地;クリックすると大きな写真になります レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する;クリックすると大きな写真になります 元気なトルコの女性たちら;クリックすると大きな写真になります
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所 ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所 ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地 レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する 元気なトルコの女性たちら
アヤソフイア博物館;クリックすると大きな写真になります 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい);クリックすると大きな写真になります 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト;クリックすると大きな写真になります 聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります
アヤソフイア博物館 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい) 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト 聖母子のモザイク
キリスと皇后ゾエら;クリックすると大きな写真になります ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿;クリックすると大きな写真になります 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像;クリックすると大きな写真になります トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい;クリックすると大きな写真になります 斬新なデザインに驚く「植物の間;クリックすると大きな写真になります
キリストと皇后ゾエラ ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像 トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい 斬新なデザインに驚く「植物の間
宮殿の中庭。対岸は新市街;クリックすると大きな写真になります 閑散とした6時過ぎのグランドバザール;クリックすると大きな写真になります 陶器を物色するトルコ人母子;クリックすると大きな写真になります ディナー付きベリーダンスショー;クリックすると大きな写真になります イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会;クリックすると大きな写真になります
宮殿の中庭。対岸は新市街 閑散とした6時過ぎのグランドバザール 陶器を物色するトルコ人母子 ディナー付きベリーダンスショー イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています);クリックすると大きな写真になります
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています)


  
コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)
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2009年12月 9日

読書日記「丘のてっぺんの庭 花暦」(文=鶴田 静 写真=エドワード・レビンソン、淡交社刊)

丘のてっぺんの庭 花暦
鶴田 静 エドワード レビンソン
淡交社
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 この春図書館にいったん予約したが、読みたい本が殺到して15冊の予約ラインを越えそうになってやむなく解約。再度予約したのを芦屋図書館打出分室のボランティア当番だった先週の土曜日に借りることができた。おかげでホッとするような楽しい週末を楽しめた。

 エッセイストである著者が、アメリカ人の写真家である夫と20年前に千葉県房総半島の丘の上に一軒家を建て、6段に分かれた元の棚田を庭に変身させていく。
 家を建てる話しは、すでに「二人で建てた家」(文春文庫PLUS)という本なっており「植物はその美しさと役割によって、人が生きるための源泉だと信じています。これからの世界で減らさずに増やすべきものと考えています。その願いを込めて」この本は書かれた。

 本の写真をそのまま引用するわけにはいかないが、幸い著者のHPの関連ページに「Solo Hill Garden」という名のすばらしい「花暦」が掲載されている。

   その花園には、私のような花の素人にも馴染みのある草木があふれている。我が家の狭い花壇とベランダで四季に咲くものだけでも、アジサイ、カンナ、ギボウシ、キンモクセイ、クリスマスローズ、コスモス、サザンカ、ジンチョウゲ、スイセン、スミレ、タチアオイ、チューリップ、バラ、ヒマワリ、ブルーベリー、ユリ・・・。なんだか、うれしくなる。

 「ソロー・ヒル・ガーデン」は、森のなかでの2年間の一人暮らしを記録した著書「森の生活(ウオールデン)」を書いた自然派の元祖、ヘンリー・D・ソローの名から、採っている。私も、森の生活にあこがれた若いころに夢中になった本である。

 著者が庭作りの構想を練るなかで、一つの原理を教えてくれたのは、著者が1970年代から私淑したイギリスの作家・工芸家のウイリアム・モリスだった、という。著者は、モリスの染織工芸に魅せられて2年間、イギリスに滞在、後にモリスの植物と庭に関する本「ウイリアム・モリスの庭」(ジル・ハミルトン他著、東洋書林)を翻訳までしている。

 このモリスの教えを取り入れ、著者は自分の庭を構想していく。
  • 植物は自生種を主体にし、・・・古くからある帰化植物も植える。自生種はこの地にもともと植わっていたマテバシイ、ウツギ、ネムノキ、ノイバラ、クワ、ウメ、カキ、クリ、ミカンなどで、残された切り株から育てる。
  • 昔ながら馴染みのある植物、生家に植わっていた植物を植える。コスモス、ボケ・・・。和名で呼ばれる植物。白粉花(おしろいばな)、秋明菊、木蓮・・・。外国名でもダリア、カンナ、チューリップなど昔からある植物は植えたい。
  • 宿根草を植えて、毎年、種や球根から自然繁殖に任せる。土手や野原から野の草花を少し移植して・・・。


 この本から漂ってくる何とも言えない懐かしさは、こんなコンセプトから生まれていたのだ。

 米国の有名な絵本作家、ターシャ・テューダの庭からは、インターネットでタチアオイのピンクの種を取り寄せた。
 昨年亡くなったが、日本でも根強い人気のある造園家でもある。先日、芦屋駅前の小さな書店をのぞいたら、ターシャ・テューダ関連の本やDVDが20冊以上、並んでいた。
 作家や芸術家にまつわる花を栽培する。・・・花や木を媒体にして、古今東西の人々と、時空を超えて交流できるとはすばらしい。


 この本を借りた午後、知人に約束した本を自転車で届けた帰りに、ガーデン・ショップでいくつかの苗を買った。
 すでに白い花をつけたノースポールを自宅北側の西日しかささない狭い花壇に、つるなしスナップエンドウ、オーライ・ホウレンソウ、セロリーを家に囲まれ日の光に恵まれない西側テラスのプランターに植えた。

 時々夢見た自然派スローライフは、Too late、Too poorになったなあと思いつつ。

 
(追記): 図書館のボランティアはおもしろい。時に、思いもよらない本との出会いがあるからだ。

先日、カウンターの向かいにある「推薦本」コーナーで見つけたのが「日陰でよかった! ポール・スミザーのシェードガーデン」(ポール・スミザー日乃詩歩子著、宝島社)という本。ガーデンデザイナーのポールスミザーが、日本各地で日陰の庭をつくってきた10数年の成果を公開しているが「植物にとって、本当に必要なのは日差しだけではない」という出だしは、私を含めて日本人の多くが持っている太陽信仰を打ち砕いてくれる。

 先日の土曜日。ボランティアの当番が始まった直後に戻ってきた本を見てアッと思った。
「アルプスの村のクリスマス」(舟田詠子 文・写真、株式会社リブロポート刊)
 この夏、ウイーンでお世話になったパンの文化史研究者、舟田詠子さんが1989年に著された写真がいっぱい入った児童書である。オーストラリア・アルプスの山おくにあるマリア・ルカウという村でのクリスマスを中心とした生活が詩情豊かに綴られている。
 舟井さんの著書はいただいたり、買ったりしてほとんど読んでいたが、この本だけはいつかは見たいと思っていた幻の書だった。
 今はまだキリスト生誕の準備をする待降節中だが、読んでみてクリスマスが一挙に飛んできたような魅惑の一瞬を味わえた。

二人で建てた家
二人で建てた家 (文春文庫PLUS)
鶴田 静
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おすすめ度の平均: 5.0
5 地に足がついた美しい「実践」の書
5 また買ってしまいました。

森の生活
ウォールデン 森の生活
ヘンリー・D. ソロー
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おすすめ度の平均: 4.5
5 環境問題解決のひとつの答えがここにある
5 贅沢とは
5 今泉訳で、初めて「ソロー」に出会えた
5 今泉訳で、初めて「ソロー」に出会えた
1 読みにくい訳

ウィリアム・モリスの庭
ウィリアム・モリスの庭―デザインされた自然への愛
ジル ハミルトン ジョン シモンズ ペニー ハート
東洋書林
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おすすめ度の平均: 3.5
4 ガーデナー必読
3 内容は素晴らしいが翻訳が難解
3 自然への愛

日陰でよかった!
日陰でよかった!
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ポール・スミザー/日乃詩歩子
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おすすめ度の平均: 4.5
3 いい本なのに
5 実用的かつ美しい
5 目からウロコ
5 負け惜しみだと思いますか?


2008年6月24日

読書日記「西の魔女が死んだ」(梨木果歩著、新潮文庫)


 児童書、童話はほとんど読まないのだが、数年前に新聞の読書欄で何人かの童話作家の作品を紹介しているのを見て数冊を購入、そのなかで一番おもしろかったのがこの本。

 童話作家に興味を持っていた娘に紹介したところ、自分のブログに書き込んでいた。
 私もそのうち書こうと思っていたが、映画化されたのを知り、別に追い立てられる必要はなかったのだが、この作品のことを急に書きたくなった。

 中学生になったまい は、登校拒否になってしまい「もう学校には行かない」と宣言する。グループの仲間たちと仲良くするための駆け引きが何となくあさましく思えてきたのでやめたところ、一人ぼっちになってしまったのだ。

 「昔から扱いにくい子だったわ。生きていきにくいタイプの子よねえ」と、単身赴任しているパパに電話しているママの言葉に傷つきながら、自宅から車で1時間ほどの山の中に住むイギリス人の祖母に預けられる。

 木々と草花の庭に囲まれた山荘で鶏を飼い、ノイチゴのジャムを作り、大きなおけに入れた洗濯物を足で踏んで洗い、森のなかにポッコリあいたお気に入りの陽だまりを見つけて"よみがえる"。

 「まい は、魔女って知っていますか」
 祖母が突然、聞いてくる。祖母の母は超能力の力を持つ魔女だったし、祖母もその修行をした。精神を鍛えれば、まい でも魔女になれると祖母は言う。「まず、早寝早起き、食事をしっかり取り、よく運動し、規則正しい生活をする」

 祖母にすっかり乗せられて始まった魔女修行。まい はこう言えるまでに成長する。「おばあちゃんはいつもわたしに自分で決めろと言うけれど、わたし、何だかいつもおばあちゃんの思う方向にうまく誘導されているような気がする」
 おばあちゃんは、目を丸くしてあらぬ方向を見つめ、とぼけた顔をする。

 二人は「死」についても、話し合う。

 「パパは、死んだらもう最後なんだって言った。もう何もわからなくなって自分というものもなくなるんだって」

 「おばあちゃんは、人には魂っていうものがあると思います。・・・死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になるということだと思っています」


 パパの単身赴任先に家族が合流して2年後。祖母の急死で山荘に駆けつけたまい は、サンルームの汚れたガラスに指でなぞった跡を見つける。
 
  ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ

  オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ


   WEB検索をしていて、「ほのぼの文庫」というサイトを見つけた。児童書の良書を紹介しているのだが、梨木果歩の作品に出てくる植物の見事なカラーアルバムを楽しむことができる。

 「西の魔女が死んだ」のアルバムでは、まい が最初に祖母とママで作るサンドウイッチにはさんだキンレンカの葉、ジャムにしたワイルドストロベリー、洗濯したシーツを広げて匂いを移すラベンダーの茂み、畑の虫よけに飲ますミントとセージのお茶、作品で大切な役割を果たす朴の木に銀龍草・・・。

 梨木の他の作品「家守綺譚」「からくりからくさ」の植物アルバムもそろっている。たっぷろと楽しませてもらった。

 6月22日付け朝刊に米国バーモント州にすばらしい園芸園を作り、絵本作家としても有名だったターシャ・テューダさん(92)が死去されたという記事が載っていた。「東の国のマジョが死んだ」。合掌!

(追記:2008/7/4) 映画「西の魔女が死んだ」鑑賞記
  大阪ツインタワーの映画館で見てきた。
 いつも、小説などが映画化されたのを見ると、ガッカリしたり、ヘーと思ったり・・・。
 「小説と映画は、別の作品」という思いを強くするのだが、この映画は梨木香歩の世界をかなりうまく再現しているように思える。
 ブログには書かなかったが、ゲンジという隣人との葛藤を通じて成長していく少女まい の心の動きが映像を通じて、小説以上に伝わってくる。
 シャーリー・マックレーンの娘で日本に12年間住んでいたという、祖母役・サチ・パーカーのおっとりした日本語がよい。母親役・りょうの演技もひろい物。
 山梨県清里高原にロケ用に建設され保存されている「魔女の家」には、東京からバスツアーまで出る評判らしい。
 この庭の花を見ながら、ワイルドストロベリー・ジャムを塗ったパンをカリッと・・・。いささか少女趣味すぎるかな?

西の魔女が死んだ (新潮文庫)
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5 著者の最高傑作!
4 ポイントは想像力!?
5 読後感がスゴイ☆
5 ターシャ・チューダーを思い出す
5 祖母が死に際に窓に残したまいへの言葉が素晴らしい

家守綺譚 (新潮文庫)
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5 異界との接点
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5 魂の奥深く懐かしい世界
4 心の奥に静かな潤いを感じることのできる佳品
5 大きな影響を受けた一冊
3 大人になったときにもう一度読み返したいです
3 "変容"のとき