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2014年2月18日

読書日記「バチカン近現代史 ローマ教皇たちの『近代』との格闘」(松本佐保著、中公文庫)


バチカン近現代史 (中公新書)
松本 佐保
中央公論新社
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 月に1回、カトリック夙川教会で開かれている「信徒によるカテキズム勉強会」に時々、出席させてもらっている。

 表題の本は、先月の会合で I さんや K さんに教えられ、図書館で借りた。キリスト教抜きには語れないヨーロッパの歴史が、近代から現代にまで延々と及んでいることが簡明に書かれている。

 名古屋市大教授でイギリス外交史などが専門の著者は、この本のなかで、 ローマ教皇の誕生や中世の教皇覇権の歴史はたった5ページで片付け、宗教と国家の分離を図った18世紀末のフランス革命という「近代」の幕開けから表題通り「バチカン」の歴史をひも解こうとする。

 象徴的なのは、1804年の ナポレオンのフランス皇帝戴冠式だった。

 著書では、フランス・新古典主義の画家、 ダヴィッドの大作 「ナポレオンの戴冠」(フランス・ルーブル美術館所蔵)について書いている。

 本来教皇が授けるはずの冠をナポレオンが自ら手で頭に戴いたのである。ダヴィッドの絵では後ろに座っているローマ教皇の ピウス7世が困惑した表情を浮かべている様子も描かれる。


 最近見たNHKの番組によると、ダヴィッドが事前に描いた下絵(素描) もルーブル美術館に残されているらしい。

 この下絵では、ナポレオンが教皇から奪った冠を自らの頭に乗せようとしており、わざわざ戴冠式だけのために、パリに呼びつけられた教皇はなにもできずに下を向いている。

 しかし、これではあまりに教皇に対して挑戦的だというダヴィッドの"演出"なのか、出来上がった作品では、しぶい顔ながら 右手で皇帝を祝福している教皇が描かれた、という。

 バチカンにとっては、あまりに屈辱的な近代の始まりであった。

 ソ連で生まれた共産主義の脅威に対抗するため、バチカンが ムッソリーニ ヒトラーに傾斜していった第2次世界大戦前後の様子は第4章で詳しく記される。

 ローマ教皇は、イタリア王国がローマ市街の引き渡しを求めた「 ローマ問題」の解決を図ろうと、ファシズムのムッソリーニ政権に積極的に近づき、 ラテラノ条約を締結、結果的に世界最小の独立国家・バチカン市国を得る。

 第2次世界大戦下で就任した教皇 ピウス12世下は、後に「ヒトラーの教皇」とも批判されほど、ヒトラーと親密な関係保持に努めた。

 一昨年,ポーランドの アウシュヴィッツを訪ねた際に「なぜ、カトリック教会は、 ホロコーストを防げなかったのか」という疑問を持ったことはこの ブログでもふれたことがある。

 ただ、ホロコーストへの教皇の対応について、こんな事実があったことも著者は明らかにしている。

 
 (ローマが枢軸国と連合国戦争のはざまで無防備都市になった際)ナチス親衛隊がユダヤ人ゲットーに踏み込んだという一報を聞いたピウス12世は、すぐに・・・ドイツ大使を呼び、ユダヤ人逮捕の中止を要請した。これに対しドイツ大使は、本国政府に直接抗議するよう求めた。ピウス12世は、直接本国政府への抗議は行わず、バチカン市国内とカトリック施設にユダヤ人を匿う行動をとる。


 この事実を評価した建国後のイスラエル政府はピウス12世に「諸国民の中の正義の人」賞を贈る。  しかし著者は「(ピウス12世のホロコーストへの対応は)生ぬるいという批判はついて回るだろう」と、次のような歴史認識も示す。

 いずれにしろ、第二次世界大戦中のピウス12世、ひいてはバチカンに対する批判的な論調が大きくなるのは、冷戦終結後の一九九〇年以降である点が興味深い。バチカンは冷戦中、西側勢力の反共産主義の牙城であり、そのイデオロギーの拠り所として重視されていた。しかし冷戦が終結すると、封印されていたものが出てくるようになったのである。


 歴史が生み出した皮肉な結果だと言えるかもしれない。

  この著書の圧巻は、第8章の「ポーランド人教皇の挑戦――ベルリンの壁崩壊までの道程」だろう。イタリア人以外では約450年ぶり、共産党一党独裁国・ポーランドからはもちろん初めて選出された ヨハネ・パウロ2世と共産主義体制との闘争の物語だ。

 教皇は、就任翌年の1979年6月、母国ポーランドを訪問した。教皇が共産圏に足を踏み入れるのは初めてで、東ヨーロッパだけでなく、共産圏諸国に大きな衝撃を与えた。

 ポーランド共産党政権は、なんとか教皇の入国を阻止しようとしたが、教皇の絶大な人気の前に、暴動を恐れて失敗に終わった。「教皇はスピーチで、ソ連の隷属状態にあり、信仰の自由のないポーランドを間接的に批判した。・・・これがポーランドのカトリック教会と労働者の反体制運動とのつながりを生むことになる」

  ヨハネ・パウロ2世はその直後、国連の安保理総会にオブザーバーとして参加、人権が尊重されていない東側共産主義国を批判する。「ポーランド訪問と国連でのスピーチは、教皇による共産主義国への宣戦布告とも受け取られた」

 ポーランドで,労働者組織 「連帯」が結成され、全土に社会不安が広がるなか、1981年5月に教皇暗殺未遂事件がローマで起きた。「ソ連・KGBが計画し、ブルガリアや東ドイツが協力したという」

 1983年、教皇は戒厳令下のポーランドに2度目の訪問をして政府と交渉し、非合法化されていた「連帯」の限定的復活と戒厳令の解除で合意した。

 1987年には、3度目のポーランド訪問をし、ポーランドの国旗に「連帯」のシンボルを付けた旗を振る民衆の大歓迎を受けた。「ヨハネ・パウロ2世に勇気づけられた民主化運動の動きは全国的な勢いを得て、もはや止めることはできなかった」。1989年の総選挙で「連帯」が勝利し、共産党政権は崩壊した。この年、ベルリンの壁も崩壊した。

 1980年代後半から ペレストロイカ(政治体制の改革運動)を推進してきたソ連のゴルバチョフ書記長は1989年12月、バチカンにヨハネ・パウロ2世を訪ねた。

 新聞は「マルクス主義がカトリック信仰に敗北したことを認める『二〇世紀末の カノッサの屈辱』」と論評した。

 ヨハネ・パウロ2世は教皇就任直前まで、ポーランドの古都で世界遺産であるクラクフ教区を管轄する枢機卿だった。

 1昨年、アウシュヴィッツを訪ねた際、アウシュヴィッツ唯一の外国人公式ガイドである 中谷剛さんにクラクフの街を案内してもらった。

 歴史地区の広場にある広場の前に教会横の建物は、ヨハネ・パウロ2世がクラクフ訪問の際に泊まった宿舎で、正面2階の窓にいまだに教皇のカラー写真がはめ込まれていた。すぐ横の教会に入ると、後方右側のベンチに「教皇が滞在中、いつも祈っていた席」と書かれた銅板が貼ってあった。

 中谷さんによると、教皇が滞在中は広場に若者が詰めかけ教皇の名を呼び続けた。教皇は、いつも午前2時前後に、宿舎2階の窓を開けて、集まった人々に祝福を与えた。「あの熱気は忘れられない」と、中谷さんは言う。

 ローマ教皇庁はこのほど、ヨハネ・パウロ2世が、この4月に 列聖(聖人の地位にあがる)される、と発表した。没後9年という異例の速さである。

クラコフの宿舎2階に飾られているヨハネ・パウロ2世の写真P1080354.JPG


2012年5月12日

アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)



 「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
 中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。

 同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。

 11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。

 ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
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 「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。

 ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。

 「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」

 神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。

 アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。

 レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。

 140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。

 第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。

 ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。

 150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。

 多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。

 中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。

 北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。

 周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。

 第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。

 2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。  学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。

 移民の多いドイツで、小学生の90%が「ホロコースト」を知っていると答えたことに対して、10%も知らないのは問題であるというのがドイツのメディアの論調。「我が国・日本の若年層の歴史認識と比較するとドイツ社会の意識の高さを感じる」と、中谷さんは話す。

 一方で「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張が、いまだに絶えない。

 「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。

 日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」

 世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」

 30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。

 最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

関連写真集
コルベ神父の名前がある名簿。収容者が奇跡的に持ち出した 野焼される遺体。収容者が手製のカメラでひそかに撮影 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」。献花が絶えない 2重の鉄条網。220ボルトの電流が流れる網に身を投げる自殺者も
コルベ神父の名前がある名簿;クリックすると大きな写真になります 野焼される遺体;クリックすると大きな写真になります 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」;クリックすると大きな写真になります 2重の鉄条網;クリックすると大きな写真になります
第1収容所に再現されたガス室の模型 レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線 咲き乱れるタンポポの向こうは、ビルケナウ女子収容棟 ドイツ軍によって破壊されたガス室
第1収容所に再現されたガス室の模型;クリックすると大きな写真になります レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ女子収容棟;クリックすると大きな写真になります ドイツ軍によって破壊されたガス室;クリックすると大きな写真になります
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑 ビルケナウ収容所内のベッド。1つに2人が収容させられた 隔壁もないトイレの穴。カポにせかされ、1つの穴を争うように用をたした
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ;クリックすると大きな写真になります 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ収容所内のベッド;クリックすると大きな写真になります 隔壁もないトイレの穴;クリックすると大きな写真になります


2012年5月11日

アウシュヴィッツ紀行・上「ホロコースト」(2011年5月2日)


 友人Mらと長年語らっていたアウシュヴィッツ訪問が、この連休やっと現実となり、コペンハーゲン、フランクフルト経由でポーランドに入った。

 世界遺産の古都・クラクフからオシフイエンチム(旧ドイツ軍は、ここをアウシュヴィッツと改名した)までの2時間近くは、両側に深い新緑の森が広がる気持ちのよい道だった。途中の村の家の庭先には、道路に向けて木の十字架や陶製の聖マリアの像が建ててあり、カトリック教徒が90%というこの国の敬虔な雰囲気を演出してくれる。

 アウシュヴィッツ強制収容所跡(現在は、負の世界遺産として登録されているアウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館)前の広場は、ベンチで休憩する若者などであふれ、ピクニックのような雰囲気だ。

 午後2時前、午前のガイドを終えた日本人唯一の公式ガイド、中谷剛さんがかけつけてくれる。25歳の時にこの地を訪れ、もうガイド生活20年の経験を持つ。

 中谷さんには、新聞社時代の同僚でアウシュヴィツの研究を続けておられるK・武庫川女子大教授に紹介してもらい、前日のクラコフの街の観光から、車の手配まですっかりお世話になった。

 午後のガイドツアーに参加するのは、我々4人のほかに6人の日本人。ほとんどが、2、30代の若者だ。

 4人でガイド料243ズローチ(約6500円)と、離れて歩いても中谷さんの声が聞こえるようにと、1人10ズローチでイアホーンを借りる。まず、最大2万人が収容されていたアウシュヴィッツ第1収容所。事前に読んだ本で見た「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由への道)」と書かれた鉄の門をくぐる。

 実は、この門の標識は一時盗まれ、3つに折れて帰ってきた。現在のものは、レプリカなのだが「B」の字が反対に溶接され、小さい部分が下になっている。制作者のささやかな抗議の現れらしい。

 「自由への道」というのはあまりに皮肉な命名だった。収容者は毎朝、同じユダヤ人による「囚人楽団」による演奏と、ドイツ軍親衛隊員(SS)が選んだ囚人頭(カポ)の振う棒とムチでこの門を追い出された。収容所建設のための森林伐採や近くに建設された化学工場などの作業に毎日11時間以上も働かされ、栄養失調で力を失って死去した仲間を背に帰って来る「死への道」でしかなかった。

 収容所内の建設作業も過酷なものだった。重い建設資材をかつぎながら、与えられた木靴で走るように運ばないと、カポのムチが飛んだ。倒れて、道路整備用の石製のローラーに引き殺される人もいた。そのローラーが道路わきに残されていた。

 ドイツ軍が直接手を下さない「奴隷制がしかれていた」と、中谷さんは解説する。

門を入ると、赤レンガの収容所群とポプラ並木が続いている。このポプラ並木が植えて60年が過ぎて大きくなりすぎ、枝が折れて見学者などに当たってはいけないので、最近、建設当初の大きさのものに植え替えられたばかりだ。

4号館と5号館にある収容者の遺品に圧倒される。

 SS衛生兵がガス室の天井から投下した殺害のためにチクロンB(なんとシラミなどの殺虫剤!)の空き缶のほか、死後に刈り取られた約1800キロもの女性の髪、歯ブラシや衣服用のブラシの、家庭用食器(チーズ用なのか小さなおろし金まで)、眼鏡、靴、義足、そして、本人に還すことを偽るために白い塗料で住所などが書かれたかばんの山、山、山・・・。

髪の毛は繊維会社に送られて生地などに加工され、死者の金歯は抜かれて延べ棒として出荷された。それの数量をドイツ人らしい正確さで記録された資料も残されている。

 大きなヨーロッパ地図が掲げられ、ナチス・ドイツが支配した広大な地域からユダヤ人が連行されてきたことを示していた。

 アウシュヴィッツに行くことを決めてから、様々な本や資料にあたったが、なぜユダヤ人がナチスだけでなく、ヨーロッパの長い歴史のなかで排斥されてきたのかが、どうしても釈然としなかった。

 そんな時に、新約聖書の1節に遭遇した。

 ユダヤ教の祭司長たちは、イエスを殺そうと、総督ピラトに身柄を渡した。
 「皆は、『(イエスを)十字架につけろ』と言った・・・。民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』(マタイ27章19-25節、新共同訳)

 「こう叫んだのは、その場にいる人々だけだった。しかし、その後、キリスト教世界の人々は、ユダヤ人のことを『神殺しの民、ユダヤ』と呼ぶようになった」。著名な聖書学者であるW神父の解説である。

 こういった考えがヨーロッパのキリスト教世界に広がり 十字軍の遠征途中で、多くのユダヤ人が虐殺されたことは、 塩野七生 「十字軍物語」などにくわしい。

そのほかにも、ヨーロッパ各地でユダヤ人は何度も虐殺に会い、 ディアスポラ(民族離散)を続けてきたことは、いくつもの歴史事実が証明している。

 ヨーロッパ社会にまん延していった、この反ユダヤ主義を、ヒトラーも巧みに利用した。

ポーランドの総督区総督だった ハンス・フランクの獄中回想記「絞首台を眼の前にして」によると、 ヒトラーは1938年のある日、もの思いにふけりながらこう語ったという。

 「福音書の中でユダヤ人たちはピラトに向かって叫んでいる。『その血の責任はわれわれとわれわれの子孫にある』と。余は、おそらく、この呪いを執行しなければならないだろう」

 ナチスの「民族浄化」の対象になったのは、ユダヤ人だけでなく、ポーランド人、ロシア人などのスラブ民族、ジプシーと呼ばれたロマ・シンティの人たちも含まれていた、事実も忘れてはいけない。中谷さんは、何度も強調した。

 そして、ナチスによる ホロコーストだけではなく、クロワチアのセルビア人虐殺、ルワンダ虐殺などの ジェノサイド 大量虐殺も同じように現実の史実であることも、私たちに迫ってくる。

「カティンの森事件」が、いまだにポーランド市民の心に深い傷を残している。

第2次大戦中に、ソ連・カティンの森で22000人ものポーランド将校などが虐殺されて埋められた。当初ソ連は、ナチス・ドイツのしわざと主張したが、ソ連の行為であることがわかった。

ポーランドの首都ワルシャワやクラクフの街にあるこの事件の慰霊碑を見ながら、ホロコーストという言葉の意味の広がりを考えた。

関連写真
若者でにぎわう第1収容所前広場 収容所の航空図。Aが第1、Dは第2収容所 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団
若者でにぎわう第1収容所前広場;クリックすると大きな写真になります 収容所の航空図;クリックすると大きな写真になります 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん;クリックすると大きな写真になります 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団;クリックすると大きな写真になります
「労働は自由への道」と書かれた門 ポプラの並木が植え替えられた第1収容所 ガス室に投入されたチクロBの空き缶 処刑された女性から刈り取られた髪の毛
「労働は自由への道」と書かれた門;クリックすると大きな写真になります ポプラの並木が植え替えられた第1収容所;クリックすると大きな写真になります ガス室に投入されたチクロBの空き缶;クリックすると大きな写真になります 処刑された女性から刈り取られた髪の毛;クリックすると大きな写真になります
食器類の山 義足の山 眼鏡の山 かかとが取られた靴
食器類の山;クリックすると大きな写真になります 義足の山;クリックすると大きな写真になります 眼鏡の山;クリックすると大きな写真になります かかとが取られた靴;クリックすると大きな写真になります
洗顔する収容者。右の太って棒を振うのがカポ 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち 収容者を引き殺したこともある石製のローラー 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅。妻は庭仕事が趣味だった
洗顔する収容者。;クリックすると大きな写真になります 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち;クリックすると大きな写真になります 収容者を引き殺したこともある石製のローラー;クリックすると大きな写真になります 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅;クリックすると大きな写真になります
ヘスが絞首刑になった処刑台 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑 クラクフの教会前広場にそっと置かれた「カティンの森事件」の追悼十字架
ヘスが絞首刑になった処刑台;クリックすると大きな写真になります 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑;クリックすると大きな写真になります 「カティンの森事件」の追悼十字架;クリックすると大きな写真になります


2012年1月 9日

読書日記「ディアスポラ」(勝谷誠彦著、文藝春秋刊)


ディアスポラ
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勝谷 誠彦
文藝春秋
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 日本人の精神構造を大きく変えてしまった「3・11」。文学の分野でも、これから「フクシマ」をテーマにした様々な作品が発表されていくのだろう。

 川上弘美の 「神様 2011」については、このブログでもふれた。この小説もポスト「フクシマ」の1つだろうと思って手にしたが、10年前に書かれたものと知っていささか驚いた。随所に故・小松左京の名著「日本沈没」に似た予見があふれている。

著者の勝谷誠彦のことはまったく知らなかったが、ちょっと破天荒な経歴を持つコラムニストだったことも、ちょっとした驚きだった。

「事故」とだけ呼ばれる出来事で日本列島は居住不能になり、日本人は世界中に設けられた難民キャンプに散っていく。
主人公の「私」は国連職員。チベットの首都・ラサから2000キロも離れた奥地・メンシスに「日本人難民状況巡回視察官」として派遣されて来る。

キャンプで人々がランプの灯火の下ひそひそと話す夜、ただ「事故」と呼ばれる出来事、私たちが有史以来くぐり抜けてきた災厄など語るほどのことですらないと思われる、あの出来事・・・。
 (灯)の背後の闇にこそ、会うべき人々がうずくまっているのである。東海に浮かぶ恵まれ過ぎた島に、ぬくぬくと何十万年も抱かれていた人々が、裸で、むつきもされぬ赤子のように。


難民キャンプのあるチベットの地は、世界最大級の高原が広がる自然豊かな土地だった。しかし、今やいたるところで腐臭が漂う場所になってしまった。

コンクリートで造られた階段を上がると、四角に切られた穴が並ぶのだが、そこまでたどり着くのが苦行なのだ。人糞の散乱は階段から始まる。なんとか踏まずに昇っても、穴の横には足を置く場所がない。大便の主は、すべからくここで漢人と呼ばれる中国人だ。チベット人たちは遊牧民の誇りとして、便所などというものは使わない。


キャンプの近くの湖には、苛性ソーダが飽和状態ぎりぎりまで溶け込んだぬめぬめとした異臭を放つ水が寄せている。プラスチックやガラスの砕けたものなども累々と重なりあっている。
このことは漢人の宿痾(しゅくあ)としか私には思えない。彼らは、いかなる美しい風景の中にも平気でゴミを投げ捨てるのである。


こんな描写で、著者は、 チベット自治区という名のもとに中国がこの地域を支配、チベット人はすでに"難民"になっている現状を浮かび上がらせる。

この地域の日本人難民キャンプを統括しているユダヤ人の国連職員・ダヤンが登場してくることで、表題の 「ディアスポラ」の意味が分かってくる。

 
「私たちは二千年間、世界に散らばっていました。紀元七三年 マサダという砦に立てこもっていた最後のユダヤ国民がローマに滅ぼされてから、再び建国に成功するまで。その出来事を私たちは民族離散、ディアスポラといいます」


 
ディアスポラ。今日からここにいる(日本の)人々の生には未来永劫、禍々しい影のように、その言葉が寄り添うに違いない。


 ユダヤ(イスラエル)人のダヤンの口を通して、国連、世界は日本人に終わることのない放浪を強いようとしていることが示される。

 実は「私」は、国連職員としての仕事以外に、かって日本を支配していた「組織」の人々から"密命"を受けている。

 
もし、また日本人たちがどこかで土地を得て集まろうとする時に、はたして求心力たりうるものがあるのかどうかということを、あの人々は考えているのである。・・・
 世界中に散った、日本人たちの集団の中に、新たなる「核」が生まれつつあるのか。「組織」の彼らは、少なくともそれを知りたいのだ。


 しかし難民キャンプにいる日本人の一部は、チベットの風土に同化する道を選ぶ。

 高山病に苦しんでいた中年の主婦が、不法就労で働いていた店で殴られたのがもとで死ぬ。夫と娘は火葬でも土葬でもなく、 鳥葬を選ぶ。「お母さんを風に還すの」と、娘はつぶやく。

 娘の友人であるチベット人・ナムゲルは、こう説明する。
「まず、魂を抜く。あとの肉体は、モノだ。それでも天上に送るために、鳥に食べさせるのだ。専門の処理人が、鋭いナイフなどをつかって、遺体を切る。細かく、細かくだ。小麦粉を混ぜ込むこともある。それを、岩の上に置く。すると、鳥たちがあつまってきて、食べていく。あっという間。おしまい」

 鳥葬場までは遺体と処理人しか行くことを許されていない。最後のわかれの儀式は、峠で行われた。僧たちの読経が終わった後、列席した日本人たちが歌い出す。
 うさぎ追いし、かの山
 小鮒釣りし、かの川・・・ 


 やって来たユダヤ人・ダヤンがしたり顔で講釈する。
 
「家族や民族はどうしても、二つのことにこだわるんだよ。名前と、肉体の始末だ」
 「しかし、そんなものはとどのつまり、どうでもいいことだ。・・・魂は名前を持たず、魂は肉体を持たない」
 「けれども、そのこだわりが、家族や民族のよりどころじゃないのか」
 「ヘッ」
 ユダヤ人は、足元の石を蹴る。・・・
 「名前のかわりに番号を刺青され、影も形もなくなるまで、バーナーで燃やされ、いや、それどころか髪の毛で、スーツ、脂(あぶら)で石鹸を作られても、彼らはユダヤ人だった」


 母を見送った娘は、チベット人の青年の手にしっかりと握られて、高原のなかに消えていった。

 読み終えて、あまりに長い歴史を持つ 「ホロコースト」を思い、「3・11」以降"沈みゆく"列島のなかでもがいている日本人の「核」はなになのか・・・と問いかけてみる。