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2020年9月17日

読書日記「教皇たちのローマ ルネサンスとバロックの美術と社会」(石鍋真澄著、平凡社)

 著者は、イタリア美術史を専門とする成城大学教授。本棚を見ると、「サン・ピエトロが立つかぎり 私のローマ案内」「聖母の都市シエナ 中世イタリアの都市国家と美術」「ありがとうジョット イタリア美術への旅」と、著書が3冊も見つかった。

 14年前に、イタリア巡礼ツアーに参加する際に購入したらしい。その後、2017年にはカラヴァッジョの作品を再び見たくて2度目のローマ訪問を果たしたが、この本でもローマという都市にはぐくまれた芸術の歴史を満喫することができた。

 著書は、歴代の教皇たちを縦軸に、その教皇らが推進したルネサンスバロック美術を横軸にしてローマの歴史を展望してみせる。

 著者は、その両軸が織りなしたローマの街に大打撃を与えたサッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠・ごうりゃく)という事件に多くのページを割いている。

 1527年5月、神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン国王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻、ローマの古い町並みを根こそぎ破壊し尽くした。

 兵士たちは金や銀を求めて、聖堂やパラッツオ(邸館)に押し入った。家財を奪ったあとは、その家の者に身代金を要求、払えない者は、残酷な拷問にかけられ殺害、少女から老女まで家族の前で乱暴され、殺された。
 多くの司祭や修道士が殺され、奴隷として売られた。修道女の多くはりん辱されて殺され、残った者も半裸か冗談で司教の衣装を羽織らされて売春宿に売られた。

 サン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン宮)にいた教皇クレメンス7世は、危機一髪でサンタンジェロ城に逃れた。

 14年前にローマを訪ねたときには、サンタンジェロ城は古い甲冑などが展示された博物館になっていたが、約1キロ離れたヴァチカン宮との間に秘密の地下道があると聞いた覚えがある。実際には、この2つを結ぶ城壁に造られたパセット(小道)を通って、教皇は逃げ込んだ。城に据えられていた大砲がなんとか教皇を守ったらしい。

 サッコ・ディ・ローマについて、多くの歴史家がこう記述している。
 「サッコ・ディ・ローマによってルネサンスは終った」

 ローマの町が徹底的に破壊されたことで、14,5世紀に教皇ユリウス2世レオ10世などがパトロンとなって栄華を極めていたローマのルネサンス文化も姿を消した。ミケランジェロラファエロの作品は残ったが、ローマ中の聖堂にあった、貴重な聖母子像、磔刑像、祭壇画の多くが破壊された。

 同時に、11,13世紀に花開いたコムーネ(自治都市)文化の貴重な海外や彫刻も破壊され、記録や資料さえ残っていない。

 しかし、ローマは不死鳥のようによみがえる。17世紀のカラヴァッジョ、ベルニーニに代表されるバロック美術が、教皇たちの強い後押しで栄華を極めたのだ。

   著者によると、サッコ・ディ・ローマから14年後の1541年に完成したミケランジェロの「最後の審判」の壁画も「サッコ・ディ・ローマという大きな悲劇が生み出した傑作」だという。

 システィーナ大聖堂の正面壁に描かれたこの大壁画に感じられるのは「サッコ・ディ・ローマ後に広がったペシミスティックな空気だ」 「罪の意識と悔悟、神の怒りへの畏怖、惨劇のトラウマ、無力感、そしてすべての人間の上に下される審判への待望。教皇は、・・・それらが時代を超えて理解されるようにミケランジェロの手で視覚化されることを望んだのだ」

 このようにして、荒廃のなかから再生されたローマの街を、現代の我々も楽しむことができる。

 ところで、この本には歴代の教皇の多くが、愛人を作り、司祭や枢機卿時代に実子や庶子をもうけていたという記述が何度も出てくるのに驚く。
 庶子などを「ニポーテ(イタリア語でおい、めいの意味)」と偽って、枢機卿などに登用する「ネポティズム(縁故主義)」という言葉が何回も出てくる。  「ルネサンス期の教皇は、枢機卿だけでなく、司教、教皇軍、教会国家の要職に身内の者を採用、教会の富が身内にわたるようにした」「身内の登用や不在聖職者の悪用、兼職、聖職売買、不要なポストの創設といった悪弊が行われるようになった」

 ウイキペディアによると、このような縁故主義が終るのは、1692年のインノケンティウス12世が発布した教皇勅書からだという。

 ひるがえって現代。カトリック教会では、聖職者の性的虐待事件が頻発している。現教皇フランシスコは「断固とした対応をする」と声明したが、解決の糸口は見えない。

 現在の性的虐待事件と中世の聖職者女性問題に、共通項があることは否めそうにない。  司祭志願者が減っているなかで、将来、プロテスタントのように婚姻する聖職者が現実の話しになった場合、ネポティズムの悪弊に染まった中世の教訓を生かせるだろうか。

2019年12月11日

日々逍遙「白浜・椿温泉」「神戸ゆかり美術館、千住博展」「大阪・国立国際美術館、ウイーンモダン展」「大津・比良山荘、浮御堂」「西宮・仁川広河原」「京都・真如寺、府立植物園」「神戸・須磨寺」

 
【2019年9月14-16日】
椿温泉から見る太平洋
 久しぶりに白浜の椿温泉へ。旅館や店舗がいくつも廃業してさびれているが、お湯が素晴らしい。白浜で寄った寿司屋の亭主は「椿の湯は、白浜よりずっといい」と言っていたが、まったりと肌に絡みつく。
 部屋からは太平洋が広がる。夜半に目が覚めたら、海上の光の道が輝く月へと続いていた。前夜は中秋の名月・のちの月、そして今夜は満月。

   海鳴りて光る海路や後の月   

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【2019年10月3日】
千住博「滝」の図
 神戸の六甲アイランドにあるゆかり美術館へ。神戸ファッション美術館というといつも閑散としていたが、その一角が神戸ゆかりの作家の作品を収集した美術館になっていた。
   千住博展は、高野山の金剛峯寺に奉納する襖絵の完成を記念して、全国各地で開催されている。白いキャンバスに胡粉の絵の具を流し込んだ「瀧図」もいいが、「雪肌麻紙」という和紙をくしゃくしゃにして描いた「断崖図」もなかなかの迫力だ。
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【2019年10月9日】
「ウイーンモダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展
大阪・中之島の国立国際美術館の「ウイーンモダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展。斜め向かいの関西電力本社で小判などの贈与を巡る社長の弁明会見が開かれた日で、テレビクルーが本社の外見を撮影していた。
  ウイーンにクリムト、シーレの作品を訪ねてもう10年になる。その時に出会った2人の作品のいくつかに再会できた。
 クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」だけは写真撮影が許されている。どうせなら、シーレの作品も1点ぐらいはと思った。
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【2019年10月19―20日】
きのこの宝石箱
大津・坊村にある山の辺料理・比良山荘に1泊。中庭の紅葉がもう色づいている。この夏も、ここで鮎料理を満喫したが、今回は"冥途の土産"にと、松茸と子持ち鮎という贅沢。
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 堅田の浮御堂
 翌日、堅田の浮御堂へ。すぐ左の琵琶湖の波間に高浜虚子の句碑が建っていた。「湖もこの辺にして鳥渡る」
 沖にはいくつも小舟が浮かび、ブラックバス釣りを楽しんでいる。外来魚のこの魚を釣ると、県の条例で湖に戻すことが禁じられているが、岸辺の回収ボックスはいつも空。
  「キャッチ・アンド・リリース」を楽しむ釣り人に条例は無視されている。
 隣の老舗料理屋でモロコの炭焼き。身を軽く炙った後、頭を網に突っ込み焼いてくれる。これも"冥途の土産"。

   湖の波間に句碑あり秋の雨   

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【2019年11月10日】
仁川広河原
 昼前から久しぶりに西宮の 仁川広河原へウオーキング。仁川源流の小川で、生きもの採取をする人、バードウォッチングの人も数人。木の実が成る樹に来るのは シメという鳥、源流沿いのセイダカアワダチソウには ベニマシコが来るらしい。「これだけ人が来ると、小鳥は絶対現れない」と、ハイタカが飛ぶカメラの写真を見せてくれた人もいた。
  坂の両側に開けた住宅地にある急な坂を下って阪急仁川駅へ。膝はがくがく。ああ、しんどーー。約2万歩。

   山拓く家並みのさき小鳥来る   

 
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【2019年11月22-23日】
京都の紅葉
 「今年の紅葉は、ライトアップで」と、京都・金戒光明寺に出かけたが、ライトアップの庭園は満席ということで、近くの真如寺へ。まさに、紅葉真っ盛り。宿で借りたらしい和服や平安衣装の女性グループがいたが、みんな中国からの観光客。ここも6時からライトアップがあるということだったが、「ツアー会社の企画で満席です」
 八瀬の宿の湯ぶねで、ライトアップの紅葉に出会ったものの、翌日見ると、枯枝も目立ち、いささかお疲れの感じ。
 翌朝は、京都府立植物園へ。おなじみのイチョウ、池の端の紅葉。菊展の仮天井に木の実がはねる音が響き、樹々の下に敷き詰めたように木の実が落ちている。

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真如寺の紅葉湯ぶねの紅葉植物園の大イチョウ


   舞い降りて苔を染ゆく紅葉かな   

   森のなか木の実の落ちる音満ちて   

   木の実踏み次の一歩をそっと出し   



【2019年11月24日】
須磨寺の紅葉
 用事がある友人に付き合って、神戸・ 須磨寺に出かけたが、ここの紅葉は、まだ盛り前。源平ゆかりの古刹とかで、平敦盛の首塚があり、宝物殿には敦盛愛用の「青葉の笛」。「一の谷の 軍(いくさ)破れ、討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ」の小学唱歌が流れる装置まである。

   染そむる紅葉へ流る青葉笛   

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2019年11月 2日

読書日記「英国キュー王立植物園 庭園と植物画の世界」(山中麻須美ら編、平凡社コロナ・ブックス)、「キューガーデンの植物誌」(キャシイ・ウイリス・キャロリン・フライ著、原書房)、「植物たちの救世主」(カルロス・マグダレナ著、 柏書房)

キューガーデンの植物誌
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植物たちの救世主
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 英国キュー王立植物園(キューガーデン)は、2度ばかりロンドンを訪ねた際に行ってみたいと思っていたが、まだ果たせていない。世界遺産でもあるこの植物園への思いはつきない。

 表題1番目の「英国キュー王立植物園 庭園と植物画の世界」は、キューガーデン初の日本人植物画家、 山中麻須美らが編集した初めての日本語公認ガイド。
 「地球上のあらゆる植物の収集」をと、1759年に英国王室の命で設立され、現在約5万の植物と700万点の植物標本、約20万点の植物画、多数の研究室を持つ世界最大の植物園。植物についての世界有数の研究拠点でもあるという。

 圧巻は、19世紀に作られた熱帯雨林の温室「パーム・ハウス」など6棟の温室や多彩な庭園群。樹木園の一角には、18メートル上の木製の道路から樹冠を観察できる「ツリー・トップ・ウオークウエー」もある。
 キューガーデンは、植物画のコレクションでも世界一。植物は標本にしてしまうと生きている時の色彩や形態が分からなくなるため、植物画は研究のための貴重なデータベースとなる。
 園内には、ヴィクトリア時代の女性植物画家が世界を回って描いた800枚以上の絵画を展示した「マリアンヌ・ノースギャラリー」や2008年に開設された世界初の常設植物画展示場「シャーリー・シャーウッド・ギャラリー・オブ・ボタニカル・アート」などがある。

 

パーム・ハウスツリー・トップ・ウオークボタニカルアート・ギャラリー
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 表題2番目の「キューガーデンの植物誌」は、キューガーデンの科学部長であるキャシイ・ウイリスと科学ライター、キャロリン・フライの共著。西宮図書館北口図書館で「キューガーデンに関する本を」と頼んだら、女性司書が見つけてくれた。
 キューガーデンで始まった植物研究の歴史が詳細に綴られており、英国放送協会(BBC)で25回にわたって放送された、という。

 正門を入ると見えてくる「パーム・ハウス」の南端に、キューガーデンの最古参の木 「Encephalartos altensteinii」というソテツがある。1773年、植物園最初のプラントハンターであるフランシス・メイソンが、南アフリカ・ケープタウン東海岸の雨林帯から若木を採取、2年かけて持ち込んだ。
 このソテツは、英国在住の日本人ガイド・ライト裕子さんの ブログによると、世界最古の鉢植えだという。鉢は、中の土を入れ替えられるように板囲いになっている。

キューガーデンの最古参の木
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 大英帝国を支えた天然ゴムの栽培にも、キューガーデンは大きく寄与した。1874年、イギリス政府の密命を受けたプラントハンターのヘンリー・フッカーは、ブラジル・アマゾン流域でゴムの種子7万粒を採取、ブラジル政府の禁輸方針をかいくぐってキューガーデンに輸出した。発芽したのは、たった4%だったが、その苗木がイギリスの植民地マレー半島に広大なプランテーションを誕生させるきっかけになった。

 キューの支援でイギリスの植民地では、コーヒー、オレンジ、アーモンド、マホガニーなども生産されるようになった。世界を制覇した「大英帝国」をキューガーデンが支えたのだ。

   キューガーデンは現在、 ミレニアム・シード・バンク・パートナーシップ(BSBP)というプロジェクトも推進している。地下の種子保存庫は、500年間保存するように設計されており、2020年までに、世界中から固有種、絶滅危惧種、有用植物を優先して全植物の25%の種子を採集する計画だ。

 世界中でミツバチの数が激減している。キューガーデンの科学者は「なにがミツバチを花に誘導するのか、より効果的な受粉方法は何かを生化学的に研究している」
 最近、キューの科学者が、コーヒーなどのカフェインが花の蜜にも含まれていることを発見した。カフェインは、ミツバチが花の蜜のある場所を認識し、記憶する能力を向上させる効果がある。そこで、科学者たちは、イチゴの花の匂いとカフェインを含む餌をミツバチに与え、イチゴが他の花より好ましい花であることを記憶させてイチゴの受粉を促進させる訓練をしている。

 3番目の「植物たちの救世主」は、上記2冊を読んでいるうちに再読したくなった本。数ヶ月前に、この図書館で借りたのだが「筆者は、キューガーデンに所属する専門家で、スペイン生まれ」「地球上で1本しか残っていないヤシの木の保存に奔走した」、という記憶しかない。これだけの情報で、先の女性司書は、この本を探し出してくれた。お見事!

 筆者、カルロス・マグダレナは、一度派絶滅した世界最小のスイレン「ニムファエム・テレマルム」の栽培に成功したことで有名になった。

 このスイレンは、アフリカ・ルアンダの、なんと温泉にしか自生していなかった。この種子はドイツのボン植物園にしか残っていなかったが、同植物園の担当者は「種子は差し上げますが、発芽して水面に顔を出す前に枯れてしまいます」と言った。

 カルロスは、自宅でパスタをゆがいている時の湯気を見て二酸化炭素の濃度を高めることがこのスイレンには必要なのでは、と思いついた。二酸化炭素は水に溶けにくく、水槽内ではすぐになくなってしまう。葉が出たら何度も空気中に出す工夫を重ねて、指の爪ほど、直径約1センチの花を咲かせた。

 「植物の保全はキューガーデンにとって最も重要な使命」だ。カルロスらは、希少植物の保全のために、世界中に出かける。
 オーストラリア・キンバリー高原では、いくつものスイレンの新種を見つけた。
 20日間、8千キロの旅を終える間に、48回の採集をし、14種のスイレンを入手した。カルロスはキューガーデンに1日も早く帰りたいと思った。「私の手には、世界中の人に見てもらえる、新種のスイレンがあるから」

世界最小のスイレン(左図の隣に写っているのは、オニバスの花。右の顔写真はカルロス・マグダレナ)
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2019年5月 4日

読書日記「受胎告知 絵画でみるマリア信仰」(高階秀爾著、PHP新書)



《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)
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 受胎告知は、聖母マリアが、大天使ガブリエルから精霊によってキリストを懐妊したことを告げられるという新訳聖書の記載のことを示している。古くから西洋絵画の重要なテーマだった。

 著者は、この本の副題に「マリア信仰」という言葉を使っているが、カトリック教会では、聖母マリアを信仰の対象にすることを避けるためマリア(聖母)崇敬」という言葉を使っている。

 著者が最初に書いているとおり、受胎告知の事実は、新訳聖書ではごくあっさりとしか書かれていない。
 個人的には、これは聖ペトロを頂点とした初代教会が男性中心のヒエラルキー社会であったため、意識的に"女性"を排除しようとしたせいではなかったかと疑っている。しかし、受胎告知、聖母マリア崇敬が初代教会の意向を無視するように民衆の間に広がっていった現実を、この著書をはじめ参考にした本は歴然と示している。

 特に、伝染病のペスト(黒死病)がまん延し、英仏間の百年戦争が続いた13,4世紀のゴシックの時代には、聖母崇敬が強まり、聖母マリアに捧げる教会が増えていった。

 このほど大火災の被害に遭ったフランス・パリのノートルダム大聖堂を筆頭に各地にノートルダムという名前の教会の建設が相次いだ。フランス語の「ノートルダム」は「わたしの貴婦人」つまり聖母マリアのことをさすという。

 教会は普通、祭壇をエルサレムに向けるため、東向きに建てられ、正面入り口は西側に作られる。ゴシックの時代には、この西入口に受胎告知や聖母子像を飾る教会が増えた。
 入口の「アルコ・トリオンファーレ(凱旋アーチ)」と呼ばれる半円形アーチの上部外側に、大天使ガブリエルと聖母マリアを配する「受胎告知」図がしばしば描かれた。

 代表的なのは、イタリア・パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に描かれたジョットの壁画。凱旋アーチの左に大天使、右に聖母マリアが配置されているらしい。
 この礼拝堂には、十数年前にイタリア巡礼に参加した際に訪ねているが、残念ながら両側の壁画の記憶しかない。

 15世紀のルネサンス期には、様々な巨匠が「受胎告知」というテーマに挑んでいく。
 イタリア・フレンツエにあるサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェルコの作品は、「受胎告知」と聞いたら、この作品を思い浮かべる人も多そうだ。

 このブログでもふれたが、作家の村田喜代子はこの受胎告知についてこう書いている。

 「微光に包まれたような柔らかさが好きだ。・・・受諾と祝福で飽和して、一点の矛盾も不足もない。満杯である」

 十数年前に訪ねたが、作品は2階に階段を上がった正面壁に掛かっていた。同じ日本人旅行者らしい若い女性が、踊り場の壁にもたれて陶然と眺めていた。

   このほかの代表作として著者は、同じフレンツエのウフイツイ美術館にあるボッティチェリ、ダビンチの「受胎告知」を挙げている。イタリア巡礼で見たはずだが・・・。

 岡山・大原美術館長である著者は、同館所蔵のエル・グレコの「受胎告知」を取り上げている。
 大天使が宙に浮いている対角線構図が特色。ルネサンスからバロックに移行する前のマニエリスムの特色が現れている作品だという。

 「受胎告知」というテーマは、アンディ・ウオーホルなど現代ポップアートの旗手らも取り組んでいる。著者は本の最後をこう結ぶ。

 「人々はジョットやダ・ヴィンチ、グレコらの作品を鑑賞したのではなく、深い信仰の念に包まれて、絵の前で心からの祈りを捧げたのである」

「受胎告知」絵画  クリックすると大きくなります。
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 ※参考にした本
 「聖母マリア崇拝の謎」(山形孝夫著、河出ブックス)「聖母マリア崇敬論」(山内清海著、サンパウロ刊)「黒マリアの謎」(田中仁彦著、岩波書店)「聖母マリアの系譜」(内藤道雄著、八坂書房)「聖母マリアの謎」(石井美樹子著、白水社)「聖母マリア伝承」(中丸明著、文春新書)「ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂}(渡辺晋輔著、小学館)

2019年2月19日

読書日記 「国家と教養」(藤原正彦著、新潮新書)



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 著者はまず著書の冒頭で、90年代半ばから続いている「日本大改造」の仕掛け人は誰だったのかと、問いかける。

 例えば、金融ビックバン、新会計基準、市場原理、グローバル・スタンダード、小さな政府、官叩き、地方分権、民営化、規制緩和、大店法、構造改革、リストラ、ペイオフ、郵政改革、緊縮財政、商法や司法の改革・・・。

 「すべてアメリカが我が国に強く要望したもの、ほとんど強制したものであり、アメリカの国益を狙ったものでした。一人勝ちの日本を叩き落とすための緻密な戦略に沿ったものであったのです」

 規制緩和などにより、企業の非正規雇用が増え、年収が減った若者たちは結婚に二の足を踏み、出産率はガタ減り。労働力を確保するため、外国人労働者の入国が緩和され「ヒト、モノ、カネが自由に国境を越える新自由主義が完成を目指している。

 こんな実態を的確に判断するには「嗅覚によって、自分にとって価値ある情報を選択」しなければならない。そして、その嗅覚を培うのは「教養とそこから生まれる見識」というのが、著者が投げかけた問題意識だ。

 ギリシャの時代から長い歴史のなかで培われてきた教養主義は、第二次大戦後、世界中で少しずつ衰微してきた。
 現代人は、生存競争に役立たない教養を見下すようになったこと。さらに、実利を重視するアメリカ化と、自由主義を旗印にしたグローバリズムが進み、教養の伝統があったヨーロッパで2つの世界大戦を防げず、教養の地位が低下したためだ。

 ドイツでは、教養市民層と呼ばれる国民の1%にも満たないエリートが国をリードしてきた。しかし、大衆社会の出現で地位が低下した教養市民層は、民族主義を高らかに唱え、ナチズムへのレールを敷いてしまった。「教養が一部の人に専有され、それ以外の国民から隔絶されていた」結果だ。

 ドイツに見習って教養を高めてきた日本の旧制高校出身のエリート層も、あっという間に、国家総動員法などの思想に飲み込まれてしまった。

 一篇の詩を読むことで生き方が変わり、歴史、文化に関する本を読んで世界のなかでの自分の立ち位置が分かってくる。

 日々の実体験は(本を読むなどによる)疑似体験で補完され、健全な知識と情緒と形が身につく。「これこそが教養で、あらゆる判断の価値基準になる。・・・いかに『生きるか』 を問うのがこれからの教養と行ってよい」

 「これからの教養」とは、どのようなものなのか。

 第1に人間や文化を洞察する哲学、古典などの人文教養。次いで政治、経済、地政学、歴史などの社会的教養。第3に、放射能、安全などを判断する科学教養。もう1つ必要なのが、大衆文芸、芸術、古典芸能、芸道、映画、マンガ、アニメなどの大衆文化芸能。

 これらの教養を身につける方法として「読書、登山、古典音楽」「本、人、旅」「映画、音楽、芝居、本」など、様々な表現をする人たちがいる、と著者は言う。

 結局"教養"といういささかしんどい言葉も、人びとがそれぞれ大切に思っているこれらの表現に集約される、ということなのだろう。

 

2019年2月 6日

日々逍遙「明治神宮」「ムンク展」「フリップス・コレクション展」

 

【2019年1月6日(日)】

 1月4日は77歳の誕生日だった。

 喜寿は数え年で数えるようだが、東京と横浜にいる3人の子どもたちが「遅ればせの祝いをするから出てこい」という。孫たちの塾通いが忙しく、関西には来られないと言うのだ。やむを得ず、のこのこと東京・六本木のホテルに出かけた。

 翌朝、明治神宮へ。学生、新聞社時代を含めて7年ほど東京にいたが、ここには行ったことがなかった。荒れ地に人の手で作られた永遠の森というのを見たいと思った。

 3が日は過ぎたというのに、参道はかなりの人手。その参道に覆いかぶさるように広葉樹が葉を広げていた。左右に広がる広大な敷地の森はまったく人の手は入らず、自然の植生にまかせた木々の循環が続いている。
 参道脇に、箒や落葉を入れる布袋が置かれている。朝、昼、夕の3回、参道の落葉が掃き集められ、そのまま木々の根元に置かれ、自然の循環を助けるという。見事な「鎮守の森」だ。

 100円でおみくじを引いてみた。なんと、吉兆ではなく、祭神の1人である昭憲皇太后の御歌がしるされていた。  
茂りたるうばらからたち払いてもふむべき道はゆくべかりけり


 今年は、茨(うばら)の道?

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大鳥居を覆う広葉樹
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参道脇の竹箒       森のなかを行く参拝者

 この後、上野・東京都美術館の「ムンク展―共鳴する魂の叫び」へ。

   さすがにムンク。どの絵の前も2重、3重の人であふれている。特に有名な「叫び」は、鑑賞の前に列を並ばなければならない。

 近代社会が招いた人間の不安、孤独、絶望を描いていることが、見る人の共感を呼ぶのだろう。図録には「人間の口から放たれた不安が、風景のなかに拡散し、さざ波を立てている」と書かれていた。しかし、絵のなかの男性は叫んでいるのではなく、耳を塞いでいる、という見方もあるようだ。ムンク自身が「自然を貫く叫びに底知れない恐怖を感じた」と、書いているという。

 ちょっと分かりにくいが、約100点の展示作品のなかでも「絶望」「メランコリー」「夜の彷徨者」などの絵に引かれた。

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「叫び」
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「絶望」        「メランコリー」
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「夜の彷徨者」


 ムンク展の「叫び」に見入る寒さかな


【2019年2月3日(日)】

 用事でまた上京したのを機会に、丸の内の三菱一号館美術館で開催している 「フイリップス・コレクション展」に出かけた。入るのに15分ほど待たされたが、なかなかの拾いものだった。

 ワシントンにあるフイリップス・コレクションは、100年前に実業家が近代美術を蒐集した私立美術館。「アングル、コロー、ドラクロア等19世紀の巨匠から、クールベ、近代絵画の父、マネ、印象画のドガ、モネ、印象画以降の絵画を索引したセザンヌ、ゴーガン、クレー、ピカソ、ブラックらの秀作75点」と、普通の美術館の学芸員なら垂涎の的の作品がずらり。
 それも、明治の時代に丸の内で初めてのオフイスビルとして建てられたレンガ造り・復元建築の重厚なインテリアの部屋を連なるように展示されている。

 暖かい気候に恵まれた小旅行。帰った伊丹空港は雨だったが、なにやら春の気配・・・。

 まだ固き蕾の中に春を待つ


 海光の温みを集め水仙花


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ゴア「聖ペトロの悔恨」      シスレー「ルーヴシェルの雪」

2018年10月31日

日々逍遙「小磯良平展」「武庫川・コスモス園」など

このブログが、管理システムの不調で約1ヶ月閲覧だけでなく、新しい記事の掲載もできなくなった(詳しくは、管理者n.shuheiさんの 10月22日付けブログで)。
 管理者の大変な努力で10月末には復旧したが、ブログ右側の「過去記事タイトルリスト」を見ると、11年もの読書、紀行記録が自分にとって貴重な財産になっていることに改めて気付いた。

 あまり好きな言葉ではないが、 "終活" の一環にもなるかと「日々逍遙」というコーナーも作ってみることにした。

2018年10月28日(日)
 阪急夙川駅で、昔テニスクラブで一緒だったYさんに20年ぶりにばったり。サングラスを外して見せた顔には、私同様それなりの年輪が刻まれていたが、テニスは相変わらず続けているという。2007年に中国にご一緒したKさんも同じテニスクラブらしいが、テニスを日課のようにしていたMさんは「もう、しんどくなった」と最近クラブを辞めたらしい。これも"終活"かな・・・と。

 待ち合わせた友人Mとポートアイランドの神戸市立小磯記念美術館へ。特別展「没後30年 小磯良平展 西洋への憧れと挑戦」が開催中で、全国の美術館から集められた代表作や新発見、初公開作など約130点が展示されている。

 見覚えのある兵庫県立美術館所蔵の「T嬢の像」や東京藝術大学が貸し出した「裁縫女」が、戦前の中産階級の生活を鮮やかに描きだして秀逸だ。

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 珍しいことに「娘子関を征く」「カリジャティ会見図」(いずれも国立近代美術館・無期貸与作品)など、かなりの戦争絵画が展示されていた。

 ちょうど、京都国立近代美術館で「没後50年展」が開かれている藤田嗣治は、多くの戦争絵画を描いたことへの非難に嫌気をさしてフランスに戻って、死ぬまで日本に帰らなかったということだ。小磯良平も自分の画集に戦争絵画を載せることを非常に嫌ったという。東京芸術大学教授として活躍した戦後の生活の中で戦争責任の声とどう決別したのだろうか。

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 戦後に描かれた「働く人びと」(小磯美術館寄託)という大作は、同じ油彩ながら戦前の作品とがらりと筆使いが違っている。なぜだろうか。

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 東京・赤坂の迎賓に飾られている「絵画」「音楽」の2作は、やはり小磯の迫力が満溢 した作品だ。この展覧会では、小さなカラー模造図が展示されているだけだったが、やはり本物が見たい、と思った。

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  【2018年10月16日(火)
 武庫川左岸(尼崎市)の「武庫川コスモス園」に出かけてみた。
 13日に開園したばかりで、まだ咲きはじめといった感じだが、7つの区画にピンク、白、黄色のコスモス約550万本が今年も元気に咲きそろおうとしている。昨年は、台風の被害を受けてほぼ全滅しており、2年ぶりに復活した風景だ。
 ここは、もともと旧西国街道を結ぶ「髭の渡し」と呼ばれる渡し場があったらしい。サイクリングロードなどが整備されている右岸・西宮市側に比べ、左岸は未整備なところが多く、ここもゴミの不当投棄で荒れていた。コスモスの名所に変身させた地元市民グループの努力をありがたく思う。

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2018年10月8日(月)
 久しぶりに、西宮市立北山緑化植物園に出かけた。まだ紅葉には早かったが、シューメイギク、コムラサキ、ミズヒキなどの秋の花が咲きそろっている。  カツラの木の下のベンチで休憩。カツラの大木を訪ねた鉢伏への旅を思い出した。
 
 秋晴れへ伸びる桂や幹太し


 まだ青いがカリンの実がたわわに実っている。自宅にカリン酒をつけているのを思い出し、帰って飲んでみた。澄んだ琥珀色をした、なかなかの出来だった。張られたレッテルに「2016年11月作成」とある。たしか、神戸女学院のシェクスピア庭園で収穫した実を漬けたのだと思う。

下のサムネイルをクリックすると大きな写真になります。
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2018年10月27日(土)
 2週間に1回の俳句講座(講師:池田雅かず「ホトトギス同人」、於・神戸六甲道勤労市民センター)の日。
 最初に講師が「鳴け捨てし身のひらひらと木瓜の花」という句を黒板に書き、主席者の評価を聞いた。「良い句」と思った人は1人、私も含めて残り20人弱は「良くない」に手を挙げた。

 実はこの句は、AI(人工知能)の作、だという。
 北海道大学の川村教授が、過去の俳句5万句をAIに詠み込ませて開発したソフト「一茶君」に「鳴」「木瓜の花」という兼題を与えて自動生成させたらしい。
 友人の1人は「なかなかいい句だ」と、高い評価をした。はたしてAIは、将棋、碁に続いて俳句でも勝利するだろうか。

2018年8月31日

読書日記「ふしぎなイギリス」(笠原敏彦著、講談社現代新書、2015年刊)



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 今月初め、消化器の不調で緊急入院するというアクシデントに見舞われてしまった。ほぼ1年がかりで準備してきたイギリス旅行を断念、機中で読むことにしていたこの本を病院のベッドで読むことになった。

 著者、笠原敏彦は元毎日新聞ロンドン特派員。あとがきで「新聞記者の書くフローの情報を系統立てたストック情報にどう転化するか」に苦労したと書いている。

 本は最初に、2011年4月のウイリアム王子とキャサリン妃の成婚にふれている。そのパレードは、ダイアナ元妃の葬送ルートのほぼ逆コースであり、王子はダイアナ元妃の婚約指輪をキャサリン妃に贈るなど、王子は「ダイアナ元妃を自分たちの結婚プロセスに一部に組み込んでいた」という。
 なぜ、そんな必要があったのか。

   ダイアナ元妃が1997年、パリで交通事故死した際、バッキンガム宮殿の前は花束で埋まり国民は悲しみで「集団ヒステリー」に陥った。対照的に冷淡なエリザベス女王の対応に国民の怒りが爆発、王室支持率は急落した。

 それを救ったのが、時の首相トニー・ブレアだった、らしい。ブレア首相は女王やチャールズ皇太子との確執が伝えられていたが、渋る女王に休暇先からロンドンに戻り、宮殿に半旗を掲げるように促した。女王は「王室の存続は国民の支持にかかっているというイギリス立憲君主制の明快な原理」に改めて気づき「国民に寄り添う王室」をアピールするようになった。
 王室は、ダイアナ危機を克服し、国民の7割以上から支持を得るようになった。

 ウイリアム王子とキャサリン妃のロイヤル・カップルは、イギリスの「将来への希望」を象徴すると受け止められている、という。
 昨年のヘンリー王子とメーガン妃の成婚での国民の熱狂も「イギリスの将来への希望」の一環として捉えられるのだろう。

 イギリスの正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」。2014年9月のスコットランド独立を問う住民投票が行われた。独立は反対55%でかろうじて否決されたが「一連の騒動はその連合王国という国家の枠組みの矛盾を浮き彫りにした」

 連合王国は、イングランドとスコットランド、ウエールズ、北アイルランドという4つの「Nation」で構成される。「Nation」は「言語や文化、歴史を共有し、民族、社会的同質性を持つ共同体という意味だ」と著者はいう。
 主権を持った「独立国家」を示す「State」という言葉があり、日本のように1つのネーションがそのまま独立国家になっている場合は「ネーション・ステート(国民国家)」といえるが、イギリスは厳密な意味で国民国家とは言い難い、という見方だ。

 いささか分かりにくい。
 ネット検索すると、「countryとnationとstateの違い」という項目が見つかった。「イギリスやカナダなんかは、国の中に複数のnationがあり、日本の場合は、country = nation ( = state)です」と書かれている。

 もう一つわかりにくいのは、日本人がこの国を「イギリス」と呼んでいることだ。連合王国の通称は「Unaited Kingdom(UK)」または「Great Britain」「Britain」。イギリスという名称は、連合王国の1地域にすぎない「イングランドの外来語」が定着したもの、らしい。

イギリスの歴史は、この本と並行して読んだ「イギリス史10講」(近藤和彦著、岩波新書、2013年刊) に詳しい。東大教授の著者の本は、いささか難解。4つの地域が長い歴史のなかで交錯していく様は分かりにくいが、それが連合王国の複雑さを示しているのかもしれない。

 「イギリス史10講」にも、こんな記述がある。
 「イギリスには、『単一民族国家』や「一にして不可分の共和国」といったものとは異なる政治社会が成り立ち、今日、さらに多様性の促進が唱えられている」

 連合王国イギリスは、同じ島国というのに、どっぷり単一民族?の国土につかってきた日本人には「ふしぎな」国であり続けるのかもしれない、とも思った。

2018年7月26日

読書日記「潜伏キリシタンは何を信じていたか」(宮崎賢太郎著、株式会社KADOKAWA、2018年2月刊)、「かくれキリシタンの起源」(中園成生著、弦書房、同年3月刊)、「消された信仰」(広野真嗣著、小学館、同6月刊)

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 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、今月やっと世界遺産に登録されることが、ユネスコから認められた。

 文化庁の資料によると「『潜伏キリシタン』が密かにキリスト教への信仰を継続し,・・・既存の社会・宗教と共生しつつ,独特の文化的伝統を育んだ」こと が、世界遺産として認められた理由だという。

 登録を待っていたように、「潜伏キリシタン」についての著書が次々と発刊された。

 「潜伏キリシタンは何を信じていたか」の著者、宮崎賢太郎は、潜伏キリシタンを祖先に持ち、カトリック系の長崎純心大学の教授などをつとめたクリスチャンだが、これまでキリスト教会で常識とされてきたことに反論を試みる。

 
「(領主によって)強制的に集団改宗させられた大多数の民衆層のキリシタンたちは、(指導する司祭などが不在だったから)キリスト教についてほとんど何も知らなかった」「潜伏キリシタンたちが守り通してきたのはキリスト教信仰ではなく、いかなるものかよく知らないが、キリシタンという名の先祖が大切にしてきたものであった」「長崎県生月(いきつき)島などにごくわずか存在するカクレキリシタンには、隠れているという意識はまったくなく、その信仰の中身もキリスト教と呼ばれるようなものではなく、先祖崇拝的傾向の強いきわめて日本的な民族宗教である」


 さらに著者は、幕末の開国後の1865年(慶応元年)3月17日。長崎・浦上の潜伏キリシタンが、長崎市の大浦天主堂を訪ねてプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」も、プチジャン神父が自作自演したフィクションであると推理する。

 
 (かくれキリシタンが告白した)「我らの胸あなたの胸とおなじ」という言葉は、逆にプチジャン神父のほうから・・・告白した言葉ではなかったか。信徒たちが「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのでなく、プチジャンのほうから、「あなた方が慕っているサンタマリアの御像はこちら」と案内したのではないか。「あなた方がずっと大切にしてきたマリア観音は、本当はこのサンタマリアの御像なのです。御子ゼズス様を腕に抱いていらっしゃるでしょう」と。


 信徒発見のニュースは、たちまち世界中に伝えられた。日本のカトリック教会はこの日を祝日と定め、発見から150周年にあたる今年は、各司教区では様々な祈りのイベントを展開している。

 それをフィクションと片付けられても、カトリック信者の片割れとしては、にわかに納得しにくい。しかし、250年もの司祭不在の禁教期に、キリシタンの間でなにかが起きていたとしても不思議ではない。フイールドワークを踏まえて、それを分析・研究したのが「かくれキリシタンの起源」だ。

 著者、中園成生は、捕鯨の基地としても有名な生月町の生月島町博物館・島の館学芸員として長年、かくれキリシタンの研究に取り組んできた人。

 実は、3年も前の2015年2月に著者の最新研究成果を紹介する講演を聴講しており、このブログでも記録している。この著書の骨子にもなるブログの一部を再録してみる。

   
 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の中園成生さんが、平戸島の北西にある生月島で、現在でも隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。・・・
 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』(前述の宮崎賢太郎は、この説をとる)」が従来の考えだった。
 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。
 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。


 この講演の時には、長崎県は世界遺産への登録を「長崎教会群とキリスト教関連遺産」と題して申請していた。しかし、ユネスコの諮問機関であるイコモスから「禁教時に焦点を当てるべきだ」という注文がついて、登録申請をいったん取り下げ、潜伏キリシタンの遺産に焦点を当て直してやっと今回の登録決定にこぎつけた。

 この間に、「隠れキリシタン」についての学問研究も進み「潜伏キリシタン」「カクレキリシタン」といった区別もされるようになった。

 「消された信仰」は、生月島のかくれキリシタンの取材を通じて、世界遺産登録への隠された事実も明らかにしている。

 著者の広野真嗣は、新聞記者を経て、この本で題24回小学館ノンフィクション大賞を受賞したジャーナリストで、自称「信仰の薄いキリスト教徒」。

 著書の冒頭で「なぜ生月島は世界資産から外されたのか」という問いかけをしている。

 
 著者によると、世界遺産登録申請に関連して2014年に長崎県が作成したパンフレットでは「平戸地方(生月島を含む)の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる〈かくれキリシタン〉によって今なお大切に守られている」となっていたのが、再申請後の2017年のパンフレットでは「〈かくれキリシタン〉はほぼ消滅している」と変わった。
 著者が取材した、さきの中園学芸員はその理由について「これまでやってきたキリシタン史の説明との整合がとれなくなるからです」と答えた。
 中園学芸員は「彼ら(長崎県)は、(宮崎教授が主張する)〈禁教期変容論〉の影響を受けています。江戸時代の〈潜伏キリシタン〉と、現在に続く〈かくれキリシタン〉は違うもので、変容してきた、というスタンスをとっているんです」「でも、禁教期のいつから何が変容したのかという説明はできないのです。イコモスから突っ込まれたら説明が不能な厄介な問題になる。だからこそ、生月島のかくれキリシタンの存在を"消そうとしている"。その存在は、はっきりしているのに」と話した。


 当初、長崎県などが「長崎教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指したのは、教会群などによって、長崎の観光振興を図りたいのも狙いだった。
 しかし、イコモスの指摘で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変わっていく過程で、その内容があいまいになり、250年間、信仰を守り続け、「オラショ」などの文化遺産を持つ生月島のかくれキリシタンが切り捨てられ、当初あった遺産としての生月島は消えてしまった。

 かって、長崎の教会群や生月島などを3年にわたって訪ね、このブログで何回も取り上げてきた。それだけに、今回に世界遺産登録になにか冷めたものを感じてしまう。

※その他の参考文献
  • 「かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅」(後藤真樹著、新潮社刊)
  •  「祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」(松尾潤著、批評社刊)


2018年4月25日

読書日記「六輔 五・七・五」(永六輔著、岩波書店)


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 ここ数年、ホトトギスの同人が主宰する俳句の会に月1回、出席していた。  「客観写生」を主唱する伝統俳句を継承するこの会に出て、自然の移ろいを五・七・五に表現するという思わぬ喜びを知った。ただ、季題を中心とした作句のルールは、いささかきゅうくつでもあった。  そこで見つけたのが、この本。軽妙洒脱で知られる 故・永六輔の俳句で、失礼ながら「息抜きを試みよう」と思った。  この著作は、作者の死後、所属していた 東京やなぎ句会話の特集句会の記録などをもとに、家族が選んだ2000句あまりを詠まれた年代順に収めている。そのうち、気になった句を季節ごとに勝手に抜き出してみた。いささか"川柳"っぽい句が多くなったが・・・。

第一章「昭和四十四年~昭和五十五年」

※春
 タンポポ咲いたサーカスが来た
 低すぎて腹をすりむく燕かな
 見上げても見あげても囀る姿なく
 蛇口ひねったままの水しぶきのさくらんぼ
 春の雨濡れて渇いて一人旅
 濡れ手ぬぐい下げて春めく風の中
※夏
 夕焼に一瞬朱い波しぶき
 バトンに続いて神輿照れながら
 吹きぬける風が汗ふく初夏のシャツ
 おぼろ月手をつないでみる老夫婦
 闇の中でひまわりひそと語りあう
※秋
 長袖を通せばかすかな秋立ちぬ
※冬
 波の音湯豆腐の音風の音
 老いてなおビングのホワイトクリスマス
 水たまりひからびて落葉風に浮く
 寒鯉はねて氷と空気を割った
 行く年や書かなかった日記貼一冊


第二章「昭和五十六年~平成四年」

※春
 ぶらんこや地球自転のきしむ音
 庭のない淋しさ抱いて植木市
 酔覚めて又あらためて花疲れ
 寝返りをうてば土筆は目の高さ
 九本のチンポコのどか夏めく湯
 伸びるのがわかる気のする若葉
 春眠や覚めても覚めても夢の中
 煮転がす慈姑の音の軽やかさ
 新緑や濃淡濃淡濃淡淡
※夏
 純白の瀑布緑をぼかしおり
 葉の表葉の裏見せて青嵐
※秋
 仲たがいしてそのままの秋深し
 夏と秋の縫目を飛ぶや赤とんぼ
 たぎる湯に新そば生命をはらみけり
 ずっしりと水の重さの梨をむく
※冬
 野沢菜の歯にひんやりと信濃なり
 浅漬やしかと虫歯のありどころ
 露出あわせれば針先の如き木の芽
 腰痛の農夫牛蒡を引ききれず


第三章「平成五年~平成十五年」

※夏
 とまらない背中のかゆみ薄暑かな
 「あのあたり富士見える筈」梅雨の宿
※秋
 湯上りの汗のひき方冬隣り
 姿なく枝揺れておりホ-ホケキョ
 翅ごときこすって何でこの音色
※冬
 生きてきた通りに生きて春一番
 金縷梅を「まず咲く」と読むひとありき


第四章「平成十六年~平成二十七年」

※春
 囀りの途切れて深き森戻る
 淫美なり裸になった柏餅
※秋
 渡り鳥お前等行くのか帰るのか