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2020年4月23日

読書日記「ペスト」(アルベール・カミュー著、宮崎峰雄訳、新潮文庫)

     2月の末に、このが話題になっているのを知り、AMAZONに注文したが、注文が殺到しているのか、さっぱり届かない。
 それを知った友人が倉庫の段ボール箱から探し出し、貸してくれた。「昭和63年7月、38刷」とある。活字が小さく、読むのに苦労した。

 194※年4月16日の朝、フランスの植民地であるアルジェリアの港町、オランに住む医師ベルナール・リューは、診療室から出ようとして階段で1匹の鼠の死骸につまずいた。・・・新聞は、約8千匹の鼠が収集されたと、報じた。

 具合が悪くなった門番のミッシェル老人を診にいくと、老人は苦しそうだった。

 
半ば寝台の外に乗り出して、片手を腹に、もう一方の手を首のまわりに当て、ひどくしゃくりあげながら、薔薇色がかかった液汁を汚物溜めのなかに吐いていた。・・・熱は三十九度五分で、頸部のリンパ腺と四肢が腫脹し、脇腹に黒っぽい斑点が二つ広がりかけていた。


 救急車の中で、老人は死んだ。やがて、街には死人があふれ出した。20年ほど前に本国のパリを襲い、黒死病と恐れられたペストの来襲だった。県には、血清の手持ちがない。当局の公布で、市の門が閉じられ、オランの街は封鎖された。

 
(電車の)すべての乗客は、できうるかぎりの範囲で背を向け合って、互いに伝染を避けようとしているのである。停留所で、電車が積んできた一団の男女を吐き出すと、彼らは、遠ざかり一人になろうとして大急ぎのていである。煩雑に、ただ不機嫌なだけに原因する喧嘩が起こり、この不機嫌は慢性的なものになってきた。


 街の中央聖堂の説教台にバヌルー神父が上がった。

 
「皆さん、あなたがたは禍のなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのです。・・・今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべきときが来たということであります」
 「あなたがたは、日曜日に神の御もとを訪れさえすればあとの日は自由だと思っていた。二、三度跪座(きざ)しておけば罪深い無関心が十分償われると思っていた。しかし、神はなまぬるいかたではないのであります」


 しかし、その後バヌルー神父は大きく変わる。「最初ペストに神の懲罰を見、人々の悔悛を説いていた彼は、救護活動に献身し、『少なくとも罪のない者』だった少年の死を目撃して、(あの説教)が『慈悲の心なく考えかつ言われた』言葉であったこと」を反省する。

 やがて、その神父も「寝台から半ば身を乗りだして死んでいる」のが発見される。

 鼠が再び姿を現し始めた。「統計は疫病の衰退を明らかにしていた」

  

だが、ペストが遠ざかり、最初音もなく出てきた、どことも知れぬ巣穴にまたもどろうとしているようにしているように見えたとき、市中で少なくとも誰かだけは、この引揚げ開始によって愕然たる思いに突き落とされていた。

 「この町のなかで、一向憔悴した様子も気落ちした様子もなく、さながら満足の権化という姿を保っている」犯罪者、コタールだった。

 市の門がついに開き、大通りは踊る人々であふれた。祝賀騒ぎをしている群衆に向かって、コタールは突然、自分の部屋から発砲して何人も傷つけ、警官に捕まった。

 医師のリューは、この歓喜する群衆の知らないことを知っていた。

 
ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴蔵やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来る日が来るであろうということを。


 今月の中旬、NHKの「100分de名著」という番組でこの「ペスト」が再放送されていた。

「ペストとは、人を殺すこと。書いた背景には、ナチスのユダヤ大虐殺があった」と、出席者はカミューの不条理の世界を解説していた。

   再放送の直後に、AMAZONから新潮文庫「ペスト」の増刷版がやっと届いた。この文庫本の累計発行部数は104万部に達したという。

book

2019年1月30日

読書日記「なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949」(富田芳和著、静人舎刊)



 昨年12月、京都国立近代美術館で開かれていた「没後50年 藤田嗣治展」へ閉幕直前に出かけた。年明けの14日にも、「ルーヴル美術館展」の閉幕日に、大阪市立美術館に飛び込んだ。喜寿が過ぎたせいか、どうも行動のスピードが鈍ってきたような気がする。

 数え日や閉幕前の美術展


 セーターの胸すくっとして喜寿の人


 セーターの首からのぞく笑顔かな


 着古したセーターにある思ひかな


藤田嗣治は、戦後のパリで描いた「カフェ」(1949年、パリ・ポンピドゥーセンター蔵)や「舞踏会の前」(1925年、大原美術館蔵)など「乳白色の女性」像で有名だが、戦後、画壇の批判勢力にパリへ追われるきっかけになった戦争画のことが気になっていた。

 会場でも、幅160センチの大作「アッツ島玉砕」(1943年、東京国立近代美術館・無期限貸与作品)が圧倒的な迫力で迫ってきた。
 昭和18年5月、日本軍の守備隊は上陸してきた米軍に最後の夜襲をかけて玉砕した。雄叫びを上げて銃を振り下ろす兵士、敵と味方もなく折り重なる死体・・・。 画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。フジタは時に絵の横に直立不動で立ち、鑑賞者に腰を折って礼を返した、という。

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「カフェ」
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「舞踏会の前」
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 「アッツ島玉砕」


これが戦争礼賛目的に描かれた絵だろうか。そんな疑問を抱きながら会場を出たが、1階のショップで見つけたのが、表題の本だ。

 これまでは、戦争協力への批判を強める日本画壇に嫌気したフジタが、フランス・パリに居を移した、と言われてきた。
 しかし、美術ジャーナリストである著者はこの見方に異議を示し、著書の冒頭でフジタの夫人君代さんの話しを紹介する。「フジタはことあるごとに私に言いました。私たちが日本を捨てたのではない。日本が私たちをを捨てたのだ、と」

 この著書には、2つの座標軸がある。1つは、戦後日本画壇の執拗なフジタ排斥の動き。2つ目は、そんなフジタを崇拝し、とことん支援した元日本占領軍(GHQ)の民生官だったフランク・シャーマンの存在だ。

 1946年、フジタはGHQから日本中の戦争画を集めて、米国で展覧会を開くという依頼を受けた。しかし、日本の美術界には、フジタがGHQと手を組むことを恐れる勢力があった。

 同じ年の秋、朝日新聞に画家、宮田重雄の投稿が載った。
 「きのうまで軍のお茶坊主画家でいた藤田らが、今度は進駐軍に日本美術を紹介するための油絵と彫刻の会を開くとは、まさに娼婦的行動ではないか?」

 同じころ、フジタが可愛がっていた画家、内田巌が訪ねてきて、こう通告した。

 「日本美術会の決議で、あなたは戦犯画家に指名された。今後美術界での活動を自粛されたい」
 さらに内田は、フジタが入会を希望していた新制作協会への入会も断る、と伝えた。

 新制作公募展の控え室でのこと。フジタは顔見知りの画家たちに声をかけようとした。「気付いた者たちは突然静まり返り、形ばかり頭を下げて、あらぬ方へ視線を遊ばせるばかり」・・・。

 美術界の"黒い勢力"の追求で四面楚歌に陥ったフジタを救ったのが、少年時代から画家フジタを尊敬していた米国人フランク・シャーマンだった。

 何度もフジタを訪ねて親交を深めたシャーマンは、フジタの渡米を計画、まずニューヨークでフジタの個展を開いて成功させた。
 しかし、当時の厳しい渡米の条件を満たすには、米国での保証人や定期的な収入の確保などが必要だった。

 シャーマンらは、これらの困難を次々と克服、ついにGHQの認可を得た。決め手となったのは、フジタがGHQ司令官、マッカサーの夫人のために描いたクリスマスカード、「十二単のマリアとキリスト像」だった。

 米国を経てパリに渡り、フランスに帰化して日本国籍を抹消したフジタは、渡米直前の記者会見でこんな言葉を残した。

 「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」

 ※参考にした資料


2017年9月16日

読書日記「日本の色辞典」(吉岡幸雄著、紫紅社刊)


日本の色辞典 紫紅社刊
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 京都の染色工房を主宰する吉岡幸雄が出演したNHKのBSドキュメンタリー番組「失われた色を求めて」の再放送を何度か見た。

 日本に古くから伝わる植物染織の復活に生涯をかける工房や原料を育てる農家の人々の苦労が伝わってくる。

 そんな時に友人Mが貸してくれたのが、この本。カラ―写真紙を使ったズッシリ重い約300ページの本に、古代からの色彩豊かな衣装、色の染め方や聞いたこともない名前の色見本が詰まっている。

◇赤系の色

 太陽によって一日がアケル。そのアケルという言葉が「アカ」になった。

 
 土のなかから弁柄などの金属化合物の赤を発見し、の根、紅花の花びら、蘇芳の木の芯材、そして虫からも赤色を取り出そうとしたのは、まさに、陽、火、血が人間にとっての新鮮な色で会ったからにほかならならない。


 ▽茜色(あかねいろ)

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    額田王が「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と、万葉集に詠った色。

 茜は、アカネ科の蔓草だが、その赤い根を乾燥させて朱色を出す手法は古くから用いられてきた。しかし、手間がかかり、色が濁って難しいため、その技法は中世の終わりにすたれてしまった。

 著者の工房では、茜の草を試験的に栽培し始めた奈良県の農家の協力で、その製法の再現に挑戦している。しかし、茜の根を煮出した汁から黄色を取り去るために米酢を加えることをやっと発見するなど、古代の色を再現する苦労が続いている。

 ▽深緋(こきあけ、ふかひ)

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    古代色の読み方は難しい。深緋は、茜色をさらに濃く染め上げたもの。

 工房では、平安時代に編さんされた格式(律令の施工細則)である 「延喜式」の比率どおりに茜と紫根を用い、椿の木灰の上澄み液で発色させた。

 ▽曙色(あけぼののいろ)・東雲色(しののめいろ)

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      清少納言が「春は、あけぼの」と詠った「山の端から太陽が昇る前、そのわずかな光が反射して空が白み始める」色である。著者は「多くは茜色がやや淡く霞がかかった感じ」とみている。
 色見本では「茜との黄色を重ねた」

 ▽紅(くれない・べに)

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     紅花が出す赤色である。エジプト原産で、4,5世紀に日本に渡来した、という。

 この紅花から「紅」を染め出すのは、至難の業らしい。
 「自然の色を染める」(吉岡幸雄・福田伝士監修、紫紅社刊)などによると、花びらを水の中で揉み、ざるに取ってきつく絞る作業を繰り返して、花に含まれる黄色を取り去る。この後、藁灰(アルカリ性)を加えて、1-3回、色素を抽出。絹、木綿などの布を入れ、食酢を加えて色を定着させる。さらに布を水洗いして、鳥梅 と呼ばれる未熟な梅の果実を、薫製(くんせい)にしたものの水溶液に漬け、そのクエン酸の力で色素を定着させて乾燥する。
 鳥梅をつくっているのは、奈良県月ヶ瀬村の現在では中西さんという80歳強の梅栽培家だけらしい。「紅」の将来は、どうなるのか。

 このほか辞典では、盛りの桃の花をさす「桃染(ももぞめ・つきぞめ)は、紅花を淡く染めてあらわした、とある。

 「桜色」については、光源氏が、政敵右大臣の宴に招かれた時に「桜の襲(かさね)の 直衣(のうし)で出かけたことが書かれている。

 表が透明な生絹(すずし)、裏は蘇芳か紅花で染められた赤で、光が透過して淡い桜色に見えたのである。その姿は「なまめきたる」美しさであったという。

◇紫系の色

 紫という色を得るのに、中国、日本等東洋の国々では古くから紫草の根(紫根)を染料として用いてきた。

 
 ・・・染液のなかをゆっくりと泳ぐように動いている布の、だんだんと紫色が入っていくさまを見ていると、ほかの色を染めているときとはちがった、妖艶というか、神秘的というのか、眼が、色に吸いつけられて、そのなかに自分が入りこんでいくような気がしてくるのである。


 平安時代。紫は、高貴な人々だけに許された、 禁色(きんじき)であった。

 ▽深紫(こきむらさき)

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   紫根によって、何度も何度も繰り返し染めた黒味が閣下ったような深い紫色。

 紫根は麻の袋の入れ、湯の中でひたすら揉み込んで、色素を取り出す。その抽出液に湯を加え、絹布などで染め、清水で洗う。
 椿の生木を燃やした灰に熱湯を注いで、2,3日置いた上澄み液を越して布を入れる。椿の木灰に含まれたアルミニウム塩が紫の色素を定着させる。

◇青系の色

   青色は、古くから硝子、陶器などに使われてきたが、衣服は藍草で染められてきた。

 中国・戦国時代紀元前403~前221)に書かれた 「荀子」には「青は藍より出でて藍より青し」と記されている。「出藍の誉れ」という諺でも知られる。青という色は藍の葉で染めるが、染め上がった色はその素材より美しい青になることをあらわし、・・・すでに青という色を、藍という染料から得る技術が完成していたことを物語る。

 日本では、奈良時代には愛の染色技法はすでに完璧に完成していたとみえ、正倉院宝物のなかにもいくつかの遺品を見ることができる。

 
 (木綿の栽培が盛んになった)江戸時代に入ると、木綿や麻など植物性の繊維にもよく染まる藍染はより盛んになり、村々に紺屋ができた。 型染 筒描など庶民から将軍大名にいたるまで、藍で染めた青は広く愛される色であった。
 明治のはじめ、日本にやってきた外国人は、そうした状況を目のあたりにして、その藍の色を「ジャパン・ブルー」と読んで称賛したのである。


 ▽藍(あい)

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    日本では、藍を染めるのに タデを使うが、「建染」という手法が確立している。藍が還元発酵して染色可能な状態になったことを「藍が建つ」という。

 木灰に熱湯を注いで二,三日置き、その上澄み液を濾して灰汁を用意しておく。藍甕に (すくも)と灰汁を入れて掻き混ぜ、二〇度前後の温度を保ちながら十日くらい置く。その間日に二回掻き混ぜる。十日くらいたったところでふすまを加える。すると、ふすまが栄養剤となって発酵が促され、二、三日すると藍が建ち始め(ふすまを加えてあとは一日に一回掻き混ぜる)、染められるようになるのである。

 ▽縹色・花田色(はなだいろ)

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    藍色より薄く、浅葱色より濃い色をさす。「花田」は当て字。

 ▽浅葱色(あさぎいろ)

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    蓼藍で染めた薄い藍色。色見本は蓼藍の新鮮な葉をそのまま使う 生葉染

 田舎出の侍が羽裏に浅葱色の木綿を用いたので「不粋、野暮な人を当時『浅葱裏』と揶揄した」という。

 ▽亀覗(かめのぞき)

かめのぞき.jpg

    もっとも薄い藍染。布を少し漬けて引き上げる。つまり、藍甕のなかをちょっと覗いただけ、という遊び心いっぱいの命名。

◇緑系の色

   著者によると「緑色は、身近にいつもありながら、たやすく再現することができない色といえる」らしい。

 自然のなかにある「緑」を身近な生活のなかにおきたいとと思っても、草木が持つ葉緑素という色素は脆弱で、水に遇うと流れてしまう。しかも、時が経つと汚れたような茶色に変色してしまう。

 聖徳太子が亡くなった622年につくられた日本最古の刺繍が奈良・中宮寺に伝来しており、美しい緑の色糸が随所に使われている。藍色に 苅安 黄蘗(きはだ)という黄色系の染料をかけて染められたものだ。

 ▽萌黄色(もえぎいろ)

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   新緑の萌え出る草木の緑、冴えた黄緑色をいう。工房の色見本は、蓼藍の生葉染めのあとに黄蘗を掛け合わせた。

 ▽柳色(やなぎいろ)

やなぎいろ.jpg

    古い文献によると、柳色の布は、萌黄色の経糸と白の緯糸で織り上げた。

 ▽常盤色(ときわいろ)

ときわいろ.jpg

    松や杉など年中緑色をたたえる常緑樹は「常盤木」と呼ばれている。その常盤木の葉のように、やや茶色を含んだ深い緑の色。

 色見本は、苅安に蓼藍を重ねて深みをだした。

 ▽麹塵(きくじん)青白橡(あおしろつるばみ) 山鳩色(やまばといろ)

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    麹塵は、麹黴の色。橡は団栗の古称、青白橡は、夏の終わりから秋のはじまりにかけての青い団栗の実のこと。

 まったく別個の色名に思われるが、平安時代に 源高明が記した宮中の年中行事作法書 「西宮記」に、この2つの色は同じものとあるという。山鳩色も同じ色という説もある。

 「延喜式」にある、その染色法が、また難しい。椿などの生木を燃やしてつくったアルミニウム塩を含む灰汁(あく)を発色剤に苅安や紫草の根から抽出した色素を組み合わせる。著者の工房でも、失敗を重ねて。ようやく染めることができた。

 (後記)

 1項目を読むたびに、著者の工房の苦労を味わい、貴重な古代文献の名を知り、平安朝の 「襲(かさね)の色目」に自然を感じる・・・。
 なんとも興味のつきない本だ。しかし、黄、茶、黒白、金銀の項を残してブログに記すのはこのあたりで止め、座右で楽しむことにしたい。

 なお、各項にある色見本は、ネットにあった、東京カラーズ株式会社の 「色名辞典」からコピーさせてもらった。著者の工房で染めた自然素材の色調とは、当然異なっていると思う。

  ※巻末に、著書にある代表的な色名表を載せ、備忘録にした。

【赤】
 代赭色 (たいしゃいろ) / 茜色 (あかねいろ) / 緋 (あけ) / 紅絹色 (もみいろ) / 韓紅 (からくれない) / 今様色 (いまよういろ) / 桜鼠 (さくらねずみ) / 一斤染 (いっこんぞめ) / 朱華 (はねず) / 赤香色 (あかこういろ) / 赤朽葉 (あかくちば) / 蘇芳色 (すおういろ) / 黄櫨染 (こうろぜん) / 臙脂色 (えんじいろ) / 猩々緋 (しょうじょうひ) など 104色

【紫】
 深紫 (こきむらさき) / 帝王紫 (ていおうむらさき) / 京紫 (きょうむらさき) / 紫鈍 (むらさきにび) / 藤色 (ふじいろ) / 江戸紫 (えどむらさき) / 減紫 (けしむらさき) / 杜若色 (かきつばたいろ) / 楝色 (おうちいろ) / 葡萄色 (えびいろ) / 紫苑色 (しおんいろ) / 二藍 (ふたあい) / 似紫 (にせむらさき) / 茄子紺 (なすこん) / 脂燭色 (しそくいろ) など 46色

【青】
 藍 (あい) / 紺 (こん) / 縹色 (はなだいろ) / 浅葱色 (あさぎいろ) / 甕覗 (かめのぞき) / 褐色 (かちいろ) / 鉄紺色 (てっこんいろ) / 納戸色 (なんどいろ) / 青鈍 (あおにび) / 露草色 (つゆくさいろ) / 空色 (そらいろ) / 群青色 (ぐんじょういろ) / 瑠璃色 (るりいろ) など 60色

【緑】
 柳色 (やなぎいろ) / 裏葉色 (うらはいろ) / 木賊色 (とくさいろ) / 蓬色 (よもぎいろ) / 萌黄色 (もえぎいろ) / 鶸色 (ひわいろ) / 千歳緑 (ちとせみどり) / 若菜色 (わかないろ) / 苗色 (なえいろ) / 麹塵 (きくじん) / 苔色 (こけいろ) / 海松色 (みるいろ) / 秘色 (ひそく) / 虫襖 (むしあお) など 57色

【黄】
 刈安色 (かりやすいろ) / 鬱金色 (うこんいろ) / 山吹色 (やまぶきいろ) / 柑子色 (こうじいろ) / 朽葉色 (くちばいろ) / 黄橡 (きつるばみ) / 波白色 (はじいろ) / 菜の花色 (なのはないろ) / 承和色 (そがいろ) / 芥子色 (からしいろ) / 黄土色 (おうどいろ) / 雌黄 (しおう) など 36色

【茶】
 唐茶 (からちゃ) / 団栗色 (どんぐりいろ) / 榛摺 (はりずり) / 阿仙茶 (あせんしゃ) / 檜皮色 (ひわだいろ) / 肉桂色 (にっけいいろ) / 柿渋色 (かきしぶいろ) / 栗色 (くりいろ) / 白茶 (しらちゃ) / 生壁色 (なまかべいろ) / 木蘭色 (もくらんいろ) / 苦色 (にがいろ) / 団十郎茶 (だんじゅうろうちゃ) / 土器茶 (かわらけちゃ) / 媚茶 (こびちゃ) / 鳶色 (とびいろ) / 雀茶 (すずめちゃ) / 煤竹色 (すすたけいろ) など 107色

【黒・白】
 鈍色 (にびいろ) / 橡色 (つるばみいろ) / 檳榔樹黒 (びんろうじゅぐろ) / 憲法黒 (けんぽうぐろ) / 空五倍子色 (うつぶしいろ) / 蠟色 (ろういろ) / 利休鼠 (りきゅうねずみ) / 深川鼠 (ふかがわねずみ) / 白土 (はくど) / 胡粉 (ごふん) / 雲母 (きら) / 氷色 (こおりいろ) など 53色

【金・銀】
 金色 (きんいろ) / 白金 (はっきん) / 銀色 (ぎんいろ)



   

2017年3月29日

読書日記「オオカミが日本を救う!」(丸山直樹編著、白水社)「日本の森にオオカミの群を放て」(吉家世洋著、丸山直樹監修、ビング・ネット・プレス刊)


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 このブログにも書いたが、シカの異常繁殖が日本の自然生態系を破壊している実態をかいま見たのは、2008年に北海道・知床を訪ねた時のことだった。

 知床の草地はエゾジカに食べつくされて、すでに「世界遺産・知床から花が消えてしまった」(自然ガイドのTさん)。

  
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ホテルの前庭に群がるオスジカ。見えている白い草花は食べない エゾジカに樹皮を食べられ、立ち枯れたイチイの木
       
 冬になると、ミズナラなどの樹皮をはぎ取り、樹木は枯れてしまう。街中の家屋の前の木々は、金網で覆われているが、葉っぱはほとんど食べられてヒョロリと立っている。
 明治時代に、開拓農民の家畜を襲うエゾオオカミが害獣として絶滅されたため、エゾジカの異常繁殖という自然循環のアンバランスを招いたのだ。

 「オオカミが日本を救う!」の編著者である丸山直樹は、東京農工大学名誉教授。シカの生態を研究するうち、自然生態バランスを維持する食物連鎖「頂点捕食者」である狼に注目、「日本オオカミ協会」を設立して「日本の自然崩壊を救うため、再びオオカミを導入しよう」と、呼びかけている。

 オオカミの再導入によって、シカやサル、イノシシの被害が減少し、里山や土砂の崩壊、流出などの自然破壊を防いだりすることができるという。

 オオカミは、群れで生活し、なわばり内の「頂点捕食者」として、シカやイノシシを食べ、結果的にシカなどの異常繁殖は防ぐことができる。

 しかし、オオカミが人を襲う恐れはないのだろうか。

 これについて編著者は「もともとオオカミは、人への恐れ、警戒感が強く、人との遭遇を避けようとする」という。食物が少なくなって、家畜を襲うことはあっても、健康なオオカミが人を襲った例は、世界的にも報告されていない、という。

 「日本の森にオオカミの群を放て」は、科学ジャーナリストの著者が、丸山氏らが進めているプロジェクトを平易に解説した本。知床なども、オオカミ導入の有力候補らしいが、丸山氏らは、第一候補として日光国立公園に的を絞っているらしい。

 アメリカのイエローストン国立公園では、1995年にオオカミを再導入して成果を上げているようだ。  ネット上で見つけた「オオカミってやっぱりすごい!」というページは、この公園の様子をこう伝えている。

 
 オオカミが捕獲するため、シカの数が減ったが、シカもオオカミに狙われやすい場所を裂けるようになった。
 鹿が近づかなくなったため、植物たちが息を吹き返した。シカに食い尽くされて裸同然だった谷あいの側面はあっという間にアスペンや柳、ハコヤナギが多い茂る森となり、すぐに多くの鳥たちが生息し始めた。
 ツグミやヒバリなどの鳴き鳥の数も増え、渡り鳥の数も大幅に増えた。
 木が増えたため、多くなったビーバーが作るダムは、カワウソやマスクラット、カモ、魚、爬虫類、両生動物など多くの生物の住処となった。また、オオカミがコヨーテを捕食することで、コヨーテの餌食となっていたウサギやネズミの生息数が増加し、それを餌にする「ワシ、イタチ、狐、アナグマなども増えた。
 川の特徴まで変わってきた。それまでの曲がりくねっていた川は緩やかな蛇行流となり、浸食が減り、水路は狭まり、より多くの水のたまり場ができ、野生の生物たちが住みやすい浅瀬ができるようになった。
 川の流れが変わり森林が再生されて、川岸はより安定し、崩れることも少なくなった。そして、川は本来の強さを取り戻し、鹿たちに食尽された谷間の植物たちも再び生い茂り始めた。植物が増えたことにより、土壌の浸食を抑えることにつながった。
 自然が蘇ったのだ。


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      冬のイエローストン公園の頂点にいる捕獲者たち

 日本の北海道標茶町虹別には、20数年前に移り住み、フェンスで囲んだ約2000坪の自宅森林で、14頭のオオカミを飼っている桑原さん夫妻がいる。

 一般の人向けの「オオカミの自然教室」も開いている。

桑原さんが呼ぶと、体重30キロのモンゴルオオカミが飛びつき、ほおをなめた。地面に寝転がり、腹をみせる。「親愛や服従のしるし」と、桑原さんは言う(2013年9月5日、読売新聞夕刊)

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  桑原さんらが飼っている狼たち

狼は、冬の季語である。
 参加させてもらっている「聖書と俳句の会」で昨年末に提出した句が、幸いにも入選した。

     「狼の遠吠え聞けり夢の森

 3月20日付け読売俳壇で3席になっていた栃木県の人の句。

     「日本の何処かで狼生きている」  

2016年10月 1日

読書日記「ルーアンの丘」(遠藤周作著、PHP研究所、1998年刊)


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 なぜか寝づらい日が続いた深夜に、テレビ録画で見ていて表題の本をテーマにしたドキュメンタリー(NHK制作)に引き込まれた。

 題材になっている「ルーアンの丘」は、作者が1950年に戦後最初の留学生としてフランスに渡った時に残していた旅行記「赤ゲットの仏蘭西旅行」と滞仏日記をまとめたものだ。作者の没後に見つかり、1998年に単行本になった。

 県立西宮北口図書館で司書の女性に見つけてもらい、一気に読んだ。

   フランスに同行したのは、生涯の親友となった 故・井上洋治神父ら4人。

 世話をしてくれたフランス人神父の尽力で、フランスの豪華客船・マルセイエーズ号に乗れることになった。ところが、遠藤が別に記しているのによると「船賃は最低の2等Cで16万円」。
 とても貧乏留学生に払える金額でなかったが、その神父の努力で「特別に安い部屋」に乗れることになった。

 大喜びで、フランスの船会社の支店に4人で切符を買いに行き、マルセイエーズ号の模型を囲んで「俺たちの船室はどこだ、どこだ」と大騒ぎしていたら、フランス語の堪能な若い女性が「かなしそうな眼で見ていた」・・・。

   横浜港でマルセイエーズ号に乗り込み、切符を事務長に見せると、せせら笑って「船室は船の一番ハシッコだと答える。

 
皆さん、『奴隷船』という映画を見ましたか。船の端の地下室の光もはいらねえなかで、黒人たちがかなしく歌を歌っている。実に、ぼくらの船室はあそこだったんです。・・・寝床は毛布も何もねえ、キャンプベッドがずらっと並んでいるだけ。鞄をもってきた赤帽君が驚いたね。「あんた、これでフランスに行くんですか」


 港に着く度に、クレーンで荷物がドサット落とされ、船倉ホコリだらけ。食事さえ、自分たちで厨房に行き、バケツに入れて運んでこなければならない。

   シンガポールやマニラでは、日本人は上陸禁止。第二次大戦中の マニラ虐殺などの恨みを忘れらてはいない。しかし、港に着くたびにこの船艙に乗ってくる中国人、インドネシア人、アラビア人、サイゴンで降りた黒人兵は、みな笑顔で接してくる。「なぜ、中国人などを今まで馬鹿にしたり、戦争をしたりしたのだろう」・・・。

 イタリア・ストロンボリイ 火山の火柱をデッキから見ていた時、ボーイの1人が「北朝鮮軍が南に侵入した」と1枚の紙きれを渡してくれた。

 神学生のI君(故・井上洋治神父)は、よく甲板のベンチでロザリオを手にお祈りをしていた。

 Ⅰ君は帝大の哲学科を今年出て、日本に修道会の カルメル会を設立することを自分の一生の使命として、遠くフランスのカルメルで修行する決心をしたのです。もう一生家族にも会えない。全ての地上のものを捨て、孤絶した神秘体の中に身を投じる君をぽくは真実、怖ろしく思いました。彼の体は強くない。寂しがりやで気が弱い・・・。そんな彼が人生の孤絶、禁欲ときびしい生の砂漠を歩いていくのを見るのは怖ろしかったのでした。暗い甲板の陰で、ぽくは黙って彼の横に座りました。

 「君、こわくない」
 とぼくはたずねました。
 「もう御両親や御姉弟にも会えぬのだね。もう一生、すべての地上の悦びを捨てねばならぬのだね」
 「少しこわいね。何かちょっと寒けがするような気持だ」
 と彼はうなだれました。


 マルセイユに入港、パリ経由で北仏・ルーアンの駅に着いた。この街に住む建築家・ロビンヌ家で、夏休みの間、ショートステイさせてもらうことになっていた。
 改札口で、中年の美しいマダム・ロビンヌに迎えられた。間もなく、ロビン家の11人の子どもがバラバラと集まってきた。遠藤がどの出口から出てくるか分からないため、前夜から1人ずつ張り番をしていた、という。

 最初にマダムに慣れないこと、不満なこと、困ったことは、何でも話すようにと約束させられた。そして、自分の子どもとして教育するという。

 日本では、ものぐさではどの友人に引けを取らなかったのに、髪をきちんと分け、靴は少しでも汚していると夫人に叱られた。特に、食事などのマナーは厳しかった。

 「食事中葡萄酒を飲む時、前もってナプキンで口を拭くこと」
 「食事中、黙ってはいけません。話さないのは礼儀ではありません」
 「煙草を半分吸って捨てるなんて、アメリカ人のすることです」

 「もう、我慢できないと」と言ったら、夫人は答えた。
 「あなたが大学に行ったら、大学生は無作法に食事したり話したりするでしょう。・・・しかし、典雅に物事をふるまえた上で野蛮に友だちと話せる大学生と、全く無作法な大学生とは違います」

 ある日、長男・ギイやガールフレンドのシモーヌなどとピクニックに出かけた。合唱やダンスを楽しみながら、彼らと空襲や離別の繰り返しだった、わが青春を比較してみた。
 そして、インドの乞食の少女の黒くぬれた眼、マニラの海の底に失われていった青春・・・。

 急にパリに行きたくなった。
  サン・ラザール駅に着いたのは午後6時半を過ぎていた。1つの教会の祈祷台に、倒れ込むように跪いた。

 神様、ぼくは、あなたを何にもまして愛さねばならぬことを知っています。しかし、ぼくは、今、人間を愛し始めたのです。ぼくが、永遠よりも。この人間の幸福のために力をそそぐことはいけないことでしょうか。人間の善きものと美しきものを信じさせて下さい。神様、ぽくに真実を、真実として語る勇気をお与え下さい。・・・自然があれほど美しいのなのに、人間だけが、悲しい瞳をしていてはいけないのです」


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ロビンヌ家の人々と遠藤周作(左端から長男・ギイ、遠藤、マダム・ロビンヌ、末っ子のドミニック)


2016年6月21日

読書日記「焼野まで」(村田喜代子著、朝日新聞出版)

焼野まで
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 なぜか、 村田喜代子の本を見つける、読みたくなる。

   このブログの 「村田喜代子アーカイブ」には、5冊を記録してもらっているが、そのほかに流し読みした本を合わせると10冊近くになるだろう。
 この人の、ちょっぴり奇怪、怪奇的で、ユーモアあふれる文章と構成になんとなく引かれてしまう。

 表題の本は、このアーカイブにもある 「光線」という著書が土台になっている。
 4年前に書かれた「光線」は8つの短篇で構成されていた。2011年3月の東北大震災の直後に著者が子宮がんを患い、鹿児島にある 「オンコロジーセンター」(UMSオンコロジークリニックと改名)に通って、四次元ピンポイント放射線照射治療で完治させるという構成は、「焼野まで」でも一緒だった。「光線」での体験が4年経って、この長編小説に昇華されたようだ。

 著者は、自ら罹った子宮がんだけでなく、知り合いが視神経に絡みついて外科手術ができない脳腫瘍や腹部大動脈を呑み込んだ膵臓がんを、この治療法で完治させた。それだけ、著者の四次元ピンポイント放射線照射治療に対する信頼は厚い。

 ガンはいびつな形をした立方構造をしているらしい。生きている臓器は微妙に動くので、従来の二次、三次元照射では、照射する位置がずれ、正常な臓器を痛めたりする。

 そこで、オンコロジの稲積院長(UMEオンコロジークリニックの 植松稔院長がモデル)は、刻々と時間差でガンの部位を追跡する四次元照射法を考案した。
 それも機械任せではなく、稲積院長が東京から連れてきた5人の放射線技師の「精密な手」がガンを逃さず、追いかける。

 主人公が、初診で会った稲積院長は普通の医者とは異なり、ワイシャツにベストだけのラフな格好で「理系の技術者のよう」だった。

 主人公が通っていた病院から持ってきた画像をざっと見ると、院長はあっさりと言った。
 「大丈夫、このガンは消せますよ」・・・「放射線は正確にかけると、(がんは)消えるものなんです」・・・「放射線は粉に似ていますから、粉を降りかけるんだというふうに思ってください」

 しかし、このような新しい治療法は、一般の人や病院にはなかなか受け入れてもらえない。

 オンコロジーセンターで知り合い、銭湯に一緒にいく仲になった乳がんだという三十歳後半らしいの女性は、こんな経験をした、という。

 「主治医に、セカンドオピニオンを受けたいので、画像を出して欲しいと頼むと、紙袋ごとフイルムを床に放られました」
 それで、しゃがんで・・・画像を拾っていると、頭の上で医者の声がした。
 「死に給え・・・」

 著者の女性主治医は、すぐに画像をそろえてくれたが、こう付け加えた。
 「お出でになるのを止めることはできませんが、どうぞ向こうの先生に即答なさらないでください。何も決めないで、とにかくまた帰って来てください。放射線では消えないのです」

 大学病院婦人科病棟勤務の看護婦である娘には、こんな言葉をぶつけられて、母子断絶となった。
 「あのね、子宮体がんに放射線は効きにくいの。絶対効かないと言ってもいい。・・・選択肢はただ一つ。手遅れにならないうちに切る。それにもう躊躇する理由はないでしょ。要らないじゃない、その齢で」

 ただ、毎日、平服のまま10分弱の放射線治療をうけるだけだが、主人公にはつらい体験がつづいた。

 
 五月三日でここへ来て七日経った。 一日二グレイ収線量)づつ振りかけて、総量十四グレイだ。ただしⅩ線は放射線源のない、身体をすり抜けていくだけの光の失だから、体に降り積もっているわけじゃない。毎日はらはらと粉雪が降る。降った雪は一日で溶けて消える。そして明くる日はまた明くる日の粉雪がはらはらと降る。
 そういうことだとわかっているのに、体は少しずつ消耗していく。食欲がなくなるのと、照射直後の下痢で体重が二キログラムほど落ちた。それなのに体が重くなっていく。頭が重い。肩が重い。背中がずっしりと重い。手が重い。足が重い。重くてだるい。身の置き所のない倦怠感に襲われる。寝ても起きても体を持て余す。


 苦しんでいる間に色々な幽霊に会う。夢のなかの出来事の描写は、村田喜代子の真骨頂である。

 
 センターに通うために借りたウイクリーマンションでぼんやりしていると、焼島(モデルは、鹿児島・ 桜島)のとある店先に立っていた。奥から姐さん被りの年寄りが出てきた。なんと「私の祖母である」
 「お帰り、和美。きつかったじゃろ」。三十六年前に亡くなった祖父と、三十年前に亡くなった祖母と三人で竹藪の小屋で夕食のお膳を囲む。「音のでない映画のようだ」


   グレイ量を五まで増やして六日間。やっと、治療が終わる。

 
 竹藪の小道に入ると、祖父母の住む小屋が見えて来た。  「まあ、何事なの?引っ越しみたい」・・・「おうその引っ越しをするとじゃ」・・・「お前の治療ももう終わる頃やから」
 はたちそこそこの娘が出てきて、祖母が抱いた( 水子)の人形を抱き取った。
 そんならわしらは先に去ぬるぞ」。祖母が言う。・・・娘が振り返って、にっこり微笑んだ。
 自分の母だとふっと気付いた。


 

2015年8月31日

読書日記「石牟礼道子全句集 泣きなが原」(石牟礼道子著、藤原書店)

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 4大公害病と言われた 水俣病を告発した「苦海浄土」の著者が、40数年にわたってこつこつと詠んできた全句集がでた。

 著者の句集が生まれるまでには、2人の俳人の努力があったことが、この全句集を読み進むとわかってくる。

祈るべき天とおもえど天の病む


 大分県九重町に生まれた俳人、故・穴井太が、新聞の学芸欄でなにげなく、この句を主見出しに採った石牟礼道子の原稿を見つけたのは、昭和48年の夏だった。

 「水俣病犠牲者たちの、くらやみに棄て去られた魂への鎮魂の文章であった」と穴井は思った。

 地中海のほとりが、ギリシャ古代国家の遺跡であるのと相似て、水俣・不知火の海と空は、現代国家の滅亡の端緒の地として、紺碧の色をいよいよ深くする。たぶんそして、地中海よりは、不知火・有明のはとりは、よりやさしくかれんなたたずまいにちがいない。


 
 そのような意味で、知られなかった東洋の僻村の不知火・有明の海と空の青さをいまこのときに見出して、霊感のおののきを感じるひとびとは、空とか海とか歴史とか、神々などというものは、どこにでもこのようにして、ついいましがたまで在ったのだということに気付くにちがいない。


穴井は、こう思った。

「『神々などというものは、ついいましがたまで在った』という石牟礼道子さんの思いの果てが、やがて断念という万斛(こく)の想いを秘めながら『祈るべき天とおもえど天の病む』という句へ結晶していった」

穴井は、九重高原・涌蓋(わいた)山の山麓にある、通称「泣きなが原」という草原での吟行に石牟礼を誘った。

死におくれ死におくれして彼岸花


三界の火宅も秋ぞ霧の道


死に化粧嫋嫋(じょうじょう)として山すすき


前の世のわれかもしれず薄野にて


そのとき高原は深い霧につつまれ、深い闇につつまれていた。

  穴井は、この後、断わりもせずに作った石牟礼の句集「天」の編集後記に、こう書いた。

「裸足になって歩き出した石牟礼さんを、『泣きなが原』のお地蔵さんが、しきりに手招きしていたようだ」

 2015年2月。女流俳人で、日経俳壇の選者でもある黒田杏子(ももこ)は、東京で開かれた「藤原書店二五周年」会に招かれ、会場に並べられている石牟礼の対談集を求め、会場の一隅で一挙に読了した。

 
 これまで人間が長年かけてつくりあげてきた文明は、結局、金儲けのための文明でしかないようです。いま日本では、金儲けが最高の倫理になっておりますが、それをふり捨てて、もっと人間らしい、人間の魂の絆を大切にする倫理を立て直さなければ、いまの文明の勢いを止めることはできません。


 この後、黒田杏子は、藤原書店の社長に「句集『天』はまぼろしの名句集となっています。石牟礼さんの全句集を出して下さい」と直訴した。二日後、発刊決定の電話があった。

 黒田は、石牟礼の句のなかでも、「「祈るべき天とおもえど天の病む」に並んで、次の句が心に沁む、という。

 
さくらさくらわが不知火はひかり凪


 石牟礼が84歳の誕生日を迎えた、5年前の3月11日。地震と津波が東北を襲った。

 石牟礼は、水俣と同じことが福島でも起こる。「この国は塵芥のように人間を棄てる」と思った。

 
毒死列島身悶えしつつ野辺の花


2015年7月 8日

読書日記「牡蠣とトランク」(畠山重篤著、ワック株式会社刊)


牡蠣とトランク
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著者は、東北・気仙沼の著名な牡蠣養殖漁業家で NPO法人「森は海の恋人」理事長。 このブログでも何度か紹介させてもらっている。

「牡蠣大好き人間」としては、読まずにはいられない。新聞広告を見て申し込んだ翌日にAMAZONから届き、その日の晩に一挙に読んだ。

本は、気仙沼湾にそそぐ大川上流の室根山で昨年行われた「森は海の恋人植樹祭」での 2人の男同士の会話で始まる。
 1人は著者、もう1人はフランスの高級バッグメーカー、 ルイ・ヴィトン社の5代目当主、パトリック・ルイ・ヴイトン氏。

「この木が大きくなると、いいトランクになりますよ」
 「私はいい牡蠣を想像しましたよ」
 「やっぱり」
 二人は顔を見合わせ大きな声で笑った。

トランク(旅行用の大型鞄)は、ルイ・ヴィトン社の創業商品。もともと婦人服用の白木の箱を作る職人であった創業者が独立して作り始めたのが木製の軽いトランクだった。「トランクも牡蠣も、原点は森にある」というわけだ。

50年以上も前、生牡蠣文化の発祥の地であるフランスで、牡蠣が全滅しかけたことがあった。稚貝のウイルス性の病気が発生したのだ。

それを救ったのが、宮城県の養殖業者だった。ミヤギ種のマガキの稚貝を空輸、ローヌ川が注ぐラングドック大河ロワールが注ぐブルターニュなどで養殖された。現在では、フランス産の牡蠣のほとんどはマガキだという。

 

1984年、40歳の著者は、仙台市の「かき研究所」に勉強に来ていたフランスの女性研究者の案内で、ブルターニュの牡蠣産地を訪ねた。

 
干潟に点在するタイドプール (潮だまり) に目をやると、おびただしい数の生きものがうごめいていた。ヤドカリ、カニ、タツノオトシゴ、イソギンチャク、ハゼやカレイの小魚など、子供の頃、我が家の前の干潟で遊び相手であった面々である。思わず涙がこみあげてくるような懐しさを感じた。自分の子供たちにも経験させようと浜に連れ出したとき、三陸の海辺からこうした生きものたちは姿を消していたのだ。
 「ここは、川が健全なのだ」と反射的に閃いた。
 

川沿いのレストランでは、シラスウナギ(ウナギの稚魚)や ジビエ(食用の野生の鳥獣)料理が名物だった。川の上流には、深い森が続いている、という。

小さいとき父に連れられ、キジ、ヤマドリ、ウサギなどの猟に行った。野鳥やウサギなどがいるのは決まって実のなる落葉広葉樹の森であった。その後、国策で森が常緑針葉樹の杉山に変わると、なんにもいなくなつたからである。
 ・・・フランス人はジビュ料理を食べたいがために落葉広葉樹の森を保護してい るのではないか。そこは腐葉土層も深い。大雨が降ってもスポンジ状の腐葉土に浸み込み地下水を滴養する。結果として、川は清流となり川魚も増える。河口域の海では牡蠣、オマールエビ、ヒラメ等の海産物も豊富に捕れるのだ。
 沿岸の海で暮らす漁民は、海のことだけ考えていては駄目なのではないか。
 

その頃、気仙沼の海に「問題が生じていた」。海が汚れて赤潮が発生、牡蠣の生長が悪くなってきていたのだ。

 

大川沿いに歩いてみると、農薬を使う水田には生きものの姿はなく、輸入材に押されて売れなくなった杉山は放置され、乾燥した土が雨に流されて川や海が濁っている。

 

「大川源流の室根の山に落葉広葉樹の森をつくろう」。漁民たちが語らい、室根村の賛同を得た。1989年9月、室根の山頂に大漁旗が翻った。植林運動「森は海の恋人」運動はこうして始まった。子供たちを対象にした体験学習も続けた。室根の村は、農業を環境保全型に切り替えた。

 

「海に青さが戻ってきた。牡蠣の生長は順調になり、秋にはサケの大群が大川に帰ってくるようになり、メバルやウナギも姿を見せるようになった」

 

そんな矢先、2011年3月11日、巨大津波が襲ってきた。

 高台にあった著者の自宅はかろうじて残ったが、牡蠣の養殖施設や工場、船のすべてが津波にのまれた。老人ホームに入所していた母親も助からなかった。

 

海辺から生きものの姿が消えたことも心配だった。「海が死んだのではないか」と疑った。

「森里連環学」を提唱している、京都大学の 森克名誉教授のチームが調査にやって来た。

 

「畠山さん、大丈夫です。牡蠣の餌となる植物プランクトンのキートセロスが、牡蠣が喰いきれないほどいます」
 「今回の津波を冷静に判断すると、被害が大きいのは干潟を埋めた埋立地です。川や背景の森林はほとんど被害がありません。海が撹拝されて養分が海底から浮上してきたところに、森の養分は川を通して安定的に供給されています。海の生き物は戻ってきます。・・・」

 

海の瓦礫が片づき養殖いかだを浮かべれば、家業が続けられると確信した。

 

フランスから支援の申し出が次々にあった。50年前、フランスの牡蠣が絶滅しかかった時、宮城県産の種苗が救ったことへの恩返しだという。

 

ルイ・ヴィトン社から、森と海の恋人運動に支援の申し出のメールが突然、届いた。

 

建物や物品の購入だけでなく、いかだを浮かべる漁場づくりに働く人たちの給料も、ルイ・ヴィトン社は支援の対象にしてくれた。

 

2012年の正月過ぎ、養殖場の跡取りである長男の哲が「牡蠣の筏が沈みそうになっている」と言った。通常は2年かけて生長する牡蠣がわずか半年で出荷できるまでに育ったのだ。「喰いきれないほど餌のプランクトンがいる」おかげだった。



2014年7月28日

読書日記「屋根屋」(村田喜代子著、講談社)



屋根屋
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  この5月の連休にパリとロンドンの街を歩く機会があって、気づいたことがある。「なぜヨーロッパの人達って、こんなに塔が好きなのだろう」

  パリの教会群やエッフエル塔 バスティーユ ヴァンドーム広場の記念塔、 コンコルド広場 オベリスク 凱旋門

  ロンドンでも、 セント・マーティン教会の白い塔や時計台で有名な ビック・ベン ケンジントン・ガーデンズ アルバート記念碑 トラファルガー広場 ネルソン記念柱 ピカデリー・サーカスのエロス像に群がる若者たち。塔の形はそれぞれに違っている・・・。

  旅から帰って、これも老化現象の1つなのだろう。時差ボケが2週間ほども解消できず、明け方まで目がさえて眠れない。

  そんな時に、図書館で借りたのが、この本。なんだか、その時の気分にピッタリ合って一晩で読んでしまった。それからも、なにか手放したくなくて、借入期間の延長、再貸出し、延長を繰り返して、2か月経った今でも、手元にこの本はある。途中で、巻末に載っていた参考資料まで買ってしまった。いつもなら、気に入った本は読んだ後でもAMAZONですぐ買ってしまうのが悪い癖なのだが・・・。

  村田喜代子の作品は、この ブログでもなんどか登場ねがったが、この著書はこれまでのものとは一味違う、なにか飄々とした浮遊感が漂う大人の童話なのだ。

  主人公は、ゴルフ好きの夫と高校生の息子と3人で北九州に住む主婦「私」。

  ある日、雨漏りを直しに来た永瀬という「屋根屋」の男から不思議なことを聞く。

  以前に病気になり、医者に勧められて夢日記をつけるようになってから、自由に自分の見たい夢を見られるようになった、という。

  それを聞いて「私」はとんでもないことを口に出す。「私、屋根の夢がみたいんです」

  「奥さんが、上手に見ることが出来るごとなったら、私がそのうち素晴らしか所へ案内はしましょう」「奥さんがびっくりして溜息ばつくような、すごか屋根のある所です」

  「私」は自宅のベッドで夫と一緒に寝て、永瀬は自分の工務店の布団のなかにいても、同じ夢の場所に連れていける、という。

  ただ、それにはいくつかの手順が必要だ。

 
 1つは、夢を見る「レム睡眠」の直後に目が覚めるように、睡眠時間を調整すること。
 2つ目は、近い場所なら行きたい場所に先に行って体験し、遠いところや現実に行けない場所なら写真やインターネットのデータで想像させ「私」がうまく意識の鎖を解いて夢の場所に到着したら、・・・永瀬は無意識のさらにもっと深い所の、集合的無意識まで降りて行き、・・・「私」の夢に入り込む。


  永瀬は最初にまず、自宅に近い福岡の「真言宗東経寺」を見に行くように言う。

 
 東経寺の大屋根は明るい昼間の外光に背くように、ずっしり重くうずくまっている。ただ軒が反り返っているので、この重量を載せて西方浄土へかどこか、不意にぐらっと飛び立ちそうな感じもする。


   
 ベッドに入って目を瞑ると、昔、プールへ潜ったときの深い呼吸を思い出した。・・・あの薄緑色のゆらゆらした無重力の世界へ潜って行く。・・・下の方に黒いものが見えて来た。・・・昨日、自分で行った東経寺の本堂の大屋根に違いない。・・・私はその屋根に軽く着地した。・・・そしていつもの作業着で遅れて飛んできた永瀬と屋根の上で会う。


 
 「これは私の夢ですか?」・・・「何度も言いますが、これは奥さんの夢です。しかし、同時に私の夢でもあるのですよ」「ということは共同の夢ということ?」「厳密に言うと、違うですたい」・・・「それじゃ、この夢は一つにドッキングした夢なの?」「いや別々です」・・・「それなら、あなたの見る夢と、私の見る夢は少し違うんですか?・・・」「まるきり同じです」


  別々に、同じ夢を見るのにも、すこしずつ慣れてくる。奈良のお寺の屋根も、法隆寺の五重塔も自由自在。

  夢のなかで「私」の夢のことなどなにも知らない夫が金茶の大虎となって吠えかかってきたり、10年前に癌で死んだ屋根屋の女房がオレンジ色の火の玉となって襲ってきたりする"おまけ"までつく。

  いよいよ本番。夢のなかの飛行機でフランスに飛び、いつものように水のなからパリの空港に到着する。

   ノートルダム寺院の鍾塔を登る。

 
 「こんな大きな建物なのに、何でここは狭いのかしら」・・・「大聖堂には屋上はなかでしょうが。屋根の上にあるのはもう神の国だけです。つまり教会は屋根の天辺に登る用事はなかとですよ」


  次は黒い白鳥になって、パリから南西に80キロ離れた シャルトル大聖堂まで。

 
 神の砦でありながら、何て暗鬱な、禍々しい、巨大な建造物。長すぎる歳月にすっかり黒ずんだ石造りは、もう現代に使い途がないほどでか過ぎて、天から堕ちて来た地獄の砦のように見える。そこから磁力がじんじんと発せられる。


  永瀬が告白する。「私と一緒にここに残りませんか。もしよかったら二人で残って、ここでずっと暮らさんですか」

 今度は黒鳥になるのをやめて、列車でハムとビールを楽しみながら アミアン大聖堂に行く。

 
 私たちは大きな石の建造物の屋根にいる。見渡す限り堅固な石の城砦のようだ。人間は自分の身体だけでは物足らず、こんな途轍もない建物まで造った。高く大きく堅固に造れば造るほど、建物には執着がこびりついてくるのではないか。執着が増大するのではないか。


  帰りは、成層圏まで登り、ヒラヤマの峰々をのぞく。

 
 「永瀬さん。ここに瓦、葺きたくない?」・・・「こうなるともう、自然にまかせるしかなかですなあ」・・・「手も足も出まっせん」


  ▽著者が巻末に載せている参考資料のなかで、買った本
  ※「ゴシックとはなにか 大聖堂の精神史」( 酒井健著、ちくま学芸文庫)
ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)
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  ※「塔とは何か」(林章著、ウエッジ選書)
塔とは何か―建てる、見る、昇る (ウェッジ選書)
林 章
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  ▽ (付記)
聖五月外つ国の塔天拓く


     聖五月というのは、カトリックでは「マリア月」とも言うが、ちゃんと歳時記にも採用されている季語である。

  この4月、 「聖書と俳句の会」を知り、72歳で初めて俳句の世界をのぞく機会に恵まれた。上記の句は、パリ、ロンドンから帰った直後の句会に出して見事に落選、講師の酒井湧水師の添削を受けたものだ。

  添削のおかげでゴツゴツした散文的文章が、韻をふくんだリズム感のある句に生まれ変わった。

  「天拓く」は自分の最初の句のままだが「天めざす」と言う方が気分に合っているような気もする。しかし、平凡すぎるか。難しい・・・。

写真集:パリ・ロンドンの塔
パリ・バスティーユ広場の記念塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・ヴァンドール広場の記念塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・サンジェルマン・デ・フレ教会;クリックすると大きな写真になります。 パリ・凱旋門;クリックすると大きな写真になります。
パリ・バスティーユ広場の記念塔 パリ・ヴァンドール広場の記念塔 パリ・サンジェルマン・デ・フレ教会 パリ・凱旋門
パリの教会(名称不明);クリックすると大きな写真になります。 パリの教会(名称不明);クリックすると大きな写真になります。 パリ・オランジェリー美術館の塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・景観地区の谷間のゴシック教会;クリックすると大きな写真になります。
パリの教会(名称不明) パリの教会(名称不明) パリ・オランジェリー美術館の塔 パリ・景観地区の谷間のゴシック教会
パリ・ノートルダム寺院(鐘塔とゴシック塔);クリックすると大きな写真になります。 パリ・コンコルド広場のオベリスク(遠くに見えるのはエッフェル塔);クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・アルバート記念碑;クリックすると大きな写真になります。 ロンドンのビック・ベン;クリックすると大きな写真になります。
パリ・ノートルダム寺院(鐘塔とゴシック塔) パリ・コンコルド広場のオベリスク(遠くに見えるのはエッフェル塔) ロンドン・アルバート記念碑 ロンドンのビック・ベン
ロンドン・ネルソン記念柱;クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・トラファルガー広場のライオン像の向こうにセント・マーティン教会;クリックすると大きな写真になります。 ロンドンの教会午前10時(塔の下でホームレスの人達が熟睡中);クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・ピカデリーサーカスのエロス像;クリックすると大きな写真になります。
ロンドン・ネルソン記念柱 ロンドン・トラファルガー広場のライオン像の向こうにセント・マーティン教会 ロンドンの教会午前10時(塔の下でホームレスの人達が熟睡中) ロンドン・ピカデリーサーカスのエロス像


2014年5月22日

 ロンドン・パリ紀行①「大英博物館㊤・ライオン狩り壁画と大洪水粘土板」2014年4月26日―5月6日



 この5月の連休、若い友人Yさん夫妻に連れられ同行4人でロンドン、パリに出かけた。事前勉強の半分も体験できなかったが、数々の名作や遺産と出会うすばらしい旅となった。

 行った順序は逆になるのだが、大英博物館から始めたい。「大英」とはおおげさな名前だが、正式名称は「British Museum」。日本がかつて自国を「大日本帝国」と尊大に自称していた時期に日英同盟で親しかったこの国を「大英帝国」と呼んだのが、きっかけらしい。

 いつも若者たちがたむろしていたロンドンの繁華街、ピカデリー・サーカスから地下鉄で3駅目の「ホルボーン」駅を降り、比較的細い通りを右に抜けて5分もかからないうちに、古今の文化遺産を集めた世界最大の博物館が見えてきた。ギリシャ・パルテノン神殿に似せた外装は、いささか意図的?に見える。次回にふれてみたい。

 午前中は同行Mと回り、午後からYさん夫妻と合流して一緒に2時間ツアーに参加する予定だったが、それでも1日ではとても全部は回り切れない。事前にテーマを①アッシリアのライオン狩り壁画など古代メソポタニア文明遺産②アテネ・パルテノン神殿の彫刻群、の2つに絞ることにしていた。

 入口を入ると、白い円筒形の図書室を中心にガラス天井に覆われた光あふれるグランド・ギャラリーに出た。2000年に改造された明るい空間だ。 なんと、創館以来入場料は無料なのだが「5ポンド以上のご協力を」と書かれた透明の募金箱なかに各国通貨やコインが見え、簡単な館内地図を積んだ箱にも「1ポンドの寄付を」とあった。

 左にぐるりと回った入口を入ってすぐの「エジプト室」の中央に、ガラスケースに入った同館最大の人気展示物 「ロゼッタ・ストーン」が展示されていた。周りは、2重、3重の参観者。エジプトでフランス軍が発見したが、その後条約によって仏軍を破った英国に所有権が移り、あのナポレオンを地団駄踏んでくやしがらせたという、いわくつきの遺産だ。長年、エジプトからも返還要求が出ていることは、当然のことだろう。

 それをチラリとみて、左に進んだ第6室入り口両側に、4メートルを超える「アッシリアの守護獣神像」が1対デンと据えられていた。頭は人間の顔をした神、身体は翼を持つ牝牛だという。斜め後ろから見ると5本脚。所々に細かいヒビが入っているが、買い取った(英国人)が解体して運んだキズ跡らしい。
   正面に見えるのは「バラワートの門」と呼ばれる青銅帯で補強された杉材の門扉(紀元前9世紀)のレプリカ。

 その隣10室aの両面の壁には「アッシュール・バニパール王の獅子狩り(紀元前7世紀)」をテーマにしたレリーフ(浮き彫り壁画)が次々と掲示されており、長い歴史を越えて生々としたエネルギーで迫ってくる。

 舞台は、長い槍と弓に矢をつないだ兵士の長い2重の列で囲まれた王の狩猟場だ。そこにライオンが放たれ、王自らが戦車で乗り込み、矢を放ち、槍を投げてライオンを仕留める。  戦車に襲いかかったものの、王のナイフと兵士の槍にのど元を突かれ頭を天に向ける雄ライオン。3本の矢を受け瀕死の雄ライオン、その後ろに同じように矢を3本つけたまま必至で雄に1歩でも近づこうともがく雌ライオン。それらの表情はなぜか王や兵士以上に生々しく、ライオンや戦車の馬の筋肉表現がすばらしい。

 ロンドンへの機中で読んだ「シュメル―人類最古の文明」(小林登志子著、中公文庫)には、こう書かれていた。

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)
小林 登志子
中央公論新社
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 当時、アッシリアにはライオンがいた。ライオン狩りは武人としての訓練、スポーツの要素を持つとともに宗教的儀式だった。ライオンが「魔」を象徴し、その「魔」を仕留めることで王が宇宙の秩序を整えるという意味があったという。


 この本を読むまで気づかなかったが、ライオン狩りをするバニバル王の腰には2本の葦ペンがはさんである。

 アッシリアやシュメール文明を生んだ古代メソポタニア(現在のイラク)を囲むチグリス ユーフラテス川畔には太さ2,3センチもある葦が自生していた、という。

この葦ペンを使って古代メソポタニア人は、世界最古の文字楔形文字を生み、粘土板に様々な記録を書きつけた。

 文武両道の人であったアッシュール・バニパール王は、多くの粘土板記録を集め、 アッシュール・バニパールの図書館と呼ばれる世界最古の図書館まで作ってしまった。

 19世紀にその遺物の一部が発見され、大英博物館は、2002年からイラン・モスル大学と協力し、土に埋もれた粘土板遺産を発掘し、そのほとんど3万点以上が同博物館に所蔵されている、という。

 そのなかでも見逃せない1品「洪水タブレット」があるという、ので2階北側55室に向かった。古代メソポタミアの 「大洪水伝説」を記録したもの、という。

 縦横10数センチの粘土板の表裏にびっしりと楔形文字が横書きされている。古代メソポタミアの文学作品 「ギルガメッシュ叙事詩」第11章の写本である。

 ウトナピシュティムは、神々が洪水を起したときの話をする。エア神の説明により、ウトナピシュティムは船をつくり、自分と自分の家族、船大工、全ての動物を乗船させる。 6日間の嵐の後に人間は粘土になる。ウトナピシュティムの船はニシル山の頂上に着地。 その7日後、ウトナピシュティムは、鳩、ツバメ、カラスを放つ。ウトナピシュティムは船を開け、乗船者を解放した後、神に生け贄を捧げる。エンリル神はウトナピシュティムに永遠の命を与え、ウトナピシュティムは2つの川の合流地点に住む。


 なんと、 旧約聖書に書かれた「ノアの箱舟」の源流は、紀元前3000年近い前に描かれた作品にあったのだ。

 55室の西側にある56室は、シュメール・ ウル期の王墓から発掘された「牡山羊の像」、世界最古の「ゲーム盤」などの逸品が並んでいる。期待していた 「ウルのスタンダード」(旗章と訳されているが、本当は楽器の共鳴板らしい)という小さなモザイクの箱は「テンンポラリー リムーブド」(一時的に移動しました)という表示と一緒に、両面を写真で映した紙製の模型だけが展示されていた。修復のためらしい。

 これらの遺産が発掘された王墓は、シュメール文明では 「ジッグラト」と呼ばれるらしい。焼き煉瓦で天に伸びる何層もの階段状の塔を築き、その上部に神殿を設けてシュメールの神をまつった、という。

 まさに、旧約聖書に書かれている「バベルの塔」のルーツとしか思えない。

 その遺跡の多くが、 今回のイラク戦争で破壊された、と聞く。「多くは、アメリカ軍の行為」と、あるWEBページは批判する。

午後の館内ツアーの最後ごろ。ツアーガイドのSさんが2階のエジプト室を出た時に、こんなことをつぶやいた。

 「旧約聖書にある 出エジプト記で、モーゼが海を切り開いたという奇跡。これは、地中海の サントリニ島の火山爆発による事実、という説もあるのです」

長い年月をかけて語り、書き続けられてきたのであろう旧約聖書。それを生んだ土壌、記述のルーツをこの大英博物館で垣間見ることなど、大英博物館来るまで想像もしていなかった。

新約聖書の神と比べ、あまりに人に厳しい旧約の神が、少し身近に感じられるような気がしてきた。

 午後5:30の閉館直前に、地下のセルフサービスのカフェテリアにはいった。紅茶と一緒に、スコーン クロテッドクリームとイチゴジャムをたっぷりつけて食べた。「まずい」と評判のイギリスの"おいしい"味だった。

写真集:ロンドン大英博物館など

開館直後の大英博物館;クリックすると大きな写真になります。 グランド・ギャラリーのショップ付近;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアの守護獣神像;クリックすると大きな写真になります。 P1040351.JPG
開館直後の大英博物館 グランド・ギャラリーのショップ付近 アッシリアの守護獣神像 アッシリアノライオン狩りレリーフ①
アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 王墓で発掘された「牝山羊の像;クリックすると大きな写真になります。
アッシリアノライオン狩りレリーフ② アッシリアノライオン狩りレリーフ③ アッシリアノライオン狩りレリーフ④ アッシリアノライオン狩りレリーフ⑤
王墓で見つかった「牡山羊の像」;クリックすると大きな写真になります。 「ウルのスタンダード」の模型;クリックすると大きな写真になります。 世界最古のゲーム盤;クリックすると大きな写真になります。 元・図書館のグランド・コート;クリックすると大きな写真になります。
王墓で見つかった「牡山羊の像」 「ウルのスタンダード」の模型 世界最古のゲーム盤 元・図書館のグランド・コート。「ロゼッタ・ストーン」のレプリカがあり、手でさわれる