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2018年12月 4日

紅葉紀行「栃木・那須高原、福島・西郷、南会津、白河」

今年は、東北の紅葉を訪ねてみようかと、ANAで期限が切れかけていたマイレージで福島までの飛行機を確保した。



 【2018年11月3日(土)】

 同行の友人Mの仕事の都合で、前日に福島空港に着いたのが午後5時前。迎えの車で宿に着いたらすっかり日が暮れていた。さっそく飛び込んだ露天風呂はさらさらとした単純硫黄泉。西宮では望みようもない満点の星が迎えてくれた。

 午前10時、観光タクシーで甲子(かし)高原を東上、紅葉の名所、雪割橋へ。

 50メートルはあるという深い阿武隈渓谷にかけられており、足がすくむ。対岸の紅葉撮影もそこそこに、橋のできるだけ真ん中を急いで渡りきって息をついた。
 対岸の由井ヶ原を開拓するため、最初は吊り梯子で荷物を上げ下げし、昭和21年に吊り橋になった。今でも、普通車がやっと離合できる鉄橋だが、すぐ横でアーチ型の大型橋の工事が進んでいる。近くの陸上自衛隊演習場への輸送のために、かなりの補助金が出たらしい。

 しかし、その開拓地も離農が進み、近くの展望所から見ると放置された農地や、牧場施設が目立つ。展望所に駐車したワゴン車で農家の夫婦が手作りのアケビのつるで編んだかごを売っていた。1万円と聞いて手がでなかったが、車の横に置かれたガマズミの赤い実を写真に撮らせてもらった。
 橋を渡ったところにあった売店で、紅葉したハゼの苗木を買った。こちらは600円。「4メートルほどにはなりますよ」。本当?

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 甲子道路を左折、県道290号線(那須甲子道路)へ。那須連山の山並みを右に見ながら、どんどん高度を上げていく。那須岳、朝日岳などの那須連山はほとんど落葉しているのに、左側の高原は紅葉まっさかり。そこへ、那須連山から吹き下ろす風が木の葉を散らし、落ち葉を舞い上げる。際だった風土の差がここの特色らしい。
 「いい時期に来ましたね」。タクシーの運転手が何度も言った。

 冬めける山はにび色里は黄み


 那須平成の森に着いた。宿から1時間20分ほどかかっている。福島から隣の栃木県に入っている。ここは、皇室の那須御用邸の約半分、560ヘクタールが環境庁の所管になって一般に開放され、2011年に開園された。

 入り口のフイールドセンター以外は、森のなかにトイレもなく、ブナ、ミズナラ、クマシデ、ホオノキなどの広葉樹が自然のまま残されている。そのほとんどは、ほぼ落葉を終えていたが、この森の特色は、カエデ類の多いこと。赤いイロハモミジ、ハウチワカエデ、コミネカエデ、黄色のエンコウカエデ、カジカエデ、ヒトツカエデが枯木と落葉に色を添えている。

   メインの道は、石ころがゴロゴロして歩きにくかったが、少し脇の回遊道路に入ると、落葉の踏み心地がしっとりと心地よい。途中のゲートに釣ってあったツキノワグマ避けの鐘を鳴らしてみる。
 道のわきの倒木を削って、小さな虫眼鏡でのぞき込んでいる若い2人連れがいた。アメーバーのように繁殖して微生物を食べる粘菌(変形菌)を調べている、という。自然の森の奥深さをかいま見た。

 落葉降り森は空へと浮かぶよう


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 甲子道路に戻り、南会津の塔のへつりへ。へつりとは、浸食と風化でできた断崖のこと。山かんむりに弗みたいな難しい字を書く。切り立った崖に生えた木々が見事に紅葉している。国の天然記念物だそうだ。

 へつりの上の駐車場にある売店で、きのこがたっぷり入ったみそ汁と喜多方ラーメンをただで食べさせてくれる。木のテーブルに置いてあるきのこのつくだ煮や煮豆も無料。どう採算を合わすのか。不思議な"会津商法"である。

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 宿に帰る途中の甲子温泉の紅葉も見頃だった。冬も営業しているが、街道からの下り道が急なのでタクシーが来れず歩かなければならないらしい。2泊目はこの温泉でと思っていたのだが、今回は断念した。

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    【2018年11月4日(日)】

 正午のチェックアウトまで温泉などを楽しみ、近くの白河市・南湖公園に出かけた。
 江戸時代の白川藩主で老中だった松平定信が、庶民とともに楽しむ「士民共楽」の思想で作った日本最古の公園という。国の史跡・名勝に指定されている。

 だんごが名物の茶屋の近くに、回遊式の日本庭園、翠楽苑がある。落葉が目立った平成の森などに比べて平地にあるため、まさに紅葉まっさかり。
 入口の門扉にかけられたツルウメモドキのリースや園内の茶室玄関にある秋の収穫を盛り込んだオブジェが心を和ませる。

 散りてなほ苔を染めゆく紅葉かな


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 福島空港には国際チャーター便が飛んでおり、園内は台湾の団体ツアー客でにぎわっていた。四阿で休んでいた夫婦と思われる中年の2人に話しかけてみた。台湾にも紅葉の名所はあるそうだが、日本の庭園と紅葉は「很漂亮(とても美しい)」と。

 紅葉に誘われて忘れそうになったが、白河市は東北大震災・原発事故の被災地でもある。公園の入り口に、放射線量を示す看板があった。

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 タクシーの運転手は、がけ崩れで20歳前後の姉妹や老人ホームの人たちなど十数人が死亡、他県に移住した子供たちがいじめにあったと話す。

 白川市の震災にふれたホームページによると、農産物などへの風評被害はいまだに消えないらしい。

 鎮魂の土地よ静まれつわの花


2018年10月31日

日々逍遙「小磯良平展」「武庫川・コスモス園」など

このブログが、管理システムの不調で約1ヶ月閲覧だけでなく、新しい記事の掲載もできなくなった(詳しくは、管理者n.shuheiさんの 10月22日付けブログで)。
 管理者の大変な努力で10月末には復旧したが、ブログ右側の「過去記事タイトルリスト」を見ると、11年もの読書、紀行記録が自分にとって貴重な財産になっていることに改めて気付いた。

 あまり好きな言葉ではないが、 "終活" の一環にもなるかと「日々逍遙」というコーナーも作ってみることにした。

2018年10月28日(日)
 阪急夙川駅で、昔テニスクラブで一緒だったYさんに20年ぶりにばったり。サングラスを外して見せた顔には、私同様それなりの年輪が刻まれていたが、テニスは相変わらず続けているという。2007年に中国にご一緒したKさんも同じテニスクラブらしいが、テニスを日課のようにしていたMさんは「もう、しんどくなった」と最近クラブを辞めたらしい。これも"終活"かな・・・と。

 待ち合わせた友人Mとポートアイランドの神戸市立小磯記念美術館へ。特別展「没後30年 小磯良平展 西洋への憧れと挑戦」が開催中で、全国の美術館から集められた代表作や新発見、初公開作など約130点が展示されている。

 見覚えのある兵庫県立美術館所蔵の「T嬢の像」や東京藝術大学が貸し出した「裁縫女」が、戦前の中産階級の生活を鮮やかに描きだして秀逸だ。

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 珍しいことに「娘子関を征く」「カリジャティ会見図」(いずれも国立近代美術館・無期貸与作品)など、かなりの戦争絵画が展示されていた。

 ちょうど、京都国立近代美術館で「没後50年展」が開かれている藤田嗣治は、多くの戦争絵画を描いたことへの非難に嫌気をさしてフランスに戻って、死ぬまで日本に帰らなかったということだ。小磯良平も自分の画集に戦争絵画を載せることを非常に嫌ったという。東京芸術大学教授として活躍した戦後の生活の中で戦争責任の声とどう決別したのだろうか。

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 戦後に描かれた「働く人びと」(小磯美術館寄託)という大作は、同じ油彩ながら戦前の作品とがらりと筆使いが違っている。なぜだろうか。

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 東京・赤坂の迎賓に飾られている「絵画」「音楽」の2作は、やはり小磯の迫力が満溢 した作品だ。この展覧会では、小さなカラー模造図が展示されているだけだったが、やはり本物が見たい、と思った。

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  【2018年10月16日(火)
 武庫川左岸(尼崎市)の「武庫川コスモス園」に出かけてみた。
 13日に開園したばかりで、まだ咲きはじめといった感じだが、7つの区画にピンク、白、黄色のコスモス約550万本が今年も元気に咲きそろおうとしている。昨年は、台風の被害を受けてほぼ全滅しており、2年ぶりに復活した風景だ。
 ここは、もともと旧西国街道を結ぶ「髭の渡し」と呼ばれる渡し場があったらしい。サイクリングロードなどが整備されている右岸・西宮市側に比べ、左岸は未整備なところが多く、ここもゴミの不当投棄で荒れていた。コスモスの名所に変身させた地元市民グループの努力をありがたく思う。

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2018年10月8日(月)
 久しぶりに、西宮市立北山緑化植物園に出かけた。まだ紅葉には早かったが、シューメイギク、コムラサキ、ミズヒキなどの秋の花が咲きそろっている。  カツラの木の下のベンチで休憩。カツラの大木を訪ねた鉢伏への旅を思い出した。
 
 秋晴れへ伸びる桂や幹太し


 まだ青いがカリンの実がたわわに実っている。自宅にカリン酒をつけているのを思い出し、帰って飲んでみた。澄んだ琥珀色をした、なかなかの出来だった。張られたレッテルに「2016年11月作成」とある。たしか、神戸女学院のシェクスピア庭園で収穫した実を漬けたのだと思う。

下のサムネイルをクリックすると大きな写真になります。
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2018年10月27日(土)
 2週間に1回の俳句講座(講師:池田雅かず「ホトトギス同人」、於・神戸六甲道勤労市民センター)の日。
 最初に講師が「鳴け捨てし身のひらひらと木瓜の花」という句を黒板に書き、主席者の評価を聞いた。「良い句」と思った人は1人、私も含めて残り20人弱は「良くない」に手を挙げた。

 実はこの句は、AI(人工知能)の作、だという。
 北海道大学の川村教授が、過去の俳句5万句をAIに詠み込ませて開発したソフト「一茶君」に「鳴」「木瓜の花」という兼題を与えて自動生成させたらしい。
 友人の1人は「なかなかいい句だ」と、高い評価をした。はたしてAIは、将棋、碁に続いて俳句でも勝利するだろうか。

2018年6月 8日

読書日記「完本 春の城」(石牟礼道子著、藤原書店、2017年刊)


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 名著「苦海浄土」著者が10数年をかけて「島原の乱」を取材した旧題「アニマの島」(1999年刊)が、取材紀行やインタビュー、解説などを入れた完全版としてよみがえった。900ページを超える大作である。

 島原の乱は、江戸時代初期に起きた、過去最大の一揆だ。歴史的に「藩の圧政に苦しんだ百姓、浪人が起こした」一揆という見方と「迫害に耐えかねたキリシタンが起こした」という説があるが、著者が描くのは飢饉と圧政に苦しみながらも信仰を守ろうとするキリシタンが主役である。

 益田四郎時貞(天草四郎)が15歳の元服を迎えた日。四郎は、父甚兵衛らにある覚悟を打ち明けた。

 
「イエズス様の踏まれし道を踏まねばなりませぬ。・・・わたくしには、山野や町を灼きつくす炎が見えまする。その劫火をくぐらねば、真実の信心の国に到ることはできぬのではござりますまいか」
 二人の大人は、今何を聞いたかといった表情で黙りこんだ。ややあって、甚兵衛が遠慮がちに問うた。
 「そなた、その劫火とやらにわが身を焼くつもりか」
 少年は固くまなこを閉じ、一筋の涙が頼を伝った。


   父に言われて、ある村を訪ねた時、人々の心を統べる気持ちだったのだろうか。四郎は、留学先の長崎で学んだ奇跡(魔術)を行った。

 
静まり返っている一団の中で四郎はひざまずき、人には聞きとれぬほどな祈りの言葉を口のうちに唱えながらゆっくり立ち上ると、大切そうに皿を抱えている女童の前に立った。それから胸の十字架を外すと掌に持った。瞬きもせぬさまざまの眸がその手の動きに集中した。指の間から光が放射した。長く細いがこの世のものではないように雅びやかに動いて、十字架は女童の額にしばらく当てられ、静かに皿の上におろされた。
 子糠雨を降らせていた雲間がその時晴れ、陽がさした。その瞬間、幼女の両手に抱えられた白い皿の上に、あざやかな朱(あけ)の一点が浮き出てみんなの目を射た。


 
よく見ると早咲きの柘榴の花が一輪、ふるえを帯びながら載っていた。女童が持っていたのは、一家心中を図った家の男の子・次郎吉が使っていた皿だった。・・・。

 四郎は幼児の耳にそっと囁いた。「次郎やんの魂ぞ、アニマ(霊魂)ぞ。落とすなや」。さらに、6人の子らの掌に一輪ずつ花を載せた。


 四郎の唱えるオラショに和しながら、人々はかって覚えたことのない陶酔に引き込まれた。人々はいつしか四郎に向かって手を合わせていた。

 長雨と日照りが交互に起き、これまでにない凶作が人々を苦しめ続けた。

「わしは一揆する決心にござり申す」
 甚兵衛はひたと二人の目(まなこ)に見入った。伝兵衛父子は喰い入るように甚兵衛を見返している。
 「領主どもをこの天草の地から追い払い、切支丹の国を樹てる所存でござる。デウスの御旗のもと神の軍勢をあらわして、領主どもの米蔵を破り、主の栄光をこの地にもたらす。・・・長い間の切支丹の盟約が試される時が来たと存ずる。わしも切支丹のはしくれ、万民のために十字架に登られし御主の、世にたぐいなき勇猛心を鑑として、全身くまなくおのれを晒し、仁王立ちする覚悟にござり申す」


   
伝兵衛はすりよって甚兵衛の手をつかんだ。
 「甚兵衛どの、獄門、はりつけは覚悟の上じゃ。生くるも死ぬるも一緒ぞ」・・・
 甚兵衛の脳裏を一瞬、来し方のさまざまがよぎった。・・・
 今にしてやっと得心がいった気がする。武士であるとは義に生きるということであったのだ。・・・たとえ行く手に槍ぶすまが待っていようとも、御主キリシト様のごとく、同胞の危難に赴くのが義の道である。


 原城に籠城した四郎の軍勢に、幕府の征討軍が猛攻撃をかけた。

 
十字を切ろうとしている四郎の肩をその時弾丸が撃ち抜いた。おなみがかけ寄り、蒼白になって傷口を縛りにかかった。・・・それは炎上する春の城に浮かんだ一幅の聖母子像であった。・・・。
 闇に沈んでいく城内では、炎上する建物の中に入って次々と自決を遂げる女たちの姿が照らし出された。天も地も静まりかえるような情景であった。


 この大作を書こうと思ったきっかけについて、著者は連載した地元紙などのインタビューに、こう答えている。

 
根っこに水俣病にかかわった時の体験があります。昭和四十六年、チッソ本社に座り込んだ時、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではないかと感じました。
 機動隊に囲まれることもあったし、チッソ幹部に水銀を飲めと言おうという話しも出ていた。もし相手に飲ませるなら自分も飲まなければという思いもあって命がけだったけど、怖くはなかった。今振り返ると、シーンと静まり返った気持ちに支配されていたような気がします。それで原城の人たちも同じ気持ちでなかったかと。(一九九八年一月三日、熊本日日新聞)


 「自分も飲もう」と死を覚悟した気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々の思いに重なったのだろうか。

 「島原の乱」の主戦場となった原城跡は、近く世界遺産と認定されることが決まった 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つだが、その城跡には「島原の乱」の遺産が眠っている。

 このブログにも書いたが、「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、)という本のなかで、著者は、3万人をこえる「島原の乱」の犠牲者が、発掘もされずに眠っている現状を厳しく糾弾している。

 それは、水俣病に続いて島原の乱の犠牲者を鎮魂しようとした石牟礼道子と同じ視線のような気がする。

2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

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② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
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⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
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⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2016年5月26日

 展覧会紀行「日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展」(於・ 国立西洋美術館、2016年5月21日)



   日本を代表する聖書学者である 和田幹男神父に引率された巡礼ツアーで、ローマの街を回り カラヴァッジョの作品に魅了されて、もう10年になる。

 今回、日本に来たのは接したことがなかった作品ばかりだった。ぜひ見たいと思い、世界遺産への登録が確実になった ル・コルビュジェ作の 国立西洋美術館に出かけてみた。

 上野のお山は、東京都立美術館で「伊藤若冲展」という待ち時間3時間半というばけものみたいな催しがあることもあって、週末の金曜日というのにごった返していた。

 幸い西洋美術館には、約30分並んで入場できた。

 一番、観客の目を惹きつけているのが、「法悦の マグダラのマリア」(1606年、個人蔵)だ。長年、この作品が本当にカラヴァッジョ作であるかどうかが専門家の間で議論されてきたが、ロベルト・ロンギ財団理事長でカラヴァッジョ研究の第一人者であるミーナ・グレゴーリ女史から本物であるというお墨付きが出て、この展覧会が世界初公開となった。

法悦のマグダラのマリア
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 所有者は「ヨーロッパのある一族の私的コレクションのひとつ」としか明かされていないから、この作品を見られるのは、これが最初で最後かもしれない。

 グレゴーリ女史が「真作」と確定した根拠は、第一に、キャンバスの裏にあるチラシに1600年代特有の書法で書かれた署名。第二に、その色使いや手法。「マグダラのマリア」は頭を後方にそらし、その眼は半閉じ状態で、口はわずかに開いている。両肩をのぞかせ、両手を組み、髪の毛は乱れている。服装は白のワンピースに、カラヴァッジョがいつも使う赤の絵具のマント。

 作品をじっと見てみると、右の眼から一滴の涙が流れ落ちようとしており、唇を半開きにしており「法悦」というより、まさに死を迎える寸前の「悔恨」の表情に見えた。

 カラヴァッジョが殺人を犯してローマを追われ、逃避行の末に死んだ時、荷物のなかに残っていた絵画3点のうち1つがこの作品だった。

 最近、マグダラのマリアについての本を読んだり、講演を聞く機会が何度かあった。

 それによると、これまで娼婦としてさげすまれてきたマグダラのマリアは、実はキリストの最後の受難に勇気をもって見届けた聖女で会った、という考えが出てきている、という。

 カラヴァッジョが現代に生きていたら、別のマグダラのマリア像を描くかもしれない。

   もう一つ、どうしても見たかったのが、「エマオの晩餐」(1606年、ミラノ・ブレラ絵画館)だった。

エマオの晩餐 -1
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 新約聖書のルカ福音書24章13-31によると「イエスが十字架につけられた3日後、2人の弟子がエルサレルからエマオの街に向かって歩いている時、イエスが現れたが、2人にはイエスと分からなかった。一緒に宿に泊まり、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂き、2人に渡した。その時、2人はやっとイエスと分かったが、その姿は見えなくなった」

 実はカラヴァッジョは、「エマオの晩餐」(1606年、ロンドン・ナショナルギャラリー)をもう1枚描いている。イエスはミラノのものよりずっと若く描かれ、光と影のコントラストも明快で明るい。

エマオの晩餐 -2
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 今回の展覧会に出された「果物籠を持つ少年」(1593-94年、ローマ・ボルゲーゼ美術館)や「バッカス」(1597-98頃、フレンツエ・ウフィツイ美術館)に見られる、光と影のなかに浮かびあがる躍動感が印象的だ。

果物籠を持つ少年                 バッカス
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 しかし、ミラノの「エマオの晩餐」は、暗い闇が広がる中に、イエスの静謐な顔だけが柔らかい光のなかに浮かびあがる。

 展覧会のカタログでは「消えた後になってはじめてキリストが『心の目』によって認識できたことが示されている」と、解説されている。

 このほかにも、まさしくカラヴァッジョしか描けなかったであろう多くの作品を堪能できる。

 「エッケ・ホモ」(1605年頃、ジェノヴァ・ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮)は、ヨハネ福音書19章5-7の一節から描かれた。

エッケ・ホモ
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 右側の老人、ピラトは大声で叫ぶ。「この人を見よ(エッケ・ホモ)・・・私はこの男に罪を見いだせない」。しかし、民衆はさらに叫ぶ「十字架につけろ。十字架につけろ」
 イエスは、すでに茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せかけられようとしている。しばられたイエスが持つ、竹の棒はなんだろうか。

 「洗礼者聖ヨハネ」(1602年、ローマ・コルシーニ宮国立古典美術館)は、長年、その"帰属"について論議があった作品。漆黒の闇のなかに、柔らかな光に包まれた若い肉体が浮かび上がる。憂いを帯びた表情は、聖職者で長年会わなかった弟を模したものともいわれる。

洗礼者聖ヨハネ
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 「女占い師」(1597年、ローマ・カピトリーノ絵画館)は、2年前にパリのルーブル美術館で見た同じ名前の作品とポーズはそっくりだが、衣装や背景が異なっている。モデルも違うらしい。

女占い師 -1
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女占い師 -2
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   「トカゲに噛まれる少年」や「ナルキッソス」(1599年頃、ローマ・バルベリーニ宮)国立古典美術館)、「メドウ―サ」(1597-98年頃、個人蔵)など、カラヴァッジョ・ワールドをたっぷりと堪能できた。

トカゲに噛まれる少年            ナルキッソス           メドウ―サ
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 今回の展覧会には、カラヴァジェスキと呼ばれるカラヴァッジョの画法を模倣、継承した同時代、次世代の画家の作品も多く展示されている。

 なんと、そのなかに ラ・トウ―ルの作品を見つけたのには驚いた。

 ラ・トウ―ルのことは、この ブログでもふれたが、パリ・ルーブル美術館の学芸員が、何世紀の忘れられていたこの作家を再発見した。

 今回の展覧会では、「聖トマス」(1615-24年頃、東京・国立西洋美術館)と「煙草を吸う男」(1646年、東京富士美術館)の2点が展示されていた。

聖トマス            煙草を吸う男
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 カラヴァッジョとは一味違う炎と光の世界の作品を所蔵しているのが、いずれも日本の美術館だったとは・・・。

2015年10月28日

読書日記「エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦」(梨木果歩著、新潮社)


エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦
梨木 香歩
新潮社
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 ナチュラリスト、梨木果歩の真骨頂あふれる紀行文。

エストニアの首都タリンに着き、旧市街(世界遺産「タリン歴史地区」)に出かけてすぐに、著者らは「なんだか場違いなほど壮麗なタマネギ屋根のロシア正教の教会に出会う。



  アレクサンドル・ネフスキー聖堂と言います。なんだかこの建物、悪目立ちしますよね、この町では」
 通訳兼ガイドで、地元の大学で日本語を教えている宮野さんは、この教会の特色に「ぴったりと当てはまる」言葉を言ってのけた。

 フインランド湾に面するエストニアは、北と東の国境をロシアに接し、常にこの国の支配と脅威にさらされてきた。「悪目立ち」する教会も帝政ロシアの支配時代に建てられたものだった。

P1080325.JPG  以前にポーランドの首都・ワルシャワに行った際、ホテルの前に旧ソ連占領時代に建てられた異常に威嚇的な宮殿風の建物(=写真:「スターリンがポーランドに贈与したという摩天楼・文化科学館」)に違和感を覚えたことがある。それと同じような感覚だろうか。








 午後の新市街で訪ねた宮殿(ロシアのピョートル1世が建てた カドリオルグ宮殿では、庭のあちこちで新婚カップルが記念撮影をしていた。

 
 市井の善男善女が人生のスタートを祝うに十分な晴れがましさと無難さ。だがやはり、この半日回っただけでこんなに惹きつけられているエストニアの魅力とは無縁のもののように感じた。あのロシア正教の派手な寺院と同じように、「浮いて」いる。これから回ることになるエストニアのあちこちでも、北欧やドイツのエッセンスが感じられることはあっても、かつての占領国・ロシアの文化のある部分は、癒蓋のようにいつまでも同化せずに、あるいは同化を拒まれ、「浮いて」いた。けれどその癖蓋もまた、長い年月のうちには、この国に特徴的などこか痛々しく切ない陰影に見えてくるのだろうか。東ヨーロッパのいくつかの国々のように。


「歌の原」は、この宮殿の東にある。

   1988年9月11日、この場所にソ連からの独立を強く願った国民30万人、エストニア国民の3分の1に当たる人が全国から集まり、演説の合間にエストニア第2の国歌といわれる 「わが祖国はわが愛」を歌った。

これが結果的に民族の独立への気運を高め、1991年の独立回復へと繋がっていく。この無血の独立達成は、「歌う革命」と言われる。

 
 しかし、実際その場所に立つと、え、ここが、あの? と、半信半疑になるほど、ガランとしたひと気のない草地、グラウンドのようにも見えるが、奥の方に野外ステージらしきものが建っているので、やはり、ここが、そうなのだ、と往時の緊張と興奮を自分の中で想像してみる。その歴史的な「エストニアの歌」から約一年後、一九八九年八月二十三日に、ここ、タリンから隣国ラトビアリガリトアニアヴイリニュス (バルト三国という言い方もあるが、使わない)(=それぞれ違う歴史を刻んできたから、という意味だろうか)に至る六百キロメートル以上、約二百万の人々が手をつなぎ、「人間の鎖」をつくつた。スターリンとヒトラーにより五十年前に締結された、この三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書の存在を国際社会に訴え、暴力に依らず、静かに抗議の意思を表明するデモンストレーションだった。


 北の端、タリンから南下したヴォルという町にあるホテルは「厚い森」に囲まれていた。

 窓から広がるエゾマツやトドマツの森を見ていると、著者は「こうしてはいられない、という気になって」、スーツケースから旅には必ず持っていく長靴、ウンドパーカー、双眼鏡を取り出す。

 赤い土の小道の両側の木々は厚い緑の苔で覆われている。苔の上には、紅や濃紺のベリーをつけた灌木が茂り、茸の ヤマドリタケの仲間があちこちに見える。遠くでシカの声も聞こえる。転がっていた丸太に腰を下ろす。

 
 しばらくじつとして、森の声に耳を傾ける。ゆっくりと深呼吸して、少しだけ目を閉じる。右斜め前方から、左上へ、それから後方へ、松頼の昔が走っていく。走っていく先へ先へと、私の意識が追いつき世界が彫られていく。北の国独特の乾いた静けさ。


  キフィヌ島に入る。ここに住む女性が着る 赤い縦じまのスカートや織物は無形世界遺産。それらをIT技術をいかして世界に売っているという、テレビドキュメンタリーを見たことがある。

 森と森の中間にある木立に建つ一軒家で昼食をごちそうになる。大麦の自家製ビール、黒パン、燻製の魚、温かな魚のスープ。すべて、島のおばあさんたちの手作りだ。

 機を織っていたおばあさんがふと織るのをやめ、ぽつんと「自給自足は出来ても、お金持ちにはなれない」と呟いた。

 旅から帰国してすぐにリーマンショックが起きた。

 「あのおばあさんの言葉は『金持ちになれないけれど、自給自足は出来る』ということであった」と著者は悟った。

 サーレマー島は、エストニアで一番大きな島。車に乗り込んできたきさくなガイドの女性は、最後まで律儀な英語で話した。

 
 この島は、古いエストニアそのままの生態系が保持されています。それというのも、ソ連時代、軍事拠点だったせいでサーレマー島はほとんど孤島も同然、ソ連は西側からの侵入やにしがわへの逃亡を警戒して・・・そんな中、自然だけは見事なほど保たれました。ムース(ヘラジカ)やイノシシは約1万薮、オオカミ、オオヤマネコ、クマ、カワウソは数百匹が確認されています。・・・
  ――ではクロライチヨウキバシオオライチョウも・...‥。
 ――もちろんです。カワウソだっています。


 
 この時、私は本気で後半生をこの島で過ごすことを考えた。


 このところ、どうもピンと来る本に出合わない。「介護民俗学」とうたった本や今年度の谷崎潤一郎受賞作品のページを開いては途中下車ばかりしていた。やむをえず、本棚にあったこの本を取り出した。やはり、この著者の本は、老化した脳にもすっきり沁み込んでくれる。

 同じ著者の「不思議な羅針盤」(新潮文庫)が文庫本になったので、これも同時進行で読んだ。「サステナビリティー(持続可能性)のある生活」を考える、しっとりとしたエッセイ集だった。

2015年3月16日

読書日記「日本文学全集 01 古事記」(池澤夏樹訳、河出書房新社刊)


古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)

河出書房新社 (2014-11-14)
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 池澤夏樹が 「古事記」の現代語訳を昨年末に出した。西宮市立図書館に予約したが、結局借りられたのは、年明けの2月末だった。

  古事記にまず登場するのは、おなじみ伊邪那岐(イザナキ)伊邪那美(イザナミ)兄妹神の「国産み」神話である。

 二人が天と地の間に架かった天の浮橋に立って、天の沼矛を下ろして「こおろこおろ」と賑やかに掻き回して引き上げると、矛の先から滴った塩水が自(おの)ずから凝り固まって島になった。
 そこでこの島の名を淑能碁呂島(オノゴロシマ) と呼ぶことにした。


 著者は、前文で「古事記には、固有名詞にいちいち意味があり、・・・イザナキとイザナミという名には『互いに成功を誘(いざな)う』という意味がある」と解説。「天の沼矛は男性器の象徴という説があるが、納得できる」としている。
 塩水が凝(かたま)って陸地を生んだのは「海のほとりの製塩の現場に由来するのではないか」という見かたも分かりやすい。

 オノコロシマがどこにあるかは諸説があるようだが、兵庫県民としては、長く淡路島の近くにある沼島がそれという伝説に頼ってきた。
 しかし著者は「淑能碁呂島(オノゴロシマ)は、自ら凝ってできた島という意味で、実在の特定の島ではない」と、あっさり片づけている。

 天照大御神(アマテラス)が、弟神・建速須佐之男命(スサノヲのミコト)の乱暴に困って天石屋戸(岩戸)に隠れたという神話を改めて読んで、1昨年9月に宮崎・高千穂「記紀編さん130年記念ツアー」に参加したことを思い出した。

 そこ(岩戸のすきまから差し込まれた鏡)に映った顔を見ていよいよ不思議に思ったアマテラスが外を覗いて少しだけ戸から出てきたところで、蔭に隠れていた天手力男(アメノタヂカラヲのカミ)が手を取って引き出した。
 布刀田命(フトダマのミコト)はすぐアマテラスの後ろに尻くめ縄を張り、「もうここから中へは戻らないで下さい」と言った。
 アマテラスが出てきたので高天の原 葦原中国もすっかり明るくなった。


 高千穂地方には右から7,5,3本の藁茎を下げる「七五三縄」と呼ばれるしめ縄が神社だけでなく道沿いの民家にも張られていた。神を迎えるしめ縄は、この神話の尻くめ縄に起源があったのだ。

 池澤は、日本列島には、南島づたいに来た東南アジア系の人々、朝鮮半島から来た北東アジアの人々、そしてサハリン経由の人々という3つのルートから渡ってきており、それぞれが自分たちの神話を持ってやってきた、と見る。

 そして、皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされるアマテラスについて、こんな解説をしている。

 「天の権威によって統治者を立てるという思想はたぶん北東アジアから来た。本来はタカミムスヒが最も高位にいる神であって、それがある時点でアマテラスに置き換えられたという説がある。それかあらぬかアマテラスは最高神にしては機能が弱い。高天の原でスサノヲを迎える時は 「髪をはどいて男のような みづら型に巻き直し」戦闘モードに入ったが、 うけいの後はスサノヲの乱暴におろおろするばかり。最後には拗ねて岩屋に蔑もってしまい、他の神々の計略でようやく外に出る。自分の権能がわかっていないという感じで、その先のいくつもの判断にしても一々タカギ 思金神(オモイカネ)などの知恵を借りている。早い話が、『古事記』においてアマラス登場の場面はスサノヲに比べてずっと少ない。(古事記の編者である)太安万侶はいわば彼女を最上階に導いた上で梯子を外してしまった。」

 出雲の国に住む国つ神であるオオクニヌシが天つ神であるアマテラスの遣わした神々に葦原中国(アシハラノナカツクニ)を譲る 国譲り神話についても、古事記は多くの記述をしている。

 オホクニヌシは、「私の二人の子供が言ったのと同じことを私も申します。この葦原中国はすっかりそちらにお渡ししますから好きなようになさってください。ただ一つ、私が住む場所を天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)の欠けるところのないお住まいと同じように造りなおし、深い岩の上に太い柱を立てて、高天の原まで届くほどの高い 千木を伸ばしていただければ、私は百に足らぬ八十の道を辿った果てにあるこの出雲で隠棲して暮らします。私の子である 百八十神(ももややそがみ)、なかでも コトシロヌシはみなさんの先になり後になりして、お仕えいたします。逆らう者はいないでしょう」と言った。


 この神話については、このブログでも 「出雲紀行・下」 「葬られた王朝」(梅原猛著)でもふれたが、池澤はこう解説する。

 「そもそも、アマテラスを始めとする天上界の神々はなぜオホクニヌシが統一した地上界を自分たちに譲らせるという迂遠(うえん)な方法を経て統治権を確立したのか? 日本神話の神々はエホバのように全知全能ではない。地域ごとのまつろわぬ豪族どもを平定して国家を造るのにずいぶん苦労している。平定と中央集権の実現までの(たぶん現実の歴史に沿った)過程をどこかに反映している。出雲の勢力は 倭(やまと)の政権にとって最大の競争相手であって、その統合ないし懐柔は七世紀末になってもまだ伝承された記憶に生々しかったのだろう。だから『古事記』は『日本書紀』のようにあっさり出雲神話を無視できなかった。『日本書紀』が想定した読者はこの列島内だけでなく唐は長安の外務官僚たちも含んでいたから王権の正統性を強調せざるを得なかっただろうが、『古事記』にはそんな遠い慮(おもんばか)りは要らなかった。」

 「国譲り」神話には、こんな記述もある。

 タカムスヒがアマテラスの名のもとに 八百万の神々を天の安河の河原に集めて会議を開き、思金神(オモイカネ)の知恵を求めた。タカムスヒが言うようには、「この葦原中国は私の子が治める国と定めた国である。だがこの国には猛々しく乱暴な国つ神どもがたくさんいるらしい。どの神を遭わして説得して服従させればいいだろうか」と言った。
 オモヒカネは八百万の神々と合議して「 天菩比神(アメのホヒのカミ)を遣わすのがよろしいかと存じます」と申し上げた。
 そこで天菩比神(アメのホヒのカミ)を送ったところ、オホクニヌシに心服してしまって、三年たっても戻って報告をしなかった。


 古事記のなかには、スサノヲの ヤマタノオロチ退治など、強権を駆使した地方豪族征伐を示唆した寓話や親、子供殺しの話しも出てくるが、登場する神々は総じて心優しく,戦いを挑む前にまず説得に乗り出す。
 池澤は、こう語る。  「『古事記』には負けた側への同情の色が濃い。おおよそこの国の君主は古代以来ずっと政敵への報復に消極的で、反逆者当人は殺しても一族を根絶やしにすることはしなかった。そのうちに具体的な権力への執着を捨てて、摂関政治の後は神事と和歌などの文化の伝承だけを任務として悠然と暮らすようになる。これはまこと賢い判断であって、こんなのんきな王権は他に例を見ない。その萌芽を『古事記』 に読み取ることができる。」

 古事記には、イザナキ、イザナミの 「神産み」に続いて、400近い神々が次々と誕生する。なかには、稲田で鳥を追う 山田の曾富騰(そほど)、つまり山田の案山子(かかし)や窯やトイレの神々のほか、 大阪のおかあちゃんの始祖とも言われる阿加流比売(アカル・ヒメ)もちゃんと登場する。
     ホデリとホヲリ 山幸彦と海幸彦の話しは「そのままインドネシアの民話にある」という。
 大和(倭)の政権に反抗した 隼人の伝統にふれた箇所や朝鮮の 新羅を侵略した寓話まで記述されている。

 古事記は、なかなか奥深く、興味はつきない。池澤は「豊饒と混乱、目前に聳える未だ整理のつかない宝の山」と結んでいる。

 

2014年7月20日

パリ・ロンドン紀行⑤・終「パリの景観」2014年4月26日―5月1日



パリに出かける前に読んだ「フランスの景観を読む 保存と規制の現代都市計画」(和田幸信著、鹿島出版会)という本の序文に、ちょっとびっくりするような記述があった。

フランスの「建築に関する法律」第1条にはこう書いてある、という。

フランスの景観を読む―保存と規制の現代都市計画
和田 幸信
鹿島出版会
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 「建築は文化の表現である。建築の創造、建築の室、これらを環境に調和させること、自然景観や都市景観あるいは文化遺産の尊重、これらは公器である」

 これに対し、日本の建築基準法第2条では建築物を「土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの・・・」と、なんとも素っ気ない記述しかない。

 日本の法律には、建築や景観と公益あるいは公共性についてはまったく規定されていない。要するに建築は私権に属することであり、個人の好きなように建てられることになっている。この結果、日本中どこの街に行っても、高い建物や低い建物、陸屋根のビルや切妻の建物、灰色の日本瓦の住宅や。青やオレンジ色のスペイン瓦の住宅、さらにはケバケバしいゲームセンターやパチンコ屋などが、おもちゃ箱をひっくり返したように溢れることになる。


 フランスの景観は決して何もせずにきたわけではなく、フランスの文化と伝統を反映した街並みを公益として保存しょうとする国や自治体の意思と、これらを公共の財産として受け継ごうとする市民の意識により支えられて、現在の姿を留めているのである。


 「華のパリ」の別名がある通り、パリは厳しい景観保全政策で、その"美観"を維持している。そのきっかけになったのが、ドゴール政権下で文化相だった アンドレ・マルローによって作られた マルロー法(1962年8月4日法)らしい。

 この法律によって、パリでは第1号の歴史的建築保存地区となった マレ地区にぜひ行ってみたいと思った。旅に同行してくれたパリ通のYさん夫妻に案内してもらった。

 マレ地区は、オペラ座近くのホテルからも歩いて行けるセーヌ河右岸のパリ3区と4区一帯。途中、若い日本人女性にも人気という「ラデュレ」で、この店の名物であるフレンチトーストの朝食を楽しみ、マレ地区に入ったのは、午前10時半過ぎ。

 緑の並木に囲まれた小さな路地があるかと思ったら、両側に自動車をびっしり止めた小路がある・・・。意外に狭い石畳の道路の両側に同じ高さでそろった石造りの古い建物が続く。なんだか狭苦しい雰囲気で「ここが、パリの誇る景観地区なのか」と、意外な感じがする。素人目には、周辺の街区との違いが見つけられない。

 マレ地区は17世紀には優美な貴族の館が並ぶ街だった。それが18世紀になると、貴族に替って手工業者や低所得層が住む街になり、建物の崩壊を防ぐために道路の上に木材の梁を渡すという荒廃した街になっていった、という。

 長くユダヤ人の住む場所でもあった。このブログでもふれた「サラの鍵」の舞台にもなった「ゲットー」(ユダヤ人強制居住地域)も作られ、建物の内部を監視するための広場が強制的に作られたという。その後ユダヤ人は強制移送され、一時マレ地区から姿を消した悲しい歴史も刻んでいる。

 この法律による保全地区では、 フランス建築物建築家(ABF)という専門官が建造物の新築や改変を厳しく管理している。

そのせいか、多くの貴族の館が、パリ市などに買収され、博物館や美術館になっている。

 カルナヴァル博物館は、17世紀のセヴィニュエ侯爵夫人邸だったし、かつて塩税請負人が住んだサレ(塩)館は、国立のピカソ美術館になっている。

 建築家の ル・コルビッジェの業績などを紹介している スイス文化センターのある行き止まりの小路は、落書きばかりが目立つ場所だったが・・・。

 マレ地区の東端にある ヴオージュ広場と周辺の館は「パリを世界で最も美しい都にしたい」と、16世紀の王、 アンリ4世が作らせたという。

 正方形の公園を囲んで建てられた、オレンジとベージュのレンガや黒い屋根のファサード(建物正面のデザイン)で統一された36の館は、 ブルボン王朝初代の王が目指したパリで最古の建築景観を現在に残し、ほれぼれと見とれてしまう。

   ただ、マレ地区全体は「貴族館の保存」という最初の目的からちょっぴりはずれ、観光客に人気の街になったようだ。

 各通りの1階には、瀟洒な店やギャラリー、カフェ、日本でも有名な紅茶専門店の マリアージュ・フレールなどが軒を並べ、ユダヤ料理などのレストランも多い。

 昼食は、ユダヤ人学校前広場近くのユダヤ料理店屋外テーブルで陽光を浴びながら取った。なすびのパテや ファラフエルと呼ばれるひよこ豆のコロッケなど野菜料理ばかり。パリ滞在中に連れて行ってもらった レバノン料理に似てスパイスがきつくない野菜料理がワインに合う。考えてみると、イスラエルとレバノンは、紛争の地の隣国同士だ。

 ヴォージュ広場から歩いてすぐの バスティーユ広場から、69番のバスに乗り、パリ最古の橋・「ボン・ヌフ」で降りる.。

ボン・ヌフから見渡せるのが、世界遺産の 「パリ・セーヌ河岸」。ルーブル美術館、 ノートルダム寺院 オルセー美術館、さらには エッフェル塔まで約8キロに及ぶパリ最大の景観地区である。

 この地区は、マルロー法に先立つ19世紀に ナポレオン3世の指示で、セーヌ県知事だったジョルジュ・オスマンが断行した「パリ大改造」の一環として実現した。

 ノートルダム寺院のあるシテ島は、大改造まで貧民窟だった、という。

 セーヌ河をのぞき込むと、右岸のトンネルから出て、すぐにまたトンネルに消える自動車専用道路が少し見える。大阪や東京の河の景観を無視して縦横に走る高速道路に比べ、なんと風格のある都市設計だろう。

 ボン・ヌフを渡りきると、マルロ法にパリ2号目の歴史建築物保存地区・ サン・ジェルマン地区だ。

 「17世紀にマレ地区に住んでいた貴族たちが手狭になった館を嫌って、この地区に移ってきた」と文献にあったが、第2次世界大戦以降は、知識、文化人の一大中心地でもあったらしい。

 現在は、街の中心にある サン・ジェルマン・デ・プレ教会を中心にブティックやカフェが並び、観光客でごった返している。Yさん夫妻について行った小さなチョコレート店は、あふれる注文客を日本人男性 パテイシエ1人がきりきり舞いで応対していた。

 保存地区の広告規制が厳しいらしい。店舗のディスプレーも控えめだ。小さな白い「M」のマークをつけただけのマクドナルドの店舗が、なにかほほえましく見えた。

 パリの景観で忘れられないのは、初日の夕方に訪れたエッフェル塔だった。

 早くも電飾に輝くこの塔は、広い シャン・ド・マルス公園の真ん中に4本の柱に支えられて真っ直ぐに伸び、レースで編んだような半円形の鉄製アーチの間に立つと、セーヌ川の向こうに シャイヨ宮が望める。

 振り向いても、もういちど前を見ても、周りに高い建物はなにもない。胸いっぱいに空気を吸い込み、ため息をつきたくなる。そんなすがすがしい空(そら)空間が広がる。

 なんと、Yさんがこの塔にある1ツ星レストラン 「ル・ジュール・ヴェルス」に予約を入れてくれていた。アーチ型の脚の間に設置されている専用エレベーターで高さ125メートルのレストランに入る。

 窓際の席からパリの街が一望できる。見事に同じ高さにそろった石造りの建物群。その間を「パリ大改造」で作られた通りが放射線状に延び、細い路地が入り組んだように建物の間を縫っている。

 右手の黒い塊は、 ブローニュの森だろうか。正面に見えるのは、悪名高い高層ビル 「モンパルナス・タワー」

 ところが、その素晴らしい風景を撮ったカメラを、翌日、ルーブル美術館で盗難にあって失ってしまった。カメラそのものは、入っていた海外旅行保険のおかげで8%の消費税付きで代金が戻ってきたが、あのすばらしいパリの景観の写真は戻ってこない。

 かつてエッフエル塔が出来た時に、この塔の建設に反対した、かのモーパッサンは「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と、エッフエル塔のレストランによく通った、という。

 機会があったら、もう一度、このパリの景観を見に来たいと思う。今度は「モンパルナス・タワー」からエッフエル塔の建つパリの街を見るために。

▽参考に読んだ、その他の本

※ 「パリ神話と都市景観 マレ保全地区に7置ける浄化と排除の論理」(荒又美陽著、明石書店)

パリ神話と都市景観―マレ保全地区における浄化と排除の論理―
荒又 美陽
明石書店
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 ※ 「セーヌの川辺」池澤夏樹著、集英社)

※ 「美館都市パリ 18の景観を読み解く」(和田幸信著、鹿島出版会)

美観都市パリ―18の景観を読み解く
和田 幸信
鹿島出版会
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パリの景観:写真集
パリ・オペラ座の天井部外観;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区の小路;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区の通り;クリックすると大きな写真になります。 ユダヤ人街でのレストラン;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区・スイス文化デンター小路;クリックすると大きな写真になります。
パリ・オペラ座の天井部外観。「パリ大改造」計画では、この外観が見通せるように広いオペラ通りが造られたという マレ地区の小路 マレ地区の通り。見事に建物の高さがそろっている ユダヤ人街でのレストラン マレ地区・スイス文化センター小路。落書きがなぜか。
カリナヴァル博物館;クリックすると大きな写真になります。 ヴォージュ広場;クリックすると大きな写真になります。 バスティーユ広場;クリックすると大きな写真になります。 セーヌ河岸の自動車専用道路;クリックすると大きな写真になります。" ノートルダム寺院;クリックすると大きな写真になります。
カリナヴァル博物館 ヴォージュ広場 バスティーユ広場。後ろに見えるのは新オペレ座 セーヌ河岸の自動車専用道路 ノートルダム寺院
サンジェルマン地区の通り;クリックすると大きな写真になります。 サンジェルマン・デ・フレ教会;クリックすると大きな写真になります。 サンジェルマン地区のマクドナルド店;クリックすると大きな写真になります。 雨の凱旋門;クリックすると大きな写真になります。 世界遺産・セーヌ川岸とエッフエル塔;クリックすると大きな写真になります。
サンジェルマン地区の通り サンジェルマン・デ・フレ教会 サンジェルマン地区のマクドナルド店 雨の凱旋門 世界遺産・セーヌ川岸とエッフエル塔
パリの地下鉄車内;クリックすると大きな写真になります。 P1040167.JPG
パリの地下鉄車内。けっこう黒い人が・・・。 設立当初は賛否両論だったルーブル美術館のガラスのピラミッド入口。周りの景観との違和感はない


2014年7月 9日

パリ・ロンドン紀行④「ルーブル美術館㊦」2014年4月30日(水)



 ルーブル美術館休館日明けの水曜日。この日は地下鉄を利用してリヴォリ通り沿いのリシュリュー翼3階18室「ギャラリー・メディティスの間」に入った。

 なんと女性警備員2人が、ガラス天井の下の大広間真ん中で朝の打合せをしている以外、観覧者はまだ1人もいない。同行Mが勧めた「開館直後の午前9時に入ろう」という作戦は大成功だった。

 広間の両側を飾っている24枚の大作は、イタリア・ メディチ家からフランス王・ アンリ4世の妃になった マリード・メディティスが、自らの生涯を描くようバロックの巨匠・ ルーベンスに依頼したもの。

 王妃メディシスはいささかメタボ気味で27歳の晩婚。国王アンリ4世は女好きで、ルーブル宮殿ではその愛人と一緒に住まわされ、フランス語がしゃべれないメディシスはいつも孤独だった。やっと息子 ルイ13世に恵まれたが、夫アンリ4世が暗殺されてしまったうえに、ルイ13世の取り巻きの貴族群に嫌われ、国外に追放されてしまう。

 こんな生涯を"自画自賛"の絵に描くよう依頼されたルーベンスは、神話の世界に仕立てることを思いつく。

 2人は、リヨンの町で初めて対面する設定になっているが、夫はローマ神話の神 ユーピテル、妻は女神ユーノーとして描かれる。下で馬車を曳くのはリヨンにちなんだ「LIYON(ライオン)と、寓話性にあふれている。

 間もなくこの広間に模写に現れた男性のキャンバスに描かれているのは、フランス・マルセイユ港にイタリアから到着したメディシスを歓迎する海の妖精たちだ。

この大広間の周辺には、17世紀 フランドルをはじめ、オランダ、ドイツなどの作品の部屋が続いている。

 24室には、フランドル出身の ヴァン・ダイクが描いた 「狩り場のチャールズ1世」が、38室にはあの ヤン・フェルメール 「レースを編む女」(24×21センチ)が宝石のように置かれていた。

 その間の部屋にあるはずの レンブランド 「バテシバ」を見つけることができなかったのは残念だった。旧約聖書に書かれている ダビデ王に横恋慕された家臣の妻の水浴姿というテーマは、それまでも何人もの画家が挑戦している。

  中野京子 「はじめてのルーヴル」によると、モデルは乳癌で亡くなったレンブランドの愛人で「左の乳房の明瞭な影がその証拠ということが、近代になって分かってきた」という。

 「光と闇の画家」と呼ばれたレンブランドが描く、モデルと「バテシバ」の"影"。その絵が飾られているはずの部屋番号まで事前に調べたのに、見落としてしまったのは「もう一度おいで」というルーブルの魔法をかけられたせいだろうか。

 もう1つの裸体画、10室にあるフォンテンブロー派 「ガブリエル・デストレとその妹」は、ちゃんと見つけることができた。

 入浴中の左側の女性が右側の女性の乳首をつまみ、懐妊を示唆している。つままれているのは、アンリ4世の愛人の愛妾・ガブレリエル・デストレ、つまんでいるのはその妹という不思議な構図だ。

 中野京子は 「怖い絵2」(朝日出版社)のなかで、こう書いている。

 
手と指の描写に、いささかデッサンの狂いが見られ、その狂いがかえって奇妙な効果を上げている。まるで白い蟹(かに)がガブリエルの柔肌を這(は)いまわっているような、エロティックでもあり、ユーモラスでもあり不気味でもあるいわく言いがたい皮膚感覚を、見る者に呼び起こす。


 ここで、いったん地下まで降り、ピラミッド経由で、見学初日に見落としていたドウノン2階の「大作の間」に入った。ここには、19世紀フランスを代表する大型絵画が、隣の「ナポレオンの間」と同じ赤い壁紙が張られている。

 入って正面左にあるのが、19世紀・ ロマン主義を代表するジェリコー 「メデューズ号の筏」。491×716センチという大作だ。

 難破したフランス艦から筏で脱出した150人の兵士のなかで生き残ったのは15人。ジェリコーは、それらの人々から取材を重ね、臨場感あふれた作品に仕上げた。

その右側には、 ドラクロアの代表作「民衆を導く自由の女神」がある。

 1830年の 7月革命を記念して描かれたものだ。女神の左にいる山高帽の男はドラクロア自身と言われる。しかし、革命は3日間で終わって王政は続き、この絵は国家に買い上げられたものの、人の目に触れることはなく、公開されたのは約40年後の共和制復活後だった、という。

 その隣にある、同じドラクロアの「サルダナパロスの死」にも引きつけられる。

 紀元前7世紀、死期が近いことを知ったアッシリア王・ サルダナパロスが、自分に仕えた人々を虐殺させるのを平然と見ている。画面には血は一滴も流れていないのに、赤いベッドと女体の肌色の色彩感で異常な光景を見事に演出している。

 ドラクロアのライバルであった新古典主義の アングルの代表作 「グランド・オダリスク」を見に「ナポレオンの戴冠式」のある75室に戻る。

 「オダリスク」というのは、トルコのハーレムに仕えた女性のこと。アングルは背中を異常に長く描いてその優美さを強調することで、絵画史上でも最も有名な裸婦像を完成させた。

  同じアングルの 「カロリーヌ・リヴィエール嬢」という肖像画にも引き込まれる。ルーブル美術館のWEBページでは、この絵のことを「少女の清新性と女性の悦楽という両義性を描いた」と解説している。

 最後に、グランド・ギャラリー経由でシュリー翼3階に向かう。 ロココを中心とした17-19世紀のフランス絵画が展示されている。

 ルーブルに寄贈された数百点のロココ絵画のなかでも、ヴァトー 「ピエロ(古称・ジル)」は、心引かれる絵画だ。白い道化服を着た等身大のピエロが、もの悲しい気な目で見る人をじっと見つめている。

 同じ18世紀ロココ時代を代表する フラゴナール 「水浴の女たち」「霊感」などにまじって、ちょっと不思議な絵が、窓際にそっと飾られていた。

  グルーズ「壊れた甕」だ。
 美しい少女が、左胸をあらわにし、乱れた服装のままでたたずんでいる。膝の上で抱えているバラの花と右腕にかけたひび割れたかめは、彼女が純潔を失ったばかりであることを表している、という。

 19世紀を代表する コローの作品は、 「真珠の女」などと並んで、一連の風景画が印象的だ。「次世代の 印象派への橋渡しをした画家」と言われるゆえんだろう。

 一番奥に、ルーブルが誇る逸品、 ラ・トウールの作品群が誇らしげに並んでいた。

 ラ・トウールは17世紀に活躍した画家だったが、その後何世紀も忘れられ20世紀初めに再認識された、という。再発見したのは、ルーブルの学芸員たち。

 明らかにカラヴァッジョの影響を受けて、光と闇に包まれた宗教画を描き続けたラ・トウールの作品のなかでも、「いかさま師」は、異色かつ不思議な作品だ。

 若い善良そうな若者に、他の3人がまさにいかさまを仕掛けようと目配せをしており、男が背中に隠したダイヤのエースのカードを抜きだそうとしている・・・。

 ルーブル美術館が主導して刊行、世界各国語に訳されている 「ルーヴル美術館 収蔵絵画のすべて」(日本語版・ディスカヴァー・ツエンティワン刊)は「『いかさま師』には3つの主題が隠されている」と解説している。

 
(それは)17世紀に最大の罪とされていた3つの悪徳、賭博、飲酒、淫蕩。・・・若者(無垢の擬人化)は自分を自分を待ち受けている悪徳に全く気づいていない。・・・ダイヤのエースを抜き取っているいかさま師の右手の先には。黄色いスカーフを頭に巻いた若い女性が2つ目の罪を表すワインを手にしている。テーブルの真ん中に座っているのは、宝石をたくさん着飾って豪華な服を着た娼婦である。彼女は女性の誘惑の象徴で、視線と手振りで、2人の仲間に今がチャンスだと合図を送っているようだ。


 NHKの番組によると、ラ・トウルが20世紀初めに再認識された時、ルーブルが所蔵していたのは 「羊飼いの礼拝」1点だけだった。

 しかし、その後全国的な募金活動をしたりして、現在は世界で十数点しかないといわれる作品のうち、ルーブルは8点を所蔵している。「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」は、パリ近郊の村の教会の壁にあったのを偶然に発見され 「ルーブル美術館友の会」が購入を決め、ルーブルに寄贈した、という。

ルーブル美術館写真集(2)
ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(リヨンでの対面);クリックすると大きな写真になります。" ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(王妃マルセイユに上陸)」;クリックすると大きな写真になります。 ヴァン・ダイク「狩り場のチャールズ1世」 フェルメール「レースを編む女」;クリックすると大きな写真になります。 フォンテンブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」;クリックすると大きな写真になります。
ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(リヨンでの対面)」 ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(王妃マルセイユに上陸)」 ヴァン・ダイク「狩り場のチャールズ1世」 フェルメール「レースを編む女」 フォンテンブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」
アングル「グランド・オダリスク」;クリックすると大きな写真になります。 同「カロリーヌ・リヴィエール嬢」;クリックすると大きな写真になります。 ジェリコー「メデューズ号の筏」;クリックすると大きな写真になります。 ドラクロア「民衆を導く自由の女神」;クリックすると大きな写真になります。 同「サルダナバロスの死」;クリックすると大きな写真になります。
アングル「グランド・オダリスク」 同「カロリーヌ・リヴィエール嬢」 ジェリコー「メデューズ号の筏」 ドラクロア「民衆を導く自由の女神」 同「サルダナバロスの死」
ヴァトー「ピエロ」;クリックすると大きな写真になります。 フラゴナール「水浴の女たち」;クリックすると大きな写真になります。 1フラゴナール「霊感」;クリックすると大きな写真になります。 グルーズ「壊れた甕」;クリックすると大きな写真になります。 コロー「真珠の女」;クリックすると大きな写真になります。
ヴァトー「ピエロ」 フラゴナール「水浴の女たち」 フラゴナール「霊感」 グルーズ「壊れた甕」 コロー「真珠の女」
16-20140428_141516.jpg ラ・トウール「羊飼いの礼拝」;クリックすると大きな写真になります。 「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」;クリックすると大きな写真になります。
ラ・トウール「いかさま師」 ラ・トウール「羊飼いの礼拝」 ラ・トウール「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」


2014年6月18日

パリ・ロンドン紀行③「ルーブル美術館㊤」2014年4月28日(月)、30日(水)



  ルーブル美術館は、泊まっていた オペラ座(オペラ・ガルニエ)近くのホテルからオペラ通りを歩いて15分ほど。現地でチケットを買おうとすると1時間は並ばなければならないらしい。途中、通りをちょっと入ったフランス政府観光局まで別行動のYさん夫妻に案内してもらい、28、30日の2日分のチケットを手に入れた。同行の友人Mと合わせて49・5ユーロ。29日の火曜日は残念ながら休館日だ。

 チケットがあると列も別で、手荷物検査もかばんのチャックを開いてちょっと見せるだけ。ガラスのピラミッド地下の入り口にすぐに入場できた。それでも10時過ぎというのに、かなり混雑している。

 まずセーヌ河沿いにあるドウノン翼2階75室「ナポレオンの間」に入った。「あった、あった!」。広間中央左壁に 新古典主義の大家、ダヴィッドが3年かけて描いた 「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」がデーンと飾られていた。

 この絵については、以前にこの ブログでもふれたが、縦6・3メートル、横9・7メートルのほんものの迫力は違う。自らの手で妃・ジョセフイーヌに冠を載せようとしているナポレオン、渋い顔の教皇ピウス7世、白いドレスのナポレオンの妹たち、そして作者・ダヴィッド自身もそっくりに描かれている。

 額縁の下に、主な登場人物の似顔絵が名前入りで書かれているのもおもしろい。

ミロのヴィーナス;クリックすると大きな写真になります。 この絵は、ルーブルでも1,2を争う人気作品だから、とにかく混んでいる。後で見た 「ミロのヴィーナス」像の周囲より混んでいた気がする。

 この部屋にはそのほか、ダヴィッド作,社交界の花形女性 「レカミエ夫人」(ダヴィッドが気に入らず未完の作だが、ルーブル美術館がダヴィッドの遺産のなかから買い上げたらしい)、ローマ共和国への忠誠を描いた 「ホラティウス兄弟の誓い」 「自画像」などの名作が並んでいる。

 新古典主義の絵画というのは様式美に優れている感じで、それまでフランス宮廷絵画を支配してきたという装飾がすぎる ロココ主義の絵画よりずっと分かりやすい。

 豪華な天井画の76室(ドウノン室というらしい)を右折したところが、あの 「モナ・リザ」(フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニの肖像像)のある7室だ。

 この部屋は、何度も盗難などに会った「モナ・リザ」を守るため2005年に大改修されている。彼女は、特殊な防弾ガラスのケースのなかにいる。内部の木の床のなかには、防弾ガラスのために緑がかって見えるのを防ぐ特殊LED照明(東芝製)や最新の湿度管理システムが収納され、作者・ レオナルド・ダ・ヴィンチが駆使した スフマート(ぼかし技法)を自然光のなかで見られる工夫がされている。

 写真を撮ろうとすると、何重もの観覧者をかきわけて前に出るしかない。特殊ケースを囲む囲いのなかにいる大柄な警備員になにか大声で指さされたので振り返ると、男性が男の子を肩車させてなんとか見せようとしていた。これは「危険行為」ということらしい。

 振り返ると、隣は隔壁のないまま広がる6室。一番奥に、ヴェロネーゼ作の 「カナの婚宴」が飾られていた。

 広い部屋の両端にある77センチ×55センチの小さな「モナ・リザ」と、6・66メートル×9・90メートルというルーブル最大の壁画が見事なバランスを取っている。心憎い空間設計だ。

 「カナの婚宴」は、カナの地で開かれた婚宴で水を葡萄酒に変えるというキリスト最初の奇跡を描いたものだが、ナポレオンが北イタリアに遠征した際、 ヴェネツイアサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の食堂にあったものを奪ってきた作品だ。

 ナポレオン失脚後、いくつかの芸術作品は所有国に返されたが、この作品がフランスに残ったいきさつについてふれた WEBページもなかなか興味深い。

 6室をつなぐ狭い空間を抜けたところが、待ちに待った 「グランド・ギャラリー」ルネサンス期をふくむ13-18世紀のイタリア絵画が、長さ450メートルという長い寄木細工廊下の両側に所せましと並べられ、いっぱいに人々があふれている。

 さて、どう回るか・・・。向かい側の壁に、ダ・ヴィンチの作品群を見つけた。

「岩窟の聖母」は、狭い岩窟のなかで、幼き聖イエスと聖母マリア、聖マリアの母・聖アンナ、これも幼い洗礼者・聖ヨゼフが一緒にいるという聖書ではありえない設定だ。

 隣の 「聖アンナと聖母子」は、聖アンナの膝に聖母マリアが腰かけ、幼き聖イエスを抱き上げようとしている不思議な構図。幼き聖イエスが子羊を抱いているのは、将来の受難をあらわしているというのだが・・・。この2作品とも「モナ・リザ」と同じ、スフマート(ぼかし)技法が使われている。

 そのすぐ左が 「洗礼者ヨハネ」。右手で天を指しているのは分かるが、表情が女性ぽっくちょっと理解しがたい。いささか不可解な作品だ。

 反対の壁面に、ダ・ヴィンチ、 ミケランジェロと並んで盛期ルネサンスの三大巨匠の1人といわれる ラファエロの代表作「美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)」があった。慈しみあふれた表情の聖母マリアを中心としたピラミッド型の構図。やわらかな光につつまれた明るい画面はいつまででも見飽きないやさしさにあふれている。

 反対側の壁の柱の陰にかくれるように掲げられている、同じラファエロの男性貴族肖像 「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」。来る前に見たNHKのBS番組 「あなたの知らないルーブル美術館」で「男のヴィーナス、と呼ばれている」と聞いていなかったら、見落としていただろう。
 斜め前に体を向け、顔が正面に向いているからそう呼ばれているようだが、じっとこちらを見る青い眼に引き込まれる。

 同じく来る前に読んだ 「はじめてのルーヴル(集英社)」という本で、著者の中野京子は、この絵のことを「ルーベンスも模写したというこの傑作は、・・・レンブランドを先取りしたような表現だ」と絶賛している。廊下は人であふれているが、この絵の前で立ち止まる観覧者はマーいないから、じっくり鑑賞できる。なんだか得をした気分になる。

 カラヴァッジョ「聖母の死」はどうしても見たいと思っていた。グランド・ギャラリーのなかにあるはずなのにどうしても見つからない。結局、2日目の30日に再度、同ギャラリーを訪ねてやっと対面することができた。

 7年ほど前のイタリア巡礼でイタリア・ローマのいくつかの教会で接した大作に比べると、意外に小さく見える。そして、いささか異様な作品でもある。

 真ん中に横たわる聖母の腹部は膨れ、顔も神々しさからはほど遠い。「娼婦の水死体をモデルにした」といううわさが流れ、祭壇画として発注した教会は引き取りを拒否した、という。

 しかし、カラヴァッジョらしい光と闇のコントラストは健在で、それを評価されたのか、ちゃんと、こうしてルーブルの収蔵品として収まっている。

 この ブログでもなんどかふれたが、カラヴァッジョ大好き人間。またローマへ"カラヴァッジョ巡礼"に出かけたくなった。

ルーブル美術館写真集(1)
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朝から行列ができるルーブル美術館のピラミッド入口 ダヴィッド「ナポレオンの戴冠」 額縁下にある似顔絵。左端がナポレオン ダヴィッド「レカミエ夫人」 ダヴィッド「ホラティウス兄弟の誓い」
;クリックすると大きな写真になります。 P1040182.JPG ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
ダヴィッド「自画像」 ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」 ヴェロネーゼ「カナの婚宴」 混乱するグランド・ギャラリー(イタリア絵画展示場) ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」 ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」 ラファエロ「美しき女庭師」 ラファエロ「バルダッサレの肖像」 カラヴァッジョ「聖母の死」
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
アルチンボルド「秋」 マンテーニャ「聖セバスティアヌス」 マンテーニャ「磔刑」 ギルランディオ「老人と少年」