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2018年7月26日

読書日記「潜伏キリシタンは何を信じていたか」(宮崎賢太郎著、株式会社KADOKAWA、2018年2月刊)、「かくれキリシタンの起源」(中園成生著、弦書房、同年3月刊)、「消された信仰」(広野真嗣著、小学館、同6月刊)

潜伏キリシタンは何を信じていたのか
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かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》
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 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、今月やっと世界遺産に登録されることが、ユネスコから認められた。

 文化庁の資料によると「『潜伏キリシタン』が密かにキリスト教への信仰を継続し,・・・既存の社会・宗教と共生しつつ,独特の文化的伝統を育んだ」こと が、世界遺産として認められた理由だという。

 登録を待っていたように、「潜伏キリシタン」についての著書が次々と発刊された。

 「潜伏キリシタンは何を信じていたか」の著者、宮崎賢太郎は、潜伏キリシタンを祖先に持ち、カトリック系の長崎純心大学の教授などをつとめたクリスチャンだが、これまでキリスト教会で常識とされてきたことに反論を試みる。

 
「(領主によって)強制的に集団改宗させられた大多数の民衆層のキリシタンたちは、(指導する司祭などが不在だったから)キリスト教についてほとんど何も知らなかった」「潜伏キリシタンたちが守り通してきたのはキリスト教信仰ではなく、いかなるものかよく知らないが、キリシタンという名の先祖が大切にしてきたものであった」「長崎県生月(いきつき)島などにごくわずか存在するカクレキリシタンには、隠れているという意識はまったくなく、その信仰の中身もキリスト教と呼ばれるようなものではなく、先祖崇拝的傾向の強いきわめて日本的な民族宗教である」


 さらに著者は、幕末の開国後の1865年(慶応元年)3月17日。長崎・浦上の潜伏キリシタンが、長崎市の大浦天主堂を訪ねてプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」も、プチジャン神父が自作自演したフィクションであると推理する。

 
 (かくれキリシタンが告白した)「我らの胸あなたの胸とおなじ」という言葉は、逆にプチジャン神父のほうから・・・告白した言葉ではなかったか。信徒たちが「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのでなく、プチジャンのほうから、「あなた方が慕っているサンタマリアの御像はこちら」と案内したのではないか。「あなた方がずっと大切にしてきたマリア観音は、本当はこのサンタマリアの御像なのです。御子ゼズス様を腕に抱いていらっしゃるでしょう」と。


 信徒発見のニュースは、たちまち世界中に伝えられた。日本のカトリック教会はこの日を祝日と定め、発見から150周年にあたる今年は、各司教区では様々な祈りのイベントを展開している。

 それをフィクションと片付けられても、カトリック信者の片割れとしては、にわかに納得しにくい。しかし、250年もの司祭不在の禁教期に、キリシタンの間でなにかが起きていたとしても不思議ではない。フイールドワークを踏まえて、それを分析・研究したのが「かくれキリシタンの起源」だ。

 著者、中園成生は、捕鯨の基地としても有名な生月町の生月島町博物館・島の館学芸員として長年、かくれキリシタンの研究に取り組んできた人。

 実は、3年も前の2015年2月に著者の最新研究成果を紹介する講演を聴講しており、このブログでも記録している。この著書の骨子にもなるブログの一部を再録してみる。

   
 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の中園成生さんが、平戸島の北西にある生月島で、現在でも隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。・・・
 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』(前述の宮崎賢太郎は、この説をとる)」が従来の考えだった。
 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。
 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。


 この講演の時には、長崎県は世界遺産への登録を「長崎教会群とキリスト教関連遺産」と題して申請していた。しかし、ユネスコの諮問機関であるイコモスから「禁教時に焦点を当てるべきだ」という注文がついて、登録申請をいったん取り下げ、潜伏キリシタンの遺産に焦点を当て直してやっと今回の登録決定にこぎつけた。

 この間に、「隠れキリシタン」についての学問研究も進み「潜伏キリシタン」「カクレキリシタン」といった区別もされるようになった。

 「消された信仰」は、生月島のかくれキリシタンの取材を通じて、世界遺産登録への隠された事実も明らかにしている。

 著者の広野真嗣は、新聞記者を経て、この本で題24回小学館ノンフィクション大賞を受賞したジャーナリストで、自称「信仰の薄いキリスト教徒」。

 著書の冒頭で「なぜ生月島は世界資産から外されたのか」という問いかけをしている。

 
 著者によると、世界遺産登録申請に関連して2014年に長崎県が作成したパンフレットでは「平戸地方(生月島を含む)の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる〈かくれキリシタン〉によって今なお大切に守られている」となっていたのが、再申請後の2017年のパンフレットでは「〈かくれキリシタン〉はほぼ消滅している」と変わった。
 著者が取材した、さきの中園学芸員はその理由について「これまでやってきたキリシタン史の説明との整合がとれなくなるからです」と答えた。
 中園学芸員は「彼ら(長崎県)は、(宮崎教授が主張する)〈禁教期変容論〉の影響を受けています。江戸時代の〈潜伏キリシタン〉と、現在に続く〈かくれキリシタン〉は違うもので、変容してきた、というスタンスをとっているんです」「でも、禁教期のいつから何が変容したのかという説明はできないのです。イコモスから突っ込まれたら説明が不能な厄介な問題になる。だからこそ、生月島のかくれキリシタンの存在を"消そうとしている"。その存在は、はっきりしているのに」と話した。


 当初、長崎県などが「長崎教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指したのは、教会群などによって、長崎の観光振興を図りたいのも狙いだった。
 しかし、イコモスの指摘で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変わっていく過程で、その内容があいまいになり、250年間、信仰を守り続け、「オラショ」などの文化遺産を持つ生月島のかくれキリシタンが切り捨てられ、当初あった遺産としての生月島は消えてしまった。

 かって、長崎の教会群や生月島などを3年にわたって訪ね、このブログで何回も取り上げてきた。それだけに、今回に世界遺産登録になにか冷めたものを感じてしまう。

※その他の参考文献
  • 「かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅」(後藤真樹著、新潮社刊)
  •  「祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」(松尾潤著、批評社刊)


2018年6月 8日

読書日記「完本 春の城」(石牟礼道子著、藤原書店、2017年刊)


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 名著「苦海浄土」著者が10数年をかけて「島原の乱」を取材した旧題「アニマの島」(1999年刊)が、取材紀行やインタビュー、解説などを入れた完全版としてよみがえった。900ページを超える大作である。

 島原の乱は、江戸時代初期に起きた、過去最大の一揆だ。歴史的に「藩の圧政に苦しんだ百姓、浪人が起こした」一揆という見方と「迫害に耐えかねたキリシタンが起こした」という説があるが、著者が描くのは飢饉と圧政に苦しみながらも信仰を守ろうとするキリシタンが主役である。

 益田四郎時貞(天草四郎)が15歳の元服を迎えた日。四郎は、父甚兵衛らにある覚悟を打ち明けた。

 
「イエズス様の踏まれし道を踏まねばなりませぬ。・・・わたくしには、山野や町を灼きつくす炎が見えまする。その劫火をくぐらねば、真実の信心の国に到ることはできぬのではござりますまいか」
 二人の大人は、今何を聞いたかといった表情で黙りこんだ。ややあって、甚兵衛が遠慮がちに問うた。
 「そなた、その劫火とやらにわが身を焼くつもりか」
 少年は固くまなこを閉じ、一筋の涙が頼を伝った。


   父に言われて、ある村を訪ねた時、人々の心を統べる気持ちだったのだろうか。四郎は、留学先の長崎で学んだ奇跡(魔術)を行った。

 
静まり返っている一団の中で四郎はひざまずき、人には聞きとれぬほどな祈りの言葉を口のうちに唱えながらゆっくり立ち上ると、大切そうに皿を抱えている女童の前に立った。それから胸の十字架を外すと掌に持った。瞬きもせぬさまざまの眸がその手の動きに集中した。指の間から光が放射した。長く細いがこの世のものではないように雅びやかに動いて、十字架は女童の額にしばらく当てられ、静かに皿の上におろされた。
 子糠雨を降らせていた雲間がその時晴れ、陽がさした。その瞬間、幼女の両手に抱えられた白い皿の上に、あざやかな朱(あけ)の一点が浮き出てみんなの目を射た。


 
よく見ると早咲きの柘榴の花が一輪、ふるえを帯びながら載っていた。女童が持っていたのは、一家心中を図った家の男の子・次郎吉が使っていた皿だった。・・・。

 四郎は幼児の耳にそっと囁いた。「次郎やんの魂ぞ、アニマ(霊魂)ぞ。落とすなや」。さらに、6人の子らの掌に一輪ずつ花を載せた。


 四郎の唱えるオラショに和しながら、人々はかって覚えたことのない陶酔に引き込まれた。人々はいつしか四郎に向かって手を合わせていた。

 長雨と日照りが交互に起き、これまでにない凶作が人々を苦しめ続けた。

「わしは一揆する決心にござり申す」
 甚兵衛はひたと二人の目(まなこ)に見入った。伝兵衛父子は喰い入るように甚兵衛を見返している。
 「領主どもをこの天草の地から追い払い、切支丹の国を樹てる所存でござる。デウスの御旗のもと神の軍勢をあらわして、領主どもの米蔵を破り、主の栄光をこの地にもたらす。・・・長い間の切支丹の盟約が試される時が来たと存ずる。わしも切支丹のはしくれ、万民のために十字架に登られし御主の、世にたぐいなき勇猛心を鑑として、全身くまなくおのれを晒し、仁王立ちする覚悟にござり申す」


   
伝兵衛はすりよって甚兵衛の手をつかんだ。
 「甚兵衛どの、獄門、はりつけは覚悟の上じゃ。生くるも死ぬるも一緒ぞ」・・・
 甚兵衛の脳裏を一瞬、来し方のさまざまがよぎった。・・・
 今にしてやっと得心がいった気がする。武士であるとは義に生きるということであったのだ。・・・たとえ行く手に槍ぶすまが待っていようとも、御主キリシト様のごとく、同胞の危難に赴くのが義の道である。


 原城に籠城した四郎の軍勢に、幕府の征討軍が猛攻撃をかけた。

 
十字を切ろうとしている四郎の肩をその時弾丸が撃ち抜いた。おなみがかけ寄り、蒼白になって傷口を縛りにかかった。・・・それは炎上する春の城に浮かんだ一幅の聖母子像であった。・・・。
 闇に沈んでいく城内では、炎上する建物の中に入って次々と自決を遂げる女たちの姿が照らし出された。天も地も静まりかえるような情景であった。


 この大作を書こうと思ったきっかけについて、著者は連載した地元紙などのインタビューに、こう答えている。

 
根っこに水俣病にかかわった時の体験があります。昭和四十六年、チッソ本社に座り込んだ時、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではないかと感じました。
 機動隊に囲まれることもあったし、チッソ幹部に水銀を飲めと言おうという話しも出ていた。もし相手に飲ませるなら自分も飲まなければという思いもあって命がけだったけど、怖くはなかった。今振り返ると、シーンと静まり返った気持ちに支配されていたような気がします。それで原城の人たちも同じ気持ちでなかったかと。(一九九八年一月三日、熊本日日新聞)


 「自分も飲もう」と死を覚悟した気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々の思いに重なったのだろうか。

 「島原の乱」の主戦場となった原城跡は、近く世界遺産と認定されることが決まった 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つだが、その城跡には「島原の乱」の遺産が眠っている。

 このブログにも書いたが、「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、)という本のなかで、著者は、3万人をこえる「島原の乱」の犠牲者が、発掘もされずに眠っている現状を厳しく糾弾している。

 それは、水俣病に続いて島原の乱の犠牲者を鎮魂しようとした石牟礼道子と同じ視線のような気がする。

2016年1月28日

 読書日記「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、文藝春秋刊)


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 著者の作品を読むのは、久しぶりだが、読み終えるまで意外に時間がかかった。「キリシタン」というテーマへの取り組みが尋常ではないほど真摯で、難解な引用文献も多かったせいらしい。

 自分の先祖にキリシタがいたのではないか」と勝手に思い込んだのが「私的キリシタン探訪記」という副題をつけたゆえんらしい。16世紀にローマに派遣された 天正遣欧使節の4人の少年たちが持ち帰り、秀吉の前で演奏を披露したという弦楽器・リュートを買い求めて習い始めることから始め、長崎のキリシタン迫害の地を訪ね歩く。ついには殉教宣教師の故郷であるスペインにまで足をのばす、という時空を超えた異文化漂流記だ。少しはキリシタン文化をかじったことのある自分にも、新しい発見を突き付けられるノンフイクションだった。

 とくに興味を引いたのは、このブログでもなんどかふれたことのある 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推薦への厳しい視線だ。

 筆者はキリシタンに興味を持ちだした2008年に、殉教した天正遣欧使節の1人、 中浦ジュリアンが、ローマ・カトリック教会から 「列福」されるのを知り、長崎を訪れる。

 私も見る機会があった「バチカンの名宝とキリシタン文化展」長崎歴史文化博物館で鑑賞、そこを出た道のはす向かいに 「サン・ドミンゴ教会跡」という碑を見つける。

 
 矢印に誘われるように、地下へ通じる階段を降りた。階段を一段降りるごとに、表を通る車の音は遠ざかっていき、気温が下がっていく。どこへ連れていかれるのか、不安な気持ちのまま降りていくと、ライトアップされた遺構が目の前に現れた。
 ひんやりして静まりかえった構内は、回廊から地下を見下ろす構造になっており、波打った石畳や地下室、排水溝が見えた。壁には市内で出土した磁器や花十字紋瓦(十字架模様のついた瓦)が展示してある。敷地の広さや頑丈な石が多く使われていることから、かつては立派な石造りの建物であったことがうかがえる。


 ここは、現在は 桜町小学校の校庭の一角なのだが、1609年、長崎代官のキリシタン、村山等安が寄進した土地に、薩摩を追われたドミニコ会のフランシスコ・モラーレス神父が建てた、サント・ドミンゴ教会の地下遺構だった。

 長崎には、禁教令以前には13の教会があったが、すべて幕府命で取り壊された。
 世界遺産に推薦された他の教会は、すべて明治の禁教令解禁後に、信者たちが金を持ち寄って建てたものだ。

 壊された教会跡はどうなったのか。

  トードス・オス・サントス(詩聖人)教会の跡地には、春徳寺が建てられた。
 岬の教会は、長崎奉行所西役所から長崎県庁へ。
 サン・ジョアン・バウチスタ教会は、日蓮宗本蓮寺。
 「ミゼリコルディアの組」本部教会は長崎地方法務局。
 サン・フランシスコ教会は、処刑を待つ多くのキリシタンを収容した桜町牢になり、長崎市水道局庁舎へ......。
 そして、 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館! 


 異なる宗教を信じる信徒を弾圧し、そのあとに為政者側の象徴-仏寺や行政機関- を建てることが、長崎では繰り返されたのである。

 長崎は、異国への窓口であり、多くのキリシタンが暮らした街であると同時に、激しい弾圧で多くの血が流された街でもある。

 「国際色豊かな自由な街というイメージは、いったん保留しなければ」と、筆者は思う。

 小学校の広い校庭から発掘されたことで保存が可能になったサン・ドミンゴ教会跡は「日本では真に貴重なキリシタン遺跡」なのに「世界遺産」候補にさえなっていない。隣接して、入場無料の資料館があるだけだ。

 このブログを書いている最中に、たまたま大阪で長崎県と朝日カルチャーセンターの共催で昨年に続いて「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力Ⅱ」セミナーが開かれた。友人Mを誘って、出席した。

 最初に「長崎県キリスト教史の概要」について講話した長崎県長崎学アドバイザーの本馬貞夫さんによると、キリシタン全盛時代に建設された教会は、13ではなく14。
 これらの教会は、幕府が近隣の藩に取り壊しを命じたが、その作業の徹底ぶりが担当した藩によって差があり、サン・ドミンゴ教会は"ずさん"な作業で埋め立てた上に代官屋敷が建てられてしまい、地下遺跡として残ったらしい。
 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館を建てる時に発掘調査が行われたが「ほとんど、なにも出てこなかった」

 近く、岬の教会があった県庁駐車場の一部発掘が行われるらしいが、明治初期にキリスト教禁教令が解かれてから、あまりに長い年月が経っているのに「〇〇教会跡」という石碑しか残っていない。「(長崎の)キリスト教に対する体温が低いことが気になった」と、星野博美は思う。

 「島原に行ってみるしかない」
 筆者は、キリシタン大名、有馬晴信の居城だった日野江城跡を訪ねる。

 筆者にとって日野江城は、 セミナリオ(修道士育成の初等学校)を城下に備えた、キリシタン文化の「ゆりかご」という位置づけだった。

 国と長崎県が世界遺産に推薦する「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の1つにもなっているが「道しるべや看板、の類がほとんどなく、ここをアピールしようという積極的な意思がまったく感じられない」。民家の敷地の端にあるセミナリオ跡は、ひさしの下に碑と案内板があったが「バス停と間違えそうだ」

 
前日「ここにはキリシタンの遺跡がほとんどない」と落ち込んだばかりの長崎でも、それが400年前のものではないにせよ、十字架や教会が数多く視界に入った。長崎では、どんな形であれ、キリシタンの記憶は受け継がれている。ここにはそれがない。十字架の類もまったくない。あ、やっと十字架を見つけた、と思ってよくよく見ると、ただの電柱だった。

 いくら禁教令が二五〇年ほど続き、キリスト教が天下の御法度になったとはいえ、その土地の持つ記憶や気配というものは、これほど見事に消せるものだろうか。土地の記憶が、ここでは受け継がれなかったのか。  そこではたと思う。記憶を受け継ぐはずだった人間は、みんな死んでしまったのだ。住民は入れ替わった。記憶がつながるはずもない。


 日野城が「ゆりかご」なら、同じ世界遺産候補で島原の乱の決戦場となった 原城跡は「『キリシタンの世紀』の終末を象徴する『墓場』」だ。

 そこは、ほとんど森と化した日野江城跡とは対照的に「一言で言えば、何もない原っぱだった。(本丸大手門跡などの案内板はあるが)ここで三万七〇〇〇もの民が殺されたとう事実を想像するのは難しい」

 幕府軍の大将の記念碑、乱の鎮圧後に赴任した代官が建てた供養塔のほか、祈りをささげる天草四郎像、白い十字架、天草四郎の墓碑はある。しかし、この墓碑は近くに民家の石垣に埋もれていたのが移されたものという。

 
 禁教令が続いた明治初期ならまだしも、もう二十一世紀である。この地の慰霊は、キリスト教会に委ねるべきではないかと私は思うのだが、話はそう単純ではない。
 幕藩体制の根幹を揺るがす反逆と見なされた彼らを、安らかに眠らせてなるものかという「お上」意識を、原城からなんとなく感じるのである。

 (教会にとっても)原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、教会が説く「世俗権力への服従」と「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」とは認められない。


 大阪での「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力Ⅱ」セミナーで、2人目の講師を務めた南島原市教育委員会文化財課課長の松本慎二さんによると、原城跡は1938年(昭和13年)に国の史跡に指定された。

   しかし、発掘調査が始まったのは、2000年(平成2年)。しかもそれは、キリスト教史跡の発掘としてではなく、この土地を公園として整備するのが目的だった。

 発掘の結果、鉛弾でつくった十字架、メダイ、ロザリオの珠と同時に、多くの人骨が出土した。首と胴体は切断されてそれぞれ別の場所に埋められた。特に胴体は不自然に切り刻まれ、膝から下を切り落としたものも多い。その上には石垣の巨石がかぶせられていた、という。

 著者は、さらに今回の世界遺産推薦について、こうも書いている。

 
 東と西の交流を賛美したい気持ちはわからなくもないが、ザビエルの渡日から鎖国までの「キリシタンの世紀」を(長崎・大浦天主堂での) 「信者発見」という美談でハッピーエンドに仕立てているように見える。また、日本人が日本の信徒のみならず、数多くの外国人を殺したという視点も抜け落ちている。
 (仮にこれらが世界遺産となったら)弾圧の実態を巧妙に隠した美談の史観がさらに広く流布されるのではないだろうか。


   日本で殉教した外国人宣教師は、故郷でどう受けとめられているのだろうか。 著者は、スペイン巡礼に出かけることにした。

 同行したスペイン在住歴40年の日本通訳は、かってポルトガル国境の町で「おまえたちがスペイン人を殺した」と責め立てられたという。

 福者・ ハシント・オルファーネルの故郷は、 バレンシア州ビナロス近郊の村だった。

 もちろん、村人はハシントンのことを"聖人"としてよく知っていたが、筆者への視線は冷ややかだった。

 教会の神父に頼まれ、筆者は「キリシタンの世紀」とその後の弾圧の事を話した。

 
 最盛期には30-40万人もの信徒が生まれたが、十分な記録がない殉教者は4万人、なんらかの記録がある殉教者は灼4000人。そのうち外国人司祭を含めた福者が393人、42人が聖人になった。「彼らは信仰を棄てるより、神父とともに殉教することを望んだ」


 神父がそれを説教で話すと、会衆から驚きのどよめきが起き、ミサ後、会衆が筆者を取り巻き、次々と話しかけてきた。

 
 (外国人宣教者にしたことは今も世界で)見られている。
 そんな視点を欠いたまま、都合の悪いことは忘れ去り、やれ世界遺産だのなんだと騒ぐことがいかに滑稽であるかは、もはや言うまでもないだろう。


追記(2016/2/16): 

 このブログを書いた直後の2月初め。政府が急きょ、閣議で「長崎教会群」の世界遺産推薦を取り下げることを決めた。

 長崎県や国は今年7月にもユネスコの世界遺産委員会で決定されることを期待していたが、ユネスコ諮問機関である 国際記念物遺跡会議(イコモス)が「2世紀以上にわたるキリスト教禁教の歴史に焦点を当てるべきだ」という中間報告書を日本政府に届けていたのだ。

 政府は2018年以降の登録を改めて目指す方針だが、このブログに取り上げた著者・星野博美が何度も指摘していたように、長い禁教時代に続いた"日本の歴史的恥"をさらすことになるだけに、再検討の道筋は厳しいだろう。

 ブログにもふれたように、今回の「長崎教会群」の推薦内容には「あまりに多くの日本人信徒、外国人宣教師を殺した」という、200年余りにわたる、禁教、殉教の歴史の実証がまったく抜け落ちていた。

 星野博美は、著書の「あとがき」で改めて書いている。

 
もし四〇〇年前、現在のインターネットのような、瞬時に映像が世界中忙伝わる手段があったとしたら、私たちがいま処刑者に向けているおぞましさに満ちた視線は、そのまま私たちに向けられていたことだろう。


 
いや、当時も最速の情報手段で伝わっていたのである。日本で迫害が進行しているさなか、(ヨーロッパでは宣教師が伝えた)殉教録が出版され、・・・教皇庁では列聖調査が進んでいた。とろ火による火あぶりも穴吊りも、そして雲仙温泉の熱湯責めも、同時代に(オランダ船などで運ばれた)絵で伝えられていたのだ。
 国が閉じられ、世界の情報から隔絶された日本人が知らなかっただけで、私たちはあの頃、確かに見られていた。


 それが、今回のイコモスの指摘でもあったのだ。

 「みんな彗星を見ていた」
 この本の表題の意味は、そのことだったのだと気づいた。

2015年11月26日

読書日記「鴨居玲 死を見つめる男」(:著、講談社)、「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧 悌三著、日動出版)「踊り候え」(鴨居玲著、風邪来舎)「鴨居玲画集―夢候」(作品著作権者・鴨居玲、発行者・長谷川徳七)



鴨居玲のことを知ったのは、いつだっか?たぶん、昨年の夏、師事している 酒井俊弘神父からいただいた長崎からの絵葉書から強烈な印象を受けたのが最初だったような気がする。

 表題の最初の著書が出たのを新聞書評欄で知って図書館で借りることができたのが、今月初め。同時になんと作品約100点を集めた巡回展 「没後30年 鴨居玲展―踊り候えー」が伊丹市立美術館に回ってきているのを知って出かけ、鴨居玲の世界をたっぷりと堪能できた。

  長谷川智恵子が、著書の「はじめにー」で「鴨居の作品を知る人は、少なからず『暗鬱だ』『暗い』という印象があるだろう」と書いている。これは 日動画廊副社長という画廊経営者だから出た表現でもあったのではないだろうか。画廊から絵画を買う人は、個人ならたぶん自宅の居間にふさわしい「きれいな」絵を探すだろう。

 しかし「心の叫びを描く」( 長谷川徳七)ことが仕事である画家の作品が「暗い」のは、 ドガ レンブランドの自画像を見ても分かる。

   鴨居の作品には「暗さ」のなかに、光と色彩が巧みに使われ、見る人の心に沁み込んでくるなにかを感じる。

 代表作の1つ 「酔って候う」や「おっかさん」、そして真っ赤に塗り込まれたキャンバスに浮かび出る 「出を待つ道化師」は、その暗さの中に浮き立つ表現力、ユーモア、哀愁に見る人は引きつけられる。

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酔って候う おっかさん 出を待つピエロ


 しかも、これらの絵をじっくり見ていると、描かれた人物が鴨居玲その人であることが分かってくる。鴨居が「 自画像の作家」と呼ばれたゆえんでもある。それは、酔った老人やピエロは、生きることに苦しみ、悩み、酒に助けを求める鴨居自身の姿でもあった。

 長谷川智恵子の著書によると、鴨居は正真正銘の"酔っ払い"であっただけでなく「格好よさ」(没後30年展図録の表紙と裏面より)の美学を貫いた男(おのこ)でもあった。

 著書には、鴨居に会った最初の印象がこう書かかれている。
 「当時、絶大な人気のあった三船敏郎にどこか似ていて、彼より、一回り身体が大きく国際的な雰囲気があった。・・・今まで知っている多くの日本の洋画家とは、まったく異質のもの――異邦人のような空気――を感じた」

 24歳のころ、芦屋市にあった 田中千代服装学園の講師をしていたが、女生徒たちが「素敵な人」と騒ぎ、同じころに教えていた 六甲洋画研究所には、ブルーのシャツ、赤いズボン姿、大型オートバイ 「陸王」に乗って現れた。

 スペインに住んでいた四十三歳の頃には、乗っていたオペルを緑色の ムスタングに乗り換え、パリに移ってからも「格好がいい」と狭い道を無理して乗り回していた。

 鴨居は、四十一歳の時に描いた「静止した刻」で、安井賞を受けて遅まきの画壇デビューをはたした後、スペインの バルデペーニャスに同棲していた写真家の 富山栄美子と3年間住んで村の人々を多く描いたが、その後は描くテーマを探すのにいつも苦悩していた。

 いくつか描いた教会の絵について、鴨居は自著「踊り候え」で「描いているうちに、いろいろな飾りや、窓が邪魔になってきましたので、段々ととりのぞいているうちに、御覧の通りのっぺらぼうになりました」と書いている。

 「ドワはノックされた」は、「アンネの日記」に、「蜘蛛の糸」は、芥川龍之介の作品に触発された。

静止した刻.JPG 教会の絵.JPG ドワはノックされた.JPG 蜘蛛の糸.JPG
静止した刻 教会の絵 ドワはノックされた 蜘蛛の糸


 女性の裸体画にも、日動の長谷川徳七に勧められて挑戦した。富山栄美子をモデルにした「石の花」は、戦後すぐに上映されたソビエト映画に触発され「愛し合う二人が、抱擁したまま石と化してゆく・・・」(「踊り候え」より)姿を描こうとした。
 しかし、裸婦像をうまく描けない鴨居の焦燥感は死ぬまで続いた。

 晩年の代表作「1982年 私」という200号の大作からは、「もう描けない」という悲鳴が聞こえてきそうだ。
 白いキャンバスを前に描かれた鴨居の自画像は絵筆も持たずぼう然としている。後ろを向いている裸婦、魂を抜かれたような酔っ払いやピエロ、心配そうに画布をのぞき込む片腕を亡くした「廃兵」・・・。いずれも、鴨居が過去に生き生きと描いてきたモデルたちだ。

 最後の作品である「肖像」は、自らの顔をはぎ取って手に持った顔のない自画像である。鴨居は、死ぬ前「キリストの『最後の晩餐』を描きたい」と、大きな長方形のテーブルを買っていた、という。長谷川智恵子は「この顔のない人間は鴨居の『最後の晩餐』を予告する作品であったのだろうか」と書いている。

石の花.JPG 1982年 私.JPG 肖像.JPG
石の花 1982年 私 肖像


 鴨居は、満足する作品ができるたびに、なぜか自殺未遂騒動を起こした。
 昭和60年9月7日。鴨居は、自宅前に止めた自動車のなかで排ガスを吸って息を引き取った。長谷川は「自殺」をにおわし、「一期(いちご)は夢よ』の著者、瀧悌三は事故とみている。57歳だった。

 なきがらは、姉・ 鴨居洋子の希望で、西宮市にある母の墓の横に葬れている。

 

2015年3月30日

聴講記「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県・朝日カルチャーセンター共催、2015年1月25、2月8日、22日)



長崎市内や五島列島の島々を世界遺産候補の教会群を友人Mと訪ね始めたのは7年前のこと。候補遺産のほぼすべてを回るのに3年かかった。

 その「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(地図)について、政府は今年1月、閣議決定を経て ユネスコに世界文化遺産追加の 推薦状を提出した。
 長崎県世界遺産登録推進課によると、ユネスコでの審議を経て来年9月にも正式に世界遺産登録が決まることが期待されているという。

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 それを記念するためか、表題のようなセミナーが大阪のフェスティバルホールで開かれた。それを知ったMに誘われ、聴講に行ってみた。

 今回の推薦状リストは、2007年に制定された「暫定リスト」とは様変わりになっていた。

 以前の世界遺産候補地は教会を中心に29遺産あったものが、新しい推薦状では教会は 国宝と国の重文に指定されたものに絞られ、替りに国の 重要文化景観というあまり聞きなれない制度に指定されている長崎、熊本両県の集落景観などが追加され、候補地は計14か所になっている。

 当初、250年に及んだキリスト教伝来と弾圧、 信徒発見による復興を経て次々と建造された教会群を世界遺産として申請しようとしていたのだが、長い論議のすえに、隠れキリシタンが移住を繰り返してその信仰を守り、復興をはたしたという世界でも例を見ないキリスト教の歴史を物語る世界遺産として登録しようとしたようだ。

 第1日目の1月25日は、 岩崎義則・九州大学大学院准教授の 五島灘・角力灘海域を舞台とした十八~十九世紀における潜伏キリシタンの移住についてという論文による話しで始まった。

 長崎県・角力(すもう)灘を望む 長崎市外海(そとめ)地区 隠れ(潜伏)キリシタンが、弾圧を逃れて対岸の 平戸五島列島に移住して行ったというのは、これまで一般キリシタン歴史書の常識だった。

 岩崎准教授は、この常識にいささかの異議をとなえる。

 「潜伏キリシタンと分かれば、 邪宗として弾圧されたはず。移住していったのは浄土真宗檀徒でした」

 しかし、百姓の他藩移住が簡単でなかった江戸時代に、なぜこんな移住ができたのか。
 「実は、外海地区を支配していた大村藩と五島・福江藩との間で百姓移住協定が成立していたのです」

 大村藩が分家抑制策を展開していたことや浄土真宗が間引きを禁じていたこともあって、外海地区の村々は人口増大と貧困に悩んでいた。反対に離島の福江藩は財政逼迫で新しい田畑を開拓する働き手が必要だった。
 「私見だが、大村藩は捜査網を使って潜伏キリシタンと目された世帯を見つけ出し、浄土真宗檀徒として福江藩に送り出した。これによって、大村藩は人口問題と異宗問題の一極解決を図った」

 18世紀の末、協定では100人だった百姓の移住は、約3000人を数えた。岩崎准教授は「そのほとんどが潜伏キリシタンだった」とみる。

 五島に渡った人々は「五島へ五島へとみな行きたがる 五島やさしや土地までも」と謡った。
 しかし、与えられたのは、農耕が困難な辺境の地だった。百姓たちは「五島極楽来てみて地獄 二度と行くまい五島が島」と嘆いた。

 セミナー2日目の2月8日には、五島列島・新上五島町教育委員会文化財主査の高橋弘一さんは、この隠れキリシタンの厳しい生活が生み出し集落景観について語った。

 五島に移住してきた隠れキリシタンたちは、昔から海岸沿いで漁業をしていた「地下(じげ)と呼ばれていた人々の土地には入植させてもらえなかった。
 「居付(いつき)」と呼ばれた隠れキリシタンは、しかたなく山の急斜面を切り拓き、段々畑を作り、防風石垣や林を築くなど独特の集落景観を形成していった。

 そんな痩せた土地で稲作はできない。彼らの生活を支えたのは、大村藩・外海(そとみ)から持ち込んだ甘藷栽培だった。甘藷を保存するために、家屋の床下に竪穴の「いもがま」を掘って生イモを蓄え、干し棚で乾燥させた 「かんころ」を作り、天井裏で保存した。

 国の重要文化景観に指定されている 「新五島町北魚目の文化的景観」は、まさしくそんな景観という。高橋さんは「文化景観とは、その地域の生活や生業により育まれた景観のこと」と話す。

 そして、明治6年にキリスト教禁教令が廃止されて以降、五島列島では次々にカトリックの教会が建設され、五島独自の文化景観が形成されていった。

 新上五島町には、狭い地域にかつては35、現在でも29のカトリック教会が点在している。

 3年かけて回った際にも、岬の両側に別の教会があり、船でしか行けない教会もあった。隠れキリシタンたちは、道もほとんどない地域にしか住めなかったのだ。

 段々畑の続く高い山の中腹に、立派な教会がそびえているのも不思議だった。

 案内してくれたカトリック教徒であるタクシー運転手・Kさんは「この道から上がカトリック地区、下の海沿いが昔からの住民」という。説Kさんが子供のころ、地元のお社の祭にも、カトリックの子供は参加できなかったという説明がなんとなく納得できた。

   実は、高橋さんは1級建築士。新上五島町に務めることになったのは、2007年に火事で全焼した江袋教会(同町江袋地区)を修復する調査・設計管理を請け負ったのがきっかけだった。高橋さんは、修復の調査をしていて不思議なことに気づいた。

 調査してみると、新装された 江袋教会の屋根と、外海地区にある創建時の 出津(しつ)教会の屋根の写真が、双子の教会のようにそっくりなのだ。
 それも、教会建築では非常に珍しい 「袴腰屋根」という方式を採用している。

 出津教会を設計したのは、外海地区の布教に貢献した パリ外国宣教会 ド・ロ神父だが、高橋さんは「江袋教会の設計には、ド・ロ神父が深くかかわっていたにちがいない。キリシタン移住によって、外海と上五島は、集落の文化景観やイモ文化だけでなく、教会建設でも強いつながりを保ってきたのだ」と話す。

 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の 中園成生さんが、平戸島の北西にある 生月島で、現在でも 隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。

 明治6年にキリスト禁教令が廃止されてからは、隠れキリシタンの人々は順次、カトリックに"改宗"していった。
 生月島でも、20世帯がカトリックに戻り、カトリックの教会もあるが、500世帯は昔ながらの信仰を守り続けている。

 その地域では、数十軒単位の「垣内」「津元」や数軒単位の「小組」など大中小の信仰組織が堅持されており、お掛け絵(掛軸型の聖画に似た絵像)、金仏様(メダイなど)、お水瓶(聖水を入れる瓶)などのご神体を信仰している。

 「ご誕生御」(クリスマス)」「上がり様(クリスマス)」などの年中行事も変わらず続けられており、祈りの「唄オラショ」は、16世紀にキリシタンが唱えていた文句とほとんど同じ、というのも驚きだ。

 女性人気指揮者の西本智美が、このオラショを甦らせ、バチカンで演奏の指揮をしたテレビ番組を見た記憶がある。彼女の曾祖母は、生月島出身だという。

 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』」が従来の考えだった。

 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。

 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。

 生月島では、なぜここまで隠れキリシタンの信仰が継続できたのだろうか。

 中園さんは①この島は捕鯨で培われた強い経済力で、信仰組織を維持できた②キリシタンへの迫害はあったが、平戸藩の弾圧は大村藩ほど厳しくなかった、ことを挙げている。この島では、踏絵の資料も見つかっていないらしい。

 最後に、少し整理しておきたい。

 世界遺産候補が、最初の29から14に絞られていく過程で、堂崎大曾宝亀などの教会や 日本26聖人記念碑などは国に重文でなかったために、国の重文だった 青砂ケ浦教会は「周辺に駐車場ができ、保有管理が不備」であることを理由に、候補から外れた。

 しかし、これらの教会なども3年間の旅で訪ねたがいずれもすばらしい建築物だった。

 そこで、長崎県では候補から外れた遺産を別途「長崎歴史文化遺産群」として、保存、継承していく方針らしい。

 これらの内容は、長崎県のウエブサイト 「おらしょ」の「資産」をクリックすると、見ることができる。

2013年12月15日

読書日記「イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」(ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳、みすず書房)、そして映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)

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  一昨年、ポーランド・アウシュビッツを一緒に訪ねた友人に先日、映画 「ハンナ・アーレント」を見ることを勧められ、大阪で鑑賞した。

  事前に渡された新聞広告には「ナチス戦犯アイヒマンの裁判レポートに世界が揺れた」とあったから、単にユダヤ人大虐殺の張本人と言われてきた アドルフ・アイヒマンを告発する映画だと思ったが、とんでもない勉強不足だった。

  見終わった後、友人は「思わず拍手をしたくなった」と話したが、私も同じ思いを持ったすごい作品だった。

 まったく知らなかったが、 ハンナ・アーレントは、かってユダヤ人収容所から逃げ出した経験があり、アメリカに渡って十数年かかってアメリカ国籍を取った。小惑星に彼女の名前がつけられたり、ドイツ切手の表紙にもなったりしたことがある著名な政治学者だ。

 1960年、アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでイスラエル防諜特務庁(モサド)に捕まり、エルサレムで裁判が行われた際、雑誌 「ザ・ニューヨーカー」に傍聴レポートを書いた。

  そのレポートが「世界を揺るがせた。

 
アイヒマンは、単に上の命令に従っただけの凡庸な官僚で、悪の無思想性、悪の陳腐さを持った人間でしかなく、反ユダヤ主義者でもなかった。


 
一部のユダヤ人組織のリーダーが、少数のユダヤ人を救うためにナチに協力し、それが450万人とも600万人ともいわれるユダヤ人大虐殺につながった。


 この2つの記述が、迫害で生き残ったユダヤ人だけでなく、迫害した側にいた非ユダヤ人を含めた人々の怒りを買うことになる。これに対し、ハンス・アーレントは「考えることで人間は強くなる」という強い意志と主張を、友人を失いながらも果敢に貫く。そのシナリオが観衆の感動を呼んでいく。

 この映画には種本があるにちがいないと鑑賞後、売店でパンフレットを買い、表題の 「イエルサレムのアイヒマン」を知り、伊丹市立図書館で借りることができた。2冊も同じ蔵書があった。

 解説を含めても250ページほどの本だが、なんとも難解。一度はあきらめかけたが、どうしても気になり第一章「法廷」、第二章「被告」、第三章「ユダヤ人問題専門家」のほか、各章、エピローグ、あとがきをなんとか拾い読みして著者の.意図がおぼろげに浮かびあがってきた。

   最初に著者は、アイヒマンを(国際法上)不法逮捕したイスラエルの当時の首相 ベン・グリオンの言葉を紹介する。

「数百万の人間がたまたまユダヤ人だったために、百万もの嬰児がたまたまユダヤ人だったために、ナチスの手によっていかにして殺されたかをわれわれは世界の諸国民に明らかにしたいと思う」


   しかし世間の常識では当然とも思えるこの意図は、裁判を傍聴した著者がレポートに示した「悪の陳腐さ」という思いもよらない分析によって、成就できなかったことが明らかになる。

  さらにベン・グリオンは、語る。

「あの大虐殺の後に成長したイスラエル人の世代は、ユダヤ民族への連帯、ひいては自らの歴史への連帯を失う危機に曝されている。・・・必要なのは、わが国の若い世代の人々がユダヤ民族に起こったことを想い起こすことである。われわれの歴史上の最も悲劇的な事実を彼らが知ることをわれわれは、望んでいる」


  この意図も、ある意味で失敗したことも、著者は的確に指摘していく。

  第1に指摘した事実について、著者はアイヒマンの裁判の記録を詳細に検証、自らの考えを明らかにしていく。

「ユダヤ人殺害には私は全然関係しなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない―ーそもそも人間というものを殺していないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人の殺害を命じたことはない。・・・たまたま、私はそんなことをしなければならない立場になかったのです」


 アーレントは、こう分析する。

 
彼は常に法に忠実な市民だったのだ。・・・今日アイヒマンにむかって、別のやりかたもできたはずだと言う人々は、当時の事情がどうだったかをしらぬ人々、もしくは忘れてしまった人々なのだ。


 
もっと困ったことに、あきらかにアイヒマンは狂的なユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ主義の持主で・・・なかった。・・・反対に彼はユダヤ人を憎まない〈個人的な〉理由を充分に持っていたのだ。・・・身内にユダヤ人がいることは、彼がユダヤ人を憎まない〈個人的な理由〉の一つだった。彼には、ユダヤ人の愛人さえいた。


 
俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。


 
彼は愚かでではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。


   ハンナ・アーレントの第2の論点については「裁判の記録を述べただけだ」と、あまり多くの記述はない。

  アイヒマンが遇ったユダヤ人のうち最大の〈理想主義者〉は ルードルフ・カストナー博士だった。アイヒマンは彼と・・・次のような協定に達した。すなわち、数十万の人々がそこ(ハンガリア)からアウシュヴィッツへ送り出される収容所のなかで〈平静と秩序〉を保たれるならば、その代償としてアイヒマンは数千人 のユダヤ人のパレスチナへの〈非合法〉の出国を許す・・・というのである。この協定によって救われた数千人の人々は、つまりユダヤ人名士や シオニズム青年組織のメンバー・・・であった。

   「ナチスとシオニストの協力関係」というネット上の記述を見ると、エルサレムに独立国建設をめざしたシオニズムのメンバーが、世界各地に ディアスポラ(難民移住)しているユダヤ人がその地に同化するのを恐れて、ナチと手を結んだ、とある。

  ハンナ・アーレント関連の著書を調べると、びっくりするほど多くの文献がでてくる。伊丹図書館の蔵書から「ユダヤ論集 1 反ユダヤ主義」「同 2 アイヒマン論争」と、1冊3,400ページ近い大著を借りることができた。

  いずれも、アンナ・アーレントと論者との対談で構成されているが、このような本まで1つの自治体の図書館に所蔵されている事実にいささか驚いた。

  「アイヒマン論争」のなかで、アーレントは「世界は沈黙しなかった。しかし、沈黙したままでなかったことを除けば、世界はなにもしなかった」と語る。

  さらにアーデントは、表題の著書で国際法上 『平和に対する罪』に明確な定義がないことを指摘し、ソ連による カティンの森事件やアメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している。

  この映画の最後には、アーレントが学生たちにむけて講義する感動的なシーンが映される。

 
「彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこに罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。・・・"自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけだ"と」


 
「こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名付けました」


人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。・・・"思考の嵐"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。ありがとう」


  考え、想いをめぐらせる・・・。本もいいけれど、映画もいい。「ありがとう」

2013年2月20日

読書日記「偏愛ムラタ美術館 〚発掘篇〙」(村田喜代子著、平凡社)


偏愛ムラタ美術館 発掘篇
村田 喜代子
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    前著  「偏愛ムラタ美術館」のことをこのブログに書いたのは、もう3年前になる。

 著者は最近、熱い気持ちで絵画を鑑賞する気持ちがなくなってきた、という。「そこへ編集部から『もう一度やりませんか』と声がかかった。『うれしい。また好きな絵にたっぷり浸ってみよう』と、この本が誕生することになった」

 1970年代のイギリス。アルフレッド・ウオリスという船乗り上がりの老人が「老妻に死なれた70歳過ぎになって、誰に習うともなく翻然と海と船の絵を描き始めた」
 その家の前を通りかかった2人の画家が、家のなかの壁という壁に、船用のペンキで船や海を描いた板切れや厚紙の切れ端やらが釘で打ち付けられているのを見つけた。

「青い船」(1934年頃、 テート・ギャラリー蔵)は「たぶんウオリスの書いた船のなかで一番美しい絵」と著者は言う。たまに、展覧会などに貸し出されると黒山の人らしい。

 しかし多くの絵は船や灯台、建物がみんな勝手な方向を向いている。ウオリスは、1つを書き終えると紙を回して次の端を手前にして描くため「画面には天地が何通りもできる」ようだ。

 著者は山下清の文章を思い出す。

 
山下清の文章は超現在進行形だ。今、今、今というふうに現在が連なっている。出来事を時間の経緯の中で書くことができないのだ。山下清もぐるぐると紙を回しているのである。


 例えば、こんな文章。
 「犬が二匹あとからついて来てしばらくたってから犬が向こうへ行ってしまつた」

 
天地無用のウォリスの絵にも、その時間軸が抜け落ちている。絵をぐるりと回して今描いている部分が、唯一の真正面、現在というわけだ。そうやって眺めると、ウォリスの絵には過去がない。思い出がすべてといえる海の絵なのに、昔がない。天地無用のペンキの絵には、犬やおじさんのことを書いていた山下清の文章みたいに、現在だけが強烈にあり、そして過去がないのだから未来もない。その無時間性がペンキのくすんだ玩具箱に漂っている。


   細密画家の瀬戸照の絵を見て「よくこんなにそっくり描いたなあ、とシロウトはまずそこから感心する」と、著者は切り出す。

  「石」2008年)は「下書きを始めて五年ほどかかったという。・・・本物そっくりだ。いや、本物の石より、石らしい。・・・わざわざ絵に描くのだから、狙いは本物そっくりではなく、それを越えたものだろう」

    
絵を細かく措くときは、点描が適していると彼はいう。細かい点を重ねると、複雑な色の効果が出るらしい。
  面相筆を二本使って、細い筆で点を置き中細で面を塗る。葉などを措くときは葉脈で囲まれたところを1ブロックとして、その中を丹念に描くようにする。葉の起伏がはつきりしてくるころから、いよいよ点で塗り始める。
 ・・・いったいこれらの絵は、どのくらいの移しい点が打たれたのだろうと思わずにはいられない。こんな根気のいる細密画は、絵描きの精神世界を覗くようである。


 先月初め、東京が大雪に見舞われた前日に東京・竹橋の 東京国立近代美術館 開館60周年記念特別展「美術にぶるっ!」を見に出かけた。閉展前日とあって、かなりの人で混んでいたが、人の間に見えた絵画に見覚えがある。

 この本で見た、日本画家・横山操の代表作、「塔」(1957年、東京国立近代美術館蔵)だった。東京谷中の五重塔が無理真鍮の男女によって放火、炎上した事件を題材にしたものだ。

  
壊れてはいない。五重塔の外皮を剥ぎ取って、建物の稲妻のようなスピリチュアルだけが立っている。むしろ焼けて不動の中身が、今こそ露わになった。そんな感じだ。このふてぶてしい骨組み。塔は気合いで立っていて、グラリとも揺れていない。まるで、世の中のことはこのようにあらねばと言っているようだ。
 無惨さも痛ましさもない。人間世界の感傷とは無関係に、ただもう大地に食い割って土台を下ろした、五重塔のダイナミズムが立ちはだかっている。
 弁慶の立ち往生だ。


 著者は、映画監督黒澤明の絵コンテが好きだ。  ところが、著者の芥川賞受賞作「鍋の中」を原作に1991年に公開された 「八月の狂詩曲」の1場面 「『八月の狂詩曲』ピカの日」には驚いた。長崎原爆の日、最初はなにもない青空に、突然、閃光が走り、大目玉がすこしずつせり出してくる。

  
この目玉のまん丸い中心の凄いこと。細かな縦線をびっしりと措き込んで、ぼうぼうと生えた睦毛といい、見る者をギョツと驚かせる。添え書きの文句といい、黒澤がいかにこの場面に執着したかがうかがわれる。
 しかし原作の『鍋の中』には、原爆の話は一度も出てこないのである。田舎の祖母の薄れかかった記憶の底に原爆の巨大な影を染め付けたのは、黒揮監督の勝手な脚色だった。
 年寄りの不確かな記憶の他にこそ恐ろしさと面白さを込めて書いたのに、映画ではピカの大目玉が炸裂して謎解きをしてしまったというわけだ。


 著者がシナリオを読んだときには、撮影はもう進んできた。「会いたい」という黒澤監督の要請を、著者は「ずうーっと」拒否した。

 しかし映画を見た感想を、著者は雑誌にこう書いた。
 「ラストで許そう黒澤明・・・。」

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 著者は「長い間、熊谷守一という長寿の画家の絵には、とんと関心が湧かなかった」

 それが数年前に 「ヤキバノカエリ」(1948-56年、岐阜県美術館蔵)という絵を見て衝撃を受けた。

  
この絵には・・・人焼きのすんだ後のからんとした情景が頼りないほど単純化してしまっている。遺骨の入った白い箱を抱えた顔のない家族が、何だかさっぱりしたような、脱力したような、ふわふわした足取りで帰路を歩いてくる。
 あんまり妙な絵なのでじっと見ていると、息が詰まってくる。単純化できない重大な出来事を、強い力で押さえつけて、単純化してしまったような......。だから一見のどかそう な絵だが、画面構成を見ると天と地の配分、三人の等間隔の並び方、緑の木の生え方まで、 何かギリギリのバランスの中に措かれている気がする。

  「白猫」(1959年、豊島区立熊谷守一美術館蔵)の「輪郭線は命の形のぎりぎりをなぞっているように思う」

  
命という、形として単純化できないものを、両腕に力をこめてなでたり、転がしたりしながら、まるめ直したような感じ。熊谷の猫はふわふわしてなくて、頭骨の硬さが見る者の手にごつごつと触れる。


 「まずは、この不敵な老婆の群像を見てほしい」と著者は切り出す。

 2005年に死去した画家貝原浩が描いた、26年前の チェルノブイリ原発事故の風下の村々の住んでいた「ベラルーシの婆さまたち」(2003年、貝原浩の仕事の会蔵)の「風貌のいかついこと。・・・猛々しく、頑固でギョロ眼をむいた、屈強な老婆が・・・ずらり十三人」

  
村々には立ち入り禁止の放射能マークが立つ。その村には「サマショーロ」と呼ばれる人々が暮らしている。行政の立ち退き指示に従わず戻ってきた「わがままな人」という意味だ。老婆たちの面構えには、その「サマショーロ」の真骨頂が現れている。


 著書の後半部で 「松本竣介」が登場したのには、ちょっとびっくりした。

 実は、横山操の項で書いた「美術にぶるっ!展」を見に東京まで出かけたのは、昨年秋に松江市で開催された「生誕100年 松本竣介」で見ることができなかった竣介の遺作「建物」(1948年、東京国立近代美術館蔵)をどうしても見たくなったためだった。 

 近代美術館のすごいコレクションに圧倒され、同行した友人Mに注意されなければ、この絵をもう少しで見落とすところだった。だが、この絵の前に立った人たちは皆、この絵が竣介の遺作であり、現在「生誕100年展」が巡回している東京・ 世田谷美術館では見られないことを話題にしていた。

 著者は、ふと両手で耳をふさぎ、また離してみて、竣介が13歳で聴力を失うまでは音の世界を知っていたことに気付く。

  
そうか。そうだったのか。そのようにして見ると、遺作となった『建物』は、なぜかそれまでの絵と違って空気の止まった感がない。それどころか何か音楽が湧き出ているような自然さで、白い建物は闇に咲き出た白薔薇みたいに美しい。
 ステンドグラスの丸い窓がついたこの建物は、大聖堂のようである。白い壁は柔らかで中にいる者を包み込むように優しい。外は夜の闇がたちこめて、建物の内部は明かりが灯って人影らしきものが透けて見える。賛美歌が漏れ出してきそうな気配である。
 どうしてこの絵には閉塞感がないのか。世界は今宵ふっと息を吹き返したようである。
 安息の安らぎのようなものがある。短い人生の最後に奇蹟みたいに松本竣介がこの美しい 夜の聖堂の絵に辿り着いたと思うと、私は嬉しい。


2012年5月12日

アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)



 「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
 中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。

 同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。

 11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。

 ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
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 「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。

 ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。

 「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」

 神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。

 アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。

 レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。

 140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。

 第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。

 ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。

 150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。

 多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。

 中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。

 北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。

 周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。

 第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。

 2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。  学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。

 移民の多いドイツで、小学生の90%が「ホロコースト」を知っていると答えたことに対して、10%も知らないのは問題であるというのがドイツのメディアの論調。「我が国・日本の若年層の歴史認識と比較するとドイツ社会の意識の高さを感じる」と、中谷さんは話す。

 一方で「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張が、いまだに絶えない。

 「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。

 日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」

 世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」

 30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。

 最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

関連写真集
コルベ神父の名前がある名簿。収容者が奇跡的に持ち出した 野焼される遺体。収容者が手製のカメラでひそかに撮影 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」。献花が絶えない 2重の鉄条網。220ボルトの電流が流れる網に身を投げる自殺者も
コルベ神父の名前がある名簿;クリックすると大きな写真になります 野焼される遺体;クリックすると大きな写真になります 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」;クリックすると大きな写真になります 2重の鉄条網;クリックすると大きな写真になります
第1収容所に再現されたガス室の模型 レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線 咲き乱れるタンポポの向こうは、ビルケナウ女子収容棟 ドイツ軍によって破壊されたガス室
第1収容所に再現されたガス室の模型;クリックすると大きな写真になります レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ女子収容棟;クリックすると大きな写真になります ドイツ軍によって破壊されたガス室;クリックすると大きな写真になります
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑 ビルケナウ収容所内のベッド。1つに2人が収容させられた 隔壁もないトイレの穴。カポにせかされ、1つの穴を争うように用をたした
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ;クリックすると大きな写真になります 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ収容所内のベッド;クリックすると大きな写真になります 隔壁もないトイレの穴;クリックすると大きな写真になります


2012年2月26日

読書日記「イエスの言葉 ケセン語訳」(山浦玄嗣著、文藝春秋新書)


イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)
山浦 玄嗣
文藝春秋
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この本が誕生したいきさつは、序文「はじめ」のなかで説明されている。

 3・11の東北大津波で、医師である著者の診療所がある大船渡市も市街地の半分が流された。 カトリック信者である山浦医師は、古代ギリシャ語で書かれた新約聖書を、東北・ 気仙地方で普段に使われるケセン語訳で出すことに挑戦した。だが、出版した大船渡市の イー・ピックス出版も社屋を失った。

ところが、奇跡が起こった。

津波でつぶれた出版社の倉庫の泥にまみれた箱の中からほとんど無傷の三千冊のケセン語訳聖書の在庫が見つかったのだ。津波の洗礼を受けた聖書として有名になったケセン語訳聖書は、日本中の人びとの感動を呼び、数カ月で飛ぶように売れてしまった。

そんな時、文嚢春秋の女性編集者が「瓦礫と悪臭におおわれた惨憤たる道を踏み越えて」訪ねてきた。

ケセン語訳聖書がこんなに多くの人びとに喜ばれ、受け入れられているのは、難解だった従来の聖書の翻訳をほんとうにわかりやすくしたからです。この心を全国の人びとに伝えたい。人の幸せとは何かと問う福音書の心こそ、災害に打ちひしがれている日本人によろこびの灯をともすはずです。イエスのことばをふるさとのことばに翻訳した中で得た多くのことをぜひ本にしてみなさんに読んでいただきましょう!


   この本は、イエスの言葉を引用しつつ、山浦医師の生きざま、復興に立ち向かう東北の人々の思いのたけを綴っている。

話し言葉である「ケセン語」を、文章に直すのは至難の業だったろう。だから最初に「ケセン語の読み方」という注釈がついている。

本文で、「が(●)ぎ(●)ぐ(●)げ(●)ご(●)」はガ行濁音で、「がぎぐげご」はガ行鼻濁音で読む。
 振り仮名で「ガギグゲゴ」はガ行濁音、「がぎぐげご」はガ行鼻濁音。また、振り仮名で促音「つ」は「ツ」と書く。

*尚、聖書引用は日本聖書協会『聖書新共同訳』による。


 学生時代に東北地方を旅し、列車の中で出会った行商のおばさんたちが話す言葉がさっぱり分からず、あ然、がく然とした思い出がある、

 この本に書かれた「ケセン語」のイエスの言葉もちっとやそっとでは理解できない。しかし、それに続く山浦医師の解説は、カトリック信者のはしくれである私にも「目からうろこ」の連続だった。そして「ケセン語訳」イエスの言葉が身にしみてくるのである。

敵(かだギ)だってもどご(●)までも大事(でァじ)にし続(つづ)げ(●)ろ。
                           (ケセン語訳/マタイ五・四四)

敵を愛し...(中略)...なさい。
                                (新共同訳)


 「ケセン語には愛ということばはない。・・・そういうことばは使わない」。山浦医師は、東北人らしく率直に切り出す。

 「愛している」なんて、こそばゆくて、むしずが走るようなことばだ。『神を愛する』なんて失礼な言葉はない。『お慕申し上げる』ならわかるが、『愛する』はないでしょう。ペットではあるまいし!」

 「ギリシャ語の動詞アガパオーを『愛する』と訳したために、聖書の言葉が日本人の心に届いていない」。420年ほど前のキリシタンは「大切にする」と訳し、「愛する」は妄執のことばとして嫌ったという。

「『お前の敵を愛せ』は誤訳だ。イエスは『敵(かたギ)だっても大事(でアじ)にしろ。嫌なやつを大事にすることこそ人間として尊敬に値する』と言っているのだ」

医師の言葉は、どこまでも先鋭かつ鮮烈である。

願(ねが)って、願(ねが)って、願(ねげ)ア続(つづ)げ(●)ろ。そうしろば、貰(もら)うに可(い)い。探(た)ねで、探(た)ねで探(た)ね続(つづ)げろ。そうしろば、見(め)付(ツ)かる。戸(と)オ叩(はで)アで、叩アで、叩(はだ)ぎ続(つづ)げろ。そうしろば、開(あ)げ(●)もらィる。
 誰(だん)でまァり、願(ねげ)ア続(つづ)げる者(もの)ア貰(もら)うべし、探(た)ね続(つづ)げる者(もの)ア見(め)付(ツ)けんべし、戸(と)オ叩(はだ)ぎ続(つづ)げる者(もの)ア開(あ)げ(●)でもらィる。
                        (ケセン語訳/マタイ七・七~八)

求めなさい。そうすれば、与えられる。
 探しなさい。そうすれば、見つかる。
 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
            (新共同訳)


 山浦医師は、この箇所をケセン語に訳そうとした時、新共同訳を見て「ちょっと待てよ」と思った。
 「人生を振り返って、求めたからといって与えられるとは限らない。・・・それどころか、求めて得られず、探して見つからないことが多すぎるからこそ、・・・人生で苦労している」

 疑問の答えが見つからないまま、ギリシャ語文法の勉強をしていた時、ギリシャ語の命令形には、その動作を継続して実行することを要求する「継続命令」と、ひとくくりに一回性のものとして要求する「単発命令」という2つの種類があることに気づいた。
  マタイ伝を読みなおして「求めろ、探せ、たたけ」は「継続命令」であることが分かった。 そして、ケセン訳と同時に、こんな日本語"私訳"をつくった。

  
願って、願って、願いつづけろ。そうすれば、貰える。
 探して、探して、探しつづけろ。そうすれば、見つかる。
 戸を叩いて、叩いて、叩きつづけろ。そうすれば、戸を開けてもらえる。
 誰であれ、願いつづける者は貰うであろうし、探しつづける者は見つけるであろうし、戸を叩きつづける者は開けてもらえる。 


 医師は続けて書く。
 「イエスはたとえ話しの後でよく『聞く耳のある者は聞け』といいます。これは継続命令です。・・・一度聞いた話を心の中で何度も反芻し、繰り返し繰り返し、聞き続けろということです。"神さまのお取り仕切り(ケセン語訳で神の国、天の国のこと)"に参加するには、このしつこさが必要なのだと、イエスはしつこくしつこくいっている・・・。」

   この本の巻末に「新しい聖書翻訳のこころみ」という数ページがある。
 例えば「永遠の命」は「いつまでも明るく活き活き幸せに生きること」、「心の貧しい人」は「頼りなく、望みなく、心細い人」、「柔和な人」は「意気地なし、甲斐性なしなし」・・・。

 池澤夏樹の 「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」という本にこんな一節がある。

 
秋吉さん(秋吉輝雄・立教女学院短期大学教授)は、本来、聖典は朗諦・朗詠されるものだと書かれていますね。その意味で見事なのは、岩手の山浦玄嗣さんというお医者さんが出したケセン語訳の聖書「ケセン語訳新約聖書」( イー・ピックス刊、二〇〇二)です。福音書を岩手県気仙地方の言葉に訳したのですが、あれはまさしく読むだけでなく、朗唱するものとして作られている。山浦牧師(?)は、信仰というものは魂に訴えるのだから、生活の言葉でなくてはダメだと考えて、ケセン語訳をしたんです。聞いていた信者のおばあさんが「いがったよ! おら、こうして長年教会さ通ってね、イエスさまのことばもさまざま聞き申してきたどもね、今日ぐれァイエスさまの気持ちァわかったことァなかったよ!」 と言ったとか。


 この「ケセン語訳新約聖書」が、3・11で奇跡的に見つかり、完売した聖書だ。

一方で、山浦医師らの長年の夢が3・11で失われた。「ケセン語になじみのない一般の日本人にもたのしめるような『セケン(世間)語訳』を出してほしい」という要望で、日本各地の方言をしゃべる新しい福音書が出版を間近にして流されてしまったのだ。

 しかし「日本中のふるさとの仲間にイエスのことばをつたえようという望み」は消えなかった。生き残った社員が集まり、山浦医師の書斎に残っていた原稿から新しい版を起こす仕事が始まった。

山浦玄嗣医師訳 「ガリラヤのイェシュー;聖書-日本語訳新約聖書四福音書」(イー・ピックス出版)は、昨年11月に出版された。

山浦医師によると「イエスは仲間内で喋るときには方言丸出しだが、改まったお説教をするときや、 階級の上の人に対しては公用語を使う。さらに、ファイサイ衆は武家用語、領主のヘロデは大名言葉、 ユダヤ地方の人は山口弁。ローマ人は鹿児島弁、 ギリシャ人は長崎弁」と全国各地の方言が飛び交う。

芦屋市立図書館には、すでに所蔵されていた。予約したが、まだ手にすることはできていない。

ぼくたちが聖書について知りたかったこと
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ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書

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2011年3月13日

 読書日記「舟越保武 石と随想」(舟越保武著、求龍堂刊)、「石の音、石の影」(同、筑摩書房刊)


 もう故人である、 この彫刻家のことは、NHKの番組で紹介された 画文集で初めて知った。

 佐藤忠良 と、東京美大の同級生で、文化功労章を受けた戦後日本を代表する作家だったらしい。

 どうしても見たくなりAMAZONに申し込んだ。版元で在庫切れだったらしく、1か月近く待たされた。
 白い堅紙で装丁した大型本で、作品の写真も文章も聖謐さにあふれている。いつものように気に行った箇所に線を引く気にとてもならない。
 先日来、思い立って3000冊近くの蔵書を整理、本棚の一部も寄付した。しかし、この本だけは本棚にしまっておいて、時々そっと開きたくなりそうだ。

 2度ほど訪ね、このブログにも書いた 「長崎26殉教者記念像」が、この彫刻家の代表作の1つであるのを浅学にして知らなかった。もっと、しっかりと像の1つ1つを見ておくべきだった。

 著者は、この像を「探しまわって、どうしても見つからない夢」をなんども見たという。
 私はあの夢を見るのが怖い。
 一度でいいから、夢の中でも二十六聖人像の現実のままを見たい。・・・
 昨年の秋、長崎に行って、・・・長い時間、眼がいたくなるまで二十六体の彫像をにらむように見据えてきた。


 ヴァチカン美術館に買い上げられた 「原の城」も代表作の1つ。
 この像の粘土の原型を東京芸大の研究室で完成させた時、作者は不思議な体験をしている。
 (隣室で謡曲の練習している学生たちの声に)しばらく耳をかたむけていると眼の前の粘土の武士の彫像がゆっくりよろよろと歩き出すように見えた。謡曲の声につれて私のつくった粘土の武士が静かに歩き出すのを私は呆然と眺めていた。


 著者は長男の死をきっかけに受洗したカトリック信者。西坂の地で殉教した 日本二十六聖人島原の乱原城 に散ったキリシタンへの思いが、自分の彫像と重なりあう深層体験だったのだろうか。

 この彫刻家は、聖謐な女性像をいくつも残している。それが、神戸の街にあると知って、見に出かけた。
 神戸市役所1号館の1階喫茶室にある頭像「LOLA」(1980年)は、こげ茶の金属で仕上げられ、清々しくほほえんでいた。セビリアで知り合ったレオン家の2女であるという。
 市役所のすぐ南、フラワーロード沿いにある「シオン」(1979年)は、小柄なブロンズの全身像。雨に打たれてできたらしい白い涙を流している。
 市役所の「LOLA」のすぐ近くには、生涯の友人だった佐藤忠良作の「若い女・シャツ」が逆光のなかに立っていた。
「LOLA」;クリックすると大きな写真になります「若い女・シャツ」;クリックすると大きな写真になります「シオン」;クリックすると大きな写真になります
「LOLA」の頭像「若い女・シャツ」のブロンズ像「シオン」の像


 著者は、いくつかの随筆集も残しており、日本エッセイクラブ賞も受けている文章の練達でもあるらしい。

 「石の音、石の影」は、1985年に発行された、たぶん著者最初の随筆集。

 本は、それまで挑戦する彫刻家がほとんどいなかった石彫に挑戦するエピソードから始まる。
 うす赤い色のその大理石を見たとき、私の身体の中を熱いものが走るように思った。・・・
 (近くに住む墓石屋の親方から、2本の鑿(のみ)を借り)・・・
 力まかせに石をたたくものだから、槌が鑿から外れて、いやというほど手の甲をひっぱたいた。河がやぶけて血が出る。痛みをこらえて、生まれてはじめて石を彫るという感動の方が大きかった。カーン、カーンと四方にひびく石の音が快かった。

 著者の石彫第一作の頭像は、こうして誕生した。

 石彫は、粘土で作る塑造と違って「付け足すことが出来ない。・・・削り減らして、或る形に到達する作業」になる。
 不定形の荒石を前にして、この石の中に自分の求める顔が、すでに埋もれて入っているのだと自分に思い込ませて、仕事にかかるのだが、石の中にある顔を見失うまいとする心の緊張があった。・・・
 たしかに見えていた筈のその顔が、私の前に現れるのを恥じらって、なかなか現れてこない。作業はいつも捗らなかった。


 自己嫌悪に陥って、完成したばかりの大理石頭像を衝動的にハンマーで毀したことがあった。
 粉々に砕けた床一面が白一色の石片で埋まった中の、一片のかけらに私の眼がとまった。五センチほどに欠けた石片は、眼の部分であった。・・・恨めしい眼でも悲しい眼でもなく、やさしい眼のままで私の方を見ていた。


     舟越保武という彫刻家は知らなかったが、その作品にどこかで出会った"幻想"が消えない。そうだ、 天童荒太「永遠の仔」表紙を飾っているあの作品群・・・

作者は 舟越 桂。舟越保武の次男だった。なにか、DNAの森を遡って清冽な泉に突き当たったような思いがした